真美が死んだ。  仕事後に少し体調を崩して、休暇を取っている最中のことだった。  前日にお見舞いに行ったときは、「今日は少ししおらしいな」なんて言って一緒に笑っていた。  それが突然容態を悪くして、連絡を受けて病院に駆けつけたときには既に息を引き取っていた。  あっという間の出来事。  病室で二人きりの対面を果たしても、何の感情も沸いてこないほど、それは唐突だった。  真っ白。  頭の中も、目の前も、真っ白になっていった気がする。  夕陽が落ちかけた部屋の中で、真美の亡骸だけは、真っ白な光に照らされているようにはっきりと目に見えていた。  思い出の中の彼女の姿が、そう見えさせたのだろうか。  いつも星のように輝いていて、大人になってしまった俺には眩しすぎた、その姿が。  今はただ、静かにベッドの上に横たわっていた。  眠っているよう、とは思わなかった。  やんちゃな女の子の、天使のように安らかな寝顔を、俺は知っていたから。  あの子は、例え眠っていたって、人の心を動かす力を持っていた。 「死んだふりなんて、やめろよ」  死に顔を見て、最初に口にしたのはそんな呟きだった。  冗談が過ぎて叱らなければいけなかったときと、同じ口調で。 『えへへ、バレちった〜!』  そんな風に、ベッドから跳ね起きて俺をびっくりさせる光景を幻視しながら。  けれど、当然のように何の反応も返ってこない。 「タチ悪いよ。人を困らせるような悪戯は禁止って、ちゃんと教えたじゃないか」  それでも俺は、呼びかける。 「人が死ぬってさ、そんな簡単なことじゃないんだよ。大勢の人が悲しむんだぜ」  いつもしている、結び目の解かれた髪を撫でながら。 「本人も苦しんで、周りは負けるな頑張れって励まして、それでも力尽きる……みたいなさ。そういうものじゃないか」  頬に手を当ててみる。  冷たいとも熱いとも言えない、微妙な温度だった。  その熱が俺の体温なのか、真美の残り火なのかは、分からない。 「とにかく、納得するにせよ、納得できないにせよ、本人も周りも死ぬことと向き合って、それでようやく終われるんじゃないか。なのに、お前」 「なんで、こんなにあっさり死んじゃうんだよ」  いつの間にか、戸口に誰か立っていた。  真っ赤に泣き腫らした目に、まだ涙を浮かべて。  遺された双子が、そこに立っていた。 「兄ちゃん」  しゃくりあげながら、言う。 「一人になっちゃったよ」  二人で一人だった両翼の天使は。  片翼を奪われて、泣いていた。  俺の腹に顔を押し付けて、わんわんと、止め処なく涙を零して。  そんな姿を見てようやく心が現実に追いついた俺は、その小さな身体を抱きしめて大声で泣いた。  事務所がこんなにも静かだったのは、久しぶりのことだった。  静かというよりは、静まり返っていると言うべきだろう。  電話の鳴る音がする。  その受け答えの声がする。  そうした日々の雑音すら、遠く、虚ろに響く。  そんな風に感じるのは、俺だけではないらしい。  春香は、来客用のソファに腰掛けたまま、ぼーっとしていた。  ただ何となく事務所に来てしまったのだろう。  レッスンをするでもなく、営業に行くわけでもなく、ただソファに座って、事務所の風景を眺めていた。  そんな姿も、三日目。 「お前も、大概だな」 「……だって」 「休むか仕事するか、どっちかにしとけよ」 「それ、プロデューサーさんにそっくり返します」  人のことを言えた立場ではない。  ずっと休むわけにもいかず、ただ惰性で職場に来てはみるものの、とてもまともにプロデュースできる気力はない。  結局みんなには自主トレという名目で、好きにさせていた。  そして当の俺は、こうして春香と一緒に事務所で上の空。  そんな調子で、三日目。  けれど、それは事務所にいるかいないかの違いに過ぎない。  千早や律子はレッスンに出ているものの、とても調子上々とは言えない様子で戻ってくる。  心を平静に保つために、いつもどおりの生活を続けようと必死に努力しているのが、伝わってきた。  そこへ行くと、やよいと雪歩はもっとストレートだった。  真美の死を告げた日から三日、事務所に出てこない。  歳の近いやよいや、繊細な雪歩には計り知れないショックだったのだろう。 「でも……一番ショックだったのは、亜美とプロデューサーさんですよね」  春香が躊躇いがちに言う。  そんなことを他人から言われなければ分からないほど、動揺しているわけでもない。  むしろ、自分の調子についてはいつになく自覚的だと言っていい。  心の底が、抜けた状態。  どんな出来事も、心を素通りしていく。  事務所のアイドルがみんな傷ついて、駄目になる寸前だということは分かっていた。  ただ、分かっていただけだ。  それだけのこと。  分かったところで、何かしようとは思えなかった。  このままだとクビになるかなと考えたりもする。  別にそれでもよかった。  このまま辛い思い出ごと会社を捨ててしまったほうがいっそ楽だろうと、無責任なことを考える。  それを恥じることさえ、今の俺にはできなかった。  そうやって、漫然と過ぎた三日間。  家には、戻っていない。  真美が死んだその日、居間に置いてあった写真立てを見てしまったから。  俺と、亜美と真美。  三人で並んで撮った写真。  にっこり笑った顔は、ランクアップの記念撮影だったから。  まだ、ほんの数週間前の写真だった。  その写真を見た瞬間、発作的に何もかも滅茶苦茶にしてしまいたい衝動を堪えて家を飛び出した。  以来、安ホテルに泊まってやり過ごしている。  それでも、いずれは金も尽きるだろう。  それは分かっていたが、だからといって家に戻る気にはなれなかった。  この先、俺はどうなるのだろうと考える。  仕事ができなくなって、職を失って、金も尽きて、そしていつかは死ぬのだろうか。  何もかも失いながら、緩慢に、緩慢に死んでいくのだろうか。  それならそれでもいい。  いつかは、どこかで覚悟も決まるだろう。  死ぬまでには、十分時間がある。  ……なあ、神様。  どうしてあんたは、こんなにあっけなくあいつを奪ったんだ?  直前まで、笑ってたんだぜ。  あいつに死ぬ覚悟なんて、できてたわけないじゃないか。  抜け殻みたいな今の俺は、死ぬことになっても仕方ないのかもしれない。  けど、あいつは小さい身体で懸命に生きてたんだ。  死ぬことなんて考えずに、その日を楽しく生きてたんだよ。  何故、奪った。 「……………………」 「……プロデューサーさん。怖い顔、してます」  春香に言われて、我に返る。  そして気付く。  暗い、昏い感情で心が満たされていたことに。  あの子について考えることだけは、心の底に澱むような溜りを生むようだった。  そのほうが、抜け殻なんかよりずっと生きている実感がある。 「……人間としては、腐りかけだけどな」  自嘲気味に笑う。  と。  机の上に置いておいたマナーモードの携帯が、震える。  数度のバイヴの後、静かになった。  どうやら、メールのようだ。 「見ないんですか?」 「……見るよ」  念を押すように、春香が言うので手に取る。  春香に言われなければ後回しにしていたかもしれないが、実際読んで正解だった。 「……………………」  文面を三度、読み直す。  そして溜息をついてから、立ち上がった。 「逃げすぎなのかもな、俺」 「お仕事ですか?」 「さあね。でもこのまま腐るよりは、マシだろ」 「変なこと、考えないでくださいね」 「それも、さあね。けど、やることができたんだ」  よれよれのワイシャツの上からスーツを着て、一応の外回りの支度を整える。 「行ってきます」 「いってらっしゃい、プロデューサーさん」  当たり前のやり取り。  ただそれだけのことでも、少しだけいつもの調子が戻ってきた気がした。  春香に背を向けて。  そこでふと、思った。  春香は、ショックから立ち直れないんじゃなくて。  本当は俺の心配をして、ずっと事務所にいてくれたのかもしれない。  恥ずかしげもなく自分が一番傷ついたような振りをしてみたところで、自分よりずっと傷ついた人間が確実に一人、いる。  そのことを思わなかったわけではないが、今は会わないほうがお互いのためだと、自分で言い訳をして避けていた気がする。  まさか、自分のほうが立ち直るのが遅いなんて思いもしなかった。 「おはよ、兄ちゃん」  あいつはもう待ち合わせ場所に居て、遅れてやってきた俺を、ずっと遠くから見続けていた。 「……おはよう」  俺が目の前に立って、数拍。  そこでようやく、言葉を交わす。  その声は三日前の病室のように震えてはいなかった。  もう悲しんでいないのか。  それはなんだか、安心したような気もするし、落胆したような気もする。  俺以上に酷い有様なんて見たくないとも思ったし、俺と同じ気持ちを共有していると思っていた気持ちを裏切られたとも感じる。  どっちも、酷いエゴだ。 「兄ちゃん、ありがとね」  唐突に、お礼を言われた。 「何の、お礼?」 「一緒に泣いてくれたから」  三日前の話だ。  半身を失った彼女を慰めもせず、一緒になって泣いた、それだけのこと。 「お礼なんて」 「だって、お陰で必要な分、全部泣けちゃったから」  もうあれからは泣かずに済んだ、と。 「その後、ほったらかしにした。悪い大人だよ」 「カッコよくは、ないかな」  そう言って、彼女は少し笑った。  対照的に、俺は少しだって笑えなかった。  隔絶している、二人の差。 「メール見てくれたよね」 「見たよ」 「どうかな?」  ここまでの道を歩きながら、考えてきたこと。  メールに書かれていた、その提案に対する、答え。 「先に、訊いていいか?」 「なに?」 「どうして……アイドル、続けようって思ったんだ?」 『アイドル、続けたい』  メールには、その一言と、返事を聞きたいからと指定してきた待ち合わせ場所についてだけ書かれていた。 「約束、したから」  誰と、とは訊く必要がなかった。  そんな約束、するのは一人しかいない。 「最期まで、傍にいたもん」  俺が居られなかった場所。  あの子が苦しんでいた、その隣に。 「びっくりしたよ。いきなり『お願い聞いて』なんて言うんだもん」  想像する。  恐らくは自分の死を悟ってしまったあの子が、半身に語りかける姿を。 「アイドル、辞めないでって。一人になっても続けてって」 「それで、引き受けたの?」 「ううん、『無理だよ!』って言った。でも、『一生のお願いだから』って」  子どもが何かお願いをするときの常套句。  けれどその一言は、偽りなく本当に一生のお願いだったんだろう。 「断れないじゃん、そんなの。だから、約束したよ」 「そっか」  溜息。  それは、簡単には反故にできないだろう。  自分の半身の、遺言なのだから。  でも、だったら余計に。 「提案は、許可できない。もうアイドルは辞めるんだ」 「やだよ」 「どうしてもだ」 「どうしてもだよ」  譲れない。  きっとお互いに、譲れないだろう。  でも、俺のほうこそ、絶対に譲れはしなかった。  だって。 「そんなの……無理だよ。不可能だ」 「どうして?」 「当たり前だろう? アイドルを続けるってことは“双海亜美”を続けるってことじゃないか」 「うん。そういう意味だよ」 「無理だ……いや、そんなことはやっちゃいけないんだよ」 「“真美”」  あの日、仕事に出ていたのは。  そして体調を崩したのは、本当は誰だったのか。  双子の気まぐれな入れ替わりを知っているのは、俺しかいない。  そもそも入れ替わりが可能なほど似ている二人が本気で入れ替わろうと思えば、誰にも見抜くことはできないだろう。  恐らくは、両親さえも欺いて。 「知らせていないんだろう? あの日から入れ替わっていたこと」 「言うタイミング、逃しちゃったし。今でも真美が死んだって思ってるよ」  そうなのだろうと思った。  そうだからこそ、止めなければいけない。 「今からでも遅くない、本当のことを話すんだ。事務所のみんなには、俺が説明するから」 「ダメだよ」  俺は、それが分かっていたから止めて。  真美は、そのことも分かった上で諦めない。 「亜美は、“双海亜美”っていうアイドルを任せてくれたんだよ。だから、代役の“真美”としてじゃ、ダメだよ」 「バカな。今までだって入れ替わりでやってきたんじゃないか。アイドルを続けるにしたって、全ての人に対して亜美であり続ける必要なんてない」 「指きり」  まくし立てる俺を、真美の一言が遮った。 「ゆびきり、したんだ」  そう言って、真美は右手の小指を見せる。 「双子だったのに、ゆびきりしたのって初めてだったよ。初めてで、最後になっちゃった」  ぎゅっと。  その時を思い出すように、ゆびきりをするように、小指を曲げて。 『みんなが信じてくれたら、亜美はまだそこにいられる』 『兄ちゃんが信じてくれたら、真美はまだここにいられる』  瞳を閉じて、呟く。 「真美が亜美になりきれたら、亜美はまだ消えずにいられる。兄ちゃんが真美を忘れずにいてくれたら、真美はまだ消えずにいられるよ」  亜美の遺した魔法。  二人で一人が、二人で三人に。  あの子がどこまで考えていたのかは、今となってはもう分からない。  しかし、その魔法は余りにも。 「……真美の失うものが多すぎるよ。俺以外みんなに、死んだことにされてしまうんだよ?」 「分かってるよ。真美だって、みんなに忘れられるなんてやだ。だから」  伸ばした小指を、今度は俺の小指に絡める。 「約束して、兄ちゃん。真美の傍に、居てくれるって」  俺だけが知っている秘密。  俺の中にだけしか残らない、真美。 「……本当にいいのか? もし俺が居なくなったら、もう真美のことを知る人はいなくなっちゃうんだぞ?」 「……だから、傍に居てって言ってるじゃん。ずっとだよ」  拗ねたように、そんなことを言う。  でも、それってつまり。 「真美は、兄ちゃんとずっと一緒に居たいって思ってたよ。前から」 「俺で……いいの?」 「兄ちゃんこそ」  長い沈黙。  それを破ったのは、俺のほうだった。 「指、切った」  そう言ってから、繋いでいた小指を離す。  それが合図。  終わらない、終われない魔法の始まり。 「……ありがと、兄ちゃん」  少し照れたように、真美が言った。 「もう離さないからな」 「うん。よろしくね、兄ちゃん」 「これからもよろしく……亜美、真美」  二人で三人の魔法。  これでもう、俺たちは離れられない。  どうやら真美は前からそれを望んでいたようで。  多分、俺のほうもそうしたいと思っていた。  亜美がどう思っていたかは分からないけれど。  亜美がどこまで考えていたのかまでは、本当に分からないのだけれど。  俺たちは、ずっと一緒に居られるようだった。  これはあの子の遺した、小さな魔法  三人を繋いだ、小指と小指。  双子の姉妹と俺たちの、ゆびきりのお話。  <了>