序章  小学五年生の夏の日だった。  望は道場に稽古に行ったが、真茅がいなかった。剣道着のまま竹刀を担いで、真茅の家になっている母屋のほうに向かった。  犬小屋のほうからしゃくり声が聞こえてきた。 「真茅?」  真茅は寝ている犬の前に座っていた。飼い犬のムサシだ。バカみたいに人懐っこい犬で、だれかれ構わず人を見ると飛びついてくる。先日、二ヶ月しこんでようやく三回に一回お手ができるようになったばかりだ。  望や真茅が近くにいるのに、今日はぴくりとも動かない。  真茅が顔を上げた。真っ赤な目に、涙が潤んでいた。望の顔を見ると、しゃくり声を大きくして、泣き始める。  望は自分が泣かせてしまったみたいで慌てた。 「ど、どうしたんだよ……」  真茅のじいちゃんに見つかりやしないかと焦った。前に竹刀で後頭部に不意打ちして真茅を泣かせたことがあった。そのとき、道場の先生であるじいちゃんに思いっきりゲンコツを食らったのだ。面の上からでも骨まで響いた。あれをまた食らうのをごめんだ。 「むさ、ムサシが……」  言葉にならない言葉で真茅が言った。  ムサシは口から舌を力なく垂らしていた。その下が湿っていた。  地面に染み込んだ液体は、よだれにしては黒すぎる。  その正体に気づいた瞬間、ぞっと、冷たいものが望の腹の中に落ちる。 「わた、わたしが、お手のほう、教えたから……待てって行っても、ムサシ、行っちゃったから」  真茅はムサシにお手か待てか、まずどちらを教えるかを悩んでいた。「犬っていったら基本はお手だろ」の望の発言で、お手を教えることにしたのだ。 「わたしが、綱を離しちゃったから――ムサシ、車に――」 「どんなだ?」 「ふぇ?」 「どんな車だった!」  ひっ、と真茅は短く悲鳴をあげる。 「あ、赤い車……な、ナンバーが23番」  怪しい車のナンバーは覚えておきましょう。先生に言われていたことだ。  望は駆け出した。道路に出て、街のほうに向かう。とにかく車が多いところへ。手にしたままの竹刀を強く握りしめた。  許さない。仇を討ってやる。それだけを頭の中で繰り返しながら、望は走った。  真茅は散歩の途中にでもムサシの綱を離してしまったのだろう。ムサシは真茅の静止も聞かずに走っていってしまった。それで、赤い、ナンバーが23番の車に轢かれた。車はそのまま逃げていった。今もどこかでのうのうと生きている。  一方的にムサシに不幸を与えて、どこかへ消えてしまった。  ――ちくしょう!  ムサシは半年前に真茅が拾ってきた犬だ。家族に反対されても必死に説得して、ようやく許してもらえた。誰にでも尻尾を振るバカ犬で、番犬にもなりやしない。それでも真茅はかわいがっていたし、望も柔らかいお腹が好きだった。  それが、殺されたのだ。  頭の中で、赤い車を何度も何度もぶっ壊した。  その想像をいち早く実行するために、とにかく走った。  そして、見つけた。  コンビニに車高が低い車がエンジンを動かしたまま止まっていた。真っ赤な塗装が目に痛い。  ナンバーは、23番。  想像が現実になった瞬間――望は、頭が真っ白になった。  勢いは完全に消えてしまっている。だいたい、竹刀一本で車を壊せるはずがない。それに弁償とかしないといけないんじゃないか。悪いのは向こうだけど、車を壊すのだって悪いことだ。そうだ、警察に電話してなんとかしてもらえば――。  コンビニから若い男女が出てきた。  二人とも露出が高い服を着て、髪を金色に染めていた。  不良だ。  子供である望にとって、近づいてはならないものだった。  彼らは自分たちを見る剣道着姿の子供に気づいたかもしれないが、そのまま自分の車に乗ろうとする。  その瞬間、男のほうが車のバンパーを見て顔をしかめた。 「あーっ、やっぱ傷ついてんじゃん。クソッ、新車だぜ?」  女がケラケラと笑って答える。 「どうせ親に買ってもらったもんでしょ」 「うるせ。今はオレの――ん? なんだテメエ」  男の後ろに、望が立っていた。両手には竹刀が握られている。距離は一メートルと半分。踏み込めば打てる――いわゆる、一足一刀の間合い。  望は、敵をにらみつける。  男の目は充血して、濁っていた。一切の光を弾かない黒い目。いろんな汚いものが混じり合っているから黒く見えるのだ。  こいつがムサシを殺した。こいつが真茅を、泣かしたのだ。 「メェェェン!」  面は相手の頭には届かず、竹刀が顔面に叩きつけられる。  男はヒャッと女みたいな悲鳴を上げて、鼻頭を押さえた。  ひるんだところを、望はめった打ちにする。  面、胴、と最初の二撃までは技を意識したが、そこから先はとにかく竹刀を叩きつけようと、腕だろうが肩だろうがとにかく打ちまくった。 「クソがッ」  起き上がった男に思いっきり蹴られる。竹刀で防ぐが、めりっ、という致命的な音が響く。  望はアスファルトの上を転がる。手から竹刀がこぼれ落ちた。折れてしまっていた。 「このガキッ!」  男は血走った目で、倒れた望を蹴りまくる。一瞬だけ、男の顔が見えた。鼻血で顔の半分が赤く染められていた。  望は、勝った気がした。 「ちょっと――そんなのいいから行こうよお」 「うるせえ! このガキ、殺してやる!」  そんな言葉が聞こえる。  だが、どうでもよかった。  敵に一矢報いることができた。それだけで、満足だ。  気がついたら、白い部屋で寝ていた。  真茅が横になる望に取り付き、泣きじゃくっていた。 「望が死んじゃうよ!」  なに言ってるんだ?  俺は勝った。大人に鼻血吹かせることができた。だからお前は泣かなくていいんだ。  そう言おうとしたが口が動かない。  起き上がろうとしても、指一本動かない。  ただ、泣きじゃくる真茅を見ることしかできない。 「ムサシも――望も――死んじゃう――」  急に気持ちが冷めていった。  勝ったって、何にだ?  ムサシは死んでしまった。真茅だって泣いている。  何も変わっていない。  不幸はいつも結果だけを押しつけてくる。自分たちが何かできるのは、負けが決まったあとからだ。そこからどれだけあがいたとしても、終わったものを覆せたりはしない。 「のぞみ……のぞみぃ」  どうすればよかったか、なんてわからなかった。  ただ、望は擦り傷で汚れた手で、真茅の頭を撫でてやった。 「のぞみ」  赤くなった目からぽろぽろと涙をこぼしながら。  それでも、真茅はせいいっぱいに笑った。  どうすれば勝てるかなんてわからない。  けど、いつか。  それができる方法がわかったとしたら、絶対に守ってやろう。  もう、誰の泣き顔も見たくはなかった。  十年前。望が初めて『敵』に負けた日だった。           第一章 「受験者の総数が減ったって言っても、やっぱり難関校や国立大学は競争率が高いし……」  真茅の言葉を聞き流しながら、望は空を見あげた。  空には、分厚い雲が蓋となっていた。飽和状態の水蒸気を、このアスファルトで固められた街に閉じ込めているのだ。  望は汗で張り付くワイシャツの襟をはためかせ、中に風を送った。が、ぬめった空気は何の効果ももたらさない。汗でワイシャツが肌に張り付いて、不快さが増すばかりだった。  今年の梅雨は、暑い。 「って、こらっ」  いきなり腕を引かれた。  望の思考が現実に戻ってくる。  すぐ横をサラリーマンの男が通り過ぎていった。去り際に舌打ちを浴びせられる。いつの間にか信号は青になっていたのだ。 「ぼーっとしすぎだから」  望の腕を掴んだまま、真茅が軽くにらみつけてきた。 「あー、すまん」  頭をかいて、謝る。たしかに、信号が変わったのに気づかないようでは反論できない。  真茅と望も横断歩道の端を渡る。  なんだか、街じゅうがせわしなくなっている気がした。  人は次々と二人を追い抜いていくし、左折する車も歩行者の五十センチ差の位置までせり出している。信号なんて、渡っている途中なのに青のライトがもう点滅している。 「望。望?」  真茅に袖を引かれた。 「あ、ごめん。えっと、何だっけ?」 「……まだ何も言ってないよ」  真茅はため息をつく。  彼女の笑顔も、最近見ていない気がした。 「気づいてないかもしれないけど、このごろ望、ぼーっとしていること多いよ?」 「いや、そんなことは」 「今日だって予備校に見学の約束、忘れて帰ろうとしてたし」  それは違うと言いかけるが、望は口を閉ざした。  忘れたのではなくわざと帰ろうとした、なんて訂正できない。 「望も、いいかげん進路ちゃんと考えたほうがいいよ。もう半月も経ってるんだからね?」 「そんなに経ったのか」  剣道部の引退試合のことである。  望は、強かった。気迫のこもった打突で威圧しまくり、力強い振りで一本をもぎ取る。優れた体格と体力のなせる豪快な剣だった。  が、うまくはなかった。  現代剣道とは、規定の位置に有効打を当てることで勝敗を決めるスポーツである。  二回戦のことだった。お互いに一本を取ったのちの、最後の一戦、三本目。裂帛の気合とともに踏み込んだ望に合わせて、相手はコツンと面を入れたのだ。  一瞬後に炸裂した望の面で相手は脳震盪を起こすが、勝負は先に当てた相手の勝ちである。 「真剣なら勝ってた」 「そして、今ごろ臭い飯を食べてたところだったね」  とにかく、推薦の道は消えた。まっとうに勉強しないと、大学には進学できない。 「予備校って、俺のガラじゃないよなぁ」 「ガラで勉強するわけじゃないでしょうが」 「でも、大学は勉強するために行くもんだろ。大学に行くために勉強するってのもおかしくないか?」  受験生なら誰もが考える言い訳である。  真茅が、立ち止まった。 「わたしはね。別に望は大学に行かなくてもいいとは、思ってるんだ」  予想外の言葉だった。  それ以上に、真茅のさびしそうな目に望は息を呑んだ。 「だけど、他にやりたいことがないなら、とりあえず大学に行くっていうのも間違ってはないと思う。ほら。剣道だって、とりあえず中段が基本の構えでしょ。攻めることも守ることもできる。それだよ。これから望がどう攻めるかはわからないけど、それまでは中段の構えをやってみればいいんじゃないかな」  望は曖昧にうなずいた。  真茅の言うことは正論だが、納得しきれなかった。  そもそも自分は、望んで中段の構えを取ろうとしてしているわけではない。  まわりがそうしているから、それにあわせているだけだ。  それは、望が忌み嫌った『小手先の技』なのではないだろうか。  本当に倒すべきものを、それでは倒すことはできないのでは――。  風が、吹いた。  澄んだ空気が汗を一気に奪い去る。  思わず足を止め、その風の方向に振り返った。  反対側の歩道に伸びる横断歩道を渡る人の群。  そこに、その少女がいた。  長い髪が目を引く。腰まで届くその髪は自然に流れ、風を感じさせる。なぜか冬の制服を着ていたが、歩くたびに翻るスカートやブレザーの裾は軽快で、暑苦しいどころかむしろ涼しげでさえあった。  だが、何よりも異様なのは、その左手に無造作に提げられているモノ。  ゆったりとした曲線を描いた棒状の一振り。  豪奢な鞘に入った日本刀だった。  彼女が不意に立ち止まる。  こちらを振り向こうとした瞬間――。 「あれ?」  サラリーマンが彼女の前を横切った瞬間、その姿は消えてしまった。  途端に、街の喧騒が戻ってくる。一瞬だけ訪れた清涼が嘘のように、粘ついた空気が肌にまとわりついてきた。  ふいに、真茅のことを思い出す。  人ごみを隔てて、喫茶店のビルの前に立っているのを見つけた。 (あんなところに)  よく見ると、喫茶店はビルの一階になっている。テナントなんだろう。上のほうの階の窓には『一枝予備校』とあった。目的の場所だ。  慌てて追いかける。これでは「ぼーっとしてる」と言われても反論できない。 「おい、真茅――」  と、言いかけてためらった。  真茅は誰かと話していた。 「秀也?」  剣道部の副将だったやつだ。  そういえば、真茅が「間宮くんとは予備校でよく会う」と言っていたのを思い出した。  秀也は眼鏡の奥の目を曇らせたように見えた。 「都築……進藤が連れてきたのか?」 「うん。望にもいいかげん復活してほしいしね」  三人で顔を合わせるのは久しぶりだな、と望は思った。  剣道部の同学年はこの三人しかいない。だからか、休日もしょっちゅう一緒に遊んでいたのだが、部活を引退してからはすれ違うことが多くなった。  ビルの自動ドアをくぐったところで、真茅が申し訳なさそうに言った。 「それでさ、望。悪いんだけど、先に行っててくれないかな。間宮くんと約束してたの、すっかり忘れてて」 「約束?」  秀也を見るが、うつむき加減で、まるで望と目を合わせないようにしているかのようだった。  前から物静かで無口なやつだったが、今日は特に覇気がない。疲れているのだろうか。 「まあ、いいけど」 「わたしから誘っておいて、ごめんね」  望は二人を見送って、エレベーターに乗った。  扉が閉まり、階数を押そうとして気がついた。 (何階か、知らない)  ビルの外から見たが、四階か五階辺りだということしか覚えていない。  少し操作盤を見つめていたが、ためらっていた指は、『R』のボタンをおしてしまった。  屋上。  動き出したエレベーターの震動によろめき、望は壁に背中を預ける。  ため息をついた。  もちろん、屋上に教室があるなんて思っていない。  ただ、急に冷めただけだ。  真茅や秀也には目標がある。少なくとも、大学を目指すことに迷ってはいない。  だから、自分がこのまま半端な気持ちのままあちら側に行くのは、間違っている気がした。 (……じゃあ、なにをすればいいんだろうな)  自分の手のひらを見つめる。  皮膚は分厚く、ごわついている。小学生の頃から十年近く、絶え間なく竹刀を握りつづけた手だ。  最初のきっかけは、時代劇だった。  最初は、親の「シブいの好きだなぁ」と言ったのが褒め言葉に聞こえて見つづけただけだと思うが、そのうち悪党を闇から闇に葬る姿がかっこいいと思い始めた。  子供が特撮ヒーローに憧れるように、望はサムライに憧れた。  自分もそうなろうと剣道を始めたのだ。 (……おいおい)  思わずよみがえらせてしまった記憶に、内心でつっこみを入れる。  現実逃避とは、いよいよどうかしてるな。  まとまらない思考を、開いたエレベーターの扉が遮断した。  エレベーターの外は薄暗い部屋だった。階段と、屋上につながっているだろう重い扉しかない。  何もない、行き止まり。  しかたない。観念して予備校とやらに向かおう。『閉』のボタンを押そうとしたそのとき。  クラクションの音と、轟音が折り重なって聞こえた。 「ん?」  近い。  すぐ下から聞こえた気がする。  望はエレベーターを出て、屋上に続くドアノブをひねってみる。  開いた。  ビルのセキュリティにおせっかいな小言を考えながら、そのまま屋上に出た。  意外と広い。四方をフェンスで囲まれた空間は、空調の室外機が隅に固まっているくらいで遮るものはない。剣道の試合くらいならできそうだ。  強い風が吹き付けてきた。  湿った空気の中に、焦げ臭いものが混じっている。 「これって……」  望は小走りで、大通りに面したフェンスに近づいた。  途端に、視界が黒で塗りつぶされる。  空気を吸った瞬間、のどの奥に粘りっぽいものが焼きつく感触がした。  思わず腕で鼻を覆うが、激しく咳き込んでしまう。  煙だった。焼けたプラスチックのような、化学系の臭いがした。  風向きが変わり、視界が開ける。  ビルの前の道路で車が燃えていた。  事故でも起こしたのだろう。トラックが横倒しになり、荷台部分が赤黒い炎に包まれている。積荷はわからないが、この臭いは尋常ではない。 「やばいんじゃないかこれ?」  真っ先に思い浮かんだのは、真茅と秀也の顔だ。  あいつらは一階にいた。すぐに逃げ出していればいいが。  このビルにだって他に何人も人がいるはずだ。あのトラックが爆発でもしたら、えらいことになる。  はやく逃げなければ。 (――逃げる?)  その言葉が、引っかかった。 (俺たちは危機や不幸に翻弄されて、ただ逃げるだけで、いつやってくるかもしれない『悪』に怯えるしかない……)  望は首を振る。 (今、そんなことを考えてる場合じゃ――)  とにかくエレベーターに戻ろうと、身を翻した瞬間。  望は、固まった。  目の前の地面に、突き刺さっていた『それ』から、目を離せない。  さっきはこんなものなかった。あったら絶対に気づいている。  意味がわからない。  抜き身の日本刀が、なぜこんなところに突き刺さっているのか。 「……なんなんだよ」  声が震えていた。  望はそれで、自分が笑っていたことに気づく。  笑うしかない状況、というのが本当にあるとは思わなかった。  刀を見る。長大で、刃だけでも一メートル以上はある。普通の日本刀とは違い、切っ先から刃の半分ほどにかけて、両刃になっていた。  研かれた刀身の中に、自分の姿が映っていることに気づいた。  進学塾の屋上に突き刺さる、斬るためにだけ生み出された道具。  似ていた。  流れ始める周りに取り残された自分が。  そう思ったとき。  望は、手が刀の柄を握っていた。 「うっ」  体に電撃が走る。  稲妻の感覚は望の体を神速で駆け抜け、大気を伝い街中へと広がる。  見える。  コンクリートのビル、騒然とする人々、燃え盛るトラック、立ち上る黒煙――。  そして、煙の中にたたずむ仮面をかぶった巨体の姿。 「なっ!」  望は顔を上げる。  肉眼で、それを確かめた。  二メートル近くはある。一応、人の形をしているが、全体的に霞をかぶっているようにおぼろげに見えた。色は、赤い。毒を焼いた炎のように、黒々とした赤だった。  その中にはっきりと見えるものは、ふたつ。  まず満月のように丸く白い仮面だ。目の位置にふたつの穴が、口の位置に三日月型に切り取られた穴が開けられ、笑う顔をかたどっている。  そして、右肩に担がれた長大な得物――槍の先に斧の刃を合わせた、ハルバードと呼ばれる武器だ。鋼の刃には錆や刃こぼれがあり、表面は乾いた血で暗く曇っていた。 「……なんだよ、お前」  化け物は、笑い声を上げた。  動かない仮面の代わりに、全身を震わせて嘲笑している。  興奮した猿のような声だった。イントネーションがあり、言葉をしゃべっているようにも聞こえるが、望には何と言っているかはわからなかった。  ただ、体だけがそれに対し、素直に反応する。  いつの間にかコンクリートから抜いていた刀を、両手で持ち直したのだ。 「ヒャッ!」  《仮面》の姿が、消えた。  違う。  跳躍だ。 「くっ」  望は横に転がる。  高速で得物を振る鋭い音に続いて、粉砕音が望の体を震わせる。  五メートル近くあった距離を一瞬にして詰め、《仮面》がハルバードを望に振り下ろしたのだ。だが、望はとっさにそれをかわす。鋼の斧がコンクリートを砕く。  破壊、したのだ。  麻痺しかかっていた望の恐怖心が、ここにきてようやく動き出す。 (こいつは、少なくともあの武器だけは――現実)  かちかち、という音が聞こえる。  何の音かわからない。すぐ近くで、断続的に鳴り響く、何か硬いものを打ち合わせている音。ゆっくりとハルバードを引き抜く《仮面》の動きを注視しながら、音の正体を探した。  《仮面》が、ハルバードを振り上げる。  刃についていたコンクリートの破片が飛び、望の頬を打つ。  その瞬間、音の正体が知れた。 (俺の、歯の音)  《仮面》がハルバードを横薙ぎに叩きつけてくる。  それは望の頭上のわずか上を通過し、背後にあった鉄の扉を大きくたわませる。  望は、ハルバードの真下にへたれこんだまま、動けない。  よけたわけではなかった。単に自分の恐怖心を自覚して、腰を抜かしただけだ。  全身の力が抜けている。心臓の音だけがバカみたいにはっきり聞こえるが、筋肉が言うことをきかない。自分の体が消えてしまったかのように動かない。  ただ、一メートル足らずの位置に接近した《仮面》の姿を見あげることしかできない。  《仮面》もまた、ハルバードを構えなおしながら望を見つめていた。  目の穴から見えるのは、黒い空間。あらゆるものが混じり合って、結果的に黒く見える光を呑み尽くす闇の色。  表情がないはずの仮面に、顔が見えた気がした。  ずっと昔に、幼馴染の犬を殺した男の顔だ。とっくに顔は忘れたと思っていたが、濁った目には見覚えがあった。  その瞬間、望は直感する。  こいつは『不幸』そのものだ。  あるいは『害悪』。  あるいは『災厄』。  太古の人々が見えない凶事に形を与え、『悪魔』や『鬼』や『邪心』と呼んで祓おうとした、その対象がまさしくこれだ。 「――クソが――」  つぶやきとともに、両手の中に熱が生まれる。  小指と薬指のみで握りしめる――剣の基本の手の内。  熱は瞬く間に全身に広がり、感覚を取り戻す。  そして思い出す。  手の中には何があるか。  竦んだ体はどう戻すか。  敵が目の前で武器を振りかぶった瞬間、何をすべきか。 「――ドォォッ」  抜き胴。  気合一発、攻撃を受ける寸前に敵と交錯、《仮面》の胴を打ち抜いた。  胴を両断できる軌道だったが、手応えはない。《仮面》の体も輪郭が多少揺らいだだけでつながっている。体は実体がないのか。  望は、うろたえない。  刀を中段に構え直す。  真剣を持つのは初めてではない。真茅の道場で何度か触らせてもらったことがあった。  これはその刀よりもはるかに長い。やり慣れた形を取ると、その長大さを感じずにはいられない。いつも使っている竹刀の半分以上も長いし、木刀よりも反りが深い。  何より、重い。  しかしそれによって腕が疲れるということはない。  むしろ体が軽くなったかのような感覚に満ちている。  今なら、ひと蹴りで空も飛べる気がした。  《仮面》の体が傾いだ。  地面の上をジグザグの軌道で跳びまわる。速い。一気に望の死角に回り込んでくる。  同時に、その速度を載せてハルバードの穂先を突き刺そうとしてくる。  だが、見える。  望は一足で体を入れ換え、《仮面》に向き直る。刃を斜めにあて、刺突の直線の軌道を外に受け流した。  鋼が高速でこすれ合い、火花が散る。  その白い光が消える前に望は刀を翻し、振り抜く。  甲高い音が響く。  仮面が、まっぷたつに割れた。  外れた仮面は地面に落ちる前に、粉々に砕けてしまう。  粉塵となった仮面が虚空に消えると同時に、おぼろげだった化け物の体も、そして硬質を持っていたハルバードさえも消えてしまう。  悪い夢が覚めるように。 「……倒した?」  刀を振った形のまま硬直していた望が、片膝をつく。震えていた。 「俺が、化け物を……」  剣の教えに一眼二足三胆四力という言葉がある。技を見切る目、動く足、据わった胆、そして剣の技量と、重んじるものの順で並べてある。  今の望は、すべてを見抜く目と、軽くなった足さばきが備わっていた。  人間離れした化け物を倒せるほどのものが。  呆然となって、望は大の字になって仰向けに倒れる。  サイレンの音が近づいてくるのがわかった。消防車だろう。トラックの火を消しにきたのだ。  だけど、悪いがもう遅い。  望は力が抜けた笑いを浮かべて、空を見あげる。  そこにはもう黒い煙は掻き消えていた。  さらに向こう――この街に蓋をしていた灰色の雲にも切れ目が見えた。  夕日に赤く彩られた、満月が顔を覗かせる。  望はそれを、美しいと思った。          二章  雲の切れ目から見えていた満月が一瞬にして消えた。 「――は?」  点々と汚れが浮いた白い天井。笠に埃がたまった蛍光灯。  ものすごく見慣れた感がある。 「はァ?」  慌てて起き上がろうとして――失敗した。  体がうまく動かない。痛い。  久しく忘れていたこのひねられるような苦痛。間違いない。筋肉痛だ。  原因は、さっきの戦闘しかない。火事場のバカ力とでも言うのだろうか、自分でも信じられないくらい機敏な動きをしていたと思う。なにせ、目にも止まらぬ速度で迫ってくる、武器を持った本物の化け物を相手にしたのだ。もう一度やれと言われて、できる自信はなかった。  しかし、ついさっきのこと。まだ『二日目の筋肉痛』が来るほど老いてはないと思うが、一分後に来るほど超人的な体をしているつもりもなかった。  唯一まともに動く首を動かして周りを観察しているうちに、おかしなことに気づいた。  ここは自分の部屋のベッドの上であること。  開けっ放しの窓から見えるのはどう見ても青空なこと。  まぶしいのは朝日だろうこと。 (もしかして、あれから一晩経ってる?)  それなら、この筋肉痛も納得がいく。  だが、記憶がない。意識が屋上の死闘から陸続きだ。  そもそもあれがあまりに現実離れしすぎている。すべて夢だったのだろうか? だがそれではこの筋肉痛は――。 「ほい」  そんな声とともに、視界に輝くものが飛び込んできた。  朝日を反射して銀色に光る、長くて鋭利なそれ―― 「ぬわっ!」  慌てて飛び起きる。  一瞬遅れて無理に動かした全身の筋肉から悲鳴が聞こえるが、望は目の前の光景で何も考えられなくなった。  どす、という小気味いい音を立て、昨日望が使っていた日本刀が枕とベッドを串刺しにした。 「ようやく起きやがったか」  ベッドの枕側にある学習机の上に、学生服姿の見知らぬ少女がいた。  ぞっとするほど綺麗な顔つきだった。縁取られた長い睫毛の一本に至るまで、完全に左右対称。真円を描く虹彩は、茶褐色の中にほんのわずか、蒼が混じっている。腰まである黒髪は磨かれた黒曜石の鏡のように、銀色の光を弾く。呼吸や心拍のわずかな動きで瞬間ごとに形を変えた。  思わず息を呑んだ。  じっと見てたら、にらみ返された。  別の意味で、息を呑んだ。  目を吊り上げる、なんてかわいいものじゃなくて、眉間にしわを寄せ眉を八の字にひねり上げる、関西系暴力団みたいなにらみ方だ。もとの顔が整っているだけに、般若面のような恐ろしさがある。 「クソが。余計な手間かけさせるなっての」  一瞬、誰が発している言葉かと思った。  鈴が転がる声で、汚い言葉を吐く、美少女。  望はその一瞬で、ものすごく疲れた気がした。  ぶつくさ言いながら、彼女はベッドのスプリングでぷらぷらしていた刀を引き抜く。刀を振って、串刺しにされたままの枕をはね飛ばす。枕は羽毛を撒き散らしながらドアに当たって落ちた。  少女は刀を、もう片方の手に握っていた鞘に納めた。  その豪奢な鞘。そして、彼女が着ている冬の学生服。  どこかで見たような気がした。 「オレのことはユメとでも呼べ。笑ったら殺す」  独り言をするように、彼女が早口で言った。 「は?」 「昨日のは全部現実だ。正確には現実で夢を見たようなもんだが、細かいことは気にするな。オレはこの刀《真夏の雪》の護り女として、テメエに預けた。おめでとさん。あとはお縄にならない程度にがんばりな。じゃ」  用はすんだとばかりに言い切って、彼女は立ち上がる。 「あ、ちょ――」 「ほれ」 「うお!」  鞘に入った刀を放り投げられ、慌てて受け取る。  その間に、彼女は窓枠に足をかけ、外に出ようとした。土足だった。 「ま、待って!」  望が彼女の足にすがりつく。筋肉痛などこの際無視して、彼女の細くて白い左足を両手でがっちり抱え込んだ。 「なっ! テメエ、どこに触ってんだ!」 「ちょっと、ちゃんと説明を――」  足に抱きつき彼女を止める望と、その頭を引き剥がそうとする少女。 「おにぃ? 何騒いでんの?」  ドアが開いた。  妹の希子が顔を覗かせた。  脱色した髪が飛び跳ねている。今起きたばかりなのだろう。 「あ、いや、これは違う。この女は別にそういうわけじゃ――」 「女ぁ?」  しょぼしょぼとまばたきを繰り返し、希子はため息をつく。 「おにぃ……そういうのは夢でやってよ」  そして、ドアを閉めてしまった。  望はドアの風圧で舞い上がった枕の羽毛をしばらく見つめていたが、おそるおそる、自分が抱きしめているであろう少女のふくらはぎに視線を戻す。  ただの束ねたカーテンがあった。 「あー。結局逃げそびれたじゃねえか、クソが」  そう言って、ベッドのすみに丸まっていた布団の中から、少女が出てきた。  手には、《真夏の雪》と呼んだ刀を持って。  流麗な黒髪と陶器のような白い肌を、有名女子校の冬服で包んだ少女。華奢な体つきながら、ちゃんと出るところは出ている。旧家の奥座敷で四百年間奉られていた人形に神が宿って動き出したら、こんな感じかもしれない。  彼女はユメと名乗った。なるほど、名は体を現す。夢のような容姿の彼女にはふさわしい。  そんな彼女は今、望の前であぐらをかきながら、くわえた煙草にジッポライターで火をつけた。  銀のライターはくすんだ色合いをしていて、とても使い古された感があった。 「あン? なんだよ。文句あんのかコラ?」  望の剣道の優勝カップに灰を落としながら、にらみつけてきた。 「あー、いや……」  いろんな意味で文句があるのだが、あえてすべて無視することにする。 「えっと……ユメ、ちゃん?」 「ちゃんとかつけんじゃねェ」 「あー。じゃあ、ユメ、さん?」 「ユメでいいっつってんだろ」 「あぁ、そっか、わかった。アハハ――」 「……笑うな……」  ユメの額に青筋が立った。  なるほど、肌が白いので静脈もくっきり見える。明確な拒否反応をいただき、望はごまかし笑いを引っ込める。 「ユメ。お前はいったい何者だ?」 「はァ? 見てわかんねーのか?」 「……某女子中学校に通う箱入りのお嬢様」 「おう。わかってんじゃねーか」  皮肉のつもりで言ったのだが。  そういえば真茅が『女子校には変わった子がいっぱいいる』と言っていた気がする。とりあえずそういうものだと納得して、肝心の話をする。 「で、なんで俺に刀を?」 「さてね。それはテメエのほうが知ってんじゃねェのか? 斬りたいモンがあんだろ」  ピンとこなかった。平凡に十八年生きてきた現代日本人だ。恨みを抱くことも買うこともない。 「じゃあ、なんでユメは斬りたいものがあるやつに刀を渡してるんだ?」 「それが刀の本分だしな。やっぱり、自分の才覚が発揮できる生き方をしたいのは、人も刀も一緒だろ? オレは刀の護り女。人と刀に渡りをつけてやンのが仕事だ。ま、一種のジゼンジギョウってやつだな」  恐ろしい可能性が頭をかすめた。  この少女も含めて、すべてが幻覚ではないか、ということだ。  何が恐ろしいか。もちろん、ヤンキー語をしゃべる美少女を幻覚に見てしまうような自分の嗜好性である。 「……じゃあ、あの仮面の化け物はなんだ?」 「じゃあオレからの質問だ。オマエはそれをなんだと思う?」 「あれは――」  昨日の夜。仮面の穴から見えた、深い闇と混沌を思い出した。 「この世の不幸や災厄の元凶……?」 「はっ」  鼻先で笑った息で、漂っていた煙草の煙がかき混ぜられる。それにしても、煙が目に染みる。けっこうキツいのを吸っているらしい。 「ま、いいんじゃねェの? テメエがそう思うなら、それでよ」 「なんだよそれ」 「だいたいオレがとやかく言ったところで、オマエはそうだと信じてるわけだろ? じゃあオレに訊く意味とかねーだろっての」  たしかに、そうだ。  あのとき仮面の化け物に感じた直感は、ほぼ確信に近いものだった。  最近、この街では事件や事故が異常なほど頻発している。みんなそれをすっきりしない天候のせいにしているが、あの《仮面》のせいだったとしたら納得がいく。 「じゃあ、あいつを倒した今、事故とかは減るんだな?」 「ノー、だ」  初めての明確な答えに、望はどきりとする。 「あれが不幸だとするなら、それは一匹じゃねェ。クソ溜めのハエみてェに、この世は不幸に満ちている。たとえ一匹潰したところで、他のウン億匹のハエをほったらかしじゃ、意味ねーだろ?」 「そう、か」  ユメは短くなった煙草をもみ消して、立ち上がった。 「ま、億のうちの一匹を潰したことは、たしかだろうけどよ」  ベッドをまたぎ、窓を開ける。 「お前らが俺の幻覚じゃない、という保証は?」  最後の問いかけに、ユメは振り返らずに答える。 「心配なら、テメエで確かめるんだな」  そして、窓枠を蹴って窓の外に飛んだ。 「うおい!」  ここは二階だ。  ユメが飛んだあとを追って窓に飛びつくが、下にも、そして上にも彼女の姿は見えない。  ただ、雲ひとつない青空が見えた。久しぶりの晴れだ。 「……斬りたいもの」  望は、不幸を振りまく化け物と戦った――らしい。  だったら、それが斬りたいものなのだろうか。 「…………」  窓を閉め、望は振り返って壁を見あげた。  数枚ある大会の賞状と並べて、一本の竹刀が飾られていた。三六(さぶろく)と呼ばれる、小学生用の比較的短い竹刀だ。柄皮は黒く変色していて、相当使い込んでいたことがわかる。  望はユメが置いていった刀を手に取る。  竹刀とは違う、ずっしりとした重みがあった。           *  登校途中、事故現場の前で望は立ち止まった。  トラックなどはすでに撤去されていたが、黒い痕跡は消しようがなかったらしい。放射状に広がる直径五メートルを越すシミの上には飴のように溶けたプラスチック質のものがあちこちに残っていた。  まだかすかに嫌な臭いが感じられ、道行く人もそこを避けるようにして歩いていた。  立ち止まっているのは望くらいのものだ。  正面にあるビルを見上げる。が、ここからではフェンスが少し見えるだけで、そこがどんな状態かは知ることはできなかった。 「めーん」  考え込んでいた望の後頭部に軽い衝撃が入った。 「一本っ。都築選手、油断はいけませんねぇ」 「……真茅か」  望を打った手刀をかざしながら、真茅はにこにこ笑っていた。 「今日はずいぶんテンション高いな」 「そう? 天気がいいからじゃない?」  太陽の光を受け止めるように、真茅は腕を広げる。  日差しは夏のものだ。影もないアスファルトの上に突っ立っていると、それだけで汗ばんでくる。だが、昨日までの蒸し風呂の暑さよりずいぶん過ごしやすい。 「――昨日は大丈夫だったか?」 「うん。ちょっと相談みたいなことされただけだったから」  即座に答えを返す真茅。  望は首を傾げる。真茅も、それを見て目をしばたかせた。 「いや、事故のことだけど?」 「あっ」  ようやく自分の回答がずれていたことに気づいたらしい。 「ご、ごめん。えっと、うん、大丈夫。ちょっと煙かったけど、予備校も普通にやったし」 「そうか」  安心して、さっきの真茅の答えは、秀也との話のことを言っているのだと気づいた。相談。なんだろうか。真茅への相談なら、追求するわけにはいかないだろう。  「あ、そうだ」と、真茅がむっとする。 「望こそ、昨日はどうしたのよ。教室にはいないし、事務員さんに訊いても知らないっていうし……」 「あ、悪い」  結局予備校には行ってなかったことを思い出した。 「心配したんだからね。事故もそうだし、屋上も荒らされたみたいだったから」 「屋上?」 「うん。なんか、すごいことになってたらしいよ。警察まできたんだから。あちこち斧みたいなもので壊された痕があったんだって。この事故と同じ時間に起きたから、関連性がどうのって言ってたけど」 「――そうか」  けっこう大事になっていたことに、望は内心で動揺した。  不可抗力とはいえ、破壊活動に関わっていたのは事実だ。  と、真茅のいぶかしげな視線に気づいた。 「……望じゃ、ないよね?」 「なっ――んなわけあるか。俺は、家に帰って寝ただけだ」 「そう。寝ただけ、ね」 「あ……いや、昨日は、すまんかった」  真茅の表情が和らいだ。 「――別にいいよ。正直、わたしも強引だったし。変なタイミングで連れていっちゃって、怪我でもしたらどうしようかって思ったけど、無事でよかった」  視線を事故の跡に向けた。 「この事故も、かなりの大きさだったのに、軽い怪我人しか出なかったんだって。ほとんど奇跡だって言ってたよ」 「奇跡」 「原因はわからないけど、火の勢いが弱くなったんだって。無風だったことと湿気がすごかったのがよかったんじゃないかって言ってる人もいたけど」  違う。  いくらなんでも、それだけのことで燃え盛る火の勢いが収まるはずがない。  それは、事故の――不幸の源が断たれたからだ。 (……なんて、こっちもはっきりと因果関係があるわけじゃないし)  仮面の化け物を倒しただけでみんなが無事だった、なんて理屈になっていない。  けれど、屋上に戦いの痕跡は残っていたらしい。つまり、現実に存在したのだ。  また、化け物を倒したと同時に火が収まったのも事実。  もしもあれを倒したことが事故の被害を食い止めた原因だとしたら――。 「あ、もうこんな時間。行こう?」  真茅にせかされて、望も歩き出す。 「ん? でも真茅がこんな時間に登校するって珍しいな。いつも、朝は自習室で勉強してるんじゃないのか?」 「……寝坊したのよ」 「へー。そりゃ珍しい」  望は笑う。  真茅は不機嫌そうに、鞄の中からノートを取り出した。  そのまま振り上げ、角で望の額を打つ。 「あたっ」 「あげる」  手を離され落下したノートを慌ててキャッチする。  三十枚の薄い大学ノートだ。  中は、英語の穴埋め問題で満たされていた。  全部、真茅の字だ。 「お前、これ――」 「せめて、それくらいはやっときなさいよ。期末、近いんだから」  昨日の晩、予備校を逃げ出した望のために作ったのだろう。  いや、とてもそれでできあがる量じゃない。前から作っていたのを、昨日一気に仕上げたのか。  どちらにしても、かなりの手間があるはずだ。 「悪いな」 「そう思ってくれるなら、がんばってくださいな」  真茅が笑う。 「それに、小中高って一緒だったんだから、ここまで来たら同じ大学行きたいでしょ? そしたら、また剣道できるじゃん」 「……真茅」 「わたしさ、好きだよ。望が剣を握ってるところ」  しばらくそのまま歩いていると、学校の近くで見知った人影を見かける。 「秀也?」  声をかけられた秀也ははっとして二人を見つめた。 「都築……進藤……」  一瞬、秀也が顔をしかめた。 「あっ」  真茅も、声をもらした。 (――なんだ?)  望もその変化に気づく。  だが真茅はすぐに笑顔を作り、秀也に声をかける。 「間宮くん、おはよう!」 「……ああ。おはよう」  秀也も笑顔でそれに答える。  嫌な表情が、消えていた。  気のせいだったのかもしれない。 「都築の更生は成功したか?」 「んー、ぼちぼちかな」 「お前、ちゃんと立ち直らないと進藤に悪いぞ?」 「……なんだ。お前ら、もしかして昨日の相談ってこれのことか?」  望がノートを掲げる。 「それは、秘密。ね、間宮くん」 「ああ。そうだな」  真茅と秀也は目配せして笑いあう。 「なんか俺だけのけ者みたいだな」 「じゃあ、今度一緒に勉強会でもやろっか?」 「勉強会って、俺だけ発言禁止とかにするんだろ」 「だってお前、すぐに雑談始めるだろ」 「俺は場の空気を和まそうとしてだな」 「集中してるのに和ましちゃダメじゃない」  三人で笑いあう。  しかし、言葉が続かない。  笑い声が小さくなっていき、妙な間ができた。  気まずくなりそうな予感。望が、相談の内容を訊こうとしたとき、朝の予鈴が聞こえた。 「あ、やば」  真茅の言葉と同時に、三人は走り出す。  二人のあとに続きながら、望は違和感を抱いていた。  微妙に歯車が合わない。  半月前は呼吸と同じくらいに当たり前にできたやりとりが、今はできなくなっている。  望はノートを掴んだ手を握りしめた。 *  その夜、望は真茅のノートを前にうなっていた。  見覚えがある言葉がいくつかあるが、逆にその程度だ。 「くそっ、わからん」  ぱらぱらとノートをめくってみる。  ただの穴埋め問題でなく、要所要所に真茅によるコメントが書かれている。  ちゃんと問題が解ければ、理解を助けるようになっているのだろう。  望にその基本的な学力がないだけだ。 「オマエ、授業中なにやってたんだよ?」  後ろを見ると、出窓の枠にユメが座って足を外に揺らしていた。しっかり火のついた煙草をくわえている。たしか窓は鍵を閉めていたのだが、気配さえ気づけなかった。 「授業中――あんまり記憶がない」 「典型的なダメ学生だなオイ」 「ヤニ吸ってる中坊に言われたかないが」 「オレは誰にも迷惑かけちゃいねェが、バカは死ぬべきだ」 「……いや、煙いんだけど?」 「だから?」  肺ガンで死ね。望は心の中でつぶやいた。 「大体、窓際で吸ってるとばれるぞ」  ユメは煙を開いたままの窓にこれ見よがしに吐いた。 「隠形の術で姿は消してる。テメエ以外にゃ見えねェよ」 「そりゃ便利なことで」  皮肉のつもりで言ったが、よくよく考えてみると、この不可思議な少女相手には皮肉になっていない。現に、煙のように消えたり現れたりする。  もっとも、だから幻覚ではないかと疑ったのだが。  望はノートを閉じる。 「やめんのか? オレのことなら気にしねーでいーぜ?」 「わからんもんはわからん」  そして、ベッドの下に手を突っ込んだ。 「……おいおい。気にするなとは言ったが、オマエさすがに女子中学生の前でそれはマズいんじゃねェの?」 「なんだと思ってんだ」 「なんだって、野郎の試験前の逃避先は、マンガか部屋の掃除か、あとはベッドの下ので膨らませた妄想を――」 「言わんでいいっ」  慌てて引っ張り出したのは、刀。《真夏の雪》だった。  その拵えを持ったまま、ベッドに腰掛ける。 「ユメや昨日のことが幻覚や夢じゃない、ということはわかった」 「それで?」 「改めて、訊きたいことがある」  望はユメに振り向いた。 「俺があの化け物を倒したから、事故は最小限の被害ですんだのか?」 「さてね。テメエで確かめたらどうだ?」 「確かめる?」  ユメは煙草を窓枠でもみ消し、屋根の上に吸殻を捨てる。 「抜け」  刀を指差した。 「ん……ん?」  鞘から刀を引き抜こうと柄を引くが、抜けない。 「バカ。鯉口を緩めんだよ。鞘が割れんぞ」 「鯉口?」 「鞘の口だ。親指で鍔を押せ。いきなり抜こうとするな」  そういえば、時代劇でも刀を抜くときにそんな所作をしていた気がする。別にもったいぶってかっこつけているわけじゃなかったらしい。  言われたとおり、鞘を握っていた左手の親指で、鍔を押し出す。少し抵抗があったが、刃の根元の止め具――はばきが見えた。  その瞬間、体に電気が走る。 「なっ――」  電気は体を伝って、大気や床に広がる。それは外につながり、街中に広がっていく。  光の群だ。ビルと、そして車のテールランプの列だった。先頭には赤い信号が点灯している。それが青になる瞬間、信号機の中の配線の一部が熱を持った。劣化により、余計な抵抗が生まれている。  そして、その信号機の上に、一振りで人の頭蓋を潰せそうな鉄槌を携えた《仮面》の巨体が――。 「はっ――」  望は我に返る。荒い息を繰り返して、部屋の中に入ってきたユメを見あげる。 「見えたか?」 「……ああ」  しかも、一匹だけじゃなかった。  同時に、あと二つ気配を察知できた。  敵。不幸をもたらすモノ。 「どうすれば?」 「オレが知るか、タコ」  望は、壁にかかった竹刀を見あげる。  よく見ると、組んだ竹の材質が違うことがわかる。  折れたものを真茅が直してくれたのだ。  あのときは、勝てなかった。  だけど――今なら届く。 「行く」  望は立ち上がる。刀を手に掴んだまま。 「もしも、俺があいつらを倒すことで誰かを守ることができるなら――俺しかあいつらを倒すことができないのなら、俺は……」  望は裸足のまま、出窓の窓に乗り出す。  体が軽い。  体中から力が湧いてくる。  思い切り、窓枠を蹴った。 「おおっ」  重力なんか感じない。ゆっくりと孤を描き、向かいの家の屋根に飛び降りる。  振り返ると自分の部屋が遠くに見えた。小さな窓からユメがにやついている。 「……ありがとう」  望は小さく礼を言い、再び飛んだ。  不幸を振りまく敵を倒しに。  今なら、月さえもつかむことができる気がした。           三章  一週間が経った。  朝、望は窓に映った自分の姿に気づいた。  着替えようとシャツを脱いだ体のあちこちに、赤い傷が消えずに浮かんでいた。  昨日、鞭を使うやつと戦ったときにつけられた傷だ。  むしろこれだけしか残らないほうが驚きだった。打たれたときは血が飛び散るほどの傷だったのだ。  体を動かして傷をチェックする。  と、視線を感じた。 「朝から自分の裸をながめてうっとりする男、一名……」 「希子!」  いつの間にか開かれていたドアに、妹の希子が立っていた。笑っている。 「おにぃ、きもい」 「違うっての!」  希子を軽くにらみつけて、ワイシャツを羽織る。 「あ。もう終わり?」 「見られてるのに裸でいる趣味はないんでな」 「自分だけで見たいんだ」 「怒るぞ」  えへへ、と希子は笑った。最近は帰る時間も遅く、お世辞にも素行がいいとは言えない妹だが、こういう表情は昔から変わらなかった。 「でもおにぃ、かっこよくなったよね」  一瞬、望は言葉を失った。 「部活やってたときより体ががっちりしてるし。それに、最近楽しそう。朝は眠そうだけど、夜は楽しそうだし」  どきりとした。  だが、夜中に刀を振り回していることがばれている様子はない。勘がいい妹だ、もしかしたら夜中に部屋を抜け出していることには気づいているかもしれないが、そこはお互い不干渉にする暗黙の了解があった。 「おにぃも、ついにオトコになったかぁ。今夜は赤飯だね」  笑いながら部屋を出て行った。 「ふーん。オトコねェ」 「うわっ」  ベッドの影にユメがいた。熱心に何かを読んでいる。と思ったら、望がベッドの下に隠していた雑誌だった。 「だっ、おまっ!」 「現役なのに制服フェチってのは、終わってると思うぜ?」 「べ、別にフェチじゃない」 「ま、オマエの嗜好は何でもいいが、こんなもんと《真夏の雪》を並べるのはどうよ? 一応、出すとこに出せば国宝クラスの価値はつくシロモノなんだぜ?」 「刀より浅いところにそれ置いておけば、そっちを見つけて満足して、刀のほうには気づかないかもしれないだろ」  一種の二重底だ。  さすがに、エロ本が見つかるより日本刀を隠し持っているのが見つかるほうがまずい。 「ていうか、久しぶりだな」 「テメエが気づかないだけで、オレは見てたけどな。この一週間ちょいで倒したのは二十以上。小物ばっかだが、ずいぶん熱心じゃねェか」  あれから、毎夜のように《仮面》狩りに出かけた。  日によって数にばらつきはあるが、見つけたならすかさず討った。多いときは一晩で五体は倒したときもあった。次の日は疲労でまともに動けなかったが。  だが、五体倒したということは、少なくとも五つの事件を未然に防いだということになる。 「なんか、最近楽しいんだ」  望は自分の手を見つめた。 「メシを食っても、これが動くためのエネルギーになるんだと思うとうまく感じるんだ。脈拍のひとつだけでも、自分の体に血をめぐらせてて、動けるように作り変えていくんだと思うと、うれしいし。多分、こういうのを充実してるって言うんだと思う」  歩々これ道場、という言葉がある。一歩一歩が道の修練につながっている、という教えだ。まさに、それを望は感じていた。 「はっ。それはそれは、ケッコウなことで」  ユメは視線を窓の外に向ける。 「と。お迎えがきたようだぜ?」 「迎え? あ――」  思い出して、望も窓の外に目を向ける。  見下ろしたら、玄関の前に真茅が立っていた。 「幼馴染と並んで登校たァ、オトコ冥利に尽きるじゃねェか」 「そんなんじゃないよ」  この間、遅刻をした日以降、真茅が迎えに来るようになったのだ。  今までは遅刻することなんかなかった。剣道部の朝練があったからだ。引退したあとも習慣だけは残っていたのだが、ここ最近はどうしても夜型の生活になってしまっていた。  しかも真茅は、朝は学校で自習をしていたはずだ。望を迎えにくるということは、それをやめたということだろう。  もちろん構わないでいいと言ったのだが、「だったら心配させることしないでよ」と言われると、それ以上は断れなかった。 「いっそ、ホントのところ話したらどうよ?」 「冗談――」  ユメが真面目な顔つきをしていたことに気づき、望は言いかけた言葉を飲み込む。 「……話したら、余計に心配するに決まってる。普通じゃないからな、俺がしてることは」 「じゃあどうすんだ?」 「今の試験が終われば夏休みだし。それまでの辛抱だ」 「新学期からは?」 「忘れてくれてることを祈るさ。ダメだったら、そんときになったら考える」  ちゃんと朝起きて、真面目に勉強する姿を真茅に見せれば解決するのだろうが、さすがに無理だ。就寝は四時や五時。本気の戦闘の疲れが、たった三時間の睡眠で補いきれるとはとても思えない。  おかげで昼はひどく眠い。 「とりあえず、俺は行くぞ」  鞄を取って声をかけたが、返事がない。  ベッドの上からユメの姿が消えていた。  散らかされたままの雑誌を隠しなおしながら、ユメのことを思う。  いまだに、実は彼女は幻覚ではないかという疑いが残っている。  こうして彼女が読み散らかした雑誌を片付けているのが実在するなによりの証拠だが、疑いがぬぐい去れない。多分、他の人間に見られていないからだろう。隠形の術を駆使しているというが、自分にしか見えないというのは、本質的に幻覚と変わらないんじゃないだろうか。  しかし、幻覚でも構わない。この一週間、街に事故が起こっていないのは事実だ。 「おにぃ、真茅ちゃん来てるよ?」  階下から叫ぶ希子の声に促されて、望は部屋を出た。           * 「おい、都築、起きろ」  声に、望は身じろぎする。  体がひどくだるい。動きたくない。 「おいっ」  脳天に衝撃。  がこ、と机に額をぶつける。  痛みと同時に思い出した。  ここは教室だった。 「あ、すいません! えっと……あれ?」  教科書を探すが、机の上に見当たらない。  代わりにあったのはB4の用紙が二枚だけ。  よだれで半分以上がふやけているそれは、英語の試験問題だった。 「あっ……」  ようやく今が試験中だということに気づいた。  まわりも、何人かが望のほうを見てくすくすと笑うが、大半はわき目も振らず問題を解いていた。 「あと十分だぞ」  教師の言葉に、眠気が吹き飛んだ。解答用紙は名前しか書かれていない。しかもよだれで濡れていて、書き込むことはできそうになかった。 「すいません、これ、別のに――」 「別にいいけどね」  用意していた新しい用紙を望に手渡す。 「けど、意味あるの?」  言われていることがわからず、望はしばたく。 「書くこと、あるのかね?」 「あ……」  問題用紙に目を落とす。名前以外、何も書かれていない。  答えがわからず悩んでいるうちに眠っていたのだ。  いまさら書ける答えなどない。  教師は大仰にため息をついた。 「キミ、何しにここにいるの?」 「消しゴム返して」  むすっとした真茅の第一声だった。  からかってくるクラスメイトから逃げるように帰ろうとしたのだが、先に昇降口に待ち構えていたのだ。 「消しゴム?」 「これ」  真茅は望のぼさぼさ頭に引っかかっていた消しゴムの切れっ端をつまみとる。全部で四つ。  それを手のひらに乗せて、望に見せる。指でちぎったようで形も大きさもばらばらだった。 「……なんでこんなのが?」  真茅が、指で消しゴムを弾く。顔を寄せていた望の額に当たった。 「いてっ」  そんなに痛くはないのだが、反射的に言ってしまった。額をさする望を見て、真茅はため息をついた。 「目は覚めた?」 「……あ」  ようやく気づいた。その消しゴムはテスト中に寝ていた望を起こそうと、真茅がぶつけてきたものの一部なのだ。 「悪い」 「おかげで、マーク問題をひとつ、間違えたまま出しちゃったわよ」  少し考えて、消しゴムがないから誤答とわかっていながら提出してしまったということだろうとわかった。 「まさか全部投げちまったのか?」  うー、と真茅は唇を尖らせる。 「……落としてなくした」  やがて、小さな声でぽつりと言った。  ちぎった消しゴムを飛ばすときにでも、肘で落として転がしてしまったのだろう。  慌てる真茅の顔が目に浮かんで、望は笑いかけるが、真茅ににらまれた。 「……すまん」  基本的に真茅は何事もそつなくこなす優等生タイプなのだが、なぜか望が関わると大ポカをやらかすことが多いのだ。  二年のときの大会のときもそうだった。  同じ大会に出ていた望が、その日は熱を出していた。なのに参ったのはなぜか真茅のほうで、格下の選手にあっさり負けてしまっていた。  真茅は靴を履き替える。 「安田って、イヤミだよねぇ。わざわざ終わり際に起こして、あんなことするんだもん。絶対気づいてたのに、早く起こせばいいのに」  英語試験の担当教官だった男だ。あまり生徒にも人気がない。  望も同意しようとしたが、真茅は続ける。 「ま、テスト中に寝てるほうがどうかしてるけど」 「むぅ」  どっちがイヤミだかわからない。  昇降口の扉を出たところで、真茅がポツリと言った。 「わたしのノート、やってないでしょ」  背中を向けていて、顔は見えない。声だけは穏やかで、気にしているそぶりなんかないようだった。  それが、逆に怖い。  望は答えに窮した。  真茅の予想問題のノートは、受け取った日以来、触っていなかった。今は多分、机の片隅で教科書の下に埋もれていると思う。  だが、わざわざ作ってくれた真茅を前にすると、さすがに言いづらかった。 「まあ、勝手にあげたものだから。いいんだけどね」  何気ない風に真茅はしゃべる。まだ望に背中を向けたままだった。  望も、追い抜いて彼女の顔を見ることはできないのだが。  二人は、二歩分の距離を空け、立ち止まったまま。生徒たちが次々とその間を通り抜けていく。 「最近、ずっと眠そうだよね」 「あ? あ、ああ」 「何してるの?」  率直な質問に、望は答えを返せなかった。  一応、答えは用意していた。「勉強しようとするが、ついマンガに手を出してしまう」。  だが、そんな下らない嘘をこの状況で言おうとする気が起こらなかった。 「都築」  嫌な沈黙を、別の声が破った。  秀也だった。声をかけてから、望と一緒に真茅がいることに気づいたらしい。だが、すぐに望に視線を戻す。 「帰りだろ。ちょっと付き合えよ」 「いやぁ、助かったよ」  望は横を行く秀也に笑いかけた。  真茅は市営の図書館に寄るということで別れ、今は秀也と二人帰路についていた。 「真茅に問い詰められてて、困ってたんだ」 「どこかに入ろう」  秀也は望の言葉を無視して、先に行く。  やがてファミレスを見つけた。 「あそこでいいだろ」 「だけど――」 「代金は僕が払う」  断じる秀也に、望はそれ以上は何も言えなかった。  ファミレスのドアを開いた瞬間、喧騒に望は耳を覆いたくなった。ウエイトレスが叫ぶようにして人数を尋ねてきた。秀也はそれに指を二本立てて応える。もしかしたら言葉でも伝えたかもしれないが、すぐ横にいた望にさえ聞こえなかった。  中は学生の姿が多く見れた。混んでいるようだったが、いちばん隅の席に誘導される。 「ただいま片付けますので」  隅なだけあって、言葉は普通に聞こえるようになった。ウエイトレスはすぐに食器を片付け、テーブルを拭いた。  席につくと同時に、秀也は完結に注文する。 「コーヒーふたつ」  なんでふたつも飲むのだ、と望は思う。何にしても自分も選ばねばならない。メニューに手を伸ばしかけるが「以上で」と秀也が注文を締めた。  ようやく、秀也は望の分も頼んだことに気づいた。  ソファーの上に鞄を無造作に放り投げる様子から、とても親切だとは思えない。 「……もしかして、怒ってる?」 「ああ」  秀也はこういうとき、はっきりと口にするタイプだ。  逆に言えば、はっきりと口にできる間柄ということだが。  しかし、秀也がこうも感情をあらわにすることは珍しい。部でも、勢い任せの望の暴走を冷静に方向修正することが多かった。  秀也の静かな怒りに、望は戸惑いながら尋ねる。 「英語の試験のこと、聞いたのか?」 「それもある」 「じゃあ、違うのか?」  ウエイトレスがコーヒーを持ってきた。  秀也は差し出されたカップに手を出さず、ウエイトレスが去るまで望からも視線をそらして黙っていた。 「僕は、剣道をやってる都築しか知らない」  秀也が話し始めた。 「都築はすごいと思う。人より多く稽古をして、どんな荒稽古にも音を上げず、主将としてもみんなを盛り上げた。強いよ、僕とは違う」 「…………」  なんとも反応できない。意図がわからなかった。 「なのに、なんで剣道が終わった途端に、そんなに腑抜けるのかがわからない」 「腑抜け、すか……」  口の中が乾く。望は秀也の奢りのコーヒーでなく、最初に出された水のグラスを手に取った。 「正直、三年に入ってから都築や、それに進藤に引け目を感じていたんだ。受験勉強を本格的に始めて、あまり稽古に出られなくなったから。それは、今でも申し訳ないと思う」 「……いや」  それしか言えない。  正直なところ、望は稽古に出てこない秀也をおもしろく思っていなかった。通例では三年は夏の大会が終わって引退してから受験に向かう。勝手に前倒して勉強のほうに力を入れだした秀也を、逃げたとさえ思ったこともあった。  もちろん、個人の事情がある。それがわからないわけではないので、考えないようにしていたのだ。 「それでも、僕は僕なりに悩んだ。もともと剣道は惰性で続けていたようなものだし、未練はないけど、都築や進藤に押し付けて去るのが無責任な気がして嫌だったんだ。だけど進藤が、やりたいことをやればいいって、後押ししてくれたから、僕は決めた。今は、受験で成功することが進藤に報える方法だと思ってる」 「真茅が」  初耳だった。 「都築、お前はどうなんだ?」  静かな口調と同時に、秀也の目が、望に向けられた。  瞬間、望の心臓が跳ね上がる。  どっとあふれる汗と同時に、路地裏のすいた臭いが甦る。《仮面》の奇妙な叫び声が甦る。紙一重で頭上をすり抜ける刃物の音が甦る。  秀也から感じたのは、まぎれもない殺気だった。 「お前が進藤にしているのは、お前にとって正しいことなのか?」 「俺は――」  頭がうまく働かない。  左手が、自然と左腰に触れる。  いつも刀の鞘を帯びている場所だ。  あれは――正しいのか?  そうだ、と頭の中で誰かが言った気がした。俺のおかげで街から事故が減っている、不幸が消えている。俺は世の中のためのことをしているのだ。  だが同時に、別の声も聞こえる。なら、なぜそのことを真茅に言わない? 自分でも、そんなのはただの妄想だと思っているからじゃないのか? 「都築、覚えてるか」  秀也がコーヒーを一口、口に含んでから、言った。 「去年の今ごろ、僕たちの中から主将を選んだときのこと。顧問は、都築を任命した。僕も、他の部員もそれが順当だと思ってた。ムードメーカーだし、努力もしてる。適任だ。だけど、お前だけは別のことを言った」  望は、黙って続きの言葉を待った。 「『そんなのは不当だ。秀也のほうが強いだろ。こんな一方的な決め方は許せない。決闘するから、それで決めろ』――ってな。たしかにその時期なら、稽古や試合では僕のほうが勝ちは少しだけ多かったけど、それは僕が技術に頼ってたからだ。都築の正直で力強い剣道のほうが正統なのに。だけど都築はその決定が許せないって言った。都築はバカなことばかり言ってたけど、僕の中では、その言葉だけは忘れられなかった」  覚えていた。  すぐさま勝負を行い――男らしく一本勝負だ――望が勝ったのだ。  微妙な判定だった。望が打った面にあわせて、秀也が返し胴を決めたのだ。だが、ほんの少しの差で、望の面が先に届いた。  そもそも、秀也はあまり胴を狙わない。胴は決めにくいのだ。だから、ポイントを取りやすい小手を狙うことが多かった。  だが、その勝負では胴を狙ってきた。  秀也は望をにらみつける。 「今の僕は、進藤の気持ちを裏切るお前が許せない」  その声に周囲の喧騒が一瞬だけ消えた。 「お前に決闘を申し込む」           *  夕方。望が家に帰ると、珍しく父親が帰っていた。 「よう、望。久しぶりだな」  一リットルの牛乳をラッパ飲みしながら、笑いかけてきた。日焼けした顔に白いひげがついている。  以前会ったのはいつぐらいかを思い出す。たしか、三週間ぶりくらいだったと思う。  いつもは郊外の畑に勤めていて、夏場はめったに家には戻ってこない。早い話が農家の手伝いだが、どこぞのレストランと提携しているとかで扱いは株式会社。かなりの儲けもあるらしい。生活費や学費は払ってくれているので、望としても別に問題なかった。 「どうしたんだよ、今日は?」 「なんだ、冷たいな息子よ。たまの休みだってのに。そんな若者が増えるから、中年オヤジの非行率が増加の一途をたどっているんだ」 「どこの国の統計だ、そりゃ」 「あー、どこだったかな。ちょっと待て、思い出す。あー、そうだ。お前、試験中に爆睡キメたらしいな」  話の脈絡がつかめず、望は言葉を失う。  父は空になった牛乳パックを水道でじゃばじゃば洗い始める。 「先生から連絡があってびっくりしたぞ。どれくらいびっくりしたかって、急な休みを社長に願い出るくらいだな」 「んな――」 「社長も驚いてたぞ。勤続十数年、遅刻を申し出たのは希子が生まれたときの一回だけだからな。なんか社長、お前が死んだものだと勘違いしちまったよ、ありゃ。おもしろいから訂正しないけど。あっはっは」  パックの口を開き、シンクの横に逆さに立てる。  椅子を引き、足を組んで座った。 「さあて、息子よ」  すっと。  その顔から笑顔が引いた。 「これからどうするんだ?」  ふと、寝不足になってまで何をしているのかと尋ねた真茅の顔を思い出した。父は、それと同じ顔をしていた。厳しい表情だが、決して怒ってはいない。  今なにをしているのかと、これからどうするのか。  ふたつは同じことだった。 「……わからない」  正直なところだった。  仮面の化け物を倒しているのは、街のためになっていると信じている。実感もある。ただ、確信はない。 「例えば、さ」  思いつくままに、望は口を開いていた。 「ある棒が、あるとしてな。その棒を一万回振れば、その、神様がみんなをその日だけ幸せにしてくれるって思い込んだとする。そして、本当に一万回振ったら、幸せになったし、次の日に振っても幸せになった。だけどみんな、それはその棒のおかげだとは思わない。それでも、その棒を振りつづけることに意味はあるのか、な、と」  父は腕組みをして、少し首を傾げた。 「どっちだ? 拝むほうと、拝まれるほうと」 「……は?」 「宗教はいかん、とは言わん。商売だと考えれば、あれほど儲かるものはないからな。だが、やるなら興すほうにしとけ。税金もかからないし、鼻くそほじってるだけで金が集まる。逆にいえば、集まるほうになっちゃいかんってことだ。惚れたら負けってやつだな。まあ、惚れちまったら、勝ち負けなんてクソ食らえ、周りが何と言おうと、どんな困難があろうと、突き進むしかないわけだが。そして生まれたのがお前だが、父さんは後悔はしてないぞ。えらい、えらいな、誉めてくれ」 「いや、神様ってのは例えで――」 「父さんのだって、例えだぞっ」  望は目をしばたかせる。 「おにぃが信じるのなら貫け。そうでないならやめとけ、ってことだよ」  いきなり後ろから別の声がした。  望が振り返ると、私服に着替えた希子がいた。肩にへそに太腿と、やたらに露出が高い。ネックレスやらピアスやらもきらきらしてる。 「そうだな。さすが我が娘。計画的に作っただけあって、聡明だなっ」 「おにぃも、いいかげんお父さんのペースわからないとダメだよ。たしかにお父さんは何も考えずに発言してるけど、意外と意味があるんだから」  ミュールを引っ掛け、希子は外に出て行ってしまった。  ドアを閉める間際に、希子は望にウインクする。 「ちなみに惚れるコツは、自分は惚れているんだと信じ込むこと、ね?」  コツコツとヒールの硬い音が遠ざかっていった。 「希子には、安心してる」  父が言った。明らかに遊んでくる娘を、ほほ笑みながら見送っていた。 「学校もよくサボるみたいだが、最低限の出席数は確保してるし、成績も文句ない。学校ってシステムの中でも、自分に必要なものだけより分けて生きることができている。そんな希子だから父さんも、安心して家を空けておける。お前にメシも食わせてくれているしな」  希子の作った料理は、レパートリーは少ないが味は良かった。 「つまり、骨は拾ってくれるだろうから、お前は好きにしていいぞ、ということな。ていうか、お前に器用なことなんざ、誰も期待しちゃいないしな」           *  本日の事故数――0件。  交番の中から漏れた光でうっすらと見える掲示板には、そう書かれていた。  これは、この一週間変わっていない。  望は、いつもその数字を見るたびに満足感を覚えていたのだが、今はただ頭の中がかき回されるだけだった。 「ん? どうかしましたか?」  じっと立ち止まって交番のほうを見つめている望に気づいたらしい、警官がガラス戸を開けて尋ねてきた。  慌てることなく、望は応える。 「いえ。最近、穏やかですよね」 「はあ? まあ、そうですね」  軽く会釈して、望は交番を後にした。  警官が不思議な顔をしてその姿を見送る。 「日本人の平和ボケも、いいかげんどうかと思うけどな」  音もなく現れて、いつの間にかユメが隣りを歩いていた。  望は無視して自分の歩調を保つ。荷物は、肩から提げた釣竿入れひとつだけ。 「目の前に、日本刀持ってこれから討ち入り行くアホがいるってのによ」 「討ち入りじゃない」  すれ違った老婆が、怪訝そうに望たちのほうを見た。不穏当なことをつぶやく少年を危なく思ったのか、それとも外見だけなら超美少女が歩き煙草をしているのにあきれたのか。望にはわからなかった。  だが、今はそれでもいい。  今夜、決着をつける。 「討ち入りも決闘も、同じようなもんじゃねェか」  約束の時間は午後六時。  場所は学校の剣道場。  望が負ければ、真茅の言うことを聞く。  秀也が負けたならば、望の言うことを何でも聞く。  自分が勝ったときに何を要求するかはまだわからない。勝ったときに何か得るかもしれない。  そもそも勝てる自信がないのだが。 「迷ってるようじゃ、ダメだろうがな」  ユメの言葉に望はうめく。  秀也を倒すということは、真茅を突き放すことと同義だ。今まで真茅の応援を無視していてなにをいまさら、とは自分でも思ったが、こっちから拒絶することとはまた意味が違う。  迷いは、剣をこの上なく曇らせる。  秀也にブランクがあるとはいえ、仮にも副将を務めていた男だ。実力は望とほぼ伯仲していた。向こうから仕掛けてきた勝負、意気込みは十分すぎるほどあるだろう。一方の望は、迷いにとらわれている。  負ける。  それでもいいかもしれない。  そうすれば、この刀はすぐさまユメに返そう。そして家に戻って、明日の試験範囲を見直すのだ。  閉じられた校門の前にきたところで、刀の入ったバッグを下ろし、ユメに預ける。 「とりあえず、預かっていてほしい」  ふん、と鼻を鳴らしてユメは受け取る。  校門をよじ登り、校内のほうに飛び降りる。 「自分で決められねェオマエは、そうして人に決めてもらうんだな」  着地した瞬間、後ろからユメの声が聞こえた。 「楽だもんな。失敗しても、人のせいにできるから」 「そんなんじゃ――」  振り返っても、そこには誰の姿もなかった。  今まで息遣いさえ聞こえていたのに、いきなり消えている。  いまさらだが、なぜかそれが悔しかった。 「……反論も言わせないのかよ」  いらだたしくつぶやくが、すぐに口を閉ざした。  反論できることなど、なかったのだ。  赤く染まった校舎をあおぎながら、足早に剣道場のほうに向かう。幸い、敷地の隅のほうにあるので人目にはつきづらい。宿直の教師とかがいても大丈夫だろう。  数分のうちに到着した。  木造で古い、小さな建物だ。おかげで警報装置の類もないから、入り口の南京錠さえなんとかすれば簡単に侵入できる。  すでに錠は外されていた。もう秀也がいるのだ。  重い戸を開ける。いつものようにゴロゴロとやかましい音が鳴るが、今はいっそう大きく感じられる。  中で動く気配がした。  高窓から入る光は弱く、道場の中は暗い。  かち、という音とともに光が生まれる。  電池式のランタンを持った秀也が立っていた。剣道着を着ている。秀也の袴姿を見るのは久しぶりだった。  望も扉を閉め、道場に上がる。  習慣で上座に向かって礼をしようとしてしまうが、やめた。  ここは、いつもの道場ではない。 「光はこれでいいか」  秀也の声はこわばっていた。最初、それが質問形だとは思わなかったくらいだ。 「ああ」  秀也はうなずくこともせずに、ランタンを入り口の前に置く。  かわりに何かを二本、拾い上げた。 「それは……」  赤樫の木刀だった。  その一本の柄を、望のほうに向ける。 「格好はそのままでいいか? 着替えたいなら、待つが」 「……いや」  木刀を受け取る。  重かった。まともに構えられるか疑問なほどに。  普通の木刀のはずだ。現役の頃はまめが潰れて固くなるほど握ったし、そもそも日本刀のほうが重量ならある。  こんなもので人を殴れば――。 「約束は覚えているな。いいなら、構えろ」 「ま、待て」  声が震えていた。まわらない舌を強引に動かす。 「お前、こんなもんでどうするんだ。防具なしだとしても、せめて竹刀にするとか」 「僕は決闘と言った。試合じゃない。寸止めもするつもりはない。嫌なら、帰れ。そうすれば、期末試験は受けられる」  つまり、闘うなら試験を受けられない体にする。  秀也にはそれだけの覚悟があるのだ。 (迷ってるようじゃ、ダメだろうがな)  ユメの言葉が聞こえた気がした。  続いて、誰かが囁いた。 (帰る。いいだろう。最初からその選択肢もあったはずだ。どうせこんな状態で闘っても負ける。打たれ損だ。だったらこのまま帰って勉強したほうがいいに決まってる)  真茅の顔が浮かんだ。 (わたしさ、好きだよ。望が剣を握ってるところ)  気がついたら正眼に構え、秀也と対峙していた。  なぜ、真茅のことを思い出したかはわからない。そもそも、ここで剣を振るということは真茅を裏切ることだ。  なのに、剣を構えている。  望の視界の中で、ゆっくりと秀也が構える。 「行くぞ」 「くっ」  望は、迷いながらも応じる。  と、秀也の構えが、定まった。  上段の構え。木刀を握った拳を額の前にまで上げる、攻撃主体の形だ。振り上げる動作を省く分だけ、中段の構えからよりも速く攻撃することができる。  ただし胴ががら空きになるので、当然防御には適さない。  だが、望は攻めあぐねる。 (打てない)  上段の構えにも防御がないわけではないのだ。  高く振り上げた剣による威圧感で敵を封じるのだ。その形のない気勢こそが、得手を守る。攻撃は最大の防御とも言い換えられる。  それを行うには隙のない構えを取ることが必要だ。それだけに、上段の構えは普通、格上の相手には使わない。  剣道の段位なら、秀也は二段。望は三段。  木刀を用いたこの闘いでは段位など意味がないかもしれないが、まさか望は秀也が上段に構えるとは思わなかった。戸惑いが迷いを生み、それは木刀を秀也に打ち付けることの迷いへとつながり、体を鈍らせる。動けない。  上段に構えたまま、秀也がにじり寄る。  それに気圧され、望は後ろに下がってしまった。 (――くそっ)  剣には四病というものがある。  剣を鈍らせる四つの要因。  驚懼疑惑――驚き、懼(恐)れ、疑い、惑いのことだ。  奇策に驚き、木刀に恐れ、結果を疑い、自分の道に惑う。今の望の心は、そのすべてに支配されていた。 「オオッ」  秀也が床を蹴る。  頭上に溜めた木刀を、迷いに縛られた望の脳天に打ちつけた。  望はよろけるように左に動き、その一撃をやり過ごす。  続けざまに、秀也は横薙ぎの一撃で追撃する。よろけた勢いを殺さず、望はそのまま飛びのき、避ける。  秀也が追いかけてくる。離れかけた間合いを瞬時に詰め、望の喉に突きを放つ。望は着地と同時に軸足を回転させ、突きの軌道から喉を逃がした。 (……ああ)  望は突きをかわされ硬直した秀也に体当たりをかます。 (なんなんだよ、畜生)  反撃に体勢を崩しながらも、秀也は即座に飛びのき、望と間合いを開ける。  その隙に、望は目頭を右腕でこすった。 (なんだって、見えるんだよ)  秀也の太刀筋が。足さばきが。目線が。呼吸のタイミングが。  ランタンひとつだけの暗がりにも関わらず、秀也の一挙手一投足が見える。聞こえる。感じられる。  木刀での打ち合い。  そんなものは、遊戯に等しい。  本物の凶器を持った、超人的な化け物を倒してまわっていたのだ。元剣道部員など、どうしようもなく相手にならない。《真夏の雪》の力を借りずとも、素の体に宿った経験だけで、圧倒できる。  現に、にじんだ視界にも関わらず、再び振り下ろされた秀也の剣を音だけでかわすことができている。 (畜生)  負けることができない。  もう彼らのところに戻れない。  秀也は大きく踏み込んでくる。 「エェェイッ」  振り下ろされた面を、望は斜めにした木刀で受け流す。  初めて、秀也の剣が接触した瞬間だった。  痺れる衝撃が剣を伝わってくる。命をこそぎとるはずの激突。竹刀どうしの打ち合いなど話にならないほど重い。  秀也の動きが止まった。  しかし、望はひるまない。木刀など、真剣の打ち合いの重さには及ばない。  望は、木刀を翻す。  固まる秀也の面に、必殺の一撃を振り下ろす。 「――っ」  剣は、額の一センチの位置で止める。秀也の前髪が風圧で揺れた。 「……面有りだ」  かすれた声で望が言う。  が、硬直から立ち直った秀也はその剣を弾き、すぐに飛びのく。剣を構えなおた。 「秀也?」 「言ったはずだ、これは試合じゃない! どちらかが倒れなければ終わらないんだ!」  再び打ち付けてくる秀也の剣を望はかわす。  秀也の太刀筋が、変わった。  疲労もあるだろう。望は息ひとつ乱れていないが、秀也はすでに肩で息をしている。  だが、それだけではない。  打ち込む瞬間にほんのわずかな間隙ができた。コンマ一秒程度の遅れ。  それは秀也の迷いだった。  踏み込みも浅くなり、剣のキレも甘い。 「くそっ」  さっきの一合で、勝負は決まっていた。  圧倒的な力量差を、心に叩き込まれた。  望が、勝つことしかできないとわかってしまったように、秀也もまた絶対に勝てないことを悟った。  にも関わらず――。 「オオッ」  恐怖と疲労とで動かなくなった体を奮い、望に立ち向かう。 「くっ」  望は剣を奔らせる。  木刀の刃先が、振りかぶった秀也の左腕――その前腕の内側を打つ。 「がっ」  秀也の木刀が床に転がる。  打たれた箇所を押さえる。左手は半端に開いたまま、小刻みに震えている。  望が打った場所は左手の筋だ。強打すれば感電したように痺れる。握力もすぐには回復しないだろう。  剣は左腕が要だ。今の疲弊した秀也には片腕で打てる力は残っていないはずだ。  だが、秀也は木刀を拾い上げ、右手だけで構えた。  片手で構えた切っ先は小刻みに震えていた。 「秀也」 「――絶対に……進藤の、ところに――」  その姿に、望は思う。  もしかしたら、秀也は望に敵わないことをわかっていたのかもしれない。  勝てないまでも、自分たちの気持ちだけは伝える。それで望を動かそうとしたのかもしれない。  だが望も気づいてしまった。  自分と、秀也たちとの違いが。 「……すまん」  望は、構えを変えた。  木刀を体の右下に動かし、刃を相手から隠すよう後ろに向けてる。  脇構え。  別名を陽の構え。刃を後方に向け威圧感さえなくなるため、上段の構え以上に自分の体を剥き出しにしてしまう。だがかわりに、間合いや刃の長さを相手から隠すことはできる。  後の先――カウンターに秀でた、超攻撃型の形なのだ。 「お前らのこと、考えてなかった。俺のせいでこんなことさせちまって。だから、もう終わりにしよう」  秀也が、床を蹴る。  振りかぶったその剣が降ろされるより前に。 「はッ」  秀也の懐に入り込んだ望が、脇に構えた剣を奔らせ、秀也の鳩尾に叩き込んだ。 「――ァッ」  秀也の呼吸が止まる。  前のめりになって、ずるずると床に倒れていった。  そのとき、道場の扉が開かれる。 「望!」  真茅だった。ランタンを蹴飛ばし、転げるようにして土足のまま道場に上がってきた。  道着のまま床に倒れる秀也を見つけ、「えっ」と声を上げる。 「こ、これ、間宮くん? なんで――」  真茅は秀也の体を抱き起こした。その瞬間、激しい咳き込みと同時に秀也の息が戻る。 「お前、どうしてここに」 「間宮くんからさっき連絡があって。今すぐ道場に来いって」  真茅がいた市営図書館からここまで、急いでも十分はかかる。決闘が終わる頃を見計らって、呼んだのだろう。 「なんで? なんでこんなこと!」 「――すまん」 「……つ……づき……」  秀也が虚ろな目で、望の背中を見つめていた。右手で床の上を叩いている。  木刀を探しているのだ。  望はそれを見ないように、扉のほうを向く。 「秀也、俺の勝ちだ。約束だ。お前ら、もう俺に関わるな」 「お前らって……」  真茅の声にも望は振り返らずに、開いたままの扉をくぐる。 「俺はもう、進学はしない」           四章  横薙ぎの一刀がナイフを持っていた化け物の仮面を両断する。  仮面が割れ、化け物の姿が掻き消える。  その陰から、別の化け物が飛び込んできた。手に装備した鈎爪を望に突きつけようとする。 「オオオッ」  刀を薙いだ勢いのまま、反転してそれをかわす。同時に、がら空きになった敵を頭上から切り落とした。  風を切る音を、肌で感じる。  その場を飛びのいた瞬間、目の前を巨大な戦斧がかすめる。ギロチンのような巨大な刃が、地面を深くえぐった。  戦斧の《仮面》は、よけた望へすぐさま切り返す。木の枝でも扱うように軽々と戦斧を振り回す。 「はぁッ」  望は戦斧の刃の側面に、刀の柄を叩きつける。その勢いのまま、薙がれた刃を飛び越える。  宙で身を翻し、刀の切っ先を仮面の中央に突き立てる。  甲高い音とともに、仮面は縦に裂ける。  化け物の姿が、凶悪な斧とともに闇に消えた。 「はあ、はあ、はあ」  夜の公園に、望の荒い息遣いだけが響き渡った。  地面のあちこちがえぐられ、ベンチがひとつ木端微塵にされている。戦斧の《仮面》が暴れまわったせいだ。ナイフの《仮面》と鈎爪の《仮面》が小回りをきかせて連携攻撃をしてくるせいで、なかなか攻めきれなかったのだ。 「……ふぅ」  呼吸が落ち着くのを待って、望は目を閉じた。  刀に意識を向ける。  そして、街中に意識を飛ばした。《仮面》の気配を探るためだ。  大きな気配が、ひとつ。  すぐ、後ろ――。 「ッ!」  反射的に背後に切りつける。  が。 「はっ。ずいぶん気合はいってんじゃねェか」  ユメだった。  右手でつまむように望の刀を止めたまま、鼻を鳴らして笑った。  と、すぐに怪訝な表情になる。 「――どうした?」  望が尋ねた瞬間、水っぽい感触が口に入ってくる。  とっさに手で押さえるが、指の間をすり抜け、地面にぼたぼた落ちていく。切れかけた外灯の光に黒く反射した。  鼻血だった。  昼間、真茅に殴られた。  速攻だった。  他の女子に呼び出されて屋上に行ったのだ。緊張した様子で「放課後、屋上に来てくれないかな?」とか言うものだから何事かと思ったが、屋上の扉をくぐった瞬間、殴られた。  最初は通り魔かなにかかと思ったくらいだ。  真茅が出会い頭に殴ってきたのだ。本気で怒っていた。望を呼び出した女子が緊張していたのは、この真茅にびびっていたからかもしれない。  自分の鼻から流れる血を見ながら、頭の中が真っ白になった。  会話の内容は覚えていない。会話なんて生易しいものだったかも怪しい。真茅には「最低」とか「勝手に決めるな」とか「どうせ勉強が嫌になっただけでしょ」とか言われた気がする。  望も、思い出したくないほどひどいことを言った気がする。端的に言えば、いちいち付きまとってくる真茅を拒絶する意味の発言だ。望を心配してくれてのことだとはわかっていたが、そこに考えをめぐらせるほどの余裕はなかった。  もとはといえば望だって悪いのだ。ここ数日、ひたすら真茅を避けまくっていたのだから。真茅が他人の呼び出しを使うという強引な手段を取るのも仕方がない。  気がついたら、屋上の壁にもたれて空を見あげていた。鼻血も止まっていたが、地面やシャツには首でも切ったんじゃないかと思わせるほどの血が飛び散っていた。処理するのもバカらしかったので、妙な騒ぎにならなければいいと祈りながら、シャツだけジャージに着替えて帰った。  明日から夏休みなので、大丈夫だろうが。  そして今。夜の公園でティッシュで鼻を押さえながら、ベンチに横になっている。体の上に鞘に入れた《真夏の雪》を抱えたままだ。  戦闘で動いたせいで、粘膜の傷が開いたのだろう。  ティッシュを伝わって湿っぽくて熱い血の感触がわかった。すぐには止まりそうにない。  同じ状況だからだろうか。忘れていた昼のことも少しずつ思い出してきた。  最後に真茅が泣いていたこととか。  十年の付き合いで、真茅が泣いている姿なんて二度しか見たことがなかった。  一度は道場で出会ったとき。「あんたの面なんか効かない」といわれ、カッとなって後ろから防具に守られていない後頭部を思いっきり打ってやったのだ。泣いた真茅にボコボコにされて、剣道の先生にもぶん殴られたけど。  二度目は真茅の犬が車に轢かれて死んだとき。  三度目の今日。望との友情が終わった日。  十年も続いた関係が些細なことで終わってしまう。あっけないものだな、と思う。友人と木刀で殴りあうことが、些細なことなのかは知らないが。  修復しようとすれば、できるとは思う。お互い、感情的になりすぎていた。冷静に話し合えば納得はしてくれるはずだ。だが、望はあえてそれをしない。このまま真茅とは別れたほうがいい。そうすれば、真茅はもう望のことを気にかけることはしないだろう。自分のことに専念できる。  お互い、別の道を行くのだ。 「ほらよ」  目の上に冷たい感触。  濡らした布が乗せられていた。タオルだろうか。 「悪いな」 「テメエの血で《真夏の雪》を汚してほしくないからな」  ユメは望の頭の横に足を組んで座り、煙草に火をつけた。 「だけど、これ汚しちまうぞ?」 「気にするな。オレのじゃねェ」 「は?」  もう一度タオルだと思ったものをよく見る。薄い滑らかな生地。藤花の柄に見覚えがあった。 「俺の手ぬぐいかよ!」 「タンスんなかにつっこんだまま使ってねェみたいだったからな。意外と役に立つもんだな」  それは窃盗じゃないのかとも思ったが、ヘビースモーカーの中学生にそんなこと言っても仕方がないだろう。素直に、タオルを額で手を拭き、額に置いた。 「戦いの傷はすぐふさがるのに、その前の傷は治らないんだな」 「ま、そうかもな」 「というと?」 「さァて? ま、昼と夜とじゃ違ェ体だ、ってことだ」  ユメは笑みを浮かべてごまかした。 「そういえば、最近は以前より体がよく動くような気がする。感覚も鋭くなったし。単に、戦いに慣れたとか、筋力がついたとか、そういうレベルじゃない。体が、別のものになっちまったような」  それだけではない。あえて言わなかったが、敵の数が増えている気がする。  いや、より見えるようになっただけ、とも言える。増えたのは小物が多くなったからだ。大物の数は、変わらない。  ほほ笑みを浮かべたまま、ユメは答えない。  人形のように整った顔がほのかな赤い光に照らされている。その光がくわえた煙草の光だとしても、思わず見入ってしまう美しさは変わらない。  いったい、この子はなんなのだろう。  うだる熱さの中でも冬服を着つづけ、煙草を吸いまくるを使いこなすユメという恥ずかしい名前の少女。神出鬼没で、人前には姿を現さない。わかるのはそれだけ。  初めて、望はこのユメという少女のことを何も知らないことに気づいた。  だが、直接尋ねても答えないだろう。 「この刀って、なんだ?」 「……古代の刀匠、天国(あまくに)の作。史実では最古とされている安綱よりさらに古い。ま、国には認められちゃいねーが、由緒正しい稀代の名刀だぜ?」  話をそらそうとしている。  望は、鋭敏になった感覚でそう知覚した。言葉を発する直前、視線がコンマゼロ二秒だけ不自然に揺らぎ、心拍が一拍だけ三割増したのだ。 「そういうことを聞いてるんじゃない。この刀を持った瞬間、俺の体は変化する。敵が見えて、体は軽くなる。いちばん最初も、この刀から始まった。ユメ。お前はいったい――」  ユメは煙を吐き出す。 「真夏に雪が降る。――と、聞いて、どう思う?」 「もうごまかすのは――」 「いいから、答えろ」  ユメの静かな迫力に、望は反論するのを止めた。  いつの間にか、彼女の表情に笑みがなくなっていた。 「ありえない、と思う」 「そうだな。普通はそうだ。だが、もしもそれが実現したら? 想像してみろ。夏の青空から白い雪が止め処もなく降ってくる。どうだ?」 「……綺麗な気がする」 「ああ。だけど、迷惑極まりない。気象庁はてんてこ舞いになるだろうな。交通機関も麻痺して、農作物も不作、ビールの販売数も伸び悩む。日本経済は大打撃、不況はまた長引いて、失業率もうなぎのぼり。異常気象で終末思想が盛り上がって拝み屋が商売繁盛ってな」  いきなり聞きなれた固い言葉ばかりになって、望は苦笑した。 「そんなリアルに考えるものか?」 「言っただろ。もしも実現したら、だ。まあ、気にするな。そんなことは起こらねェよ……普通はな。降ってもすぐさま夏の日差しに殺される。冬に咲いた花が寒さに切り刻まれるように、昼の月は光の中に葬られてしまうように」  なぜか、ユメは自嘲的な笑みを浮かべる。 「真夏の雪、真冬の花、真昼の月。浮かんでは消えるうたかたの幻」  ユメは望の目を見る。 「全部、夢物語だ」  それなら、ユメ、お前はなんなんだ?  言葉が出る前に、ユメのくわえた煙草に望の手が伸びていた。  それを奪い取る。紙巻のごわついた感触。  その存在を確かめるように、自分でくわえてみた。  が――。 「がはっ」  肺いっぱいに吸い込んだ瞬間、目の前で星がはじけた。  体が煙を吐き出そうとするが、喉に粘ついたものが残ったままで、気持ち悪い。  その様子がおかしかったらしい。喉を押さえて咳き込む望を見下ろしながらユメはけらけら笑っていた。 「何してんだ、テメエは」 「げほっ――いや……うえっほッ」  声までいがらっぽくなる。実は前に一度吸ったことがあるが、ここまでひどくはなかった。  体を起こして、しばらく咳を繰り返す。 「ユメが、また消えそうな気がしたから」 「はっ」  鼻で笑って、ユメは短くなった煙草を奪い返してきた。 「ケツのちっせェこと言ってンじゃねェよ。男なら、そんな情けねェツラしてんじゃねーよ」  そんなにひどい顔をしていたのだろうか。  そうかもしれない。  いろんなものが一気に変わりすぎた。 「強いな、ユメは」 「はっ。年季が違ェんだよ、年季が」  ユメは煙草を足の裏でもみ消し、そのまま立ち上がった。  ポケットに手を突っ込んで、望に向き直る。 「泣くんだったら、抱いてやンぜ?」 「誰が泣くか」 「はっ。たいしたハッタリだ。そうでなきゃな」  ユメが片手で望の頭を抱き寄せる。座ったままの望はそのままユメの胸に頭を押し付けられた。 「サービスだ」  声が、体のほうから直接伝わってくる。  温かい。煙草の苦いにおいも、今は心地いい。 「テメエが刀を振るかぎり、オレはそばにいてやるよ」  ユメの体を抱き返すかわりに、望は《真夏の雪》をぎゅっと握った。  手の中にたしかに存在する、この世の夢と号された鋼の刃。 「ありがとう」  明日から夏休み。  たくさん斬ろう、と望はユメの腕の中で思った。           *  ひぐらしの声で目覚めた。  望は目を開く。開きっぱなしの窓の向こうには淡く青い空。  時計を見ると、まだ六時前だった。眠ってから三時間足らずだ。なのに、不思議と眠気はない。  夢は見なかったと思う。  耳を澄ませば街じゅうの音が聞こえる気がした。小鳥が羽で空気を掴み、かきだすひとつひとつの動きがわかった。小さい体ながらも力強い筋肉で羽ばたいている。雨どいに着地し、トタンに爪がかかる。その震動で朝露が垂れて、地面を叩いた。  刀の力を借りなくても、こんなにもわかる。  望は起き上がる。夏休みの補習は九時からだったが、二度寝する気が起きなかった。  階下におりると、父がスーツ姿でいた。姿を見るのも珍しいが、スーツ姿など何年ぶりに見ただろうか。冠婚葬祭でなければまずお目にかかれない。 「おう、早いな」  どうやら締めなれないネクタイと格闘していたらしい。首には巻かれた黒い絹のネクタイは大きく曲がっていた。 「メシはあっためて食えよ」  今日も希子は朝帰りらしい。帰りが遅くなってどうしても朝食が作れそうにないときは、前もって作っていくのだ。できた妹だ。  望がお玉をつっこんだままの鍋の蓋をとろうとしたとき、玄関が開く。 「ただいまーって、お父さん、もう行くの? あ、おにぃも起きてる。おはよー」  閉じかけた目をこすりながら手を振る希子は、どう考えてもおはようなんて顔じゃない。さっさと二階に上がっていってしまった。そのまま、半日は寝るのだろう。  それでも、今日が何の日かは忘れていなかったらしい。  望は鍋の中の料理――カレーを見る。  市販品では絶対に再現できない奥深い香りが漂ってくる。希子のカレーはスパイスや出汁も自分で調合する本格派だ。これひと鍋のために、二週間分の食費はつぎ込まれている。野菜煮込みにルーを入れるだけの――あるいは、レトルトを温めるだけの――料理とは根本的に違う。  だが望は重苦しい表情のまま、蓋を閉めた。  十年前から決まった都築家の暗黙のルール。  七月二十八日はカレーを食べること。 「食わんのか」 「あ……。ちょっと、胃がもたれ気味で」  とっさにうそが出る。  父は顎をかいた。 「じゃあ、墓参りは行かんのか?」 「時間が空いたら。けど、補習のあとはすぐバイトだから」 「補習は九時からだったな。なんなら、今から行かないか?」 「それで遅刻したらどうするんだよ。高校は卒業しとけって言ったのは、親父だろ」  進学を辞めた日、高校も一緒に辞めることを父に相談した。けれど父は、やりたいことというのが学業と両立が可能なら、せめて卒業だけはしておけと言ったのだ。  父は「うぅむ」とうなった。  歪んだネクタイを外し、ポケットにしまった。 「望。お前、卒業したら出て行くんだよなぁ」 「なんだよ。それがどうかしたか?」 「いや、お前ももう自立するんだよなぁ。そう考えたら、墓参りに行くことくらい、自分で決めるもんだな、と思って」  言葉だけなら遠まわしに皮肉を言ってるようにも聞こえるが、父は真面目にしんみりしていた。 「母さんが死んだときにな、俺は決めたんだ。お前らをちゃんと育てる、この不幸にも負けずに戦い抜くってな」 「戦う……」 「ま、戦うなんて言ったら大げさかもしれんが。それくらいの意気込みだったさ。本当は、二人に支えられることも多かったんだが。とにかく、父さんの役目は終わった。だから父さんは新しい道へ進む。今日は、その報告に行くのだ」 「新しい道?」 「バンドを組んだ」  一瞬、絆創膏が脳裏をよぎった。  父の口から、ミュージシャンを意味する単語が出るとは思わなかったから。 「驚け息子よ。実はこれでも昔はバンドマンだったのだ。母さんとお前のおかげでその夢をあきらめ、まっとうな会社員となったが……もう父さんは自由だ! 会社の仲間と練習してたんだが、ようやく形になってきてな。そのうちライブとかもやるかもしれんぞ?」  言葉には熱がこもり、望に言っているのか勝手に歌っているのか、わからないテンションだ。  会社の周りは畑だらけだ。ある意味、素人音楽をやるにはうってつけの環境かもしれない。 「誰もが、戦う力を持っている」  急に落としたトーンの言葉になり、望ははっとする。 「だけどひとりの力なんてたかが知れてる。だから父さんは、そんな人たちの力になれればいいと思って音楽を始めた。父さんもいろんな人に力を借りたからこそ、戦ってこれた。だから、今度は貸すほうにまわるんだ。だからお前も――」 「戦う前に負けが決まってることだって、あるだろ」  望は父の言葉を遮る。  戦いたくても、敵は常に卑怯でずる賢い。いつも圧倒的な力を持って、不意打ちばかりをしてくる。  父は、笑った。 「負けたと思わなきゃ、負けじゃないんだよ」 「そんなの、詭弁だ」 「ま、そうかもな。それでも、戦いつづけなきゃならないけどな」  そういい残して、父は玄関から出て行った。  閉じるドアに向かって、望はつぶやく。 「……俺は、負けない」  七月二十八日。  今日は、母の命日だ。          *  望は墓地に続く山道を歩いていた。  右手には、コンビニで買った花束。  腰には、《真夏の雪》を差していた。  来るつもりはなかった。ただ、今日は《仮面》の数も少なく、時間があまってしまったのだ。決して、父の言葉に動かされたとか、そういうわけではない。  墓地は市街地を離れ丘陵にさしかかった山の中にあった。  鬱蒼としていて昼でも気味の悪いところだ。  だが、今の望には嫌悪感はなかった。  見えているのだ。風に揺れる木の枝の一本一本から、その葉の裏で休む蝉の姿まで、わずかしか届かない月の光だけで十分判別できる。柳を幽霊と見間違う余地など残っていなかった。  山道を抜け、墓地に出る。空には大きな月が出ていた。明日あたり満月だろう。おかげで望にとって、視界の明瞭さは昼間とほとんど変わらない。  墓の場所の記憶は曖昧だったが、すぐに見つかった。他の墓石がチリや鳥のフンなどで汚れているのに、ちゃんと磨かれていたからだ。  真新しい花束が水差しにあった。黄色い花、菊だろうか。  さらに、墓石に寄りかかるように、二メートルはあるヒマワリが五、六本束ねて置いてあった。さすがにそれは水差しには入らなかったらしく、茎の先は地面に刺してあった。 「親父……」  苦笑しながら、望は開いている水差しのほうに、花を差す。作法として何がふさわしいかなんて知らないので、フィーリングでいくつか見繕ってきた。このヒマワリに比べれば何だって許される気がする。  差し終わって手を合わせようとして、何かを忘れている気がした。  線香の残り香が鼻につく。 「あ……」  線香を忘れていた。 「いるか?」  背後からの声。  ほとんど超人的になった望の知覚でも、いきなり現れたとしか思えない感覚。  幽霊としか思えないタイミングで声をかけてきた彼女。それでも驚かず、望は振り返る。  ユメが煙草を出した箱を望に差し出していた。 「線香代わりに煙草、か」  親が泣くぞ、とひとごとのように内心でつっこみつつも、箱から一本引き抜いた。  ユメがジッポライターで火を差し出してくる。少しためらったが、望は煙草をくわえて火をつけた。  咳き込むこともせず、望は白い煙を吐き出す。 「オマエ、肺に入れねェと吸ったことにならねェだろうが」 「別に吸いたいわけじゃない」  軽く吸って、喉で煙を止めたのだ。それでも、舌や喉にタールが粘りつく感触が残る。絶対に自分は煙草は吸わないだろうなと思いながら、咳払いをする。  線香受けに煙草を入れようとして、その影にMDのディスクが入っていることに気づいた。 「親父のか」  バンドを組んだと言っていたので、それを録音したものだろう。ディスクだけ置いても、聞けないだろうに。  煙草を供える。ちゃんと燃えて煙を出していた。 「なんで今日はカレーなんだ?」  ユメが向かいの墓石の基礎に腰掛けながら尋ねた。それが当たり前であるかのように、煙草を吸っている。 「別に深い理由はないよ。ただ、母さんの得意料理……というか、手を抜くときはいつもカレーだったから。おかげで俺らは食べ飽きてて、母さんが死んだあとも作ることもなかったけど、この日くらいは作ろうって」  一周忌の日に、希子が母を思い出して言い出したのだ。カレーが食べたい、と。  希子が中学に入る頃から、料理の当番は希子になっていた。夜遊びを覚えても、この日だけは決まってカレーを作る。年々力が入ってきているカレーを食べ、バラバラでも墓参りに向かうのが恒例行事になった。 「十年前から、かな」 「たしか、オマエが剣道始めたってのも、そんぐらいじゃなかったか?」 「一応、きっかけみたいなものだったからな」  望は照れくさくなり、苦笑を浮かべた。 「十年前の、小学生だった俺は、夏休みは毎日時代劇を見ててな。タイトルも忘れたけど、昼間は寝てばかりいて妻にもうだつの上がらない主人公が、夜は悪人どもを影で葬るって話だった。夜はかっこいいのに、事情を知らない奥さんに能無し扱いされてるのがかわいそうに思ったな」  話が飛ぶが、ユメは黙って望の言葉を聞いていた。 「で、前後編に分かれた話があって、その日は主人公が敵に斬られたところで終わった回があったんだ。朝になっても布団に主人公がいない。呆然と誰もいない布団を見つめる奥さんの顔で、次回に続くんだ。けど、どうもその放送、再放送だったらしくてな。次の日からは通販番組が放送されて、主人公が復活するだろう回は結局放送されなかった。母さんが死んだのは、その前半の回が放送された日だった」 「……あちっ」  ユメが小さく言って、膝を叩いた。長くなっていた煙草の灰が落ちたらしい。  気にするな、という風に視線を望に向ける。 「実感なくてな。母さん、けっこう出張とか多くて帰らない日も多かったから。結局、死んだのも出張中に事故に巻き込まれたからなんだけど。で、いつまで経っても時代劇の後半も始まらない、母さんも帰ってこない。うまくはいえないけど、母さんの葬式が終わったくらいに、自分も剣をやってみようと思った。だから剣道を始めた」  望は腰に差した刀を触れる。 「今ならわかる。俺は、その主人公や母さんを奪った、不幸を倒したかったんだ。やつらは知らない間に忍び寄り、隙を見計らって一気に襲いかかってくる。だから俺は、その前にやつらを斬り捨ててやりたかった」 「それがオマエの夢か」 「そうだな」  望が戦いたかった相手は、形のない不幸だ。  今はそれが叶う。  見えなかった敵の姿を捉え、斬ることができる。  もう、誰も泣かせることはしない。  ――泣く?  ふいに、真茅の泣き顔を思い出した。  今の真茅を。そしてもっと幼い、小学校の頃の真茅を。  あのときは、倒せなかった。怪我を負った望を見て、真茅は泣いたのだ。  望は、時代劇を思った。  見られなかった後半。事情も何も知らず、突然に戻らなくなった主人公を思って、妻は泣いただろうか。  なぜ、主人公は自分のやっていることを教えなかったのか。決まっている。よけいな心配をさせることになるからだ。だから昼行灯と馬鹿にされても、本当のことを黙っていた。 「……どした?」  短くなった煙草をもみ消したところで、ユメが望の顔を覗き込んで尋ねた。  望はゆっくりと首を振る。 「……いや。なんでもない。ただ……」  母の墓石を見つめる。  父は、人は誰もが戦う力を持っている、と言った。  母は死んだ。不幸に敗れたのだ。卑怯な不意打ちを食らって。  だからやつらが見える自分は、先手を打って倒していかねばならない。常に矢面に立ち、直接やつらと対峙する。 「俺はもう、いつ死んでもおかしくない、ってことを思い出しただけだ」  最近は、戦うことにもこなれてきてしまった。  白刃の下を潜り抜けるということの意味を忘れかけていた。  自分が敵を斬るということは、同時に、自分が斬られる可能性をもはらんでいるのだ。  かたり、と倒れる音が聞こえる。  MDのディスクがあった。さっきより少しずれている。特に、風などは吹かなかったのだが。  何とはなしに拾い上げると、ラベルの裏に文字が書いてあった。 『息子よ。お前はお前の戦いに励めよ』 「……親父」  ここに来ることは読まれていたらしい。なんだか悔しくなる。ディスクを乱暴にポケットに突っ込んだ。  そのまま、歩き出す。 「帰るのか?」 「ああ」  自分が死ぬことは、別にいい。  だけど、それで悲しむ人が現れるのが、嫌だった。 「一応、やりのこしたことは整理しておかないとな」  月を見上げる。  明日は、満月だ。           *  また日が暮れる。  望はビルの上に見える完璧な満月を見上げながら、最初に刀を手にとってからもう一ヶ月が経つことに気づいた。  とても昔のような気がするし、すぐに過ぎ去ったことのようにも思える。倒した敵の一体一体まで克明に思い出せるのに、その間にやった授業のことはほとんど曖昧になっていたのに、自分で苦笑してしまった。  向かいの道路は、わずかにまだ焦げ目が残るが、今では事故の痕跡はほとんど見えない。行き交う人々も、そこでひと月前で事故が起こったことなど、意識にさえ上らないだろう。  その無関心が逆に誇らしい。  みんなが意識していないということは、それだけ平和だということなのだから。 「望」  声に振り返ると、真茅が立っていた。走ってきたのだろう、ちょっと息が上がっていた。  無表情だった。だが、視線が落ち着かない。どんな顔をしていいかわからないからとりあえず殺している、という感じだろう。  望は笑顔を浮かべる。 「久しぶり」 「う、うん」  真茅は照れるように視線をそらして答えた。 「で、用って、何?」 「ここじゃ落ち着かないから、入らない? 時間、大丈夫だろ」  望はビルの一階の喫茶店を示す。  真茅は少しためらう様子を見せたが、うなずいた。 「好きなの頼めよ。おごるから」  いちばん奥の席についたところで、望が言った。  真茅の表情が怪訝になる。 「……ずいぶん、気前がいいんだね」 「一応、俺が呼び出したわけだから。バイトも始めたし――」 「そう……バイト」  真茅の言葉に棘が立った。  望は一瞬だけ「しまった」と思う。受験を放棄した望をよく思っていない真茅の、逆鱗に近い場所だったかもしれない。  だが、すぐに気を取り直す。この程度でひるんでいたら、本題なんてとても言えない。 「卒業したあと、ひとり暮らししようと思うんだ。その資金集め」 「用事って、何?」  明らかに不機嫌な口調で、真茅は話を変えようとした。 「ちゃんと説明しにきた」 「説明?」 「俺がなんで受験をやめようと思ったか。それを真茅に納得されないままだと、俺の心残りになる気がしたから」  望はノートを取り出す。真茅の作ってくれた試験問題のノートだ。 「これも返す」  真茅は頬杖をついたまま、机の上に置かれたノートを細めた目で見る。 「続けて」 「俺、自分がやりたいことが見つかったんだ。だから受験はしない。それに専念する。卒業したあとも、それを続ける。何をやっているかは――今は言えないけど、でも人に後ろ指を差されるようなことじゃないから、安心してほしい」 「……何してるかは言えない。けど納得してくれ。って、こと?」 「まあ……そうなる」  何も答えず、真茅は望をにらむように凝視した。  望は落ち着かない。  真茅になら本当のことを言ってもいいかもしれないが、余計にこじれる気がする。  やがて、真茅はため息をつく。  机の上のノートを取り、無言で鞄の中に突っ込む。  真茅が手を上げ、ウエイトレスを呼んだ。 「グレイトスペシャルサンデー、ひとつ」  ウエイトレスは少し動揺したようだ。 「――えっと、挑戦の方でしょうか?」  ちらりと望を見てから、真茅はうなずいた。 「はい」  望はテーブルの上に置かれたメニューを確認する。  デラックススペシャルサンデー ¥一八00  ※十五分以内に食べきれればお代はいただきません。ただし、失敗した際は料金の倍額をいただきます。  真茅が望を見ながら、にやりと笑う。  ――こいつ、まさか。  かくして、バケツみたいなグラスに入ったパフェが運ばれてきた。山盛りにされたプリントチョコソースとフレーク、生クリームの上に南の島を凝縮したようなフルーツ盛り合わせ。十五分で完食どころか、人間が普通に食べきれるかも怪しい。  ウエイトレスがストップウォッチを構える。 「それではスタートの合図と一緒に――」 「あ。いいです。普通に食べますから」 「え? いやしかし――」 「……料金はちゃんと払いますんで……」  望が疲れた表情で言った。  はあ、と戸惑いながら戻っていくウエイトレス。それを見送ることなく、真茅は上機嫌でスプーンで生クリームの山を崩し始める。 「一回これ食べてみたかったんだよね」 「へっ。そーかい」  投げやりに答え、望はお冷をあおる。 「いいよ、別に」  いきなり真茅が言った。 「やりたいこと見つかったんでしょ。それが進学じゃなくてもいいって、わたしも言ったしね」 「え? でも――」  真茅はスプーンをくわえたまま、うつむく。 「こないだは、ごめん。頭に血が上ってた。鼻、大丈夫だった?」 「……まあ」  素直に謝ってくる真茅に、望のほうが面食らってしまった。 「本当はわたしから謝ることだって思ってはいたんだ。いまさら言うのは弁解っぽい……ううん、弁解だな。ごめん。あんな別れ方だったから、顔合わせづらかったし。このまま夏休みが終わったらきっともう謝ることさえできなくなってるって思っても、なかなか思い切れなかったし。不安だった。望と、あんな風に終わっちゃうことが」  真茅がスプーンを差し出す。 「だから、ありがとう。これ、半分食べていいよ?」  真茅に差し出されたバケツパフェのスプーンを受け取る。  やはり最初から十五分以内に食べきるつもりなんかなかったらしい。  ありがとうと思うならわざわざ倍額払わせるなよ、と望は言いかけたが、パフェのマンゴーと一緒に言葉を飲み込む。今日はこいつになにを言われても我慢しようと決めていた。  なぜかユメの鼻で笑った顔が思い出される。  男っていうのは損な生き物だとつくづく思う。 「それに、安心した。望とまたこうして話ができるってこともそうだけど、なんだか望が吹っ切れたみたいだから。やりたいことが見つかったっていうのも、嘘じゃないみたいだね。なんか――剣道やってるときより生き生きしてる気がする」 「まあ、そうかもな」  生クリームを口の端につけてバケツパフェを食べる望を、真茅は懐かしそうな笑みで見守る。 「ねえ。ムサシのこと、覚えてる?」 「ムサシ? ああ、お前が飼ってた犬か」 「うん。ムサシが死んじゃったときのこと」  ムサシを轢いた車を追いかけ、運転手の男を殴りつけたのだ。子供が敵うはずがなく、返り討ちのあったのだが。 「望ってばボコボコで。コンビニの店長さんが警察呼ばなかったら、ホントに死んじゃってたかもよ?」  実際、腕にヒビが入り、肋骨も何本か折れていた。事件のほうは。子供とはいえ先に仕掛けたのは望のほうだとして、望の親は多少の治療費と引き換えに示談ですませてしまった。相手の男は代議士だかなんだかの息子だということもあり、刑事的にも起訴されることもなかった。  結局、望は何に勝つこともできなかった。  そのときから『敵』を考え始めた。  見えない相手に剣を当てること。  それは競技剣道の小手先の技では叶えられないことだった。 「あれからさ、望とムサシって同じような気がしたの」 「俺が?」 「うん。両方とも、ほうっておいたら勝手に走っていっちゃう。だから、望には先に『待て』をしつけることにしようとね」  なんとなく、真茅がなぜあんなに自分のことを心配していたのか、わかった気がした。 「でも、もう大丈夫みたい。きっと、自分で見つけることができたんだね。これでわたしも、安心して受験勉強に励むことができるよ」  冗談めかして、真茅が笑う。  望もつられて笑った。  二人だけで笑いあう。  それだけのことなのに、ひどく懐かしい気がした。 「そういえば、望。まだあの竹刀持ってるの?」 「竹刀? ああ、あれか」  望は、退院した日に真茅が渡してくれた竹刀のことを思い出した。  運転手の男に蹴られて折られた竹刀だ。壊れた部品を取り替えて、真茅が直してくれたのだ。  すべてにおいて敗北していたあの事件で、唯一、その真茅の笑顔を見たときは勝った気がした。  だから今でも部屋に飾っている。  真茅や家族には「記念だ」と言ってごまかしてはいるが。 「本当はね、ムサシが事故に遭う前あたりから、わたし、もう剣道はやめようと思ってたんだ。ムサシや望のこともあって、精神的にますます参っちゃって、これを渡したら最後にしようって思いながら、直したんだ」  ほほ笑みながら、真茅が言った。 「でも、なんだか直してるうちに、勝手に悲しくなっちゃって。これを渡したら、またわたしをおいて望が走っていっちゃうんじゃないかって。そこでまた怪我したりするのかなって思ったら、放っておけなくなっちゃって。やっぱりわたしがいないといけないんだなって」 「なんだそりゃ」 「でも、あの竹刀使って負けなしでしょ? やっぱり、わたしの力が望を守ってるんだよ」  たしかにその通りだった。  小学生の部で全国大会まで行ったのだ。ただ、肝心の大会で真茅の竹刀を忘れてしまい、あっさり負けたのだが。 「長かったなぁ。望と同じ道、十年か」  しみじみと真茅がつぶやく。  真茅と別の道に行く。まだ実感がわかない。いつかそれを振り返って、懐かしんだりすることがあるのだろうか。  真茅と目が合った。  少し、うるんでいるように見えた。 「……言っちゃおうかな……」  ほとんど声に出さず、真茅がそう唇を動かした。  その笑みのまま、真茅がテーブルに身を乗り出し、手を伸ばしてくる。  そっと、望の唇についたクリームを指でぬぐう。 「気づいてた? わたしね、望のこと――」 「失礼いたします! お客様、一応、規定の十五分となりますが?」  ウエイトレスが営業スマイルで立っていた。  机の上のバケツパフェには半分以上残っている。  一瞬真茅はきょとんとするがすぐに我に返り、指のクリームをナフキンで拭く。 「わかりました」 「では、規定のとおり料金のほう倍額お願いいたします。またのご挑戦をお待ちしております」  伝票を残して去っていく。  望はそのやりとりを呆然と眺めながら、真茅の指の感触が残る唇を触れる。  なぜか心臓が高鳴っていた。 「真茅、お前さっき――」 「ごめん。やっぱりやめる」  真茅はイタズラがばれた子供の笑顔で答える。 「よく考えたら望だって、本当はなにをやっているのか教えてくれないんだもん。わたしだけ言うのは不公平じゃない?」 「まあ、そう……なのか?」 「うん。だから、望が全部話してくれたときに、わたしもさっきの続き、言ったげる」  真茅は鞄を取り、立ち上がった。 「一年後くらいに、笑って話せるようになってればいいよね」 「それくらいになら、多分」 「決まり。じゃ、一年後だ」  約束ね、と笑う。  本当は今言ってもいいのだが、真茅の笑顔を見ていたら一年待つのも悪くないと思った。 「かわりに、今言えるコト――」  こほんとひとつ咳払い。  真茅は去り際に、最高の笑顔で言い残していく。 「今まで、進藤真茅をありがとう。これからもがんばれよ、都築望」           *  生クリームの胸焼けを抱えながら、望は仮面の化け物を追って路地裏のビルの間を走っていた。  ひゅ、という音。  その場で円の軌道を描き反転しつつ、止まる。すれすれのところを矢が落ちてきて、アスファルトに突き刺さる。  上。  月とビルの間に、嗤う《仮面》の姿が見えた。  手には巨大な弓矢が握られている。 「くそっ」  毒づきながら、望は横のビルの壁を蹴る。  そして、跳んだ。  三メートル間隔のビルの壁を交互に蹴って上に昇っていく。  ものの数秒で十メートル以上あったビルの屋上にたどり着く。  すぐさま《仮面》が矢を放つが、夜の望の目では止まっているのと同じに見える。首のひねりだけでそれをかわし、一気に接近する。 「ハッ」  気合とともに放った一撃。  だが、突然壁が間に現れる。 「なっ」  望の一刀はその鉄の壁に遮られ、バランスを崩す。たたらを踏んだところで、壁が望の体を突き飛ばした。  そのまま数メートル飛ばされる。  縁のフェンスに叩きつけられて、自分の攻撃を防いだものの正体を確認した。  盾だ。直径二メートルはある五角形の巨大な鉄盾。  そして、その影には《仮面》の姿が隠れていた。 「……ずいぶん変わりダネが出てきたじゃねえか」  弓矢と盾。二体は望から離れるように、ビルの上を跳び去って行く。 「逃がすかッ」  すかさず追いかける。  夜ならば、大通りをはさんでいても跳躍できる自信がある。  飛行機さながらの速度で《仮面》を追いつめていく。  が、着地の瞬間を狙って、矢が飛んでくる。 「ふんっ」  それを掴み取る。ズッと手の中が摩擦で切れる感触。顔をしかめるが、そのまま矢筈を掴み、遠心力をつけて弓の《仮面》に投げつける。  弓で発射するのと変わらない速度で飛来する――が、それは弓の《仮面》に届く前に、盾によって叩き落された。  その影から、さらに矢を飛ばしてくる。 「なんだ、こいつら」  矢を次々に刀で叩き落とし、望は再び《仮面》たちを追いかける。  違和感があった。  攻撃しては逃げる。さっきから、敵はそれを繰り返している。  まるで自分をひきつけているかのように。  もっとも、弓矢と盾のコンビならそれ以外の戦い方がないというだけかもしれない。防御型も遠距離攻撃型も初めて出会ったタイプだが、脅威は感じない。  いつしか場所は、繁華街から郊外に出ていた。あたりは畑と民家ばかりで、障害物は少ない。  望は一気に加速をつける。敵も矢で迎撃するが、ステップだけでよける。  間合いがあっという間に詰まる。  盾の《仮面》が、望の前に立ちはだかった。 「遅いッ」  一瞬で盾の背後に回りこみ、がら空きの背中を一閃。体ごしに仮面を切り裂く。  化け物の体が消えるのを待たず、次の敵に向かう。  守衛もないまま接近戦に持ち込まれた弓兵を倒すのに、多くの時間はかからなかった。 「ふぅ」  額の汗をぬぐう。  ずいぶん遠くまで来てしまった。ビルの上をしばらく鬼ごっこして、しまいには郊外の畑の中にまで。ここまで、車でも三十分はかかる距離だ。  帰るのが面倒だな。望はそんなことを思いながら、索敵するため刀に意識を向けようとする。  その直前で、脳髄に稲妻が走った。  それは吐き気に変化。思わず口元をおさえ、望はその場にうずくまる。  まだ、意識を飛ばしていない。  その強烈な気配のほうが、望に飛び込んできたのだ。 (なんだ、今のは……)  強烈な嫌悪感だった。悪意と憎悪を濃縮し、凝り固めたような、人間として根源的に拒みたくなる種類のモノ。  ――まさか。  望は、走り出す。  さっきの敵の動き。まるで自分をひきつけ、なにかから遠ざけるように見えた。 (くそっ、くそっ)  気持ちばかりが焦る。  街の光がひどく遠く感じる。  空に輝いていた月は、いつの間にか現れた暗雲に隠されてしまっていた。  車がビルに突っ込んでいた。  車体の前部分は右から左にかけて大きく潰れている。左側から壁に突っ込み、そのままこすりつけるように進んだのだろう。ビルの壁はコンクリートがえぐられていて、辺りに車のガラスと一緒に飛散している。  そして、倒れる数人の人間。  痛みに悶える人もいれば、血を流したまま動かない人もいる。 「これは……」  望はビルの上からその光景を見下ろし、絶句した。  刀を落としそうになり、慌てて取り直す。  その瞬間――背後に濃厚な気配を感じる。 「――ッ」  小さい。  背丈だけなら望よりも小柄だ。今までのモノとは違い、輪郭がはっきりとしている。タイトな黒のスーツをまとった女性――そう、全体にどこか丸みを帯びたシルエットは、女のもの。  そして、顔には他のものと変わらない笑みをかたどったシンプルな仮面。 「お前か」  望は刀を正眼に構える。 「囮まで使って、小ざかしいことしてくれたもんだな」  《仮面》は、左半身を望に向けるように立つ。左腰に、望のものと同じくらいの長さの刀が一本帯びていた。 「おおおおっ」  望は十メートル近い距離を一息で詰める。  敵の刀を抜かせる暇も与えない。  疾走の加速を振り上げた刃に乗せて、《仮面》に叩きつけようとする。  その瞬間。  《仮面》の姿が何重にもぶれた気がした。  望の脳内に警報が鳴り響く。とっさに、身を退かせようとした。  が、蹴った足が空を切る。  他の手足を動かそうとするが、言うことを聞かない。  ――なっ。  望の体は宙を浮いていた。  どうしようもない浮遊感を感じながら、望は自分がなにをされたかを考えた。  望が接近した瞬間、《仮面》は腰に差したままの刀の柄で望の鳩尾をしゃくりあげた。そのまま懐に入り込み、右手で顎を突き上げた。  その動作を一拍で行ったため、姿がぶれたように見えたのだ。  ――これは『技』だ。  今までの敵は、手にした武器を振り回すだけの獣じみた攻撃しかしてこなかった。  こいつは違う。  力の流れや使い方を知っていて、最短で敵を殺す手順――技を体得している。  実際、自分は一瞬にして無力化された。鳩尾を打たれて呼吸もできず、脳を揺さぶられて体もうまく動かない。そもそも、何の支えもない空中に浮いている。あがくことさえ許されない。  あとはただ斬られるだけだ。  だが、そのまま望はコンクリートの地面に重力によって叩きつけられた。 「がはっ」  その衝撃で、息が強引に戻される。  視界の端に《仮面》の華奢な体が見える。やつは荒い呼吸を繰り返す望をあざ笑うかのように一べつし、視界の端へと飛び去っていった。  ――俺なんか、殺すまでもないってことか? 「く――そっ」  追いかけようとするが、脳を揺さぶられた衝撃が足に来ていて、立つことはできてもうまく動かない。とてもビルの上を飛び移るような芸当は無理そうだ。  重くなった体を引きずるように望は道路側のフェンスから下の様子を見る。  何台ものパトカーや救急車、さらには爆発を懸念してか消防車まで集まっていた。  その群衆の中に、意外な顔を見つける。 「……秀也」  必死な形相で、半壊した車のほうに向かって叫んでいる。押さえつけようとする警察を跳ね除けようともがいていた。  とても――。  とても、嫌な予感がした。  それでも、見えてしまう。数十メートルの距離を隔てても、今の望なら手に取るようにわかってしまう。  ひしゃげた車の車体の下から伸びた白い手。  握られているのは、ついさっき見た覚えがある鞄。  その中からノートが開かれた状態で飛び出ている。車の下から粘り気のある黒い液体が流れ出て、ノートを飲み込んでいった。  液体は、白い紙面の上では赤く見える。  血に蝕まれていくノートに英語の試験問題が、真茅の字で書かれていた。           五章  手術室前の廊下に、秀也がいた。椅子には座らず立ったままで、手にした携帯電話をあけたり閉めたりしている。病院内のマナーを思い出す余裕などないのだろう、電源は入ったままだった。  近づいてきた足音に気づいたか、顔を上げる。 「都築……」  驚いたようだった。一瞬、携帯に目をやる。 「ずいぶん早いな」  どうやら、望の家にも連絡を入れておいたらしい。望は少し意外に思った。決闘の日から、秀也とは目さえあわせていなかったのだ。  だが、すぐに思い直した。今は、些細ないさかいなど無視できるほどの状況なのだ。 「いや、すぐ近くにいて」  結局、屋上から見守ることしか――正確には、見ることさえできなかった。  望の目では、見えすぎたのだ。真茅がどれだけ絶望的な状況にあるのかが。  もちろんそんなものは、望でなくたってわかる。  秀也はそれでも、真茅に付き添って救急車に乗り、方々に事故を伝えていたのだ。  急に望は不安になる。自分はここにいていいのだろうか。 「近くに?」  秀也は何かに気づいたように、「ああ」と続ける。 「進藤と会ったんだったな。進藤、喜んでたよ。都築は吹っ切れたみたいだった、って」 「そうか」  別れ際の笑顔。今でも鮮明に思い出せる。  だがそれは、すぐに潰れた車体の下から伸びた真っ白い腕に摩り替わる。 「それで」  秀也の声が、凍ったように冷たいことに気づいた。 「都築、なにを始めたんだ?」 「なにをって――」 「進藤は聞かないでもいいみたいだった。けど僕は違う。進藤の思いを反故にしてまで、なにを始めたか――聞かないと納得できない」  望は、迷う。  本当のことを言うか、言わないか、嘘を言うか。  別に本当のことを隠す理由はない。ただ、信じてもらえるかどうかが不安だった。 「真茅に予備校へ連れて行かれた日だ。そのときの事故が、最初だった」 「あのとき……」  なぜか、秀也は緊張したようだった。 「俺はそのとき、日本刀を拾った。そしたら、化け物が見れるようになった。そいつは不幸の根源で、事故とかを起こす。だから俺はその日から、その化け物を倒すようになった」  そこまで言って、望は口を閉ざした。  秀也の顔から表情がなくなっている。 「……なんだ、それ?」 「信じられないかもしれないが、本当だ。だから真茅の――」 「ちょっと黙れ!」  廊下に秀也の声が反響する。 「お前は、そんなゲームみたいな話を信じろって言うのか?」 「こんなときに冗談言えるかよ」 「こんなとき? そうだよ、進藤が死にそうなときに、そんな話信じられるかよ!」  望の視界がひっくり返る。体勢を崩し、次に頬が熱を帯びた。  殴られた。  秀也は出した拳でそのまま掴みかかり、望を床に引き倒す。 「お前は、進藤よりそんなことを――それじゃ進藤の気持ちはなんだったんだよ!」  望に馬乗りになり、顔面に拳を振り下ろす。 「くっ――落ち着け!」  望はその拳を押さえた。錯乱している。信じていないわけじゃない。信じるからこそ、あまりの現実離れした理由に混乱しているのだ。 「どうしてお前は進藤と一緒にいてやらないんだ、そんな、化け物なんかを!」  秀也は別の手を振り上げる。感情に任せて、大ぶりになっている。  望もそれも押さえようと構える。 「進藤はお前のこと好きなのに!」  拳が、入った。  秀也は立て続けに望を殴りつける。 「なんで一緒にいてやらないんだ! なんでお前はそうなんだ! なんで進藤はお前なんかを――」  叫びは震え、かすれている。 「僕じゃ無理なんだよ! お前じゃないと、ダメなんだよ!」  望の意識は、体とは切り離されたように冷静だった。  真茅が、自分のことを好いている。  友達という意味じゃないだろう。  幼馴染だ。今まで、その手のことでからかわれたことは何度もあった。そのたびに真茅は顔を真っ赤にして怒っていた。望も真茅をそんな風に見たことはない。修学旅行のときに同室で遊んでいるうちに同じ布団で寝ることになったが、意識さえしなかった。  じゃあ、ただの友達か?  それも、違う。  一言では表現できない。  家族以外でもっとも付き合いが古い知り合い。家族には話せない話もできた。例えば小学五年のときに女子だけ集められた時間に何を話されたかを教えてくれたのは真茅だったし、お互いに恋愛相談みたいなこともした。中学のときはどっちが早く恋人ができるか勝負したりした。真茅が勝ったけど。二ヶ月でキスもせずに別れたらしいけど。  そんな関係を友達だというのなら、そうなのだろう。  もしも恋人と呼ぶことになったのだとしても、それはそれで構わないと思う。大体、何が変わるのかわからないけど。二人で遊びに行くことなら何度もあるし、趣味や話も合う。さすがに肉体関係はないが、それだって想像してなかっただけで、抵抗があるわけじゃない。  とても曖昧な関係だけど。  好きだと言われれば。  俺も好きだと言い返すことができる。  だけど。  なにか、重要なことを忘れている気がする。  それは――。 「大丈夫ですか!」  看護士の声で、望は意識を取り戻す。  軽く気を失っていたらしい。口の中がざらざらする。唇ははれぼったいし、体全体もだるい。  目の前に、警備員二人に押さえつけられている秀也の姿があった。身動きが取れない状態にされても、望のことをにらみつけていた。 (そうか、俺、秀也に――)  途端に、寒気が走った。  そうだ。  ここは病院で、  あの手術室の大きな扉の向こうで、  真茅が死にかけている。 「あっ、じっとしていてくだ――」  看護士の静止を無視して、望は立ち上がる。少しふらつくが、問題ない。きびすを返し、歩き出した。 「逃げるのか!」  秀也が叫んだ。が、望は止まらなかった。  苦笑しようとするが、頬が痛みで引きつった。  逃げる。そうかもしれない。真茅の現実を受け入れられず、夢想に逃げ込む――秀也からはそう見えるかもしれない。  救いを待たない。  奇跡を祈らない。  目覚めぬ彼女の手を握らない。  だが、そんな望にもできることがある。  暗い廊下を抜けて病院を出ると、雨が降っていた。しとしとと降る、長引きそうな嫌な雨だ。  玄関の光の一歩外に、ユメが立っていた。傘も差していないのに、髪も服も不思議と濡れていない。雨でさえ彼女に触れることはできないらしい。 「ひでェ顔だな」  笑う彼女の手には、病院に入る前に隠しておいた《真夏の雪》の拵えがあった。 「訊くが、《真夏の雪》っていうのは、俺の夢を叶える力があるんだな?」  ユメは一瞬ためらうが、静かに言った。 「ああ」 「俺の夢は、不幸を化け物として知覚することができ、それを倒すことができるようになること。だから、やつらを倒せば、それ以上の不幸は起こらない。それで、合ってるな?」  最初の戦いのとき。望が仮面の化け物を倒した瞬間、その化け物が起こした事故の炎が治まった。  ユメは、うなずいた。 「それが、テメエが決めたルールだ」 「わかった」  風が、吹いた。  秀也に殴られた傷に染みる。 (俺は、たしかに真茅とは違う道を行くことにした。だから、傷ついたあいつの手をとることはできない。だけど――)  望は、《真夏の雪》を受け取る。  不幸を殺すことができる、唯一の武器を。  抜き放つ。  白刃に雨露が垂れ、跡一つ残さず滑り落ちる。ユメと同じ、この刀には雨などには冒されない。 「――都築、おまえ……」  秀也だった。  呆然とした表情で、雨の中、抜き身の刀を提げた望を見ている。 「俺は、俺のやり方で真茅を助ける」  それを、真茅が認めてくれた。  だから望は、雨降りしきる街に向かって走り去った。  敵が増えているのに気づいた。  まるで、先の事故に引き寄せられたように集まってきている。  中でも、ひときわ大きな気配がひとつ。 (繁華街)  方向を確認し、ビルの上を疾駆する。  街並みが矢のように過ぎ去る。もはや、体に見えない翼が生えているかのごとき動きだ。  と。あるビルの屋上に、槍を構えた《仮面》の姿が見える。  隣りのビルから飛び降りた勢いを保ったまま、《仮面》と交錯。  そのまま、脇を通り過ぎる。  二歩で屋上を走破、  フェンスを踏み板代わりに次のビルに飛んだ瞬間――。  背後で乾いた音を残し、化け物の姿が虚空に消えた。  すれ違った刹那の拍子に、斬りつけたのだ。 (これしか、ない)  刀を鞘に戻しながら、望は思う。  敵は、圧倒的に強い。  力も技も速度も及ばない。  真っ向から仕掛けても、結果は目に見えていた。  ゆえに、勝負は一瞬。  こちらは目の利点がある。たとえ死角であっても、敵の動きを把握できる。  奇襲だ。隙を見せた一瞬、神速でもって接近し、一撃に賭ける。  幸い、雨が音を隠してくれている。成功の見込みは高い。 (――いた)  目より先に感覚が存在を告げる。  距離はおよそ百メートル。  ビルとビルの間の、薄暗い路地にいる。  ふたつ前のビルのフェンスを踏みしめる。それまでの速度を載せられたフェンスは大きくたわみ、その反動で望は大きく跳ぶ。  浮力が重力に変わる瞬間、望は抜刀する。すでにそこは、街のどの建物よりも高い位置にあった。  見下ろした先は、一本の線に等しい細さの路地。その中央にて立つ、黒いシルエット。  落下と同時に体を丸くして、空気抵抗を削ぐ。  加速する。  途端に空気が粘性を帯び、体にまとわりつく。それを受け流すように、体の位置を先鋭的な形に移した。  体がビルの谷間に突入する。壁に挟まれた空間には濃密な空気が漂い、望の侵入に抵抗する。  風の音が鼓膜をつんざく。その嵐のような音の中から、聴覚がさまざまな音を拾い上げた。  雨のざわめき。  空調の室外機のうねり。  鞘走りの摩擦音。 「――ッ」  望は丸めていた体を開く。極限までとどめていた空気抵抗が復活し、大気が見えない壁となって望の体を引きちぎろうとする。  その眼前――一寸を、銀の光が奔る。  敵は振り返り、その刀で斬りつけていたのだ。  が、その迎撃は空気抵抗のブレーキにより、間一髪で免れた。  敵は剣を振り抜いたあとの、虚の体にある。  ――オオオッ!  心中で望は叫ぶ。  体を縛り付ける大気と重力を跳ね除け、望は刀を敵の《仮面》に向けて振り落とす。  だが。 (剣が、重い――)  雨水が阻み、空気がからみつく。  敵は身をひねり、わずかに鈍った望の剣の軌道から仮面をそらした。半径十センチ足らずの仮面に、首をひねりだけでたやすく攻撃をやりすごされた。  一瞬にも満たない交錯は、引き分け。  だが、望にとってそれは負けに等しい。  ――ぐっ。  望は墜落する。  地面に直撃する寸前で体勢を立て直し、なんとか両足と左手で地面に飛び降りる。  が、常人なら確実にミンチになる速度だ。《真夏の雪》により超人的な力を得ているとはいえ、全身の骨が、肉が、筋が悲鳴をあげる。  それでも、刀を握った右手だけを、その衝撃から逃し自由にした。  望の感覚が――視覚でも聴覚でもない――大気の震動を直接に感じる触覚が、敵の第二撃を察知したからだ。  半ば反射でそれを右手の剣で押さえる。ろくな体勢じゃない。敵の攻撃の勢いに負け、防ぎきれず望の体は突き飛ばされた。  墜落のベクトルが残ったまま、地面にこすりつけられるように転がる。  が、それで間合いが取れたことが幸いした。  望に、なんとか体だけは建て直せる時間を稼がせたのだ。  凍っていた時間が動き出したように、一瞬に満たない攻防が音と震動と水しぶきに変わって、ビルの谷間に反響する。 (音、か)  望はそれで、攻撃が察知された理由に当たりをつける。  敵が半ば閉ざされた空間にいたことがいけなかった。  ここは広い場所よりも湿気が多く空気が濃密だ。突入の際の空気抵抗が震動に変わり、ビルのコンクリートに伝わった。それがアスファルトを通して、敵に知らせたのだ。気体よりも液体、固体のほうが音の伝達が早い。地面から聞き取れるほどの感覚であれば、雨の音など何の妨げにならないだろう。  時間で言えば秒単位で小数点以下二ケタ目が少し変わる程度の違いでしかない。もちろん、普通じゃ問題にもならない誤差だ。  それを、目の前の敵は変えてしまった。  望は、絶望する。  勝てない。  人間が敵う相手じゃない。  ――だから、どうした。 「――はッ」  気合とともにそんな思考を吹き飛ばし、望は敵に向かう。  真茅のために、勝たなければならないのだ。  望が刀を振りかぶった瞬間――。  意識が、飛んだ。 「がっ」  全身がバラバラになる衝撃で、叩き起こされる。  意識に空白がある。何があった? 自問する前に、ぬらりとする感触に気づく。  左手を見ると、血にまみれていた。  出血? どこから?  と、目の前の光景に気づく。  大通りだ。車が数台、車線をまたぐ形で停止している。地面にはブレーキ痕ができて、白い煙が出ていた。そのうちの一台のフロントガラスにヒビが入り、白くなっていた。ちょうど、人の体が当たったかのようにへこんでいる。それで跳ね飛ばされたとしたら、望がいる場所に落ちることになる。  通行人が、望のことを不思議な顔で覗き込んでくる。視点が下を向いている、ということは自分は座っているのか。と、妙な部分に意識が向くが、すぐに自分が人前に出ていることに気づく。  マズい、と思う前に見えた。  向かいの車線から矢のような速度で迫ってくる、刀の《仮面》の姿。 「どけっ!」  叫んだつもりだった。  が、声の変わりに喉の奥から血が吹き出す。 (くそッ)  一瞬で《仮面》は間合いを詰め、斜めに斬りつけてくる。  それを望は地面を転がるようにして、避ける。望がもたれかかっていた外灯の支柱に斜めに筋が入り、倒れた。  野次馬の中から悲鳴が上がる。倒れた外灯の先が店のショウウィンドウに突っ込み、ガラスが四散した。  その混乱の合間に、望は再び路地裏に転がり込む。 「くっ」  《真夏の雪》を杖に、壁にもたれるようにしてようやく立ち上がる。  寒い。手足の感触が怪しい。熱が体から抜ける喪失感だけが悪寒になって背筋を走る。  ――死ぬ、のか?  答えは、すぐに現れた。  望の前に、上段に構えた《仮面》の姿。  刀が、斜めに振り下ろされる。  冷たい刃が右肩からめり込む。それは骨を断ち、肉を裂き、左の腰から抜けていく。 「――っそ――」  望はそのまま、うつぶせに倒れた。  広がった自分の血の上に、顔から落ちる。  ――いてぇな。  意識が失われていくなか。  斬られた傷よりも、秀也に殴られた傷のほうが血に染みて痛むのが、自分でもおかしかった。           *  まぶしさに、片目しか開けなかった。  薄目で、それが照明による明かりだと気づく。室内。手で光を遮りながら、ここがどこか確かめようとする。 「あ、起きた?」  光が遮られる。  かざしていた手をのけると、希子がいた。望を覗き込んでいる。 「……希子?」  首をめぐらせる。どこかの控え室みたいだった。壁にはサビが目立つロッカーが並び、部屋のまん中に並んだ机のうえには脱ぎ捨てたシャツや蓋の開いたペットボトルが散らかっていた。  望はその部屋のソファに横になっていたらしい。 「どこだ、こ――」  起き上がろうとしたが、激痛に息が詰まる。記憶が叩き起こされる。右肩から左腰にかけて、袈裟斬りにされたのだ。  斬られた瞬間、なんとか身をよじり、真っ二つになることは避けたが、鎖骨も肺も腸も肋骨も、断ち切られたはずだ。確実に致命傷。普通では生きているはずがない。  と思って、自分がもはや数十メートルの高さから墜落しても無事の体であることを思い出した。さすがに痛みは残っているが、傷口はもうふさがっている。 「おにぃ、店の裏で血だらけで転がってて。ホントは、ソッコーで救急車呼ぼうとしたんだけど」  希子が視線をそらす。  その先に、《真夏の雪》が抜き身のまま壁に立てかけられていた。 「なんか、事情がありそうだったから」 「……助かる」  下手をしたら、そのまま鉄格子とかがついてる別の病院に連行されることもありえる。 「お礼なら、あの子に言って。すっごいかわいい、冬服の制服着た女の子。その子が呼んだからおにぃのことに気づいたんだから」  ユメの顔が思い浮かんだ。  いまさらながら、意外だった。ユメは他人の目にも見えるのだ。 「おにぃ、何と戦ってるの?」  驚く。が、冷静を装って訊き返した。 「それも、そいつに聞いたのか?」 「ううん。その子は、遠くで手招きしてただけだから」  少しためらうそぶりを見せたが、希子は続けた。 「一応、知ってたから。夜中に部屋抜け出してどっかに行ってたり、ベッドの下にあの日本刀隠してたり。日本刀、日に日に傷が増えていってたから、もしかしたら危ないコトやってるんじゃないかって思ってたけど。でも、クラブにそういう事情に詳しいヒトいて、そのヒトに聞いても、全然そんな動きはないって言うし」 「……ばれてた、のか」 「えっちな本を囮にするのはいいけど、どうせなら徹底させたほうがいいよ。ちょっと手を伸ばせば、長いのがあるの、わかるし。引き出しの二重底くらいの仕掛けはしなきゃ」  唐突に死にたくなった。  希子は断言する。 「おにぃがあたしに隠し事なんかできないよ。だから、言って。一体、毎晩何してるの?」 「……関係、ないだろ」 「ないわけないじゃん!」  希子が叫ぶ。  望は、妹が感情を剥き出しにするのを久しぶりに見た気がした。 「おにぃ、死にかけてたんだよ! 普通、死んじゃうよ! なんか思ったより平気そうだったけど、このままじゃいつか絶対死ぬって! やだよ、おにぃが死ぬのなんか、やだよ!」  死んでもいい、と思っていたことは認める。  そうでもしなきゃ、真茅を助けられないと思ったから。 「おにぃが言わないなら、いい。あの刀、捨てるから」 「なっ」  思わず飛び起きようとして――激痛が走った。  構わず希子はまくし立てる。 「さっき言ったヒトに頼めば、それくらいしてくれるはずだから。拳銃とかも処理したって言ってたから、刀なんかヨユーでポイだよ」  どんな交友関係だ。 「お前のほうが何やってるんだよ……」  話をそらそうとなんとなく口にしたことだった。  だが、希子は神妙な顔つきになる。 「あたしは、ただ友達と遊んでるだけ。そのうちに友達が増えて、その中にはいろんなヒトがいたってだけ。みんな不良だとか恐がるけど、いい人も多いよ。一緒にいると楽しいし。でも、あたしがそんな風に思えるようになったのって、おにぃのおかげなんだよ?」 「俺が?」 「おにぃ、剣道始めたとき、あたしすごいさみしかったんだ。おにぃ、剣道に一生懸命で。痛そうだったからあたしはやりたくなかったし、でもおにぃは楽しそうだし。だから、あたしもおにぃみたいに、楽しいことを探そうと思った。友達と一緒に遊ぶのが、今は楽しい。中には刹那主義だとか、ふしだらな若者だとか知ったかぶって言うやつがいるけど、きっとひがんでるだけだよ。自分はそういうものが見つけられないだけなんだ。だから、おにぃには感謝してる。おにぃのおかげで、あたしは今の友達を見つけることができた」 「希子……」 「だから、今はおにぃが心配。おにぃ、最近はカッコよくなったけど、辛そうだよ? 今やってること、本当に楽しいの? 真茅ちゃんとも仲悪そうだし、やだよ。そんなおにぃ見るの。それで死んじゃったりしたら、あたし……」  望は、うつむく希子の頭を撫でる。  自分は決断した。この街から不幸を駆逐することを。そうすれば涙を流す人は少なくなるはずだから。  だけど、なぜ、涙を流す人が現れるのだ? 「俺は――」  すべてを、話した。  刀を手に入れ、不幸を倒す力を手に入れたこと。そのせいで真茅や秀也といさかいを起こしたこと。  ものすごく強い敵が現れ、それを倒さなければ真茅が危ないこと。 「そんなの――おにぃの妄想だよッ」  予想通りの答え。  しかし、必死な表情がその本音を物語っていた。 「だから、やめてよ! おにぃなんかががんばることじゃないよ! それで真茅ちゃんが死んじゃっても――それはおにぃのせいじゃないから!」 「……できないよ」  望は、なんとか体を起こす。歯を食いしばり、激痛を押さえ込む。表面的には傷が癒えているように見えるのに、頭はそこに深い刀傷があると感じているらしい。 「誰のせい、とかじゃない。俺は、真茅を助けたいんだ」 「だったら、あたしはおにぃを助けたい! 死なせたくない! そんなわけが分かんない戦いなんか行かせない!」 「希子……」  望をソファに押さえつけようと、希子は望の両腕を掴む。  細い指が腕に食い込んだ。 (ああ、そうか)  希子も、望と同じなのだ。  母が不幸に殺され、やるせない思いを抱えていたのだ。  だからカレーにあれだけ力を入れる。叶わない思いを、それでも届けようと必死になって、毎年あの日に戦っている。  ――誰もが戦う力を持っている。 「希子。MD、持ってないか?」 「え? あ、あるけど……」  望の言葉の意図がわからないのだろう。戸惑いながら、希子は答える。 「ちょっと貸してくれ」 「……うん」  警戒しながらも、望の腕を放す。しきりに望のほうを気にしながら、テーブルの上のバッグからMDを取り出した。  望はズボンの後ろのポケットに入れっぱなしにしていたMDのディスクを取り出す。父が母の墓に置いていったものだ。  希子のMDにそれを差し込み、再生する。  イヤホンから、音量を間違えた音が響いてくる。とっさに音量を下げようとするが、どこを操作すればいいかわからない。我慢することにする。  音楽にうとい望だが、やたらチープだということはわかった。バラバラの伴奏で、父が歌っている。叫びすぎて、ちょっと音が外れてる。恐らく部屋で録音したのだろう、大気の音や雑多な反響のようなノイズが混じっている。  だけど、これは――。 「なに?」  希子がイヤホンを片方奪って、耳に当てた。 「お父さん……?」  顔をしかめる。が、聞いているうちに、表情が柔らかくなっていった。 「……なんか、はずいね」 「――まあ」  恥ずかしい。多分、それがこの曲を表現するのにいちばん合っている。  別に肉親が歌っているから、とかじゃない。  曲全体が、青臭いのだ。  歌詞なんかわからないほどに叫ぶ歌声には技術や美しさなんかない。イメージしたのは、中学生が掃除のときにホウキをギター代わりにして歌っている姿だ。父には悪いが、とても聞けたもんじゃない。 「でも、なんか好き」  希子の言葉に、望もうなずく。  情熱だけは、ひたすらこもっていた。  熱さが剥き出しになって放たれている。  それが耳から伝わり、震えとなって全身に広がる。  体温が二度くらい上がった気がした。 「希子。やっぱり、俺行くよ」 「え? でも――」 「だいじょうぶ。きっと、勝てる」  望は希子にほほ笑みかける。それだけで、希子は動けなかった。イヤホンを外し、望に投げつける。  望は立ち上がる。斬られた部分が、リズムにあわせるように熱を発している。だが、痛みはなく、むしろ心地いい。  知らないうちに笑っていた。舌の裏辺りがむずがゆい。いい傾向。この感覚が戦いの前にきたら、絶対に勝てる。 「でも、できればお前のカレーも食べていきたかったけどな」 「……あるよ」 「え?」  希子はバッグからタッパーを取り出す。  プラスチック越しに、茶色いカレーが詰まっているのが見えた。 「おにぃ、食べないんだもん。あまったから、みんなに食べさせようと思って持ってきた」  ふたを取って差し出してきた。  冷めてはいるが、スパイスの香りが食欲をそそる。  だが希子はすぐにふたを閉め、引っ込めた。 「――食べてもいいけど、ひとつ、約束して?」  希子はじっと望の目をにらみつける。 「あたしのカレー食べるんだから。絶対に、勝ってよね」 「……大丈夫だ」  望はカレーを手にとって、笑う。 「今、常勝無敗の秘策を思いついたからな」           *  抜き身のままの刀を肩に担ぎ、望は街の夜景を見下ろしていた。  背中には、ちょうど鞘と同じ長さの竹刀袋を背負っていた。  刀は、刀身が曲がってしまっているらしく、もう鞘には入らなかった。人ならぬモノの攻撃を真っ向から受け続けて折れずにいるほうが不思議なくらいだ。望の凌ぎの技術もあるだろうが、さすがは神代の古刀。ただの人斬り包丁とはわけが違う。  だが、横に立つユメは不満な様子だった。 「本来、刀は消耗品だっつー話だが――テメエはもう少しいたわれ」 「悪い」  素直に謝る望に、ユメは息を詰まらせる。 「ユメには、感謝してる」 「ンだよ、気持ちわりぃ」 「ユメが俺を選んでくれなかったら、俺は多分、ずっと腐ったままだったと思う。そのままずるずると、真茅や秀也にも迷惑かけっぱなしで、それに気づくこともできずにいた」 「テメエ……」  ユメは何か気づいたらしい。  望は街のほうを見たまま、続ける。 「俺は、不幸を倒したかった。ユメはそれを叶えてくれた。だけど、無理なんだ。人間ひとりが、世界の不幸をまとめて相手をするなんて、それこそ、真夏に降る雪をひとりでなんとかするくらい無理なことなんだ。だから、人はお互いに協力する。自分だけではできないことを、成し遂げるために」  東の空がわずかに明るくなってきた。 「だから、俺は必要ないのかもしれない。俺ひとりがあがいたところで、本当の不幸なんて防げるはずもない」 「オレの――《真夏の雪》の力だけじゃお前の願いは叶えられないってことか」 「お前だって、わかってるんじゃないか? お前はランプの魔神じゃない。できるのは、ほんの少し持ち主の間合いを伸ばしてやることだけだ。あとは持ち主の力次第。お前は、お前の役目を果たしてくれたよ。ただ、俺がちょっとばかし高望みしちまっただけだ」 「慰めなんかクソ食らえだ」  ユメは煙草を取り出そうとするが、空だったらしい。箱を握りつぶし、コンクリートの上に投げ捨てる。 「千年以上生きてりゃ、そりゃいろんなやつと会った」  ユメが、望に背中を向けて言った。 「そりゃ、刀の本分は斬ることだ。だが、何を斬るかは使い手次第。オレはそれを選べない。そいつの腐った欲望を満たすためだけに使われるのは、いいもんじゃねェ。女ばかり斬るやつ、他人の良縁ばかり斬るやつ、いろんな最低のやつがいた。オレに触れるやつは、みんな変わっていった。だいたい、悪いほうにな。降り積もる雪に埋もれていくみたいによ」 「ユメ」 「……いいじゃねェかよ、別に敵わなくたって。テメエはテメエが戦えるだけの敵を相手にすりゃいいんだ。だからよ、オレを使えよ」  後ろを向いたユメの顔は見えない。  その背中に望は頭を下げる。 「ごめん、ユメ。俺は、知ってる人が泣くのが我慢できなかっただけみたいだ。俺が戦いつづければ、街は平和になるかもしれないけど、秀也や希子や真茅が悲しむみたいだから……」  パン、という音がした。  ユメが自分の頬を自分でひっぱたいたのだ。 「……悪い、オレの言ったことは気にすンな。テメエが決めたことだ、オレがそれを曲げることはできねェ」 「ごめん。だけど、お前のことを本当に必要にしているやつは、どこかにいると思うから」 「言ったろ。慰めなんかいらねェ」  望は無言でうなずき、ポケットの中のMDのスイッチを入れる。  ポケットの中のイヤホンから、やかましい音が漏れ始めた。 「でも、この勝負だけは、力を貸してくれ。お前の力だけじゃない。親父や、希子や、それに真茅の力を借りる。情けない話だけど、俺にはそうするしかないみたいだ。だから、それまで頼む」 「はッ。こんなナマクラでよけりゃな」 「腐るなよ」  ユメの小さい頭を撫でる。 「真夏に降る雪も、俺は好きだったよ」 「……死ね」  絹のような髪の名残を惜しみつつ、望は手を刀に戻す。ごわつくが、同じように固くなっている手になじむ柄の感触。  地面を蹴る。  フェンスを飛び越え、宙に踊り出る。  眼下に広がる土の広場――校庭だ。  その中心に黒い影がいた。 「おおおっ」  着地と同時に、望は《仮面》の化け物に向かって驀進する。  《仮面》もまた、迎え撃つ。抜いた刃を右袈裟に斬りつけてきた。  望はそれを、下段に構えた刀を斬り上げ、応戦する。  ふたつの白刃がかち合い、火花を散らす。  その勢いでか、《仮面》の刀が頭上にまで跳ね上がる。が、そのまま体を回転、遠心力を載せて横薙ぎの一刀を浴びせ掛けてきた。  望は、いまだ一合目の反動を刀に残したまま。  動けない。  ――今までなら、そうだった。 「ハッ」  身を伏せ、頭上に刃をやりすごす。  続く二撃、三撃を身をひねって外し、刀でさばく。  避けている。  体さばきで攻撃をかわせば、体勢が乱れて続けてはかわせない。それを刀で防ぐ。刀で受ければ衝撃に固まり隙が生まれるが、そこは体さばきでやりすごす。  ふたつの回避法を交互に駆使して、嵐のような《仮面》の攻撃を一撃たりとも体に当てさせはしていなかった。  以前の望ならば、二撃目でまっぷたつになっていた。  だが、今は見える。  体も動く。  一眼二足三胆四力のうち、一眼二足が備わった。胆はもとより決まっている。  それが、イヤホンから聞こえる音楽のおかげか、腹の中のカレーのおかげかはわからない。  だが事実として、敵とほぼ互角の位置まできていた。  しかし――。 「くっ」  四力。つまり技量のみが伴わない。  敵の攻撃はどんどん速まっていく。一方の望は防戦一方で、反撃の隙が見つけられずにいた。 (つくづく無力だな、俺は)  十年の剣の鍛錬など、何の役にも立たない。  やがて、避けきれなかった攻撃により、体には傷ができてくる。  最初はかすり傷だが、次第に大きくなる。血が流れ、痛みが走る。  痛みは気力と体力を奪っていく。  ――くそっ。  まだ届かない。  二人の助けを得てもなお、望の剣はたったひとつの不幸さえ薙ぎ払えない。  息が乱れてきた。  汗が垂れ、目に入り視界がかすむ。  汗が腫れた頬を伝った瞬間。  じくり。  それは、鋭い喝となって望の脳髄を打つ。  今、望の体に刻まれている傷は、秀也の拳のものだけなのだ。  まやかしの痛覚が一気に消える。  すべてが、止まって見えた。  最後の――最大の好機。 (ありがとう、ユメ)  別れの言葉とともに、望は《真夏の雪》を投げ捨てる。  空いた手を背中の竹刀袋に伸ばし、一気に中身を引き抜く。  望が踏み込んだ次の瞬間、袋から取り出された三六の竹刀が孤を描いた。  真茅に直してもらった竹刀だ。常勝無敗の切り札。真茅の力がこもった、どんな武器よりも強力な剣。  その小さい軌道は敵の斬り降ろしの下をかいくぐり、 「メェェェンッ」  小さな面をしたたかに打ちつけた。  背後に飛びぬけ、振り向いて竹刀を中段に構える。  その切っ先の向こうに見える敵の仮面が乾いた音とともにはじけ飛ぶ。  地平線の雲に切れ間が走り、一条の光が差し込んでくる。  夜明けだ。  光の中に解けるように、《仮面》の姿は消えていく。  その向こうに、ユメが立っていた。 「長太刀よりも軽くて小回りが効く竹刀に持ち替えた、か。それってテメエが嫌ってた小手先の技じゃねェのか?」  皮肉に笑うユメに望は答えず、膝をつく。そのまま前倒しに崩れ落ちた。一気に、すべての力が抜け落ちた。  首だけをめぐらし、ユメを見あげる。その手には、望が捨てた《真夏の雪》が握られていた。 「これがテメエの答えでいいんだな」  ユメは《真夏の雪》を、のぼり始めた日の光に照らして見た。さっきよりもさらに刃こぼれは増えて、投げ捨てたせいで泥にまで汚れている。 「あーあ。ぼろぼろじゃねェか。ホントにテメエは使い方がなっちゃいねェ」  スカートの端で刀の泥をぬぐう。 「ま、ねちっこくされるよりは、荒々しく扱われるほうがまだいいけどな。マトモな斬り合いなんて久しぶりだ。その点、オマエのはなかなかよかったぜ?」  膝を使って曲がった刃を矯正して、鞘に納めた。 「……ユメ」 「あン?」  望の小さな声に、ユメは顔を上げる。 「――これから、どうするんだ?」  ふん、とユメは鼻で笑った。 「さてな。またもとに戻るだけだ。刀は振るわれるためにある。斬りたいモンがあるやつに渡すだけよ」 「――ごめん」 「バァカ。テメエは見くびりすぎだ。オレのことも、《真夏の雪》の力のことも。年季が違ェんだよ、年季が」  望は笑ったつもりだった。  だけど、声が口から先に出て行かない。  しかしユメは聞こえない声に応えるように、望に笑い返す。 「あばよ」  きびすを返し、去っていった。  望に背を向けながらユメはポケットを探る。が、目的のものは見つからなかったらしい。「ちっ」と舌打ちする。  その姿が消えていく。  朝になったら覚める夢のように。  陽に当たれば消える雪のように。  刀を持った冬服の少女は、望の世界からいなくなった。 「う……」  妙な浮遊感で望は目を覚ます。 「起きたか?」  顔を上げると、秀也だった。意識のない望の肩を取って歩いていたらしい。  立とうとするが、体がうまく動かない。よろけたところを秀也に支えられた。 「無理するな」 「……ああ、すまん」  素直に頼っておくことにした。  まだ学校の敷地の中だ。時間も倒れてからさほど経っていない。空を覆っていた雲は切れ切れになって、朝の淡い空を見せていた。 「妹さんから連絡があったんだ。お前を助けてくれ、もしかしたらどっかで野垂れ死んでるかもしれないって」  秀也が、聞きもしないのに自分がここにいる理由を照れくさそうに言った。  全身、びしょ濡れだ。恐らく、夜通し探し回ったのだろう。 「悪いな」 「僕も、悪かった。その……顔」  言われてから、傷のことを思い出した。またじくじくと痛み出す。  だが、雨で冷えた体にはむしろ心地よかった。 「まあ、これは気にすんな。おかげで勝てたし」 「何のことだ?」 「……いや、なんでもない」  秀也はふっと笑って、言った。 「あの、都築が予備校にきたとき、事故があったの日。僕は進藤に告白したんだ」  望は翌日の二人はなんだかぎこちなかったことを思い出した。自分の変化のほうが大きくて、気づけなかったが。 「やっぱりダメだった。進藤にはお前がいるから。自分でもそれをわかってたつもりだったけど……納得できなかった。そのときのお前は、そりゃもう腑抜け具合がすさまじかったし」 「ははは……」  笑うに笑えなかった。 「これから、どうするんだ?」  秀也が尋ねてくる。  これからというのが、どれくらいの期間を示すのか、望にはわからなかったが、 「そうだな」  のぼり始めたばかりの朝日を見あげる。  雨はもう上がった。  雪も――当たり前だが、降りそうにはない。 「真茅んとこ、行くか」           終章  望がバスから降りた途端、セミの声に囲まれた。  さすがにビル街よりはすごしやすいとはいえ、太陽の日差しは変わらない。五歩も歩けば、もう汗が流れてきた。 「あーつーいー」  後ろにいた希子が背中に引っ付いてきた。 「って、よけい暑いだろうが」 「だっておにぃだけ涼しそうなんだもーん。こうなったら無理心中だぁ、うらー」  顔を押し付けてくる希子を、肩を振るってゆすり落とした。  そのまま、熱されたアスファルトに落ちた。 「お前とは日ごろの鍛錬が違うんだっての」 「うぅ。かよわい受験生に向かって、その言い草はないよぉ」 「お前が勉強してるところ見たことなんだけど……」 「隠れてコソコソやってるんだよぉ。一年前のおにぃみたいに」  めそめそしてる希子を、手にした花束で叩いてせかした。  あぅ、とか情けない声を上げながらも、希子はようやく立ち上がる。 「あー、ほんと暑い! もういい! さっさと病院行こ!」 「おぅ、そうしてくれ」  先を行く希子のあとをゆっくり歩く。  そのとき。  誰かとすれ違った。 「え?」  すれ違う瞬間まで、人が歩いていたなんて気づかなかった。  彼女の長い髪が翻り、風が生まれる。  かすかに、風に苦い煙草の臭いを感じた。ただの煙草じゃない。大学で喫煙者にはたくさん出会ったが、その誰も吸わないような、どぎついヤニの臭い。  振り返る。  バス停のひさしで生まれた濃い影の中に、冬のブレザーをまとった長い髪の少女が――。 「おにぃ? 何してんの?」  希子に腕を引かれる。 「え?」  もう一度バス停を見るが、誰もいない。  真っ白い陽が注ぐ光景の中で、ひさしの影の濃厚な黒が映えているだけだ。 「もー。ぼーっとしてないで、さっさと行こうよ」 「いや、さっき知り合いが……」 「知り合い? 誰もいないじゃん」 「だけど――」  希子がキレた。 「ああ、もう! 幻だよ幻。夏の幻影、陽炎、逃げ水っ! 追いかけたって追い付きっこないの! だから――」 「……そうだな」  腕を引こうとした希子は、いきなり望の抵抗が消えてよろけてしまった。 「えぇ? なにそれ」 「別に。ただ、届かないものばかり求めるのは、どうかなって思っただけだ。今は手の中のものを守るので手一杯だしな」 「わけわかんないんですけど?」 「ま、いいだろ。それより病院、早く行こうぜ」  望は希子の手を引く。 「真茅が待ってる」  ロビーについた瞬間、希子は力尽きた。スポーツドリンクと病室の番号を与えて、望は先に真茅のところに向かった。  途中で看護士の人とすれ違い、会釈をされる。すっかり顔見知りになってしまった。  無理もないかもしれない。週に一度は来ているのだ。  やがて、病室につく。一応ノックをしてから入った。  適度に空調の効いた部屋の中で、真茅は眠っていた。 「よう、調子はどうだ?」  望は花を取り替えながら、その寝顔に話しかける。 「今日は希子も来たぞ。まあ、今はロビーでくたばってるけど。あいつも、吸血鬼みたいな生活してるから、この日差しはつらかったみたいだ」  カーテンを開ける。雲ひとつない空が見えた。 「そうそう。こないだ、秀也に会ったんだ。あいつ、ちゃっかり彼女とか作ってやがったぞ。一年前は、お前に惚れてたのにな」  一年、と、望は口の中で繰り返した。  あの最後の戦いから、真茅は目覚めていない。  仮面の化け物を倒せば事故の被害が収まるなんて、ただの思い込みだったのか。それとも、倒したから真茅は命を取り留めたのか、それはわからない。  だから、望は先に待っていようと思った。  真茅の志望校に合格して、剣道部に入った。だから真茅の先輩になってしまうのだ。 「そういえば、一年後にはちゃんと話すって約束したっけな」  望は空を見あげる。  あの戦いの日々から、一年。  今思い返せば、すべて夢の中の出来事だった気がする。  受験勉強で竹刀ダコもすっかり手から消えてしまった。剣道部に入ったのでマメもでき始めているが、それはまた別のものだ。  毎日、テレビでは暗いニュースが流れている。  誰も不幸を止めることはできない。今も誰かが、先が見えない戦いを続けている。  望は、願わずにはいられない。  その人に、一緒に戦ってくれる人がいることを。 「お前は、俺が一緒に戦ってやるからな」  真茅の骨ばった手を握りしめた。  そのとき。  窓の外に、何かの影が横切った。 「ん?」  小さい。  ひとつじゃない。白い粒状のものがいくつも降ってきている。 「……なんだ、これ」  雪だった。  白い氷の結晶が花びらのように空から舞い落ちてくる。  望は窓を開き、身を乗り出して空を見る。  相変わらずの晴天。太陽も強い光を照射している。  にも関わらず、無数の雪が舞い降りてくる。日差しに輝く白い結晶。ひとひら、望の顔に落ちた。冷たい。望の体温を受けて、初めて溶け出す。  雪の雫が頬を伝った。 「真夏の……雪」  しらずに、その言葉が口から漏れていた。  あの少女は、見くびるなといった。年季が違う。その通りだ。  望は、胸に込み上げるものでたまらなくなり、窓にもたれたままうなだれる。 「……望?」  声。  聞き慣れた、しかし久しい声。 「望、だよね?」 「……真茅」  真茅が目を開いていた。  ベッドの上から首だけを億劫そうに動かして、窓際の望を見ている。 「雪、降ってるの?」  望はうなずく。もう、声なんか出せなかった。  真茅はまぶしそうに目を細めて、真夏の日差しの中を舞う白い雪を見つめる。 「……綺麗だね」  穏やかな真茅の笑顔。  望はうなずく。  雪は、降りつづけている。                                  了