『好き』になることは日常の一部。 『愛』することは簡単なこと。 『恋』することは狂うこと。  ならば、『恋愛』とは。 『恋』に落ちた二人が、狂っていくこと。    やよいに全力で恋してみた 第四幕『恋愛』  思考は、妙に冷静だった。  昨晩は強引にやよいを奪ったというのに。  やよいに受け入れてはもらえなかったというのに。  やよいが、姿を消したというのに。  俺の心は、氷のように冷え切って、寒々しいほどだった。  簡単なことだった。  つまり、俺はやよいに狂っていたのだ。  俺はやよいに狂わされていたのだ。  ただ、彼女の人格や、行動が、俺の心をかき乱していただけだったのだ。  そして、やよいがいなくなったから俺はこうして冷静でいる。  好きだなどと。  愛しているなどと。  恋しているなどと、絵空事も甚だしい。  きっと、これが最初から俺の望みだったのだ。  俺には了解不能な存在。  俺には理解不能なやよいを、ただ奪いたかったのだ。  寒々しい結果。  空々しい結末。  結局、奪おうとしたところで、俺はやよいという存在を何一つ得ることはできなかった。  奪ったところで、俺は彼女のようにはなれないし。  奪ったところで、彼女は俺のものにはなってくれなかった。  つまり、これはなんだ?  要するに、俺がやよいを犯したっていう、そんな事実だけが残ったということか。  やよいはここにはもういない。  家か、事務所か───あるいは、警察署にでも駆け込んでいるか。  いずれにせよ、逃げ出したやよいが、俺を庇い立てする理由はない。  恐らく、俺は捕まるだろう。  惨めな結末ではあるが、当然の結果ではあった。  それでも、ひとつだけ───分かった。  俺は、どうにもならない人間だったのだと、思い知ることができた。  何もかも本当のことは全て隠したまま、俺の行いは罰せられるだろう。  俺が意図せぬ理由でもって、俺は断罪されるだろう。  それは、受け入れよう。  俺は、どうしようもない俺であって。  そんな俺に、やよいを巻き込んでしまったのだから。  玄関のドアが開く音。  リビングでその音を聞いた俺は、静かに自分の人生の終わりを感じていた。  早かったな、俺を逮捕しに来たのか。  いや、遅かったのかもしれない。  もっともっと早ければ───やよいは傷付かずに済んだというのだから。  目を瞑って、終わりの時を待つ。  だが、一向にその瞬間は訪れなかった。  目を開く。  俺の前には、やよいが立っていた。 「……朝ご飯のおかず、買ってきました」  テーブルを挟んで、向き合う。  卓上には、やよいが準備してくれた朝食が置かれている。  まるで昨晩と同じように。昨晩の再現のように。  再現。  それはない、と自嘲気味に笑う。  もう、やよいを前にしても、昨日のような衝動は沸いてこなかった。  でも、それはなおさら。  ただ、俺が劣情に負けただけなのだという事実を、突きつけるだけだ。  俺は───そんなことのために、やよいを傷付けたのだ。  沈黙が続く。  俺もやよいも、箸には手を伸ばさず、ただ俯いている。  ちらりとやよいの様子を伺う。  じっと俯いて一点を見つめている。  俺を前にして、怯えはないようだった。  逃げ出していて当然なのに。  出て行ったまま、戻ってこなくて当然なのに。  それなのに、やよいはここにいる。  沈黙のための沈黙ではなく。  やよいは、何かを言おうとして、その決心がつかない様子だった。  何かを言おうとして、ここに戻ってきたのだ。 「……やよい」  俺から先に、切り出した。  せめてもの責任として。  せめてもの罪滅ぼしとして。 「すまなかった」  ただ、頭を下げた。  それに何の意味もなくても。  例え手遅れだとしても。  謝る以外に、やよいにしてやれることがない。  やよいが顔を上げ、何かを言いかけて───呑み込む。  そして恐らくは───別の言葉を吐き出した。 「……痛かったです」 「ごめん」  再び沈黙。  今度の沈黙は、長く続かなかった。 「……それだけです」  ぽつりと、付け足すように呟きが漏れた。  それだけ、とは。  思えない。  それだけなら、戻ってくる理由がない。  戻ってこられる、はずがない。 「やよいは」  思わず問う。 「やよいは……怖くないか?」  俺が、怖くはないのか?  視線が合う。 「分からないです」  目を逸らすことなく、やよいはそう言った。 「逃げようと、思わなかったのか?」 「分からないです」 「また、同じことをされるとは思わなかったのか?」 「分からないです」  思わず、こちらから目を逸らしてしまいそうになる。  やよいの瞳が、俺の目を捉えて離さない。  俺は今、やよいに囚われていた。  昨日とは、逆に。 「やよいは───嫌じゃなかったのか?」 「分からないです」 「そもそも、何をされたのか……分かってるのか?」 「それは……ちょっと、分かっちゃいました」  それまでどこか淡々としていたやよいが、少し顔を赤らめる。  幼いなりに、知らないなりに、あの行為にどういう意味があったのかは考えたのだろう。  しかし、それが分かったのなら、何故。 「分かりました。“プロデューサー”のこと、全然分かってなかったんだって」  もう、兄とは呼ばなかった。  それが、彼女が、本当に俺がした行為を理解していることの証左だった。 「知らなかったです。プロデューサーの、気持ち。私、知ろうと思ってませんでした」 「それは俺も……伝えなかったから」 「……言って、ほしかったです」  やよいの言葉が俺を射すくめる。 「……ごめん」  俺は色々な理由を付けて、俺が犯した本当の間違いを塗り潰そうとしていた。  けれど、今、理解する。  俺がどこで道を踏み外したのか。  ───伝えなかったこと。  やよいに、好きだと言わなかったこと。  兄としてではなく、男として、愛していると言わなかったこと。  やよいに恋焦がれているのだと、こんなにも苦しいのだと、伝えなかったこと。  言ってはいけないのだと、伝えてはいけないのだと、その理由ばかりを探していた。  プロデューサーとアイドルの関係だから。  やよいは兄として慕っているのだから。  だから俺の気持ちは『悪』なのだと───  好きではいけないのだと、愛してはいけないのだと、恋してはいけないのだと。  そういう理由を見つけることばかりを、考えていた。  それがいつの間にか俺を縛り上げて、気持ちだけが独り歩きしていたのだ。  そしてその気持ちは行き場をなくして───行為は暴走する。  やよいを手に入れられるはずが、なかったのだ。  伸ばすべき手は───俺自身が縛っていたのだから。 「やよい、ごめん。それから───ありがとう」  こんな俺に、それを教えてくれて。  間違いを正してくれて。  取り返しはつかないけれど───俺にも分かったから。  だから納得した。  諦めるのではなく、納得。  今後俺がどうなろうと、納得ずくで、受け入れられる。  だから─── 「やよい、もう行って───」 「待ってください!」  もう行ってくれと。  もうこれ以上はいいのだと。  伝えようとして、やよいの叫び声にかき消された。 「プロデューサー、まだです」  怒ったように───今更、怒ったように、やよいが俺に詰め寄る。 「プロデューサー。まだ私───」 「まだ、私のこと、何も伝えてません」 「やよいの、こと?」  ああ、そうか。  俺はまた、同じ間違いを犯すところだったのか。  また一方的に決め付けて───黙ったまま、終わりにしようとしたのか。  聴かなければいけないだろう。  どんなに辛い答えでも。  やよいの、気持ちを。 「……教えてくれるか。やよいのこと」  昨日に戻れたら。  昨日、あの瞬間。  あの時に、尋ねたかったこと。 「やよいは、俺のことをどう思ってる?」  やよいは答えた。 「好きです」  重ねて尋ねる。 「いつから?」 「きっと、出会ったときからです」 「……それは、兄としての俺?」 「分かりません」 「今でも、好き?」 「はい」 「それは、俺と同じ意味で?」 「分かりません」  一息ついて、今度はやよいが俺に尋ねる。 「プロデューサーは、私のことをどう思ってるんですか?」 「好きだ」 「いつから?」 「きっと、出会ったときから」 「妹みたいに?」 「違う」 「女の子としての私を?」 「そうだ」 「今でも、好きでいてくれますか?」  自分自身に問う。  何の制約もなく。  何の束縛もなく。  ただ俺の気持ちとしての、答え。 「好きだ」  当たり前の言葉として。 「愛している」  当たり前の想いとして。 「俺は、やよいに恋している」  恋焦がれて、狂うほどに。 「俺は、やよいが好きだ」  遅すぎる、告白をした。 「……プロデューサーが、そんな風に私のこと想ってくれてたなんて、本当に知りませんでした」  今まで逸らさなかった視線を、やよいから外す。 「知らなかったんです。だから私……ずっと、この『好き』はきっとお兄ちゃんみたいな人への『好き』なんだって、思ってました」  だから、同じだったのだ。  やよいも俺と同じで。 「そうじゃないのかもって、ひょっとしたら少し考えたかもしれなくて───でも、私が分かる中でしか、答えを探さなかったんです」  自分の見つけたい答えだけを見つけようとする。  それは───俺だけのことでは、なかった。 「同じなのかな」 「同じだったかもです」 「じゃあやよいは、俺がやよいを好きなように、俺のことを好きか?」 「分かりません」  それは、先ほどと変わらない即答だった。 「分からないです。この『好き』を、どうしたら表せるのか。だから───」  やよいが、口にする。  俺たちの関係の、今の答え。 「一緒に、探してくれませんか?」  俺は迷わず頷いた。  それからも、表向きの関係は、変わらなかった。  周囲の人々は兄妹ごっこはやめたのかと揶揄したが、それは実際そのとおりだった。  俺とやよいの個人的な関係は、ゼロに戻った。  やり直しはできないけれど、ゼロから始めることにした。  飛ばしてしまった過程を。  失ってしまった絆を、元に戻すのではなく。  ただお互いがお互いを『好き』だと思った瞬間から。  出会ったばかりの頃から、また始めよう。 「やよい、好きだ」 「プロデューサー、私も好きです」  俺もやよいも傷付いたけれど、その間には少し、笑顔が戻った。  いや、戻ったのではなく、自然と───新たな関係が、笑顔を生んだ。  すれ違ったままの『好き』。  噛み合わない互いの『愛』。  まだ、俺からの一方的な『恋』。  それでも今度は道を踏み外さないように。  二人の気持ちに、嘘をつかないように。  一緒に二人の関係を探していこう。  果たして───  俺は、再び自分に問う。  果たして、俺たちの関係は、『恋愛』にたどり着けるのだろうか───