―2085年、日本 「みんな、おはよう」 『『おはようございます、チーフ!』』 微粒子昆虫研究所の朝がやってきた。6年間、毎日続けられてきた、恒例の挨拶である。 綾部貴大研究チーフの挨拶に総勢100人の研究員たちがつづく、シンプルなものだ。 だが、それも今日で終わる。 本日派遣される、イギリスからの研究員による最終調整が終われば、ロクスタ・ジェンテシステムは完成をみる。 多量の細胞分裂により高温になっている保管炉のチェックや、明日のお披露目会の予定を確認すると、もうやることもないと判断した貴大は丸椅子に座りホットミルクを飲みだした。 研究員たちの仕事を見守っていると、 「長年の夢を実現した気分はいかが?貴大チーフ殿?」 貴大の恋人、スピカ・マッケンブリッジがいつの間にか隣に立っていた。 「なんだ、おまえか」 「なんだとはなによ?」 貴大は指をパチンと鳴らすと、近くにいた研究員・田村を呼び寄せ、丸椅子とホットミルクをもうひとつ用意するよう要請した。 田村は気持ちのいい返事をすると、応接間へそれらを取りに消えていった。 「私はコーヒーが飲みたかったのにな」 「コーヒーは俺が飲めない」 「・・・わがままなのねぇ」 「わがままでなけりゃあ、ここまでこれなかったさ」 田村が戻ってきた。 「ありがとう、田村君」 とんでもないです、と返事をすると、田村はそそくさと研究に戻っていった。 椅子に座るとスピカは、渋々ホットミルクに口をつけた。 「それに、まだ夢を実現したわけじゃない。明日のお披露目会で、俺が変身することではじめて俺の研究は身を結ぶんだ」 「変身・・・?それももしかして・・・」 「仮面ライダー、だ」 貴大は、その単語を少し強調して言った。だがスピカにとってそれは、もう聞き飽きた単語だったらしい。 彼女ははにかみ気味に言った。 「ま、まあたそれですか。好きだねぇ〜。」 「俺は仮面ライダーにずっと憧れてた。幼い頃から、今日までずっと。俺の26年間は、明日のためにあったと言ってもいいくらいだろうな」 「でも、現実はロクスタ・ジェンテ0号って呼ばれるんでしょ?ほら、スペラーレ本部の母国語に合わせなきゃいけないって」 「本部がなんだ。日本支部では仮面ライダーで通させてもらうさ」 貴大が、仮面ライダーの話になると我を忘れて熱くなることをスピカは知っていた。これ以上この話題を長引かせてもしょうがない。スピカはわざと明るい口調で、関係のない話をはじめた。 「ねえ、明日の前祝いも兼ねて、今日は二人で飲みに出かけない?夜景の綺麗なお店見つけたの」 「俺に二日酔いでお披露目会に出ろってか?」 「いいじゃない、ちょっとだけ、ね?その、仮面ライダーになったら、今よりもっと忙しい任務が待ってるんでしょ?ゆっくり話せる時間もあまり作れないと思うの。その、将来のこととか・・・」 「わかったよ、ちょっとだけだからな。」 貴大は渋々承諾した。だが本当のところは、自分で自分を祝いたい気持ちでいっぱいだったのだ。だから彼にとって、この誘いはちょうどよかった。 「本当?じゃあ、今夜9時、横浜のアトレーユで!いい席予約しといてあげるから!」 イギリスのインセクター・アカデミアからの研究員がやってきたのは、その日の午後のことであった。 イギリス人と中国人の二人の若者を、宇都宮隼人所長がつれてやってきた。 「トイレ・エクスタシー君と、リー・テンシン君だ」 「ども、トイレっす。パパッと済ませちゃいましょ!」 「テンシンです。短い期間ですが、お世話になります」 まだおろしたての黒いスーツを着た青年たちは、貴大ら研究員からはとても幼く見えた。 19歳の大学生なんかに、数年がかりで積み上げていった計画の仕上げをされるのは、研究員たちとしてはやはりいい気分ではなかった。 貴大も例外ではない。元来、学生チームからの研究員派遣は貴大の望むものではなかった。 万全を期して、昆虫学の世界最先端であるインセクター・アカデミアから選りすぐりの学生を要請したのは、スペラーレ上層部の判断であった。 「研究チーフの綾部貴大だ。こちらに来るのは3人と聞いていたが?」 二人のうち、髪を短く立てたトイレと呼ばれる青年が答えた。 「それが・・・あの、本部の入り口まで一緒だったんですけど、はぐれちゃって・・・」 「はぐれた?迷子になるような通路ではないはずだがな」 すると今度は、眼鏡をかけた鼻の大きな青年、テンシンが口を開いた。 「まあ、彼は変わり者ですし・・・食堂で道草でも食ってるんじゃないですか?」 「おばちゃん、ごちそうさま!こんな美味しい納豆ご飯はじめて食べたよ!」 裕也は食べ終わったトレイをカウンターに置くと、厨房で皿を洗っている恰幅のいいおばちゃんに話しかけた。 「あたしも、納豆ご飯をあんなに美味しそうに食べる子ははじめて見たよ。そんなに旨かったかい?」 「イギリスにはこんな美味しい大豆はないってものあるけど、特におばちゃんの納豆ご飯は一味も二味も違うね!」 裕也は、カウンターに身を乗り出して熱く語る。おばちゃんは思わず照れ笑いをした。 「あんた、見ない顔だけど、新しい隊員かい?」 「ううん、違うけど、びこんけん・・・?そんな名前の部署を探してるところだったんだ」 「微粒子昆虫研究所、だね。入り口を右に行くとエレベーターがあるだろ?そこに乗って行くといいさ」 「わかった、ありがとねおばちゃん!」 そう行って駆け出した裕也の背中に、おばちゃんは一言声をかけた。 「また食べにきておくれよー!」 ドンッ 裕也はおばちゃんの声を聞いて振り向いたのだが、そのせいで入り口のところで前からやってきた少女と正面衝突してしまった。 「あいたたっ、あ、君、大丈夫?」 お互い、尻餅をついて倒れこんだ。裕也はすぐ立ち上がると、少女に手を差し伸べた。 見ると、少女は基地内にいる女性たちとは様子が違った。いわゆるキャリアウーマンの多いスペラーレにおいて、ひ弱で今にも消えかかりそうな雰囲気の彼女は異質だった。 透き通るような銀色の髪、青い瞳。裕也の見慣れたイギリス人とも違う、いわゆる北欧系の顔と言ったところだろうか。歳は10代半ばくらいに見える。 スカートの中がチラチラと目に入ってきそうで、どうにか気がついていないふりをしてしばらく自分と格闘していたが、少女の声が聞こえた途端ハッとした。 「あ、ごめん、今なんて・・・」 以前として、手は差し伸べた状態のままだ。 「本郷・・・」 「ほ、ほんごう?」 なんのことかわからなかった。 「俺は、本郷じゃなくて、片桐。片桐裕也って言うんだけど、誰かと勘違いしてる?」 「あし」 「足?」 自分が踏んでいたものが見えると、裕也は「あっ」と小さな声を出した。 そこには、パンダのぬいぐるみがあった。さっきの激突で彼女が落としてしまったものだろう。慌てて足をどかした。 「ご、ごめん!はい、これ。」 靴あとがついてしまった部分をはたくと、裕也は申し訳無さそうにパンダを返した。 少女はそれを両手で掴み、両腕をめいいっぱいツンと突き出したままそれをしばらく見つめると、ギュッと抱きかかえた。 「痛かった?本郷・・・」 「本郷・・・あ、もしかしてそのパンダの名前だったの・・・」 少女のイメージとはあまりにかけ離れたネーミングセンスに、裕也はなんとなくがっくりした。 「こ、個性的な名前だね」 少女は何も言わず、自力で立ち上がるとペコリと一礼して、大切そうにぬいぐるみを抱きかかえたまま、スタスタと向こうへ行ってしまった。 変わった子だな、と裕也は思った。 エレベーターに乗って地下18階で降りると、微粒子昆虫研究所、微昆研はすぐそこだった。 「びりゅうし・・・あった、ここか・・・」 裕也はネクタイを首元にギュッとあげて、気を引き締め、深呼吸をした。 両開きの扉に手をかけた。 研究室の強い照明に、少し目がくらんだ。 「インセクター・アカデミアからきました、研究員の片桐裕也です!」 物語の、はじまりであった。