一章         0  夢だと一瞬でわかった。  雪が降っている。灰色に霞む空から無限に舞い落ちてくる。巨大な杉の木が灰色の中に届いているのが見える。切り株の上に家が作れそうなほど太い。少しめまいがした。距離感がうまくつかめない。  周囲七二本の樹に囲まれた広場に、僕は立っていた。  目の前には、やはりあの少女がいた。  年は、外見から察するに十才ほど。僕の目線よりも高いが、まだ子供だ。肩まである髪は、伸ばしたというより伸びたといったほうが正しい。くすんだ赤いジャンパーのポケットに両手を突っ込んで、こちらを見つめている。  苔むした古井戸の中と同じ、深い黒の瞳をしていた。 「きみは?」  そのころの『ぼく』は、彼女の目にも物怖じせずに尋ねた。『僕』は『ぼく』の中から『ぼく』の見たものだけを、傍観者として見ているだけだ。 「ぼくのなまえは、たま。しらきたま」  たどたどしい口調のぼくは、いつのころの自分だろうか。物心つくころから見つづけていた夢だ、それより前なのは間違いない。この少女と十数年間、毎日会っていた。 「わたしは……」  少し顔を伏せて、言葉を詰まらせた。遠くで、枝に積もった雪が固まりになって落ちる音がした。  彼女の口が動く。  雪の音が耳に残ったせいで、名前を聞き逃してしまった。 「へえ、そうなんだ」  だが、そのころのぼくには聞こえたようで、喜んでいるのが、声からわかった。  一方、少女のほうは無表情に僕のほうを見つめているだけだ。下唇を、ほんの少しだけ噛みながら。いつからだろうか。彼女のこの表情は、後悔しているんだと気づいたのは。  今の僕は、彼女の名前を覚えていない。何千回と夢をみつづけても、それだけは聞き取ることができなかったのだ。 「ねえ、いっしょにあそぼうよ」  無邪気なぼくの誘いに、少女は首を横に振り、視線を外してしまった。 「いいよ、わたしは」  突き放す彼女の言葉を聞かずに、ぼくは雪をこねはじめた。手の中で雪を固める感触を感じる。だが、冷たくない。水っぽい砂を握っているみたいだ。 「ぼくね、だれかとゆきであそぶのが夢だったんだ」  手の中には、不恰好に角張った雪玉。  前には、視線を外したままの少女。 「えいっ」  ぽふっという音がして、雪玉は彼女の顔に当たって砕けた。 「な」  雪のかけらの下から、目を見開いた少女の顔が現れた。最初は、古井戸とたとえた瞳が、爆発寸前の火山口に変貌していた。 「なにすんのよ!」  叫ぶや否や、足元の雪をすくいとり、握りこむ。その姿勢のまま踏み込み、横投げで放ってきた。  視界が真っ白になる。顔面に当たったのだ。  手で顔の雪を振り払うが、見えたのは再び投げる体勢を取った少女だった。すぐに二投目が炸裂。 「服んなか、雪入っちゃったじゃないのよ!」 「あはっ」  ぼくのほう興奮しきって、雪をむちゃくちゃに投げつける。笑いながら、目が見えなくてもかまわずに、両手を使って、握っただけの雪を放りまくる。ときどき、「きゃ」とか少女の悲鳴が聞こえた。こんなむちゃくちゃな攻撃でも当たっているのだ。 「ごめ、わたしの、負け」  彼女のギブアップは、すぐのことだった。膝に手をついて、荒い息をしている。髪の毛の先から水がしたたらせ、両手や鼻の頭を真っ赤にしていた。 「ずるいわよ。ここ、あんたの夢なんだから、あんたが勝つに決まってるじゃない」  息を落ちつけると、文句をまくし立ててきた。彼女の目が潤んでいるのは、解けた雪のせいではないらしい。 「ていうか、よく見たらパジャマじゃない! 平気な顔しちゃって――あんた、素手で雪触ったことないでしょ。リアルじゃないのよ!」 「ないよ」  あっさりと肯定されてしまい、少女は口を開いたまま止まってしまった。次の言葉は出てこず、ため息になってしまう。  素手で雪合戦をするのがどれだけの暴挙か、今の僕ならわかる。せいぜい、五、六投がいいところで、すぐに冷たさで指が動かなくなる。 「たのしかったね」 「あんたは楽しいでしょうよ」 「うん!」  やれやれとばかりに肩をすくめ、少女は踵を返した。森の奥のほうへ歩いていく。 「かえっちゃうの?」  そのころのぼくの声に、不安な調子が混じった。 「そうよ。誰かさんのおかげで冷たいったらありゃしない」 「また、きてくれる?」  少女は立ち止まり、振り返る。二度ほど、まばたきを待った。 「次はもっと、あったかい夢にしてね」           1  何かに突つかれたような気がした。  背中だ。トントンと、棒のようなもので叩かれている。  ごす。  後頭部を押さえて、僕は机に突っ伏した。くう。本気で突いてきやがった。  後ろに文句をつけようとした瞬間、名前を呼ばれる。 「白木君。次」  甲高い男の声。英語教諭の安田だ。  しまった。 「ん、どうした?」  幸い、安田は手元の教科書に目を向けていたようだ。僕のことは気づいていない。 「あ、はい。読みます」  次、と安田は言った。英語の授業で「次」と促す場合、教科書の英文を読み上げるときだ。  僕は立ち上がりながら、周りを探す。こういうときは、吉野君だ。彼の視線は、八一ページの一五行目に向けられている。隣りの女子も、同じところに視線を向けていた。  そこだ。 「What angel wakes me from my flowery bed?」 「よし。座たまえ」  僕は椅子に座り、小さくため息を吐いた。  目線を読むくらい大したことではないが、いきなりやるとなると、それなりに緊張する。 「危なかったな」  後ろから、聡が小声で言ってくる。安田は僕の読んだ英文の技法上の説明をしていて、こっちには気づいてはいない。 「さっきはどうもね」 「持ちつ持たれつ、ってやつよ」  まだ後頭部はずきずきと痛むが、聡には助けられたことになる。  安田の居眠りに関する執着は病的にすら感じる。なにせ、少しでも寝ていると判断されたら、その授業は欠席扱いにされ、定期試験の点数を十点も引かれてしまう。つまり、満点を取っても七回眠ってしまえば赤点になってしまうわけだ。  時計を見ると、最低十分は意識を失っていたことになる。正直、よくその間見つかることがなかったと思った。 「安田はお姫さまにご執心だからな」  安田は教科書を見ながらも、ときおり教室の窓際の席に視線を送っていた。  どうりで声がぴりぴりとしていると思ったら。  視線の先では、お姫さまがお休みになられていた。  組んだ腕を枕にして寝入っている少女。居眠り姫こと、雲宮姫だ。もちろん彼女の「姫」というのは、尊称でなく姓名の名のほうであるが。  腰に届きそうな黒髪の持ち主で、毛先のほうを緑色のゴムで留めている。冬にしては暖かい光を受けて、白く艶が出ている。みんなは色んな感情を込めて「居眠り姫」と揶揄している。 「雲宮、雲宮姫!」  安田が叫んだ。普段の、イヤミったらしい君付けも忘れている。  それでも、雲宮さんは幸せそうな寝顔を浮かべたまま、微動だにしない。 「雲宮、起きないか!」  安田は教卓に教科書を叩きつけた。  安田のの剣幕に雲宮さんの周りのほうが圧倒されていた。後ろの女子が上ずった声で「雲宮さん、起きてよ」と、彼女の体をゆすった。  「んん」とうめいてから、ようやく雲宮さんは顔を持ち上げた。顔を真っ赤にした安田と向き合い、にこやかに微笑む。 「ふぁんですか、やすだせんせえ?」  声は完全に寝ぼけたままだ。 「今度という今度は許さん。減点百だ。残念だったな、これで落第だ! 落第!」  きれているらしい。唾を飛ばしながら「落第」を連呼する安田は、日常ではあまりお目にかかれないたぐいの笑みを浮かべていた。 「やですよお、せんせえ。わたし、寝ていませんって」  教室が静まった。安田の言う、居眠りひとつで落第というのも無茶だと思うが、雲宮さんの主張もそれ以上に無理がある。  雲宮さんのでまかせに余裕を取り戻したか、メガネを直しながら安田はいやらしい笑みを浮かべた。 「よかろう。そこまで言うのなら、先ほど白木君が言った個所を訳してみたまえ」  安田らしい、いやらしいやり方だった。安田の怒声にも気づかなかった雲宮さんが、その前の俺の声なんか聞いているはずもない。答えられないと思って言っているのだ。  雲宮さんのとろんとした目が、僕のほうを向いていた。いつも閉じたところしか見たことがないから気づかなかったが、意外と大きな目をしている。  小首をかしげながら、ほほ笑んできた。僕は表情に困り、とりあえずほほ笑み返してみたりする。  雲宮は立ち上がる。 「『どんな天使がわたしを華やかなベッドから起こすのですか?』」  何人かが首を傾げ、教科書を目で追った。同じ場所を見ている。  八一ページの十五行目。  安田の顔から笑みが消える。  そのとき、六時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。 「きょ、今日はこれまで」  我に返った安田は、終了を告げるとさっさと教室から出ていってしまった。  ざめめき始める教室の中で、雲宮さんは、もう眠りの世界に戻ってしまっていた。               2 「まだ寝てるね」  吉野くんが言ってきた。  六時間目もショートホームルームも終わり、今は放課後。特にすることがない僕らは、ベランダに出て教室掃除するさまを見守っていた。  机を教室の後ろに集めて前からゴミを掃き出しているわけだが、一番窓側の列だけは運ばれていない。正確には、三番目から前が詰まっている。  居眠り姫がまだお目覚めになっていないからだ。  起こす人は誰もいないらしい。さすがに掃除の邪魔にはならないのだろうか。  掃除当番は、片手でほうきを持ち、力任せに掃いている。舞い上がる埃を見ながら、僕は納得した。いちいち起こしてまで掃除を完遂しようという人が今日の当番にはいないだけだ。  少し、雲宮さんが不憫に思えてきた。本人が知らない間に、埃の中に放置されているのだ。 「例の眠り病だったりしてな」  雲宮さんを見ながら、聡が冗談めかして言った。 「眠り病?」 「知らないのか? 白船市で、今月に入ってから眠ったっきり起きない人が続出してるんだと。原因不明で。そろそろ百人になるんじゃなかったかな。結構有名だぞ」  言われてみれば、ニュースでそんなことを言っていたような気がする。あれ、うちの市だったんだ。 「まあ、雲宮はちゃんと動いてるから大丈夫だろうがな。活動時間は短いけど」 「でも、さっきのはすごかったね」  吉野くんが、まるで自分のことを言うように嬉しそうにしていた。英語のときの雲宮さんの訳のことだろう。僕は視線から読み取ったが、彼女はどうしたのだろうか。寝ている間に英語のテープを聞くという睡眠学習は、迷信だと言うし。 「たしかに、あの安田の顔はなかなか見物だったよな」  僕は首を傾げた。 「だけどさ。嘘ついたわけだよね。安田の罰則はたしかに無茶だけど、居眠りをするのは悪いことだ。保身のために嘘つくっていうのは、よくないと思う」  二人とも、僕のほうを見てまばたきをする。なにか、変なことを言っただろうか。  吉野くんが慌てたようすで口を開いた。 「雲宮さんって、結構かわいくない?」  ガラス越しに眠る雲宮さんを見やる。姫、という名前には負けていない。陽の中でほほ笑みながら夢みる姿は、こちらまで幸せな気分になってくる。 「いっつも寝てるけど、そういう抜けたところがいいんだよね。コアラとかパンダみたいな感じで」 「たしかに。守ってあげたい、と思わせるタイプではあるな」  聡までそんなことを言ってきた。ガラスの向こうで眠っているとはいえ、よく本人を前にしてそんな話ができるよなあ。  吉野くんが僕のほうにも向いた。 「白木はどう思う?」  なんで僕に話を振るかなあ。  正直、こういう話は苦手だった。たしかに、整った顔立ちをしているとは思うけど、だからといって特にコメントは出てこない。 「そうだなあ」  考えながら、探るように言う。 「でも、付き合うとなると、意外と大変じゃないかなあ。たとえば一緒に映画とか見に行くにしても、ずっと隣りで眠られちゃうんだよ。食事してても、いつの間にか寝てたりして、自分の話は聞いてくれない。それって、つらくないかなあ」  口に出してから、ちょっと失礼なことを言ったかもしれないと気づいた。  しばらくの間。二人のほうを見ると、さっきと同じ苦い表情をしている。 「ま、まあ、そうだね」  引きつった笑顔を作り、吉野くんは教室に戻っていってしまった。 「ときどき思うんだけど」  聡が、言いにくそうに口を開く。 「おまえ、けっこうリアリストだよな」  何も言えなかった。 「吉野は別に、真剣に付き合いたいとか考えてるわけじゃないんだよ。ただ、なんとなくいいなと、そういう話をしてるだけで。おまえのは、アイドルの追っかけしてるやつに、アイドルだってクソするんだとか自信満々で言うようなもんだぞ」  そんなつもりはなかったが、そう思っているのは自分だけで、他人からは聡が言うように見えるのかもしれない。 「そんな現実、見てないし見たくないんだよ。夢をみたいだけなんだ」 「夢」  女子がベランダに出てくるのを、聡の後ろに見つけた。 「白木くん、田村先生が呼んでたよ」 「うん、わかった」  聡に挨拶をして、その場を去る。  夢をみたいだけ。その言葉が、頭の中でジグザグに走り回っていた。             3  国語科教員室の前についた。僕らの担任田村先生は、職員室でなく大体はここにこもっていた。四階のこの部屋と一階の職員室。普通に考えれば職員室にいるほうが楽なはずなのに。  二回叩いてから、戸を開ける。 「失礼します」  狭い部屋だった。普通の教室の半分の大きさしかないのに、両壁は天井まである本棚に埋められている。中央には向かい合わせて大きな教員用机が並べられているので、机と本棚の間は人一人分のスペースしかなかくなっていた。  田村先生は右列の奥から二番目に座っていた。他には誰もいない。 「おお、来たか」  そういって、手招きしてくる。  先生のところまで行こうとするが、その途中が、机と本棚の間には椅子が引いてあったり教材らしい本が詰まれていたりで、一苦労だった。 「コーヒー、飲むか? インスタントだが」 「おかまいな――うわぁ」  引いてあった椅子を机の中に押し込んだら、机の下にも本が詰まれていたらしく、崩してしまった。 「ああ。気にしなくていいぞ。大らかな人だから」  たしかに、気にする人物が使うような机には見えなかった。机の上には現代文、古典、漢文の教科書のほかに、各種辞書や専門書、小説、詩集、灰皿からこぼれるほど詰まれたタバコの山、あとはなぜか黒くなったバナナの皮が入り混じっていた。隣りの机にまではみ出ている。  ようやく先生の机にまでやってきた。隣の席の椅子に座ると、コーヒーの入ったカップを渡してくれる。部屋の奥に洗面台とポットがあった。 「さっき、安田先生に会ってな。雲宮のことで小言を言われちまったよ」  先生は陽気に笑いながら、自分の席に座った。背広を脱いで、ネクタイまで取っていた。暖房が効いていて寒くはないが、ちょっとラフ過ぎる気もする。 「雲宮のあれも、仕方ないっていえばそうなんだがなあ」  何か事情があるのだろうか。よく考えてみれば、一日中眠りつづけるというのも、ちょっと普通じゃない。それが当たり前になっていたので、疑問にすら思ったことがなかったが。  しかし、他人のことを本人以外からあれこれ訊くのはよくないことだ。本題に移ることにした。 「話って、何ですか?」 「ああ、大したことじゃない」  先生は机の上のファイルを取った。さっきの机とは違い、本も棚を使って整理されていた。机の天板がちゃんと見えるというのが、新鮮に感じた。  ファイルの中から一枚の紙を取り出す。 「進路調査表」  たしか、三日前のテスト最終日に配られたやつだ。自分の進路について、進学ならどの学校を志望するか、三つまで書く欄が用意されている。  僕の名前が書いてある。だが、他は白いままだった。 「一ヶ月くらい前から考えておけ、と言っていたおかげでみんな割と書いてきてくれたんだが。まあ、中には『総理大臣になる』なんて書いてるやつもいたけどな」  先生は苦笑しているが、嫌な笑いではなかった。 「白紙じゃ、ダメでしたか」 「ダメということはないが」 「特に行きたい大学もやりたいこともないんです」  声が大きくなってしまった。  暖房の音が大きくなった。僕はコーヒーに口をつける。先生の入れてくれたコーヒーは、熱くて舌にひりひりした。 「こういう言いかたもなんだが」  本当に言いづらそうに先生は言う。 「適当に、それなりの大学を目指して、そこに入ってからやりたいことを見つける、という方法もある」 「多分、そうなるでしょうけど……今はまだ、決められません」  だが、適当に選んだ大学に入る自分の姿を考えることはできなかった。適するよう当てはめる、と書いて適当だ。この場合、当てはめられるのは自分のほうなのだろうか、大学のほうなのだろうか。  先生はため息をついて、背もたれに寄りかかる。自分のコーヒーをすすりながら天井を見上げた。 「白木さ、夢とか、ある?」  心臓が凍てついた気がした。一瞬のことだが、全身に震えが走った。 「――いえ」  目線を外して、一言だけ答えた。それが精一杯だった。 「子供のころとかは? なんかなかったか。宇宙飛行士だとか、プロ野球選手だとか」  僕はもう、何も答えられなかった。 「実はだな、調査表が白紙だろうと、別にいいんだ」  先生はコーヒーを見つめながら、独り言のように言った。 「まだ一年の二学期だ。これからやりたいことが見つかることだって十分考えられる。おまえは成績がいいし、そういう意味ではわりと融通が利くんだ。だがな」  一呼吸おいて、先生は首をかしげながら、頭をかいた。「んー」とうなってから、口を開いた。 「他のやつとは、なんか違う気がするんだよなあ。吉野や村井と一緒に話して笑っているのを見ると、楽しそうには見えるんだが」 「楽しいですよ」 「ああ、それはわかるんだ。だがな、なんというか……危うさ、みたいなのを感じるんだ。今だけの、まるで夢みたいな――」  はっとして、先生は口をつぐんだ。 「すまん。変なこと言っちまった」  僕は右の本棚を見やる。七段に並べられた大小さまざまな本が、ぎっしりと詰まっていた。 「この本棚にある本、全部で何冊あるかご存知ですか?」 「は? あ、いや。わからんが」 「二七四冊」  僕は断言した。  先生はぽかんとして、僕の顔を見つめている。 「わかるんです、僕には。それが一目で」  だけど、と付け加える。 「僕にはそれ以上がありません。今までの経験から推測ですが、普通の人は二七四冊の中にどんな本があるか、無意識に考えるはずです。国語教員の本棚だから、まず教科書はあるに違いないとか、源氏物語は全巻あるだろうかとか、パッケージだけ替えて官能小説を紛れ込ませているんじゃないかとか、予想することができるんです」 「予想」 「けど、僕は予測しかできない。現在ある事実から演繹される百パーセントの帰結でしか、未来を見ることはできない」  先生の視線は、僕を見ているようで見ていない。目が泳いでいた。呼吸もわずかばかり早くなっていた。先生は僕の話についてこようと、考えているのだ。 「つまり、ロマンチックになれないんです」  僕は立ちあがり、椅子を戻した。先生も我に返る。 「白木、おまえ」 「気にしないでください。僕も、変なことを言ってみただけですから」  教員室を出た瞬間、六時間目にみた夢のことを思い出してしまった。  あのころの僕は、雪で遊ぶのが夢だと語った。それはもうとっくの昔に叶えることができた。  だからだろうか。  僕にはもう、叶えるべき夢は残っていないのだろうか。  判らなかった。             4  教室は窓から差し込む夕日に、黒く染まっていた。  机の影が伸びて、床が黒に見えるのだ。たしかに壁や天井は赤い色に染まってはいるが、足元の黒の存在感にはかなわない。血を彷彿とさせた。  誰もいない教室、ということもあるのだろうか。背筋に寒さを覚えた。  鞄を取ったらさっさと帰ろう。そう思って教室に入る。  と、それに気づいた。 「雲宮さん……」  窓際から三番目の席。彼女はまだそこにいた。近づいてみると、組んだ腕を枕にした姿勢のまま、こっち側を向きながら机に身を預けて眠っているのがわかる。頭の向きは変わっているが、あとは僕が出ていった二十分前と同じ格好だった。  ここまで眠りつづけられると、心配になってくる。一応、息はしているようだが。ふっと、眠り病という言葉がよぎった。一時間前には起きていたはずだが、そんなに急にかかるものだろうか。  とりあえず、起こそう。  緩やかな寝息を立てている。わずかに開いた唇は、なにかを言おうとしている形のまま止まっている。なにか、砂でできた彫像に触れるようで、手をかけづらい。 「雲宮さん?」  声だけで起きてくれることを期待したが、何も変化はない。  仕方がない。寝ている女の子に触るのはためらわれるが、状況が状況だ。  僕は手を伸ばし、彼女の肩をなでるように押した。  肩を揺さぶるたびに後れ毛が僕の手の甲をくすぐる。柔らかい髪が僕の肌を撫でていく感触に、とてつもない罪悪感を覚えた。 「雲宮さん!」  ほとんど怒鳴った声で呼びかける。 「んぅ」  雲宮さんは頭を持ち上げる。あくび。右目をこすりながら、左目で僕のほうを見上げた。ちょっと潤んだ瞳は、まだ焦点が合っていない。やがて、また閉じてしまった。 「ちょ、ちょっと」  机の上に倒れそうになったのを、慌てて支えた。せっかく起きたのに、また寝入られては困る。 「あ、珠くんじゃないですかあ」  寝ぼけているのか、それとももともとそんな口調なのか、雲宮さんは間延びした声で僕の名を呼んだ。  気恥ずかしさに襲われる。なんだろう、名前を呼ばれただけなのに。珠くん。よくよく考えてみると、親以外の女の子に名前のほうで呼ばれたことなんて、今までなかったのだ。 「どうしたんですか? 変な顔して」  ゆっくりとしたしぐさで、首を傾げてきた。 「あ、いや。珠くんって、聞きなれなくて」  思わず正直に答えてしまう。自分でも、耳が熱くなるのを感じられた。 「いやですか? なんとなく、そんな風に呼んだほうがいいと思ったんですけど」 「別に、好きに呼んでくれていいけど」  雲宮さんの顔が、華やいだ。ゆっくりとした動きのせいか、本当につぼみの花びらが開くように見えた。 「じゃあわたしのことは、ひめひめって呼んでくださいね」  にこにこしながら、そんなことを言ってきた。  寝ぼけているのだろうか。  それとも、天然というやつだろうか。  もしかして、からかわれているのだろうか。  彼女の表情からは何も読み取れない。どうも、つかみ所がない。  僕は、自分が立ちっぱなしだったことに気づいた。彼女の前の席の、机の上に座ってしまう。  不意に、さっきの授業のことが気になった。この子は、どうやって眠っている間に聞いた英文を日本語訳することができたのだろうか。 「雲宮さんさ、さっきの」 「ひめひめ」  笑顔を一切崩さずに最短の要求をしてくる彼女には、えも言わせない迫力があった。 「ひ、姫……ちゃん」  彼女は、眉をひそめて口を「へ」の字にしながら下を向き、考えるしぐさをする。なにやら、つぶやいているのが聞こえる。「それもまた」。やがて、大きくうなずくと顔を上げた。笑顔に戻っていた。  思わず、目をそらしてしまった。名前で呼ばれるのは気恥ずかしいが、人をちゃんづけで呼ぶのはそれ以上だった。  姫ちゃん、姫ちゃん、姫ちゃん。よし。照れは克服。大丈夫だ、多分。 「それで、なんですか?」 「いや。さっきの英語の授業のとき、どうやって答えることができたのかな、と思って」  姫ちゃんはぼうっと僕の顔を見つめてきた。やがて、「はっ」と大きく震えて、「ああ、ああ」と二度ほどうなずいた。 「あれですか」 「あれですよ」  つられて、彼女の口調に合わせてしまった。 「珠くんの声は、よく聞こえるんです」  意味がつかめなかった。  そういえば、彼女が答えた英文は、僕が読んだものだった。それなら、一応は理屈は通っている。本当かどうかはともかくとして。 「ってことは、やっぱり寝てないって言ったのは嘘だったんだ」 「あ……」  姫ちゃんは両手で口元を押さえて、目を開いた。新しい表情だ。  というか、あれでばれていないと思っていたのだろうか、この子は。  肩を落として、うつむいてしまう。なんだか、こっちがひどいことをしているように思えてきた。赤と黒に映し出された彼女の姿は、ひどく小さく見えた。 「留年は困るんです」  ぼそり、と。それこそグラウンドから聞こえるホイッスルよりも小さな声で、姫ちゃんがつぶやく。 「留年って」  たしかに、安田は姫ちゃんの前に、さらに無茶なことを言っていた。こっちは、そんなわけがあるか、と気軽に笑い飛ばせることでもない。あの安田なら、本当にやりかねなかった。  さすがに、それは暴挙だ。いわば、姫ちゃんはそれを自分で防いだことになる。嘘をつくのはよくないが、今回ばかりは他に手段がなかった。 「それなら、仕方ないかな」 「許してくれるんですか?」  そんな大げさな。うなずいてみせると、姫ちゃんは大きく息を吐いた。 「よかったあ」  変わった子だった。一秒先にどんな行動をするか、まったく予測できない。曲がりなりにも十数年の経験があるから、人の気持ちを察することは困らなくなってきたが、姫ちゃんの場合は当てはまらないらしい。 「ところで、珠くんはこんな時間までどちらに?」 「ああ、先生のところに、進路のことでね」  進路ですか、と感慨深げにうなずく姫ちゃん。  思いついたことを訊いてみた。 「姫ちゃんは、進路はどうするの?」 「わたしですか? 眠ってすごしたいですね」  予測してない答えがくるだろうとは思っていたが。その予測すら、上回っていた。  意味がわからない。 「眠ってって……遊んで暮らす、ってこと?」  本当は「遊んで暮らす」というのも進路と呼ぶには抽象的過ぎるのだが。少なくとも、意味はわかる。  だが、姫ちゃんは首を振る。 「暮らすとかじゃなくて、眠ってるんです。あ、正確には夢をみつづけていたい、かな」  口調はスローペースのままだが、手振りが加わったせいで気迫がこもっているように見える。 「夢って言うのは、その人の本当の願望というか、あらゆるしがらみを越えたところにある希望のことをいうんだと思うんです。子供なんかに夢を訊くと、新幹線になりたいとか、ライオンになりたいとか、答える子がいるでしょう? ああいうのが、本当の意味で夢って言うんです。無理だからとか、食べていけないとか、そういう理由で妥協したり変えてしまうものは、夢って言わないんですよ」  相槌さえ、打てなかった。彼女は語るうちにだんだんと前にせり出してきて、今や完全に立ちあがっていた。 「あ、ごめんなさい」  姫ちゃんは恥ずかしそうに頬を押さえて、椅子に座りなおす。  窓の外を見ると、白船市の街が赤く染まっているのが見えた。この地方都市のなかに、彼女のように夢を語れる人間がどれだけいるのだろうか。 「僕は、夢がみれないんだ」  姫ちゃんは、何も応えなかった。僕は窓の外に目を向けたまま、続ける。 「寝たときにみる夢は、いつも同じ。女の子と、小さいころの僕が雪で遊ぶんだ。そのころの僕には、『雪で遊びたい』って夢があったらしいけど。それもとっくに叶えてしまった」  口に出して、何か引っかかるものを感じた。だが、それを考える前に、言葉が溢れ出してくる。 「小学校のころ、将来の夢って作文があって。困ったのを覚えてる。どうしても書けなくて、最後には泣いちゃって、親には決めてあげようかっ言われたけど、それをやっちゃうと自分は本当に夢がみれないことを認めてしまうような気がして。結局、書けなかった」  いつの間にか、笑っていた。  ガラスには、あまり好きじゃない顔が映っている。  だがその横に、わずかに姫ちゃんの顔が映っていた。口をつぐんで、まばたきひとつもしないかのように目を見開いている。  自分の話を真剣に聞いてくれる人がいる。なにか温かいものが胸に広がった。 「それから、自分はロボットなんじゃないかと、本気で悩んだんだ。木の心臓が動いて赤いオイルを流すだけの機械じゃないか。だから、夢なんかみれないんじゃないかって」 「みれますよ」  左手に温もりを感じた。  姫ちゃんが、両手で僕の左手を包んでくれている。柔らかくて、細い指の一本一本に、温かさを感じる。  見上げてきた姫ちゃんは、優しくほほ笑んでいた。 「こんなにあったかい手をしてるんです。みれないわけがあるものですか」  僕から言わせてもらえば、姫ちゃんのほうがあったかかったわけだが。 「及ばずながら、わたしも協力させてもらいますから」 「え?」 「だから、わたしも珠くんの夢探し、協力します!」 「いや、でも」 「大丈夫です。こう見えても、集中力とか結構あるんですよ」  集中力がどうして夢探しに関係するか見えないが。というよりも、いつの間にそんな企画が立ったのだろう。  ただ、悪い気はしなかった。これが、この子の優しさなんだと思う。ちょっと僕には解釈に工夫が要ったが。 「へーへー。お二人さん、おアツいこってえ」  声は教室の入り口のほうからした。  姫ちゃんは、慌てて握っていた手を離した。  ガラスの刃のような、透き通った声だ。氷ほど冷たくなく、針ほど優しくない。  声の主は、見たことのない女子だった。後ろ髪は短いポニーテールにしている。引き戸に寄りかかりながら、にやにやと僕らを眺めていた。いつからいたのだろう。  立ちあがりながら、姫ちゃんは声をあげた。 「かざねぇ。え、もうそんな時間?」  壁の時計を見ると、五時を回ったところだ。夕焼けの光も、教室に来たときよりは弱くなっている気がする。 「そんな時間もこんな時間。これでも、遅刻しちゃったつもりなんだケド……」  引っかかる言いかたをして僕のほうを見た。 「邪魔しちゃった、少年? なら、ほんとに謝るけど」 「別に。そんなんじゃないです」 「ほぅ。そんなんって、どんなのかな? お姉さん、非常に興味があるわあ」  僕らのほうに歩いてくる『かざねぇ』は、真面目な顔から再び意地の悪い笑みに戻る。一年生じゃなかった。ブレザーのネクタイの色が赤ではなく紺。二年生だ。背が大きい。一七○センチはあるだろうか。 「まあ、お姫さまの前で下世話な話もなんだし、今日のところは訊かないでおく。ていうか、電気くらいつけなさいな。見つけたのがアタシじゃなくて安田あたりだったらどうするつもりだったのよ」  たしかに、それはぞっとしない。特に姫ちゃんのことは、目の敵にしている。とてつもなく面倒なことになりそうだった。  姫ちゃんは話についてこれないらしく、首をかしげたまま固まっている。 「ほら、ひめひめ。帰るわよ」  そう言って彼女は、自分のマフラーを姫ちゃんの首に瞬時に巻きつけた。マフラーの片端を、その状態のまま引っ張る。 「うくっ」  姫ちゃんは引き寄せられ、『かざねぇ』の胸のなかに収まる。彼女は姫ちゃんを抱きしめると、頭のあたりに顔を近づけて、音が聞こえるほど思いっきり空気を吸い込んだ。  たっぷり三秒ほど息を留めて、一気に吐き出した。満足そうな笑顔で。 「いやあ、生き返るわねえ。やっぱり学業の疲れには、ひめひめスメルが一番ですなあ。マイナスイオンがたっぷりだよ」  と言いながら、なんで僕に向かって自信満万な笑みを浮かべるのだろう。「恥ずかしいよぉ」と彼女の胸の中で姫ちゃんがつぶやいた。そりゃそうだろう。 「じゃ、お姫さまはいただいていくから、あんたはあんたで寄り道せずに帰りなさいよ」  『かざねぇ』に引っ張られて、姫ちゃんも教室から出て行く。鞄を両手で抱えたまま、小さく手を振ってきたので、僕もそれに応じた。  誰もいなくなった教室。思わず、ため息を吐く。廊下の光がまぶしく感じた。 「あの!」  姫ちゃんだ。慌てて戻ってきたのか、声が上ずっている。戸の陰から首を覗かせていた。 「最近、珠くんの夢をよく見るんです」  それだけ言い残して、再登場したときと同じように、唐突に去っていった。               5  サッカー部の練習を横目に、僕は裏門に向かっていた。  日は遠くの町並みに隠れ、西の空がわずかに赤くなっているだけだ。注意しなければ、相手の顔もよくわからないほどだ。だが、グラウンドは校舎の光のおかげで、わずかばかり明るくはあった。練習のしめとして、紅白戦をしているのだろう。緑と赤の蛍光色のビブスをジャージの上に着た部員たちが散らばっている。  ボールが蹴り上げられる。落下点に二人が集まり、ヘディングで競り合う。赤が勝った。だが、こぼれたボールは緑チームに取られてしまった。  思わず、見入ってしまう。  サッカーに限らず、僕は球技が苦手だった。運動する人間の動きは予測がつけづらいので、対応しきれないのだ。まっすぐにボールに向かっていってしまい、軽くよけられてしまう。  予測とは断定だ。まったく同じか、ほとんど変わらない可能性のものを二つ以上出された場合、正解を選ぶことはできない。  ただ、野球だけなら割と得意だった。守るのも、走るのも、あらかじめ行動は決められている。どこに配球すればいいか、どこに向かって走ればいいか、状況から判断すればいいだけで、予想はしなくていい。もともと運動神経はいいほうだったので、地元の少年球団からスカウトまで来たほどだ。  だけど、変化球が打てなかった。直球だけが相手なら、確実に打つことができた。だが、変化球を織り交ぜられると、いくつもの選択肢が発生し、予測だけでは追いつかなくなる。中学生になったころから、野球にも限界を感じた。  目の前では、ボールを奪い返した赤チームが、相手チームの陣地に攻め込んでいた。今ボールを持っているのは、赤の主力選手だろう、他の人の動きでわかる。彼はディフェンスに相対したところで、大きく体を左右に揺らした。一瞬、ディフェンスは動きを止める。その隙の間に、抜かれてしまった。  難なく守備を突破した赤の彼は、シュート。一瞬、体を左側に向けたのがわかった。キーパーも、そちらに反応する。  だが、ボールは右へ。反応が遅れたキーパーの手を掠め、ボールはゴールに突き刺さった。 「すごい」  予想に予想を重ねた攻防。僕の目は、彼らのすべての行動を知り、把握することができる。だが、次に彼らがどう動くかは、予測できない。  だから、面白いのだ。  自分ができないせいだろうか。球技を見るのは、割と好きだった。  ボールをまん中の位置に運ぼうとしている。いつまでもここで見ているわけにもいかない。僕も帰らなければ。  視線を前に向けたところで、気がついた。  そこに、女の子がいた。  まだ中学生か、もしかしたら小学生かもしれない。肩まである髪で顔は見えないが、華奢な体つきを見るに、女の子だろう。黒いダッフルコートを羽織っている。その下はハーフパンツをはいている。裾とハイソックスの間で膝があらわになっている。グラウンドのほうを見ていた。  ひどい違和感を覚えた。高校に小さい少女がいるから? 違う。それだけではない。  ゆっくりと、彼女はこちらに振り向いた。  音が消える。  森の奥に忘れ去られた苔むした井戸の底の目。彼女の双眸は僕の目と交じり合う。深く、わずかに潤んだ黒い色。それは、みなれた、そして初めて見るものだった。 「きみは」  僕が声をかけるのと、彼女が走り出すのは同時だった。 「待って」  とっさに、腕をつかむ。  刹那、静電気より強い痺れが手に走った。  同時に、あるイメージが僕の中に流れてくる。 「これは」  彼女はまだ試合中のグラウンドを横切り、校舎のほうに向かっていた。  我に返り、僕もそのあとを追いかける。  ホイッスルが響き渡った。 「なんだお前! 邪魔だ、出てけ!」  コートの外から、顧問の先生が怒鳴りつけてくる。部員たちも動きを止め、突然乱入してきた僕のほうを顔をしかめながら、または興味深げに笑みを浮かべながら眺めている。  少女は、コートを走りぬけていく。  誰もそちらは見ていない。 「す、すいません! 急いでるんで!」  一応断りをいれて、僕はグラウンドを突っ切っていった。先生の罵声を浴びながら。  少女は校舎に入って行ってしまった。意外と足が速い。僕も、追いかけるのがやっとだ。  昇降口を抜け、下履きのまま廊下に上がる。蛍光灯は消されていて、階段前の『非常口』の常夜灯と職員室から漏れた光しか明かりがない。息を止め、耳をすます。遠ざかる足音。反響しているが、人がいないおかげで判断はついた。上の階だ。  五段飛ばしに階段を駆け上がる。見まわしながら。だが、痕跡が見つからない。どこの階だ、どこに逃げた?  不安に襲われる。彼女がどこに行ったか、予想できない。足を止めて、もう一度耳をすます。だが、僕の耳でももう足音を聞くことはできなかった。 「くそっ」  壁を殴りつける。二階、三階、四階、屋上。四分の一。闇雲に走れば、見つかるかもしれない。しかし、闇雲とはなんだ。どこに行けばいい。  わからない。  動けない。 「珠くん?」  階段の下に、姫ちゃんがいた。なぜ? 「走っているのが見えたから、かざねぇと別れて――」  僕は、彼女の肩をつかんだ。 「あの子が、夢の子がいたんだ! だけど、どこに行ったかがわからなくて、僕は、だから」  彼女は一瞬目を見開く。  首をかしげて、僕を見る。続いて、階段を指で示しながら下の段から上の段まで視線でなぞった。 「よくわかりませんけど……人を探しているんですね?」  僕はうなずく。なんでだろう、焦っているはずなのに、彼女の口調が気にならない。 「わたしが下から順に見ていきます。だから珠くんは、上の階から片っ端に探してきてください。大丈夫。上に行ったってことは、もう一度降りてくることはないですよ。多分」  多分。僕には使えない言葉。論理性が皆無のその言葉が、頼もしかった。  僕はうなずき、再び階段を駆け上がる。不思議な確信があった。あの少女は見つかる。見つけることができるという。  他の階を無視し、屋上にやってくる。たしかめてみたが、ドアは施錠されていて外には出ることができない。ここじゃない。  階段を降りて、四階に。  廊下を見まわすと、明かりがついている教室はひとつだけ。国語科教員室。しかも、戸が少し開いていた。  僕は駆け寄り、ドアを一気に開く。  部屋の奥、窓際に少女がいた。横には、田村先生が壁にもたれる形のまま動かないでいた。先生の頭に手を乗せ、少女はこちらを向く。  間違いない。雪の中で、最初に見せる憂いを帯びた笑みだ。 「君は、誰なんだ」  僕の言葉が聞こえないかのように、彼女は表情を変えない。  そのとき。先生の頭と少女の手の隙間から、オレンジ色の水のようなものが広がった。  それは水が紙ににじむように空間に広がっていく。先生と少女だけを残して、他の物体はその水に塗りつぶされた。  先生を中心に現れた空間の中では、家族がコタツとケーキを囲んでいた。ケーキには、六本のロウソクが刺さっていて、白い煙を立たせている。  コタツにも、先生が座っていた。とんがり帽子と付け髭丸眼鏡をかけ、幸せそうに笑っている。隣にいるのは奥さんだろうか。三十歳ほどで、先生とあまり歳は変わらないようだ。ケーキを包丁で切り分けている。そして、女の子がいた。お母さんがよそってくれたケーキを、輝いた目をしながら受け取った。 「メリークリスマス」  先生と奥さんが笑いながら言った。  そして、電飾で彩られたクリスマスツリーの後ろ。  本物の先生と、ふさぎこんだ表情の少女がいる。  なんだ、これは?  机も本も窓も壁も、空間が広がった部分は見えなくなっている。球状に広がったスクリーンから、別の世界を立体的に映し出しているように見える。出来の悪い合成映像を見せられているような違和感を覚えた。  やがて、空間は収束を始める。空間の境目が内側にしぼんでいき、子供や奥さん、付け髭をした先生が飲み込まれ、もとの景色が戻っていく。  少女の手が、狭まった境目の向こう側に隠れた。  逃げられる。 「答えてくれ! 僕は何なんだ、小夜子!」  少女の顔が、驚きに変わった。だが、しぼむ空間に飲み込まれ、消えてしまう。水が排水溝に流れるように、すべて先生の頭に吸い込まれていった。  平穏が戻った。  先生は壁にもたれた姿勢のまま、こちら側に残っている。空間が広がったときにつぶされてしまったはずの机や本棚も、元通りだ。  そして、少女――小夜子も消えてしまった。  その名を思い出したのは、グラウンドで腕をつかんだとき。電機に似たショックと一緒に、僕の頭の中に流れこんできた。 「どうなってるんだ……?」  先生の傍らまで近づいて、辺りを探ってみる。見た目と同じく、机や本を触っても何の違和感もない。  わずかに。ほんの少しだけ、ロウの残り香が鼻腔につく。さっきの空間では、ケーキの上にロウソクが刺さっていた。考えているうちに、すぐに暖房の風に掻き消えてしまう。  田村先生を確認する。軽く寝息を立てていた。普通に寝ているようにしか見えない。 「先生」  肩をゆすってみた。少しうめいただけで、あっけなく目覚めた。 「ん、白木? あれ、俺いつの間に」  あくびと一緒に大きく伸びをして、先生は立ちあがった。僕のほうを見て、顔をしかめた。 「お前、靴じゃん。あー、なにやってんだよ」 「す、すいません」  グラウンドを横切ったため、靴の裏には土がこびりついていた。床が汚れてしまっている。靴を脱いで顔を上げると、先生は背広を羽織ながら、なぜか嬉しそうに笑っていた。靴で上がってきたことを、そんなに気にしていないようだ。 「あの、先生」 「なんだ?」 「その……大丈夫、ですか?」  さすがに、人一人飲み込んだようですが何か変わったことはないですか、とは訊けない。  先生は怪訝そうな顔をする。 「俺からすれば、土足のままこんなところにくるお前のほうが大丈夫か、心配なんだが」  はあ、と軽くため息。それだけで、笑顔に戻ってしまう。 「でも、なんか理由あんだろ」  すごく、機嫌がよさそうだ。 「帰るぞ?」 「あ、はい」  先生の後について、教員室を出る。先生は鍵を回しながら、鼻歌を歌っていた。ジングルベル。 「なんか、いいことあったんですか?」 「ん? ああ。今、カミさんが入院しててな」  一瞬の間の後、先生は慌てて付け加えた。 「子供が生まれるんだよ。ちっと、体弱いもんだから、大事をとってな」  部屋の電気を消す。窓の外のほうが明るくなった。ガラスに、僕らの顔が映る。それが小夜子の顔にも見えた。  彼女はこの部屋にはいない。それはわかっていても、戸が閉じるまで目を離すことができなかった。 「さっきもよ、夢見てたんだ」  鍵を締めながら、先生が言う。 「娘とクリスマス祝う夢なんだけど。こいつがもうかわいくて。俺も付け髭とか鼻眼鏡つけて、でれでれしてやんの。ダメだな、俺きっと親バカになっちまうわ」  娘、クリスマス、夢。  消えたロウソク、ツリー、小夜子。  階段を降りながら、先生の話と、僕が見たものを考える。  あれは、小夜子によって教員室に広げられたのは、先生のみていた夢だった。小夜子はそのなかに逃げ込んでしまった。  バカな話だ。だけど、僕は自分の見たものは信じる。でなければ、予測すらできなくなるから。  先生にどう尋ねようか。とにかく、原理はわからないが、今この人の中に小夜子がいる可能性が大きい。  三階に降りたところで、足音が聞こえた。 「なんだ?」  先生が訝しむ。そうだ。姫ちゃんにも探してもらっていたのだ。 「雲宮さんです。その……僕のことを探してるんです」 「おまえを? なんで?」  言ってから、先生は「ああ」と納得した。勝手に。 「じゃあ、俺は帰るわ。ちゃんと送ってけよ」  さっきまでの笑みとは違う、やたらに爽やかなほほ笑みを浮かべて、先生は階段を降りていった。違う。けど、納得してくれるのをわざわざ蒸し返すのもうまくない。  まだ小夜子のことを訊いていない。呼びとめようとするが、後ろから疲れ果てた声が聞こえてきて、できなかった。 「あぁ、珠くん……」  後ろから、姫ちゃんが現れた。顔をこわばらせている。壁にもたれかかり、へなへなと崩れ落ちてしまった。 「怖かったよお……」 「え?」  何を言っているのか、わからなかった。玉が切れかけているのか、ちかちかする常夜灯を見て思い出した。ここは、夜の学校。怪談なんかの舞台によく出てくる。普通の女の子を一人で歩き回らせるのは、たしかに酷だった。  恐怖。不安。期待。これらを感じられない僕は、どうも無頓着になってしまう。 「ごめん。気づかなかった。大丈夫?」 「うぅ、女の子は強いんですよお」  震えた声で言ってくる。すん、と鼻もすすった。  姫ちゃんは深呼吸をして、どうにか落ち着かせようとしていた。 「で、見つかりました? 女の子」 「ああ。まあ、見つけたは、見つけたけど」  なんと説明したものか。自分で見たからこそ僕は信じることができたが、話だけ聞いて信じてもらえるだろうか。普通は、無理だろう。だが、この子なら。 「田村先生の夢の中に逃げられた」  僕のほうを見上げながら、首を傾げる。鼻をすすりながら。 「彼女が教員室で寝ていた田村先生の頭に触れると、先生が家族とクリスマスをすごす夢が現れて、すぐにしぼんで、あの子も一緒に先生の中に戻っていった」 「何言ってるんですか?」  胸に冷ややかなものが広がっていった。ストレートだと定めて狙った球が変化球で、空振りしてしまったときのと同じ。いや、それ以上の喪失感。 「いいんだ。ごめん。変なこと言った」  姫ちゃんは何かを言いかけて、やめる。膝に口元を押し当てて、じっとしている。  先生を追わなかったことを考える。あるいは、姫ちゃんを置いていってでも先生を追いかけるべきだったのかもしれない。これで小夜子をつなぐ糸は、せっかく手に入れた手がかりが、消えてしまった。  考えるのをやめる。これ以上考えると、姫ちゃんを恨んでしまう。彼女は悪くない。こんな状態になってまで、僕を手伝ってくれたのだ。  今回は、名前を思い出しただけでもよしとしよう。  そう思い込もうとするが、悔しさがにじみ出てくる。 「信じます」  姫ちゃんが、言った。僕を見上げて、無邪気な笑みを浮かべて。 「珠くんが言うこと、信じま」 「信じたって――!」  何の解決にもならない。  暗がりの校舎に、僕の声が響いていった。姫ちゃんは身を縮め、目を見開いたまま固まってしまう。  彼女は悪くない、彼女は悪くない。そう唱えて、怒りを押さえつける。これは、理不尽な怒りだ。僕の、僕に対する怒りだ。 「ごめん」 「いえ、わたしこそ……」  姫ちゃんの声は震えきっていて、ほとんど言葉として形をなしていない。  最低だ。  それからは、かける言葉も見つからなかった。  姫ちゃんが鼻をすする音が聞こえる。呼吸する音も、小刻みに震えている。僕は不規則に点滅する常夜灯だけをにらみつけていた。彼女を見ることはできない。それが彼女を思ってのためか、傷つけてしまった彼女を見たくないだけか、それさえもわからない。  ほんの数十分前まで、あんなに楽しく話していたのに。  僕は、何をしているんだ。  小夜子も、自分の夢のことも、どうでもよくなってきた。僕なんて、永遠にのたうちまわっていればいい。 「珠くん」  姫ちゃんが口を開いた。ぼそりと言ったはずのそれに、僕はどきりとする。 「な、なに?」  情けないことに、僕の声のほうが震えてしまっていた。 「どんな、夢なんですか?」  かすれた声で、いつもよりさらにゆっくりと、姫ちゃんは尋ねてきた。小夜子の出てくる夢だろうか。この子はまだ僕に協力してくれるというのだろうか。 「いいよ、もう」 「知りたいんです、わたしが」  僕の考えを見透かしているような言葉。  それ以上、拒むことはできなかった。 「雪の中で。子供のころの僕が、あの子……小夜子っていうんだけど、一緒に遊ぼうとするんだ」 「さよこ」  姫ちゃんは、たしかめるようにつぶやいた。 「小夜子は最初は渋ってたんだけど、僕が雪玉を投げつけると、むきになって投げ返してきて。最後は小夜子が降参する。あんたの夢の中なのに、勝てるわけないじゃないって言い訳して」  短く二回、姫ちゃんのほうから空気を吐く音が聞こえた。笑い声。 「それで、約束するんだ。次はもっとあったかい夢で遊ぼう、って」 「すてき」  彼女が言うと、本当にそれがかけがえのないものに思えてきた。それから、自分はどうしたのだろうか。夏の夢で遊んだのだろうか。もう会わなかったのだろうか。  今日出会った小夜子の顔を思い出す。憂いを帯びた、自嘲めいた笑顔。あれはいったい、何を意味していたのだ。  ふと、姫ちゃんが僕のほうを見上げているのに気づいた。 「どうしたの?」 「夢の話をしているときの珠くんの顔、すごい、嬉しそうでした」  頬が熱くなるのを感じた。うつむいてしまう。 「探しましょう。小夜子ちゃん」 「……ああ」  小夜子にもう一度会いたい。  今は、心の底から思うことができる。 「さて、帰りましょうか」  姫ちゃんは立ちあがり、スカートのちりを払った。  朗らかに、僕に笑いかけてくる。まだ睫毛は濡れているのに。  女の子は強いんです。  彼女の言うことは本当だった。 6 1