しのぶちゃんと変な友達                                京路 『魔王が封印されなければ、君は地獄に落ちる』  電話越しにそんなことを言われたしのぶちゃんは、ため息をついた。  魔王。封印。地獄。  マンガやゲームの中にしかなかった単語が自分の身に降りかかってきている。  たった一日で、世界ががらりと変わってしまった。  今日はただの高校生活の初日、というだけだったはずなのに。  雪が降って、変な女の子と出会って、変態に襲われて――締めくくりが神様からの脅迫。  ――とんでもない一日……。  しのぶちゃんは、その一日のはじまりに思いを馳せる。  雪にはしゃいだ今朝が、ひどく遠い日の出来事に思えた。           一章 「うわぁ」  朝。カーテンを開けた瞬間、しのぶちゃんは小さく歓声をあげた。  真っ白だった。  京の街が雪に包まれていた。  実は京都には、雪はそれほど降らない。写真なんかじゃ京都の冬景色として雪の降り積もった光景なんかが使われているけど、寒いばっかりで、積もるのは年にせいぜい一、二回。今年にいたっては記録的な暖冬なこともあり、雪はおろか氷が張っているのさえ見たことがなかった。  それが、そろそろ桜もかくやというこの時期に、この大雪。どうりで寒かったはずだよ、しのぶちゃんは心の中でうなずいた。本当は布団の中でうずくまっていたいところだが、今日だけはそういうわけにもいかない。  しのぶちゃんはクローゼットを開き制服を取り出す。藍色のブレザーとプリーツスカート。しわはまったくない。  少しだけ惜しい気持ちを感じる。まっさらな雪原に第一歩を踏み出す瞬間のような。  高校生活初日。  実は三日目なのかもしれないけど。  しのぶちゃんは高校の入学式とその次の日、風邪で寝込んでしまったのだ。休日も挟み三日も休んだおかげで快復していたが、新生活にひとりだけ乗り遅れてしまった不安はぬぐいきれなかった。  今日から。そう、今日からだ。  強く念じながら、パジャマを脱ぎ捨てた。  着替えて一階に下りると、お母さんが台所で弁当を詰めていた。  中学までは給食だったので、普段は縁がなかった。けど、これからは毎日お世話になることになるんだ。  そんな些細なところにも、新生活の息吹を感じてうれしはずかしな気持ちになったりした。  しのぶちゃんを見て「早いのね」と少し驚いたように言いながら、朝食を用意してくれた。  お母さんがため息混じりに言った。 「やあねえ、雪なんて。制服新しいのに。転んだりしないでよ」 「うん」  そういいつつも、しのぶちゃんは自分の心が躍るのを止められていなかった。新生活の初日というのもあるだろうけど、雪というのもこの興奮に一役買っている。我ながら子供だなとしのぶちゃんは自分でも思っていたが、雪が降ったことで単純にわくわくしていた。別に、雪合戦や雪だるま作りがしたいわけじゃない。バスや自転車を使わないから、雪に対して嫌な感情があまりないのも手伝ってか、特別なことみたいに感じるのだ。 「そういえば昨日の夜、大丈夫だった?」 「ん?」  お母さんの問いに、しのぶちゃんは生返事で返す。昨日の夜。なにか案じられるようなことあったっけ? 賞味期限ギリギリのヨーグルトを食べたことくらいだろうか。 「地震があったじゃない。夜中の……二時くらい? けっこう大きかったわよ。ほら、ニュースでもやってる」  テレビを見ると、鞍馬寺のほうで本殿が潰れたと言っていた。雪に染まった山の中に、屋根が落ちている大きな瓦葺の建物の映像が出た。本殿、霊宝殿、義経堂、魔王殿と、倒壊した姿が次々と起こった。本当に大きな地震だったらしい。 「気づかなかった」  自分ののん気さに少しだけあきれてしまった。 「地震だの大雪だの、これも温暖化のせいじゃないかしら」 「雪はともかく地震は違うと思うけど……」  朝食を食べ終えて、しのぶちゃんは席を立つ。 「そろそろいくね」 「もういくの? まだ七時すぎよ」 「雪道だし。なにかあるといけないから、念のためだよ」 「一時間前に行くことはないと思うけど、まあいいわ。ついでにマコト起こしてって。そこにいるから」  お母さんが居間のコタツを指差した。弟がうつぶせになって寝てた。耳にはヘッドフォン、手にはコントローラー。  画面の中では、プレイヤーのパーティが洞窟の壁に向かって直進していた。  四日前に買ってきたRPGだった。しのぶちゃんはまだ序盤のダンジョンでつまっているのに、この弟はかなりあとのほうまで進めているらしい。知らない人が仲間になっている。  しのぶちゃんはマコトのヘッドフォンを引ったくった。 「風邪引くよ」 「ねーちゃんじゃないんだから」  起きていたらしい。思ったより明瞭な声が返ってきた。  実はしのぶちゃんが風邪で寝込んでいたのは、マコトと同じようにコタツで寝てしまったからだった。  痛いところ突かれて、しのぶちゃんは一瞬声を詰まらせた。 「そ、それに今日は雪積もってるし、早く着替えないと遅れるよ」 「着替えてるしな」  よく見たら、マコトはコタツの中でなにやらごそごそやっていた。すぐに、反対側からジャージのズボンが吐き出される。マコトが寝巻きがわりにはいてたものだ。  ずぼらなことに、コタツの中で着替えているらしい。寒いからそうしたい気持ちもわからんでもないけど、制服にしわができるからしのぶちゃんはあまりやらなかった。恥ずかしいし。 「あ。ねーちゃん、帰りジャンプよろ」  いきなりマコトが言った。 「なんでよ。だいたい私が買っても、マコトお金出してくれないじゃない」 「そこは年長者の責務ってやつ」 「読むの、あんたのほうが先のくせに」 「そこは年少者の役得」  マコトはずっとうつぶせのまま、コタツで着替えながら受け答えしていた。まだちゃんと顔を見ていない。  しのぶちゃんは、ため息をつく。  昔はお姉ちゃんお姉ちゃんって後ろをついてきて、かわいかったのになぁ。すっかり弟は生意気になってしまった。 「わかったわよ、もう」  このまま言い争っていても不毛なだけだ。しのぶちゃんは玄関に向かう。 「よろしくー」  振り返ると、マコトがようやく顔を上げてこちらを見ていた。左の髪が寝癖になって上にはねていた。  その間が抜けた姿に、しのぶちゃんのむっとした気持ちが少し解けた。 「いってきます」  そう言って、しのぶちゃんは玄関のドアを出た。           *  平安神宮から南に伸びる神宮道をしのぶちゃんはひとりで歩いていた。  神宮道は平安神宮から円山公園まで南北に伸びる一キロ少々の短い通りだ。しかし府立図書館や美術館が林立し、三条通をまたいで青蓮院や知恩院につながる京都観光の要所が詰まっている。平安神宮の大鳥居もこの通りにかかっていた。  普段は観光バスが行き交い、人力車やタクシーが客待ちで並ぶ、わりとにぎやかな通りなのだが、早朝なのと積雪のせいか、今は驚くほど静かだ。雪を踏む足音しか聞こえなかった。  大鳥居を抜けて、慶流橋に出る。下には琵琶湖から引いた水が川となって流れていた。  この川は今の時期は十石舟を出して、川沿いに咲く桜が見れるのだが、今年の桜は異常なほど咲くのが遅れて、まだ枯れ木同然だった。  橋を渡り、しのぶちゃんは赤信号で立ち止まる。車はまったく通っていない。しのぶちゃんは左右を見て少しだけ迷うが、結局渡らない。車が通らなくても信号無視は気持ちが悪かった。  待ってる間、左手に連なる東山の峰峯を見やった。京都にきて二年。見慣れたはずの山並みは、雪に染まって少し変わって見える。  ――私も、変われるだろうか。  二年前。中学に転校して卒業するまで、しのぶちゃんはこの雪景色の中で立っているのと同じようなものだった。誰もいない景色。色のない風景のなかで、ただひとり立つ異邦人。  二年もの間、ずっとあだ名は「転校生」のままだった。  いじめられるようなことはなかった。みんな親切にしてくれたし、よくしゃべる相手だって何人もできた。  けど、最後までしのぶちゃんは敬語で話すのをやめられなかった。  みんな親切にしてくれるが、それはお客さんに対する親切さみたいなものだった。楽しくはなすことはするけど、誰かと一緒にどこかに遊びに行くようなことはほとんどしなかった。  雪合戦はしないんじゃない、できないんだ。  足元の雪を掴み、玉を作る。わりと水気の多い雪で簡単に丸くなった。それを手に、周りを見る。人影はない。  思い切って、雪球を道の向かいに投げつけた。  雪玉はしのぶちゃんのわだかまりを推進力に孤を描く。やがてエネルギーは霧散して、重力にしたがい高度を落とし、コンビニの駐輪場の前に転がった。  その先に猫がいた。  でっぷりした黒猫だ。左の前足だけ白いので、一瞬、三本足に見えた。コンビニの軒下にちょこんとすわり、口に魚の骨をくわえている。自分のほうに転がってきた雪玉を目で追って、次に投げてきたしのぶちゃんのほうを見た。  猫が目を細める。  「人間様のやることはわからんにゃあ」とか言われてる気がして、しのぶちゃんは急に恥ずかしくなってきた。 「お待ちなさい!」  そんな声が聞こえた。  コンビニの影から、髪の長い女の子が姿を現した。背はわりと高く、目を閉じてるように見えた。しのぶちゃんと同じ制服を着ている。 「ヘル子さんに調理されてわたくしのお腹のなかに収まりなさい!」  そう言って、猫に飛びかかった。捕まえようとしているらしい。猫はひょいとたやすく彼女の手から逃れ、そのまま走り去って行く。 「お待ちな――ぶっ」  すぐさま追いかけようとしたが、雪で滑って、地面に顔面からダイブしてしまった。  猫が走り去り、一瞬の静寂が甦った。  ――なんなんだ。  ――なんなんだ、あの途方もなく恥ずかしい人は。  猫に向かって叫び散らして、追いかけまわして、それはどうやら食べるためで、最後にはすっ転んでいる。  ひとり雪合戦も恥ずかしいが、まだ衝動的なものだった。だが、あの子の行動からは本気の臭いがぷんぷんする。  見てるだけで耳が熱くなってきた。  彼女はずっと動かない。少し嫌な予感がした。雪の上とはいえ、その下は硬いアスファルト。顔面から突っ込んで、もしかしたら打ち所が悪かったりしたのかもしれない。  と、後ろから足音がした。スーツ姿の男の人がしのぶちゃんの横を小走りですり抜け、赤信号を渡っていった。雪に突っ伏す彼女をちらりと見るが、何事もなかったかのようにコンビニの中に消えていった。  見て見ぬふり。  しのぶちゃんの中に、怒りに似た感情が湧いてきた。いくら恥ずかしい人だからって、倒れてるのをそのまま放置していいわけがない。  しのぶちゃんは赤のままの信号を渡る。  すぐさま彼女に駆け寄って、肩をゆすろうとした。 「あの、だいじょ……」  だが、 「捕まえましたわ!」  彼女はいきなり起き上がり、しのぶちゃんを抱きしめてくる。彼女の体は雪で冷たくなっていたけど、その奥には冷めやらぬ熱の塊があるのがわかった。 「さっきの猫よりお肉は少なそうですけれど、たまらなく愛くるしい子が罠にかかったものですわね。きっとわたくしの舌を満足させてくださること間違いないですわ」 「ちょ――えっ?」 「さて、差し当たっては味見をば」  耳を噛まれた。 「ひゃっ!」  さすがに驚いて、しのぶちゃんは彼女を体を突き飛ばした。  思ったよりあっけなく離れて、彼女はぺたんと雪の上に座り込んだ。 「な、何するの!」 「あら。冗談ですわよ?」 「冗談って――実際に耳噛んでるから!」 「ええ。ぷっくりした素敵なお耳ですわ。食べはいたしませんが愛でたいところではありますわね。別の意味で舌で堪能できますわ」  妙な口調だった。関西の言葉にもようやく慣れてきたが、それとも違う。お嬢様めいた言葉だ。むしろあまりにもお嬢様めいているので、実際にそんな口調でしゃべるお嬢様なんかいないんじゃないか、とさえ思う。例えば、「ラーメンおいしいアルよ」としゃべる中国人がいないように。  なんかバカにされてる感じがした。 「あのですね――」  ちょっと文句を言おうとしのぶちゃんは改めて彼女のほうを見た。が、その言葉は止まってしまう。 「ち!」  彼女の鼻から血が出ていた。  真っ赤な鼻血は顎から垂れて、雪を赤く染めていく。 「ふぇ?」  当人は何のことかわかってないようで首をかしげる。自分の鼻の下に手をやってようやく鼻血を流してることに気づいた。が、「おぉ」と一種感動の息を吐く。赤く染まった自分の指を日にかざして、興味深げに見入っていた。 「えっと、はい、ティッシュ」  しのぶちゃんは慌ててティッシュを鞄から出して、彼女に渡す。しかし彼女は押し付けられたそれを不思議そうに眺めるばかり。  その間もボタボタ血が流れていた。 「ああ、もう!」  しのぶちゃんは彼女の手からティッシュを奪い返して、二、三枚引き抜き、血があふれる彼女の鼻を押さえてあげた。  と、なにを勘違いしたが、彼女は思いっきり「ちーん」。 「うわぁっ!」  もはや血みどろ阿鼻叫喚。  数分後。  しのぶちゃんはどうにか彼女に正しい鼻血の処理の仕方を教え込み、コンビニでトイレを借りて手についた血を洗い流した。 「うーん、落ちないなぁ」  制服に彼女の血が飛び散ってしまった。水で湿らせたハンカチで拭いたけど、染みになってしまってる。袖の端で目立つところじゃないけど、新品だっただけに少し悲しかった。  店員さんにお礼を言ってから外に出ると、彼女は雪玉を作って遊んでいた。ティッシュで押さえてるのに飽きてしまったのか、鼻の穴に突っ込んでいる。あんまりよくない処置なんだけどなぁ。しのぶちゃんはため息をつく。  と、彼女は手にした雪玉にかじりついた。 「えぇっ!」 「味が薄いですわねぇ。まるでシロップのないカキ氷のようですわ」 「そりゃそうだよ!」  しのぶちゃんは慌てて駆け寄る。 「何してるの! お腹こわすよ!」  彼女はしばらく雪玉を見つめて、「あぁ」と納得したようだった。 「これが噂の拾い食い?」 「そうだけどそうじゃない!」 「でも、お腹がすきましたの」 「ならここで何か買えばいいじゃない!」 「そうなのです。たかだか百円ぽっちのパン、ゆずってくれてもよさそうなものなのですがね」  しのぶちゃんは首をかしげる。微妙に会話がかみ合っていない。 「もしかして、お金持ってないの?」 「ええ。おかげで、昨夜の夕食を食べたきり、何も食べてませんの。でなければ、野生動物や群生植物を採取したりいたしませんわ」 「……猫は野生動物じゃないし雪は植物じゃないし、そもそも昨日の夕食は食べたなら普通だと思う」  だんだん突っ込むのも疲れてきた。  と、彼女がなにやら嬉しそうにこちらを見ていることに気づいた。同時に、この人は目を閉じてるように見えるけどそれはものすごく目が細いってだけでちゃんと見えているんだな、と改めて思った。 「あなた、さてはいい人ね?」  彼女がいきなり言った。 「そんなことはないと思うけど……」 「いいえ。倒れたわたくしを助けてくれたり、倒れた際に負傷したわたくしを介抱してくれたり、腹痛への危機を指摘してくださったり、空腹で倒れそうなわたくしに食べ物を恵み与えてくださるのだから」 「…………はぁ」  結局、さっき作ってもらったばかりの弁当をあげた。  彼女の勢いに負けてしまったというのもあるし、どのみちほったらかしにして立ち去ることはできなかった。それをするなら、倒れた彼女に声をかけた時点でするべきだったのだ。  思い悩むしのぶちゃんの横で、彼女は一心不乱に箸を動かしつづけた。 「とてもおいしいですわ」  コロッケをほおばる。 「あたかも氷点下で保存されていたところをマイクロ波で加熱されたかのような、のどの渇きを覚えるおかずがご飯を誘います」  卵焼きをほおばる。 「まるで唯一手作りされたかのような卵焼きは塩気が多くて汗をかく機会の多い春先にはうってつけです」  あれこれ言いながらたいらげる。 「でも、とてもおいしいですわ」  しのぶちゃんは顔を引きつらせながら尋ねた。 「……わざと言ってる?」 「ふむん? 何のことですの?」  弁当箱をなめていた彼女が、首をかしげた。 「……なんでもない」  どう考えても皮肉にしか聞こえないけど、なめるほど綺麗に食べきったのだから、もしかしたら本当に褒めるつもりで言ってるのかもしれない。というか、いちいち反応していたら疲れるばかりだとようやく気づき始めてきた。 「ごちそう様でした。おかげで救われましたわ。このご恩は必ず返しましてよ。清水の次郎長親分の名に賭けて」 「え? そっち関係の人なの?」 「いいえ。言ってみただけ」  関係ない人の名前を賭けるのはどうかと思う。 「ほのか様!」  甲高い声がしたほうを見て、しのぶちゃんは目を疑った。  いわゆるメイドさんだった。フリルでふわふわした黒い服に白いエプロンをつけ、頭にはフリルつきカチューシャ、いわゆるメイドカチューシャを装着している。その上、着ている少女は見事な銀髪の持ち主だった。  その子がこちらに駆け寄ってくる。 「あら、ヘル子さん」  歯に詰まっていたカスを爪で取っていた彼女――どうやらほのか様というらしい――が、メイドさんに言った。 「どこほっつき歩いてたんですか、ヘル子は大いに心配いたしましたですよ……あと人前で歯くそ取るなんて淑女失格です」  まくし立てて、ヘル子さんというらしいメイドさんが爪楊枝でほのか様の歯を梳いてあげた。  メイドという、まさに非現実の象徴的な存在が現れたことで、むしろしのぶちゃんは安堵していた。一見普通の女子高生に見える彼女――ほのか様は、日常のまま超日常な行動をするので、ひどく疲れるのだ。でも最初からこんな奇抜な姿で現れてくれれば、ある程度は覚悟できるので―― 「で、このちんちくりんはなんなんですか?」  やっぱり腹が立つものは立った。 「いい人ですわ」 「自分からいい人なんて名乗るなんて、偽善もここに極まれりですねっ」 「わ、私はそんな風に名乗ってないから!」 「あら。そういえばお名前を伺ってませんでしたわね。わたくしは――」 「こちらが名乗る前に相手を名乗らせるのが戦略的駆け引きというものですからっ、ほのか様!」 「――と申します。こちらが、黄泉坂ヘル子さんですわ」 「えぇ、ヘル子の名前ばらすなんて!」 「えっと、百合原しのぶです」 「ふふっ、まんまと引っかったわね百合原しのぶ! ほのか様を歯くそまみれにした恨み、その身をもって晴らしてもらいますからねっ!」 「ほのか様、でいいのかな?」 「ああ、ほのか様の名前までばれてる!」 「ヘル子さん、うるさいですわ」  ぺちん、とヘル子さんを後ろから扇子ではたいた。結構上等そうな扇子だった。 「これ、拾ったにしてはいいですわね」  ほのか様は扇子を見て、感心する。  拾い物ですか。 「くぅん」 「うわっ!」  下から聞こえた鳴き声にしのぶちゃんは飛びのいた。  大きな犬がいた。真っ白い毛並みで、鋭い目は青みがかっている。むしろ、体毛も白さが際立って青くさえ見える。全体的に鋭い印象で、狼のようにも見えた。 「あら、チル。お帰りなさい」  ほのか様が言った。チルはくわえていた皮袋をほのか様に預ける。 「この子はチル。わたくしのボディガード。お花を咲かせるのが得意なのよ」  チルはほのか様の足元に座った。お花を咲かせる、の意味がわからない。が、ほのか様の持った皮袋を見て、わかった。小さな花がついていた。どこかに咲いてきたのを詰んできたのかもしれない。小粋なことを仕込んだものだ。  しのぶちゃんは動物好きだ。チルの顔を覗き込もうとする。が、チルの鋭い目を合わせた瞬間、冷たいものを背中に突っ込まれたような悪寒がした。  すぐにチルのほうが興味をなくしたように、そっぽを向いてしまう。それでしのぶちゃんの感じた寒気が止まった。 「あ、う……」  絶句するしのぶちゃんをよそに、ほのか様はチルが持ってきた皮袋から中身を覗き込んだ。ジャラ、という金属の重い音が聞こえた。 「五円玉ばかりですわね。これじゃお腹がふくれませんわ」 「五円玉には御縁が宿るという駄洒落た信仰がありますからねぇ。残念ながら」 「――え? それ、もしかして」  しのぶちゃんは嫌な予感がした。 「お賽銭?」 「ふん? そうなの?」  ほのか様がヘル子さんに聞く。と、ヘル子さんは顔を真っ赤にして首を振った。 「ちちち違いますよ! ヘル子はただ『フードつきの服で初詣にいけば臨時収入が入るんだから、ちょっとその順番を入れ換えてみるだけ』って思っただけですよ! だからチルにトリモチと糸を渡してですね」  しのぶちゃんはため息をついた。 「……それ泥棒だよ」 「う、うるさいです! あんたに何がわかるって言うんですか! ヘル子は、ヘル子は――」  目に涙をためてヘル子さんは抗議してきた。泣きそうな女の子は解体途中の時限爆弾より危なっかしい。しのぶちゃんが困っていると、ほのか様がつぶやいた。 「つまり、これは人のものなのですわよね。じゃあ、それをいただいてしまうのは、よくないことのはずです」 「で、でもでも、これがないと育ち盛りのほのか様を養うことはできないのですよぉ」 「その点は大丈夫。しのぶちゃんからお弁当をいただきましたから、あと二時間程度は持ちますわ」  二時間だけですか。 「というわけで、チル。これ、もとにあった場所に戻してきなさい。ついでだから願い事もしてらっしゃい。友だち百人できますように、とか」  ちゃっかり願掛けはしておくのか。  チルに皮袋を返す。チルはそれをくわえて、平安神宮のほうに走っていった。おりこうさんだ。  と、信号のところでチルとすれ違った少年にしのぶちゃんは気づいた。  雪の中でも果敢に自転車に乗る彼は、マコトだった。  彼は走り去るチルのほうを振り返り、しのぶちゃんのほうを怪訝そうに見る。 「ねーちゃん、何してんの?」 「なにって――」  自分でもよくわからなかった。  女の子を助けたら鼻血を出して弁当食べられてメイドさんに絡まれて――ほんと、なにをしてたんだか。  一方、ヘル子さんはマコトを見て嬉しそうにほのか様の肘をつついた。 「ほ、ほのか様、イケメンですよぉ」 「イケメン? そうなの?」  興奮するヘル子さんをよそに、ほのか様は興味なさげだった。カボチャでも見るようにマコトを見る。いや、きっと彼女ならカボチャのほうにこそ熱っぽい視線を送るのだろう。 「しのぶちゃんの弟さんですの?」 「はぁ。まあ、そうっすけど」  マコトはまだ怪訝そうだった。特に、メイド服を着てるヘル子さんのほうが。ヘル子さんはマコトに見られているのを何か勘違いしたようで、「きゃー」とか言いながらほのか様の後ろに隠れた。  マコトは触れないことに決めたらしい。しのぶちゃんに向き直る。 「で、ねーちゃん、のんびりしてていいの?」 「え? 今何時!」 「もう八時すぎてるけど」  しのぶちゃんは軽くパニックになった。余裕をもって行動したつもりが、気づいたら少しやばいくらいになっている。実は「余裕を使い切っただけ」でまだ焦ることはないのだが、しのぶちゃんは気づけなかった。 「あら。お急ぎなら、わたくしに構うことはありませんわよ」  というかあなたは慌てなくていいのか。しかし突っ込む余裕が今のしのぶちゃんにはなかった。 「そ、それじゃ!」  しのぶちゃんは慌てて、その場をあとにした。  あとで「それじゃといっても、名前だけしか知らないんじゃ再会できるとは限らないよね」と思ったけど。  しかし、その後悔は、わずかの間しか続かなかった。  神宮道の南端近くに、しのぶちゃんのこれから通う学校があった。制服を着た男女が、校門に吸い込まれていく。  しのぶちゃんは胸の前で拳をにぎる。さっきまではおかしな子にかき回されて忘れていたけど、さすがに緊張してきた。  電話で担任から教えられたクラスはB組。場所も大体聞いてきた。その点では大丈夫だけど、そこでクラスメイトとうまくやっていけるかどうか――そればかりが不安だった。 「よしっ」  口の中で小さくつぶやいて、しのぶちゃんは校門をくぐった。  その瞬間、悲鳴をあげかけた。  校長先生がいた。  入学パンフレットにあった写真と同じ、髪が薄いでっぷりした顔だから、間違いない。その校長がメイド服を着ていた。  堂々と胸を張り、生徒たちに挨拶をしている。生徒たちは一瞬ぎょっとするのか体を硬直させ、小走りに校舎へと逃げていく。 「おはよう」  しのぶちゃんにもにこやかな笑顔で挨拶してきた。 「お、おはようございます」  気持ち悪いというか気味が悪かった。校長の笑顔には迷いが一切なかった。すね毛はえてますがなにか? といわんばかり。そういえばヘル子さんも当然のようにメイド服着てたし。実は、知らないだけで普通にはやってるのかもしれない、となかば強引に納得した。  教室についた。  中にはもう半分くらいの生徒が入っていた。授業が始まるまでのわずかな時間を、思い思いのすごし方をしている。予習に励む者、睡眠を稼ぐ者、そして友人と談笑する者。つい先日出会ったばかりにしては打ち解けている。もしかしたら同じ中学の出身なのかもしれない。  しのぶちゃんの中学からもこの学校にきた人はいるにはいたが、クラスは別になった。しのぶちゃんはそれが残念のような、安心したような、妙な気持ちになった。名前と顔は知っていても、話したことがない人たちばかりだったから、なまじ同じ中学出身という共通項があってもぎこちないことになりそうだからだ。  そんな言い訳めいた弁解を頭の中で繰り返しつつ、自分の席についた。前から三番目の、左から二番目。担任から教えてもらった場所を確認し、一応机の中が空で自分の席であることを確認してから、腰をおろす。  五秒くらい、そのまま待ってみた。  誰もしのぶちゃんのことなど気に留めたようすはなかった。  しのぶちゃんは少し気落ちしてしまった。そんなことはないと思いつつ、どこかで期待していたらしい。自分が席についた瞬間、笑いながら手を引いてくれる人がいるんじゃないか、と。  携帯電話を片手に向かい合っている女の子が目に入った。番号でも交換してるんだろう。メモリに相手の番号を入れる――それが友だちの証のように。  しのぶちゃんはそっちを見ないようにした。携帯電話なんか持っていなかったのだ。自分には似合わない、もっと明るくて社交的な人たちが持つものだ――なんて思っていたりする。  途端に、あきらめに似た気持ちが胸の中に広がった。  携帯電話を使ってでしか友人が作れないのなら、自分は無理なんじゃないか。自分から無理して話しかけたところで、相手になんかされないんじゃないか。音楽番組よりアニメが好きで、ファッション雑誌より少年マンガ誌を読んでる自分なんか女の子の話についていけない。けど男の子の輪に入るなんてもっと無理だ。  ふと、今朝出会った破天荒なお嬢様を思い出した。  今思うと、彼女には敬語を使ってなかった気がする。  ――ざわっ  一瞬、クラスの中が静まり返った。しのぶちゃんは、みんなが見ている方向を目で追った。  メイドさんがいた。  今朝出会った、ヘル子さんだ。ただ、なぜか頭に水玉もようの手ぬぐいをほっかむりにしてかぶっている。  彼女は全員の注目など意に介さず、掃除用具入れの中に入り込み、その扉を閉めた。  クラスに、静かなざわめきが甦る。「なぜメイドさんが――」「そういえば校長も――」「掃除用具入れはメイドの国に繋がっていて――」「集団催眠だ――」「プラズマだ――」 「ホームルーム始めるぞ」  担任が教室に入ってきて、そのざわめきを強引に鎮めた。みんなが、胸をなでおろした気配を、しのぶちゃんは感じた。うやむやにしたかったのだ。目の前で起こった不可解なことを。  ただひとり、しのぶちゃんだけは、妙な予感がしていた。 「さて。妙なタイミングだが、転校生がきた。入ってきなさい」  全員が戸口のところを注視する。  しのぶちゃんは、予感を否定するのに精一杯だった。まさか、いやしかし、それでも――。 「お初にお目にかかりますわ、一年C組の皆様」  ――やっぱり。  ほのか様だった。  背中まで伸びた黒髪。閉じてるように見えるくらい細い糸目。ほほ笑みを絶やさない口元。そして傍らには白い大型犬チル。  担任が、名前を黒板に書く。 『世界龍・L・ほのか様』  様、だけ筆跡が違った。筆記体のように崩した字面。一瞬、教卓が揺れたような気がした。が、担任もほのか様も気づいていない。  ふと思い立って、しのぶちゃんは後ろの掃除用具入れを見た。  扉は相手いた。 「名前は、世界龍・L・ほのか『様っ!』そうだ……ん?」  担任の名前に、『様』と高い女の子の声が割り込んだ。さっき揺れた、教卓の辺りから聞こえた気がする。  ほのか様は一歩前に出て、ポケットから取り出した扇子を開いてみんなに掲げた。 「どうぞ、気安くほのか様とお呼びくださいませ」  ぜんぜん気安くないよ!  心の中で全力で突っ込みつつ、周囲の様子をうかがった。  みんな、ドン引きしてた。  今朝のしのぶちゃんと同じようなものだった。不可解な展開についていけていない。ただし、教室の場合は順番が逆だ。しのぶちゃんはだんだんと妙なことになっていったからまだ順応できたが、ここではまずメイドさんの闖入という一番訳のわからないところから見せ付けられた。そこで揺さぶられたところに、犬を連れた転校生がめちゃくちゃなことを言ったりしている。  しのぶちゃんは逃げたくなった。 「あら、しのぶちゃんではありませんの」  全員の視線が、しのぶちゃんのほうに向く。  逃げるどころか、その発言で渦中に放り込まれてしまった。 「奇遇ですわねぇ。まさか同じクラスになるだなんて」 「あぁ……うぅ……」 「あら、どういたしましたの? まるで熱病に浮かされた小鹿のように震えておりましてよ?」  めちゃくちゃ恥ずかしいだけだった。 「それじゃ世界龍の席だが、空いてるところで――」  担任が一番後ろの席を指そうとしたが、「ふっ」とほのか様は髪を払い手を腰に当て、ポーズ。 「案ずることはありませんわ」 「は?」 「運命とは自ら切り開くもの。与えられずとも、作り出して見せましょう」 「いや、意味がわからんが」 「わたくし、しのぶちゃんの横がいいと申し上げているのです。あ、景色がいいから窓際のほう」  ほのか様はしのぶちゃんの左横の席を指差した。そこに座っていた男子はぎょっとしている。 「いや、あそこは飯尾の席だから」 「わたくしは屈しませんわ。欲しがりましょう、勝つまでは」  そりゃただのわがままだ。  そのまま担任と言い争いになる。  と、ヘル子さんが教卓の下から出てきた。ほふく前進でしのぶちゃんの席の前までやってくる。キッとしのぶちゃんに一発ガン飛ばしてから、その横の飯尾くんに飛びかかった。 「――なっ!」  飯尾くんはとっさの出来事に反応できない。あっという間に床に引き倒される。ヘル子さんは丈の長いスカートをまくりあげ、飯尾くんをくるんでしまった。 「な、なにしてるんですかヘル子さん!」  慌ててしのぶちゃんは止めに入るが、ヘル子さんは人差し指を口の前に立てて「しーっ」と言った。飯尾くんを吸い込んだはずのスカートは、何事もないかのように元に戻った。まるで飯尾くんが消えてしまったように。  再びヘル子さんはほふく前進、教室の後ろに進み、最初のときのように掃除用具入れに入っていった。 「あら。いつの間にか席が空いておりますわ。まるでわたくしに座れと言っているよう」  今気づいたかのようにほのか様がはしゃいだ。いや、本当に今気づいたのかもしれないが。 「飯尾、どこに?」  担任は首をかしげる。こちらはほのか様に気を取られて、本当に気づかなかったらしい。  誰も真相を担任に伝える者はいなかった。  ひとたび注目を浴びれば、飯尾くんのように消されてしまうのではないか。そんな緊張感が教室を包み、息さえも漏らすまいとみんな必死だった。 「よろしくね、しのぶちゃん」  満面の笑みを浮かべながらとなりに座るほのか様。「あら、教科書ひとそろえ用意されてますのね。ますますついてますわ」とかお喜びあそばれている。  痛い。  全方位から射出される視線が痛い。  これからどうなるのか。考えたくなかった。考えたら、泣いてしまいそうだから。           *  なんとか泣かずに放課後までこれた。  しのぶちゃんは、体育館の裏で胸をなでおろした。なぜ放課後に体育館の裏にいるかというと、一刻も早く人がいない場所にいきたかったからだ。ホームルームが終わったと同時に「ごめん私ちょっとあれだから!」とほのか様が何か言う前に言い残し、走ってきたのだ。  別に一緒に帰ろうとしようとしていたほのか様を避けているわけじゃ……ない、と思おうとしたけど、やっぱり自分には嘘をつけなかった。  いくらごまかせても、自分はごまかせない。 (ほのか様を避けてる)  壁にもたれかかり、ため息をついた。  自分が嫌になる。友達がほしい、と思ってたくせに、いざ自分を慕ってくれる人が現れたら避けてしまっている。 (でも、あれはないよ……)  今までいったいどんな育て方をされてきたのかわからないが、明らかにおかしい。彼女のような人を形容するのに、空気読めてないとか自己中心的とか言うのだろうが、そういうレベルじゃない。  授業中だろうとテスト中だろうと構わず大声で話しかけてくるし、テストの答案用紙の裏には絵とか書いてるし、かと思ったら寝てるし、すぐお腹すいてるし、人に昼食たかりに行ってるし、トイレの個室にまで一緒に入ろうとするし、駄々こねるし、よく見たら朝からさらに数人失踪してるし、クラスメイトの人たちは魔物でも見るような目つきで見てるし、自分まで同類だと思われてるみたいだし。 「はぁぁ」  とにかく疲れた。  壁にもたれたまま、しのぶちゃんはうつらうつらする。 「何かお悩みですかお嬢さん?」  いきなりダンディな声が聞こえた。 「よろしければ我輩が解消いたしましょうか?」  百葉箱が言った。  しのぶちゃんは目をこすりながら思った。  百葉箱って久しぶりに見たなぁ。小学生のとき以来かも。そもそも、百葉箱だっけ? 千葉か、万葉だった気もするけど。たしか湿度計や温度計が入ってるんだよね。 「あれ? 驚かないのでしょうか?」  また百葉箱が言った。扉がパカパカと動き、そのたびに長い舌が見え隠れしている。 「――って、うわぁ!」  眠気が吹き飛ぶ。  少し寝ていたらしい。が、おかげでずっと麻痺していたリアリティが少しだけ復活する。  破天荒なお嬢様がいたっていい。わんこが賽銭ドロもできるかもしれない。メイドさんが消失マジックすることもあるだろう。  けど百葉箱はしゃべらない。  長い舌だって生えてない。 「な、なに?」 「いやまあ、何かを言われますと我輩も困るのですが。名もなき魔物とでもいいましょうか。以前からこの学校を根城に漂っていたのですが。どうも先刻から自由に動けるしものもはっきり考えられるなと気づいた次第であるのですよ」  まったく要領を得ない。 「で、せっかく動けるのだから後悔の残さぬよう生きようと思うのですよ。実は我輩、お嬢さんを拝見したときから、どうもいても立ってもおられぬので。ここはひとつ、単刀直入に申し上げようと参上した次第」  単刀直入と言っておきながら、回りくどい言い方だった。が、しのぶちゃんはだんだんと嫌な予感がしてきた。  百葉箱は言う。 「舐めさせて」 「うわぁぁぁ!」 「いや、正確には左足の指の裏をばひとねぶり」  ――変態だ!  実はしのぶちゃん、痴漢にも変質者にも遭遇したことがない。なのでこれが変態との最初の遭遇、ファーストコンタクト・ウィズ・ヘンタイとなるのだが、変態経験の僅少さが悪いほうに作用した。  腰を抜かしてしまった。 「いやいや、勘違いなされるな。少し親指と人差し指の間を舐めさせてもらうだけ」  ――何も勘違いしてないよ! 「露骨に嫌な顔しなさるな。我輩に舐められればたいがいの悩みなど吹き飛ぶものだよ。それにで満足なのだ。というのもお嬢さんから芳しい香りが立ち上っているわけで、ああ、いかん、辛抱たまらん――靴下の上からでもいいと思うたがやはりナマに敵うものは――」  百葉箱の息はどんどん荒くなり、こころなしかペンキの白も赤く染まってきた。ガコガコと全身を震わして崩れ落ちたしのぶちゃんに近づいてく。長い舌はもう隠そうとさえしていない。  ――もうダメだ。  しのぶちゃんがあきらめかけたそのとき。 「あら、ようやく見つけましたわ」  救いの主が現れた。  ほのか様とチルだった。 「ほ、ほのか様――」  このときの様づけは惰性で使っていた呼称でなく、心の底からの敬称だった。  体育館の角から現れたほのか様はこの状況を観察する。尻餅をついたしのぶちゃんに今にも飛びかかろうとしている舌つき百葉箱。なんとも混沌極まる光景だが、ほのか様は扇子を口元に当てて小首をかしげる。 「跳び箱失敗?」 「絶対誤解すると思ったよ!」  しかもやたらひねくれた解釈してくれた。  しかし突っ込んだことで、しのぶちゃんに活力が戻る。立ち上がって、ほのか様のほうに走った。 「ほのか様も逃げて!」  ほのか様は小首をかしげる。 「鬼なし鬼ごっこ?」 「あれ見えないの!」  しのぶちゃんは百葉箱を指差す。 「ほほぉ、これはまた芳醇な匂い漂うお嬢さんが現れたものですな。足を、足を、密閉された革靴での中で甘くそしてすっぱく熟成されたおみ足を、我輩のベロベロで――って、ほのか様?」  バコ、という音がして百葉箱の前足が折れた。口になっている部分が地面に落ちて、土下座してるようにも見える。 「まままままま魔王様にあらせられますか!」  百葉箱の表情はわからなかったが、さっきまで赤らめいていた体は、今はわずかに青くなっている。 「ま、魔王?」  しのぶちゃんはほのか様を仰ぎ見る。  ほのか様はつまらなそうに耳をほじっていた。しのぶちゃんは、少し意外に思う。今まで何があっても楽しそうなほほ笑みを浮かべていたのに、こんな表情もするんだ。 「まあ、そうとも呼ばれてますわね」 「せせせ先刻から活力があふれていたのですがこれで納得至極、魔王様がご降臨あそばれたことで大気に魔力が満ち満ちた影響でございましたのですね! いやはや、さすがは人外魔境の統べる長!」  ほのか様は、小さくため息。 「ようするに、あなたは動けるようになったのをいいことに、わたくしのクラスメイトに不埒な真似をしようとなさったわけね?」  ひぃぃ、と百葉箱がさらにこうべを下げる。あまりにこすりつけるものだから、雪と土がえぐれてきた。 「まあいいわ。もうこのようなことはしないこと。あと、わたくしの前に二度と姿を現さないで」  百葉箱の動きは早かった。  立ち上がったかと思うと、一目散に逃げていく。三秒かからずに、視界から消えてしまった。 「ご無事でしょうか、しのぶちゃん?」 「え? あ、うん……」 「それは重畳」  近づいてきたチルがしのぶちゃんの袖を噛んだ。 「え? な、なに?」 「ああ。あの方は、これに反応してしまったのですのね」  袖には血がついていた。今朝のほのか様の鼻血だ。洗っても落ちなかったのだ。  チルがそれを何度か舐めた。  見ると、袖の血が消えていた。なぜか花の香りがする。 「これで大丈夫」  ほのか様は穏やかに笑った。  その勢いのない表情に、しのぶちゃんはなぜか嫌な予感がした。 「あの、魔王って、何のこと?」 「あの方がおっしゃった通りですわよ」  そう言い残して、ほのか様は立ち去った。  ふと視線を感じる。チルがしのぶちゃんのほうを見ていた。  心の奥まで見透かそうとする、まっすぐな、それでいて試すような視線。しのぶちゃんは、そう感じた。  それもつかの間、チルは尾を振ってほのか様のあとを追った。  誰もいなくなった体育館の裏に、一筋の風が吹いた。  四月とは思えない凍てついた風に、しのぶちゃんは身を震わせる。  いつの間にか、日が暮れかけていた。           *  魔王。  たいてい、悪魔が魔物が住む世界である魔界の奥底に城を構えていて、人間界を支配、ないしは滅ぼそうとしているものだと思う。一応、最後には勇者一行に倒される。「人間どもに悪の心がある限りわしはまた復活するぞ」とか捨て台詞を吐きながら。  例外を除いて、魔王は悪の権化であり、救いようがない悪者であることが多いと思う。そこに人間界があるからという程度の動機で攻めてきている。迷惑な話だ。そういえば織田信長も魔王を名乗っていたか。でも彼も自分の領地を広げるために他国を侵略していたのだから、攻撃するのに動機なんて実はいらないのかもしれない。  とにかく、それが魔王。  そしてほのか様も魔王である、という。  たしかに空気を読まずクラスの――そしてしのぶちゃんの――安寧を妨げるという意味でははた迷惑といえなくもないけど、諸悪の根源である魔王だと言ってしまうのはやりすぎだ。  それとも、実は魔界から自ら人間界の支配にやってきたのだろうか? 「アホらし」  思ったことを口にした。  疏水沿いを、まだ咲かない桜を見あげながら帰っていた。  さすがに、ゲームと現実が違うことはわかっている。  でも事実として、魔物は彼女に従ったわけだし。そもそもあの百葉箱が本当に魔物だったのか――。  そんなことを考えているうちに、しのぶちゃんは家についていていた。  その二階建ての我が家を見た瞬間、安堵した。外は訳のわからないことが多すぎる。ここだけが今朝のまま、現実感のある場所だった。 「ただいま」  声をかけると、制服から着替えたマコトがアイス食べながら出てきた。 「ジャンプは?」  一瞬、なにを言ってるのかわからなかった。そういえば朝、そんなことを頼まれてたかな、と思い出す。すごく昔のことのような気がした。  しのぶちゃんの表情で、マコトはわかったらしい。露骨に顔をしかめた。 「うわ最悪―、忘れるかよー」 「ご、ごめん」  しのぶちゃんは顔を伏せる。慌てたのはマコトのほうだ。彼としてはいつものように「一方的に押し付けるあんたが最悪だよ」とか言われるのを期待してわざといやらしく言ったのだが、謝られてしまった。 「べ、別にいいけど。大体は学校で読んできたし」 「うん」  マコトは顔をしかめた。張り合いがない姉に、調子が狂っているようだ。  と、彼は靴箱の上に置いてある箱に気がついた。 「そーいや、ねーちゃん宛てに荷物が着てたぞ。ほら。神社からだって」 「え?」  反射的に、差し出された箱を手にとってしまった。  両手を並べたくらいの大きさの箱だ。紫色で藤花の絵があしらった包装紙に丁寧に包まれている。貼られた伝票にはたしかに自分の名前と住所。そして送り元の住所は三重県の伊勢。名前には、賀茂御祖神社。ワレモノ注意。  今日、何度目かの嫌な予感がした。 「賀茂御祖神社って、下鴨神社のことだろ?」 「そうなの?」 「さあ? かーさんが言ってた」  下鴨神社といえば、京都の中でも歴史が古い神社だ。しょっちゅう祭りもやっている。でも、住所は伊勢。意味がわからない。わからないだけに、どんどん嫌な予感が募っていく。 「わかった、ありがと」  しのぶちゃんは階段を駆け上がり部屋に入る。とっさに鍵もつけてしまう。普段はほとんど鍵なんか使ったことないのに反射的にかけてしまった。  ベッドに座り、手にしていた箱を確認する。  意外なほど軽い。実は空じゃないかと軽く振ってみたが、ごとごとと何かが入っている感触はする。 「う、うーん」  今日、さんざ考えつづけて、ひとつだけわかったことがある。  わからないことを考えても、答えなんか出てこない。箱は開いてみないと中身はわからないのだ。  しのぶちゃんは意を決して、包装紙を剥がしていく。几帳面にセロテープからはがしていった。  中から出てきたのは、何の変哲もない紙箱だった。お祝いの品か何かのようにのしがつけられている。  それも解き、箱を開く。  しのぶちゃんは、わかっていなかった。  神話などでは往々にして、秘匿されているものを開けたってろくなことにはならない。好奇心から不幸の蓋を開けてしまったパンドラを例に出すまでもなく。 「これって……」  携帯電話だった。  あとは説明書と思しき冊子に、充電器やイヤフォンマイク、珠のついたストラップまで入っている。  見たことのない機種だった。携帯電話は持ってはいないが、クラスメイトが使っているのを何度も目にしているから大体の種類はわかるが、そのどれとも違う。  手にとって開く。待ち受け画面として、翼が生えた猫のイラストがあった。頭の上には輪っか。猫天使?  いきなり画面が変わり、音楽が鳴り出した。着信している。着信者の名前が『ハネ』と表示された。  しのぶちゃんは硬直したまま、その名前を見つめる。ハネ。羽。ヨハネ、という聖人がいたよね、とか連想する。着信メロディのコンチキチンの祭囃子が延々と鳴りつづけていた。  出るかどうか迷う。着メロが二順したところで、しのぶちゃんは意を決して、通話ボタンを押した。 「もしもし?」  一瞬の間があった。相手は何も言わない。電話の向こうから、川のせせらぎが聞こえた。あとは、かすかに自動車の駆動音。  繋がっている場所がこの世界の中であってくれたことに、まず安堵した。 『百合原しのぶ、だな』  綺麗な男性の声だった。しのぶちゃんは、最近始まったアニメの二枚目キャラの声に似てるな、となんとなく感じた。 「そうけすけど……誰ですか?」 『便宜上ハネと名乗っておこう。詳しくは話せぬ。ただ、今日君が遭遇した、この世ならざるものに近い、とだけ言っておく』  この世ならざるもの。  それはあの魔物のことか。それとも、ほのか様のことか。 『ただし、属性は逆ではあるが』  逆。魔物の逆。 「――神様とか、天使とか?」 『そのようなものだ』  用件を先に言おう、と前置きして、ハネは言った。 『魔王を封印してほしい』  しのぶちゃんの思考が停止する。  魔王。封印。天使。私。ほのか様。  私が、ほのか様を、封印する。 「え! ちょ、そん――」 『これが叶えられない場合、君に対しては、狭き門の扉を永久に閉ざすことになる』 「狭き門?」 『天国には行けず地獄に堕ちるということだ』  んな無茶な。  今日という途方もない一日を駆け抜けたしのぶちゃんも、この展開にはさすがについていけなかった。 「そんなこと、信じろって言うんですか?」 『無論、信じる信じないは君の自由だ。だが、例えば我々は電気系統への干渉を行える力を有している。これを行使すれば、君に生きながらにして地獄を味あわせることも可能だ』 「電気系統って……」  停電でも起こすというのだろうか。 『試してみるか。ふむ。では、まず君の部屋の電気だけを止めよう』  ハネが言った瞬間、本当に電気が消えた。一瞬、視界が真っ暗になる。すぐに窓の外から入ってくる外灯の光で薄暗さは確保された。  しのぶちゃんは電気の紐を引く。何度引いても灯りは戻らなかった。ドアを開けると、廊下のほうは明るい。本当に自分の部屋だけ電気が止まっているらしい。  ぶつ、とラジオのスイッチが入る音がした。しのぶちゃんの部屋にある電化製品といったらラジカセくらいだ。 『多少は信じる気になったかね?』  ラジオからハネの声が聞こえた。 『人間レベルのセキュリティなど紙も同然だ。銀行口座の残額をゼロにすることも、役所の戸籍情報を抹消することも、逆に悪徳金融業者のリストに君の名前を追加することもできる。その気になれば、脳内の電気信号さえにも干渉することさえできる』 「そ、それって脅迫じゃないですか」 『本気になったか?』  言われたことそのものよりむしろ、あくまでも冷静な口調に恐れを感じた。  まだ彼が本当に神や天使といった神霊であることは信じたわけじゃない。けど、そんなことを平気で言える人は、どっちみち人ではない。  人でなし、という言葉が脳裏をよぎった。人でないから、人に対して簡単にひどいこともできる。 「自分たちでやればいいのに……」  つい、本音が出た。 『それができないのだ。我々と魔界とは、微妙な関係にある。人間界という緩衝地帯をはさんで、一応の停戦状態、とでも言おうか。だが本日02:13、魔王が人間界へと越境を強行した。それにより、世界のバランスが大きく崩れかけている。本来ならば、一定以上の力を有する魔物が許可なしにこちら側に渡れば境界侵犯とみなし攻撃、排除ができる』  いきなり大きな話になってきた。しのぶちゃんは心する。 「……しないんですか?」 『彼女が、一応人間だからだ』  冷静な口調のなかにも、苦いものを噛み潰すような感情が見えた気がした。 『人間が魔界から戻ってくるだけなら、何の問題もない。また、ただの人間なら、我々が独自に間引いても、これもまた問題ない。だが、魔物であるのなら、ある程度の正当性は必要だ。魔王は、自分が人間であることを、今回の境界侵犯の口実としている』  しのぶちゃんは考える。どうやら、魔王は魔物の長ではあるが、魔物の中から選ばれるというわけではないらしい。 『このようなケースは前代未聞だ。下手を打てばそのまま最終戦争に突入する。だが、手をこまねいていては相手に先手を許すことにもなりかねん。我々はいつ爆発するかもわからない時限爆弾を飲み込まされたようなものだ。特一級緊急配備のまま、我々は議論を重ねた。  結果、三つの提案された。  まず、穏便に魔王の動向を監視するにとどめ、無用な争いを回避する日和見な意見。この場合、魔王の目的が侵略なら致命的となる。  次に、戦闘準備を急ぎ、これを機に積年のにわたる膠着を一掃する、という開戦主義の意見。ただ、この場合人間界は焦土となる。また、正直なところ戦力はやや我々に分が悪い。  そして、人間により、人間である魔王を封印させるという意見。人間であるのなら、人間に害されても問題はない。「滞在中に起きた不幸な事故」ということで片付けることができる』 「……それで、私が選ばれた?」 『そうだ』 「でも、こうして私に接触してるじゃないですか。魔王を封印しろって」 『君がどう捉えたかは知らんが、我々は「魔王を封じろ」とは言っていない。我々が魔王が封印されてほしいことを望むことを話し、また君の未来を潰すだけの力があることを伝えただけだ』 「……卑怯じゃないですか」 「外交とはそういうものだ」  言い切られる。  しのぶちゃんは悟る。拒否権は、本当にないのだ。 「でも、なんだって私が――」 『魔王の監視を続けた上での結論だ。現状、君が魔王ともっとも近しい人間である』 「でも近しいなら、封印なんてしないと思うんじゃ」 『近しいといってもまだ友人にはいたっていない、というのが我々の見解だ。君が自分を犠牲にしてまで彼女をかばうことはしない』  たしかに、正直、助けようと思うほど思い入れもない。  でも、自分が手を下すとなるなら話は別だ。 「封印って、具体的にはなにをするんですか」 『君がすることは簡単だ。君が今持っている携帯電話のカメラ機能で、魔王を撮影すればいい』 「え?」 『名をトツカという。太古、神武天皇が東を平征した際にも使われたという神具だ』  うそつけ、と思うが、あまりにも真面目くさった言い方に突っ込めなかった。 『機能を説明しよう。一旦、イヤフォンをつけろ』  しのぶちゃんは箱に入っていたイヤフォンマイクを本体につなぎ、自分の耳にもつける。襟元にマイクをクリップで固定した。 『使い方は普通の携帯についたカメラと同じだ。カメラを起動し、対象を画面中心に映るようにして、シャッターボタンを押す。それで対魔兵器装備としてだけでなく、普通の携帯カメラとしても機能する』  しのぶちゃんは言われたとおりにしてみる。通話中でもカメラ操作はできるようだ。カシャ。問題なく、部屋を撮影できた。 『魔物を封印する際は、通常撮影モードから封印撮影モードにするんだが――口で説明するばかりではわかりづからろう』  しのぶちゃんは何度か撮影を繰り返していたが、ハネが言った。 『これから実際に魔物を封印してもらおう』           *  しのぶちゃんはマコトの自転車の後ろに乗って、東大路通を南下していた。さすがに大通りなだけあって、道の雪も解けている。二人乗りで大通りを走るのが気になったが、雪道を走るよりは安全な気がした。 「なんだって俺が――」  マコトがぼやく。  お母さんの命令で、しのぶちゃんの足にされたのだ。理由は三つ。もうすぐ晩御飯で早く帰ってきてほしいから。女の子の夜の一人歩きは危ないから。しのぶちゃんは自転車乗れないから。 「ここまででいいよ」  東大路通から折れて、学校へと続く道で、しのぶちゃんが自転車から飛び降りた。  マコトが怪訝そうな顔をする。 「なに言ってんだ。もうそこなのに」  マコトの言い分はもっともだった。この後に及んで遠慮するのはおかしい。だけどしのぶちゃんとしては、まさか弟の前で魔物退治をするなんてできなかった。 「いいよ。マコトは、ほら、そこのコンビニで立ち読みでもしてて待っててよ」 「……ねーちゃん、なんか隠してない?」  鋭かった。 「わ、私がなにを隠すって――」  そのとき、携帯の着信音が鳴る。しのぶちゃんは、マナーモードの大切さを悟った。 「ケータイ? 持ってたの?」 「えっと、その、人からもらったっていうか」  変なところだけ正直に答えてしまう。  マコトに追究される前に、電話に出た。 『もうすぐ到着だな。改めて機能を確認するが――』 「待って。弟がいて、その――」 『別に問題なかろう。最終的に魔王を封印できれば、特に秘匿の必要はない』 「それはそうだけど、なんというか、恥ずかしいというか……」  肩を叩かれた。  マコトがすべて納得したような顔をしてうなずいている。 「邪魔者は消えるよ。まあ、ねーちゃんもがんばれよ」 「え?」  そう言って、マコトは自転車にまたがり去って行く。  弟の妙に優しげな笑み。 「ち、ちが――」  しのぶちゃんが否定をする間もない。 『いなくなったようだな』 「あれ絶対なんか勘違いしてたよ!」  あとでなんて言い訳しようか、今から先が思いやられる。 『いてもいなくても文句を垂れるとは、難儀なやつだ』 「そういうことじゃなくて――はぁ、もういいです……」  しのぶちゃんはとぼとぼ学校へ向かって歩いていく。 『さっき言いかけたが、カメラとは別に補足しておくことがある。携帯の時刻表示の下に数字が並んでいると思う』  しのぶちゃんは画面を見る。二万近い数があった。少しずつ増加している。 『それが魔力値の指数だ。やつらがこの世界に存在し、力を使える割合で、魔物にとっては酸素のようなものだ。つまり、多いときは魔物が活発だと思ってくれていい』 「普段はどれくらいなんですか?」 『京都のこのあたりなら、百から二百が平常値だな』 「ものすごくまずいじゃないですか!」 『二万を越えると雑霊が実体化をし始めるから気をつけろ』  そういえば、学校の百葉箱のお化けもそんなことを言っていたな、としのぶちゃんは思い出した。  やはりほのか様は魔王なのか。 「ほのか様は、本当に魔王なのでしょうか?」  気づいたら、尋ねていた。 『彼女の名である「ほのか」とは、忌み名だ。炎花、洸、滅乃歌――炎の花を咲かし、洪水を起こす、滅びの歌い手。また、ミドルネームのLも、世界の不浄なる者から取っている。【虚星】、【泥の娼婦】、【未明の星】……すべて、異国の神話にて語られる、破滅へといざなう者の名だ』  ハネのあだ名はしのぶちゃんからすればわからないが、とにかく、不吉な存在だというのはわかった。  実際、しのぶちゃんもその目で見ていた。魔物がほのか様を畏れ敬う姿を。あれこそが、彼女が魔王であるという証明ではないか。  と、魔力値の数字が一気に上がった。今まで一か二くらいだったのに、二ケタ単位で上がっていく。 『魔物が活動を開始した。やつらが動くほど、魔力値は上がっていく。植物が光合成をして酸素を作り出すようにな。くるぞ』  学校の門扉を、白いモノが飛び越えてきた。 「あれは……」  ガコ、とアスファルトに着地するそれにしのぶちゃんは見覚えがあった。というか、つい数時間前のことだ。 「む。魔王様のご朋友であるお嬢さんではないか」  百葉箱だった。  しのぶちゃんは、百葉箱にカメラを向ける。画面の中の百葉箱には、黒々としたモヤがかかっていた。 『そのモヤが、やつの本体だ』  イヤフォンからハネが命じてくる。 『撮れ。そうすれば、魔物は封印される』  しのぶちゃんはシャッターを、押さなかった。  かわりに百葉箱に尋ねた。 「あの、どこに行くんですか?」 「せっかく自由な体が手に入ったのだ。ゆえに今宵は舞妓さんの足袋に包まれたくるぶしを求めて、祇園にでも出ようかと。魔王様に迷惑はかけられぬが、他の場所でなら問題あるまい」 「でも……そんなことしたら、大騒ぎになりますよ」 「さもあらん。されどやむなきかな。そこに女性のおみ足がある限り、我輩は舐めねばならぬ、舐めねばならぬのだ!」 『なにをしている。今騒動になれば、そのまま開戦に繋がることもありうるぞ!』  ハネが声を荒げた。  だがしのぶちゃんは説得を続けた。 「約束は、していただけないでしょうか。人に迷惑をかけない、共存していく、と」 「愚問。足を目の前にして舌を出さぬ時点で、我輩は我輩ではない。死したるも同じ。これ以上の問答は無用だ。そこを退きたまえ」  しのぶちゃんは唇を噛み締めた。 「ごめんなさい」  そうつぶやいて、シャッターボタンを押した。  カシャ、という軽い音が夜道に響く。  次の瞬間、百葉箱がアスファルトに転がり、大きな音がした。長い舌だったものは一瞬で砂の塊に変化し、地面に散らばった。  静寂が戻る。  百葉箱は微動だにしない。それはもう、ただの百葉箱に戻っていた。  しのぶちゃんは、カメラの画面を見る。  舌を出した百葉箱が地面を走り出そうとした瞬間が写っていた。この奇怪な存在はもうこの世にはいない。この小さな携帯端末の中に封じ込まれてしまった。  ――それって……殺すのと同じじゃない。  足から力が抜け、しのぶちゃんは地面に崩れ落ちた。  携帯が重い。なぜか鼻の先が痛くなる。泣きそうになる前兆だ。 『やつらは己の欲望を満たすことしか考えてはおらぬ。説得など無意味だ』  ハネの言葉が聞こえるが、頭に入ってこなかった。  あんな変態百葉箱を放置しておいたって、被害者を増やすばかりだ。同情の余地なんかないし、自分たちを守るためには、こうするしかなかった。  けど目の前で、動くものが動かなくなった。自分がそれをした。  その事実がしのぶちゃんを打ちのめした。  これを次はほのか様にしなければならないのだ。 「ねーちゃん?」  振り返ると、自転車を押したマコトが立っていた。  彼はじっと、動かない百葉箱を見つめていた。 「……マコト」 「今、何したの?」  学校の近くを流れる白川疏水。そのほとりのベンチに腰掛け、しのぶちゃんはマコトに一部始終を話した。  ハネは話していいと言っていたし、正直、自分だけで抱え込むのは限界だった。 「はぁ」  すべてを聞き終えたマコトは、そんな気のない返事をした。 「……やっぱり、信じてない?」 「信じてなくはないけど。実際、見たわけだし。しゃべる百葉箱も、あとは神社から送られてきたケータイも」  マコトはしのぶちゃんの携帯をいじる。カメラを起動して、川に向けてみた。肉眼では見えない光球が、画面の中の川にはいくつも浮遊していた。水のあるところには霊が集まるという。さまよえる魂だろう。ためしにシャッターを押してみたが、何の反応もしなかった。しのぶちゃん専用のロックがかかっているようだ。 「ふーん」  マコトはしのぶちゃんに携帯を返した。 「で、ねーちゃん、どうすんの?」 「どうって――わかんないよ」 「でもどっちにしたって、後悔するのはわかってんだろ。そのほのか様って人を封じるにしても、それをやめて自分が生き地獄、死に地獄を味わっても」 「……死んでも地獄に行っちゃうのかな?」 「そりゃまあ、こんな超アイテムもってたりする連中だったら、できるんじゃないの? 魔物がいるってことは地獄もあるかもしれないし」  ずいぶん理解するのが早かった。さすがゲーム世代の最前線。現実の枠に捕われず柔軟な思考だ。 「どっちにしても後悔するなら、後悔が少ないほうを選べってこと?」 「……そうかもしんねーけど。それであきらめられるならな」  コンビニの袋からジャンプを取り、しのぶちゃんに渡してきた。  しのぶちゃんはその意図がわからずジャンプとマコトを交互に見る。 「努力、友情、勝利。ジャンプのマンガのやつらはあきらめなかったからこそ、不可能を可能に、新しい選択肢を作り出して、本当の解決を見つけ出してきたんじゃないか」  第三の選択肢。  ほのか様を封じるか否かだけじゃない。別の、もっと自分も納得できる解決法。それを探せばいい。  しのぶちゃんの中にずっとわだかまっていた何かが溶けた。 「そっか、そうだよね」  その声は知らずに弾んでいた。  具体的には何も解決してないけど、うまくいく気がする。  そんな気がした。           二章  Q・あなたはほのか様をどう思いますか? 一年C組・女子「いやありえないっしょ? 犬とか連れてるし、サマだしさ。ちょっと空気読めって感じ?」  ――あんたのケバい化粧のほうがありえないです! 一年C組・男子「おもしろいし、いいんじゃない? ほら、あの演出とかさ。メイドさんでイリュージョン? 笑っチル。存在そのものがカッコ笑いって感じ?」  ――おもしろいとは何事ですか。うやまうのです、たっとぶのです、あがめたてまつるのです。つーか絶対バカにしてるでしょう? 許さないです!  一年C組・男子「ちょっといい感じじゃね? 髪キレイだし、胸大きいし。ただ、目が小さいのがね。いや俺、二重で目が大きい子が好きだからさ」  ――ほのか様をいやらしい視線で見るなんて言語道断なのです。あとあのオメメがいいんじゃないですか。わかってないです、まったく目が節穴のです。ていうか本人気にしてるんだからそこはタブーなんです!  二年D組・女子「ほのか様? 誰それ?」  ――知っとけ!  円山公園・オス「ポッポッポ、クルックー」  ――むきーっ!  許しませんです許しませんですこれを許さでおくべきかなのです。  こんなことではいけないのです。やつらは魔王をあがめるということを知らぬのです。ほのか様の威光と偉大さを知らしめるためには、このままではすみませんのです。  絶対に、立派な魔王にしてあげるんですから!           *  翌日。  新たな解決法という突破口を見つけて元気が出たしのぶちゃんだったが、朝起きてみたら、やっぱり気が重かった。  そもそも、具体的な案がない。  ほのか様を封じるか否か、以外にどんな選択肢を作ればいいか。それさえもわからないのだ。  あと、学校でほのか様とどんな顔をして会えばいいかわからない。懐にはほのか様を害することができる――というか、ほのか様を害するための道具を持っている。そこで笑顔で話せるほど自分を器用だとは思っていない。 「どうしよ」  結局ろくにご飯も食べないで出てきてしまった。「じゃあお弁当多めに入れておいたから」と、お母さんによくわからない配慮までされて。  あれこれ思い悩みながら、昨日と同じ神宮道を歩いていた。  今朝も寒い。雪はほとんど残っていた。こんなに寒くて、大丈夫だろうか。異常気象とはいうけど、さすがにおかしい。まだ桜も咲いていないし。  ふと、この異常気象もほのか様のせいではないか、と思ってしまった。ほのか様と出会ったのは、大雪が降った朝だ。  また、その日は地震もあったらしいことを思い出した。ちょうどほのか様がこちらにやってきた時間に起きたはずだ。崩落した寺院は、鞍馬寺。魔王尊が奉られているお寺だ。  これがまったくの偶然なのだろうか。  ――って、会うのにどんどん気がめいっていくよ。  大鳥居の横にきたとき、妙なものに気づいた。  国立近代美術館の隅にカマクラがあった。  しのぶちゃんの胸くらいまであり、けっこう大きかった。その中に人影が見える。  ビニールシートを敷き、白い犬と一緒に新聞紙をかぶって寝ている。しのぶちゃんと同じ制服を着ていて、長い髪が特徴的だった。 「……ほのか様」 「ふあ?」  ほのか様は呼ばれて目覚めたようで、起き上がった。頭がカマクラの壁にぶつかり、崩落する。 「――ごきげんよろしゅうございまして? しのぶちゃん」  雪に首だけ出す格好になって、ほのか様が眠そうに言った。あなたのご機嫌のほうは大丈夫か。  もぞりと、崩落したカマクラの中から出てくる。雪を払い、大きく伸びをする。チルも一緒に体を振るい雪を落とした。こちらは眠そうな様子はない。 「案外寝心地いいものですわね。キャンプも悪いものではありませんわ」 「キャンプとは違うと思う……」 「うむん? そういえばキャンプファイヤーがございませんでしたわね」  そこまでやったらすぐ交番のお世話になってしまう。 「って、もしかしてそこで寝てたの?」  しのぶちゃんは思わず尋ねる。驚きで、わだかまりなど吹き飛んでしまったことを気づいていない。 「ええ。それがなにか?」  何でもないようにほのか様が首を傾げた。 「なにかって――どっか泊まれる場所確保してないの?」 「ああ。その辺りはヘル子さんが工面してくれるはずでしたけど、はかどらないようですわねぇ。たまたま雪が降っていましたし、ここはキャンプというものをやってみる好機と思い、実行いたしましたわ。なかなか興味深い体験でした。寒いと眠くなるとはよく聞きますが、本当に寒いと震えるばかりで眠気など起きないのですわね。新たな発見ですわ」 「……そりゃ、寒くて眠くなるってのはもう末期だよ」  得意げに極限状況を話すほのか様を見ていて、しのぶちゃんは自然に笑みが出てきた。半分以上苦笑いだったけど。 「そうそう。しのぶちゃんに見ていただきたいものがあるのです」  ほのか様は大鳥居の根元に走っていった。  そこには大きな雪玉がふたつ並べてあった。玉というには角張りすぎていて、なんだか不恰好だった。 「これは?」 「雪だるま!」 「横に雪玉並べたのでも雪だるまっていうのかな……」 「重くて持ち上げられませんでした。だから、寝ているダルマということにしておきましたわ」  よく見たら、左側の玉には木の枝と石が埋め込まれていて、目と口を形作っている。口の位置が目に対して右側にあるので、たしかに寝ているようにも見える。  けどダルマというのは倒れないから縁起物になるんじゃないんだろうか。思ったけど、いわないでおいた。 「でもどうやら日が出たら溶けてしまうようですわ。せっかく作ったのに、それが残念といえば残念」  ほのか様は太陽を眩しそうに見あげた。さすがにもう四月ということもあり、太陽の光には力がある。この雪もじきに消えてしまうだろう。  いまどきの女子高生なら、記念といって携帯のカメラで手軽に撮影するんだろうな、としのぶちゃんは残念に思ったが、 「あるじゃん!」  とひとりで突っ込んだ。 「アルジャン?」  ほのか様はフランス人男性を呼ぶイントネーションで繰り返した。 「あ、えっと、その……」  少し迷ったが、しのぶちゃんは昨日もらった携帯を取り出す。たしか普通に撮影する機能もあったはずだ。  すぐにカメラを起動する。昨晩のうちにカメラの機能は一通り把握しておいた。いくら流行にうといとはいっても現代っ子、機械の操作の飲み込みは早い。  雪だるまに焦点を合わせて、シャッターを押した。 「あらっ!」  ほのか様は両手を合わせて目を輝かせた――とは言っても、目が細くて瞳は見えないけど。きっとまぶたの下の目は輝いているだろう。とにかくあふれんばかりの笑顔だ。  ほのか様にさっき撮った画像を見せた。 「すごい! さすがですわ、しのぶちゃん」 「何がさすがなのかよくわからないけど」 「もっと撮ってくださいましな」  せかされるまま、何枚か撮った。  ふと、しのぶちゃんは気づいた。ボディガードだというチルも、カマクラの残骸の上に座って、雪だるまをいろいろ加工する主を見守っているだけだ。  今なら、「ほのか様も撮ってあげるよー」とか言って簡単にほのか様を封印できるよなぁ。 「次はわたくしを撮ってくださいません?」 「えっ!」  さすがに動揺した。 「いや、まあ、それは――」  普通の撮影モードなら大丈夫かもしれないけど、もしなんかの間違いで封印しちゃったら……。そう思うと、とても撮ることなんてできなかった。 「さあ、はやくはやく」  ほのか様はしのぶちゃんの思いなど気づくはずもなく、ポーズをとっている。なんで歌舞伎の大見得なのかと突っ込む余裕もなく、しのぶちゃんは辺りを見回した。  ふと、チルと目があう。ピンと伸ばした耳。さっきまでは伏せていたような―― 「ちょっと、しのぶちゃん?」 「あ。えっと……ああぁ、猫だ!」  ほのか様と反対側に猫がやってきていた。それを撮影。猫に夢中なふりをして何度も撮った。よく見たら、昨日ほのか様が追いかけていた猫だ。 「そういえば、お腹すきましたわ」  きゅー、とほのか様のお腹が鳴る。  猫を見て食欲を思い出すのもどうかと思うが。そんなことはおいといて、しのぶちゃんは話を完璧にカメラとは別のほうへ流せた。 「お弁当あるよ!」  それでなんとかごまかせた。  ほのか様は嬉しそうにお弁当に箸を進めた。  相当お腹がすいていたのか、あっという間にたいらげてしまう。 「魔王って、なに?」  一息ついた辺りで、しのぶちゃんが尋ねた。  第三の選択肢を探るために、まずは魔王について知らなければならないと思ったのだ。ハネに聞いてもよかったかもしれないが、こういうのは両方から意見を聞いたほうがいい、と思っていた。例えば幕末を語る場合、佐幕派と倒幕派、両方から語られたものを読まないと本当のところはわからないように。新選組好きだといっても、龍馬が主人公の話も読んでおいたほうがいいのだ。おかげでしのぶちゃんは土方歳三も坂本龍馬も好きだった。 「魔王、ですか」  ほのか様は少し表情を曇らせた。 「それを聞いてどうするのですか?」 「いや、もしかして世界征服をたくらんでたりするのかなー、とか思って」  わざとおどけた調子で尋ねた。  ほのか様はため息混じりに笑った。 「実はわたくしも、魔王というのがなんなのか、よくわかってないのです」 「え?」 「たしかに魔界のお城に住んで、多くの魔物たちにかしずかれておりました。けどわたくしは、これといって何もしてませんでしたわ。王、といっても国を持っているわけでもありませんし。むしろ象徴に近かったのかも」 「じゃあ、なんでこっちきたの?」  少し、間があった。 「夢、でしたの」 「夢?」 「普通の人間のように、制服を着て学校に通ってみんなと勉強をして。誰にもかしずかれることもなく、普通の生活をしたい。けど、うまくいかないものね。早速しのぶちゃんにはばれてしまいましたわ」  寂しそうな笑みを浮かべていた。  すべてをあきらめきっている。 「だ、大丈夫だよ」  自然と口から言葉が漏れていた。 「ぜんぜん、ほのか様が魔王だとか、気にしてないし!」  ほのか様はぽかん、とした。ぼんやりとしのぶちゃんを見つめ、だらしなく口を開いている。 「そう、なの?」 「う、うん」  嘘じゃない。  ほのか様を封じるとかなんとか悩んでいるけど、それとこれとは別だ。  ほのか様が魔王だからといって、それだけで嫌いになったりはしない。もし「魔王を封印しろ」とか言われてなければ、普通に話せていた――かは彼女のハイテンションを見ている限り自信はないけど、魔王ということには気にしなかったと思う。そもそもいまだにこの子が魔王だという実感がわかないというのもあるけど。 「でも、それじゃほのか様が悪さをしてるとか、そういうことは全然ないんだよね?」 「わたくしが悪さを? なぜ?」 「なぜって……魔王だから?」 「なにを言っているか、よくわかりませんわ」  しのぶちゃんもなんだかわからなくなってきた。  魔王だから悪さをするのか。  悪さをするから魔王なのか。  そもそもハネはなぜ彼女を封じろと言っていたのだろう。魔王だからというよりも、敵対勢力のトップだからだ。  なら、実は第三の選択肢は簡単なことじゃないだろうか。  ほのか様は、何もしないというのだ。ただ普通の生活を望むだけ。それをハネに教えれば、すべて解決してしまうのではないだろうか。 「ほーのか様ぁ―っ!」  甲高くも甘ったるい声が聞こえる。 「うわっ」  しのぶちゃんが声をあげる。座っているベンチの下からヘル子さんが這い出てきた。 「な、なんですか! ほのか様の横に座るだけじゃ飽き足らず、ヘル子を上から見下すなんて、とんでもないやつです!」  ヘル子さんが顔を真っ赤にして怒った。  そもそも、いまさらながら気づいた。ほのか様が魔王なら、ヘル子さんは魔物なのだろうか。あと、チルも。 「それよりほのか様、見てください! 自動販売機とかの下に落ちてたお金を拾い集めてみたですよ! 一晩でけっこう集まりました! これなら誰も損してないし大丈夫ですよ!」  得意満面で、小銭の入った皮袋を見せた。けっこうずっしり入っている。 「あら。たしかに。これならすき焼きも夢ではなくてよ」  ほのか様のお腹がきゅーっと鳴った。今食べたばっかりなのに。 「早速両替してまいりましょう」  ほのか様はベンチから立ち上がり、橋の向こうコンビニに走り出した。昨日、ほのか様と出会った場所だ。 「ほのか様、走ると転ぶよ」  二日目の雪はところどころ凍ったりしてアイスバーンになってたりする。 「だ――」  大丈夫、と言おうとしたのだろう。が、そのそばから足を滑らす。すぐにバランスは立て直せたが、お金の入った袋を放り投げてしまった。 「あっ」  慌ててそれをキャッチする。  が――。  キャッチしたのは橋の欄干の上だった。川のほうに身を乗り出す形になる。 「危ない!」  しのぶちゃんが叫ぶと同時に、ほのか様は欄干の外に落ちていった。  その瞬間、ふたつのことが起こった。  ばちん、という金属が引きちぎれる音とともに、チルが消える。雪が巻き上がり、宙で花びらに変化した。いきなり現れた花弁に疑問を挟む余地もなく、しのぶちゃんは暴風に吹き去らされた。  その横で、ヘル子さんが自分の影に落ちていった。そこに穴が開いていたかのようにあっという間に消える。彼女の姿がなくなると、影も消えた。穴なんか開いてなかった。  甲高い電子音がしのぶちゃんのポケットから響き渡った。初めて聞く音。警報みたいだ。  が、爆音と盛大な水しぶきが、その音を打ち消す。  ちょうどほのか様が落ちた場所から、真っ白い巨大な水柱が上がった。橋の半分以上は水に飲み込まれ、しのぶちゃんのところには雨のように飛沫が落ちてくる。  しのぶちゃんは、見た。  膨大な水飛沫の中から、深緑のシルエットが飛び出すのを。  両の翼には赤い日の丸。  が、まさかと思う。そもそもそっちの知識はうろ覚えだし、いきなりあんなところから飛立つのもわけがわからない。  それでも、主観的感想とするのなら。さっきのは、零式艦上戦闘機――通称ゼロ戦の機影、に見えたのだ。第二次戦争中の日本軍の戦闘機だ  その影はもう東山のほうへと飛んでいき、小さくなって消えてしまった。  ピーピー、というずっと鳴っていた警報に、ようやく意識が戻る。  警報を鳴らしつづけていた携帯を開いた。 「うそっ」  魔力値――魔物が活動すれば高まり、より魔物の存在力を強める数値。  それが百万を越えていた。  ただし、今は加速度的に落ちている。目の前では、飛沫によって生まれた霧がだんだん晴れていっているように。           * 『百万といえば魔物が依代なしでも実体化を可能とできるほどの数値だ』  学校についてから、ハネに連絡をした。  教室の誰もいないベランダで、しのぶちゃんは自分の見たことを話した。 『恐らく、そのとき何かを使ったのだろう。魔王に付き従っている二体は《死》と《破壊》だ。  チルと呼ばれているのは、《三重に縛られし神喰狼》。異国の伝承では主神《絞首台の主》を食らうほどの力を持った破壊の権化。  ヘル子と呼ばれているものは、万能型魔導具に、同じ伝承にある冥府の女帝《蒼ざめた影》の化身を宿したものだ。死を司り、影から影へと渡り、死者を支配し、死したモノを呼び出す力を持つ。ゼロ戦も、とっさに彼女が呼び出したものだろう。実戦から退いた――兵器としての死を迎えたものだからな』  ファンタジーだった。  ただ、もうしのぶちゃんは動じない。 「じゃあ、ほのか様の力はなんなんですか?」 『魔王はすべての魔物を従えることができる。現在確認できる力はそれのみだ』 「なら、ほのか様自身が何もしないのなら、問題はないんじゃないですか? 彼女は言っていました。ただ普通の生活がしたい、と」 『だから放っておけ、と? それは無理だな。第一、その魔王の言葉を信じられる根拠がない』  ハネは断じた。 『事実、魔王がこちらにきてから魔力値は上昇の一途をたどっている。先ほどので、京都全体の指数が三千ほど底上げされた。魔力値がたまれば災害などを引き起こす可能性が大きくなる』 「じゃあ、指数を上げなきゃ、大丈夫なんですね」 『そういうことでは――』  ベランダのドアが開く。人が出てきた。しのぶちゃんは通話を切った。  出てきたのは、三人の女子だった。笑いながらしのぶちゃんに声をかけてきた。関西のイントネーションで。 「百合原さん、やよね。電話誰と? カレシとか?」 「え? う、ううん。そんなんじゃないですけど」  いきなり声をかけられて、しのぶちゃんは正直びびった。髪を染めて化粧をしてスカートの丈を短くして――そんな女の子との交流はほとんどなかったからだ。 「そのケータイ、見たことない機種やけど、どこの?」 「え? えと……もらいものだから、よくわかんなくて」 「そうなんや。よかったらウチらとアド交換せへん?」  しのぶちゃんは心の中で歓声をあげた。  まさか携帯を持ち出した次の日からこんな展開になるなんて。昨日、アドレス交換方法を何度も練習しておいてよかった。  赤外線でのアドレス交換機能を立ち上げようとするが。 「にしても、百合原さんも災難やったなぁ。あんなんに付きまとわれて」 「あ、あんなん?」 「せや。サマやサマ。なんや勘違いしとるみたいやけど、ウザいっちゅうねん。そう思わん?」  すっと、お腹の中が急に冷えた感じがした。 「せやから、うちらでちょっと思い知らせたろ思うんやけどな。百合原さんもウザい思ったらそう言わなあかんよ?」  例えば、人に向けてカメラを撮ったら、その人の悪意は封印できるんだろうか。  そんなことを思いながら、携帯を閉じて制服のポケットにしまった。 「ごめん。電池が切れたみたい」  嘘をつく。  彼女たちが何か言う前に、教室に戻っていった。  乱暴に席につく。  誰もかれも、ほのか様を悪くいう。本人はただ、普通の生活を望むだけで、誰に迷惑をかけたいというわけでもない。少し自分に正直すぎて、わがままになっているだけで。  もちろん、わがままがすぎるのはどうかと思う。  だからっていじめたり、封印したりするなんてのはおかしい。  なんだか、悔しかった。 「おはようございます、しのぶちゃん」  ほのか様がやってきた。 「今日二度目のご挨拶ですわね」 「ほのか様……」 「ヘル子さんったら、琵琶湖のほうまで飛ばしてしまいまして。危うく遅刻するところでしたわ。まったく、困った子ですわよね」  ふふ、と笑いながらほのか様はしのぶちゃんの隣りの席に座る。  実に平和そうだった。           *  昼休み、ほのか様を体育館の裏に呼び出した。  そこには設置されなおした百葉箱があった。無論、もう動かない。 「なんですの、しのぶちゃん。わたくし、お腹がすいて倒れそうですの」 「ちょっと、話があるんだ」  しのぶちゃんはほのか様の後ろにいるチルを少し気にしながら、言った。 「ほのか様。ヘル子さんやチルに、魔物の力を使わせるの、やめさせてもらえないかな?」  ほのか様は首をかしげた。 「なぜですの?」 「人に迷惑がかかると思うから……」  さすがに、神霊から目をつけられているから、とは言えなかった。 「例えば、ヘル子さんがクラスの人をどこかに消してしまったのは、知ってる? ほのか様の席を確保するのに、私の横の人を」  他にも何人か消えてしまったということを聞いているが、一応、しのぶちゃんは自分で見たことだけで話した。  ほのか様は首を振った。本当に気づいていなかったらしい。 「でもそれは、ヘル子さんがわたくしのためにしてくれたことでしょう? ならなぜ止める必要があるのです?」 「え?」  しのぶちゃんは、一瞬返す言葉をなくしてしまった。 「だ、だって、言ってみればほのか様のせいで人がひとりいなくなっちゃったんだよ?」 「まあ、そうですわね。けど、なぜそれがいけないのでしょう?」  しのぶちゃんは、愕然とした。  彼女は、王なのだ。  自分の都合で人に迷惑をかけてはいけない。そんな当たり前のルールさえ、適用されない存在なのだ。  その当たり前のことを、当たり前だと思わない人に、どうやって伝えればいいのか。  しのぶちゃんはわからなかった。 「そ、そしたら、例えば神様とかに目をつけられることになるんじゃないかな。魔王、ということで」 「ああ、なるほど。それはありますわね」  苦し紛れに言ったことだが、意外にもすんなり納得してくれた。自分の不利益に繋がる、ということなら理解するのだろうか。 「けど、わたくしからヘル子さんやチルに命じることはいたしません」  きっぱりと、ほのか様が言い切った。 「なんで? だって、言えばやめてくれるんでしょう?」 「言えば、やめざるをえないのです。わたくしが命じれば、魔物であらばそれに従わねばならない。そんなのは嫌なのです」  命じれば従う。絶対強制力。  であれば、その言葉は重くならざるをえない。特に否定の言葉ならばなおさらだ。 「わたくしは、誰にも命じません」 「それが、王であるための義務?」  ほのか様はほほ笑んだ。  なぜかそれが、泣きそうな顔に見えた。 「逆、かもしれませんわね」  逆? 「逆って?」 「言えませんわ」  ほのか様は答えなかった。 「それは、許されないことですから」  明確な意志を感じた。これ以上は何も聞き出せないだろう。 「ほのか様がそう言ってくれれば、ほのか様が望む普通の生活が手に入るとしても、命じないんだね」 「そうですわね。命じないことでダメになってしまうのなら、しかたありませんわ」  ダメになってしまう。すんなりと彼女の口から出てきたのが、意外だった。  ほのか様は、実はすべて知っているのではないか。魔王である自分が人間の世界で普通に暮らすことがどれだけ難しいか。もしかしたら、自分が狙われていることまで。  それなのに。  どうして、彼女は危険を押してまで、実現できないのをわかっていながら、こちらにきたのだろう。  それを尋ねる前に、しのぶちゃんの携帯が鳴った。 「あ、ごめん」  ほのか様に断わってから電話に出る。相手はハネだった。 『今すぐ三階のいちばん東の女子トイレに迎え。《蒼ざめた影》がいる』 「え? ヘル――」  ヘル子さん、と言いかけて止めた。目の前にほのか様がいるのだ。 「ごめん、ほのか様。私、行かなきゃ」 「ええ。また午後の授業でお会いいたしましょう」  しのぶちゃんは走り去ろうとする。が、ふと気になって、振り返った。  チルは最初から最後まで、ずっと同じ調子で座っていた。 「その子、私が力を封じさせろとか言っても、全然気にしてないんだね」  これがヘル子さんなら顔を真っ赤にして怒りそうなところなのに、チルはまるで普通の犬のようだった。あるいは、人間の言葉もわからないのかもしれない。 「ああ、チル?」  ほのか様はチルの頭をなでる。自慢のペットを紹介するように、言った。 「優れた猟犬というのは、必要なとき以外は吠えないものですのよ」 『《蒼ざめた影》は今朝がた君に話しかけた女学生を狙っている』  向かっている最中に、ハネが言った。 『彼女らの悪意に気づき、報復に出るらしい』 「なんで、そんな、こと」  荒げた息でしのぶちゃんは聞き返した。もともと運動は得意なほうじゃない――というかぶっちゃけ嫌いだった。自転車も乗れないほどだし。 『我々は独自の情報網がある。その程度のことは把握している』 「じゃなくて、なんで、教えてくれ、るんですか?」 『君が嫌がると思ったからだ。封印するべき相手に情をかけるくらいだ。自分に話しかけてきた人間が傷つくのは困るだろう』  知ってたのか。第三の選択肢を探っていることを。  考えてみれば当たり前かもしれないが。本当に封印しようと思うなら、とっくにできている。それができていないということは、その意志がないということだ。  しかし、それでも勝手を黙認してくれていたことに、しのぶちゃんは安堵を感じる。ハネは、思っていたよりもいい人なのかもしれない。 「あり……う……ざいます」  三階まで階段を一気に駆け上がり、息も絶え絶えになる。そのまま礼を言ったものだから、ろくに言葉にならなかった。 『その言葉は取っておけ。君が思っているような優しい意図はない』 「それでも、私がそう思ったんだから、言っておきます」  一番東のトイレは、階段を上がってすぐだった。  開こうとして、ドアが開かないことに気づく。押しても引いてもびくともしない。鍵の閉まりかたとは違った。ドアが溶接されているんじゃないかと思うほど、ぴくりとも動かない。 『トツカで見ろ』  言われたとおり、携帯のカメラを起動する。通常のカメラではわからなかったが、封印モードに切り替えると、ドアが黒いモヤで覆われているように見える。 『魔力で封印されている。シャッターを切るんだ』  言われたとおり、撮影する。  ドアを押すと、さっきまではびくともしなかったのが簡単に開いた。  中には、ヘル子さんがこちらに背を向ける形で立っていた。  その向こう側には、女子が三人、床に崩れ落ちて、身を寄せ合うようにしている。 「ゆ、百合原さん!」  ほとんど悲鳴に近い声で、ひとりが叫んだ。  ヘル子さんがこちらを向く。  手には、ボウリングの球のような黒い球体のものを持っていた。一箇所から、荒縄がちょろっと出ている。ギャグマンガにしか出てこないくらいシンプルなデザインで逆に自信がなくなるが、しのぶちゃんにはの爆弾に見えた。  ヘル子さんは少し驚いたようだった。 「百合原しのぶ! どうやって扉を!」  とっさに、しのぶちゃんは携帯を構える。  が、一瞬、壊れたのかと思った。  画面の中、ヘル子さんからは青いモヤがかかっているのがわかった。が、爆弾を中心に、ドブに浮かび上がった油のような極彩色のモヤが広がっていて、画面の半分近くが見えなくなっている。 「な、なにあれ」  ヘル子さんは手にした爆弾を掲げて、自慢げに笑った。 「ふふん、どうやらこれの恐ろしさに気づいたようですねっ? でももう遅いです! ほのか様を恐ろしさを知らないやつは、この《ニドヘッグ》の悪夢で身をもって知ればいいんです!」  ニドヘッグ。聞いたことがある。ゲームにそんな名前の邪龍が出てきた。終盤のボスだった。毒の息がものすごく厄介だった。 『ニドヘッグ! 邪竜の魔物を濃縮した神殺しの兵器だ!』  ハネが叫んだ。 『封じろ! 今ならまだ間に合う!』 「でも――」  彼女はほのか様のためを思ってやっているんだ。行動は間違っていても、その気持ちは間違ってはいないと思う。ヘル子さんは悪い人じゃない。それを封じるのは、やっぱりためらわれた。  ――そっか。  ほのか様のためにしているんだ。なら、それを使えばいい。 「ヘル子さん。そんなことして、本当にほのか様が喜ぶと思うんですか?」 「むみゅ?」  意外な問いだったらしい。ヘル子さんはかわいい生返事をした。 「ほのか様は、普通の人間としての生活を望んでいるんです。だから、こんなことをしても、ほのか様は悲しむだけですよ」 「ほのか様がそんなことを――」  ヘル子さんはうつむき、小さくつぶやいた。  その手から、ニドヘッグがこぼれ落ちる。がこん、と重い音を立てて地面に落ちた。その瞬間しのぶちゃんは肝を冷やすが、爆発はしなかった。 「ほのか様が――」  ヘル子さんが顔を上げた。 「そんなことを言うはずがないです!」  涙をにじませて怒っていた。 「ほのか様は立派な魔王におなりになるのです! 昨日今日お声をかけていただいただけの人間が、知ったようなことを語るなです! もうトサカにきたです! 百合原しのぶ、お前はヘル子じきじきに折檻してやるです!」  個室のドアが開いた。 「ゆくのです、生ける屍ども! あの泥棒猫をこらしめるです」  そこから、白目を剥いたメイドさんが出てきた。ロリータな黒いドレスを身にまとい、頭には白いメイドカチューシャ。両手を前に突き出し「うあぁぁ」と低くうなりながら、しのぶちゃんのほうに向かってくる。 「え!」  よく見ると、それは初日に隣りに座っていて、ヘル子さんのスカートの中に消えた飯尾くんだった。  慌ててトイレを出てドアを閉める。その瞬間、飯尾くんの腕がドアを突き破ってきた。 「うわっ」  ドアから突き出た腕は獲物を求めて虚空を掻く。「うぉぉぉ」といううめき声がドア越しに聞こえてきた。ついでに「なんでそこに突っ込むですか! ヘル子が出れないです!」とわめく声も聞こえた。  しのぶちゃんはその場を走り去る。 「な、なにあれ!」 『動く死体――君たちの世界でいうゾンビだな。もとは異国のブードゥーという呪術で――』 「じゃなくて、なんでメイド服着てるんですか!」 『冥土服だからゾンビなのだろう』  口語で聞いたら全然わからないことをハネが言った。数秒たって、その意味を知る。メイドと冥土をかけているのだ。 「ダジャレ?」 『言葉には力が宿る。連なればその力も大きくなる。なめるな。重ねた言葉は強いぞ』  そんなことを言われても……。 『それより、《蒼ざめた影》だ。先刻説明したが、異国の伝承に伝わる冥王だ。死したモノを現世に呼び寄せることができる。ちなみにやつの依代は万能型自動魔導具』 「その万能ナントカって?」 『炊事、掃除、洗濯――家事ならば何でもこなせる魔法仕掛けの自動人形、という意味だ』  冥土産――つまりメイドイン冥土のメイドロボということか。 「……………」  しのぶちゃんは脱力で突っ込む気力もなくなる。  今すぐ携帯を床に叩き付けたい衝動だけが残ったが、それは理性が押しとどめる。どんな冗談みたな状況だとしても、今そこに危機があることはたしかなのだ。 「うおぉぉぉ」  水道の下や、ロッカーの中から次々にゾンビが出てくる。 『とにかく建物の外に出ろ。敵は影の中を伝ってくる。影が多い場所では敵が有利だ』 「は、はい」  といいつつも階段を降りている最中だ。  が、前から新たなメイドがやってくる。 「こ、校長先生?」  薄くなった頭にメイドカチューシャ、中年太りのお腹がメイド服から出ている。ゾンビとかとは別の意味で身の毛がよだつ風貌は、昨日目にしたときのままだ。 『ゾンビが腐った死体だというのは実は偏見だ。本来、ゾンビパウダーという粉を使用し、生きたものをそのまま操り、奴隷として労働をかさせたものを言う。そういう意味では、メイド服を着せることで操るという《蒼ざめた影》の力はゾンビの原点とも言えるな』 「知りませんよ!」  しのぶちゃんは迫ってくる校長ゾンビに携帯カメラを向ける。  画面の中には、青いモヤに包まれた校長の姿が映っていた。  が、やはりためらう。いくら見た目が気持ち悪くても、封印してしまったらば後味も悪い。 『案ずるな。トツカは異界のものを封印する。消えるのはメイド服だけだ』  ハネの言葉に後押しされ、眼前に迫った校長に向かってシャッターを押す。  が。 「うそ」  校長のメイド服は消えなかった。何事もなかったかのように、校長はしのぶちゃんに腕を伸ばしてくる。 「ひっ――」  校長の顔が間近に迫る。うつろに開かれた口から粘り気の多いよだれが二重あごに飛び散っている。  変態的に壮絶な絵だ。  ところで、しのぶちゃんが変態と遭遇するのはこれで二度目となる。セカンドインパクト・バイ・ヘンタイ。 「えいっ」  経験は人を育てる。  しのぶちゃんは硬直することなく、変態に対する適切な応対を炸裂させた。 「――うごぉぉぉ」  低いうめき声をあげて、校長は小刻みに震えてその場に崩れ落ちる。股間を両手で押さえながら。 「……すいません」  その横をすり抜けて、しのぶちゃんは階段を駆け下りる。 「どういうことですか、なんで消せなかったんですか!」  下駄箱で靴に履き替えながら、しのぶちゃんはマイクに文句を叩きつけた。 『そうか。属性が違う。今、トツカは対魔属性になっている。それを対死属性に変えねばならない』  属性。これまたRPGではおなじみの要素だった。火と水のように、相反する属性を相手にぶつければ大ダメージになる。 『死の対になる属性を撮影して、カメラ機能に組み込むのだ』  そういえば、そういう項目が昨日取り説を読んでいて書いてあった気がする。そのときは関係ないと思って忘れていた。  問題は、死と対の属性だ。 「死ってことは、生ですよね?」 『不老長寿や不死をモチーフにしたものを探せ。例えば京都なら――七福神の寿老人を奉った革堂行願寺か。京都御苑から少し下がったところだ』 「遠いよっ」  自転車でも十、二十分はかかる。  そんなことを言ってるうちに、校庭に出る。  とりあえず一安心、と思ったが。 「まさか日の下に出たら大丈夫だなんて思ってないですよね!」  ヘル子さんの声が高らかに響いた。  校舎を見あげると、屋上にスカートを風になびかせたヘル子さんが立っていた。手に何か持っている。 「が、ガトリング砲?」  六本の砲身を円状に並べた機関砲だ。回転用のハンドルもついている。アメリカの南北戦争時代に使われた、今となっては骨董品だ。  一般には使われなくなった――死した武器。  しかし体ひとつしかないしのぶちゃんにとっては、ほとんど致命的な兵器だった。 「覚悟するですよ!」  片手で重量感あふれる本体を支え、もう片手でハンドルを回す。砲身が回転し、銃声とともに次々と弾丸を吐き出してきた。 「うっ」  しのぶちゃんは校舎に戻ろうとするが、そっちは追いかけてきたメイドゾンビがいた。増えてる。ドアを腕にはめたままの飯尾くんに、股を押さえた校長。さっきヘル子さんに襲われていた三人の女子もいた。  しのぶちゃんは横に走る。幸い、命中精度は低いのか、弾丸はしのぶちゃんの体をそれて地面に突き刺さった。  土煙を上げて地面にめり込んだものを見て、しのぶちゃんは驚く。  メイドさんのトレードマーク、メイドカチューシャだった。当たってもそこそこに痛そうだが、怪我とかはしなさそうだ。 「ぎゃ」  流れ弾が、遠くを歩いていた男子に当たる。  飛来したメイドカチューシャが頭にはまった。  装着された瞬間、彼の体は虹色の光に包まれる。一瞬にして広がった光は、また一瞬にして収束する。  再び現れた彼は、立派なメイドさんになっていた。 「うぉあぁぁぁ……」  低いうめき声を出して、しのぶちゃんのほうに向かってきた。  どうやら、あのメイドカチューシャを受けろと、同じようにメイドゾンビになってしまうらしい。  しのぶちゃんは想像する。自分がメイドゾンビになってしまった姿を。メイドコスをして白目を剥いてよだれを垂らしながら夜な夜な墓場をうろついていたりする。  ――いやだ!  強い意志が限界に近かった体に活を入れた。しのぶちゃんは校門のほうに向かって走りだす。 「あ、待つです!」  ヘル子さんも掃射するが、距離が離れすぎていてろくに狙えていない。流れ弾でただいたずらにメイド人口を増やしていくばかりだ。  そのメイドたちに追われて、しのぶちゃんはなんとか校門にたどり着く。 「ちょっとハネさん! なんとかならないんですか!」 『とにかく、長寿のモチーフを探すのだ。例えば、亀や鶴はもっとも知られた長寿の動物だ』 「亀も鶴もその辺にいたら苦労しませ――」  言いかけて、考えた。  普段見かけない動物はどこにいるか。 「京都市動物園!」  それなら平安神宮の南東にあった。なんとか走っても行ける距離である。体力に不安が残るが、京都御苑まで行くのに比べれば近所みたいなものだ。  しのぶちゃんは神宮道を北に目指す。  と。学校を出たところで、タクシーが何台か停まっているのに気づいた。観光の街京都。観光名所付近なら、必ずタクシーが停まっている。ここは知恩院や八坂神社も近いので、常に何台かは停まっているのだ。  学生の身分ゆえに普段は視界にすら入らなかった。だが今は非常時。多少の出費はこらえて、足を確保したほうがいいのではないか。  しのぶちゃんがタクシーに近づくと、ドアが開いた。そのまま、中に乗り込む。  タクシーの乗り方なんてぶっちゃけわからなかったが、今は遠慮してる場合じゃない。 「すいません、出してください」  尋ねながら、財布の中身を確認した。最近お金はマンガにくらいしか使っていないから、なんとか足りそうだった。 「どこまで?」 「動物園まで……って、急ぎでお願いします」  タクシーは動かない。それどころか、運転手は微動だにしていない。開いた窓から吹き込んでくる風だけが動いていた。 「そんなに慌てて、どうかしましたか」 「その、追いかけられてまして……」  じゃら――  しのぶちゃんの言葉が、止まる。  足元にガラスが散らばっていた。  何のガラスか――わかった。運転手側の窓が開いていると、最初は思った。けど違う。破れていた。粉々に砕けていたのだ。破片は、内側に散らばっている。外から割られたのだ。  何かが飛んできて。  ドアのロックが閉まった。 「もしかして、追いかけてるのは、こんなのですか?」  振り返った運転手の頭には、メイドカチューシャ。 「やああ!」  ドアを開けようとするが、動かない。  ドアの外に他のメイドたちが集まってくるのが見えた。 「うそ」  逃げ場がない。  十を越える人数のメイドゾンビが迫ってくる。  もうダメだ。  そう思ったとき、視界の隅にジャンプが見えた。運転手が読んでいたものだろう。無造作に、ボードの上においてあった。  ――勝利を呼び込むのは、あきらめない心から。  しのぶちゃんは携帯を開く。長寿にまつわるものを撮影してカメラに組み込まないと、生き残れない。  だけどもうここで行き止まり。どこにもいけない。  ないないばかり。  でも、まだひとつだけ希望があった。  しのぶちゃんは写真のフォルダを開く。過去に撮った写真を保存してある場所だ。  この中に、何かないか。  ためし取りした自分の部屋の写真。  マコトが撮った夜の川の写真。  ほのか様の作った雪だるま。  ごまかして撮ったたくさんの猫。  ダメだ。  ダルマが縁起物だった気がしたが、その意味は不退転。七転び八起き。今のしのぶちゃんのことだが、求めているものではない。むしろ魔王が作ったものなら縁起が悪いかもいれないし。  ふと、猫の写真に目が止まった。  橋の欄干の上から飛び降りるシーンだ。猫はどれだけ高いところから落ちても、抜群のバランス感覚でちゃんと足から着地する。  それを見た古代の人は、こう言った。  ――猫に九生あり。  チルは三階の女子トイレに足を踏み入れた。  ドアが、いくつかの木片だけを残してなくなっている。  中は一見すると普通だが、チルは魔力の残滓が濃く漂っていることを察知していた。  その中心に、ニドヘッグが落ちていた。  チルはそれをくわえ、大きくあごを開き、飲み込む。  彼の頭より大きな球はすんなり入ってしまった。  チルはそのまま進み、窓によりかかる。器用に前足で鍵を開け、鼻先で戸を引いて、窓を開けた。  そこから校門前の出来事が見渡せた。  停車しているタクシーに何人かのメイドが群がっている。ドアを叩いていた。窓を破って侵入しようとしているようだ。  その中のひとりが、学生服に戻った。  それを皮切りに、タクシーに詰め寄っていたメイドたちが、どんどん元の格好に戻っていく。戻った人たちは意識を失っているのか、その場に倒れたまま動かなかった。  やがてタクシーから女子生徒が出てきた。まだ無事なメイドたちが彼女を追いかけるが、手が届きそうな距離に入ると、女子生徒が振り返り、手に握った道具をかざした。  その瞬間、メイド服が消えてなくなる。  ゾンビだった人たちが意識を失い、倒れていった。  チルは、窓から体を離した。  ヘル子の能力は現象こそふざけているが、魔術としての強固さは一級品だ。被術者は一種の仮死状態に陥り、それを蘇生するのは死体蘇生と同じくらいの技量が必要だ。それがあんな簡単に解呪されてしまった。  単純に、それだけあの娘が強い力を有しているということだ。  チルは、即行動に移す。  優れた猟犬は、何も言わない。  タクシーから抜け出し、しのぶちゃんはすぐさま走り出した。 『よく気づいたな』  ハネの声に答える間もなく、後ろを振り返り携帯を向ける。すぐ後ろに別のメイドゾンビが迫っていたのだ。  カシャ。  緊迫感とはかけ離れたシャッター音とともに、メイドゾンビのメイド服が消えた。メイドゾンビは普通の学生に戻り、意識を失ったまま地面に倒れた。  しのぶちゃんは、自分の心拍が高まるのを感じた。  まさに起死回生。次々とメイドゾンビを普通の人間に戻していく。  猫に九生あり――つまり猫は長寿の象徴でもあった。しかも黒猫。黒い猫が不吉だというのはキリスト教の思想で、わが国日本では縁起がいいものとして考えられているのだ。ビバ島国。  一瞬だけ、しのぶちゃんの上に影が差した。  とっさに空に携帯を向ける。  シャッターを切る。  上空から落下してくるヘル子さんだった。シャッターで、飛来する弾丸とその右手のガトリング砲が塵になって消える。砲の影になるように落ちていたので、ヘル子さんそのものは無事だった。 「この――」  ヘル子さんは着地と同時にスカートを翻し、手を中に入れた。 「動かないでください!」  その眼前に、しのぶちゃんは携帯を構えた。  ヘル子さんは静止する。スカートの中から、西部劇でしか見たことがない大型拳銃が、手に捉えられることなく地面に転がり落ちた。 「……思ったより、やるじゃないですか」  ヘル子さんがしのぶちゃんをにらみ付けながら言った。  その状態のまま、しのぶちゃんはマイクに向かって尋ねる。 「ハネさん、一回封印した魔物って、もとに戻せますか?」 『無理だな。封じた魔物は自動的に我々のもとに送信され、処理する』 「そうですか……」  しのぶちゃんは、大きく息を吐いた。ヘル子さんをこの場だけ封印しておく、という考えは、消えた。逃げ道はない。覚悟を決める。勝負する覚悟を。 「ヘル子さん」  携帯を構えた。 「話があります」  ヘル子さんが唇を噛むのが見えた。 「……話すがいいです」  ようやく、まともに話に応じてもらえた。  しのぶちゃんは皮肉に思う。銃口を突きつけないと、話もちゃんと聞いてもらえないのだ。  しかし考えてみれば、自分もほのか様が魔王であることに対して真剣に考え始めたのは、自分への危機感がきっかけだった。 「こんなことはやめてください。こんなことを続けても、ほのか様がどんどん立場を悪くするばかりじゃないですか」 「それでも――やらなきゃいけないんです。ほのか様は、立派な魔王にならなきゃいけないんです」 「どうして、ですか」  ヘル子さんは答えない。  かわりに、その目に力が宿った。 「そうです。そうだったのです。たとえヘル子の身が滅んだとしても、ほのか様のためならば、ヘル子は本望なのです!」 「う、動かな――」  その瞬間、しのぶちゃんは固まる。  アラームが鳴った。画面には、赤く染まった電池の記号が大きく表示される。  電池切れ。 「うそ――」  思わず出たその一言で、ヘル子さんが動いた。  身をかがめ、地面に落ちていた拳銃を拾う。同時にしのぶちゃんの足を蹴りつけて払った。  すっ転ぶしのぶちゃん。起き上がろうとしたその眉間に、ヘル子さんが銃口を突きつけた。  二秒前と構図が逆転する。  ヘル子さんの顔が凶悪に歪む。まさに冥府の長たるものの凶悪さ。 「メイドとして教育しなおしてやるです」  撃鉄が引かれ、引き金にかかった指に力が込められる。  その瞬間――。 「ヘル子さん!」  しのぶちゃんの後ろを見やる。  騒ぎに集まった生徒が何人か集まっていたが、その中から近寄ってくる女子生徒がいた。  ほのか様だ。 「これは、ほのか様……」  ヘル子さんは笑みを浮かべた。 「見ててください。今、ほのか様を陥れんと企てていた首謀者を成敗して――」  パン。  ほのか様がヘル子さんの頬を打っていた。ヘル子さんの頭からメイドカチューシャが外れて飛んだ。 「な――」  ヘル子さんは目を丸くして、ほのか様を見やった。  ほのか様は全身を震わせて言った。 「なぜこんなことを!」 「だって、こいつがほのか様のことを――」 「わたくしは、魔王なんかになりたくないのです!」  ヘル子さんの手から拳銃がこぼれ落ちた。 「な、なにをおっしゃっているんですか? だってヘル子は、ほのか様のために」 「知りません! もうわたくしの前に姿を見せないで!」  そう言って、ほのか様はきびすを返す。  野次馬を押しのけ、学校にも戻らず、立ち去ってしまった。 「う……あ、あ……」  ヘル子さんはその場に崩れ落ちる。 「な、なんでですか? ヘル子、何かいけないことしたでしょうか? な、なんで――」  ぽろぽろと目から涙がこぼれ落ちていった。 「なんで捨てられちゃったですかぁぁぁ!」  しのぶちゃんは頬をかく。  さっきまで敵だったのだけど、子供みたいに泣きじゃくるヘル子さんを見ていると放っておけない感じがしてしまった。 「えっと、大丈夫だよ。ほのか様も、今は怒ってるだけで、しばらくしたら――」 「嘘です! ほのか様は本気です! だって今まで怒ったことなんかなかったのに!」 「え? そうなの?」  意外な感じがした。あのわがままっぷりを見ていると、終始ぷりぷりしていそうだ。だけど、彼女は王だ。すべてのわがままが叶えられるといってもいいんだろう。命じれば叶えられる立場なのだ。  だけど、彼女は命じたことがない、という。  彼女は言った。魔王になんかなりたくない。魔王であっても――魔王であればこそ、叶えられない願いだった。  しのぶちゃんが考えている間にも、ヘル子さんは涙と泣き言を垂れ流しまくっていた。 「嫌われたですぅ! ヘル子は、これから野良メイドとして生きていくしかないのですぅ! 道端をお掃除したり、お地蔵さんの前掛け洗ったり、ハトにエサをあげたりして生きていくしかないですぅ!」  それはそれで平和な気もするけど、このままほったらかしにするのは気が引けた。  だからしのぶちゃんは、口走ってしまった。 「よかったら、ウチくる?」 「ふぇ?」  泣きやんだ。  真っ赤な目で、しのぶちゃんを見上げてくる。  しのぶちゃんはハンカチを差し出しながら言った。 「ほのか様もすぐに機嫌直してくれると思うけど。それまで行くところがないなら」 「ゆ、百合原しのぶぅ……」  ヘル子さんはハンカチを受け取る。 「あんた、実はいいやつだったんですねぇ!」  また泣いた。ハンカチがすぐにびしょびしょになる。 「これからは、お姉様と呼ばせていただくですぉ」 「そ、それはちょっとやだな……」  苦笑しながら、人垣の向こうを見た。  ほのか様は、一体どこへ行ってしまったのだろう。            *  放課後。マコトは友だちと一緒に川端四条の交差点を歩いていた。新学年最初の実力テストがあったので、早く終わったのだ。  新しいクラスの仲間も合わせて河原町通りのゲーセンで遊ぼう、ということだったが、マコトは四条大橋の上で見知った人を見つけた。 「あ、ねーちゃんの」  ほのか様だった。  両手で頬杖をついて、欄干から鴨川上流を見ている。強い風がほのか様の髪をなでる。寒くないんだろうか。  と、男二人がほのか様に話しかけていた。長い髪を染めてダボダボの服を着ている。なんと声をかけているのかはわからない。男たちは軽い調子で笑いながらほのか様に親しげに肩を叩いたりしていた。  友人だろうか。  だが、ほのか様は取り合わないようだった。男たちがイラついたのがわかる。ほのか様の腕を引く手に力が入った。 「悪い。俺、抜けるわ」  そう仲間たちに一方的に別れを告げて、ほのか様のほうに向かった。 「ごめん、待った? ん? あんたら何?」  ほのか様に話しかけつつ、男二人にも目線で牽制する。向こうは明らかに年上だろうが、背丈だけならマコトのほうが幾分大きい。男たちは舌打ちをして去っていった。やっぱりナンパの類だったらしい。 「大丈夫っすか?」  ほのか様はぼんやりとマコトの顔を見て、首をかしげる。 「どちら様だったかしら?」 「百合原マコト……しのぶの弟っすよ」 「あら、そういえば昨日お会いしましたわね。たしかに、言われてみればしのぶちゃんと似てますわ」 「そうすか? 姉弟なのに似てないなってよく言われるんすけど」 「髪の色とか、目がふたつあるところとか」  マコトは冗談だと思って笑ったが、そもそも人の形をしている生き物のほうが少ない魔界に育ったほのか様は、本気で言ったつもりだった。 「しのぶちゃんに似てるということは、弟様も、きっといい人なのよね」 「いや、よくわかんないっすけど」 「ひとつ、お願いがありますわ」  神妙な顔つきでほのか様がマコトの目を見る。  次の瞬間――  ぐきゅぅー、とマコトがこれまで聞いたことない音で、ほのか様の腹の虫が鳴いた。 「ご飯をくださいませんか?」 「え?」 「ご飯ですの。さっきの男性がたはごちそうしてくださるとおっしゃっていたのですが……」  ぎゅるぎゅるぎゅる、とまたしても聞いたことのない音で腹の鳴き声がした。  なんだか非難されてるような感じもする。 「……わかりましたよ」  マコトはため息混じりにそう言った。  ため息の調子は、本当に姉と似ていた。 「ラーメンこってりの大にギョウザ二皿、から揚げ、チャーハン、キムチ。あとご飯を大盛りでいただけるでしょうか」 「ラーメン、ニンニクは入れやしょうか?」 「たんまりと」  東大路通に戻って、知恩院通り前の天下絶品ラーメンに入った矢先だった。  ほのか様が沈痛な面持ちで、一気に注文した。  いろいろ不安になってマコトは思わずたずねてしまう。 「……あの、けっこう量ありますよ?」  悲しそうに、ほのか様は言った。 「それは喜ばしいことです」  マコトはため息とともに、ほのか様の注文を思い出しながら財布の中身を計算した。足りるだろうか。 「お兄さんは、いいんですか?」  店員が、まだ注文していないマコトに尋ねた。 「あ……大丈夫です」 「ところでラーメンの替え玉はできますの?」 「すいません、替え玉はないんですよ」 「なら、あとチャーシューメ――」 「以上でお願いします」  ほのか様をさえぎって、マコトは強引に注文を切り上げさせる。 「ご馳走してくださるとおっしゃったのに」  ほのか様は不満そうに、割り箸の先を唇でくわえる。 「せめて第一陣を片付けてから追加はお願いします」  あとで姉に請求しようと決め、マコトは水を飲み干す。 「……もしかして」  ほのか様は、今気づいたように言った。 「わたくし、弟様の迷惑になるようなことをしてしまったでしょうか?」 「えぇ?」  マコトは返答に窮した。  迷惑といえば、今のマコトはストレスを感じているので迷惑とも言えるが、ごちそうすると言ったのは自分だし、しょうがないとも言える。 「まあ、別に気にしちゃいないよ」  ただ、敬語だけはやめさせてもらった。 「そうですか」  ほのか様は、どこかほっとしたようだった。 「……ねーちゃんとなんかあったの?」 「しのぶちゃんではありません。ヘル子さんです。今まで、ヘル子さんのすることはわたくしのためにしてくれていることだから、いいことだと思っていたのです。しのぶちゃんにそれが迷惑になると言われても、何のことやらわかりませんでした。  けど、しのぶちゃんがヘル子さんに襲われているところを見てしまって、それがわかったような気がいたしました。しのぶちゃんがいなくなったらわたくしは悲しい。たとえ、ヘル子さんがわたくしのために動いているとしても」  何のこっちゃまったくわからなかった。  ヘル子さんが誰かがわからない。なにをしていたのかもわからない。姉がなにをアドバイスしたかもわからないし、襲われたとかも意味不明。  ただ、ひとつだけ言えることがあった。 「じゃあ魔王をやめればいいじゃん」 「え?」 「だって魔王であることが問題なんだろ。ならやめれば全部解決するんじゃない?」 「そ、それはそうですが、しかし、はたして許されるのか、わたくしが魔王なのに魔王をやめてしまったら――」 「はいお待ち。こちらラーメン大と……あと、色々です」 「あ、はい。ありがとうございます。あら、おいしそう。いただきますわ」  ずぞぞぞぞ。  ほのか様はこってりラーメンを思いっきりすする。箸立つほどの濃厚スープが机に飛び散り、マコトの顔にまで飛んできた。  真面目な話、台無し。 「そんな魔王ってのは重大なものなのかねぇ」  相当重大なことなんだろうな、と思いながらも、マコトは言った。きっと彼女にとって、それをやめることなんて想像もできないほど中心にあることだったのだ。 「わたくし、魔王をやめてもよろしいのでしょうか?」 「え? わかんないけど……」  ふと、マコトはこの間覚えた言葉を思い出した。 「人間が想像できることは、すべて実現することができる」 「そうなのですか?」  マコトは曖昧にごまかした。そもそも魔王がなにものかを知らないのでは考えることもできない。 「――具体的には何をやってるの、魔王って?」 「さあ。普通の方がどのような日々を過ごしてらっしゃるかは存じ上げないので比べられないのですが――朝起きて、朝ご飯を食べて、昼ご飯を食べて、夜ご飯を食べて、寝ています」  それじゃニートだ。 「王っていうくらいだから、政治のこととかしたりしないの?」  咀嚼の合間にほのか様が答える。 「その辺の小難しいことは他の方たちが取り仕切っておりますわ。わたくしは城の中でお勉強したりするのが今は大切だ、とヘル子さんがおっしゃっていました。たしかな教養は淑女のたしなみを学んでおります。しかし、魔王として具体的に何かをするというのはないようです」  皇室やイギリス王室みたいなものだろうか。王といっても象徴としているだけで、政治には絡まないという意味で。 「ねーちゃんもたいそうな人と友達になったもんだなぁ」  ほのか様の動きが、止まった。  すすり切る直前で宙ぶらりんになったメンが口の下でぷらぷら揺れて、スープを撒き散らす。 「ほほぶぁち?」  そのまましゃべるもんだから机はおろか備え付けの調味料やメニューまで汁まみれである。どう考えても淑女としての教育は間違っていたとしか思えない。ただ、どういう技なのか、ほのか様自身には汚れはひとつも付着していないが。  ずぞぞ。すべてメンを口に収めて、改めて言った。 「トモダチ、なんですか? わたくしとしのぶちゃんが」 「違うのか?」  ほのか様は箸を止めて、じっとラーメンのどんぶりを見つめていた。 「わたくし、トモダチというのがよくわからないのです。なにやらやら、とてもすばらしくて、とても心安らぎ、そしてとても楽しいものだと聞いておりました。わたくしぐらいの年の子は学校に通い、それを手に入れるんだと。だからわたくし、こちらにきましたの」  ラーメンに箸を突き刺して、ぐるぐる混ぜる。が、目はそれを追っていない。無意識にやっているようだった。 「そういえば、しのぶちゃんといると楽しゅうございましたわ」 「じゃあ、友達なんだろ」 「そうなのですか」  ほのか様はお腹をさする。 「なんだか、不思議な感じです。この辺りが妙に暖かい。お腹はすいているのに、満たされたような」  ほのか様は箸を置いた。 「わたくし、魔王やめます」  いきなりの宣言に、マコトは少なからず驚いた。 「やめるって……そんな簡単にできるものなの?」 「わかりませんわ。けど、魔王でいたらしのぶちゃんを困らせることになるようですから。やめるといったらヘル子さんや他の魔物たちも困るかもしれませんが――」  んー、と考える。 「まあ、がんばりますわ」 「がんばってどうにかなるものなのか……」  マコトはため息。  姉は今ごろ、なにをしているのだろう。           *  しのぶちゃんはヘル子さんを引き連れ、家がある聖護院天王寺町の辺りを歩いていた。  あの騒動で学校は午前中で終わりになってしまった。生徒が次々とメイド服姿で奇怪な行動をし始め、最後には気を失ってしまう。この事態を重く見たらしい教師陣が、そういう決定をした。  今ごろ会議は紛糾しているだろう。  結局、後日「集団ヒステリーで、自分がメイドだと思い込んだ人や人がメイドに変身するという幻覚を見てしまった人たちが多発した」という、なんだかこじつけめいた結論に収まってしまった。真実である「メイドの銃弾でたくさんの生徒がメイド化」というのも無茶苦茶さでいえばどっこいどっこいなのだが。  とにかく、しのぶちゃんもヘル子さんも教師陣に目をつけられることなく、帰路につくことができた。  ふと当たり前の疑問が浮かぶ。 「ほのか様の入学手続きとか、どうしたんですか?」  魔界からきたのがつい先日ということは、入試も受けていないことになる。  ヘル子さんは胸を張った。 「そこはヘル子の能力ですよ。ヘル子によってメイド化されたらゾンビになりますが、調整次第でどんな行動をさせることもできるです。まさにオーダーメイドですね。校長をメイドにして、ほのか様の入学を認めさせたです」  裏口入学じゃないの。  しのぶちゃんは深く考えないことにした。  ようやく家につく。 「ここだよ」  しのぶちゃんちを見て、ヘル子さんは目を輝かせた。 「な、なんて狭い家! さすがお姉様、小市民の代表なだけあるです!」 「……褒めてるの?」  集合住宅でなく一戸建てというのは京都ではけっこうすごいと思うのだが。たしかに城に住ん.でいたヘル子さんにとっては小屋みたいなものだろう。 「たしかに、こっちにはあまり大きな家はないですね。ほのか様の住居はやはり相応のものでなければならないと思って探していたのですが、どこもダメだというのですよ」 「いったいどこに住もうとしたのよ」 「最初に行ったのは、たしか『にじょーじょー』ってとこだったです。門構えがそれっぽかったですから。でも入るのにお金取るとか言ってきたです。物件見るのにお金取るだなんて、こっちの不動産業界はアコギですねぇ」 「……そもそも物件じゃないからね」 「しょうがないから大きいのは我慢しようってことで、もっと北のほうにあった金ピカの家にしようとしたです。だけどこっちも門前払い。火をつけてやろうかと思ったです」 「……いろんな意味でシャレになってないよ」  鍵を開けて家に入った。  どうやらお母さんは外出しているらしい。家の中は静まり返っていた。  台所のコンセントに充電器をはめて、携帯を充電した。これで一安心。 「ちっさな家」  後ろでヘル子さんがつぶやく。  さすがのしのぶちゃんもちょっとむっとする。言い返そうと振り返るが―― 「ほのか様も、こんな家に住みたかったんですかね……」  さみしそうにつぶやくヘル子さんに、何も言えなくなった。  ほのか様は、魔王になりたくない、と言った。  しのぶちゃんも、振り返ってみると思い当たるふしがある。  百葉箱に魔王だといわれたとき、さみしそうな顔をしていたこと。  しのぶちゃんに魔王であるのが平気だといわれて、驚いていたこと。  そして、誰にも命じないということ。  あのときほのか様は「逆」だと言った。魔王だから簡単に命じることはしない、というわけじゃない。命じてしまったら本当に魔王になってしまうからだ。  ほのか様は魔王なんかじゃない、普通の女の子として、普通の生活をしたかった。  なのに、なぜ魔王になってしまったのか。 「話、聞いてもいいかな?」  しのぶちゃんはヘル子さんに椅子を薦める。 「ほのか様は、なんで魔王になってしまったの?」 「それは、そういう風に決まっているのだからです」 「決まっているって?」 「運命制です。ヘル子たち魔物には、ほのか様が魔王であるという運命が見えますですす。黒いものが黒だとわかるように、ほのか様が魔王だとわかるのです」  しのぶちゃんは、ひどく曖昧なものだと思った。けどもし全員が同じ感覚を持っていて、ほのか様が魔王だと感じているのなら、それでも十分なのかもしれない。 「実際、ほのか様の運命の強さゆえに、ほのか様の一族は滅亡してしまったのです」 「え? 一族って……両親とか?」 「はいです」  ヘル子さんは遠くを見つめながら言った。 「世界龍家は全世界の魔導・魔術の総元締めだったのです。けれどほのか様誕生と同時に、世界龍という名がついた者は次々と不審な死に遭っていったのです。  ほのか様の運命に関しては、一族も把握しておりました。万全を喫するために何重にも守られた結界の中で執り行われたです。が、それでも魔王の力を封じ込めることはできなかったのです。超新星爆発のように強い魔力が親縁というルートで流れ出し、ほのか様に類する者が次々と死んでいきました。  まず結界魔術の暴走という形でご両親と祖父母、出産に立ち会った面々が吹き飛びました。遠く離れた場所にいた親類も、その魔の手からは逃れえませんでした。事故死、病死、他殺、老衰――太陽が月に食われ、新たな太陽が出現するまでに、ほのか様は天涯孤独の身となってしまわれたのです」  なんと言っていいかわからなかった。  とても信じられない。が、事実今のほのか様の状況を考えれば、納得せざるをえないだろう。  それに、ほのか様がこちらにきたときに、大雪が降り地震が起こった、という事実もあった。 「ヘル子はほのか様の育児担当として事前に冥府から召喚されていたのですが、一族全員おっ死んでしまったので、そのまま生まれたばかりのほのか様を連れて魔界へと行きました」  結果としてそれは正しかったのだろう。魔界でなら支援者もたくさんいるだろうし、事実、ほのか様は今では元気すぎるほどのお嬢様に成長した。こっちなら、神霊たちに目をつけられて、今ごろどこかに封印されていたかもしれない。  だけどこれからも魔王であることが正しいとは限らない。 「ほのか様が魔王をやめることは、できない?」 「そんなこと、ありえません!」  ヘル子さんは叫んだ。 「ほのか様は立派な魔王になって、幸せになっていただくので――」  ヘル子さんの瞳から、一時は止まっていた涙がまたあふれてきた。ほのか様のことを思い出したのだろう。 「なんで魔王になりたくないだなんておっしゃってしまったのですかぁ!」  しのぶちゃんはヘル子さんの頭をなでる。髪は作り物と言ってもきめ細かくて柔らかい。  諭すようにゆっくりと言う。 「ヘル子さん、魔王だからほのか様に付き従っているの?」 「そ、そんなわけがないです! ほのか様がほのか様だからヘル子はほのか様のメイドであるのです。ほのか様がいちばん幸福なのは魔王になることだったはずなのに――」 「それは、ほのか様が決めることだよ」  ほのか様は魔界ではなく、こちらでの普通の生活を望んでいる。  魔王でいたら、それが叶えられない。 「ほのか様は普通の生活を望んでいる。ヘル子さん、それを協力してあげられない?」 「で、でもヘル子は、もうほのか様に――」 「協力してあげられるなら、ほのか様も許してくれると思うよ」  ヘル子さんが目を丸くしてしのぶちゃんを見た。 「ほ、本当ですか?」 「うん。ほのか様が喜んで、ヘル子さんも仲直りできる」  ついでに自分も厄介な使命から解放される。と、しのぶちゃんは心の中で付け加えた。 「わかりました。がんばるです!」  しのぶちゃんは胸をなでおろした。  風向きがいい方向に変わってきた。  あとはほのか様とヘル子さんをうまく取り合わせて仲直りさせること。ほのか様が魔王をやめることと、ヘル子さんが指数を上げるようなことを控えてくれることを材料に、ハネを説得すること。  それができれば、一件落着だ。 「ただいま」  マコトの声が玄関からした。  しのぶちゃんはヘル子さんをどうしようか、と迷うが、それより早くヘル子さんが立ち上がった。  表情を輝かせていた。 「あ、ちょっと――」  止める間もなく、ヘル子さんは玄関のほうに駆け出した。  しのぶちゃんも追いかける。  玄関では、戸惑うマコトの横で、ヘル子さんがなぜかそこにいたほのか様の胸に飛び込んでいた。 「ほのか様、ヘル子は改めて、ほのか様のために尽くさせていただきます!」  全員があっけに取られる中、ほのか様はゆっくりとヘル子さんの頭をなでた。 「そうね。よろしく頼みますわ」  なんだかわからないが、ほのか様のほうもどうやらすでにケリがついていたらしい。  しのぶちゃんは安心するとともに、ひとつの違和感を覚えた。  ――あれ?  いつもほのか様の後ろについていたチルがいない。  無言でついているのでときどき忘れそうになるが、このときは、なぜかその不在に嫌な予感を覚えた。  その夜。  二度目の地震が起きた。          三章  神々は狼を鎖にかけるために、信頼の証として軍神の腕を狼のあごに乗せた。  かくして、軍神の腕と狼の信頼を犠牲にして、破滅の狼は縛られ、岩に繋がれる。  狼は剣であごを地面に打ち付けられる。  終末のときまで、狼は束縛されたままのはずだった。  しかし、それから幾星霜経ったその日。  狼の前に、魔王が現れた。  魔王の体は、狼の口にすっぽりと入るほどの大きさしかなかった。 「あなた、素敵な花を咲かしてございますのね」  閉じることができない狼の口からは、延々と唾液が流れている。それは地面に流れると花を咲かせた。狼から海まで、花の川ができていた。  四肢や体を絹糸のようなものが縛り付けていた。小人たちが作り出した《貪り食うもの》――グレイプニルと呼ばれる束縛だった。  狼はうなった。  口の中の剣は舌ごとあごを貫いているのでしゃべられないのだ。  魔王は笑った。子どもらしい、無邪気な笑みだ。 「何を言っているかわかりませんわね。いいわ、わたくしが抜いて差し上げましょう」  ほのか様は狼の口の中に手を突っ込み、唾液から生まれたツタが絡みまくった剣を引き抜こうとする。彼女の体ほどもある巨大な剣だったが、触っただけで砕け散ってしまった。  その瞬間、自由になった狼の牙が魔王に食らいつく。 「ずいぶん元気ですのね」  口の中で、ころころと笑いながら魔王は言った。牙は彼女の体をそれて、髪を揺らすだけに留まった。  ――なぜ僕を恐がらない?  ぐるる、と狼が喉を鳴らしたなかに、狼の言葉が宿っていた。 「あなたはわたくしを傷つけることができない。ならば、なぜ恐れる必要があるのです?」  ――本気でそう思っているのか?  牙が徐々に閉じられてきた。 「そうですわね。本当の本気になれば、できないこともないでしょう。けど。わたくしだって、本当の本気になれば、あなたをひざまずかせることが可能です」  牙が止まった。 「わたくしたちはお互いをいつでも支配することができる。だからこそ、うまくいくと思うのですわ。わたくしたちは似ている。そう思いません?」  狼は牙を離し、魔王を開放した。 「あなたの口の中、花の香りがしてとても素敵よ」  狼はそっぽを向く。  対等のものなどいなかった。  褒められたことなどなかった。  こんなときにどうすればいいか、狼は知らなかった。  ――あなたの髪も綺麗だ。  褒め返してみる。  言ってみたら、本当にそんな気がした。  思う。  どうせ運命に縛られたこの命。世界を滅ぼすその日まで、好きに使って何が悪い。  ――僕はあなたを守ろう。           *  暑くなった。  積もっていた雪はあっという間に溶けてしまう。気が早いセミが鳴き始めるほどだった。  しのぶちゃんは、円山公園の池の前のベンチに座っていた。隣りにはほのか様とヘル子さん、そしてマコトもいた。 「そろそろ咲いてると思ったんだけど、まだだっチル」  しのぶちゃんが枝垂桜を見あげながら言った。円山公園の中心にある、祇園枝垂桜と呼ばれる、この公園のシンボルとも言える木だ。樹齢は八十を超えるらしい。 「ヘル子さん、クレープが売っていますわ」 「しかしこれで使ってしまいますと夕食代がなくなってしまうのです」 「世知辛い話ですわね。いいですわ。弟さん、クレープ買ってきていただけませんか?」 「……あんたホントに使えそうなやつは使い倒すんだな……」  あれから結局ほのか様とヘル子さんはしのぶちゃんの家に一泊していった。お嬢様はともかくメイドさんに親のリアクションが心配だったが、両親ともたいがい適当なので、「しのぶも変わった友達ができたなぁ」と笑ってOKだった。  今日も今日とて普通に登校した。一晩明けたら、学校は普通どおりだった。飯尾君も戻ってきて、最初はほのか様が座るはずだった席に座った。他にも失踪していた人たちは元に戻って、問題はなさそうだった。  今はその帰りだ。ほのか様がどこで覚えたのか「花見がしとうございます」とか言い出したので、京都有数の桜の名所、円山公園にまで赴いたのだ。  桜は全然咲いてなかったが。むしろ葉っぱが先に出てきてたくらいである。 「残念ですわ。お花見できれば、お弁当もたくさん食べられましたのに」 「絶対それが理由だと思ってたけどやっぱりそうなんだね……」  花より団子ここにきわまれり。 「それにしても、暑いなぁ」  しのぶちゃんは出て顔をあおぐ。と、ほのか様がなにやら嬉しそうに「わたくしもあおいでください」とか言い出した。あおいであげる。「あはは、全然涼しくありませんわ」うわーい、わけかんないよー。 「これもやっぱり温暖化ってやつかなぁ」  しのぶちゃんがなんとはなしにつぶやくと、マコトがいじわるそうに言った。 「温暖化してるから暑いってのも、ねーちゃんも短絡的だなぁ」  こういうときのマコトは小憎らしい。 「さては、二酸化炭素がそのまま原因だって信じてるたちだろ」 「む……違うっていうの?」 「地球の平均気温の上昇と二酸化炭素の増加量が、単に一致してるってだけなんだぜ。逆に、温暖化のせいで二酸化炭素が増加してるって考えもあるって。原因と結果がどっちかなんて、簡単に入れ替わるもんらしいぜ」  ヘル子さんがうなずいた。 「そうです。この暑いのは、結界が解けたからなのです」 「……は?」  しのぶちゃんもマコトも、いきなりの話の方向転換についていけなかった。 「うりゅ? だから、ニタンカサンソ? のせいなんかじゃなくて、昨日おとといとこの街を覆っていた神霊どもの結界が破れたせいなのですよ。反動でどーん、と暑いのです」  ほのか様が笑った。 「やだ、ヘル子さんったら。過酸化水素、ですわよ」 「いや、それも違う――って、そうじゃなくて。え? ヘル子さん、どういうこと? 寒かったのはほのか様のせいじゃないの?」 「えー? なんでほのか様がそんなことするんですか? あれは、地上の魔物が入ってくるのを防ぐためにやったものです。えっと、特一級緊急配備、とか言ってた気がするです」  聞き覚えがあった。  ほのか様がこちらにやってきたときに、ハネたちが取った処置だ。 「結界外と遮断すると同時に、中の魔力値指数を一定量確保するものです」 「魔力値って、魔物が力を使ったら増えるものじゃなかったの?」 「もう、なにを言ってるですか? 魔物も神霊も、属している次元は同じですよ? 魔力値がないと魔物も動けませんが、やつらも動けんのです」 「じゃあ、例えば百葉箱に魔物が宿ったのは、天界のせいだっていうの?」 「そういうことです」  おかしい。  しのぶちゃんが聞いていた話と食い違いがある。魔物と神霊とで把握していることが違う、というレベルではない。根本的なところで食い違っている。  携帯を忘れてきたことを悔やんだ。普段から持ち歩く習慣がないのが災いして、昨日充電しっぱなしのまま家に忘れてしまったのだ。 「ごめん。先に帰るね」  しのぶちゃんは走り去っていった。           * 「あら。しのぶちゃん、どうしたのかしら」  ほのか様が知恩院と公園とを区切る門に消えていくしのぶちゃんを見送りながら言った。 「それはともかく、ヘル子さん、チルの所在はご存じでしょうか?」 「はぁ。チルですか」  チルを知らないマコトはなんでここでそんな話、と思うが、ほのか様とヘル子さんは通じているらしい。黙っていることにした。 「昨夜の地震。急激な気温上昇。つまるところ、再び扉が破られたわけではないでしょうか」  ほのか様は空を見あげる。どんよりと分厚い雲が覆っていた。 「あれを破れるのは、神を喰らう狼であるところのチルしかおりません」 「そう、ですね」  ヘル子さんは思案する。  彼女が真面目な顔になるのはほのか様に関わることだけだ。そして、今の最優先事項は「ほのか様の平穏なる普通の生活を維持すること」。  マコトは嫌な予感がした。 「調べてまいります」 「ええ。チルにも……わかってもらえればいいけど」  ヘル子さんがスカートの裾をまくり上げて、走っていく。あれでけっこう足は早かった。 「さて、二人きりになりましたわね」  どことなく色っぽいセリフだが、マコトは寒気しかしなかった。特に、懐のほうに。 「お腹、すきませんこと?」           *  しのぶちゃんは神宮道を小走りにしていた。 「百合原しのぶ」  交差点を渡った、平安神宮の由緒の書かれた案内板の前で呼ばれる。  立ち止まって辺りを見回すが、それらしい人影はいない。  今の繊細そうで発音のしっかりした声は――。 「ハネさん?」 「きょろきょろするな。そのまま話せ」 「は、はい」  通行人が変な目で見てくるのが気になるが、なんとか我慢した。 「トツカを忘れるとは、愚かとしか言いようがないな」 「す、すいません」 「手短に状況を説明する。まず、魔力値の上昇が止まらない。先ほど、十万を突破した。このままでは霊的地殻が崩壊して、途方もない災害が起こる」 「え? で、でも――」 「君は魔王を懐柔したつもりだろうが、完璧ではなかったということだ。昨晩、魔界との扉が《三重に縛られし神喰狼》によって破壊された。すぐには修復は不可能。向こうから力が垂れ流しにされている。それが指数増加の原因だ」  先ほどヘル子さんが言っていた、結界が破られたとはこのことだったのか。 「速やかに魔王を封じるのだ」 「なっ――」  しのぶちゃんは振り返る。由緒の前には家に置いてきたはずの携帯電話があった。 「だって、前は私のやることを許していてくれたじゃないですか! なんでいまさら」 「許していたわけではない、放置していただけだ。個人的には、封じることばかりがすべてではないと思っている。他の可能性があるのならば、それでもいい。が、悠長なことを言っていられなくなった」 「でも、ほのか様はもう魔王にはならないって――」 「現実を教えてやろう。魔界の扉が開かれてから、傷害事件が六件、交通事故が十一件、火災が二件報告されている。幸いまだ死者は出ていないが、恐らく指数が上がっていることで不幸の起こる確率が増加しているのだ」 「そんな――」  と、しのぶちゃんをちらりと見た通行人が、電柱にぶつかりそうになった。幸い直前で気づいて避けることができたが、本人は驚いたことだろう。 「今のもそうだ。ああいう小さな不幸の積み重ねが、大きな不幸を呼び寄せ、大きな不幸が連鎖して大災害につながる。すべての元凶が、魔王にある」  しのぶちゃんは、ぐっと拳を握り締める。 「わ、私のほうだって、聞きたいことがあります」  どこを見ればいいかわからなかったが、とりあえず案内板をにらみつけた。 「その指数を最初に上げたのは、あなたたちだって聞きました。そんな説明、聞いてません」 「そうだな。言っていない」 「よくも平然といえますね。その不幸の原因の一部はあなたたちのせいでもあるんじゃないですか」 「我々は、我々が活動しやすい程度にあげただけだ。そこから致命的な災害に至る可能性は少ない。問題はないといえる。むしろ魔物に対抗するのに、必要な処置と言える」 「でも、私を騙したことは変わらないじゃないですか」 「言っていないだけだ。嘘をついた覚えはない」 「そんなの、詭弁です」 「そうだな。だが、君だってやっていることだ。君は、自分が魔王の討伐者に選ばれたことを、魔王に伝えたのか?」  しのぶちゃんは、言葉が出てこなかった。 「だが、それで正しいのだ。それでうまくいくのだから。君が動きやすいように、我々は君に与える情報を制限した。第一、最初からすべてを明らかにしていたとしたら、君はどうした? 迷わなかったか? その迷いがあっては、ここまでの結果は出なかっただろう」  たしかに、そうかもしれない。 「すべてを相手に伝えるなど、愚かなだけだ」 「でも、ほのか様はすべてを話してくれました。だからこそ、信用できます」 「ならば、我々は彼女を知らない。だから信じることはできない」 「知ろうともしないくせに――」  以前思ったことを、しのぶちゃんは考えた。世界中の国が「いっせいのせ」で核爆弾を全部捨てれば、核戦争の危機なんてないのに。けど実際には、できない。相手を信じず、知ろうともしないからだ。 「とにかく、我々が君に望むことはずっと変わらずただひとつだ。魔王を封印すること。それに期限ができた。それだけだ。  期限までにできなければ、我々は実働部隊を動かす。開戦されるだろう。やむをえない。最悪から二番目のカードを引かせてもらう」  急に腹が立った。  ハネは、見えないところから一方的に言いつけるだけなのだ。 「姿くらい、見せてください!」  由緒書きの後ろに回りこむ。  誰もいなかった。  ただ、屋根の上に黒猫がいた。  しのぶちゃんの携帯の中にも写真が入っている猫だ。出会った日の朝、ほのか様が追いかけてもいた。 「我々が信じるのは、結果だけだ。健闘を祈っている」  猫がしゃべった――ように見えた。  正確には猫が口を動かしたら人の声がした。口を閉じると声も消える。あくびをしたが、そっちは「くかか」と猫の声だった。 「ぼさっとしている暇はなかろう?」 「うく……」  しのぶちゃんは、携帯を手にきた道を戻った。  覚悟を決めなければなかった。           * 「マコトくん、わたくし、気づきましたわ」  新京極通を四条通から上っていった最中に、ほのか様が言った。 「お金があれば食べ放題ですわ!」 「はぁ。そーすね」  ほのか様のことはしのぶちゃんに一応聞いていた。魔王だ、という。世間知らずでわがままなのはそのせいだろう、と。 「その上、食べ物屋さんで働けば、食べながらお金をいただけます」 「売り物食べたらダメすけどね」 「なんだかわたくし、こっちでやっていける自信が湧いてきましたわ」 「あなたの心配そこだけだったんすか」  マコトもだんだんとこの年上のくせにやたら子供っぽい人の扱い方がわかってきた。最低限のところはブレーキをかけさせて、あとは一歩下がって放任。  近すぎたときは振り回されてばかりでわからなかったが、少しだけ距離をおいてみるとなかなか見ていて飽きなかった。 「あっ!」  八橋の試食を見つけて、飛んでいく。どうぞどうぞ、と笑いながら薦めるおばちゃんの言葉を聞かないうちから手をつけてる。  マコトもあとを追おうとするが、男性と肩をぶつけてしまう。  誤ろうとした矢先、 「気つけろ、ボケ」  鋭く吐き捨てられる。男はそのまま早足で人ごみの中に消えていってしまう。  なんだ、と思う。  よく見ると、街全体がどこかいらだたしげだった。むっとしたこの気候のせいかもしれないが、道行く人たちの表情がどこか余裕がない。全員がストレスを募らせている感じがする。  近くでサイレンの音が聞こえた。  なんとなく不吉な予感を覚えた。 「おかわりいただけるでしょうか」 「待てコラ」  そんな街の様子などお構いなしに、ほのか様は試食品を平らげていた。マコトは彼女の襟元を引っぱって店頭から引き離す。 「あら、何いたしますの?」 「マナーってもんを覚えてほしいところだな」 「ふっ、見くびらないでいただきたいわねっ。買うつもりもないのにやたら試食してお腹の足しにするのが褒められたことでないことなど、百も承知ですわ」 「確信犯かよ!」  試食を平らげられてもにこやかに手を振るおばちゃんに見送られる。京都人の鑑だ。あるいは、こんな小娘のわがままなど気にも留めていないのかもしれない。器の大きさを感じた。 「どこに連れて行かれるかと思ったら、試食あさりツアーかよ」  円山公園でほのか様のほうから行きたいところがある、と言ってここまで自転車を押してついてきたのだ。 「新京極、寺町と何週かすれば時間とお腹の隙間を埋められますわよ」 「俺を巻き込まないでくれ」 「あら、あちらでは漬物がやってますわ。あれは気づきませんでしたわね」  聞いてないし。  もうほったらかしにして帰ろうか。そう思ったとき、妙な人影を見つけた。  黒づくめだった。黒いスーツに帽子、サングラスまでかけている。「秘密組織の者です」と言ってるようなものだった。  壁に張り付くようにして、ほのか様の入っていった漬物屋のほうを伺っていた。よく見ると、他にも数人同じような人たちがいる。  よくない感じがした。  ほのか様は中で漬物の味を食べ比べるふりをして次々とお漬物をお腹に入れている。漬物っていうのは風味を味わうもので腹の足しにするものじゃないのだが。  男の視線がやはり気になる。  マコトはほのか様に声をかけようとした。  同じタイミングで、店員のおばちゃんがほのか様の向かいに立った。 「お嬢はん、あんじょう食べとんなぁ」 「千枚漬けというのですから、千枚くらい食べないとわからないかと思いまして」 「それはよろしおすけれど。しまったら、はよ帰りおすな」  顔は笑顔だが、食べ終わったらさっさと帰れとはなかなかきつい。 「すいません」  マコトはほのか様を引っ張ろうとするが―― 「なに言うてはりますの。魔王様が帰る言うたら、魔界に決まってるやないですの」  マコトは、気づいた。  おばちゃんの影の形が、体に比して大きく、そして濃い。その黒い色の中でぐるりと渦が巻いた気がした。 「あなた、魔物ね」  ほのか様がもごもご食べながら言った。  マコトが聞き返した。 「魔物……?」 「こっちで魔物は力はあるけど形がありません。一部を除いて、なんらかの形を宿さないとこちらでは活動できませんの。けれど、人間に宿るのは、境界条約違反ですわね」 「そりゃもう、危ない橋渡ってわざわざきたんですえ。おとなしゅう、帰ってきてくれへんやろか?」 「悪いけれど、わたくし、こちらに住むことにいたしましたの。魔王の座も返上いたしますわ」 「……今のは聞かんかったことにいたしましょ。魔王は座ではなく宿命でおます。死ぬときまで魔王。そない簡単に行くもんともちゃいます」 「あら、やっぱり?」  あっけらかんとほのか様は肯定した。 「けれど、わたくし、不可能は可能にするためにあるものだ、と存じておりますの」 「そう思うことは魔王様の好きやけど、それでのうなるものがあるっちゅうことを、考えておまっしゃるでしょうか?」  黒服たちが動いた。 「まあ、話は魔界のほうで聞きましょ」 「ほのか様、乗って!」  マコトは自転車に飛び乗り、すかさずほのか様も荷台に腰掛ける。  取り押さえようと手を伸ばしてきた黒服の男たちにほのか様は赤い粉末を振りまいた。 「ぐわァァーー」  目を押さえてその場に崩れ落ちる。  そのままマコトはチャリで新京極通を北上した。ちなみに、基本的に自転車は押して歩きましょう。  さすがに歩行者が多いので走りづらく、わき道から裏寺通りに入る。こっちなら道も入り組んでいるので撒きやすい。  L路地を左に曲がりながらマコトが尋ねた。 「さっきのあれ、なに?」  赤い粉末である。かけた瞬間、相手が苦しみだした。姉の携帯のような。対魔用の聖遺物か何かだろうか。 「え? お店にあった七味唐辛子ですが? さすが京都の七味は一味違いますわ。サングラスの上からでも効果てき面」  えげつないことする。 「さっきあの人が言ってた、魔王をやめることができないってのは、そうなの?」 「ええ。運命ですから、死ぬまで変わらぬことですわ。本当にやめようと思ったら死ぬしかない。彼らとしても魔王が不在では気が休まらないでしょうから、最悪、わたくしの命を絶って次なる魔王を待つことさえするかもいたしません」  ほのか様は淡々としゃべる。 「それなのに、なんでこっちに?」 「このまま魔界にいたって、どうせ退屈で死ぬのと同じような日々があるだけですわ。なら、まだ希望があるほうを選ぶでしょう?」  それにしても、とほのか様はため息混じりに続けた。 「実際にわたくしを力づくで連れ戻しにくるなんて、少し驚きましたわ。相当切羽詰ってますわね」  L路地を右に曲がりながらマコトが尋ねた。 「いったい、どうして?」 「魔界の扉が開いたことと関係するでしょうね。すると、あの子の思惑かしら。でも、どうしてかしら。あの子がそこまでするとなると……」  L路地を左に曲がりながらマコトが――止まった。 「うん? どういたしました?」 「……さっきから、同じ路地を曲がってる」  ビルに囲まれた、何の変哲もない路地だ。角には枯れた鉢植えが並んでいて、上にはカーブミラーが備えられている。  魚眼になったミラーを覗き込む。路地の向こうはやはり同じようなL字のカーブになっている。鏡写しのように、このカーブと左右対称だ。  街の喧騒が遠くになった気がした。 「どうやら、術中にあるようですわね」 「わかるのか?」 「あら。あまりわたくしに期待なさらないでいただきたいわ。魔物と付き合いが長いだけのただの花の女子高生ですから。言えるのは、こういうことが可能だ、ということですわ。わたくしたち、ある種の隔絶された空間に閉じ込められたのです」  どれだけ進んでもL路地を左右に曲がりつづけるだけ。マコトは空を見あげた。喧騒が聞こえるだけに、不気味な感じがする。  と、そこで気づいた。 「空は、見えるんだな」 「そうね。もしわたくしたちが空を飛べるのなら、こんな罠、あっさり破れてしまうのですわ」 「じゃあ、無理なのか」  ふふん、とほのか様は鼻で笑った。  角に置いてあった鉢植えを手に取り、中の土をひっくり返す。 「肝心なのは、この罠がそんな抜け道を許す程度の完成度ということです。急ごしらえだったのでしょうね」  ほのか様は鉢を振りかぶり、カーブミラーに叩きつけた。  甲高い破砕音が響く。  マコトにはそれが、悲鳴に聞こえた気がした。  同時に、耳がすっきりした気がした。トンネルをくぐっているときに感じる耳の違和感がなくなったような感覚に似ている。 「さて。中心となっている呪物を破壊したことで、呪法は破れましたわ」 「呪法って、鏡か」  マコトは鏡の破片を拾う。  そこに映ったマコトは顔を苦痛に歪めて泣いていた。 「な――っ」 「あら。どうやら魔物の本体が映っているようですわね。ちょうどよかったわ。ねえ、鏡のあなた。わたくしの声、聞こえます?」 『ひ、ひぃぃ! ぼ、ぼくは反対だったんですよ! 魔王様をこんなところに封じ込めるなんて』 「結構。話せるようね。では、答えてちょうだい。いったい、何のためにわたくしはあなた方に狙われているのでしょう?」 『そ、それは……』 「話さないのなら、あなたはこのまま分別が曖昧な京都市のゴミとなって、燃やされることになりますけれど」 『い、言います! チル様に言われたのです! 天界の討ち手がほのか様を狙っている、強引でもかまわないから魔界にお連れ戻ししろ、と』 「やはり、チルですか」  ほのか様は考える仕草をした。 「で、そのチルはいずこに?」 「討ち手を狩りにいく、とおっしゃられてました」 「討ち手さんもかわいそうに。チルに狙われてしまっては、魂さえも残りませんわ」 「まさか――」  マコトが息を呑んだ。  関係ない話だと思っていたが、それに気づく。天界から選ばれた魔王の討ち手。 「それって、ねーちゃんのことじゃ……」           *  円山公園に戻ってみたが、鳩と観光客ばかりでほのか様たちの姿はなくなっていた。  しのぶちゃんは安堵する。  いまだに決めかねていた。  三つ目の選択肢を作ることはできなかった。  ほのか様を封じなければ、自分に未来はない。  だからって封じたとしても、絶対に後味が悪い。  どちらにしたって、自分は後悔するのだ。 「……はぁ」  自分はどちらにしたってひどいことになる。なら、ほのか様を助ける道を取るか?  ダメだ。ほのか様を助けると、そのまま最終戦争になだれ込む。そうなるとこの世界は甚大な被害を負うといっていた。 「そんなの、選べないよ」  しのぶちゃんは携帯を開いた。  指数は十五万を越えていた、  カメラ機能を立ち上げ、封印モードに切り替える。  円山公園の空に、何体か魔物らしきモノが見えた。また、京都市街の空には全体的にどんよりとした色のモヤがかかっているのが見える。  なぜこんなことになったのか。  ほのか様が魔王でなければよかった。そういう運命でなければよかった。  だけど、運命とはなんなのだ。  このカメラでも映らない。ただ魔物たちが感じているだけのもの。  でも、それを感じられない自分もまた、ほのか様が魔王だと思っている。  ――なんでだっけ?  そのとき、カメラの中に赤いモヤがかかった。  そのモヤは巨大な獣の形を帯びていた。 「え?」  カメラでなく、肉眼で見てみる。  チルだった。  しのぶちゃんのほうへ、正面からゆっくりと近づいてくる。  しのぶちゃんは携帯を閉じた。 「どうしたの? ほのか様、ここにはいないよ」  話しかけてみるが、彼は何も反応しない。そりゃそうか、としのぶちゃんは思った。  携帯電話が鳴った。  見てみると、公衆電話から。  なぜ公衆電話からかかってくるのか、身に覚えがないが、とりあえず出てみる。 「もしもし?」 『あ、ねーちゃん』 「マコト? なんでこの番号知ってるの?」 『おとといの夜、一応チェックしておいた――って、それはいいとして』  おとといの夜といったら、しのぶちゃんが初めて魔物を封じたあとか。油断ならないやつだ、としのぶちゃんは思う。 『今どこにいる!』 「どこって、円山公園だけど」  マコトはなんだか焦っていた。 「どうしたの、そんな急いで? ほのか様も一緒?」 『今すぐそこ行くから隠れてろ! あと、チルを見たら逃げろ!』 「チル? それなら――」  すぐ目の前に立って、こちらを見あげている。  その目がすっと細くなる。  その瞬間、チルのほうから、金属が引きちぎられる高い音がした。 「――っ」  風が巻き起こり、チルの姿が消えた。  ぶつ、という音とともにマコトの声が聞こえなくなる。イヤフォンのケーブルが切れていた。  切断面から、なぜか花が咲いている。 「ばれちゃったんだね」  背後から、少年の声がした。  とっさにそちらに向こうとするが、 「振り返らないで」 「……チル?」 「質問するのは僕のほうだ。おかしな動きをしたら、殺す。嘘をついたら、殺す。お前は僕に生かされている。別にすぐ殺してもいいんだけど、そしたらやつらは警戒してしまうから」 「やつら?」 「お前にその力を与えたやつだ。そいつはどこにいる?」  しのぶちゃんは、迷う。  言えば、チルはそちらを殺すだろう。ほのか様の身に害を及ぼそうとしているものを殺していくはずだ。  そうすれば、しのぶちゃんは助かる。  だが、そのまま戦争の火ぶたが切られることになる。  ここで教えるというのは、そういう選択なのだ。 「怖くて何もいえなくなった?」  それもある。  だから、しのぶちゃんは言った。 「……かわいい声だね」  人生最大に勇気がいった世辞だった。  沈黙が痛い。  今すぐ首を噛み砕かれるかもしれない。  だから、賭けだ。ここで食われるか、応じてくるか。 「どうやら腕の一本もなくならないと、本気で考えてくれないみたいだね」 「私が傷ついたら、騒ぎになるよ。そしたら彼らは動く。君が向かうより先にほのか様に手がかかる」  落ち着いた声で言葉を返すことができた。先の沈黙を乗り切ったことで度胸がついた。  しのぶちゃんは振り向く。  チルと向かい合った。  柔らかかった毛並みが硬質を帯びている。さっきの金属音が関係するのだろう。恐らく、戦闘体勢。その気になったら、しのぶちゃんは一秒未満でバラバラにされる。 「一応言っておくけど、私はほのか様を封印するつもりはなかったんだよ」 「僕の仕事はほのか様を守ることだ。あのお方に危害が及ぶ可能性があるなら、排除する」 「……じゃあ、なんで魔界の扉まで開いたの?」 「お前を始末したら、やつらが反撃に打ってくる。その前にほのか様の身の安全を確保しなければいらない」  だから仲間を呼んだ、ということか。  それがほのか様の望むものとは逆の結果を呼び寄せてしまった。 「こんなこと、ほのか様は望んじゃいないよ」 「関係ない。僕は、ほのか様が無事ならば、憎まれたって構わない」  魔物って言うのはみんな身勝手なのか。  劣情に忠実だった百葉箱。  ほのか様の幸せのために暴走できるヘル子さん。  そして、ほのか様の身の安全のためにその他を破滅させるチル。  そんな連中がたむろする世界――その中心にいる、ほのか様。だけど、もしそんな自己中心的な魔物たちが唯一認めている存在が魔王だけだとしたら。  今まで魔王が何のために存在するのかわからなかった。が、今ならなんとなくわかる。彼らが一応まとまっているのは、魔王という共通の象徴がいるからだ。それが運命という、人間にはわからない感覚だとしても、共通しているのなら一体感は生まれるはずだ。 「私に力を与えてくれた人も、言ってた。あなたたちを信じられない、だから先に攻撃するって。あなたたちも同じ。信じれば、いちばんいい解決が生まれるのに、どうして信じてあげないの?」 「僕は縛られている」  いきなりチルが言った。 「肉体、魔力、運命――この三重の束縛がある。肉体と魔力の束縛は、自力で破ることができる。けれど、運命を縛る束縛は、世界の終末が訪れるときまで外れることはない。  そのいちばん強い束縛は、かつて神に騙された結果だ。彼らは裏切った」 「……フェンリル?」  チルはうつむく。  北欧神話の狼の怪物の名だ。神々の黄昏に主神オーディンを殺すとされている。  その運命を知った神々は、フェンリルを縛ろうとした。二度試したが、そのたびに破られてしまった。三度目を試そうとしたが、警戒したフェンリルは束縛を許さない。  そこで軍神チュールの利き腕をフェンリルの口の中に入れた。いわば人質だ。  結果、フェンリルは束縛される。絶大な拘束力に破られることはなく、終末のときまで縛られつづけることになった。  軍神の腕を犠牲にして。  これは軍神チュールの勇敢さを描くエピソードとして紹介されていた。神々は最初からフェンリルを騙すつもりだった、つまり食いちぎられる覚悟をもってフェンリルの口に腕を入れたのだ。  だが、フェンリルからすれば、それは裏切りに他ならない。  それまで、凶暴な狼にエサを与えていたのは勇敢な神チュールだった。もしかしたら、それなりの信頼関係があったかもしれない。  その相手によって裏切られたのだ。 「でも、ほのか様は信じているんでしょう?」 「……そういうわけでもない」  どこかさみしそうに答えた。 「ほのか様は僕を殺せる。僕もほのか様を殺せる。だけどほのか様は僕を気に入ってくれて、僕もまた彼女を守りたいと思う。それだけだ」 「なんで、体だけを守るのよ。心は守ってあげられないのよ。あなた、神様も殺せるんでしょ。なら、どうして運命なんてものからほのか様を助けてやらないのよ!」 「……お前にはわからないよ」  風が、吹いた。  強い北風だ。  ぴくり、とチルの鼻が反応した。 「話は終わりだ。今、ほのか様の匂いを感じた。君を殺す。この場にいる人間も殺す。それから僕が天界に察知される前に魔界に連れて帰る」 「まって!」  チルが地面を蹴る。  爪がめり込んだアスファルトから花びらが散ったのが、スローモーションで見えた。  次の瞬間、何も見えなくなる。 「やめるです!」  それはヘル子さんが前に立ちはだかったからだ。 「ちぇい!」  メイドさんの必須道具、モップで殴りつける。なぜか、爆発。チルの体は左方向に吹っ飛んだ。 「なにボーっとしてるですか! チルを撮るです!」 「え? で、でも……」  そうこうしているうちに、体中から煙を上げ、チルが言った。 「お前はそっちに行くのか」 「当たり前です。ほのか様の幸せが、ヘル子の望みですから」  その幸せがちょっと前までひとりよがりだったくせに、ヘル子さんが堂々と言ってのけた。  チルはうめく。 「幸せでも死んでしまったら意味がないよ」 「生きていたって不幸なままじゃ生き地獄です」  くぅん、と狼の声でチルが鳴いた。  しのぶちゃんにそれは、同僚を歯牙にかけることになった運命へのわずかな嘆きに聞こえた。  辺りに、金属を打ち砕く重い音が響き渡る。 「ドローミも引きちぎったですか!」  三重の束縛。そのふたつ目までは自分でも破れる、と言った。  そのふたつ目の縛めが解かれた、らしい。  チルの体が肥大し、ベンチを踏み潰した。  潰れたベンチが花に変化し、巻き起こる疾風に散っていく。  あたりから悲鳴が聞こえた。チルの姿を見た観光客が、走り去って行った。  その気持ちがしのぶちゃんはよくわかった。  人の中に残された本能の部分が叫んでいる。  こいつはやばい。 「出でよ、白亜の世を支配せし恐れの竜の王よ!」  ヘル子さんが叫ぶ。彼女の影が大きく広がり、そこから巨大な岩色の何かが出現した。  爬虫類特有の縦に割れた瞳孔が、ぎょろりとしのぶちゃんを見る。 「う、うそ」  ティラノサウルスだった。  死んだものを呼び寄せるのは知っていたけど、人の世の以前のものまで範疇に含まれるとは思わなかった。  頭にはメイドカチューシャ。メイドティラノ。  なんじゃそりゃ。 「ゆくのです、チルをガブっと――」  ティラノサウルスの首が消えた。  なくなった首から大量の血が――違う、赤い花が吹き出していく。ティラノサウルスの巨体はゆっくりと傾き、すさまじい砂煙を上げて地面に倒れる。  同時に、巨体がすべて同じ質量の花々に変じた。 「――花?」 「チルは《破壊の杖》とも呼ばれる破滅の権化です。噛み千切ったもの、引き裂いたもの、すべて花に変化させて世界を滅ぼすのです」  滅びた世界には花だけがあふれる。  不謹慎ながら少しだけ、奇麗だな、と思った。  チルはティラノサウルスの首を奪ったっきり姿を現さない。まさかあのまま逃げ出したとも思えない。  どこからか攻撃してくる。 「お姉様!」  ヘル子さんが力強く叫んだ。 「何か秘策、あるの?」 「いえ! 地獄にいらっしゃったら、ちゃんともてなすから安心するです!」 「え……」  冗談にしては不謹慎な――と思ったけど。この子はきっと本気でいってる。  それだけ今の状況がまずいってことか。 「とりあえず、ヘル子がチルをひきつけるです。そこをお姉様のパシャパシャで、チルをやっちまってほしいのです。そんなので成功するとは思えないですが、このままじゃ花になるだけですし」  しのぶちゃんは首を振った。 「ダメだよ。私は、チルを消したくない。ヘル子さんだって死なせたくない。あなたたちがいなきゃ、ほのか様が満足はしない」 「でも、他に……」  ヘル子さんが「あっ」と言った。 「ほのか様に助けを求めるです。ヘル子がそうだったみたいに、チルを怒ってもらえば――」 「でも、それでもチルは止まらない。彼は、ほのか様に憎まれることは覚悟してる」 「でもでも、ほのか様が本気で命令すれば、魔物は従わざるをえないのです!」  魔物に対する絶対強制力。  ――それは、いちばん使わせたくない。 「わかんないや」  しのぶちゃんは携帯を横に放り投げた。  携帯は孤を描き、ぽちゃんと音を立てて池に落ちる。  しのぶちゃんは一歩前に出て、公園中に響く声で叫んだ。 「私はあなたを傷つけない!」  ヘル子さんが慌てて追いすがった。 「無駄です、ドローミを引きちぎったチルは超本気モードです、説得なんか聞きません」 「でも、これしかない」  信じてもらうしかない。  結局、本当の勝利を得るためには、信じ合わせることしかないのだ。  チルにも。  そしてハネにも。  今、チルに信じてもらうためには、彼の顎の中に自分の身をさらけ出すしかないのだ。 「ほのか様も、傷つけない! 天界にも、それを約束させる。信じられないのなら、今すぐかみ殺してくれて構わない!」  ヘル子さんは涙目になっておろおろと辺りを見回す。 「ヘル子さん」  しのぶちゃんは小さく囁いた。 「ほのか様のところに行って」 「でも――」 「あなたがいたら、彼は警戒する。だから、早く」  ついにヘル子さんの目から涙がこぼれた。 「うぅ、お姉様……」  涙をぬぐって、ヘル子さんは駆け出した。  その姿が見えなくなると、途端に、しのぶちゃんの体に震えが走った。  ひとり。  狼の顎の中に身を捧げる。  空気にからみつくほどの粘つきを感じる。まるでこれが狼の唾液のように。  その瞬間――しのぶちゃんの視界の端に、岩色の何かが映った。  それに吹き飛ばされ、視界が反転し、暗転する。  水に何か大きなものが落ちる音を聞きながら、しのぶちゃんは意識を失った。 「――んげほっ」  咳き込み、覚醒する。  しばらく、しのぶちゃんは全身で震わせて咳をする。痛みで頭の中が痺れる。ようやく、今自分は肺の中につまった水を吐き出しているんだと気づいた。  吐きながら、自分がずぶ濡れで円山公園の池のほとりにいることに気づいた。  何かに吹き飛ばされ、意識を失った。どうやらそのまま池に落ちたらしい。溺れかけたが、今こうして咳き込んでいるということは、生きてるんだろう。痛みが生の証明とはよく聞くけど、なるほど、それを実感していた。 「……はあ、はあ、げほ」  数分咳き込みつづけ、あらかた吐き出した。が、まだ違和感が残る。  どれだけ気を失っていたんだろう。そんな長時間だったら自分は死んでいるので、長くて一分程度といったところか。  自分が先ほどまで立っていたところを見る。花の小山が散らばっていた。大量の花の中には、メイドのメイドカチューシャがささっている。  自分を吹き飛ばしたのは、ティラノサウルスの首だったのだ。チルが投げつけてきたのだ。  それで殺そうとしたのか、それともただの牽制だったのか。 「……ん?」  制服の襟元に小さな花がついていた。生地から生えている。花の下の生地には穴が開いてしまっていた。  ――チルがくわえて、引き上げてくれた?  だとしたら、自分を信じてくれたということだろうか。  わからなかった。  が、空気の中にあった嫌な粘着質は消えている。もうチルはここにはいないのかもいしれない。  顔を上げた瞬間、思わず声が出た。 「――あ」  桜が咲いていた。  満開だ。円山公園中の桜が白桃色に彩られていた。  祇園枝垂桜も、細い枝にいくつもの花弁をほころばせていた。  ふいに、自分がもう死んでいるんじゃないか、とさえ思った。あるいは、気を失っている間に世界は滅んでしまったのか。  どんよりとした曇天の下に広がる満開の桜。  改めて見ると、桜とは奇妙な木だった。葉が一切つかずに、花のみが咲き乱れる。花の他に何も混じらない光景は息を呑むほど美しいが――どこか妖しい。  美しさとは、どこか、まがまがしいものなのかもしれない。  だけど人間は喜んでその下で春を祝う。きっとこれを見たら、みんな慌てて花見の準備をしだすだろう。なぜいきなり咲いたかなんて二の次で。  結局、いいものも悪いものも、紙一重。  そう思ったとき。 「あれ?」  しのぶちゃんの中で、いろんなものが繋がった。 「……そっか。ああ、そうだったんだ」  しのぶちゃんは立ち上がる。携帯を探してポケットを探るが、自分で池に捨ててしまったことに気づいた。  水面の下に目を凝らすが、よくわからなかった。もう濡れ鼠だ、池に入って探してもよかったが、時間がだったら直接言ったほうが早い気もした。  しのぶちゃんは走り出す。平安神宮目指して。  もう何度も往復した道のりだが、これほど晴れやかな気持ちで進んだことはなかったかもしれない。  この事態を打開する方法が、わかったのだ。           * 「くそ」  東山京阪の近くのコンビニにあった公衆電話で、マコトは何も聞こえなくなった受話器に向かって毒づいた。  姉への電話が聞こえなくなった。  切れたわけではないようだったが、うんともすんとも言わない。なんにせよ、トラブルが起きたには違いなかった。  最後の言葉は「チル? それなら」。  ほのか様が弱気な声で尋ねてきた。 「しのぶちゃん、どうでした?」 「わかんないけど、もしかしたらもうチルと遭遇してるかも」  マコトは自転車にまたがる。 「とにかく、円山公園だ。乗って」  ほのか様を促す。  二人乗りで円山公園までなら、五分から十分が妥当なところだ。だが、それまで持つかどうか。 「あの、しのぶちゃんがわたくしの討ち手だったというのは、本当なのでしょうか?」  ほのか様が尋ねてきた。  全力でこぐマコトは、その問いにどう答えるか迷った。ごまかすか、いっそ風の音にまぎれて聞こえなかったことにしたかった。 「――そうだ」  結局、ちゃんと答えることにした。 「わたくしを討つつもりだったのでしょうか?」 「ねーちゃんがそのつもりだったら、とっくにやってたと思うよ」 「そう、ですわよね」  ほのか様の声から不安の色はぬぐいきれていなかった。 「当たり前だ。友達、なんだから」  かすかに、息を呑む音。  後ろは見えないが。  ほのか様が笑っているんだとわかった。 「そう、ですわね」  さっきよりも、かすかに明るかった。  花見小路通りから古門前通を左に折れる。古美術店が建ち並ぶ路地を全力で疾駆する。四車線の三条通や白川に面したこの辺りは、人通りが少ない。自転車を飛ばすにはもってこいだ。 「ほのか様ぁ!」  その最中に、ヘル子さんが飛んできた。文字通り、家の屋根の上を飛び跳ねて、地面に着地する。  マコトは自転車を止める。 「ヘル子さん?」 「お、お姉様が大変です! チルが――」  そのとき。  遠吠えがした。  力強い声に地が震えるのを感じる。  音は疾風になって辺りを吹きすさぶ。木々が大きくしなり、ほのか様の髪も大きく揺らされる。思わず、マコトも目を閉じる。 「……ほのか様」  風がやむと同時に、少年の声が間近からした。  目を開くと、そこに狼がいた。彼が座っている周囲は陥没し、なぜか花が咲き乱れている。 「チル。あなた、縛めを解いてるの?」  言われて、チルは息を吐いた。  途端に、逆立っていた毛並みが柔らかくなっていく。チルの周囲に咲いていた花も枯れていき、崩れて塵となり風に散った。 「お、お姉様はどうしたですか!」  ヘル子さんが涙目になりながらチルに詰め寄る。 「何かあったら、許さないですよ!」 「……生きてるよ」  チルは疲れたように言った。いや、疲れているのかもしれない。息も荒く、手足も震えている。  さっき、縛めがどうの、と言っていた。それと関係するのかもしれない。  ほのか様が尋ねる。 「助けたのですか?」 「殺さなくてもよかっただけ。あいつを殺すのが僕の目的じゃない」  チルがほのか様を見あげる。 「そして、僕の目的も達成される。ほのか様、魔界へ帰ろう」 「……イヤです」 「どのみち、もうほのか様はこちらにはいられなくなるよ」 「どういうことだ?」  たまらず、マコトが尋ねた。  が、チルは見向きもしない。 「まさか」  ほのか様が息を呑んだ。 「わたくしを狙っているという神様のほうを、倒したのですか?」  チルはうなずいた。 「でも、いくらあなたでも第三の縛めを解かなければ神殺しはできないはず」 「僕の力じゃない。他にも神を殺す方法があるよ」 「……あっ」  ヘル子さんが、しまった、という顔をしていた。 「もしかして、あれですか? なくしちゃってどうしようって思ってたんですが、チル、まさかヘル子の盗んだんですか?」 「盗んだわけじゃない」チルはそっぽを向きながら答えた。「落ちてたのを拾っただけだ」 「なにを――いいから、返すです! あれはヘル子のなんですよ!」 「ダメだ。僕は持っていない。別の魔物に持たせた」  ほのか様が尋ねる。 「どうやって神様の居場所を探したんですか?」 「あの娘の武器を奪って、一緒に持たせた。神が与えた器ですから、そこから神の居場所を割り出すのはたやすいです」  チルは空を見あげる。 「ニドヘッグで神を殺す。それで、ほのか様の安全は確約されます」           *  もう夕方だった。  期限が迫っている。しのぶちゃんは猫の姿を探しながら、神宮道を北上していた。  ふと、同じ学校の女子が平安神宮のほうを見ながら、声をひそめて話しているのが目に付いた。 「さっきの――だよね」 「こないだまでは――だったのに」  ピンときた。 「あの、すいません」  息をなんとか整えながら、しのぶちゃんは彼女らに話しかけた。 「なんか、変なもの見ました?」  汗だくで辺りを探してる自分も変といえば変だよな、と頭の片隅で思う。警戒されないだろうか、と不安がかすめるが、彼女たちは気安く返してくれた。 「見た見た! 校長がさ、犬みたいに四つ足で走ってったの。平安神宮んなかに!」 「ちょーキモかったよねぇ。こないだはメイド服だったし。大丈夫かなうちのガッコ」  多分、無関係じゃないんだろうなぁ。苦笑しながらしのぶちゃんは礼をいう。 「……ありがとうございました」  また走り出した。ふと、自分が何の抵抗もなく見知らぬ人に話しかけられたのが不思議に思ったが、今は考えないことにした。  平安神宮はもうじき門が閉められそうになっていた。  守衛さんににらまれるが、ひるまずに、逆に聞き返した。 「こっちに猫がきたの見ませんでした? デブな黒ネコなんですけど」 「猫、ねえ? 変な人ならきたけど……」 「その人は?」 「さあ? 中に入ったのは見たけど――」  答えを待たず、中に入る。  夕日で、白砂の地面が赤く染まっていた。もともと建物も朱色の柱に白壁が際立っていたが、伸びた影で黒い色映えも混じって、息を呑むほどの光景となっていた。  拝殿の前にまで来てみるが、ハネらしい影はなかった。 「ハネさーんっ!」  思い切って、呼んでみた。  が、返事はない。巫女さんが何事かとこちらを見るだけで、猫が応じてくれることはなかった。  いつもこの周辺にいるからすぐに会えると思ったが、あてが外れた。  どこを探せばいいか、考えていたとき。 「なにをしている」 「うわぁ!」  いきなり足元に現れた。 「ど、どこに――」 「声を抑えろ。君は目立っている」  周囲を見ると、閉門が近いこともあり参拝者はほとんどいない。そんななかで大騒ぎしていたら目立つどころではなかった。  ハネを抱き上げ、顔に寄せてつぶやくようにして話そうとするが。 「お、重い……」 「肉体的特徴に関する話題はマナー違反だ」 「す、すいません」  肩に担ぐようにして固定する。 「妙な魔物に追いかけられていてな。階の下に隠れていた」  校長のことだろうか。 「どうも、我の位置がおおよそながらわかるらしい。そこで尋ねるのだが、トツカはちゃんと持っているな?」 「あ、すいません、池に落としちゃって」 「……それか」  はあ、とハネがため息をつく。猫のため息というのを初めて聞いたしのぶちゃんだった。 「あれを経由すれば我の位置がわかってもおかしくはない。気をつけろ。まだその辺りにいるはずだ」  辺りを見てみるが、やはり、人影はない。しのぶちゃんは平安神宮のだだっ広い境内のまん中を歩いているので、接近してくる人がいれば一発でわかる。 「それで、我に何か用があるのではないか」 「はい、それなんです」  門のほうへと歩きながら、しのぶちゃんは答える。 「ほのか様を封じることも、野放しにすることもなくする方法を見つけました」 「まだそのようなことを。魔王がこちらにいる限り、いさかいは絶えぬのだ」 「そうです。魔王はこちらにはいられない。私は、それをなんとかしようと思っていたんですけど、でも、よかったんです。別に魔王が問題なんじゃなかったんですよ」 「……どういうことだ?」 「つまり――」 「上だ!」  門をくぐろうとした瞬間だった。  結論を言うことに意識がいって、反応が遅れた。  見あげる。校長がいた。門の上部にある階層に潜んでいたらしい。両手を広げている。  その手から、黒いボウリングの玉が落ちてきていた。重くて硬そうな玉が、直撃するコースだ。  が、それはただの玉じゃない。荒縄のような導火線がちょんと出ている。  黄色い火花を帯びて。  見覚えがあった。昨日、女子トイレでヘル子さんが持ち出した、伝説の邪龍の名がついた爆弾だ。  とっさに、しのぶちゃんはハネの体を突き飛ばすように門の外に投げ捨てた。  かばおうとしたわけではない。ただ、彼が無事でいないとほのか様が助けられないと思ったからだ。  爆弾が直撃する直前。  球体の爆弾の形状が崩れ、いくつもの竜の形になる。それぞれ、牙の生えた口元に異なる意味の嗤いを浮かべていた。侮蔑、嘲弄、優越、野卑、淫猥、憎悪、愉悦――暗い嗤笑を竜たちは浮かべている。竜は闇と化して、しのぶちゃんへと食らいかかる。  竜の名前を、思い出した。  ニドヘッグ。  《屍をむさぼるもの》。           四章  しのぶちゃんは電車に座っていた。 「……あれ?」  夕方らしい。窓の外は空が赤く、建物は黒く染まっている。それは車内も同じで、人のシルエットが影になってよく見えなかった。  座席は満員だった。  ――どうしてこんなところ座ってるんだろう?  なぜかうまく考えられなかった。  目の前に、重い荷物を持ったおばあちゃんが立った。  しのぶちゃんは周囲を見る。全員とも寝たふりをしていた。おばあちゃんも座席のまん中にこずに、優先席の前に行ったほうがいいのに――となんとなく思った。  ――別にいいけどさ。  心の中で、よし、と気合を入れて立ち上がった。 「あの、よかったらどうぞ」  おばあちゃんはしわくちゃの顔でしのぶちゃんのほうを見上げる。 「あら。いいのかねぇ」  と、その表情が一変する。  怒りと侮蔑が入り交ざった表情になった。 「それでいいことしたつもりか、偽善者が」 「えっ」  しのぶちゃんはレジに並んでいた。 「……え?」  周囲を見回す。近所のスーパーのレジだった。夕方らしく、外から赤い光が差してきて、店の中に影ができていた。そのせいか、人が形がよく見えない。  どっと冷や汗をかいていた。  ついさっきまで別の場所にいた気がするのだが、なぜかうまく考えられなかった。 「三千円になります」  レジのおばさんが言ってきた。  手に一万円札を握っていることに気づき、慌ててそれを渡した。 「こちら、お返しが、五、六、七、八、九千円でございます」  おつりとレシートを受け取って進もうとするが、多くもらっていることに気づいた。  が、レジのおばさんはもう次の人の会計をしている。まったく気づいていないようだった。 (別にいっか)  そう思って一歩踏み出しかけるが――踏みとどまった。  ――私、今、なんて考えた?  自分のものでない声が、頭の中でささやいた気がした。  ダメだ。レジのお金があとで合わないと、このおばさんはすごく怒られることになるだろう。 「あ、あの、すいません、おつり間違えてましたよ」  おばさんに差額とレシートを渡そうとした。  慌てた様子でおばさんがそれを受け取る。 「ああ、これはどうも――」  と、その表情が一変する。 「ホントはギッちまいたいんだろ? いい子のフリかよ」 「なっ――」  しのぶちゃんは教室の中に立っていた。 「……はあ、はあ、はあ」  なぜか息が荒い。うまく考えられない。  教室が夕焼けに染まり、他のみんなが影に見える。その目の前の光景しかわからなかった。  クラスメイトが集まって、ひとりを囲んでいる。円になって、全員でそのひとりの悪口を浴びせかけているところだった。  ――いじめ? (違うよ。これはそういう遊びなんだよ)  ――でも、こんな遊びなんて……。 (バカだなぁ。みんな遊びだと思ってるんだから、いいじゃないか。見なよ。先生だってやってるんだから)  たしかに、人垣の中には大人の姿もあった。 (さあ、私も何かを言わないといけないんだよ)  ふと、円になっているクラスメイトたちが自分のほうを見ていた。  しのぶちゃんは、中心の生徒を見る。  その人も、自分を見ていた。  他のクラスメイトたちと同じように、ひどいことを言えと、目で訴えかけてきた。  ――そんな……。 (どうせいい子のフリをしたって誰も喜ばないんだ。やめちゃえよ。ほら、先生も、本人だって、私が罵倒することを望んでる。私が正義を振りかざしたところで、誰も得はしない。だったら流されたほうが楽だろ。なにを意地を張ってるんだ)  ――でも……。 (簡単だよ。ちょっと、いえばいいんだ。なにかひとつ。例えば、バカ、とか。それだけで私は楽になれる)  ひどくのどが渇いている。  何もいえない。  いや。ただひとつ、人を傷つける言葉だけは言える気がした。 「……ば……」  そのとき。  窓から一筋だけ、光が見えた。  しのぶちゃんは、なぜか、ほのか様を思い出した。  彼女は正直だった。  そのせいで他人に煙たがられたりしたけど、でも彼女ならこんなとき、なにをいうだろうか。  そう考えたら、少し、胸が熱くなった。 「――こんなの、間違ってる」  つぶやく。  影たちがいっせいに消えた。  しのぶちゃんは一瞬だけ、安堵する。だが―― (バカだね)  心の声が、嘲った。  いつの間にか、しのぶちゃんの周囲に人垣ができていた。  自分を囲むクラスメイトたちが大声で罵声を浴びせてくる。数十人の口から発せられた言葉は個々の意味など聞き取れない。ただその中に込められた悪意だけが、しのぶちゃんを切り刻んでいく。 「お黙りなさい」  凛とした声が教室を叩き伏せた。  教室が静まり返る。そのときになってようやく、しのぶちゃんは自分が耳をふさいでうずくまっていることに気づいた。  おそるおそる顔を上げると、ほのか様がいた。  赤と黒の世界で、鮮明な色をもって、そこに君臨している。 「生者を嘲り死者を冒涜する邪竜よ、控えなさい。今すぐ静まるのです」  黒いクラスメイトたちは異口同音でそれに答える。 『黙れ小娘が! 虚飾の王め! 知っているぞ! お前が王の名を捨てようとしていることを!』 「他者を貶める言葉しか知らないのね。ならば己の宿命に問えばいい。本当にわたくしが偽りの王であるか」  影が、息を呑んだ。しのぶちゃんにはそう見えた。  ほのか様は影に扇子の先を向けた。 「我が名を知れ。世界の不浄を連ねた名を。あまねく世界を覆い尽くす龍の一族。滅びの歌を唱える者、灰さえも灼き尽くす炎の花を咲かす者、すべてを飲み込む大水を呼ぶ者。未だ明るきを見ぬ空の星。  我が名は世界龍・L・ほのか」 『――なっ』  夕焼けが、明ける。  世界が白くなっていく。 「魔王の名において命じる。卑しき邪竜よ、冥府の底で体育座りでもしてなさい」           *  眠っている。  しのぶちゃんは眠りながら、それを自覚していた。  目は開かない。眠っているから当たり前だ。慣れ親しんだ肌触りと匂いでわかる。自分のベッドで寝ているのだ。 「ひとまずは、大丈夫かしらね」  ほのか様の声だった。 「わたくし、魔界へと帰ることにいたしました。そこで、いくつか謝っておくことがございます」  すっと、身をかがめる音がした。 「少しだけ、しのぶちゃんを見捨てることを考えてしまいました。ご存じかもしれませんが、わたくし、魔王にはなりたくなかったのです。わたくしが魔王として命じれば、魔物は絶対に従う。そんなものになりたくなんかありません。  それに、どうやらわたくしが生まれたせいで、わたくしの親類縁者が滅亡してしまったようですし。会ったこともない方々なので愛着なんて湧きませんが、自分のせいだといわれたら、いい気はしませんわ。  だから魔王の宿命から逃れえることができないかと、あれこれ口実をつけて今回、こちらにやってきたのです。わたくしの年になったら、みんな高校生となって新たな世界への門出となるらしいと聞き及んだので、もしかしたら、と思ったのです。  けれど、どこまでも魔王の宿命はおいかけてくるのですわね。  わたくしのせいで、しのぶちゃんにご迷惑をおかけしてしまいました。本当に、ごめんなさい」  ほのか様が鼻をすする音が聞こえる。  しばらくして、立ち上がる気配がした。 「最後にひとつだけ、わがままを聞いてはくださらないでしょうか」  何かを枕もとに置いてきた。 「これを持っていてくださいませんでしょうか。そして、わたくしのことを覚えておいてほしいのです。迷惑なやつがいた、それだけでも構いません。ときどきでいい、思い出してほしいのです。  遠くに、わたくしのことを覚えてくれている方がいる。  それだけで、わたくしはがんばれる気がするのです。だから――」  ドアが開く。 「さようなら、しのぶちゃん。大好きでした」  しのぶちゃんは、飛び起きた。 「ほのか様!」 「うわっ!」  真っ暗で何も見えない。と、いきなり明かりがついた。 「うっ」  目がくらむ。ゆっくりと片目ずつ開くと、マコトが氷嚢を手にして立っていた。 「ねーちゃん、起きたんだ」 「今、ほのか様がそこに――うあ」  めまいがした。  マコトにスポーツドリンクを渡される。ぐいと飲む。冷気が体に染み渡る感覚が心地よかった。 「ほのか様なら結構前に出てったよ」 「うそ……」  あれは夢だったのだろうか。そもそも、どこまでが夢だったのかも判然としない。  しのぶちゃんは枕もとを見る。  ほのか様の扇子が置いてあった。  漆で塗られた表面には『鞍馬山』と金字で掘ってあった。前に拾い物だ、といっていた。やっぱり鞍馬寺で拾ったのか。  ほのか様がこちらで拾った最初のもの。それを預けていった。 「あれは、本当だったんだ」 「ほのか様がねーちゃんに取り憑いた魔物を払ってくれたんだ」  夢を思い出す。善意が悪意で塗りつぶされる、ひどい夢だった。けど、最後にほのか様が助けてくれた。  魔物には命じない、という誓いを破ってまで。 「ほのか様は、今どこに?」  マコトはうつむき加減に、目をそらした。  それが答えだった。  しのぶちゃんは起き上がる。  が、足がもつれて、倒れそうになった。 「どこ行くつもりだよ」  すんでのところでマコトが支えてくれた。 「ほのか様を連れ戻す」 「無駄だよ。もう決まっちまったんだ。それに、ねーちゃんフラフラだろ」  ちゃんと床を踏んでいるという感覚さえしなかった。頭もぼんやりするし、正直、立っただけで吐き気が起きた。 「でも、ほのか様は私のために魔王になってしまった。そんなの、納得できない」 「しょうがなかったんだよ。ねーちゃんはよくやったよ」 「違う! もう少しで、もう少しで、全部うまくいくはずだったのに……」  時計を見る。  十一時ちょうど。  まだ期限はきていない。 「終わってない。まだ、終わってない」 「ねーちゃん」 「あきらめるまでは、終わりじゃないの」  マコトが手を離す。  支えを失っただけでしのぶちゃんは床に崩れてしまった。  威勢がいいのは言葉だけだった。自分でも笑えるほど弱っている。こんなんじゃどのみち―― 「ほらよ」  マコトがハンガーにかけていたコートをしのぶちゃんに投げ渡す。 「え?」 「春つってもまだ夜は冷えるからよ」  目を白黒させるしのぶちゃんに、マコトはぶっきらぼうにいった。 「京都タワーだ。チャリで飛ばせば十数分」 「――マコト」 「期待すんなよ。ダメ元だからな。俺も、どうせあきらめるなら最後までやらないと気がすまないだけだ」  しのぶちゃんはコートを羽織り、立ち上がる。  さっきまで立てないほどだったのに、不思議と、力が湧いてきた。           *  夜更けの百合原家の前に、妙な連中が集まっていた。  連中といっても、ちゃんと人なのはひとりだけ。彼女はメイド服を着ている。あとは犬と猫。  ヘル子さんとチルとハネだった。 「なんであんたがここにいるですか。あんたのせいでほのか様は――」  ヘル子さんがハネをにらみつける。 「我は自分の職務を全うしただけだ。境界侵犯した魔王を封じる。それができなかったのだけが残念だ」 「この――」 「影よ。暴力に訴えるのはやめたほうがいい。たしかにこのふくよかな肉体では君の毒牙をかわすことは難しいだろう。だが、ここで我を傷つければ――魔王の意志を踏みにじることになる。そうだろう?」 「……ぐぅっ」  ヘル子さんは拳を震えさせて、耐えた。ブラシをにぎり、傍らで伏せるチルの毛並みをブラッシングする。  手つきはかなり乱暴だ。 「――くぅん」 「黙るです。チルが余計なことしなくてもうまくいくはずだったですから!」 「それは浅慮だな。どの道、我々は魔王の存在を地上に許すことは――」 「いちいちうるさいです!」 「……ヘル子がいちばんうるさい」  ぼそりと、チル。 「アンタは誰の味方なんですか!」  が、チルはだんまり。前足に顎を乗せて、はたから見たら寝ているようにしか見えない。  ハネが尻尾をぱたりと倒し、彼に話しかける。 「狼よ。君も興味深い。なぜ彼女を助けた?」 「……別に。ただ、殺す意味はなかった」 「そうだ。だが殺さない理由もなかった。見殺しにしてもよかったところを、池に落ちた彼女を引き上げた」  チルは答えない。  かわりにヘル子さんが吠えた。 「アンタは何が言いたいんですか!」 「さあな。我にもわからん。ただ、残念なのかもしれない。彼女が示せたかもしれない解答を見れなかったことが――」  玄関のドアが開いた。 「――あれ?」  しのぶちゃんとマコトだった。しのぶちゃんは自分の玄関先にたむろしているおかしな一団を見て、目を丸くした。 「みんな、なんでここにいるの?」 「伝達事項がある」「別に」「お姉様ぁ!」  三者三様だった。 「ほのか様が、行ってしまったんです! でも、よかった――お姉様だけでも無事で」 「ありがと。えと……」  チルを見て、少し驚く。円山公園で命を狙われて以来だった。が、彼は伏せたまま動かない。ただ尻尾が揺れて地面を掃いている。花の香りがした。  しのぶちゃんは塀の上にいたハネを見る。 「伝達事項って?」 「君の任は解かれた。ご苦労だった。報酬は追って連絡する」 「どういうことですか?」 「魔王は君を助け、自ら魔界へ戻ることを宣言した。一部の魔界制圧を旨とする急進派が逃すまいと気をせいているが、このまま見送るのが大方の見解だ。正直、かき回されただけで一方的に被害をこうむられたわけだが、これ以上突付いてもお互いに得がない。幸い、甚大な被害も出ていない。ここは魔界に貸しにしておくことにした」  すべてが元通りになる。  ただ、ひとりの少女を魔王という檻に叩き込んで。 「私は納得しません」  しのぶちゃんは言った。 「ヘル子さん、ほのか様は京都タワーね」 「え? あ、はい、です。京都上空にも魔界の扉があるです。十二時に開くです」 「私の携帯は――持ってないか」  チルが首を振る。と、どこに隠し持っていたのか、しのぶちゃんの携帯が転がった。 「……ありがと」 「待て。どうするつもりだ?」 「ほのか様を連れ戻します」 「バカなことを。いまさらそんなことをしてどうなる」 「みんなが少しだけ――少なくとも今よりは満足できるはずです」  しのぶちゃんは携帯を開く。防水加工だったのか、機能はまったく問題ないようだった。充電もフルである。 「そのために、みんなに協力してほしいんです。いいでしょう?」 「いいはずがあるか」  しのぶちゃんは意地悪く笑った。 「一方的にかき回されただけ。それを不服に思っているのが、ハネさんの本音でしょう。これがうまくいけば、あなたたちにも得が生まれます。  それに、あなたは私に借りがあるはずですよ。爆弾一個分はけっこう大きいと思いますけど?」  ぐぅ、とハネはうめいた。言葉を失う猫をしのぶちゃんは初めて見た。 「チル。あなたにも手伝ってもらいたい」 「イヤだ」 「君の役目はほのか様を守ること、だよね。なら、これは受けないといけないと思うよ」  チルが目を開いた。 「マコトが言っていた。望まれない魔王は殺して、次の魔王を待つことがあるって。間違いない、ヘル子さん?」 「え? た、たしかに、そういう歴史はあったです。でも、まさかほのか様を……?」 「魔界だって今回の騒動で引っ掻き回されたのは同じだと思うんです。だから彼らは、もしかしたらほのか様を厄介な魔王だと考えているかもしれない。なら、魔界に帰った途端強引に魔王を交替させる……なんてことも」 「――こっちにいたって狙われることには変わりない」  チルの否定に、しのぶちゃんは首を振る。 「大丈夫。私を信じて」  チルは、何も答えない。  ただ、立ち上がって、玄関としのぶちゃんを背にして座りなおした。尻尾がぺたんぺたんと地面を打っている。  しのぶちゃんはその尻尾にほほ笑みを返した。  次に、ヘル子さんを見る。  しのぶちゃんが言う前に、ヘル子さんは自分の胸を叩いた。 「任せるです! お姉様に、ヘル子のタマ、預けるです」 「ありがとう」  最後にしのぶちゃんは振り返り、マコトを見た。  予想していなかったのか、マコトは驚いていた。 「マコトも。お願い」 「あいよ」  わざとだるそうに答えて、自転車を引っ張り出す。  十一時十五分。  しのぶちゃんの最後の疾走が始まった。           *  京都タワー。  京都駅前に立つ、円筒式の塔だ。条例による建物の高さ制限がある京都市街において、街を見下ろすことができる唯一の場所だった。  その地上百メートルに位置する展望台から、ほのか様は京都の夜景を一望にしていた。四条や先斗町といった繁華街が見下ろせる位置にあるため、深夜に近い時間であっても煌びやかだ。  だが、ガラスに手を当てそれを見入るほのか様の表情は暗い。 「どうですかな。すべてを見渡すことができるこれこそが、支配者の視点にふさわしい場所だとは思いませぬか? 魔王様」  後ろからスーツ姿の男が話しかけてきた。影が渦巻いている。魔物が取り憑いているのだ。  男の後ろには、黒服の男たちが控えていた。やはり全員魔物だ。魔界帰還の扉を開くための術者だろう。  ほのか様はため息混じりに答える。 「七百七十円で登れる場所でいきがるなんて、底が知れますわよ」 「これは手厳しい。しかしこの時間にこの場所に立てるのはあなた様だけです。どうぞ、お時間まで勝者の光景をご堪能ください」  ほのか様は東山のほうを見てみる。  遠くて暗くて、よくわからなかった。高台にある学校はともかく、しのぶちゃんの家は建物の陰になっていて望遠鏡を使っても見えないだろう。  勝者の光景。しかし、本当に見たいものは見れないのだ。 「ほのか様ぁ!」  突然、静寂に包まれていた展望室に高い声が響き渡った。  一瞬、ほのか様を遠巻きにしている黒服たちがこわばるが、見知った顔であることで緊張を解いた。 「ヘル子さん」  メイド服のフリルを翻して、トイレの扉からヘル子さんが現れた。 「ただいま戻りましたです。お姉様は、ちゃんと目覚めましたです。すごい元気ですよ!」 「そう」  ほのか様の表情に少しだけ明るさが戻った。 「しのぶちゃんはわたくしのこと――いえ、なんでもないわ」 「……だいじょぶですよ」  ほのか様の本当に聞きたかったことを読んで、ヘル子さんが答える。  しのぶちゃんは嫌ってなどいない。それどころか――。 「ヘル子殿。ほのか様は旅と緊張とでお疲れである。少しは控えたらどうだ」 「むぅ」  スーツの男がたしなめてきた。 「……まあいいです。あんたなんかの相手をしてる場合じゃないです」  ヘル子さんは男にそう言って、きょろきょろと辺りを見回しはじめた。 「どこをどうしましょうかねぇ」 「ヘル子さん、何してるの?」  記念メダル販売機の裏を覗き込みながら、ヘル子さんは答える。 「秘密です」  そのとき、チン、という音が鳴った。エレベーターの到着した音だ。 「――なんだ?」  スーツが振り返る。もう営業時間はとっくにすぎている。エレベーターも止めていたはずだった。 「な、なんだお前ら!」  黒服が騒ぎ始めた。  何人もの巫女がエレベーターから降りてきた。全員、腰には日本刀を帯びている。  それぞれ、いっせいに抜刀する。 「八百万の神々に代わって、我々が魔王を成敗する! 覚悟!」  あっけに取られていたスーツが、その言葉に我に返った。 「魔王様をお守りするのだ!」  展望室でチャンバラが始まった。  巫女は十人足らず。狭い展望室を制圧するにはそれくらいが妥当だったかもしれない。精鋭をそろえたらしく、ひとりひとりの動きは鋭く、連携も取れている。日本刀を振り回し、混乱の抜けない黒服たちを圧倒する。  黒服たちも手に手に斧や鎚といった古代の武器を握り応戦した。実体化は無理でも得物を呼び出すくらいの魔力は満ちている。  それでも巫女たちのほうが勢いがあった。 「ああ、これがあの猫畜生が言ってた急進派勢力ってやつですかね」  ひとごとのようにぼんやりとつぶやきながら、ほのか様を背中にしたヘル子さんはモップ捌きで一度に二人の巫女をすっ飛ばす。  他の巫女たちがたじろぐ。逆に、黒服たちは沸きあがった。 「……実はチャンスかも、です」  床に崩れ落ちた二人に、ヘル子さんは笑いかけた。 「巫女服もいいですが、メイド服とかも着てみたいと思いませんですか?」 「な、なにを――」  彼女らが答える前に、メイドカチューシャをかぶらせた。  その瞬間、虹色の光とともに彼女たちの服装がメイド服に変化する。 「ほのか様をお守りするのです」 「イエス、サー」  メイドとなった巫女二人は刀を手に、さっきまで仲間だった巫女さんたちに切りかかる。  巫女たちに動揺が広がった。 「榊と柊木が敵に落ちました!」 「ひ、卑劣な! やむをえない、拘束しろ!」  一方、劣勢だった黒服たちが歓喜する。 「いいぞ、ヘル子殿! そのまま敵を一気に蹴散らすのだ!」  が、ヘル子さんはわざとらしく腕時計を見るフリをした。 「あ。申し訳ないです。ヘル子、ちょっと野暮用を思い出したです。あとは任せたですから、やられない程度にがんばるです」  ぽかん、とする黒服一同。  ヘル子はメイド化した二人に守られるほのか様に耳打ちする。 「それじゃ、あとで迎えにくるです」 「え?」  ほのか様が聞き返す間もなく、ヘル子さんは夜の闇の中に消えてしまった。           *  自転車が世界でもっとも速くなる場所はどこか?  それは観光シーズンの京都である。  バイクも自動車もバスも地下鉄も、京都市内であるのなら、自転車の速度には及ばない。  観光シーズンの京都の車道は、高濃度コレステロールを蓄えた血管よりも詰まりやすい。道も狭く信号や一方通行も多く、なにより車が多い。  一方、自転車ならどれだけ車道が混雑してようと関係ない。その気になれば信号無視も容易にこなせる。  そして今まさに、その気になったマコトが川端通を南に爆走していた。京都は若干ながら北から南に傾斜ができているので、二人乗りでありながらスピードはかなりのものだった。  荷台にはしのぶちゃんを乗せている。さらにしのぶちゃんの背負うリュックの中からはハネが首を出していた。  夜ということもあり車の量も減ってはいるが、信号の多さは変わらない。そこを平然とスルーしていく。  いつのもしのぶちゃんならありえないことだが、今はこの軽快さが頼もしい。 「……うにゃむ……にゃむ……」  背中でハネが寝言のようなものをつぶやいている。他の神様と交信しているのだろう。 「にしてもねーちゃん、どうすんだよ! よく考えたら、京都タワーとっくに閉まってるぞ!」  風圧に負けない声でマコトが叫んだ。 「わかんない! 行ってから考える!」  マコトの体にしがみつきながら、しのぶちゃんもやっぱり大声で返答した。  強引に入るか、時間稼ぎをしてくれているはずのヘル子さんに手引きしてもらうかだろう。  サイレンが近づいてきた。振り返ると、白バイが近づいてくるのが見えた。 「警察だよ」 「やばいな。こんなときに」  右手――鴨川をはさんだ前方に、ライトアップされた京都タワーが見え始めていた。 「そこの二人乗り、ただちに止まりなさい」  警官が拡声器で命じてきた。 「白バイがチャリ止めるなよ」  マコトがぼやく。  それで、しのぶちゃんがふと気づいた。  このタイミングで警官が現れるなんて、少しできすぎている。  携帯を取り出し、カメラを起動。封印モードに切り替えて、白バイ警官を映してみた。 「――魔物だ」  白バイ警官の体から黒いモヤが出ているのが、カメラの中に映っていた。 「封じるのか?」 「ダメだよ。今封じたら、乗り移られてる人が事故を起こしちゃうし」  少し考えてから、続ける。 「なるべく、魔物も封じたくない」 「わかった、捕まってろ!」  マコトはハンドルを右に切り、道を横断、車道の脇の茂みを突っ切って歩道に乗り上げる。が、ハンドルはそのまま、川のほうに突っ込んだ。 「え!」  鴨川の土手を一気に下る。体が浮かび上がる感覚。土手の斜面にぶつかり、前のめりになりそうになる。ほとんど落下に近い。 「うわぁぁぁぁ!」  ちなみにしのぶちゃんは絶叫系の乗り物は大嫌いだった。  自転車がバラバラになりそうな衝撃とともに、自転車はワンバウンド。どうにか、土手の下の下の小道に着地できた。  しのぶちゃんは落ちてきたところを見上げる。三、四メートルはあった。茂みから落ちた葉っぱがぱらぱらと散っている。 「バカじゃないの!」  しのぶちゃんがマコトの耳元で叫んだ。 「うるせえ。急いでるんだろ」 「死ぬかと思ったよ……」 「死ぬ気で飛んだからな」  マコトがこぐたびに、変な金属音がするようになった。が、一応は走るようだ。 「あとは七条の辺りで上に戻って橋を渡れば、すぐに――」  川の音と風の音の合間に、エンジン音が聞こえた。 「え?」  振り返ると、さっきの白バイが、マコトと同じコースを降りてきていた。さすがに一気に下るような無茶はせずゆっくりと安定した降下。数秒でマコトと同じ道に降り立つ。 「追いかけてきたよ!」 「くそっ」  白バイがどんどん距離を詰めてきた。 「ねーちゃん、泳げるよな!」 「鴨川のこと? む、無理だよ! けっこう流れあるし!」  先日降った雪が今日の暑さで溶けて水になったのか、水量も多かった。泳ぐなんて無理だ。 「じゃあどうすんだよ! 捕まんのか?」 「ぐっ――」  そうだ。  無理なんか承知だ。 「わかった、行く!」 「俺はあいつを押さえる。ちょっとくらい時間稼ぎはできるから、急げよ」  マコトは自転車を横に滑らせ、バイクの進行を妨げるようにして止める。  だが――。 「止まれッ!」  しのぶちゃんはそちらを見て、凍りついた。  通りの外灯の光でおぼろげにしか見えないが、バイクを降りた警官は両手をこちらに向けている。  黒い何かをにぎっていた。  しのぶちゃんはとっさに携帯を出そうとするが、 「動くなッ!」  再度の忠告に、動けなくなった。  ようやく気づく。  彼が握っているのは拳銃だった。  ――そりゃ反則だよ。  携帯カメラなんてものより、よっぽどおっかない武器だ。  マコトも動けないでいた。というか、動かないでほしいと思った。下手に動いて、傷ついてほしくない。  急に――背中が軽くなった。 「なっ――」  警官の銃口が動く。その先にすばやく動く黒い影があった。 「ハネさん!」  超ぽっちゃり体型のくせにすばやい。稲妻のようにジグザグに駆け抜け、警官の腕に爪を立てた。 「ぎゃ」  警官は悲鳴をあげる。拳銃こそ落とさなかったが、体勢が崩れた。  マコトが動く。腰を落とし警官の足元にタックル。警官は地面に叩きつけられる。そのまま押さえつけたかに見えた。  が―― 「うお――」  マコトの声が遠のく。水飛沫の音が続く。 「マコト!」  川に落とされた。圧倒的体勢から、警官がマコトの体を巴投げのように足で投げ飛ばしたのだ。五、六メートル近くは吹き飛ばされていた。  立ち上がった警官の体は筋肉が隆起し、制服がはちきれそうになっている。携帯なんか見なくてもわかる。こいつは、魔物だ。  とっさに携帯を振り上げる。  が、警官が発砲するほうが先だった。 「ですっ!」  カン、という甲高い音が響く。  闇夜に翻るメイド服。  しのぶちゃんの前に立ちはだかったヘル子さんが、手にしたフライパンで警官の銃弾を弾き飛ばした。 「フライパンは鉄製に限るです。油のなじみよく熱の通りもよく、銃弾さえも弾き飛ばしますです」 「ヘル子さん!」 「夜のヘル子は向かうところ敵なしですよ」 「じゃあ俺も助けてくれよ……」  下流のほうで岸にたどり着いたマコトがぼやくが、ヘル子さんには届かない。ヘル子さんは地獄耳だが、自分に都合が悪いことは全スルーなのだ。高機能。  魔物が突然の闖入者にたじろいだ。 「ヘル子殿……魔王様が立派な魔王となることを誰よりも喜んでいたあなたが、なぜ妨害する人間を助けるのだ」 「別にヘル子はほのか様に魔王になってほしいわけじゃないです。ほのか様が幸せになっていただくことこそ、ヘル子の望みなのです」  フライパンを警官に向ける。 「さっさとその体を解放して、魔界に帰るです。それとも、冥土に叩き込まれたいですか?」 「――ぐぬぅ」  一言うめいた瞬間、警官はその場に崩れ落ちた。体も元に戻っている。魔物が抜けたらしい。 「お姉様、だいじょぶですか?」  ヘル子さんが振り返った。 「大丈夫だけど……時間稼ぎのほうは?」 「あっちは別にヘル子がやらなくてもよさそうだったです。それより、お姉様の到着を急がないといけんのですよ」  ヘル子さんはエンジンのかかったままの白バイにまたがる。 「お姉さま、後ろに乗るです」 「う、うん」  しのぶちゃんはハネをリュックに詰めなおす。ハネが言った。 「明かりのほうはなんとかなりそうだ。が、別のほうが難しい。たしかに我々にもメリットがあるが、リスクも大きいからな。まあ、説得は続けるが」 「ありがとう」 「それと、急進派が動いたらしい。バカな連中だが――うまくすればやつらにも貸しを作れるかもしれん」  警官のヘルメットを拝借して、ヘル子さんの後ろにまたがった。  ずぶ濡れのマコトが自転車を立ち上げ、進行方向を空ける。が、自転車の前の車輪が外れて落ちた。舌打ちをして、マコトは車輪を蹴飛ばした。 「ねーちゃん。がんばれよ」 「うんっ」  力強く答えると同時に、ヘル子さんがスロットルを開く。  すぐにバイクは風に乗る。  五条大橋、正面橋、七条大橋――あっという間に駆け抜ける。七条大橋を抜けた先のスロープを使って川端通りに戻った。その先の塩小路橋を通過、鴨川を渡る。  信号は見向きもしない。  職権乱用――というか、そもそも白バイを使ってるだけで警察でもないから立派な道交法違反なのだが、細かい理屈はマコトと一緒に鴨川の向こうに置いてきてしまった。  河原町通りをフルスロットルで突っ切る。交差点を通過するときにトラックにひかれかけたが、ヘル子さんは意に介していないようだった。  しのぶちゃんも、見上げられるほどの距離になった京都タワーに意識がいっていて、トラックのクラクションなど耳に入らなかった。 「――む」  タワーも目の前となったところで、ヘル子さんがつぶやく。  道路の上に人影がいくつか見えた。ちょうど、京都タワーの土台にあたる京都タワービルの前の道路だ。  外灯で浮かび上がる人影は、巫女さんに見えた。全員が、和弓を構えて立っている。 「しっかり捕まるです!」  叫ぶと同時に、ヘル子さんは車体を右に大きく倒す。頭に地面が近づく。タイヤが地面に削り取られるゴム臭をたしかに感じた。ヘル子さんにしがみつく腕が恐ろしい力で引き剥がされそうになる。遠心力という化け物だ。歯を食いしばる。捕まったら、そのまま京都駅まで吹っ飛ばされる。  斜めに傾いだバイクの上を何かがかすめる。左の耳元に風の流れを音が切り裂いた。  矢だった。 「あぶな――」  しのぶちゃんが頭を持ち上げかけ――側頭部を殴りつけられる。脳が揺さぶられコンマ二秒だけ、意識を失う。揺り返しで覚醒し、緩めかけた腕の力を取り戻した。 「お姉様!」 「う……大丈夫……」  カン、という音が後ろで聞こえた気がする。振り返れないが、音の正体はわかっている。ヘルメットだ。恐らく、左側頭部が矢で打ち砕かれている。  巫女たちの射撃をかわしたが、二人のバイクは烏丸通に抜けてしまう。すでに京都タワーの真下。このままでは遠ざかっていってしまう。  と、左方向に、ヘル子さんが何かを投げつけた。  先日閉店したデパート――ブラッツ近鉄の入り口だった。シャッターが閉まっていたのだが、ボン、という爆発とともに穴が開く。 「へ、ヘル子さん?」 「近道するです」  そのまま急カーブ。バイクのまま、デパートに乗り入れた。  中は真っ暗だったが、物はほとんど撤去されてがらんどうになっているのが反響音でなんとなくわかった。  とても常人では身動きできない闇の中で、ヘル子さんは正確にハンドルをさばく。 「いくですよ!」  そういうが早いか、車体が縦に斜めになった。  エスカレーターを上っている。  視界がまったく利かないしのぶちゃんは、もう何がなんだかわからない。聞こえるのは幾重にも反響するバイクのエンジン音と、乱暴に階段を駆け上る衝撃音。あとは自分の歯の音だ。どれだけ強く噛み締めていても、衝撃で強引に開かれ、また打ち付けられる。舌の上にこりこりした感触を覚えた。歯が欠けたのかもしれない。  やがて、再び前方で爆発した。  音が、広がる。 「ここは――」  空には天まで繋がるかのようにそびえる京都タワーが見えた。  ブラッツの屋上だ。いつの間にかヘル子さんはエレベーターから非常階段に乗り換え、屋上にまで登ってきていたらしい。  だが、こっちはブラッツのビル。京都タワーは道路をはさんだ隣りのビルの上に立っている。およそ、四、五メートルは距離があった。フェンスもあるし、このまま向こうに渡るのは難しそうだ。  が、ヘル子さんはじっとそちらを見る。 「――まさか」 「飛ぶです」  ヘル子さんはスロットルを全開――前輪を持ち上げる。ウィリーのまま、フェンスに向かって直進する。 「待って、む――」  無理、という言葉を飲み込んだ。  やらなきゃ、行くことはできない。  ヘル子さんはぶつかる瞬間に前輪を倒し、フェンスを押しつぶす。無理やり斜めにしたフェンスをジャンプ台にして――飛んだ。  が――。 「やば……です」  どう考えても高さが足りない。  京都タワービルの壁が高速で迫ってくる。  と、しのぶちゃんの体が強い力で持ち上げられた。  ――違う。  持ち上げられたのでなく、投げ飛ばされた。下には、上に投げられたしのぶちゃんの反動も受け取って地面に落下していくヘル子さんが見えた。  彼女の口がゆっくりと動く。  ほのか様を頼むです。 「――――ッ」  しのぶちゃんは彼女の名前を叫ぶ。が、壁に激突した白バイの爆発音にかき消されてしまう。  しのぶちゃんは、気づいたら京都タワービルの屋上――京都タワーの根っこの部分にいた。 「ヘル子さん……」 「急げ。大丈夫だ。やつはあれぐらいでは死なぬ」  背中のハネが言った。 「……わかった」  しのぶちゃんは携帯を開く。十一時四十五分。ここから展望室までは、七十メートル近くある。エレベーターに乗れば一分足らずでつくはずだ。  ――なんとか間に合うかな。  しのぶちゃんは屋上から、建物の中に入った。幸い、鍵は掛かっていなかった。  階段を上り、タワーのエントランスに出た。  そこに、三人の巫女がいた。  しのぶちゃんは身をこわばらせる。 「……あなたは?」  彼女たちのほうは、突然現れたしのぶちゃんに驚きはしたが、特に攻撃的な態度は見せなかった。 「まさか、魔物? 強い凶の気が近づいていましたが」 「いえ、そんな気配はありません。むしろこれは――」  しのぶちゃんのリュックにいたハネが言葉を発した。 「ご苦労。あとのことは、この者が引き継ごう」  巫女のひとりが目を丸くした。 「あなたは……賀茂建角身命【かもたけつぬみのみこと】? ではこの方が、正式な征夷を取り仕切る者?」  何のことかよくわからなかったが、とりあえず自信満々にうなずいてみた。 「では、ついに魔王を討伐に――」 「まあ……そんな感じです」 「しかし、先発隊が行ったきり、エレベーターは両方とも上で止められています。上に行くには、非常階段で行くしか……」 「……わかりました」  ここからなら、六十メートル近く。たしか、二八五段、と聞いたことがあった。気が重いが、行くしかない。  そのとき、後ろでエレベーターの扉が開いた。  息を切らせて、巫女が走ってきた。 「先ほど魔物が――」  彼女は言いかけた言葉を、止めた。見開いた目で、しのぶちゃんを見ている。 「そ、そいつ!」  ――まずい。  さっき、このビルの前で弓矢を放ってきたうちのひとりなのだろう。しのぶちゃんの風貌を覚えていたらしい。  しのぶちゃんは階段のほうに向かおうとするが、反射的に周囲の巫女が取り押さえた。 「そいつ、魔物の後ろにいた人です!」  しのぶちゃんはうつぶせに床に組み伏せられ、両手足を巫女たちに押さえつけられる。 「……今ひとつ状況がわかりませんが、どうやら、あなたをこのまま通すわけにはいかなくなったようですね」  戸惑いながら巫女が言う。押さえ込む力にはためらいはなく、振りほどくことはできなかった。  ハネが言う。 「待て。離してやれ」 「なりません。まず説明をしてください」 「そんな時間――」  しのぶちゃんはうめくが、力が緩む気配はない。  ――こんなところで捕まるなんて。  もう少しなのに。  こんなところでおしまいなのか。  そう思ったとき――大きな影が動いた。  それは、京都タワーのマスコットのとわわちゃんだった。京都タワーをデフォルメしたかたどった、どこかとぼけた表情がチャーミングなキャラの着ぐるみだ。  そのとわわちゃんが、メイド服を着ていた。 「な、なんで?」  巫女たちがあっけに取られる。  その一瞬の隙をついて、とわわちゃんがタックル。しのぶちゃんを押さえつけていた巫女たちが転がされた。  しのぶちゃんは立ち上がり、階段を駆け上る。 「ま、待て!」 「なっ――ちょ、とわわちゃん、強い!」  エントランスから悲鳴がこだまするが、しのぶちゃんは気にせず階段を二段飛ばしで登っていく。  展望食堂の階を抜けると、本格的に非常階段になった。薄暗い明かりの中、延々と螺旋階段が続いている。壁には、展望室まで五十メートル、という表示。  ラストスパート。  しのぶちゃんはコートを脱ぎ捨て、リュックを背負いなおすと、最後の階段を登り始めた。  手すりを使って、一気に駆け上る。最近、走ってばかりだな、と思った。  これだけ走っているのだから、少しは体力がついたかもしれない。 「……はあ、はあ……」  すぐに自分の考えが浅はかだったことに気づく。そんなに簡単に体力がつくはずがない。  苦しい。  息をしても楽にならない。どんどん苦しくなっていく。  息が上がり、唾液がのどに粘りつく。不規則な息で唾液が肺に入り、むせた。咳をした勢いで歩調が乱れ、段を踏み外した。 「――うあっ」  倒れる。  段に打ち付けたすねが痛い。靴下の中で温かいものが広がっていく感触がする。血が出たのかもしれない。 「なにをへばっている。ここで自分に負けるつもりか」  ハネがリュックの中から飛び出した。  体が軽くなった。  ――あんたのせいじゃない。  文句を言いたかったが、乾いた息しか吐けなかった。  そんな気持ちなど露知らず、ハネは階段を軽快に駆け上っていく。階段にこすれそうなほど蓄えたお腹の肉が、たぷたぷと横に揺れる。  ――そんな身軽なら先に下りときなさいよ!  表に出せない怒りが体の中で燃え上がって、変な活力になってきた。  ――ああ、もうっ!  こうなったら使えるものはなんでも使う。  ハネへの苛立ちを燃料に、しのぶちゃんは立ち上がり、階段登りを再開した。  ――こっちは、病み上がりなんだってば。  くらくらする。  手すりに文字通りすがりながら、階段を上る。壁に『展望室まであと二十メートル』の表示。まだ半分くらい残っている。 「急げ。時間がないぞ」  ハネがせかす。  もう怒りも沸いてこない。ただひたすら、足を動かすことだけ考えた。  ――ほのか様。 「しのぶ!」  ハネの叫ぶ声。 「……え?」  見あげると、竜がいた。冗談じゃない。狭い階段に無理やりねじ込んだ状態で、大きな顎を持った黒い爬虫類がしのぶちゃんを見下ろしていた。  動けない。  ほとんど反射的に携帯を持ち上げる。重い。めちゃくちゃ重い。  竜の顎が開く。黄色く染まった牙が見える。恐ろしいな、と思うより、汚いな、と思った。  ――ダメだ。  しのぶちゃんが目を閉じる寸前。  竜が、花に変化した。 「僕はやることやってきたよ」  チルが、花の中心に立っていた。  へばっているしのぶちゃんを見下ろす。 「はっきり言って、僕のほうが疲れている。ドローミを破ったら、グレイプニルが思いっきり締め付けてくるんだ。そのまま京都中を走らせやがって。お前だけ楽な思いするなんて、許さない」 「……わかってるわよ」  しのぶちゃんは思い出した。  マコト。  ヘル子さん。  ハネ。  そしてチル。  自分がここにいるのは、いろんな人たちのおかげだということ。  ここで自分が、日頃の運動不足なんて間が抜けた理由でへまをしてしまったら、そのまま京都タワーから飛び降りるしかない。  なにより――ほのか様をこのまま返すわけにはいかなかった。  しのぶちゃんは階段を三段飛ばしで駆け上がる。  苦痛なんか無理やり頭の外に押し出してやる。息がつらければ吸わなければいい。足が動かないなら腕で持ち上げる。  やがて――視界が広がった。 「……ついた」  展望室の下の階だった。さらに上に階層がある。最後の気力を振り絞って階段を上ろうとするが、チルがスカートを噛んだ。 「待って。様子がおかしいよ」 「えっ?」 「たしかに、静かすぎる」  ハネがつぶやいた。 「報告では、急進派の巫女たちと交戦状態にあったはずだ。だが、この静けさ――」 「決着してる?」  しのぶちゃんは、最上部に続く階段をゆっくりと上がった。  ふたつのエレベーターがあった。黒服が倒れていて、ドアが閉まらなくなっていた。 「し、死んでる?」 「息はしている。気絶しているだけだ」  ハネが黒服の顔を覗き込んでいった。  チルも鼻をならした。 「死臭はしてない。血は……流れてるけど」  しのぶちゃんは扉を潜り抜け、展望室に出る。  ひどいありさまだった。  壁という壁に刃傷ができて、割れた窓もいくつかある。血もいくらか飛び散っていた。 「もうたくさんです!」  声が聞こえた。ほのか様の声だった。  しのぶちゃんはその方向――北東のほうへと回り込む。  そこには、黒服と巫女たちが向かい合っていた。  そして、その中心にほのか様。割れた窓の外に出て、強い風に髪がなでられている。 「ほのか様!」  しのぶちゃんが叫ぶ。全員が、こちらを見た。  新たな人物の登場に、魔物たちも巫女たちにも緊張が走る。それぞれが武器を構えなおすが――。 「動かないでください!」  しのぶちゃんが携帯を掲げる。 「この携帯にはあなた方に宿ったものを封じ込める力があります。動いたら、封じます」  魔物たちに動揺が走る。彼らもこの存在を知っているらしい。  巫女のひとりが反応した。 「十握剣か! そうか、あなたが魔王討伐の――」 「動かないで、と言ったはずです!」  厳しい口調で、しのぶちゃんは巫女の言葉を遮る。 「たしかにこれは十握剣です。でも、魔封じの力を持つと同時に、神殺しの力もあるんです。あなたたちに宿ったものをも封じ込めることができるんです」 「な――」  最初の十握剣の持ち主だった伊邪那岐命【いざなぎのみこと】は、我が子である迦具土神【かぐつちのかみ】をその剣で斬り殺している。  属性をあわせれば、神をも封じることができる。 「わかったら、みんなそのまま後ろへ下がってください」 「ま、待って。だったら、それは今、魔か神か、どちらかしか封じることができないはずでしょ?」  巫女のひとりが言った。  その通りだった。  しのぶちゃんは、ゆっくりといった。 「逆に言えば、どちらかは封じることができるんです」  助かるかもしれないし、助からないかもしれない。  この曖昧な状態が、彼らの中に迷いを生み出した。もしトツカが確実に彼らの存在を脅かす――銃弾のように絶対的な武器であるなら、いっそ彼らは一か八かの反撃を試みたかもしれない。  それしか助かる道がないからだ。  だが、あえて曖昧にすることで迷いを生じさせ、一か八かの反撃を封じ込めたのだ。  しのぶちゃんはほのか様のいる窓のところまでたどり着いた。 「ほのか様」  窓の外のほのか様に向けて手を伸ばす。 「こっちにきて。もう大丈夫」  しかし、ほのか様は首を振った。 「……もう、嫌なのです。わたくしのせいで、みんなが傷つけあう。こんなの、見ていられません」  しのぶちゃんはもう一度、展望室の中を見た。  魔物たちも巫女たちも、無傷のものはいなかった。全員傷つき、中には立っていることさえままならない者もいる。  全員、ほのか様を巡って傷ついたものたちだ。 「しのぶちゃんだって、傷つけてしまいました」  血を吐くように口にした言葉。 「他にも、そうです。雪が降ったのも、地震が起きたのも、学校が大騒ぎになったのも……すべて、もとを正せばわたくしのせいなんです」 「桜はね、暖かいだけじゃ咲かないらしいよ」  唐突なしのぶちゃんの話に、ほのか様は言葉を失った。  しのぶちゃんは笑いかけながら、話を続ける。 「一度、寒い期間をおかないと、つぼみが開かないらしい。今年はすごい暖冬で、その寒さが足りなかったのが、咲かない原因だったんだって」 「……なんのことですか?」 「でもね。ほら」  その瞬間。  闇が訪れる。  すべての明かりが消えた。タワーの室内灯はもちろん、京都中の夜景の一切合財が消えうせてしまった。 「見て」  しのぶちゃんの言葉と同時に――京都の区の中のとある箇所に光が戻った。 「……あ」  ほのか様は気づいたらしい。そこがどこか。  円山公園。白川疏水周辺。木屋町通り。近いところでは渉成園がよくわかる。  すべて桜の木がある場所だった。  光で浮かび上がる、白桃色の色。  満開だった。  京都中の桜が、いっせいに花をつけていた。 「……なんで……」 「雪が降って――そして暖かくなったから。寒くなってから、また暖かくなった。だから、咲いた。  ほのか様のせいで雪が降ったとしたのなら、桜を咲かしたのもほのか様なんだよ」  光が、戻った。  夜景も戻り、代わりに桜が消える。  すべて数秒前のまま。  ただ、ほのか様の手をしのぶちゃんがしっかり捕まえていた。 「悪いことを起こしてしまうのが魔王だというのなら――ほのか様は、魔王なんかじゃない。  周りが勝手に、ほのか様を魔王にしてるだけ。魔王だと思っているだけ。それで勝手に争って、大騒ぎして、傷ついているだけ。  でも、私は知ってる。あなたはただの、ちょっと元気がありあまってて、自分に正直なだけの女の子。  魔王なんかじゃない。ただの、私の友達」 「し……のぶ、ちゃん……」  ほのか様はしのぶちゃんの胸に顔を押し付ける。 「わたくしは、許されるのでしょうか」 「当たり前だよ。あなたは何もしていない。思いやりさえ忘れなければ、なにをしてもいい。自分のせいで他人を傷つけたんじゃないかと思ったあなたなら、もう大丈夫。こっちにいたければ、いくらでもいてもいいよ。学校に通ってもいいし、お腹いっぱい食べてもいい」 「……ありがとう」 「ま、待ちなさい!」  声は、今は完璧に外野になった巫女たちのほうからだ。 「勝手に話を進めてるけど、そんなの、神々が許すはずが――」 「そっちには話をつけてあります。ねえ、ハネさん?」  しのぶちゃんが水を向ける。が、返事がない。  ハネは倒れていた。力を使い果たしたのか。身動きしていなかった。 「…………くぅん」  見かねたチルが鼻先で、ハネの体をひっくり返す。 「……はっ。む。うむ、そうだな」  ごほん、と咳払い。 「今、我々の協議にようやく決着がついた。急進派が折れた。彼女に関しては我々は許容することにした」 「ば、バカな!」 「君たちの上役たちも同意している。むしろ喜んでいるだろうよ。失敗した急襲作戦の責任がそれだけで免れるのだから」 「……ぐっ」  それで、巫女たちは押し黙った。  続いて、魔物たちが騒ぐ。 「魔王でないなどと――人間ふぜいが何がわかる。我々はそのお方が魔王だとわかっている。いまさらなにを言おうと、運命は曲げられぬ」 「運命? あなたたちがそろいもそろって勝手に感じてるだけじゃない。多数決が正しいとでも思ってるの? なら、こっちだってそうさせてもらうよ」  しのぶちゃんの言葉に呼応して、チルが魔物たちの前に立ちはだかった。  魔物たちが戦慄する。 「狼、まさか、裏切ったのか――」 「別に僕はお前たちの仲間だった気はない。ほのか様を守るのが僕の役目。それだけ」  チルは、淡々と言う。 「ほのか様を傷つけるのなら許さない」  反抗できるものはいなかった。純粋に力においては、誰もこの狼に敵うものなどいない。欲望と力に忠実な彼ら魔物を抑えるには、もっとも単純なやり方だ。  とにかく、これですべての決着がついた。 「わたくし、こっちにいてもいいのですか?」  しのぶちゃんの腕の中でほのか様が尋ねた。 「もちろん。これからも、よろしく。ほのかさ――ううん」  しのぶちゃんは笑いかけた。 「ほのかちゃん」           終章  見あげると、晴天の空に満開の桜が映えていた。  見下ろすと、お弁当を平らげたほのか様がしのぶちゃんの膝の上でお眠りあそばれている。「うーん、もう食べられませんわ」とむにゃむにゃ言った。そんな寝言を実際に言う人初めて見たよ。  今日は休日。約束どおり、ほのか様と花見にきた。  といっても、桜が咲いた最初の休日ということもあり、円山公園は人でごった返してそれどころではない。なので、急遽学校でしてみることにした。  ときどき部活中の生徒が通るのが恥ずかしいが、それさえ我慢すれば静かでいいところだ。  円山公園の喧騒は遠く、ほのか様の寝息しか聞こえない。  ヘル子さんは屋台で何かを買ってくるといい、チルは木の下で丸くなっている。彼のことだから寝たふりをしてるのだろう。 「ふぅ」  思わず、ため息をついた。  この数日ですっかりため息癖がついてしまった。 「まったく、悠長なものだ」  桜の上から、でっぷりした猫が飛び降りてきた。その反動で木が大きくしなって、花が散ってきた。  ハネだった。 「こっちは事後処理で働いているというのに」 「あはは、すいません……」  あの夜から、彼らには頼りっぱなしだった。  ハネには、他の神様たちへの根回しと京都中を停電にさせるということを、チルには第二束縛であるドローミを外したまま京都中の桜の名所を駆け抜けてほしい、と頼んだのだ。  チルとのいさかいのあと円山公園で桜が咲いたのは、チルの魔力に影響されてなのではないかとしのぶちゃんは気づいたのだ。  つまり京都タワーでほのか様に桜を見せたことは仕込みだったわけだ。  ニュース番組ではいきなり桜が満開になったのを「寒くなったあとに、急に暖かくなったから」と説明していた。しのぶちゃんも事情を知らなければ、そういうものかと納得してしまうところだっただろう。本当、世の中の情報はあてにならない。  ほのか様が魔王だった、ということもその程度のことだ。  鞍馬寺の魔王をしのぶちゃんは思い出した。最初、地震が起こった日はそこの魔王が復活したのかとも思ったが、後日調べてわかった。鞍馬の魔王――護法魔王尊は別に悪い存在ではない。むしろ人類を救済してくれるというのだ。 「しかし、本気で思っているのか? その娘が魔王でない、などと」  ハネは弁当箱の中を覗きながら言った。中は空だ。舌打ちをする。舌打ちをする猫を初めて見た。 「もちろん」  しのぶちゃんは言い切る。 「たしかに、この子を魔王だと思った人たちが騒ぎを起こしたことはありました。でもそれは、そう思い込むだけの不幸が状況があったからです。この子自身が悪いわけじゃない。魔王なんて、象徴でしかなかったんですよ」 「ふむ」  ハネはほのか様の顔を覗き込む。 「まあ、君がなんと思おうと別に構わぬがな。利害は一致している。我々は、君の言うとおり、魔王を懐柔するという方向で決着をつけた。人間世界での生活を無事に送らせ、こちらへの侵略の意志を摘むという友好案――。こんなぬるい方針がよく通ったと思うが」  運もあった。  急進派の暴発があったから、彼らを言いくるめる口実ができたことがそうだ。  何より、ハネ自身が二人の友情を見ていたからこそ、その案を推し進めることができた。  ほのか様そのものは信用していないが、ほのか様がしのぶちゃんを慕っていることは証明されている。しのぶちゃんがこちらにいる限り、ほのか様は間違っても侵略しようなどと思わないだろう。 「君たちの友情が永遠に続くことを願う」 「な、なんですかそれ……」  いきなり恥ずかしいことをハネに言われて、しのぶちゃんは顔を赤らめる。 「君たちの友情が続けば、我々は魔王を許容しよう。そして安全であれば、そこの狼は魔界に対して牽制を続けてくれる」  チルの耳がぴくりと動いた。 「一応、丸く収まっている。不思議なくらいにな」 「信じるものは救われるってやつですよ」  しのぶちゃんは、笑った。  みんながお互いを少しずつ信じあえれば、敵も味方も同じゴザの上で花見をしたりできる。 「そうであることを祈ろう」  ハネが、思い出したようにつけくわえた。 「トツカはどうする。神具だが、君に預けたままでもやぶさかではない。君も何かあったときのために必要だろう?」 「あぁ、そうですね……」  少し考えて、答える。 「いりません。あんなものがなくても、ほのかちゃんとはうまくやっていけます」 「お姉様ぁーっ」  そのとき、ヘル子さんがやってきた。両手にはえらい量の食べ物を抱えている。円山公園中の屋台を巡ったのではないだろうか。 「弟さんも拾ってきましたー  後ろにはマコトもいた。 「拾った言うな。暇だっただけだっての」 「……うみゅ」  と、その騒ぎのせいか、ほのか様が起き上がった。  いきなり、ほのか様が起き上がった。  目をこすっているとそのお腹から、くー、と音が鳴る。  ――まさか、またお腹が減ったの? さっきお弁当全部食べたくせに……。  唖然とするしのぶちゃんをよそに、ほのか様は拳を空に突き上げる。 「さあ、これからが本番ですわよ!」  しのぶちゃんは苦笑する。  あきれて、怒って、泣いて……いろいろあったけど。  今は笑っている。  正直疲れることもあるけれど、やっぱり、楽しい。  自分はこのちょっと変な友達が好きなんだ。 「あら。これが噂に聞いたビールというやつですわね? それでは一口……」 「えっ? だ、ダメだよお酒は!」                                  おしまい。