バイバイララバイ                           京路           第一話           1  正樹は懐中電灯をつける。  歪んだ円形の光が生まれ、部屋の奥に並ぶ書架が照らし出された。ぎっしり本が詰められているのが見える。背表紙に反射する部分があるが分類番号を銘したシールだろう。そうとわかっていても、闇の中にいくつもの点が光っているのは、どうにも落ち着かない。  バン、とけたたましい音が鳴り響く。正樹は身を縮ませた。  後ろに光を向けると、聡が驚いた表情をしてドアを押さえていた。正樹に向かって苦笑する。 「わるい」  ここのドアはゆっくり閉めないと、大きな音を鳴らすことになる。図書館のドアとしてはどうかと思うが、古い建物なので仕方がないのかもしれない。  天井を照らす。特有の深い黒色になった板が組みつけられている。昼間なら艶もかかってきれいに見えるのだが、懐中電灯の小さな光ではただ不気味なだけだ。  今は高校の図書館だが、もともと土地にあった洋館を改装したものだと聞いたことがある。つまり、この白船高校よりも古いのだ。  だから、変な噂も出てくるのだろう。 「どこで寝ればいいんだ?」  暗がりの中を見渡しながら、聡が聞いてくる。 「そのソファでいいんじゃないか」  そう言って、正樹は光で示した。貸し出しカウンターの前にあるソファーだ。テーブルを囲むように三つ置いてある。昼休みは、よく人がそこで弁当を広げて談笑している。飲食も雑談も、本当はよくないのだが、もう誰も気にしていないようだ。  コートを着たまま、聡はリュックを枕にしてソファに横になる。背丈は百八十以上あるので、足のほうが床についてしまった。  正樹は苦笑しながら、ポケットの中に手をやる。金属がこすれる音がした。  図書館の鍵だ。いつも委員会で、戸締りを厳しく言われている。多分、夜に忍び込む者が少なからずいたということなのだろう。朝の図書館に菓子の袋が落ちていたのを、正樹もこの二年で何度か見ていた。  そのたびにバカなことをすると腹を立てていたのだが、まさか自分も同じことをするとは思わなかった。  図書館で眠ると、自分の本当に見たい夢が見れる。  自分の求める未来の夢を、睡眠中に夢として見るのだ。正樹も迷信だと思っていたが、実際に進路に悩んでいた人が、図書館で眠ったあとあっさり行く末を決定してしまった、という話もある。原理はどうあれ、そういう効果は確かにあるらしい。  聡の寝息が聞こえてきた。もう眠ってしまったらしい。  正樹は、これからどうするかを考える。聡には帰ってもいいと言われていたが、そういうわけにはいかない。  ぼんやりと、光を書架のほうに向けたとき。  どす、と鳴った。音は図書館の中に反響し、余韻となって耳に残った。  正樹は唾を飲み込む。  書架の奥から聞こえた。本が落ちる音だろうか。紙といっても束になっているので、ぱさりというほど軟弱な音はしない。ハードカバー小説くらいになれば、ちょっとした鈍器を落としたような――さっきのような音が鳴るはずだ。  光を向けなおすが、書架は横になって奥のほうに順に並べられている。向こう側がどうなっているかはわからなかった。  誰かいるのか。  いるはずがない。鍵は正樹が持っている。  部屋の温度が下がった気がする。 「……聡」  名を呼ぶが、答えは返ってこない。もう寝ているのだ。  正樹は、夜の図書館に行きたいと頼んできた聡の顔を思い出した。聡が事故に遭ってから三ヶ月、魂が抜けたような様子だった彼の見せた、いちばん真剣な表情だった。  正樹はコートを脱ぎ、かばんといっしょにカウンターの上に乗せる。  制服の内ポケットに手を入れ、それを取り出した。  一本の短刀だ。長さ二十センチほど。簡素な黒塗りの拵えで、鍔はない。  ゆっくりと、鞘を引き抜く。  わずかな反りを持った片刃が姿を見せる。  懐中電灯から漏れたわずかな光に、刃の表面がくすぶって見える。川のせせらぎを思わせる、模様が浮かび上がっていた。祖父は「沸え本位の直刃」と言っていた。専門的なことはわからないが、角度をつけながら光に照らすとだんだんと輝きが変わっていく様は、こんな状況でも思わず見とれてしまう。  もとは平安貴族のため作られた魔除けだったらしい。もし幽霊が相手になっても、なんとかなるだろう。  正樹は歩き出す。床板のきしむ音が耳についた。  自習机の間を通り抜け、書架の並ぶスペースにたどり着く。二メートル以上ある書架は、こちらに向かって横になって置かれている。正樹は横に回りこみ、書架の間をひとつずつ確認していこうとした。  書架の数は、十近くある。手前からライトを照らし、誰もいないことを確認する。  ひとつ、ふたつと同じことを繰り返す。  五つ目、六つ目……まだ何も見つからない。整然と本が並んでいるだけで、当番だった正樹が最後に確認したときと、同じ様子だった。  そして、最後の列。小説の棚と大型資料の棚の間だ。  聞き間違えではなかったのか、と一瞬だけ思うが、すぐに否定する。本が落ちる音ははっきりと、反響まで聞こえた。  一呼吸置いてから、一気に踏み込む。  光を当てる――が、誰もいなかった。  それまでの列と同じで、何かがいた形跡は見つけることができない。  だが、と正樹は思った。  音は確かに聞こえた。何かの拍子で本が落ちたことは確かだ。  ライトで棚を確認しながら、書架の間を進む。  通路の中ほどについたとき。本の間に隙間を見つけた。  日本の活断層――一抱えはある巨大な本のシリーズの中に、一冊分空きがあった。  貸し出し中か、とも思ったがすぐに否定する。こんなもの、誰が借りるというのだ。地学の教師が眺めるのを一度見たことがあるだけで、生徒が触ったのは見たことがなかった。  では、さっき落ちたのはこれか? それも、否定する。これならもっと重い音がするはずだし、第一、大きさがこれでは自然に落ちることは考えにくい。軽い本なら、充分にしまわれてなくて、隙間風かなにかが原因で落ちた、とは考えられなくもない。  正樹は、はっとする。  自然に落ちたとするならば、どこかに本が落ちているはずである。  だが、それはなかった。  ということは――。 「てぇい!」  女の声、と思った瞬間。  何も見えなくなった。。  光だけでなく、音も聞こえない。体の感覚も何もない。意識だけが、闇の中に漂っている。  ばちっと、目の前が白くなる。  重いものが落ちた音が聞こえた。  それは、自分の体が床に倒れた音だった。  一瞬だけ気を失ったらしい。後頭部に鈍い痺れを感じる。とっさに起き上がりながら、幸いにして離さなかったライトを、そいつの方向に向けた。 「い、生きてた!」  凶器――『日本の活断層・中部地方』を振り下ろした形のままの少女がいた。白船高校の制服。一撃で死ななかったことが意外だったらしい。あっけにとられている。  すぐにその表情に力が戻った。 「死にさらせーっ」 「待て、バカ!」  『日本の活断層』を大上段に振り上げようとして、棚の中板に引っ掛けてしまう。勢いだけはあったらしい、中板が一段まとめて宙を舞い、一緒に本も浮かび上がり、雨になって二人の上に降り注いだ。 「ぐっ」  頭をかばい、本の次々と落ちる音を聞きながら正樹が思ったのは、片付けるの大変そうだなあ、ということだった。  本の音が鳴り止む。  少女が、うなだれながら頭をさすっている。落下する本の角でもぶつけたのだろう。  こちらのことを思い出したらしく、再び武器である資料本を上段に構えなおした。 「あー、ちょっと落ち着け」 「なにが!」  少女は、地図を構えたまま正樹をにらみつけている。暗くてよく見えないが。 「俺は、図書委員で」 「嘘!」  きっぱりと否定される。 「ただで殺されると思ったら、大間違いだからね!」 「殺すってあんた……」  興奮する少女を目の当たりにして、正樹の頭は逆に冷静になっていった。何がいけないのだろうか。  すぐに、抜き身のままの短刀を持っていることを思い出した。 「あ、これはだな――」 「いっ」  短刀を掲げると、少女の体がこわばった。  正樹は、ため息をつく。たしかに今回は自分が悪い。 「ああ、すまん。これ、お守りみたいなもんで。血を厭うって意味で、刃引きしてあって。つまり、切れないの」  そう言って正樹は、自分の左腕を横に伸ばすと、二の腕の部分に短刀を突き立てる。食い込むぐらいに押し付けてから、離した。血が流れるどころか、袖も切れていない。 「ほら、ね?」  腕を見せるが、まだ少女は警戒を解いてくれない。 「こ、こっちに投げなさい」  震えた声で、少女が言った。  正樹は安心して息を吐いた。どうにか、解決できそうだ。鞘を取り出し、刃をしまった。 「これ、じいちゃんの形見なんだから、大事に扱えよ」  そう言って、少女に放り投げた。  弧を描き、回転しながら少女に飛んでいく。 「あ」  と、少女が言ったのが聞こえた。  頭上に振り上げていた本で、はたき落とされる。 「あっ!」  正樹が声をあげる。床のうえに、かしゃんと短刀が転がった。 「あ、ごめん。つい」 「ついじゃないよ!」 「あ」 「今度は何!」 「鼻血」  少女のシルエットが動く。正樹に向かって指を差したらしい。  鼻血? 鼻の下を触って、正樹は声をあげた。 「え!」  ライトを当てて指を確認する。水っぽいものがてかっているのが見える。赤い。  そういえば、顔面から床に倒れたのだ。そう思った瞬間、鼻の下に鼻血特有の水の流れる感触を覚えた。水っぽさはすぐに唇を伝い、床に落ちそうになる。 「げ! ティ、ティッシュ!」  上を向きながら、あたふたする。正樹はティッシュを持ち歩く習慣なんかない。紙ならあたりにたくさんあるが、使えるはずがない。そこで、足元にたくさん本が散らばっていることに気づいた。  汚したら、いろいろまずい。  少女が、吹き出した。 「ほら、ちょっとしゃがみなさい」  笑い混じりの声。肩を叩かれる。  言われるままに膝を折ると、鼻の中に何かを突っ込まれた。 「ティッシュくらい持ち歩きなさいよ。手を洗ってもズボンで手を拭くタイプでしょ」  そのとおりだった。 「もう、おねーさんに感謝なさい」  少女は、いじわるく笑っていた。シルエットから、身長は女の子でも高いほうだと思っていたが、そのわりに顔は小さい。白いヘアバンドが、印象的だった。 「おねーさんって……三年生?」 「ま、そういうこと」  ティッシュで鼻や口の周りを拭いてくる。正樹は、なすがままになってしまう。ただ、顔を見つめるわけにもいかないので、目線のやり場に困った。 「あはは。キミ、すんごい情けない顔してる」 「ほっといてください」  彼女のヘアバンドをにらみつけることにした。 「大体、先輩だって声震えてましたよ、さっきまで」  額をぴし、と弾かれる。 「何を言う。得体の知れない男が刃物持って迫ってきたら、普通、女の子は怯えるものじゃないの」 「普通の女の子は、攻撃してこないと思いますが」  先輩の顔が離れた。血のついたティッシュを、入っていたビニールカバーに戻して、ポケットにしまう。  冗談めかした笑顔を浮かべる。 「キュウソ猫を噛む、ってね。ちゅー」  正樹はため息を吐く。 「……噛むなら、もっとおとなしく噛んでくださいよ」  あたりを見回した。思ったよりも、多くの本が転がっている。開いたまま落ちた本が折れていないか心配だ。  幸い、鼻血は本に落ちてなかった。床までは垂れていなかったらしい。  本にまぎれて、正樹の短刀が落ちているのを見つける。 「拾いますよ?」  苦笑しながら彼女がうなずくのを確認してから、正樹は短刀を拾い上げる。  刃は鉄だから折れたりしないだろうが、鞘や柄は木なので傷がついたかもしれない。そう思って手探りで調べてみるが、大丈夫のようだ。制服の内ポケットに戻した。 「さて、と」  懐中電灯を適当な場所において、正樹は転がっていた棚の中板を持ち上げる。三メートルほどの板の両端にあるくぼみを、棚の内側にある突起にはめるわけだ。しかし、暗いこともあり、うまくはまらない。 「あ、手伝うよ」  先輩が板の片方を持ってくれた。 「……ありがとうございます」 「いいっていいって。あたしも悪かったし。ごめんね、鼻」  いきなり素直に謝れて、正樹は反応に困った。 「別に、大したことないですから」  小さく答える。本当は腹が立って仕方がなかったのだが、どうでもよくなってしまった。 「じゃ、本も片付けようか」  先輩は床に散らばった本を拾い上げていく。  すいませんと言いかけて、正樹は気がついた。  先輩はただ本を片っ端から詰めていくだけだ。著者名も作品名も気にせずに、手にとった本を左から突っ込んでいった。せめて、上下くらいはそろえてほしい。  作者名で並べようと本の背表紙を見比べていると、先輩が尋ねてくる。 「キミ、こんな時間になにしてるの?」 「上村正樹です」  キミ、という呼称がこそばゆい。先に名乗っておく。 「さっきも言いましたが、俺は図書委員です」  本はすべて詰め終わってしまったらしく、書架に寄りかかって先輩は本を読み始めた。この暗い中、よく読めるなと正樹は本を並べなおしながら思う。  でもさ、と先輩が言った。 「図書館って夕方五時まででしょ? そこから先は図書委員だってただの生徒だし。こんな時間に入ってきていい理由にはならないぞ」  たしかに、そのとおりだった。正樹は、本当のところを言うことにする。 「図書館の噂って知ってますか?」 「図書館で眠ると、好きな夢が見れるってやつ?」 「友人の付き添いで来ました。鍵、持ってましたから」  先輩が本から顔を上げ、冗談っぽく笑う。 「あー。いけないんだぁ。そういうの、職権濫用って言うんだよ」  本を持つ正樹の手が止まった。  先輩もそれに気づいたようで、表情から笑みが引いた。 「俺にできるのは、それくらいしかないですから」  本を、いちばん右端に詰める。左側から、著者名でちゃんと五十音順になった。  正樹は鼻に栓をしていたティッシュを取る。内側が少しだけはがれる感触がしたが、血が出ることはなかった。 「何があったかは知らないけどさ」  先輩も本を閉じ、本棚に突っ込んだ。ちゃんとした順番の場所に。 「夢に逃げたって、ろくなことないよ」  見上げる彼女の目を見て、正樹は固まる。慌てて瞬きをすると、彼女のほうが背を向けてしまった。 「小夜子」 「はい?」 「キミのを聞いたままだった」  振り向いた彼女の顔は、子供のような笑みで満ちていた。 「小夜曲に子で、小夜子。月橋小夜子。あたしの、名前」  図書館のカウンターに腰掛け、小夜子は語る。 「結局、逃避なのよ。試験前とかに勉強し慣れない人が図書館でがんばろうとして、寝ちゃう。正確には防衛機制っていうのかな。テストという現実が嫌で、そこから逃れようとして、自分の望む夢を見やすくなるのよ」  あれだけの騒ぎでも、聡は目覚めずに、ぐっすり眠っていた。  ライトは消して、カウンターとソファの前にあるテーブルに一本ずつロウソクを立てた。コンビニで用意していたものだ。「なんか誕生日みたいだねえ。もしくは百物語の終盤戦」とは、小夜子の言葉。赤い色に浮かび上がった小夜子の顔を見ていて、正樹は突っ込むのを忘れてしまった。  椅子を引いてきて、小夜子の前に座る。 「テスト前に掃除がしたくなるのとかと同じですか?」 「そうそう。夢を見たことで満足しちゃうのよ。進むべき道が見えた、とか思って、得した気分になって」 「でも、重宝がられてるみたいですよ。進路に悩んでる人とか、多いですから」  正樹が、三年生と思しき人が朝からずっと寝ているのを見たのは最近のことだ。考えてみれば、三年生はもう自由登校になっている。 「たしかにそうかもしれないけど、つまりは占いみたいなものでしょ。試験前に占いに興じるって、ばかげてると思わない? だったら、勉強しなさいって」 「現実的ですね」  正樹はかばんをたぐり寄せ、くるときにコンビニで買ってきたサンドイッチを取り出す。封を切って、つまもうとしたが、先に小夜子に差し出した。  小夜子は首を振る。 「食べないことにしてるの」  なるほど、と正樹はサンドイッチを引っ込め、自分で食べる。活動が減る夜に食事を控えるのは、ダイエットの基本である。  ちらりと聡を見た。左手で右手を押さえているのは、無意識のものだろうか。左手の袖の中から、腕に巻かれたスパイクの紐が見えた。 「たとえ逃げてるだけだとしても。こいつには、夢が必要なんです」 「長山聡くん、だっけ?」 「知ってたんですか」  小夜子はカウンターから飛び降り、聡の傍らに歩いていった。 「有名人だからね。悲運の天才って」  野球部のエース長山。球速は最高一四五キロ。打率四割七分。直球との球速差のあるカーブと、鋭く切れるスライダーを武器に、弱小だった野球部を甲子園にまで引っ張っていった、まさに期待の星であった。  三ヶ月前。事故に遭うまでは。  信号無視のバイクに正面からぶつけられ、右腕に神経まで達する怪我をってしまう。野球はおろか、箸すらまともにもてない体になってしまった。  小夜子は聡の枕にしていたリュックを引き抜く。正樹が止めるまもなく、中を開けてしまった。  出てきたのは、グローブだった。  枕の下に見たい夢に関連する品物を入れるのは、かなり有名なおまじないだ。 「青春をもう一度、か」 「茶化してるなら、怒りますよ」  小夜子ははっとして、声を落とす。 「そういう意味じゃなかったけど……ごめん」  グローブをリュックに戻し、小夜子が言う。 「でも、起こしたほうがいい」 「なぜです?」 「しあわせな夢ほど、残酷な悪夢はないんだよ」  言いたいことは、わかった。夢は夢に過ぎない。いつかは覚め、そして現実を改めて突きつけられ、苦しむだけだ。  けれど、他にどうしようもない。正樹が、聡の夢にしてやれるのは、図書館の鍵を開けてやることだけだった。 「でも、心配なのは目覚めないほう」 「え?」 「彼が夢にとらわれたまま、こちらに戻ってこなかったら――大変なことになるわ」  小夜子が何を言っているのだか、わからない。冗談だと思い、正樹は笑うことにした。 「何いってるんすか、先輩」  だが、小夜子は笑わない。 「持続性傾眠症。心因性のものは、現実で降りかかるストレスから逃れるために、レム睡眠のまま長時間眠りつづける。つまり、夢を見つづける」  正樹も、もう笑っていなかった。 「生理学とか心理学とか、ちょっと聞きかじったことがあるだけだけど。そういう病気も、たしかに存在するわ」  正樹は聡のところに飛びつき、肩をゆする。 「ちょ、ちょっと起きろよ」  最初は軽く揺さぶる程度だったが、いっこうに起きない。揺さぶる力を強めようとしたところを、小夜子に止められる。 「無理よ。外からの刺激で目覚められるようなものじゃない」 「なら、どうすれば」  小夜子は腕を組み、何かを読み上げるようにゆっくりと答えた。 「彼の脳は夢の状態を維持することのみに傾いている。普通のレム睡眠時は筋肉が弛緩する程度なんだけど、今は五感まで遮断されているはずよ」  正樹はイメージする。いまや聡は肉体という分厚い壁に囲まれていることになる。窓はすべて固く閉ざされ、何者の声も通さない。そこを無理やりこじ開けることは――。 「できる」  正樹は、短刀を取り出した。  鞘を引き抜き、その刃を見つめる。流れる刃文は、ロウソクの灯に照らされ、まるで血が通っているかのようにきらめいて見えた。 「何するの?」  眉をひそめて小夜子が尋ねてきた。 「これ、名前が夢走って言うんです。夢を走る、で夢走。信じられないかもしれませんけど……人の夢の中に入ることができるんです」  小夜子は何も言わない。ただ、正樹に向かってまばたきを繰り返すだけだ。  正樹は、両手で短刀を握りこむ。その手は、わずかに震えていた。 「ねえ――?」 「大丈夫、です。見ててください」  大きく息を吸い込み、正樹は刀の切っ先を聡の額に合わせる。  ゆっくりと縦に切った。血は流れない。かわりに、切り口の内側から、少しまぶしく感じるほどの白い光があふれて出てきた。 「あとのことはお願いします。しばらくしたら起きると思うんで」 「ちょ……何を」  正樹は聡の額の光に触れる。  ふっと正樹の体から力が抜け、崩れ落ちる。とっさに小夜子が支えた。 「これって――」  額の光も消えてしまった。傷も残っていない。  小夜子にもたれかかるようにして、正樹は意識を失っている。頭もだらりと下がり、完全に力が抜けている。だが右手だけは、しっかりと刀の柄を握り締めていた。  まず聞こえたのは、多くの人間の声だった。  何かをいっせいに叫んでいる。 「長山――」  それは聡への歓声だった。  焦点が絞られ、にじんでいた視界がはっきりしてくる。白い天井。ドーム球場だ。だが、正樹が知っているものよりも平べったく感じる。  影が見えないのだ。  正樹は座席の間の通路に立っていた。一塁席のほうだ。座席には多くの人間が座っているが、誰も固定された姿勢のまま動かず、しかも顔のパーツがない。よく見ると、人ではなくマネキンだった。  では、この歓声と長山コールはどこから聞こえるものだろうか。正樹は考えかけて、やめる。そういうものなのだと納得する。  ここは、聡の夢なのだ。  人形たちの見守る中、グラウンドでは野球の試合が行われていた。野手たちも、客と同じで動かない。唯一動いているのは、マウンドの上の投手――聡だけだった。  大きく振りかぶり、投げる。バッターがバットを振るのと、キャッチャーのミットが鳴るのは同時だ。張りのある音がここまで聞こえた。 「これが……」  正樹は、呆然とする。  精彩を欠いたこんな光景を、できることなら見たくはなかった。夢は、心の奥底にある欲望に反映される。見ていて気持ちいいものじゃない。  早く起こそう。そう思い、あたりを窺った。 「しかし、起こすっていってもどうすれば」  見渡しても、マネキンの姿しか見えない。影のない光景のなかにあるマネキンの群れ。どこか滑稽に見える。  視線を後ろに向ける。  少女がいた。 「んな――」  眉のところで切りそろえられた黒い髪に、袖が手を隠すほどの大きさの黒い着物。白い光景の中で、まぶしさすら感じる。精巧ともいえる顔つきとつややかな髪に、マネキンの無機質さとは別の、徹底した造形美を覚えた。  彼女は、階段を下りてくる。動いた。それだけのことに、なぜか正樹は驚いてしまう。  同時に、焦った。少女が近づいてくるが、距離を取ろうと考える余裕すらなかった。  少女が両手を上げる。袖が下がり、雪の色をした細い手が現れた。ぱん、と打ち鳴らした。  一瞬の耳鳴りに、正樹は耳を押さえる。  と。  音が消えていた。  正樹はあたりを見回した。どこからか鳴り響いていた音は、完全に消えている。以外は、何も変わらない。動かないマネキンばかりの世界には、むしろ音のない静寂のほうがふさわしくも思えた。 「音を遮断しただけよ。邪魔でしょ?」  少女が言った。耳のいちばん深い部分にまで届く高い声だった。 「――あんた、誰だ?」  少女は目を細める。 「女性に名を訊くときの顔じゃないわ、それ」  正樹は、自分がにらみつけていたことに気づいた。手もぐっと握り締めていた。開くと、汗で湿っていた。  大きく息を吸い、吐く。 「俺は、上村正樹。聡――この夢の持ち主を起こしにきた」  女性に名を訊くときの顔になっている自信はなかったが、なるべく平静に答えた。  彼女は、「ふうん」と興味がなさそうにつぶやく。 「なら、急いだほうがいいわよ。劇場化も始まっているし」 「劇場化?」  少女の指が正樹の右のほうを示す。バックネットのあたりだ。 「なっ」  その方向に視線をめぐらせ、正樹は驚く。  バックネット裏の席のいちばん前。そこには制服姿の聡が座っていた。マウンドで投げつづけるユニフォーム姿の自分のことを、ぼんやりと見つめている。 「夢で活躍する自分を、あたかも舞台を見る観客のように見てしまうことよ。あなたも、自分の姿を客観的に見る夢を見たことはないかしら。それが顕著になった結果が、これよ」  少女の目を見て、正樹は気づく。  彼女は夢走に似ていた。黒い拵えに、せせらぎのように涼しげな刃文。切っ先の鋭さ。鉄の冷たさまで、印象が重なった。 「このままだと、夢との乖離が進んで、戻らなくなる」 「ずっと眠りつづける……ってことか?」  彼女は首を振る。 「夢と現実が逆転する」 「逆転?」 「とにかく、いいことじゃないわ」  かなり夢には詳しいらしい。そういえば、名前を訊いていなかった。 「名は、夏雪。夏に降る雪」  先を読んだかのように、少女は名乗った。 「あなたと……まあ、目的は同じよ」 「俺と、同じ? じゃあ、聡を?」  答えずに、夏雪は通路を歩いてバックネットのほうに歩いていった。  正樹もその後を追う。 「聡を起こすにはどうすればいいんだ?」 「意識体――客席にいるほうの彼を刺激するのが早いわ。けど、それじゃ根本的な解決にはならない」 「どういうことだ?」 「また眠れば、夢を見る。劇場化は進んで、いずれ逆転が起こる。――だから、夢そのものを消してしまうしかない」  正樹は、立ち止まった。 「ちょっと待て」  夏雪も足を止めて、正樹のほうに振り返った。 「夢を消すって――この夢をか?」 「そう。忘れてもらうなり、壊してしまうなりしてね」 「ふざけるな!」  音の消えた世界に、正樹の声が響く。  夏雪の目がわずかに大きくなった。 「たしかにこれはただの夢だけど、今のあいつにはこれしかないんだ! なくなったら、どうしようもなくなるんだよ」  夏雪は目を細める。正樹よりも遠くを見るような目つきだ。 「夢見ることでしか生きていけないのなら、死んでしまえばいい」  静かに、つぶやく。 「あんたは、聡を助けにきたんじゃないのか?」 「じゃあ訊くけれど。あなたが助けたいのは彼? それとも彼の夢?」  一瞬、正樹は答えに詰まる。 「――両方だ」  夏雪は、ふっと笑う。 「二兎追う者の末路はご存じ?」  そう言い切って、再び歩き始めた。緋色の鼻緒で結わえた草履がコンクリートにすれる音だけが流れていく。 「どうしようもないのかよ」 「一石で二鳥を落とすすべも、なくはないけど」 「ほんとか?」  夏雪は、ちらりとマウンドのほうを見る。 「叶えればいいのよ。結果的に夢がなくなればいいのだから、別の夢を見るようになってもいい」  マウンドの上では、プロ球団のユニフォームを着た聡が三振の山を築いていた。これが聡の夢だとしたら、どうやって叶えるというのか。 「無理だって、わかるでしょう? だから、消し去るしかないのよ」 「……ダメだ」  夏雪は何も言わない。ただ、大きく息を吐く音だけが聞こえた。 「俺が、叶えさせてやる。消すなんて、させやしない」 「できないことを言い張るのは、子供がすることよ」 「やってみなければわからないじゃないか!」  いつの間にか、バックネット裏に回っていた。あとは、階段を下りていけば聡のところにつく。  夏雪が振り返る。口元がわずかにほころんでいる。そして、人差し指を立てた。 「いいわ。そこまで言い切るなら、一日だけあげる」 「一日だけ?」 「ここまで劇場化が進んでいる。詳細に欠けるとはいえ、末期なのは変わりないわ」  つまり、時間がないということか。  正樹は、うなずく。  夏雪は聡のほうに向かわず、階段を上っていった。 「健闘を祈るわ」  振り返り、そう口にする。  体が透けていって、やがて消えてしまった。  唐突に戻った音に、正樹は身をすくませた。 「くそっ」  階段を駆け下りる。たった一日。とにかく、聡を起こすことが先決だ。  客席のいちばん前で、聡は虚ろな視線で前を見つめていた。わずかに開かれた口に、正樹はかける言葉を失った。  精巧な人形に似た夏雪とも、無機質なマネキンとも違う。もっと生々しく、醜い人の形をしたもの。  死体に見えた。  イメージを振り切り、肩を揺さぶる。 「おい、聡!」  ゆっくりと、首が正樹のほうに向く。 「ああ、正樹か」  声にも、生気を感じることができない。 「見ろよ。俺の球、バットにかすらせてもいないぞ」 「わかったから、起きるぞ」  これ以上、こんな友人を見ていたくなかった。  肩をつかみ、客席から引きずりおろすようにして立ち上がらせる。  空から、強い光が照られる。  正樹の視界も白く染まり、そして何も見えなくなった。  正樹は、目を覚ます。  目を開けると、視界いっぱいに少女の顔が映った。 「のわっ」 「おー。起きた起きた」  正樹の顔を覗き込んでいた小夜子が、無邪気に笑う。枕もとに座っているのか、正樹から見て頭の方向から顔を出していた。 「――え!」  慌てて飛び起きる。  小夜子は床に正座したまま、きょとんとしていた。丈の短いスカートから伸びている膝は、暗がりでもなお白く浮かびあがっていた。 「膝枕っすか……」 「あとはお願いって言われたしね。こういうの、嫌だった?」  正樹は、控えめに首を振る。嫌ではないが、気恥ずかしい。 「それにしても、心配したよ。ヤバいくらいぐっすり寝てるんだもん」 「すいません」 「思わず、顔に落書きしようとしちゃった」 「え……」  思わず、正樹は自分の顔を指先で触ってしまう。それから、マジックの感触などわかるはずもないと気づいた。 「あはは。冗談だよ」 「よくこんな状況で冗談が言えますね」  にらもうとするが、小夜子の笑顔を見て、やめた。安心しているのだ。正樹が目覚めたことに。 「聡はもうすぐ起きます」 「そっか。そりゃよかった」 「でも、それじゃ何も解決しないようです。  小夜子に夢の中のことを話した。聡の夢のこと、夏雪という少女のこと、本当に助けるためには夢をどんな形であれ消さなければいけないこと。  そして、一日の猶予の中で、正樹が聡の夢を叶えてやること。  すべて聞きおえて、小夜子が感想を言う。 「無理でしょ、そりゃ」 「先輩までそんなこというんですか」  小夜子がため息をついた。 「あのねえ……。じゃあ、訊くけど、キミはどうやって彼の夢を叶えてあげるというのかな?」  正樹は、考える。聡の夢は、プロの舞台で野球をすること。ならば、腕を治せばいい。 「医者を探す、とか」 「一日で? 長山君だって、それくらいしたと思うよ。だけど、見つからなかった。だからこんなことになってるんじゃないの?」 「でも――」 「もっと現実的になりなさい。夢から助け出そうとするほうが夢を見てて、どうするの」  返す言葉が見つからず、正樹は黙る。あぐらをかいたまま頬杖をつき、うなりながら考える。  小夜子が頭をかいた。苦笑しながら、小さくつぶやく。 「ま、そういう気持ちはあたしも嫌いじゃないけどね」  ぱん、と膝を打って小夜子が立ち上がった。 「よし。かわいい後輩のために、先輩が一肌脱いであげよう」 「え?」  あっけに取られる正樹に、小夜子は安心しろとばかりに笑いかけた。 「手伝ってあげるって言ってるのよ。人手は、多いほうがいいでしょ?」           2  ソファに座りながら、正樹はブラインドの隙間から漏れる朝日を見た。カウンターの後ろにかけてある壁時計を確かめると、7時。校門が開く時間だ。  あのあとすぐ、「調べものがある」と小夜子は一度帰り、正樹と聡は当初の予定どおり図書館で眠った。幸い、聡はちゃんと起きて、今は朝食を買いに近くのコンビニまで出て行っている。  ドアが開いた。 「おはよ。眠れた?」  入ってきた少女を見て、正樹は二、三度目をしばたかせる。明るい色の頭に、ヘアバンドをはめた少女。ロウソクの火に浮かび上がった姿と日の下でちゃんと見える姿が同じことが、なぜか意外だった。  心のどこかで、あれは夢だったのでは、と思っていたらしい。 「おはようございます」  挨拶されたことを思い出して、小夜子に挨拶を返す。 「友人はちゃんと起きたようだね」 「朝食を食べて、そのまま教室に向かうそうです」  言ってから、正樹はおにぎりをかじる。昨日、夕食の分と一緒に買っておいたものだ。賞味期限が八時なのでギリギリだが、味に支障はない。 「それじゃ、あたしたちも作戦会議といこうか」  小夜子はそう言って、ポケットから一枚のポラロイド写真を取り出し、テーブルの前に広げる。ソファに座ったまま、正樹はそれを見比べた。  セミロングの髪の女の子が、ほほ笑みながら歩いているのが写っている。正面から写したのが一枚に、右横からが二枚。どれも、目線はカメラから外れていて、写真の隅にはぼやけた緑色のものが写っていた。茂みの枝葉だろう。 「盗撮?」 「細かいこと気にしない。それより、この子だよ」  小夜子と同じ、白船高校の制服を着ている。場所も、この学校の校門らしい。 「誰ですか?」 「佐伯綾子。十七歳。一年二組で出席番号は十七番。野球部のマネージャーで――長山聡君のもと彼女」 「え?」  そういえば、彼女がいるという話を聞いたことがあった。正樹は興味がなかったし、聡ものろけるような性分でないので、どんな人かは知らなかったが。 「もとって、別れたんですか」 「そう。二ヶ月前にね」  二ヶ月前。聡が事故に遭ったのが、三ヶ月前だ。  小夜子はカウンターの後ろの棚を開けて、何かを探していた。そこは過去の朝刊を保存しておく棚で、たしか半年分くらいは残っていたはずだ。  木の棚の閉まる音が響く。小夜子は紙面を確認してから、正樹に渡した。  十二月十四日。 「事故の日のやつ」  記事には、帰宅途中に事故にあったこと、バイクに乗っていた人は死亡したこと、聡が重症を負ったこと、そしていっしょにいた野球部のマネージャーが救急車を呼んだことが書かれていた。  もちろん、知っている。これとは違う新聞を読んだが、大体同じような内容が書かれていたのを覚えている。  今読めば、このマネージャーが綾子であることは察しがつく。だが、正樹には小夜子の意図がわからなかった。 「これが聡の夢とどう関係があるんです? 当時付き合っていたなら、いっしょに帰るくらいしても不自然じゃないし」 「不自然なのは、タイミングよ」  ますますわからない。 「彼女は恋人の事故の場所に居合わせ、そしてそのひと月後に別れている。ここに何か、ある気がしない?」  たしかにそれは思う。寄り添っていた二人が別れる以上、何か理由はあるはずだ。だが、果たして第三者がそれを暴こうとしていいのだろうか。  深く入り込んで、傷つけてしまうことはないのだろうか。  正樹は、自分の胸をつかむ。内ポケットの中にある夢走を、制服の生地がしわになるほど強く握り締めた。 「正樹?」  小夜子が正樹の顔を覗き込んできた。慌ててごまかす。 「それしか、ないんですよね」  正樹は心の中で確かめる。助けるには、入り込むしかないのだ。 「ところで、気になってたんだけど」  小夜子が神妙な顔つきで尋ねてきた。 「なんでキミは、そんなに長山君の夢を助けたがっているの?」  当たり前のことすぎて、質問の意図をつかむのに時間がかかった。正樹は鼻で笑う。 「なんですかいきなり。」 「友達だから? でも、あたしにはもっと何か違う理由があるように見えて。なんというか――」  小夜子は、言葉を探す。 「そう。必死なのよ。まるで彼の夢が消えてしまったら、キミまでがいっしょに消えてしまうような。余裕がないように見える」  正樹は笑い飛ばした。 「何言ってんすか。んなわけがないでしょう。まあ、たしかに必死みたいなのはありますよ。せっかくの夢が消されるのなんて、嫌ですし」  正樹の笑みを見つめる小夜子の目を見つめる。 「俺、夢が見れませんから」 「そう、なんだ」  小夜子があいまいに応える。  笑みを浮かべる正樹とは対照的に、小夜子の表情には憂いがあった。           3  弁当を持ち寄り机を並び替える生徒たちをよそに、正樹は窓際の自分の席で本を読みつづけていた。 「あれ? お前今日は学食じゃねえの?」  視線を本から上げる。リュックを肩から下げた聡が立っていた。後ろには他の男子も数人見える。いつもベランダで食べているメンバーだ。 「今日は用事があってね」  聡が何かを言ってよこす前に、教室の戸のほうから彼を呼ぶ声がした。  どうやら、一年のようである。坊主頭の少年が、遠慮がちに中を窺っている。聡は笑いながら彼に近づき、リュックの中身を取り出した。  それは、グローブだった。 「ありがとうございます。大事にしますね」  礼を述べて、一年は教室を後にした。  正樹は思わず尋ねた。 「あげちゃったのか?」  聡は、不思議そうに首をかしげる。 「ん? ああ、まあな。あいつ、自分のダメになったらしくてよ。どうせ使わないし、俺のをやったんだよ」 「――夢は?」  訊かずにはいられなかった。  聡は一瞬表情を曇らせるが、すぐに乾いた笑みを浮かべた。 「昨日のか。もう、いいんだよ。結局、あれはどうしようもないんだ」  どうしようもない? もうあきらめてしまったというのか。  違和感があった。何かが、食い違っている。  なにが。考えようとしたとき、スピーカーのスイッチが入った。 『一年二組佐伯綾子さん、至急視聴覚室まで来てください。繰り返します……』  一瞬だけだが聡が動揺したのを、正樹は見逃さなかった。 「じゃあ、俺はメシ食うわ」  ごまかすように言って、聡は手を上げる。袖が下がり、腕に結わえているスパイクの紐が見えた。人に教えてもらったおまじないだ、と聡が言っていたことがある。ならば、そこにはどんな願いを込めたのだろう。  正樹は首を振った。多分、これからわかることになる。  正樹は本にしおりをはさみ、立ち上がる。  用事をすませることにした。 「どういうことですか?」  正樹の聞いた佐伯綾子の第一声はそれだった。  視聴覚室といっても、テレビとOHPの装置が置いてある大き目の教室、というだけだ。特別棟三階の隅にあるため、授業で使わない限り誰も近づくことはない。  明らかに警戒した様子で綾子は、教壇の上の小夜子と、新たに入ってきた正樹を見比べた。 「もしかして、あなたたちが」 「そう。あなたを呼び出したの」  綾子の表情が、一気に不審なものに変わった。 「わざわざ、校内放送を使ってですか?」 「ちょっと時間がないからね。確実に呼び出したかったの」  教室で話せる話題でもなかったし、普通に呼び出しても来てくれない可能性もあった。また、聡の反応を見ることができる、という利点もある。勝手に放送室を使うというところだけが不安だったが、思ったよりもわからないものらしい。  小夜子の視線が正樹に向いた。それに気づいた綾子も、正樹を見る。 「俺は、上村正樹。長山聡の、友人だ」  体がこわばったのがわかった。 「聡のことで、相談したいことがあるんだ」  正樹は、聡が病気にかかっていると説明した。心因性で、すぐにでも原因を解明しないと手遅れになる、と。まさか、夢が謎の少女によって消されそうになっている、とは言えなかった。 「本当に病気なら、なんで医者じゃなくてあなたたちが治そうとしてるのよ」  綾子が尋ねる。もっともな反論だった。 「あら。あたし、医者よ」  小夜子の言葉に、正樹は必死に笑いをかみ殺す。ここでこっちが動揺してしまっては、すべて台無しである。 「今は余計な説明は省くけど。とにかく、緊急時ということだけ了解してちょうだい」  小夜子が説明を続ける。 「精神医療においてもっとも大切なのは、治療者とクライアントの間の信頼関係よ。たしかに、守秘義務的観点から言えば、治療者はクライアントである長山君のことを他者に教えてはいけない。でも、事態は急を要する。手段は選んでいられない。だから、友人である上村君に協力してもらうことにしたの」  おちゃらけた先輩ではなく、彼女はひとりの精神科医になりきっていた。なんでこうもすらすらと嘘を思いつくのだろうか。 「病名は、心因性傾眠症。ストレスからの防衛として、ナルコレプシーと似た症状を起こすわ。この症状の特徴は、本来ならストレスに曝されたときに出る汎適応症候群、つまり副腎皮質の――」 「も、もういいです。信じますから」  面食らったように、綾子がさえぎった。話の半分もわかっていない、という顔だ。 「ま、平たく言えば眠り病ね。何も処置をしないでそのまま衰弱死したケースもあるわ」  死、という言葉に綾子は驚いたようだ。真剣な顔で、小夜子を見つめる。 「つまり、私にどうしてほしいんですか?」 「彼との交際関係があったあなたなら、何かストレスとなりうるものに心当たりがあるんじゃないかって」  綾子はしばらくうつむき加減に考えて、ためらいがちに言った。 「み、右腕のことじゃないんですか?」  綾子は視線をあわせずに、髪をかきあげる。その際、制服の袖が下がり手首が見えた。  黒い紐が結わえてあった。 「――違う」  正樹が、思い出したように、しかし確信に満ちた口調で言った。 「聡は、野球ができなくなったから夢に逃げたんじゃない」  綾子が呆然と正樹を見つめる。 「聡は――あなたと別れてしまったから、野球という夢に逃げざるを得なくなったんだ」 「どういう――」  打ち合わせにないことを言い出した正樹に、小夜子のほうが尋ねてくる。 「聡は、まだ佐伯さんのこと、好きなんだ。きっと、野球よりも」 「う、嘘よ!」  綾子が叫んだ。  正樹は首を振る。 「あなたの手首に巻いてあるスパイクの紐。同じものを、聡もしている。今も、ね」  綾子は、はっとした様子で、自分の右の手首を押さえた。何も言えず、わずかに開いた唇を震わせている。 「前に聡は、人に教えられたおまじないだって言ってた。それを教えたのは、佐伯さんじゃないか? なにを願ったかまではわからないし、訊いちゃいけないと思う。けど、これだけはわかる。あなたたちは、まだ――」  正樹は、そこで言葉を切った。  綾子が口元を押さえて、涙を流していた。 「わたしの、せいよ」  しぼり出した、しかしはっきりとした声だった。 「わたしが、彼の夢を奪ったのよ!」  声が、視聴覚室にこだまする。  すべて、納得したかのように、小夜子がため息をつく。いたわる口調で綾子に確かめた。 「あなたをかばったのね。長山君が」  嗚咽をこらえたまま、綾子はうなずく。  事故の現場にいて、救急車を呼んだのは彼女ということになっている。それは間違いではない。だが真実は、バイクに轢かれそうになった綾子を、聡が身代わりになって助けたのだ。  小夜子が綾子に近寄り、彼女の肩を抱いた。 「あなたのせいじゃない――なんて言葉。たくさん聞いてきただろうから、言わない」  優しく、小夜子が綾子の耳にささやく。 「今度はあなたが彼を助ける番じゃない」 「わたしが――?」  顔を上げた綾子に向かって、小夜子がうなずく。 「今、彼を助けられるのはあなたしかいないんだから」 「でも、わたしなんかが……」 「これが、あなたの最後のチャンスよ」  二人は見つめあったまま動かない。小夜子は力強い笑みを浮かべ、涙を流す綾子の言葉を無言で待ちつづけた。  綾子が、涙をぬぐう。 「わたし、やります」           4  閉館時間の五時をすぎ、図書館は地球儀の回る音だけが支配していた。  小夜子がカウンターの上にある地球儀を回して遊んでいた。つまらなそうに、高速で回る世界の縮図を見つめている。  横に座っていた正樹は、読んでいた本を閉じる。読み終わった。著者名は、上村克樹、正樹の祖父である。  今日の日付を返却日欄に書いた図書カードを本に差し込み、カウンターのうえに積んである返却済みの本の一番上に載せる。 「違和感が、三つありました」  唐突に、正樹は言った。 「ひとつ目は、スパイクの紐でした。これは、視聴覚室で彼女の腕にあるのを見て、疑問に思い、そしてすぐに確信しました。二人はまだ好きあっているって」 「うん。次は?」  小夜子が、回る地球儀を見つめながら、正樹を促した。 「今日の昼、聡が自分のグローブを後輩に譲っていたこと」  小夜子が、地球儀を指で止める。 「グローブって、彼が枕の下にしていたやつ? じゃあ、あれは夢を見るためじゃなくて、人にあげるために持ってきてたの?」  おそらく、と正樹は答える。 「問題は、あっさりとグローブをあげてしまったことです。つまり、もう野球には未練がないんじゃないか、と思いました」  最後が、と正樹が言った。 「聡の夢に、佐伯さんが出てこなかった」  夕日が差し込み、木の色で統一された図書館も、赤く見えた。 「最初は、不自然だとは思わなかった。別れたのなら――嫌いになったのなら、夢に出てくるはずもない。だけど、それじゃおかしいんです。野球にもう未練がなくて、好き合っているのなら、彼女の夢を見ないはずがないんです」 「それはね」  小夜子が、地球儀の表面を指でなぞりながら、答えた。 「彼が、本当に彼女のことを好きだからだよ」 「え?」 「本当に大切に思っているのなら、夢になんか見るはずがないんだ」  ふう、とため息を吐き、正樹に視線を向けた。 「お互いに、好きなはずなのに。ちょっとした、気持ちのすれ違いなんだ。佐伯さんは自分のせいで長山君の夢を奪ってしまったと思い込んで、彼のほうも自分の存在が彼女を苦しめているとわかってしまって」  聡は、綾子と別れた。野球と恋人とを同時に失った穴は大きなものだった。夢に逃げないと、自分が壊れてしまうほどに。 「どうすれば……」  正樹の問いに、小夜子は少しだけほほ笑んだ。 「あたしたちは、もう見てるだけでいいんだよ」  ばん、とけたたましい音が鳴り響いた。  扉のほうには、ばつの悪そうな顔をした聡が立っていた。押さえながら扉を閉める習慣は、まだ身についていないらしい。 「俺のこと呼び出してまで、何を話したいんだ?」  怪訝な表情で、聡が正樹に尋ねる。 「いや、話があるのは俺じゃない」  床のきしむ音。  みなが、そちらを向く。  奥の書架の陰から出てきたのは、綾子だった。ぐっと手を握り締め、まっすぐに聡を見据えている。 「綾子……」  聡は正樹をにらみつけてくる。 「どういう――」 「上村先輩には、わたしから頼んだんです。話したいことがあるって」  聡は舌を打ち、ぞんざいに言い放った。 「謝るなら、聞かないからな。俺は、今だって後悔してない」 「……わかりました」 「え?」  挑むような顔つきだった綾子の表情は、柔らかくほほ笑んでいた。 「わたしは、もう事故のことも、腕のことも気にしません。ただ、聡さんの優しさだけを受け取っておくことにします」  責任を放棄したかのような発言。だが、それでいいのだ。かばってもらった者に、何の責任もない。  聡は、何も言えずに綾子を見つめる。 「ありがとう」  正樹は、このときほど純粋な礼の言葉を聞いたことがなかった。 「ただ、それだけ伝えたかったんです」  聡の横をすり抜け、綾子は扉に手をかける。  その手を、聡がつかんだ。  右の腕で。 「待ってくれ」  握力などろくにない腕を震わせ、綾子を引き止める。 「おいて、いかないでくれ」 「聡さん……」 「怖かったんだ。右腕が使えないことよりも、お前が離れていくことが。だから、俺を――」  綾子は、ゆっくりとうなずき、扉から手を離す。 「あや――」  聡が、崩れた。  慌てて、その体を綾子が支える。だがこらえきれずに、一緒に倒れてしまった。 「さ、聡さん? 聡さん!」  床に横にして、彼の名を呼ぶ。だが、力なく横たわる聡は、目覚める気配はなかった。  小夜子が駆け寄り、聡の脈拍と呼吸、そして目を確認する。 「佐伯さん、誰か先生、呼んできて」 「え、でも……」 「早く!」  小夜子の剣幕に、ためらいながらも図書館を出て行った。  正樹が、おそるおそる尋ねる。 「先輩、これって――」 「レム睡眠に入ってる。つまり、夢を見てる」 「なんで! 解決しかかってたじゃ――」 「ギリギリ、アウトってところかしら」  小夜子は正樹を見上げる。  正樹は、うなずいた。  夢走を引き抜く。  その手に、ためらいはなかった。  膨大な人数の声が聞こえた。 「なっ」  正樹はスタジアムを見回す。客席は人々で埋め尽くされている。外野席から演奏される応援歌にあわせてメガホンを振る。狭い席に縮こまりながら弁当を食べる男や、ビールの売り子さんまでいた。  これが、一日前と同じ球場なのだろうか。 「どうやら間に合わなかったようね」  すぐ後ろに、夏雪がいた。黒い着物も、しました表情も昨日のままだ。 「間に合わなかった?」  正樹は怒鳴りつける。 「違う、あれはお前がやったんだ!」 「私が?」 「もう少しで解決しそうになって、お前は焦った。だから、一日という期限を早めて、解決を妨害したんだ」  客席に座る周辺の人々が、いぶかしげな表情で大声をあげる正樹のほうを見る。  夏雪は首をかしげる。 「なぜ私がそんなことをしなきゃいけないの?」 「お前が、夢食いだからだ」  夏雪は天井を見上げ、何も言わない。 「起きてから本で調べてみたんだ。俺以外の人間が、そう簡単に夢の中に入れるはずがない、って思ってな。そしたら、書いてあった。夢食いって化け物がいるって」  古来から存在する、人の夢を食うという妖怪のようなものらしい。西洋ではサキュバス、日本では獏と呼ばれるもののがその一部だ。  夢というのは、眠ったときに見るものを通して見る将来の希望のことである。夢食いに夢を食われると、自分の将来の夢を失うことになる。 「……そうよ」  夏雪がつぶやくように言った。 「たしかに、私は夢食いだわ」  正樹の目を見つめた。冷たい、氷の視線だった。 「それで、あなたはどうするの?」 「倒す」  正樹は右手を真横に突き出す。  そこに、一本の日本刀の拵えが出現する。黒塗りの鞘に金色の鍔と柄頭は、一メートル以上はあるだろうか。長さからして、夢走とは違った。 「じいちゃんが言ってた。ムソウは二つの字を持つ。夢を走る『夢走』と――」  鞘を引き抜いて、ベルトの間に差す。  振り上げた刃には、夢走と同じまっすぐの刃文が、球場の強いライトに白く輝いた。 「夢を葬る、『夢葬』」  正樹は上段に刀を構える。正樹に剣術の心得はなかったが、なぜか体が自然に動いた。  周囲がどよめく。正樹と夏雪を中心に、丸く空間が生まれた。 「夢葬の話なら聞き及んでいるわ。あらゆる夢、そして夢食いを消し去ることができる、私たちの天敵」  夏雪に慌てた様子はない。口調や表情からは、余裕すら感じさせた。 「けど、私なんかに構っていていいの? 御覧なさい、この夢を。舞台の詳細化が際立っている。いつ夢と現実の逆転が起こっても不思議じゃないわ」  客席の興奮が熱気となって、肌に感じる。空調も効いているのか、冬の制服では汗ばむほどだった。  もはや、現実と変わらない。 「夢と逆転すれば、彼の意識体は永遠にこの夢の中に閉じ込められることになる。そして、夢の中の彼のほうが外に出て行く」  背中に垂れる汗の感覚が、ひどく不快だった。 「つまり、彼は夢食いになる」 「嘘だ――」  その声に、力はなかった。 「信じなくてもいいけど、友達が化け物になってからじゃ遅いわよ」  そう言い残して、夏雪が客席の下に向かって跳んだ。  数メートルはある跳躍だ。長い袂をはためかせながら、座席の背もたれを足場して次々と蹴り、客席を降りていく。人々の間を器用にすり抜け、誰ともぶつかっていない。 「く――」  正樹も追いかける。階段を三段飛ばしに下りるが、遅い。正樹が最前列のフェンスの前に着いたときには、夏雪はもうグラウンドに降り立ち、マウンドに向かっていた。 「くそっ」  フェンスに向かって夢葬を振るう。  斜めに切り裂かれ、乾いて枯れるように断面は外側に広がる。ちょうど正樹の体が通るくらいの長方形の穴が空いた。  飛び降りる。  夏雪はもう、マウンドの聡の横にいた。 「待て!」  走り出そうとした正樹だが、違和感を覚えた。  音が聞こえない。  グラウンドから見上げれば数万はいる観客はたしかに存在している。だが、歓声も応援かも演奏も、何も聞こえない。自分の足音が聞こえるだけだ。  そして、何も動いていなかった。メガホンを振り上げた観客も、球を投げた姿勢のままの聡も。投げられた球さえ、宙に停止している。 「何が起こってるんだ?」  夢葬を握りなおし、夏雪に近づいていく。 「来る」  彼女が言った。視線は、バックスクリーンの方向に向けられている。  ぐらりと地面が揺れ、正樹はよろける。  センターの人工芝が、大きく四つに割れた。地面の下には、黒い水のようなものが渦巻いているのが見える。光を一切反射しない水に、正樹は薄ら寒いものを感じる。  そこから、白い塊が飛び出してきた。  二個のタイヤが前後につき、エンジンに似た機構もあるのだが、フレームにあたる部分が白くただれた肉で構成されている。肉は大きく肥大していて、青白い血管が縦横に走り、全身に赤い目が無秩序についている。  高さは二メートルで、長さは五メートルはあるか。生物を融合させたバイクだった。 「悪夢の具象……というより、模しただけかしら。どちらにしても、ずいぶん肥えたこと」  夏雪は静かにつぶやく。表情には、何の変化も見出せない。  正樹のほうを向いた。 「構えなさい。来るわ」  言い終わる前に、爆音がとどろいた。  バイクが走り出す。芝をえぐりながら加速し、こちらに向かってくる。  二人の間をすり抜ける際、肉の表面から、いくつもの触手が放射状に突き出してきた。 「なっ」  槍のように伸び、正樹と夏雪のほうに向かって、襲いかかる。  正樹はとっさに身をひねり、かわす。二本目以降は、夢葬で払い落とした。斬らずとも、当てるだけで触手は枯れ、消えてしまう。  夏雪のほうは、何本もの一斉攻撃の隙間を風のようにかいくぐっている。服にすらかすらせていなかった。  すれ違ったバイクは、一塁側ベンチの前でUターンしようとしている。 「なんなんだよ、あいつは!」 「簡潔に言うなら、敵」 「はあ?」 「倒さないと私たちもこの夢も、ただじゃすまないわよ」  先の攻撃で、フェンスが破られていた。動かないままの人が、何人か倒れている。 「お前の仲間じゃないのか」 「寝言は夢の外で言ってほしいわね」  舌打ちをしつつ、正樹は夢葬を構えなおす。これを本体に叩き込めばいい。夢の中だからか、動体視力も反射神経も上がっている。敵の攻撃は、見切れた。いけるはずだ。  回り終えた敵が、再び迫ってきた。  正樹も走り、迎え撃つ。正面よりも、側面から向かった。  バイクの胴体からいくつもの槍が投射された。正樹はその隙間を縫い、さらに近づく。  白い胴体をなぎ払おうとした。 「――っ」  正樹の体が、くの字に折れる。  触手が、正樹の腹にめり込んでいた。吹き飛ばされ、数メートル地面を転がる。  動きが止まった正樹に、他の槍が穂先を向ける。  影が動いた。  正樹の体は浮かび上がり、間一髪、槍は空を貫く。 「ここはたしかに夢だけど、死んだら戻れないわよ」  夏雪だった。正樹の襟首をつかんで、跳躍していた。  どさりと、正樹は尻から地面に落ちる。 「痛みも苦しみも、現実と何ら変わらないわ」  腹を押さえながら、正樹はしきりに咳き込んでいた。夏雪はその背中をそっとなでる。  動じていない夏雪に、正樹はうめくように言った。 「――ずいぶん気楽そうだな」 「危機感ならあるわよ。私にはあいつを倒す力がない。でも、必要以上に焦っても仕方がないでしょう」  たしかに、とつぶやいて正樹は立ち上がった。腹部の痛みが引いている。  けたたましいエンジン音を鳴らしながら、バイクが迫ってきた。  正樹は、その正面に立ちはだかる。不思議と、恐怖は感じない。数秒後には、ひき殺される位置に立っているというのに。今の一撃で頭まで痺れたのか、それとも夢の中だとたかをくくっているのか。自分でもわからなかった。  ただ、友人の夢を荒らしまわる、敵が許せない。  高速で迫り来る車体と、衝突する瞬間――。  正樹は、夢葬の刃を突き出した。  ヘッドライトを貫かれたバイクは、スピードを載せたまま正樹を弾き飛ばそうとした。だが、刃の半ば部分まで食い込んだ瞬間、車体の中心からバイクの姿は消えていく。  正樹にまで、部品ひとつ届かない。  激しい風だけが正樹の髪を後ろに流した。  風が収まるのを待ち、正樹は刃を見つめた。傷ひとつついてはいない。  横から攻撃しようとするからいけなかった。体そのものを砲台と捉えるなら、その面積の少ない正面から攻めたほうが、反撃される可能性は少なくなる。  夏雪の姿を探すが、後ろにはいなくなっていた。  はっとして、聡のほうを見る。  夏雪が、聡の体に手を当てていた。 「ま、待てよ!」  声に応じて、夏雪が正樹のほうに振り向いた。腹が立つほど平然と、訊き返してくる。 「なに?」 「せっかく助けたんだぞ!」  夏雪は肩をすくめる。 「たしかに化身を倒してくれたことには感謝するわ。けど、それとこれとは話が別」  聡に当てた腕に、力がこもった。 「やめろ!」  ユニフォームを着て、投球モーションのまま停止した聡。  それが、消えた。           5  中庭のベンチによりかかり、正樹は青い空を見上げていた。  どこかから楽しげにはしゃぐ声が聞こえてくる。こんな天気のよい日だ、外で弁当でも食べているのかもしれない。  空を、小夜子の顔がさえぎった。 「どうした、元気ないねぇ」  あいかわらずの笑顔を浮かべて、小夜子は正樹の額をつっつく。それを振り払うことすらせずに、正樹はぼんやりと小夜子の顔を見上げる。。  あきれたように、小夜子が尋ねてきた。 「もしかして、まだ引きずってるの?」  目覚めたあとの聡は、綾子に支えられながら帰っていった。今朝も登校はしてきたが、起きたまま夢を見ているかのように、ぼんやりとしていた。  ため息をついて、小夜子が正樹の隣に座った。 「図書館の噂話の由来って、知ってる?」  いきなり訊いてきた。正樹は小夜子を見る。ベンチの背もたれによりかかり、空を見上げていた。 「昔――明治のころかな。あそこはお金持ちの屋敷だったんだけど。そこの娘さんが、病気でね。外に出られなかった。余命幾ばくもない娘を不憫に思って、父親はひとりの遊女を彼女に買い与えたんだ」 「遊女……ですか?」  そういう状況で遊女が出てくる話は、珍しい。しかも、娘にである。 「まだ、ほんの子供みたいな子だったけど。その子には、人が本当に望む夢を見せる、という力があった。父親は、それでせめて夢だけでも、と思ったんだろうね」  そのまま、図書館の噂だった。 「けど、その子の力はちょっと強すぎてね。邯鄲の夢って、知ってる? 栄華を極める夢を見たけど、それは粟飯が炊ける短い間に見た夢だったって、中国の話。それと同じ。一晩で、一生分の夢を見てしまう。しかも、自分の望む、最高の人生を」 「……悲惨ですね」 「うん。遊郭で彼女と寝た客のほとんどが、世の儚さを嘆いて自殺しちゃったみたい」  目覚めたとき、その人は何を思うのだろうか。最高の人生を体験してしまったあと、現実に戻される。正樹には、とても想像できなかった。 「つまり、夢なんか見てたって、しょうがないってこと。いつか目覚めるんだし、目覚めなければいけない。長山君はたしかに夢を失ってしまったけど、こっちに戻ってこれたんだ。喜ぶべきだよ」  そうだろうか、と正樹は思う。  たしかに、最悪は避けられた。だが、最良でもない。夢が消えるということ。それは、悲しいことだと思う。 「そうそう。それでさ。さっきそこの駄菓子屋さんで――」  別の話を始めようとする小夜子を、正樹は慌ててさえぎった。 「ま、待ってくださいよ。話、終わりですか?」  首をかしげる小夜子に、正樹は言った。 「金持ちの娘のところに連れて行かれたんでしょ。そのあと、どうなったんですか?」 「あー。うーん、そうだね」  小夜子の口元に、いたずらっぽい笑みが浮かぶ。 「うん、元気になったみたいだね」 「え?」  正樹は、聡のことを忘れていたことに気づいた。  小夜子が満足げに笑っていた。 「ま。話はまた今度。続きを待つのも、物語の楽しみ方のひとつだよ」  そのかわり、と言って小夜子が立ち上がり、スカートのポケットに手を突っ込む。  プラスチック製の小さな容器を取り出す。ふたを開け、付属のストローを中につける。ストローを小夜子が吹くと、さまざまな大きさの玉が生み出され、宙に舞った。 「おー、すごいすごい」  シャボン玉セットだった。  数々のシャボン玉にはしゃぐ小夜子を見て、正樹は苦笑する。 「子供みたいですよ」 「オバさん臭い、といわれるよりはうれしいな」  そう言って、小夜子はストローを吹く。  シャボン玉は陽光に照らされ、透明な表面に虹が浮かび上がる。風に運ばれ飛んでいくものもあれば、地面に落ちて割れてしまうものもある。 「きれいだねえ」 「まあ、そうっすね」  今度は、ゆっくりと息を送り込んだ。  シャボン玉は小夜子の顔くらいの大きさに膨らむ。だが、ストローから離れると、すぐに破裂してしまった。 「うまくいかないもんだ」  顔を飛びちったシャボン液にてからせて、小夜子はまたストローを吹く。  突風が吹く。  驚いた小夜子は、シャボン液の容器を落としてしまう。透明な液が、芝生の上にこぼれてしまった。  だが、小夜子は上を見ている。  いくつものシャボン玉が、校舎よりも高く飛び上がっていた。意地の悪い春風に乗って、大きな空へと上っていく。  割れることなく、シャボン玉は空のかなたへ、上っていってしまった。         第二話           1  正樹は図書館の鍵を手に持ち、中庭の道を歩いていた。  遠くに野球部の掛け声が聞こえる。朝練でグラウンドを走っているのだろう。  正樹は小さくため息をつく。  と、いきなり背後から目をふさがれた。 「だーれだ」  一瞬の間。  正樹はそのまま歩き出した。 「ちょ、ちょっと。答えなさいよ、ふーあむあい?」 「あのですね、先輩……」 「お、正解。おめでとー」  拍手する小夜子に、振り向いた正樹はあきれたような視線を送る。 「いまどき、バカップルだってそんなことしませんよ」 「う……もしかして今、オバさんくさいって言われた?」  がっくりと、肩を落とす。 「ふーん、いいですよー。どうせあたしゃオバさんですよ。お肌の張りもなくなってきたし、携帯電話だって持ってないし」 「いや、俺とひとつしか違わないじゃないですか」  あまりの落ち込みように、正樹のほうが慌てた。 「いいんだよ、フォローなんかしてくれなくても。どうせ『携帯電話? ダッセェ。ケータイって言えよ、オバさん』とか思ってるんでしょ」 「いえ。『ポケベルでも使ってろよ』、とか思ってます」  苦笑しながら、正樹が切り返した。  むすっとしていた小夜子は、あっけに取られる。そして、笑い声をあげた。 「なんだ、冗談言えるほど元気になったんじゃない」 「……そうですね」  あれから三日が経った。聡もすっかり立ち直っている。もともと、綾子を失った反動から夢を求めてしまっただけだ。綾子が戻った今、心配することはないのかもしれない。  それでも、正樹の表情は晴れきらなかった。 「そういえば先輩はこんな朝っぱらから何してるんですか? 三年生はもう自由登校なのに」  小夜子は顔をうつむかせて、ぽつりと、こぼす。 「キミの顔が見たいから」  正樹は声も出せずに、まばたきを繰り返す。  ぶっ、と吹き出したのは、小夜子だった。 「もー、冗談よお。やだぁ、まーくん顔あかーい」  そう言われると、ますます顔が熱くなってきてしまう。何も言い返せず、正樹は足を速め、小夜子に顔を見られないようにした。 「ま、思い出作りかね。もうすぐ、いなくなっちゃうから」  振り返ると、小夜子はスカートのポケットに手を突っ込んで、校舎のほうを見上げていた。朝日の陰になっているそこには、今は誰も入っていない。  この人は、あとひと月で卒業なのだ。 「――先輩」 「だから、今のうちにキミをからかい倒すわけだけど」 「……そうすか」  そうこうしているうちに、図書館に着いた。朝日を受けて、白い木造の屋敷は輝いて見えた。  鍵を差し込もうとして、正樹は首をかしげる。 「あれ?」  鍵が穴に入らない。角度を調整してみるが、こすれあう感触ばかりが返ってくる。 「これ、ダミーだ」 「ダミー?」 「夕方の当番が、職員室に偽物の鍵を返しておいて、夜に忍び込むときとかに使うんです。俺も、この間はそうしました」 「へえ。こざかしいことするんだねえ」  正樹は、小夜子の顔をまじまじと見つめた。 「そういえば、うやむやになってましたけど。先輩はどうやって図書館に入ったんすか?」  小夜子は視線を外し、小さな声で答える。 「ああ……あれは、ちょっと針金でちょこちょこっと……」 「犯罪じゃないっすか!」 「キミだって同じじゃんか。汚職よ、汚職? まだピッキングのほうがいさぎよいと思わない?」  無駄な議論だった。 「とにかく、中の人が開けてくれるのを待つしか――って、何してるんすか?」  小夜子はドアの前に座り込み、鍵穴を覗き込んでいる。  スカートのポケットから二本のわかった形の針金を取り出す。 「ちょ、先輩」  慌てて止めようとした。  かちり。  所要時間三秒。 「ちょっと手間取っちゃったかな」 「熟達してますね……」 「褒めても何もでないよ」 「皮肉ってるんですよ」  小夜子はドアを開き、さっさと中に入っていってしまう。  朝いちばんの図書館は、木とインクが微妙に混じりあった香りがする。 「誰もいないのかな」  かばんをカウンターに置きながら、正樹は見渡す。中から鍵をかけているのだと思ったのだが。外に出ているのだろうか。  そのとき、小夜子の声が響いた。 「ねえ、正樹!」  書架スペースの奥から、手招きしている。彼女には珍しく、焦った様子だ。  正樹は小走りに彼女のところに向かう。  そして、それを見た。  二人の少女だった。同じ顔、同じ制服。左右対称に、お互いにもたれかかって目を閉じている。お互いの右手と左手を握り締め、その上から赤い縄できつく結びこんでいた。  朝日の差し込む図書館の奥でつながる、ひとつの顔と二つの体。正樹にはそれが二人でなく、ひとつの奇形の生物に見えた。 「心中……かな?」  小夜子がつぶやく。赤い縄でつないだ手。少し時代錯誤な気もするが、たしかにそう見るのが正しいだろう。  小夜子は、左の少女から脈と息を確かめていく。 「一応、両方とも生きてるみたい」 「……そうか」  ただの夢見客だったらしい。よく見ると、その顔は委員会のときに見たことがあった。それが右と左のどっちか、見分けはつかないが。 「双子、ですよね」 「当たり前じゃない。クローンだとでも言うの?」  小夜子は左のほうの頬を叩いた。 「おーい。朝ですよー。起きないと正樹に襲われちゃうぞ?」 「襲いませんよ」 「ああ、でも二人とも寝顔かわいいなあ。あたしがキスしたいかも」  艶を帯びた髪は肩まで伸びている。二人とも頭をあわせるようにして眠っているので、二人の髪が混ざり合って、ひとつのものにも見えた。  小夜子の表情がこわばる。  正樹の背に、嫌な感覚が走った。 「起きないんだけど?」  今度は、右の少女の肩を揺さぶる。やはり、目覚めない。  次に眼球の動きを見た。 「動いてる」  急速眼球運動の確認。二人はレム睡眠の状態にある。  つまり、夢を見ている。  正樹は舌打ちをして、懐から短刀――夢走を取り出した。  小夜子は、神妙な顔つきで正樹を見上げる。 「行くの?」 「はい」  正樹の答えは短い。 「こういうのも何だけど……二人を助ける義理はキミにはないんだよ。自分から、厄介ごとを背負う必要はない」 「けど、放っておくのは嫌なんです。見なかったことにしても、この人たちは夢を見つづけて――夢食いになる」  夢走の鞘を引き抜いた。夢と現をつなぐ刃が、朝日に淡く輝く。  小夜子はゆっくりうなずき、床に膝をついた。 「わかった。行ってこい。膝は貸してやる」 「……ありがとうございます」  正樹は左の少女の前にかがみこみ、彼女の額を刃でそっとなぞった。白い光がひと筋生まれる。  正樹は、夢の中に入る。  カラカラと、何かが回る音が聞こえた。  テレビで聞いたことがある。それは、映写機のまわる音だった。  古い映画館だった。座席は二十列ほどの、小さな劇場はがらんとしている。 「劇場化、ってやつか」  スクリーンには、一人の少女が映っていた。さっきの双子のどちらかだ。モノクロの無声映画で、フィルムの状態も悪いのか映像も荒い。白黒というより、茶黒と言ったほうが近かった。  これが彼女の夢だろう。  どうやら、学園生活を映したものらしい。制服を着た少女が、友人たちと談笑をしながら弁当を食べていた。楽しそうにしているが、片方しか出ていない。  もう片方はどうしたのだろう。  客席には、二人の客がいた。いちばん前の中央の席に一人。左隅のいちばん後ろに、もう一人。  正樹は最前列にまで歩いて、顔を確認する。  後ろの席の少女も、前の席の少女も同じだった。 「二人で、同じ夢を?」  双子は不思議な感覚でつながっているものだと聞いたことがあった。二人で同じ夢を見ることも、あるかもしれない。  正樹はスクリーンを見上げる。  友人たちと笑い合う少女。やはり、それがどちらのほうか、見分けがつかなかった。 「おい、起きろ」  とりあえず、横にいた少女を揺り動かす。半眼でスクリーンを見ていた少女は、ぼんやりと正樹のほうに向いた。 「誰ですか?」 「誰でもいい。起きる時間だ」 「はあい」  眠たそうにつぶやくと、彼女の体は消えていく。  次だ、と思って座席の奥を見る。  誰もいない。  客席にいるのは、正樹だけになっていた。  目を覚ますと、やはり小夜子の顔が見えた。 「お、早かったね」 「起こすだけでしたから」 「ざんねん。いろいろやろうとしたのに」  いろいろって何ですか、と訊こうとしたが、長くなりそうなのと結局無駄な気がしたので、やめる。  起き上がり、まだ眠っている少女を起こすことにする。まず、正樹から見て右のほうの少女を揺さぶった。 「ん……え?」  すぐに目覚める。視線を正樹と合わせ、 「イヤーーッ!」  悲鳴をあげた。 「ちょ――待て! 俺はただ」  正樹の視界が大きくぶれる。床に崩れながら、その声を聞いた。 「何してるのよ!」  顔を上げると、左のほうの少女も目覚めていた。右手を振り下ろした形で。  正樹は、左頬が熱を帯びてきたのを感じた。平手を食らわされたらしい。 「お、俺はだな――」 「現行犯のくせに、しらを切るつもり? ああ、大丈夫だからね」  左に泣きつく右。それをなぐさめる左。わかりやすい構図だが、正樹にはやはりどこか混乱して見える。  正樹を警戒しつつ、左の少女が手の縄を解こうとする。だが、固く結んでいるのもあり、右手一本ではうまくいかない。  すぐに右の子も気づいて、空いている左手で手伝った。  まるで一人が作業をするかのように――あるいはそれ以上の手際のよさで、縄を解いてしまった。 「行くわよ、明海」 「う、うん」  二人は立ち上がり、手をつないだまま書架の陰に去っていった。 「思い出した。長谷川姉妹だ」  双子が行った書架の反対側から、小夜子が顔を覗かせた。いつの間にか、逃げ出していたらしい。 「美人の仲良し双子がいるって聞いてたけど。そうか、あの子達か」  小夜子は一人でうなずく。  正樹は、熱を帯び始めてきた左頬を、そっとなでた。           2  正樹は昼食のカレーうどんの盆を手に、椅子に腰掛けた。  二百席はある食堂は半分も埋まっていない。混んでいたことはないが、いつもより少ない気がする。  小夜子が入ってくるのが見えた。正樹の姿を見つけ、近づいてくる。 「ひとり? さみしーんだぁ」  からかうような声。 「みんな弁当派なんですよ」 「ん? でも他の人らは、弁当の人も連れ立って来てるみたいだけど?」  五人以上で固まっているグループがいくつか見えた。そのうちの、半分以上は弁当や購買のパンを持ってきている。そして、談笑を交えながら食べていた。 「そうですよ。俺はさびしい人間ですよ」  正樹は、うどんを音を立てて食べた。 「よしよし。それじゃ、そんなキミに小夜子おねーさんがいいものを上げよう」  小夜子は正樹の向かいの席に座り、一冊のノートを制服の裾から取り出した。じゃじゃーん、と自分で効果音をつけて。  赤い大学ノートに、太字マジックで『おねーさんのヒミツノート』と書いてあった。 「長谷川姉妹のこと」 「調べたんですか」 「時間だけはあるからね」  小夜子はぱらぱらとめくり、まん中ほどのページで止める。 「まず、基本から。姉の夕貴と妹の明海の一卵性双生児。ともに一年生で、姉は一組、妹は七組。姉の夕貴は、正樹と同じ図書委員だね」  ページをめくり、小夜子は続ける。 「ほんと、仲がいいわ。中学までは同じクラスが続いたせいもあって、一人でいるところを見たことがないって。片方が風邪を引いたとしても、もう片方まで休んじゃうとか。でも、高校に入ったら別のクラスになっちゃって。相当ごねたみたいだけど、ダメだったみたいね」 「そんなことしたんですか」 「今でも、休み時間のたびに会いに行ってるみたいよ。息継ぎ、って揶揄されてるみたい。ちなみに、二人が並ぶ際の定位置は、右が姉で左が妹。これは利き腕が違うからだそうで。姉が右利きで、妹が左利き――つまり、利き腕とは逆のほうで手を握っているわけ」  正樹は、ため息をつく。話だけで、お腹がいっぱいになる。 「まるで恋人同士ですね」 「恋人? それ以上よ」  ノートを閉じて、服の下に戻した。かばんとか持ち歩けばいいのに。 「じゃあ、俺が見たあの夢はなんだったんだろう」  スクリーンに映っていたのは、一人だけだった。常にいっしょにいる二人なのに、一人の夢を見る。 「実は、心の中では嫌がって一人になりたがってるとか」  正樹の言葉に、小夜子は首を振った。 「でも、キミの話だと二人は同じ夢を見ていたんだよね? 二人とも一人になりたがることを望んでいたら、普通別れるよ」 「そう、ですよね」 「むしろ……逆じゃないかな」  正樹は首をかしげる。 「比翼連理、ってやつだよ。比翼の鳥、連理の枝。好きな者どうし、ひとつになることを望む」  正樹は図書館で眠る姉妹の姿を思い出していた。体をつなぎ、同じ夢を見る。一瞬だけ二人がひとつに見えたが、それは錯覚ではなかったのかもしれない。 「でも、残念だけど叶えることはできない。このまま、叶わぬ夢を望みつづければ――」 「夢食いになる、か」  つぶやきながら、正樹は考える。どうすれば、その夢を変えることができるか。  もっとも手っ取り早いのが、二人の仲を裂くことだ。嫌いあうようになれば、ひとつになりたいなどと思うことはなくなるだろう。 (だけど――)  それも、嫌な話だった。  正樹は、どんぶりを持ち上げ、一気に飲み干そうとする。  小夜子が感慨深げにつぶやく。 「それにしても、これが男女であれば、セックスによって擬似的に結合して満足することができたのに……って、なにむせてるの?」  小夜子は、カレーうどんを吹き出した正樹を、不思議そうに見下ろした。机につっぷして、全身で咳き込んでいる。幸い、カレーは大して飛び散っていなかった。 「あ、なになに? もしかしてそういう話、弱いの? うわあ、かわいー」  小夜子は身をくねらせて、満面の笑みを浮かべる。咳き込む正樹に、「かわいー」を連呼した。 「ち、違いますって! たまたま、気管にカレーが――」  まだ息ができないのか、苦しそうに正樹は反論する。だが、顔が赤い。小夜子はますます喜んだ。 「別にごまかさなくたっていいじゃない。恥じらいは美徳だぞ。まーくん」 「まーくん言うなっ」  食堂に、正樹の声がむなしく響き渡る。 「兄さん」  凛とした声。正樹と小夜子は、その方向を向いた。  小柄な少女だった。たしなめるような目つきで、正樹のほうを見つめている。 「唯……」  正樹が彼女の名前をもらした。 「人前で騒ぐのは、あまりよろしくないと思います」  彼女は注意の言葉を述べながら、持っていた布巾で飛び散ったカレーを拭き取っていく。  笑顔から驚き顔に変わっていた小夜子は、正樹と唯という少女を見比べた。 「い、妹さん?」 「はい。上村唯と申します」  布巾から手を離し、ふかぶかとお辞儀をする。手を重ねる仕草などは、高級旅館の女将を思い起こさせた。 「いつも、兄がご迷惑をおかけしております」  慌てて小夜子も立ち上がり、頭を下げて応じた。 「い、いえ。こちらこそ」  小夜子が頭を上げてから、唯も面を上げた。  背は低いが、無表情で見あげる様には独特の迫力があった。 「失礼を承知で申し上げさせていただきますが、あなたも公衆の場で性的な言葉を発するのは、よろしくないですよ」 「ご、ごめんなさい」  唯はテーブルを拭いた布巾と、食べ終わった正樹のどんぶりのお盆を持って、一礼する。 「それでは、失礼いたします」  きびすを返し、去っていった。  小夜子は、糸が切れたように椅子に落ちる。唯の背中を見送りながら、つぶやいた。 「しっかりした妹さんだねえ」 「……まあ」  正樹の表情は、苦いものだった。妹を知人に見られて恥ずかしいとか、そういう類のものではない。  唯はどんぶりを返却カウンターに戻し、食堂を出て行く。出口のところで、友達らしい二人の女の子と合流していった。 「先輩」  唯の姿が見えなくなってから、正樹は口を開く。 「――夢、助けましょう」 「う、うん」  小夜子は戸惑いながらうなずいた。  正樹の顔は、それほど真剣なものになっていた。           3  夕貴と明海は、手をつないで登校してきた。  コートもマフラーも、白い息を吐き出すタイミングまで同じ。踏み出す足も、息の合った二人三脚のように左右対称にそろっていた。こころなしか表情だけは、姉は厳しく、妹は朗らかな印象がなくもない。  昇降口に入ったところで、初めて二人は手を離す。 「じゃあ、お姉ちゃん。靴換えてくるから」  明海がいちいち口に出してから、小走りで自分の下駄箱に向かう。一組と七組の下駄箱はふたつしか離れていない。それさえも、ひどくもどかしいようだ。 「あれ?」  自分の下駄箱を開けたところで、明海は何かに気づいた。  中から、一通の白い封筒を取り出す。手のひらに隠れるほどの大きさだ。裏返して確めるが、宛名は書いていなかった。  中身から、便箋を取り出す。一枚だけらしい。その場で、さっと目を通す。 「どうしたの?」  上履きに履き替えた夕貴が、下駄箱の陰から現れた。  明海は戸惑った表情で、姉に手紙を見せる。 「どうしよう、お姉ちゃん!」  夕貴も手紙を読む。すると、いたずらっぽい笑顔を浮かべて、妹に手紙を返した。 「よかったじゃない、行ってみなさいよ」 「もう、お姉ちゃんってば! 真面目に答えてよ」  その様子を下駄箱の陰から、二人が見つめていた。  小夜子と正樹である。 「噂にたがわぬラブラブぶりですなあ」  小夜子がにやりとしながら言った。 「なんですか、あの手紙?」 「何って……下駄箱に手紙といったら、恋文に決まってるでしょうが」  なぜ、恋文なのだろうか。  小夜子が「作戦なら任せておきなさい」と自信たっぷりに答えた姿を思い出す。そして、時間だけを指定されて、ここに来たのだ。 「彼女たちは、二人でひとつの自己を形成しているといえる。だから肉体や精神までもひとつになろうとしてしまうのよ。なら、二人がそれぞれ自己を独立して形成すれば、問題は解決すると思わない?」  難しいことを言っているが、くっつきすぎている二人を自立させる、ということだろう。 「なるほど。けど、それとラブレターとどう関係があるんですか」 「いい? 自己の確立とは、他者に認められることで得られるのよ。人に『一人』として想いを告げられることって、確認の評価としてこれ以上になくいいものじゃない?」 「つまり、姉ではなく自分が告白されたということで、いい意味での差を意識する、ということですか」  そういうこと、と小夜子はうなずく。 「ちなみに、これが原文ね」  差し出された紙を正樹は見る。一字一字に鋭さがあり、意外と達筆だ。 『長谷川明海さん  突然のお手紙、ご迷惑ではなかったでしょうか。  最初に出会ったそのときから、僕はあなたのことばかり考えてしまっています。このままでは、胸が張り裂けてしまいます。ぜひ一度お話したいので、今日の昼休みに体育館の裏に、明海さんひとりで来ていただけないでしょうか。  お待ちしています。               上村正樹』 「って俺かよ!」 「うん。あたしじゃダメだし」  さも当然のように小夜子が答えた。 「でも、俺だってダメでしょ。第一、あの子とは昨日初めて会っただけだし」 「だから、書いてあるじゃん。『最初に出会ったそのときから、僕はあなたのことばかり考えてしまっています』って。二人の夢をどうするか、たくさん考えてたでしょ?」  たしかに、嘘は書いていない。 「けど――」 「くどいな。やるんじゃなかったの? 男なら腹くくって、口説き文句のひとつでも考えてみなさい」  びしっと言い切られる。正樹は返す言葉なく、うなずくしかなかった。  正樹はうなだれながら、体育館の裏にある常緑樹の下に立っていた。  やはり、乗せられた気がする。  第一、勝手に計画を進めておいて、「あとは任せた」というのは無責任ではないだろうか。 「ほら、どうしたの。シャキっとしなさい」  木の上から小夜子が檄を飛ばしてきた。枝の一本に腰掛けている。スカートのくせに、よく木に登ったりしたものだ。 「本当に来るんですかねえ?」  来ないことも考えられるが、あれほど仲がいい姉妹だ。二人で来る可能性もあった。 「そのときは……そのときよ。それより、ちゃんと考えてあるの?」 「それは……」  言葉を詰まらせる。  小夜子が落胆の表情を浮かべた。 「ちょ……ああ、もう。考えておけって言ったじゃないの」  どんどんと、拳で木の幹を叩いて非難してきた。 「考えは、しましたよ。でも、好きじゃない人に嘘で好きだって言うのは、やっぱり――」 「なら今から好きになりなさいよ。彼女、顔も悪くないし。ほら、男の子ってああいう甘えてきそうなタイプが好きなんじゃないの?」 「そんなむちゃくちゃな……」  正樹がため息を吐いたそのとき。 「げ」  体育館の角から、彼女がやってきた。  一人、である。 「あ、来たんだね。もう、こうなったらアドリブで何とかしなよ」  小夜子が小さな声で言ってきた。  正樹は焦る。心のどこかで、明海は来ないものだと思っていた。  必死に、どうするかを考える。彼女の自己を確立するということは、明海にあって姉の夕貴にない部分を褒めればいいということだ。  同じなので容姿はダメだ。性格は違うだろうが、詳しくは知らない。それなら、一目惚れしたという今回の設定そのものが矛盾していないだろうか。 (先輩……無理っすよ)  心の中で嘆くが、どうしようもない。  明海はもう目の前だ。  正樹は、やけくそ気味の笑顔で、彼女を迎えた。 「ありがとう。来てくれたんだ」  明海もまた、満面の笑みを浮かべている。  が、一気に笑みが消え、蔑みの表情へと変化する。  その瞬間。  視界が、ぐるりと回る。  パン、という小気味いい音が聞こえる。 「二度と妹に近づかないで。気持ち悪い手紙出さないで」  右頬を押さえて地面に崩れる正樹に、くしゃくしゃに丸めた紙を投げつけてきた。  開くと、達筆な小夜子の文字がある。明海に渡した手紙だった。 「次は、警察呼びますから」  彼女はきびすを返し、体育館の向こうに去っていった。 「まったく……姉と妹を間違えるやつがあるかい」  小夜子が木から下りてきて、あきれたように言った。 「あーあ。あたしの力作がぁ。寝ずに書いたのにさ」  しわだらけの手紙を拾い上げ、小夜子はぽつりとつぶやく。  反応のない正樹のほうを見上げて、眉をひそめた。さっきから、頬を押さえるばかりで、一言もしゃべっていなかった。 「どうしたの、正樹? 今ので壊れた? まさか、目覚めた?」 「……なんすか、目覚めたって」 「だからソッチの道に……って、おねーさんになに言わすのよぉ。もー、まーくんったら」  小夜子が意味深な笑みを浮かべて、恥ずかしそうに身をくねらせる。頬までちゃんと赤らめてるから、すごい。ため息が出る。いろんな意味で。 「先輩。作戦、間違えてましたよ」  頬をさすりながら、正樹は言った。 「」           4  明海は、椅子を乗せた机を引きずって、後ろに押しやる。他の机とぶつかって大きな音が鳴るが、そのまま突っ込んだ。掃除の喧騒もあり、誰も気にする様子はなかった。  かばんを手にすると、明海はまっすぐ教室の出口に向かった。 「あれ? 明海ちゃん、今日はお姉さん来ないのね」  ほうきを持ったクラスメイトが不思議そうに訊いてくる。明海は彼女のほうに顔を向け、 「さよなら」  短く言った。  教室から出て、左を見てしまう。下校する人たちの隙間の向こう、廊下のほぼ反対側にある教室――。 「ちょいとそこ行くお嬢さん」  突然声をかけられ、明海は息を詰まらせてる。  振り返ると、色の濃いサングラスをかけた女子生徒が、口元に笑みを浮かべていた。ゴマをするように、手揉みしている。  明海は眉をひそめた。 「なんですか、あなた?」 「こりゃ申し遅れやした。手前、月橋の小夜子と発しやす。ちょいと、お嬢さんのお耳に入れておきてえことがありやしてね」 「結構です」  即答して、きびすを返す。 「お姉さんのこと、なんですがね」  踏み出しかけた足が、ぴたりと止まる。  小夜子のサングラスで隠れた目が、すっと細くなった。 「つまり」  食堂の一角。明海が小夜子と向かい合う形で席に座っていた。 「姉が私に隠れて、男性と交際してる。そういいたいんですか?」  小夜子はうなずいて、両手に持った湯呑みを自分と明海の前に置いた。まだサングラスをしている。 「バカらしい」  明海が吐き捨てる。 「まったく。どこから聞いた話かしりませんけど、バカらしいにもほどがあるわ」 「ずいぶんと、自信がおありのようで」  ふん、と明海は小夜子をあざけるように笑った。 「自信? 違うわ。言うなれば、必然よ」 「必然、ですか」 「確かなものを認めるのに、それ以上の理由がいりますか?」  姉が自分を裏切らないのは確実、とまで言い切っている。 「余計なお世話、ありがとうございます。おかげさまで、時間を無駄にできました」  小夜子の目に向かって皮肉を浴びせかけ、明海は席を立った。 「お茶、残ってますよ」 「結構。帰ります」  へっへ、といやらしい声を出して、小夜子は笑う。 「お一人で、ですか?」  明海は小夜子をにらみつけた。 「お姉さん、今日はお姿が見えないようですがね?」 「姉は……委員会に出るから、先に帰れと」 「それは、本当でしょうかねえ」  明海の表情は、小夜子を殺しかねないものになっていた。 「どういう、意味でしょうか」 「わかりませんか。いやあ、わかりそうなものですが」 「はっきり言いなさいよ!」  明海の声が食堂に響き渡った。他の生徒の視線が集まる。十数人はいた。  小夜子は、サングラスを外して胸ポケットにしまう。  明海を見上げた。 「確かめればわかる、ということよ」 「なにをよ!」 「とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いたらどう? 見苦しいわよ」  そこで明海も自分が取り乱していたことに気づいたらしい。しぶしぶ席に戻り、薄いお茶をすすった。 「ここから、昇降口が見えるでしょ?」  小夜子は、明海の後ろを見やる。ガラス戸の向こうには駐車場や昇降口が一望でき、帰る生徒を確かめることができた。 「一人で出てくれば、あなたの言う通り。お姉さんは潔白。問題なし。あたしの情報はでたらめだったことになるわ。けど、もし男と出てくれば――」 「そんなこと、あるはずない……」  独り言のようにつぶやく言葉には、最初のころの確信に満ちた力強さはなくなっていた。  小夜子は壁の時計を見る。四時になろうとしていた。 「まあ、待てばわかること。そろそろじゃないかな。委員会が終わるにしても……あなたが帰ったころだと見計らっていたとしても」  小夜子の言葉を聞いているのか、明海はガラス戸の向こうを食い入るように見つめている。 「あ」  夕貴である。昇降口を出てきた。  足を止めて、振り返る。  彼女に続いて現れたのは、男だった。 「決まりね」 「た、ただ同じ方向に帰るだけかもしれない」  それにしては、二人の距離が近すぎるのは明海も気づいているのだろう。 「じゃあ、追いかけてみる?」  明海は顔を伏せる。横目で外の二人のほうを見ながら、唇を噛んだ。小夜子の問いに、明海は明らかに迷っていた。  ふいに、男がこちらに顔を向けた。 「あいつ――」  明海が声を漏らした。 「知ってるの?」 「……知らない」  そう言って、椅子から立ち上がる。 「行くわよ」  小夜子より先立って、追いかけようとする。 「はいはい」  小夜子は苦笑する。そして、明海に見えないようにして、夕貴と並んで歩く男――正樹に向かってウインクをした。 (すごいぞ。自分をひっぱたいた相手と並んで歩いてるようにはとても見えない)  さすがに親密とまではいかないが、友人同士の関係、くらいには見える。動揺している明海になら、恋人と言ってもだませるだろう。  どうにかして彼女と一緒に出ていく、と正樹は言っていたが、これほどうまくこなすとは思っていなかった。 「何してるんですか。早くしてください!」  明海がせかす。小夜子は二人分の湯呑みを片付け、明海と出て行った。  正樹は銀杏並木を夕貴と歩いていた。  それとなく振り返ると、昇降口が見える。銀杏木の陰に、誰かいる気配がしていた。 「じゃあ、私が明海の代わりに行ったことになってるんですか?」  驚いたように、夕貴が正樹のほうを見上げた。話の最中だった。無防備に見開れた目には気丈な姉というイメージはなく、ただの女の子のものだった 「そう。それで、妹さんに告白しようとした俺――の友達をひっぱたいた」  口元に手を当てて、夕貴は困ったようにつぶやいた。 「参ったなあ、そんなことになってたなんて」  正樹は、自分の予想が正しいことを知った。  明海は、姉を装っていたのだ。  昼にひっぱたかれた頬は、右側だった。つまり、左からぶたれたのである。  昨日の朝は、左頬。それは夕貴が右利きであり、右側からひっぱたいたからだ。 「前から、変な子だとは思ってたんです。トイレの中までいっしょにいたいってだだこねたり、寝ている間に私の服を脱がせたり。まあ、それもかわいいなって思ってたんですけど。最近は少しひどくなってきて。手をつないで眠る遊びも、前からやってたんですが……学校でやろうって言われるとは思わなかった」  正樹は苦笑する。家では普通にやってたんだ。 「変なことで怒るようになったんです。一人で外に出たり、勝手に買い物したりしたら怒るのは、前からですけど。生理の周期が自分と合わないことでも、怒るようになって。自分のほうが身長が五ミリ高いからって、かかとを血が出るまでカッターで削ったときは、さすがに神経質すぎると心配したけど」  神経質どころじゃない。それは、病的というのだ。 「でも、私に成りすますことまでしてたなんて、知りませんでした。お友達に謝っておいてください」 「まあ、それはいいんだけど」  夕貴は頭を下げる。素直な子だ。となると、昨日の朝ぶたれたのがまだ謝ってもらっていないというのは、本当に襲おうとしたと思われているのだろうか。誤解だけは正しておこうと口を開こうとしたが、夕貴に先を越される。 「妹は、どうしちゃったんでしょうか?」  正樹は言おうとしていたことを引っ込め、答える。 「同一視、だって。その手のことに詳しい先輩が言ってた」 「同一視? 妹が、自分は私と同じだと思ってる、ってことですか?」 「というよりも、夕貴さんの性格や特徴を、自分の中に取り入れること、かな。口調や癖、考え方とか。本来は、いろんな人と会って、取り込むことで自己を確立していくものらしいんだけど。明海ちゃんの場合は、あまりにも夕貴さんと近すぎたから、夕貴さんからしか取り入れることができなかった」  違和感があった。姉を同一視することと、姉に成りすますことは別のことだ。姉とひとつになりたいという夢は、その別のほうに起因している。  それは、今はわからない気がした。姉ですら、初めて知ったというのだし。  夕貴は不安そうに正樹を見上げる。 「どうすればいいでしょうか」 「同一視そのものは悪いことじゃないし。ちょっと距離を取っておけばいいらしいよ。一人で行動する機会を増やしてみるとか。それで明海ちゃんは怒るかもしれないけど、仕方ないよ」 「……たしかに、そうですね」  安心したように、夕貴はうなずいた。決意のようなものが見える。  彼女も、明海のことを心配していたのだろう。 「でも、よかった。こんなこと、今まで誰にも相談できなかったのに」  夕貴は、くすりと笑う。 「昨日の朝、変なことしようとしたのは忘れてあげますね」 「だから、それは誤解で――」  慌てて言うと、夕貴はおかしそうに笑った。 「ふふ、わかってますよ。ごめんなさい」  正樹も苦笑しながら、安心した。この子も、普通に笑うことができるのだ。  そのとき、悲鳴に近い声が聞こえる。 「正樹!」  後ろ。  振り返ると、少女が立っていた。明海だった。冷ややかな視線を向けたまま左手を振りかぶる。  カッターが握られていた。 「なに、笑ってんのよ」  冷たい言葉と同時に、夕貴に刃を振り下ろす。  夕貴が尻餅をつく。顔をかばった左手は切れ目が走り、傷口にはカッターが折れたまま食い込んでいた。  夕貴は唇を震わせながら、左手も構わず明海を見上げていた。 「男なんかにへらへらして」  呪詛の言葉を吐きながら、明海は折れてしまったカッターの刃を新たに伸ばす。逆手に持ち替えると、頭上に振り上げた。 「あんたなんか――偽者よ」  正樹が止めようとして動く。  その間に、影が滑り込んだ。  ぱん、と鋭い音が鳴る。  小夜子だ。明海の目の前で、両手を打ち合わせていた。いわゆる猫だましだ。  明海の体が崩れ落ちる。  小夜子は明海を支えながら、正樹のほうを振り向く。 「夕貴さんは病院に連れてくから、正樹はこの子を保健室で――お願い」  お願い、の部分を強調される。 「わかりました」  正樹は明海を背負い上げる。普通に眠っているだけのようだ。そして、夢を見ているのだろう。  小夜子は、夕貴に寄り添う。食い込んだ刃を慎重に除き、血が出てきた傷口をハンカチできつめに縛る。  正樹に顔を向けて、無言でうなずいてきた。  うなずき返し、正樹は校舎に向かって走る。  今は、できることだけをするだけだ。           5  映写機の音を聞き、正樹は映画館に戻ったことを知る。  以前と、それほど変わっていなかった。スクリーンに映し出されるのは、授業風景になっている。画面が多少はきれいになっていたが、まだ白黒で音もついていなかった。  スクリーンの前に座り、二人の同じ顔の少女が絡みあっていた。  一方が、もう一方の後ろから抱きしめる形で、肩越しにキスをしている。刻み込むような激しい口付け。 「おねえ――んっ――」  前の少女――明海が荒い息の合間に漏らそうとする。だが、言葉などいらないと姉はその唇を覆い込み、妹もまた同じことをやり返す。  二人の涎が混じりあい、気泡も消えぬまま、妹の首筋にまで垂れる。姉は、舌先でその軌跡をなぞった。  姉の頭越しに妹のとろんとした目つきが、正樹のものと合った。  姉もそれに気づく。明海の首を抱きしめ、頬ずりするようにして正樹のほうを向く。  彼女の目は、ただ黒い色が広がるだけで、生きた者の光はなかった。 「――化身」  正樹は、左手に提げていた夢葬を抜く。 「お姉ちゃん」  怯えたように夕貴の形をしたモノに明海が寄り添った。その髪を優しくなでながら、化身はささやく。 「だいじょうぶ。お姉ちゃんが殺してあげるから」  化身の体がいびつに歪んだかと思うと、風船のように膨らむ。肥大化を続け、明海の意識体を呑みこんでしまった。  三メートルほどの巨体となった。夕貴を模しているが、顔も体も人のものとしては白すぎる。雪の彫像のようだ。  飲み込まれてしまった明海の顔だけが、腹の隙間から見えている。  正樹は走る。一気に蹴りをつける。  刀を横に構え、跳んだ。明海の体がない、上半身を狙う。  化身に斬りつけようとする。 「なっ」  止めた。  斬ろうとした肩口に、明海の顔が移動した。鼻先数センチのところでなんとか止めたが、正樹の動きまで硬直する。  化身の、隆起した腕がうなる。 「――がっ」  防御すらままならない。  拳が腹にめり込み、正樹は浮かび上がる。殴られた姿勢のまま、後ろに吹き飛ばされた。  通路に背中をしたたか打ち付ける。  がはっと、空気を吐き出した。  腹も背中も、痛いというより痺れている。呼吸が浅くしかできない。大きく吸い込もうとしたところで、初めて腹に痛みが走った。  化身は、追撃してこなかった。最初の位置から動いていない。明海の顔は、肩からまた腹に移動していた。  どうする。正樹は考える。明海の意識体を斬ってしまえば、おそらく明海は二度と目覚めなくなる。それは避けねばならない。  夢葬を杖にして立ち上がる。  と、自分の息が白くなっていることに気づいた。  足元には、白い煙が絡み付いていた。 「なんだ――」  化身を中心に、白い煙が広がってきている。空気よりも重いらしく、下のほうにたまり床が見えない。  ガスか、と思ったが違う。吸い込んでも苦しくはない。  ただ、鼻がつんと痛くなった。  さっきから、部屋の温度がどんどん下がっている。  白いそれは、激しく冷やされた空気そのものだった。 「何のつもりだ」  風が吹き付け、正樹は思わず体を丸めた。全身の肌の毛穴がいっせいに閉じるのが、自分でわかった。  風にさらされた耳と両手に、熱湯に突っ込んだような痛みが走った。冷たすぎて、熱さと錯覚してしまう。  いつしか煙は消えて、床も見えるようになっていた。部屋全体の温度が下がったためだ。椅子の下などに霜が張り付いているのが見える。  なぜか、息が荒くなる。だが、呼吸のたびに鼻が痛んだ。右腕に鼻を押し付けて冷気から守ろうとするが、大して役に立たない。すぐに、痛みすら感じなくなる。 「くそっ」  長期戦は不利だ。呼吸を止め、正樹は化身に向かって走ろうとする。だが、圧倒的な冷気に、目を開くのすらままならない。  鼻だけではない。末端から伝わってきた痛みは、すでに痺れに変わり、むき出しになっている両手はすでに感覚が消えている。まだ夢葬を離していないことすら、不思議だった。  右目が、開かない。閉じたまままぶたが凍ってしまったのかもしれない。左目のほうも、目の前がかすんできてしまった。  正樹はうずくまったまま、動けなくなる。  心臓の音だけが、やたらに聞こえる。動いていないのに、早い。体を動かそうとしても、言うことを聞かない。 (――やばい)  そう思った瞬間、 「バカね」  声が聞こえた。  全身に痺れが走る。体の中心から、末端まで広がる。かゆみと同時に、感覚が戻ってきた。  暖かい。 「なんでわざわざ寒いフリなんかするのかしら」  後ろに、黒い着物の少女が立っていた。夏雪だ。 「お前、なんで――」 「あなたがあまりにも情けないから、来たのよ」  夏雪は肩をすくめる。 「そもそも、あなたは夢での戦いをわかってない。たしかにここは相手の夢の中。相手のほうが有利なのは確かだけど――」  夏雪が言葉を止める。顔を上げた。  化身の巨体がそこにいた。右腕を振りかぶり、突き出してくる。  正樹は身を低くし、踏み込む。体は、動く。  夢葬でそれをなぎ払った。  腕は中ほどから切断され、宙に舞う。すぐに分解し、消えてしまった。  化身は絶叫を上げながら、後退する。  夏雪は、平然と話の続きをはじめる。 「あなたの体だけはあなただけの夢。いくらでも、好きに変えることができるのよ」 「俺の体は、俺の夢?」  夏雪は、ぱちんと指を鳴らす。  すると屋根のあるはずの映画館で陽光が降り注ぎ、コンクリートの床からは色とりどりの花が芽吹く。そよいできた風には野苺の匂いを感じる。二人の周囲だけ、あっという間に春の野原に転じた。 「私は相手の夢を掌握し、変えることができる。同じことを、自分の夢の中ならもっと簡単にできるはずよ」 「俺が?」 「相手の夢に合わせるなんて、意味がないわ。あなたの体は、相手の夢とは違う世界なの。寒いのは、あなたが寒いと思っているだけのことよ」  ぱん、と夏雪は手を鳴らす。  陽光も花も消える。春風は、呼吸すら痛くてできない冷気に変じた。  正樹の皮膚が冷気に切り刻まれる。 「あとは自分でどうにかなさい」 「く、そ――」  正樹は息すら凍りつく中で目を閉じる。  とにかく、寒いという思い込みを捨てることにする。 「バカ!」  夏雪の声。  目を開くと、左腕を振り上げた化身の姿があった。 「うわっ」  とっさによける。  腕は正樹の頭をかすめ、コンクリートを砕く。飛び散る破片を見ながら、正樹は肝を冷やした。  と、気づいた。  よけることだけに集中した瞬間は、寒さを忘れられたことに。  正樹は、夢葬を中段に構えなおす。  刃を化身の体に叩きつけることだけを考える。  床を蹴った。  空気が肌を切り裂くが、考えない。  接近と同時に、右側に回りこむ。突き刺そうとした。  また明海を盾にされる。  正樹は突きを止め、しかし足は止めずに、回り込んだ勢いに乗ったまま化身の後ろに逃れる。 (速度だ)  正樹はそれを感じる。  体勢を低く、化身の周囲を跳ぶ。椅子の背もたれを蹴り、欄干を走り、危うい場所をあえて踏んだ。  加速していくのが自分でもわかる。次第に蹴る音が離れていく。体に、リズムが刻み込まれ、さらにそれを塗り替える。  たまりかねたのか、化身が腕を払う。  正樹は夢葬で薙ぐ。切断した腕の跳ねる様が、ゆっくりと見える。腕と、化身の顔が重なった。  貫く。  刃先は化身の腕を貫通し、化身の面に突き刺さる。  悲鳴が、反響した。化身の頭が消滅し、体の上から消えていく。なくなった腹から、明海の体が現れた。  化身は完全に消え、呆然とした明海が残る。 「ふう」  息を吐いてから、正樹は呼吸をしていなかったことに気づいた。途中から、冷たさどころか自分の体のことさえ忘れていた。あれだけ動いたのに、汗ひとつかいていない。頭のまん中が痺れていて、妙に心地よかった。 「やればできるじゃない」  部屋の上にいたらしい夏雪が、近づいてくる。にこりともしていない。 「もっとも、今回の化身はろくに夢も吸えてなかったようだけど」  正樹は、夢葬を構えなおし、夏雪のほうを向いた。 「また、食うつもりか?」  夏雪は肩をすくめる。 「どうかしらね」  正樹は、刀を振りぬく。  斬ったところには、誰もいなくなっていた。 「夢の制御は、集中力と想像力」  声は、真後ろから聞こえた。 「あなたじゃまだ私は無理よ」  背後に斬りかかろうとしたそのとき。 「いやぁぁぁ!」  明海の意識体が叫んだ。 「お姉ちゃん、どこ? いや……待って、一人にしないで!」  映画館のスピーカーから、ノイズ混じりに、たくさんの人の声が聞こえる。それは、休み時間の教室の喧騒だった。  スクリーンの映像は、教室での休み時間になっていた。明海が、友人たちとノートを囲んで何かを話している。  映像には色がついていた。最初は赤色が生まれ、続いて青と緑が強くなり、見る見るうちに鮮やかになっていく。 「いけない! 劇場化が加速してる」  映像の中にいる明海と同じ顔の少女は、他の友人たちの会話には参加せず、カメラのほうをじっと見ていた。  ――違う。  正樹と目があった瞬間、にこりと笑った。  こちら側を見ている。  明海が叫ぶ。 「いや、一人はいや!」 「じゃあ、交換しようか」  映像の中の少女が言った。  ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。  明海もまた立ち上がり、スクリーンのほうに歩いていく。 「ダメだ!」  正樹は止めようとするが、手が明海の体をすり抜けてしまう。  夏雪がスクリーンに向かおうとする。だが、見えない壁に阻まれ先に進めない。 「くっ」  見えない壁に手をつき、力を込める。夢を食っているのだろうか、少しずつ近づいていく。だが、歩いている明海のほうが速かった。 「正樹、夢葬を!」  夏雪が叫ぶ。 「だけど――」 「早く! でないと、あの子が!」  夏雪が焦りをあらわにしている。人形のようだった表情から、一切の余裕が消えていた。こんな状況でありながらも、正樹は驚きを感じた。 「わかった」  正樹は夢葬を上段に構え、夏雪を阻む壁に向かって振り下ろそうとする。  視界が閉ざされる。 「なんだ!」  突然、暗転した。  目をこすり、あたりを見回すが何も見えない。反響する自分の声は聞こえたが、スピーカーや映写機の駆動音は聞こえなくなっていた。  ライトが、スクリーンの前だけ点灯する。  そこに少女が立っていた。明海と同じ顔の少女が、こちら側に立っていた。  力のこもった目で、目の前にいる明海のことを見やる。 「遅かった、のか?」 「……違う」  夏雪が否定する。 「おねえ、ちゃん?」  明海が戸惑いながら、たずねた。  スクリーンの前の少女――夕貴はうなずく。 「姉の意識体……妹を止めにきたの?」  夏雪のつぶやきを聞いて、正樹は思い出した。最初に明海の夢に入ったとき、後ろの席に座っていた少女。あのときはわからなかったが、それは妹を見守る姉、夕貴だったのだ。 「おねえちゃ――」  涙混じりに、姉の胸に飛び込もうとした明海を――夕貴はひっぱたいた。  左頬を押さえて、明海は姉を見上げる。 「ふざけないで」  夕貴は押し殺した声を発する。左手からは、指先を伝ってぽたぽたと血が垂れていた。 「人を偽者呼ばわりして、自分の中のお姉ちゃんがいなくなったら、また私のところにくるの? 私はあなたのなに? 人形でも、おもちゃでもない――私は、私なのよ」 「……いやなのよ」  明海の声は、支えを失った朝顔のように弱い。 「ひとりは、いやなの。怖いの、さびしいの!」 「当たり前じゃない! 私だっていやよ! なのに……なんでひとりにするのよ」  夕貴の目に、涙が浮かんだ。 「心配したじゃないの。ひとりで、どっかに行っちゃって。お姉ちゃん、ちゃんとここにいるじゃないの」 「お姉ちゃん」 「私は、あなたのお姉ちゃんよ。明海だって、私の妹。それで、いいじゃないの」  明海は立ち上がる。涙をぬぐって姉のほうを向く。  夕貴はそんな明海の頭を二度だけなで、スクリーンのほうに歩いていった。  明海もその後を追う。  手は、つながなかった。  明かりがつく。主のいなくなった映画館に、正樹は淋しさを感じた。 「ひとつになることを望んだ妹と、あくまで二人でいっしょにあることを求めた姉、か」  夏雪が言う。 「相手すら見えないほど近づいても、さびしいことには変わりない、ってことかしら」  夏雪はきびすを返し、正樹とすれ違う。 「ま、待てよ。あの子ら、どうなったんだ?」 「どうもこうも。解決したじゃない。姉のおかげで、妹は一人として、姉と付き合うことに決めたのよ。自立の第一歩、ってところかしらね」  夏雪は、眉をひそめる正樹を見上げて笑った。 「なによ。あなたがやったんじゃない。もっと堂々としたら?」 「俺が? でも、夕貴さんが解決したって……」 「その姉を動かしたのは誰? あなたがやらなければ、間違いなく妹は夢食い化してたわ」 「じゃあ、なんであんたはうれしそうなんだ?」  夏雪は一瞬だけ驚いた表情を見せて、いつもの仏頂面に戻ってしまった。  正樹は質問を続ける。 「そもそも、あんたは何がしたいんだ? ただ夢を食いたいだけなら、こんな回りくどいことしなくたっていいのに。聡のときもそうだ。最初は、あんたが一日という期限を早めたんだと思ったけど、違う。本当なら期限なんか作らず、さっさと食べればよかったんだ」  さっきも、そうだった。明海が夢食いとなるのを止めようとしたときの、焦った顔。それは、ただ夢をむさぼるだけの化け物のものとは思えなかった。 「あんた、本当は俺たちのために――」 「違うわ」  冷ややかに、夏雪は言う。 「ただの、縄張り争いよ」 「縄張り?」 「化身。こいつらを解き放った夢食いがいる。そいつを追い払うために、あなたを利用しているだけ。あなたが動いてくれたほうが、何かと都合がいいのよ」  せいぜい動いてね、と言い残して、夏雪は消えてしまった。 「……うそつけ」  本当に利用しているだけなら、それを本人に伝えるわけがないだろうが。           6 「フクザツだねえ」  夢の中のことを聞いた、小夜子の第一声はそれだった。  昼休み。中庭のベンチで、正樹は昨日のことを話していた。 「明海ちゃんの中の姉は、その化身が模したものだった。で、それが消えてしまい、一気に劇場化加速。間一髪のところを、夕貴ちゃんが助けた」 「まあ、そうですね」  何針か縫う怪我だったらしいが、大事ではなく、今日も登校しているらしい。 「そういえば、あれ何だったんですか? 先輩が猫だまししたら、明海ちゃん気を失いましたけど」 「あ、あれね。異常な興奮にある人ってのは、張り詰めた糸のようなものでね。あるタイミングで刺激を与えると、意外と簡単にぷっつりいっちゃうのよ」  ぱん、と正樹の目の前で手を鳴らす。正樹は、びくんとする。 「ね? 驚いたっしょ」  正樹はうなずく。たしかに、心臓には悪いかもしれない。 「それにしても、キミは驚いた顔もかわいいなあ」 「怒りますよ?」  正樹は、向かいの校舎の廊下に見知った顔を発見する。  夕貴だ。こちらには気づいていないらしい。となりには、髪の短い少女がいて、両手の手振りを交えながらなにかを話しかけている。夕貴はほほ笑みながら、それを聞いていた。  正樹は首をかしげる。 「明海ちゃん、どうしたんだろ」 「よく見てごらん」  物知り顔の小夜子に言われ、二人の様子を観察した。  髪の短い少女の顔に、見覚えがあった。 「あれ……もしかして」 「そう。明海ちゃん、髪切ったのよ。『見分けがつかないでしょ』だって」 「あはは……」  正樹は乾いた笑いを浮かべる。昨日の今日だというのに。自立すると決めたとたん、そんなに行動できるものなのか。  女の子は、すごい。 「前のあの子たちね。いっしょにいても、ろくに話してなかったんだって。手を握り合って、ひとつになるだけ」  小夜子が頬杖をつきながら、言った。 「以心伝心とはいうけれど……あのほうが見ていて気持ちいいよね」  正樹は、不器用に会話を続ける二人を見て、うなずく。  小夜子が、大きく伸びをした。 「遊女は、病床の娘に寄り添ったの」  唐突に小夜子が言ってきた。正樹は、思わず聞き返す。 「ほら。夢を見せる遊女と、お嬢さまの話の続き」  正樹は思い出した。図書館の噂話の由来だった。前も、聡のことがひと段落ついたあと、ベンチに座っているときに話してくれたのだ。 「娘は、元気になって、初恋の人としあわせに暮らす夢を見たそうよ。けど、一生分は見ることはなかった。すぐに、夢は終わってしまった」 「なんでですか?」 「つまらなかったからよ。あまりにも、自分が思い描いたとおりになるもので、飽きてしまった。いくら夢の中でしあわせになっても、現実は変わることはない。だから、多分つらかったんだと思う。そんな夢を見ることが」 「なるほど」  自分の望む姉を作り出そうとした明海とは、逆だ。  そんな明海を最後に救ったのは、現実の姉である。結局、人は人である限り、現実で生きるしかない。夢に生きようとすれば、夢を食らう化け物となるしかない。  正樹は、夏雪という少女を思い出した。  彼女はどんな夢を見ようとしていたのだろうか。           第三話           1  正樹が妹を殺したのは、中学二年の夏のことだ。 「お兄ちゃん、お願いがあるんだけど……」  西の空が赤くなり、クーラーのない部屋の窓を開けてたまっていた熱気を追い払っていたときである。部屋に入ってきた妹の唯は、もじもじしながら言ってきた。 「今夜、いっしょに寝てくれないかな?」 「はあ?」  正樹は思わず訊き返した。  部屋はぬいぐるみだらけとはいえ、唯は今年の春に中学生になったのだ。一人で眠れない、という歳ではない。それに、唯が一人部屋をもらったのは、もう二年も前のことだ。その間、正樹が彼女のベッドに付き合ってやったのは、十四回しかない。あとでからかおうと、覚えていたのだ。  それでも、一年前からはホラー番組を見た夜ですら、いっしょに寝ることはなくなったはずだ。そういえば、お風呂もそのころからいっしょに入らなくなった気がする。  不審な顔をする正樹の顔を見て、唯は慌てて付け加える。 「あ、あの、ヘンな意味じゃなくてねっ」  ヘンな意味……なるほど。さみしくて眠れないからいっしょに寝てくれ、ということではないらしい。正樹は、兄として安心する。妹の自立は、喜ばしいことだ。 「最近……こわい夢見るんだ」 「こわい夢?」 「唯は、古いホテルの中にいて。いろんなお化けが脅かしてくるの」  正樹はため息をついた。 「自分のことを名前で呼ぶの、よくないって言っただろう。子供みたいで恥ずかしいぞ?」 「子供じゃないよお」  唯は頬を膨らませる。やっぱり、不安だ。 「夢くらいがなんだ。どうせ、起きれば大丈夫なんだから」 「でも、こわいんだもん。すっごい、リアルなんだよ。ろくろ首が、首伸ばすんだよっ」 「そりゃ、ろくろ首だもんな」  しかし、そこはホテルじゃなかったのか? 妹よ、ろくろ首は日本の妖怪だぞ?  首をかしげる正樹に向かって、唯は両手を振りながら怒鳴りつけてきた。 「お兄ちゃんのバカ! 唯がお化けに食べられちゃってもいいんだね! もういいよ、知らない!」  ぷい、と振り返り、部屋を出て行ってしまった。 「ふう」  夕日を見ながら、正樹は妹のことを考えた。  母親は死んでしまい、父親も仕事でいないことが多い。昔から、自分が守るんだとがんばってきた。少し過保護すぎたのだろうか。  去年の唯の授業参観のことを思い出す。仕事で行けなくなった父の代わりに、正樹が中学を抜け出して行ったのだ。当たり前の話だが、教室に入って一分でばれて、二分で騒ぎになり、三十分後には小学校の先生に怒られ、六十分後には中学の先生にどやされ、家に帰ってからは唯に泣かれた。  バカ」だの「アホ」だの、主に三文字以内の単語でひとしきり罵倒されたあと、 「……ありがと」  と、鼻をすする音よりも小さな声で言われた。  とりあえず、うれしかった。 「お兄ちゃん」  か細い声が、正樹を現実に戻す。  開けっ放しのドアから顔半分だけ見せて、出て行ったはずの唯がこちらを窺っていた。 「……だめ?」  正樹は赤い空を見上げて、口元に手を当てる。緩みかけてる表情を、必死に直そうとした。  自立してくれるのは、もうちょっと後でもいいかもしれない。 「しょうがないな、今日だけだぞ」  ダメ兄である。  唯の部屋に入った正樹は、心の中でため息をついた。  ソファのうえにぬいぐるみが積んである。前より増えてた。ソファなのに、座る場所がなくなっている。  壁には少女漫画雑誌の付録のカレンダーが張ってあって、横には種類の違うペンギンのぬいぐるみが五体、宙吊りにされている。たしか、唯は一匹一匹に名前を付けて、なんとか戦隊とか呼んでいた気がする。  パジャマ姿の唯がタオルケットの中で笑っていた。 「じゃあ、お兄ちゃんはキャメル司令の横で眠ってね」  といって、ベッドの中にあったラクダの抱き枕をずらした。思い出した。ラクダの彼が、ペンギンたちの司令官で、眠っている唯を守ってくれる――という設定だった。  唯はキャメル司令を立ち上がらせ、首を揺らしてしゃべる。 「ご協力、感謝する。われわれ、秘密戦隊ペンタゴンとともに、唯くんを悪夢から守ろうじゃないか」  パッチでできたつぶらな目のキャメル司令は、唯の声で言ってくる。そして、用途に応じて極端に短くされてしまった手(足?)を正樹のほうに差し出してきた。  正樹は、キャメル司令――の後ろにいる唯に目を向ける。 「頼もしい用心棒がいるなら、俺は必要ないな?」 「あ、だめ、だめっ。今回の敵は強敵だから、ペンタゴンだけじゃたちうちできないの」  正樹はため息をつき、指先でつまむようにキャメル司令と握手をする。ナイロンの中に綿の柔らかい感触。寝付かせてから、さっさとテレビを見よう。 「じゃあ、消すぞ」  小さい白熱灯だけ残して、正樹は蛍光灯を消す。  唯はキャメル司令に抱きつきながら、にこにこしている。  正樹も、その横にもぐりこむ。本当は妹の布団になんか入るのは嫌だったのだが、そうしないと駄々をこねるのだ。 「おやすみ、お兄ちゃん」 「はいはい、おやすみ」  それが、唯と交わした最後の会話になった。  正樹が異変に気づいたのは、唯の寝息を確認して、起き上がろうとしたときだ。 「う、うぅん」  最初は、起きようとしたのがばれたのだと思った。  だが、違うらしい。白熱灯の黄色い明かりの中で、唯が苦しそうな表情を浮かべているのが見えた。うめきながら、身じろぎする。 「おい、唯?」  起こそうと肩をゆするが、起きなかった。普通、夢を見ているときは眠りが浅いから、ちょっと刺激すれば目を覚ますとテレビで言っていた気がしたが、目覚める気配はない。  汗も激しい。サウナの中にいるように、どんどん流れていった。  焦った。  父は今日は遅くなる、泊まりになるかもしれないと言っていた。まだ、帰ってはきていない。  自分が何とかしなければいけない。  とっさに思いついたのは救急車だが、躊躇した。妹が夢でうなされている、と言ったところで、まともに対応してくれるとは思えない。  思い出したのは、半年前に死んだ祖父の形見だった。  正樹は、自分の部屋に駆け戻り、一番下の引出しの一番奥から、細長い木箱を取り出す。  ふたを開き、絹布を取り去る。  中から出てきたのは、一本の短刀だった。長さは、二十センチと少しほど。不良が持っている安いナイフではなく、れっきとした日本刀だ。 『夢に入ることができる刀だ。お前にやる』  精神科医だった祖父は、そう言ってその短刀『夢走』を正樹に渡した。 『必要だと思ったら、使え。お前には、それができる』  由来と使い方を説明した後、最後に祖父は言った。  正樹は、確信した。  今が、必要なときなのだ。  唯の許に戻った正樹は、ゆっくりと夢走の鞘を抜く。  黄色いランプの下で、刃に写った自分の目を見た。  最初に感じたのは、恐怖だった。  祖父は、髪の毛一本だって切れないといっていたが、鋭利とか凶器とか、そういうものを越えた恐ろしさを正樹は覚えた。  正樹は刃を自分の指に当てて、引こうとする。握った右手が、笑えるほど震えていた。自分を傷つくかもしれない緊張、ではない。ただ、持っていることそのものが、恐い。  刃を、人差し指の腹に当て、引いた。 「つッ」  力を込めすぎてしまった。あわてて指を見る。だが、跡が残っているだけで切れている形跡はない。痛みだと思ったものは、錯覚だった。 「……おにい、ちゃん」  唯が、うめいた。  迷っている暇はない。  祖父の言葉を思い出しながら、正樹は唯の額に刃を当てた。  最初に聞こえたのは、風にガラス戸が揺れる音だった。  目を開く。暗い。窓らしき四角い穴からほのかな明かりが差し込む以外、光はなかった。  窓は開いていた。鳴っていたのは、その窓のガラスだったらしい。 「ここは、夢の中?」  手順に従って、夢走で引いた光に指で触れた瞬間、意識が消えた。気づいたら、暗闇の中だ。  正樹は自分の頬をつねってみる。  ――痛い。  頬をさすっていると、部屋の隅から声をかけられた。 「誰?」  目を細めて、そちらのほうを見やる。  誰かが、白いシーツをかぶって縮こまっていた。 「お、お兄ちゃん?」  シーツが落ちる。  下から現れたのは、唯だった。 「お兄ちゃん!」  正樹に抱きついてくる。胸に顔をうずめ、肩を震わせていた。  ガラス戸が激しい音を立てて閉まった。  唯の体が大きく震える。 「窓が閉まっただけだ」  肩を叩いてやる。胸の中で、唯がうなずく感触がした。  そのとき、甲高い笑い声が聞こえた。 「まさか、他の人間が入ってくるとはねえ」  扉の前に、ピエロが浮いていた。体は子供くらいの大きさで、顔は犬だった。犬の毛に赤と白のペイントを施し、鼻は青く塗っている。 「なんだ、お前!」 「そんなの何だっていいだろ。お前らは、びくびく怯えてりゃいいんだ」  天井が破れる。木の破片とほこりの中から、巨大な犬が現れた。後ろ足で立ち上がった。外観は犬のようだが、形は人――狼男である。立つと、二メートルはあった。  裂けた口から、収まりきらない牙が外にはみ出ている。先から粘り気の多いよだれが床に垂れた。 「お兄ちゃん――」  正樹は後退しながら唯を背中にかばう。そして、何か武器になるものを探した。 「ガァッ!」  正樹が目線を外した瞬間、狼男が口を開いて飛び掛ってくる。 「――なっ」  唯を守らなければ。  そう思った瞬間、左手が何かをつかむ。  確認する間もなく、狼男の牙の間にそれを突っ込んだ。 「これは」  一本の日本刀の拵えだった。黒い鞘がついたままだが、牙の間にはさませ、防ぐことができた。 「ガァァ!」  狼男が、悲鳴をあげて飛び退いた。手で、口を押さえている。その隙間から、白いものが床に落ちて、小さな音を立てて転がった。  牙である。しかし先端が溶けてしまって、白い塊にしか見えなかった。煙を出しながら、まだぶくぶくと泡立っている。  正樹は、手の中に現れた刀を見る。怪物の牙にはさまれたというのに、傷ひとつついていない。わずかに光沢を帯びたその黒い色が、頼もしく思えた。  鞘を抜き払う。中からは、月の光を思わせる銀色の刃が姿を見せた。  見覚えがあった。それは、唯のベッドの前で抜いた、夢走の刃だ。  祖父の言葉を思い出す。 「そうだ。『ムソウ』はふたつあるって……」 「どうした! そんな小僧に何を手間取っている!」  ピエロが声を荒げる。  狼男は咆哮を上げ、両手の爪を振りかざし跳びかかってきた。  鞘を捨て、正樹は刀を左脇に構える。刀の力だろうか、体が自然にそう動いた。  一歩踏み出す。狼男と交錯する瞬間、真一文字に振りぬいた。  手応えすら感じない。風を斬っただけ、という感触だ。  一瞬だけ、毛むくじゃらの巨体が真っ二つになるのが見えたが、すぐに消えてしまう。犬顔のピエロが、焦ったような声を出した。 「くそっ」  言うが早いか、背中を向け、逃げ出した。 「待て!」  追いかけようとするが、何かに服を引っ張られる。  不安そうに見あげる唯が、正樹の裾をつまんでいた。  正樹は笑いながら、唯の頭をなでてやる。 「だいじょうぶ。悪い夢は、全部やっつけてやるから」  泣きそうな顔だった唯がうなずいた。たまっていた涙が、ぽろりと落ちる。  正樹もうなずき返すと、ピエロの後を追う。廊下に出るとますます暗かったが、不思議とよく見えた。  床は腐りかけて穴がそこかしこに開いている。正樹は無事な場所を見抜き、その上を駆け抜ける。  床の下から手が現れ、正樹の足をつかんだ。 「くっ」  体勢を整え、刀を床下に突きとおす。一瞬で、手が消えてしまった。  階段があった。下を見ると、大きなホールにピエロがしゃがみこんで何かをしていた。足元には、地下への階段だろうか、床に扉が組み込んであった。  ピエロはふたを持ち上げようとしているらしい。だが、重いらしく、開けきるのに手間取っていた。  正樹は階段を駆け下り、ピエロを斬る。  悲鳴をあげる間もなく、真っ二つになったピエロは消えてしまった。  その瞬間、ふたがひとりでに開く。どん、と重い音を立てて、ふたは床に落ちた。  通路が地下に続いていた。階段があったが、中は暗くてまったく見えない。  と、甲高い声が聞こえてきた。 「小僧、夢で地下には気をつけろよ! おっかねえもんが出てくるぜ!」  それは、ピエロの捨て台詞だろうか。ホールに反響して、幾重にも聞こえる。  と。とてつもなく重いものを引きずる音――いや、鳴動が聞こえてきた。  ――下から。  そう思った瞬間、地下の穴からそれが現れた。 「なんだ!」  最初は黒い岩か何かだと思った。とにかく巨大な何かが、穴から流れ出てくる。  見あげて、正樹は呆然とする。  それは蛇だった。固まりかけた血の色の目が二つ、正樹のほうを見下ろしている。黒光りする鱗で覆われた胴体の太さは三メートルはあり、明らかに地下への穴よりも大きい。その体でもうホールは埋め尽くされそうになっているが、まだ出てくる。 「お、お兄ちゃん!」  青い顔をした唯が階段の上に立っているのが見えた。  そのまま、唯は腰を抜かしてしまう。無理もない。唯は、蛇が大の苦手だった。 「くそっ」  正樹は、刀を握り締める。  蛇が口を開き、正樹に向かってきた。巨体のくせに、速い。よけようとしても無理だ。  ならば――。  正樹は切っ先を蛇の口に向け、体を低く構える。  蛇の牙が眼前に迫ったその瞬間。  自ら、口の中に飛び込む。  赤くうねる口内の肉と、黒い喉の深みが目の前に広がるが、すぐに明かりが消える。  閉ざされた闇の中で、正樹は頭上――頭があるだろう方向に、刃を突き上げた。  ずぶり、と突き刺さる感触。  次の瞬間、正樹は真っ白い空間に立っていた。 「ここは……」  正樹は、呆然とする。  蛇どころか、ホテルも消えていた。あるのは、まったくの白一色。  唯が倒れているのを見つける。駆け寄って、抱き上げた。 「唯? 唯!」  唯は、目を開けていた。うつろな視線で、どこかを見ている。正樹が声をかけても、何の反応も示さなかった。 「ヒッヒッヒ。やっちまったな、小僧」  甲高い笑い声。ピエロの犬の首だけが、宙に浮いていた。  正樹は刀を構える。 「何をした!」 「言いがかりはよせやい。やったのは、お前だ」  さも愉快そうに、ピエロは笑う。 「さっきの蛇は、その娘の『恐怖』だよ。お前は、そいつの『恐怖』を殺した。それだけじゃない。何かを恐がるというのは、何かを好くというのと表裏だ」 「どういう、ことだ?」  刀の刃を震わせながら、正樹は問う。 「もう、そいつは何かを好きだとか、嫌いだとか、思うことができなくなったんだ」  ヒャッハッハ、と狂ったように笑いつづける。  正樹は、ピエロの眉間を貫く。幻だったかのように、一瞬にしてピエロの頭は消えた。  しかし、正樹の耳には笑い声がこびりついて離れなかった。           2  正樹は白い空間の中に立っていた。  はっとした様子であたりを見回す。自分の影すら存在しない。地面の感触はあるが、ふわふわとして頼りなかった。 「なんだ、いったい」  どこだ、とは思わない。ここ数日で、共通した感覚を味わってきた。  夢だ。  ただ、誰の夢だか思い出せない。制服を着ているということは、学校で入ったのだろう。 「何もないのね」 「お前は――」  振り返ると、夏雪が立っていた。あたりを見回しながら、肩をすくませる。 「ここはどこだ!」  夏雪は一瞬きょとんとする。そして、あふれでる衝動を押さえきれないように、口元を押さえながら肩を震わせた。  笑ってる。 「バカにしてるのか!」 「ご、ごめんなさい。あまりにも、可笑しかったから」  目をこすりながら、夏雪は謝ってくる。 「ここ、あなたの夢よ」 「……は?」  改めて、あたりを見回す。殺風景どころではない、まじりっけなしの一面真っ白の風景が広がるばかりだ。 「そうか。これが、俺の」 「あまり驚かないのね」 「ここ数年、見てなかったからな。まあ、こんなことだろうとは思ったけど」  まだ口元を緩ませている夏雪を見て、正樹は首をかしげた。 「すると、あんたも俺が見てる夢なのか?」 「さあ。どうかしら」  とぼける夏雪を見て、まあどっちでもいいか、と正樹は思う。 「久しぶりの夢に出てきたのが嫌いな女じゃ、不服だったかしら?」 「――別に」  ふと、小夜子の顔が思い浮かんだ。あの人がこれを見たら、なんと言うだろう。 『うわっ。なにこれ。真っ白なんてありえない。キミ、そんなんでだいじょうぶ? あ、そうだ。今からなんか出しちゃえ。なんだっていいよ。キミの夢なんだから、キミが思うままにやればいい。だいじょうぶよ、おねーさんも協力してあげるから』  正樹は苦笑した。とても、ありうる。 「それにしても、真っ白、か。夢葬の所持者だからかしら。本当に夢が存在しない人ならいることにはいるけど、『何も存在しない夢』を見るというのは、初めてね」 「勝手に出てきて、勝手に分析するなよ」 「好奇心よ。いいじゃない。ものはついでだし、話してみたら?」  そう言って、夏雪はほほ笑む。  正樹は、別にいいかな、と思った。なぜだかはわからない。しいて言うのなら、その夏雪の笑みが、似ていたからだろうか。からかいながら、にやにやしながら、むっとしながら……とにかく終始笑っているくせに、めったに見せないあの人の素直な笑みに。 「俺が最初に入った夢は、妹の夢だったんだけど。そのとき、妹の夢を傷つけちゃって。好きとか嫌いとか、感じることができなくさせたんだ」  夏雪は、「つまり」と続けた。 「人の夢を傷つけてしまった。だから、自分が夢を見ることなんか、許されるはずがない――ってところ?」  正樹はうなずく。 「わかってはいるんだ。俺が勝手に気にしたところで、あいつが喜ぶはずがないって。けど、他につぐないかたが見つからない」 「綾子さんみたいね」  夏雪は言った。自分をかばったせいで怪我をした聡に、罪悪感を抱いていた綾子に、たしかに正樹は自分と同じものを感じていた。 「でも、彼女とは違う。唯を――妹を傷つけたのは、俺だ。人を傷つけてしまったら、何があってもそのことだけは忘れちゃいけないと思う」 「……まあ、そうね」  夏雪が正樹に背中を向ける。 「用事ができたから、帰らせてもらうわ」 「待てよ」  踏み出そうとした足を止めて、夏雪が振り向いた。  正樹は、上のほうに視線を泳がして、尋ねた。 「また、会えるか?」  夏雪は目を閉じ、息を吐くくらいわずかな調子で、ほほ笑んだ。 「さて。どうかしら」  目を開けると木に寄りかかって目を閉じる小夜子の顔が、下から見えた。 「おはよう、正樹」  薄く目を開き、小夜子はほほ笑みかけてくる。緩慢とした動きで、膝の上に乗せた正樹の頭をなでた。  すっかり、この構図にも慣れてしまった。最初は視線のやり場すら困ったのに。  いつもと違うのは、ここは図書館でなく校庭の片隅にある桜の木の下で、つぼみが開きそうな暖かい陽に包まれているということ。まばらな芝生の下の土は、柔らかいベッドのようだった。  時計をみると、昼休みが終わるまであと十分。昼食を食べた後、すぐにここにきたので、三十分ほど寝ていたことになる。  起き上がろうと正樹は身をよじらせるが、小夜子に止められる。 「もちょっとだけ、こうしてくれないかなあ」 「え?」  照れくさそうに苦笑する小夜子の様子は、どこかぎこちなかった。 「いや、まあ……キミがこうして普通に寝てるの、珍しくて」 「別に――授業が始まるまでならいいですけど」 「ん。ありがと」  安心したように、小夜子は息を吐いた。  鳥が鳴いていた。チチチと、かわいらしいさえずりを続けている。  髪を梳くように、小夜子が正樹の頭をなでる。細い指が髪をかき分ける感触が頭の奥のほうをくすぐり、こそばゆかった。耳元でささやかれるのに似ている。心地よさに、思わず口元が緩んでしまう。  もう一度、眠ってしまいそうだった。 「もう、こうやってキミに膝を貸すこともなくなるのかねえ」  小夜子は空を見上げていた。 「なんですか、いきなり」 「ううん。別に」  そういう小夜子の顔は笑ってはいたが、正樹には泣いているように見えた。  小夜子は、何かを口にする。  それは、歌だった。  風の音と混ざりよく聞こえないが、日本語ではなかった。多分、英語とも違う。知らない国の言葉を、口の中だけで小夜子は歌う。  正樹は目を閉じる。  遠くで聞こえるチャイムの音なんて、聞こえない。  小夜子の静かな子守唄に、身をゆだねた。  かばんを持って帰る生徒たちの流れに、手ぶらの正樹は逆行していた。  結局眠ってしまい、起きたら六時間目が終わっていた。小夜子もいつの間にか消えていた。かばんをとりに、戻ってきたのだ。  教室の前に、髪の短い、眼鏡の少女がいた。 「唯……」  引き戸の間で突っ立っている。声をかけたらこちらに気づき、ため息をついた。 「兄さん。無断欠席はいけませんよ」 「悪かったよ」  小夜子のことを説明しようとしたが、やめた。よく考えれば、女の先輩といっしょにいて授業をすっぽかしたなど、言い訳になっていない。  教室にはもう誰もいなかった。正樹は教科書をかばんに突っ込みながら、廊下で待っている唯に尋ねた。 「で、なんだ? わざわざ小言を言いにきたのか?」 「違います。渡すものがあります」 「渡すもの?」  唯をみると、手に小さな包みを持っている。 「授業で作ったケーキです。家庭科で、好きなものを作れと言われたので」  廊下に出た正樹は、それを受け取った。 「別に家ででもよかったのに」 「温かいほうがおいしいと思ったのですが、もう冷めてしまいましたね」  正樹が包みを開くと、中にはチーズケーキが一切れ入っていた。 「わかった。まあ、すまんな」 「……いえ」  そういう唯の表情に、初めてわずかな変化が生まれた。 「じゃあ、俺行くわ。今日から図書館の書庫整理があってな」 「……そうですか。がんばってください」  正樹は廊下を走り去っていく。 「廊下を走ってはいけませんよ」  その言葉が言い終わる前に、正樹の姿は階段に消えてしまった。  一人残った唯は、小さくため息。帰ろうとする。  背後から手が伸びて、唯の体を締め付けた。 「えっ!」  唯は振り返る。そこには、ヘアバンドをはめた女子生徒が立っていた。  あ、と唯は気づいた。 「あなたは、兄さんといっしょにいた……」 「はあい。小夜子か、もしくはおねーさんと呼んでくださいな」  手を振り解き、唯はまっこうから向かいあった。 「いきなり面識が薄い人に抱きつくものではありません。あと、真面目に自己紹介なさってください」  眉ひとつ動かさず、唯は小夜子に言って聞かせる。  小夜子の手が伸びる。唯が止める間もなく、眼鏡を外してしまった。 「やっぱり。眼鏡とったら、なかなかかわいいじゃない」 「……何がしたいのですか?」  あくまで冷静な語調で、唯が尋ねる。ただ疑問だから質問した、それだけ。あきれたとか、怒ったというニュアンスはなかった。  小夜子は、ため息を吐く。軽かった笑顔が、少し沈んだ。 「キミは、笑わないんだね」  言いながら、眼鏡を唯の顔に戻した。 「怒らないし、困らないし、動じない。言葉は借り物で、中身なんかない」 「そうです」  平然と肯定する。  小夜子はほほ笑んだ。 「でも、正樹にケーキを渡すために待っていたキミは、素敵だった」 「――ありがとうございます」  やはり平然という唯に、小夜子は苦笑する。 「それ、どうせ社交辞令で言ってるんでしょ?」 「はい」 「正直だねえ」 「気を悪くしたら、ごめんなさい。こういうことしか、できないんです」  小夜子は首をかしげる小夜子に、唯は続けて言った。 「私には、好悪の感情がないんです。何かを好きになったり、嫌いになることもない。不思議なもので、そうなるとどんな感情も表に出なくなりました。無理に笑うこともできなくはないですが……それは、相手に不快感を与えるだけですので」  そういって、彼女は笑うふりをした。口はそれっぽく吊り上げてはいるが、左右で形が違う。はっきり言って、下手くそだった。 「だから私は、よいか悪いかで判断します。兄にケーキをあげたのだって、冷めるよりは温かいうちに渡したほうがよい、と思ったから。それだけです」 「じゃあ、お兄さんを好きとかそういうのも」 「ありません」  小夜子は、思わず笑ってしまった。 「……ずいぶん開き直って言うんだね」 「事実ですから。それに、私のことは自己紹介するときにちゃんと伝えることにしてます。それで、余計な衝突は避けられますし」  唯は歩き出した。小夜子もその横についていく。 「じゃあ、友達少ないっしょ」  唯が細めた目で、小夜子のことを見あげた。 「あなたも、ずいぶん正直な物言いをしますね」 「ん? 多分、そう言ったほうがいいと思って。嫌だった?」  唯は首を振った。 「単に、珍しい人だと思っただけです。そういうこと言われたの、二度目ですから」 「二度目、というと?」 「最初に言ったのは、その少ない友達です」  階段を下りる。吹奏楽部のトロンボーンの音が、妙に近く感じた。 「玲さんと真紀子さんというんですが。私なんかを、友達だと言ってくれたんです。でも、私は困りました。うれしくもなんともない。なので、それを伝えました」 「え。伝えたの?」  小夜子は驚いたように訊き返した。  唯はうなずく。少し、うつむいた。 「それでもいい、って言ってくれました。うれしくないだけで、嫌がってもないんだろ。なら、私たちが好きなんだから友達だって。それから、私は彼女たちを友達だと思うようにしました。やっぱり好きにはなれないけど、彼女たちの気持ちには応えたいと思います」  小夜子は、納得した。正樹に持ってきたケーキ。それは、唯にとって好意の代わりとなるものなのだ。 「いいんじゃない? そう思ってるなら」 「……そうでしょうか。私は、歯がゆいです。誰にも、自分を好きになってくれる友達や兄に対してにすら、好意を向けられない自分が」  昇降口につく。靴に履き替える唯を、小夜子は見守った。 「帰らないのですか?」 「まあ、まだ用事があるからね」  では、と頭を下げて唯が去っていく。  外に出る直前に、唯は振り返った。 「私からも、尋ねていいでしょうか?」  逆光でよく見えない唯に、うなずいてみせる。 「兄とは、どういう関係でしょうか?」  小夜子は考える。やがて、いたずらっぽい笑みを浮かべて、訊き返してきた。 「やっぱり、お兄さんに女が近づいたら、気になる?」  唯は、ためらいながら答えた。 「正直、兄とどういう関係でも構いません。ただ、このごろ、兄が楽しそうに笑うことが増えたんです。だから、それがあなたのお陰だとしたら、うまくいえませんが……ありがとうございます」  苦笑する小夜子に向かって、唯が最後に言った。 「兄に、私なんかのこと、忘れさせてください」  校門をくぐるときになると、唯は鼻歌まで口ずさんでいた。  難解な数学の問題が解けたときのような快感があった。たとえば首筋を指先でなでられると気持ちいいように、好き嫌いに関係なく心地よいと感じる能力は、唯にも残っている。  正樹の問題は、まさに難問だった。  たしかに自分の状態を唯は不自由に思っていたが、好意を好意で返せないということのほかに、正樹がそれを気にしているから、という理由もあった。  唯が傷を負ってから三年。正樹に気を使わせすぎていた。だから、正樹には自分以外の人と深く付き合うのは、よいことだと思っていた。  同時に、唯は自分の欠損に、少しだけ感謝した。 (私が普通だったら、多分あの人のこと――)  そのとき、目の前を白いものが横切った。  それは向かいのコンビニの陰から現れ、唯の目の前を通り過ぎ、路地の間に消えていった。  唯は立ち止まり、今見たものを確認する。 「ウサギ?」  白ウサギだった。黒いシルクハットとジャケットをつけ、首に下げた金色の懐中時計に目をやりながら、二本足で走っていった。『不思議の国のアリス』からそのまま抜け出してきたかのようなウサギだった。  唯は、ウサギの消えた路地を見る。壁にはさまれたそこは、人一人がやっとは入れるくらいの大きさで、少し行くと突き当たりになって左に折れている。ウサギの姿は、もうなかった。  少し迷ったあと、唯はその路地に入っていく。  好奇心ではない。几帳面なだけだ。不可解なものを放っておくのが、できないのだ。それは、物事を善悪で判断するようになった弊害ともいえる。あいまいなものは、どちらに区切ることもできない。  路地の突き当りから、左を覗き込んだ。  行き止まりになっていた。 「あれ?」  唯は混乱する。ウサギがいないのもそうだし、どうしてこんな形の路地が生まれたかもわからなかった。  仕方なく帰ろうと思って振り返る。  唯は、固まる。  そこにも壁が立っていた。さっきまで通ってきた道が、消えていた。  唯は突然現れた壁の前を、叩いてみる。コンクリートの硬い感触。高さは二メートルはある。 「まいったな」  原理はどうあれ、このL字型の路地に閉じ込められた。それは事実だ。壁はよじ登れるだろうか。唯がそこまで考えたとき、後ろから声をかけられた。 「なあんだ、がっかり。つまんなーい」  振り返ると、路地の角にシルクハットをかぶった少女が立っていた。髪が真っ白で、目が赤い。幼稚園児くらいの小さな体に、燕尾服を着込んでいる。  まるで、さっきのウサギだった。長い銀髪も、ちょうどウサギの耳のように、頭の両脇でくくっている。  頬を含まらせて、少女は怒りをあらわにしてくる。 「もっとこわがってくれないと、はりあいないじゃないのよー」 「ごめんなさい。私、何かを怖がるってことができませんから」  唯は素直に頭を下げる。 「あーあ。うさぎちゃんがせっかく、いろいろ演出してあげたのにさー」  間延びした調子で、少女がぶつぶつ言う。頭を上げて、唯は彼女に尋ねた。 「ところで、私をここに閉じ込めたのがあなたなら、出してくれないでしょうか?」 「そんなに急がなくてもいーじゃない。もっとうさぎちゃんとおはなししようよー」  どうやら、うさぎというのが少女の名前らしい。子供らしい、無邪気な笑みを浮かべている。  唯は少し考え、訊いた。 「わかりました。まず、私をここに閉じ込めた理由をお聞かせ願いますか?」  うさぎの笑みが、変わった。 「おねーちゃん、夢があるよね」  それは子供のものではなく、子供を演じた狡猾な笑みだった。 「それ、うさぎちゃんが叶えてあげるよ」           3  正樹が職員室に鍵を返し外に出る。見あげると星が見えるような時間になってしまった。  コートの裾を合わせなおし、空を見渡す。わずかに西の空だけが赤く見える。遠くにある煙突や鳥の群れが、黒いシルエットになっていた。  誰かに呼び止められた。 「遅かったねえ」 「……先輩?」  小夜子だった。スカートから覗く膝を見て、正樹はコートを脱いだ。 「着てください」 「ん? だいじょうぶだよ、暑さ寒さには強いから」 「俺のほうが、見てて寒いんです」  しばらく迷ったあと、小夜子は礼を言ってコートを受け取る。肩からはおり、裾を内側から押さえた。 「あー、正樹の体温が残ってる」  正樹ははしゃぐ小夜子を見て、ため息をつく。息が白く広がった。 「で、何の用事ですか?」  歩き出してから、正樹は尋ねる。 「うーん。いろいろ考えたんだけど、まとまんなかった」 「話が見えないんですが」 「ま、いいや。キミに会いたかった、ってことにしといて。ところでさ、こっち入らない?」  そう言って、小夜子がコートの右側を広げてみせる。  正樹は顔をしかめる。 「先輩……すげえ恥ずかしいこと言ってますよ?」 「いいじゃん。誰も見てるでもなしに。やっぱり後輩のコートを奪いとってるみたいで、おねーさんも心苦しいわけよ」  小夜子が強引に正樹の右肩にコートを引っ掛ける。文句をいいながらも、正樹は振り払うことはしなかった。  二人分は覆いきれず、腕を重ねるくらい近づいて、ようやく背中と肩だけが収まった。膝まで垂れていたはずの裾が、腰くらいまでしか届かなくなっていた。 「うわっ、ヤバ。これ、かなり恥ずかしいね」 「だから言ったじゃないですか。歩きにくいし、もう」  あははと、小夜子はコートを押さえながら笑う。楽しげな声が、直接正樹の体に伝わってきた。 「最近さ、ときどき思っちゃうんだ」  懐かしむような声で、唐突に小夜子が言う。 「キミといっしょにいるとき――たとえばこの校門までの道とかがね。永遠に終わらなければいいのに、って」 「――先輩」 「夢は、いつか覚めるものなのに」  鼻をすする音が聞こえて、正樹は驚いた。 「泣いてるんですか?」 「ち、違うって! 寒くて鼻水出ちゃっただけ。や、やだ! こっち見ないでよ」  小夜子が顔をうつむかせながら、正樹の顔を手で押しやる。  正樹はポケットに手をやり、取り出したそれを小夜子に突き出す。  驚く小夜子に、正樹は照れくさそうに答えた。 「前に、持てって言われましたから」  ハンカチだった。 「使ってください。いつぞやのお返しです」 「……ありがと」  うつむきながら、小夜子はハンカチを受け取る。  鼻水が出てるといったくせに、鼻をかむ音は聞こえてこなかった。  正樹は、校門の角に誰かがいることに気づいた。 「唯? なんで」  唯が、目を丸くする。正樹はそれに気づき、慌てて右肩からコートをはがした。 「きょ、今日は兄さんと、いっしょに帰りたいと思ったから……」  正樹を伏し目がちに見上げながら唯はぼそぼそと、はっきりしない口調で言った。 「め、迷惑ならいいんです。ひとりで、帰りますから」  小夜子はコートを脱ぎならが、笑いかける。 「いいよ。あたしはここで――」  唯の目を見て、小夜子は言葉を詰まらせた。  唯は大またで小夜子に近づき、その手から正樹のコートを奪い取る。ただの無感情とは違う、表情を殺した視線を小夜子に向けたまま、正樹の手を取った。  正樹を、笑顔で見上げ、明るい声をかける。 「じゃあ、行きましょう。兄さん」 「あ……ああ」  正樹は、唯の勢いにうなずいてしまう。小夜子のほうを振り返ろうとするが、唯に引っ張られてそれさえもできない。力いっぱい握られ、抗いがたいものを感じた。  だが、踏みとどまる。 「――いや、やっぱダメだ」  唯の腕を振り払った。 「唯、お前変だぞ」 「へん?」  唯が、呆然とつぶやき、頭を押さえた。 「そうよ、変なのよ。いきなり、兄さんのことが気になって。待つことにして。すごく寒かったけど、兄さんのことを考えたら我慢できて。胸のあたりがあったかくなって。小夜子さんに頼んだことを後悔して。忘れてほしくなくて。悲しくなって。許せなくなって」 「唯ちゃん……」  声をかけたのは小夜子だった。  肩に手をかけようとする。だが、ぴしと鳴るほど強く振り払われた。 「あなたなんか――」  あげた唯の目には、涙があふれ、こぼれていた。 「嫌いよ!」  唯はきびすを返し、走り去っていく。  その姿は闇にまぎれ、すぐに見えなくなってしまった。 「くそっ」  正樹は携帯を乱暴に閉じ、ポケットにねじ込んだ。  小夜子と二人で唯を探しはじめ、もう一時間になる。本屋やファミレスなど、めぼしいところを見て回ったが発見することができなかった。家に電話をかけても誰も出ないし、唯の携帯も電源が切られていた。  もう一度学校に戻ろうと、外灯がひとつしかない公園を通り抜けようとしたところだった。 「先輩、大丈夫ですか?」  正樹が、横を歩く小夜子に尋ねる。唯に怒鳴りつけられてから、口数が異様に減っている。ぼうっとしていて、正樹が唯を探しているときも、ふらりとどこかに行きそうになっていた。  小夜子は、力のない笑みを浮かべる。 「ごめん。わかんないけど――多分、人に嫌われるの、慣れてないんだと思う」 「そりゃ……そうですよ。普通は」  唯は「嫌い」と言った。  冗談でもなんでもない。本気で、心の底から拒絶の言葉を向けてきた。 「……なんだっていきなり」  唯は好悪の感情を取り戻していた。少なくとも、放課後に教室の前で会ったときは、いつもの唯だった。三年もカウンセリングを受けて改善の見込みがなかったものが、たった数時間で治ったのだ。 「多分、いきなり戻った好きって感情が、全部正樹に向かっちゃったんだよ」  小夜子が言う。ぼそりと、聞き逃しそうになるほど小さな声だ。 「その反対があたしに――」 「言わないでください」  正樹も、つらかった。誰に向かってかすらわからない怒りが渦巻いている。下手をしたら、いつまで経っても暗いままでいる小夜子を怒鳴りつけてしまいかねない。  なにより、元気のない小夜子を見るのが耐えられなかった。 「とにかく、今は唯を――」  倒れる気配。  正樹が振り向くと、額を押さえながら小夜子が地面に膝をついていた。 「せ、先輩!」 「いや、ちょっとめまいがしただけ。ごめん。すぐ、治ると思うから」  立ち上がろうとするが、うまくいかないらしい。息も荒い。額を触れると、夜の空気よりも冷えていた。 「ちょ――先輩もやばいじゃないですか!」 「だいじょうぶだって、言ってるでしょ」 「だいじょうぶって……」  正樹は気づいた。  小夜子が立っているのもやっとの状態だったことに気づかなく、感情が戻った唯の混乱をどうすることもできず、ただ突っ立っていることしかできない。  自分の中にある怒り。それは、自分自身に向けたものだった。  正樹は小夜子の肩にコートをかける。そして、彼女の前で屈み、背を向けた。 「乗ってください」 「でも――」 「それ以上何か言ったら、怒ります」  否定で始まる言葉なんて、もう小夜子の口から聞きたくなかった。 「じゃあ、遠慮なく借りる」 「そうしてください」  背中に、体重がかかった。長身だが、細い体をしている。意外と軽いだろうと思ってはいたが、それ以上に軽かった。 「やったなラッキーボーイ。女の子を背負えるチャンスなんて、めったにないぞ」 「……そうですね」  他愛ない小夜子の冗談も、今は安心できた。声には力がないが、少なくとも冗談を言うだけの元気は残っているらしい。  立ち上がり、正樹は歩き出す。 「でも、どうしたんですか、いったい」 「お迎えがきたのかもねぇ」  正樹の耳元で、本当に死にそうな声で言う。 「そんな縁起でもない。えっと先輩、家どこですか? 送りますから」 「あはは、そりゃ無理だ。あたしゃ家なしの宿なしなのさ」 「さすがにそこは真面目に答えてくれないと、困るんですが」  言いながら、正樹は気が付いた。自分が小夜子という名の先輩のことを、何も知らないということを。  住所や電話番号はもちろん、名前以外の何も知らない。  出会うときはいつも、彼女のほうから声をかけてくる。学校で、他の人といるところを見たことがなかった。 「先輩って、何者ですか?」 「よーし。冥土の前の置き土産だ。一個だけなら、教えたげる。小夜子おねーさんのヒミツ……」  小夜子の声がうわ言のようになってきた。本気で心配になってくる。家よりもまず、病院に行ったほうがよいだろうか。 「いいです。あとで訊きますから」  ずり落ちそうな小夜子を背負いなおす。コートが肩から外れ地面に落ちたが、今は無視した。 「あとじゃ、無理。今だけ、だよ」  答えずに小夜子を休ませようと思った。しかし、予感がする。  本当に、これが最後のチャンスかもしれない。 「……じゃあ」  正樹は、ゆっくりと尋ねる。 「先輩は、これから――四月には、どこにいるんですか?」  しばらく、間があった。 「――ずるいなあ、キミは。それって、答えたらあたしのことほとんどわかっちゃうよ」  声も出さずに小夜子は笑う。  と。だらりと下がるだけだった手を持ち上げ、公園の隅を指差した。外灯の明かりが届かず見えにくいが、ベンチがあるようだ。 「あそこ」  よく目を凝らすと、ベンチの上に誰かが横になっている。  唯だった。  正樹は駆け寄り、唯の様子を確認する。息は、している。寒そうに体を丸めているが、無事のようだ。 「先輩、ちょっと下ろします」  小夜子を唯の横に座らせる。 「多分、この世にはいないよ」  小夜子が、はっきりと言った。  笑みを浮かべて、正樹のほうを見ている。  それは、さっきの問いの答えだった。  正樹は服の上から自分の左胸を触る。三年間、自分を戒めるように持ちつづけた、一本の拵えの感触があった。 「正樹」  小夜子が顔を手で覆いながら言った。 「……わかってます」  正樹はそれを取り出し、鞘から刃を抜いた。  唯の眼鏡を外す。穏やかな寝顔は、ずっと変わっていない。  正樹は、左手で刀を握る右手を押さえつけながら、再び唯の額に夢走を通した。           4  ドアが閉じる音。  目を開くと、そこは三年前と同じ、洋館のホールだった。二階と吹き抜けになっていて、中央には上の階に続く大きな階段がある。シャンデリアから光が降り注ぎ、あのときのような薄気味悪さはなくなっている。  床のあの通路は、なくなっている。 「お兄ちゃん!」  階段の上に、白船学園の制服をまとった唯が立っていた。髪が長く伸びていて、眼鏡もかけていない。子供っぽさが抜けない笑顔で、正樹のほうに向かってきた。  正樹は吐き気を覚える。  あの日、死んだはずの唯が十六歳になっていた。それは正樹が望んだ未来だった。当然くるはずだった――正樹によって潰えてしまった未来。それが今、目の前にいる。  悪夢だ。 「くるな!」 「どうしたの、お兄ちゃん? 唯だよ、わからないの?」 「お前は――くそ、なんで……」  床に膝をつき、罵倒を繰り返す正樹に、唯が手を差し出そうとした。  その手を、黒い少女が振り払った。 「立ちなさい、正樹」  夏雪だった。表情はいつもの凛としたものでなく、感情がむきだしにされていた。  唯は唇を尖らせる。 「邪魔、しないでよ!」  床を破り、白い大蛇が首をもたげる。首は天井のシャンデリアまで達し、部屋の中が暗くなった。見開かれた赤い眼だけがはっきりと、正樹らのほうを見つめているのがわかった。 「化身……?」  白一色の怪物には、見覚えがあった。  夏雪が吐き捨てる。 「これではっきりしたわ。彼女の傷を、化身で埋めたのよ」  だから唯の感情が戻った。  だが、そんなものはまやかしですらない。化身に魅入られたものの末路は、正樹もよく知っている。  それでも、正樹は夢葬を出せなかった。 「お前なんか、死んじゃえ!」  唯が叫ぶ。  蛇は大きく首を揺らし、一気に夏雪めがけ突っ込んできた。夏雪にかわされるが、首はそのまま床下に潜らせていく。  夏雪の真下から出現した。足場が崩れ、跳ぶのが遅れる。開かれた蛇の喉に落ちる。 「くっ」  振り上げた夏雪の右腕が、一本の長刀に変じる。蛇の口が閉じる瞬間、それを振りぬく。蛇の顎は縦に裂け、夏雪はその反動で逃れる。そのまま、床に落ちた。  着地のショックに負け、崩れ落ちる。  正樹は違和感を覚えた。  いつもの動きより、まるで遅い。 「必死ねぇ」  唯がおかしそうに笑った。 「うさぎちゃんから聞いたよ。あんた、もうすぐ消えるんだって?」 「なっ」  驚いたのは、正樹のほうだった。夏雪のほうを見やる。  否定も肯定もせず、唯のほうをにらみつけている。空になった右の袖を押さえながら。  右手がなくなっていた。  元に戻すだけの力がないのだ。 「でも、今すぐに唯が殺してあげるんだから」  蛇の傷はもうふさがっていた。うずくまる夏雪めがけ、牙をむき襲いかかる。  夏雪の直前で、ぴたりと止まった。 「……なんで?」  唯が、声を漏らした。 「なんでかばうのよ、お兄ちゃん!」  正樹が、夏雪の前に立ちはだかっていた。まっすぐに夢葬を構えて。 「しらねえよ」  正樹の手は、震えていた。カチカチと刀の鍔が鳴るのが聞こえる。 「だけど、嫌なんだよ。こいつが死ぬのも、今の唯を見てるのも」  刀は蛇に向けていても、視線は向けることはできない。 「やっぱり、お兄ちゃんはそいつを選ぶんだね」  蛇の首が大きくうねる。そして、正樹ごと夏雪を押しつぶそうとしてくる。  刀を向けようとするが、一瞬躊躇する。 「バカ」  襟を引っ張られ、体が浮いた。蛇の巨体が目の前をかすめ、さっきまで正樹がいた床をぶち抜いていた。  正樹は階段の下に着地。したたか尻を打った。 「やるなら、ちゃんとやりなさい」  正樹を引っ張ってきた夏雪が言う。最初は人形のようだと思った顔も、今見てみれば愛嬌がある。 「――やるよ。今の唯は……悪い夢だ。あんなもので、唯の傷を埋めちゃいけない」  正樹は剣を構えなおす。すらりと、左下段に剣先を落とした。 「それと、訊きたいことがあるんだけど?」  正樹が、後ろの夏雪に向かって尋ねる。 「ダメよ。ひとつだけって言ったじゃない」 「……そう、ですね」  正樹は一瞬だけ苦笑を浮かべる。  白い大蛇に目を向ける。振り向こうとしている巨体に向かって、自ら接近する。剣先が床に触れるほど刃を下げ、前傾になりながら一本の矢のごとく直進。最初の一歩で距離の半分を詰める。  床を踏みつけると同時に、飛沫のように木がはぜた。  蛇が攻撃に移る間もなく、正樹は蛇の腹に刃を突きとおす。  そのまま、垂直に蛇の体を駆け上った。正樹の体は蛇の体とほぼ平行になるくらい前に傾けていて、一歩を蹴り飛ばすように踏み出す。  重力よりも鋭く走っている。  頭まで一息で走り抜け、最後に蹴りつけ、正樹は宙を舞う。  腹から両断された白蛇が、音もなく虚空に還る。  穴だらけの床が残る。そのまん中で、唯が倒れた。 「唯!」  着地と同時に、正樹は唯に駆け寄る。髪が短くなっていた。 「あーあ。やっちゃった」  場違いなほど、軽快な声が響いた。  いつからいたのか。階段の上には、白い髪の少女が立っていた。燕尾服を着ていて 「はっじめましてぇ。うさぎちゃんでーす」  シルクハットを外して、ちょこんとお辞儀をする。左右にまとめた髪が揺れた。 「うさぎ!」  夏雪が立ち上がる。右腕は戻っている。 「おひさー。一ヶ月ぶり? その後ご機嫌どお? あ、消えそうなんだっけ?」  きゃはは、と笑う姿に正樹は寒気を覚える。無邪気な笑い声と反して、顔には狡猾で残忍な笑みが見えた。  正樹は唯を床に横たえ、夢葬を構える。  うさぎは、正樹のほうに向き直る。 「そーそー。知ってるぅ? 人が夢食いになる条件。現実が夢を求めるとなるんだけど、これって、逆でもいいんだよねー」 「なんの――」  言いかけて、正樹は気づいた。  唯の腹から、腕が出ていた。 「いけない!」  夏雪が叫ぶ。  その間にも腕は床をつかみ、唯の中から這い出してくる。唯は意識を失ったまま咳き込み、もだえるが、正樹にはどうすることもできない。腕に続いて、頭、胴が。出てきたそれは息も絶え絶えになりながら、それでもすがるように自分の体を引き上げようとする。  脱皮する芋虫を思わせた。 「また会えたね、お兄ちゃん」  汗で顔に張りついた長い髪を払おうともせずに、唯の中から出てきた唯は、正樹に向かって笑いかけた。  正樹は動けない。呆然と、戻ってきた悪夢を見つめていた。 「じゃあね」  そいつはそういうと、ホールの玄関まで歩いていく。 「待て!」  夏雪が跳ぶ。両開きの扉に手をかけた唯を、止めようとする。  だが唯が振り払っただけで、簡単に弾き飛ばされてしまう。反対側の壁を突き抜けた。 「お前は、いったい――」  正樹は意識を失ったままでいる唯を抱えながら、扉を開けた髪の長い唯に尋ねる。 「唯は、唯よ。その子も唯だけど、それとは違う、唯だけの唯。お兄ちゃんが望んだ、そしてその子も望んだ――そう、言うなれば、三年前に殺されなかったときの唯、かな」  扉が閉まり、唯の姿が向こう側に消える。  その瞬間、扉に幾十もの鎖と錠が絡みついた。  窓という窓が閉まり、鉄格子が降りる。 「なんだ!」  うさぎはいつの間にか消えていた。 「夢食い化よ」  夏雪が、壁の瓦礫の中から立ち上がった。 「早く、脱出を。じゃないと、夢の中に永遠に閉じ込められる」  夢食いとは、夢と現実の主体の逆転。夢の主体が外に出て行ってしまった今、夢の残骸は現実の主体といえる意識体を残したまま封印されてしまう。 「でも、それじゃ唯は」 「無理よ。もうあきらめたほうがいい」  夏雪は玄関の扉をあけようとするが、壁になってしまったかのようにびくともしない。  正樹が前に出た。頭上に振り上げた夢葬で、扉を叩き斬る。  切り口から、外の様子が見えた。月明かりの下に、サッカーゴールがある。夜の校庭のようだった。  だが、すぐに消える。鎖や扉は、もとのとおりに再生した。 「今なら、まだ封印は定着していない。夢走の所持者のあなたなら、外に出れる」 「だけど、先輩は……」  夏雪は、あきれたような視線で正樹を見上げた。 「あのねぇ。先輩って言わないでよ。こっちじゃ、違うんだから」 「……すいません」 「だから嫌だったのよ。言うの」 「そう、なんですか?」  夏雪は、扉のほうを見つめ、首を振った。 「ごめん。違う。――怖かったんだ。キミ、夢食い、嫌ってたみたいだし」  でもね、と明るい声で続けた。 「わかっちゃったからもう、思い残すことないんだよ。消えるってのも、本当だし。どうせなら、カッコつけて最期を迎えたいじゃない?」  そういって夏雪は、小夜子の笑顔を浮かべた。  正樹はひとつ息を吐く。 「じゃあ、お別れですね」  夢葬を扉に突き刺す。その刃を中心に、直径三十センチほどの穴が開き、夜の校庭が見えた。人が入るには、小さすぎる。だが、正樹だけなら夢葬を持ったままならいけるかもしれない。  正樹は刃を立て、穴を広げる。同時に右手で夏雪の襟をつかんだ。 「ちょ、まさ――」  文句など言わせる暇も与えずに、正樹は扉に作り出した穴に向かって、両手とも放した。           5  小夜子は全身を地面にしたたかに打ち付ける。ついた手には、土の感触があった。 「なんで……」  学校のグラウンドだった。振り返ると、髪の長い唯が眠ったままの正樹を肩に担いでいる後ろ姿があった。  小夜子は、正樹を通して夢の中に入っている。正樹から出てきたのだろう。  唯が振り返った。その動きで、正樹の手に握られていた夢走が地面に落ち、乾いた金属音を鳴らす。 「なんだ、出てきたのはあんたのほうなの」  唯は小夜子を見下ろしながら、さして興味もなさそうな声で言った。 「でも、そうかもね。お兄ちゃんが自分だけ助かろうとするなんて、するわけないもの」 「ずいぶん、あっさりしてるんだね」  唯はにやりと笑う。そして、正樹の体を地面に落とす。意識のない正樹は、土の上に重い音を立てた。 「どうせ、唯を殺したお兄ちゃんは、唯のことを好きになってくれないもん。唯はお兄ちゃんが好きだけど、唯のこと好きじゃないお兄ちゃんよりは、好きになってくれるお兄ちゃんのほうが好き。唯だけを好きになってくれるなら、もっと好き」  月の下で兄を語る唯は、うれしそうに笑っていた。 「だから唯は、唯だけを好きになってくれるお兄ちゃんがほしいの」 「どういう意味?」 「誰があんたなんかに教えるもんですか。唯は、あんたのことなんかだいっ嫌いなの」  唯は足元の夢走に気づいた。  兄の所持品だったそれを拾い上げようとする。 「熱ッ」  放り投げる。夢走はくるくると回って地面に突き立ち、刃に月光を反射させる。まっすぐの刃文が、嗤うように輝いていた。  拾おうとした唯の右手からは、白い湯気と肉が焼ける音が聞こえた。 「うかつだね。夢走は夢食いにとって焼けた鉄みたいなものなんだよ」 「う、うるさい!」  唯は激昂する。  その手の中に、一振りの剣が生まれた。二メートルはあるだろうか。少女が、いや人間が使うには不釣合いにも思えるほど巨大な西洋剣だ。 (まいったね)  小夜子は内心で焦る。夢食いならば自分の力が及ぶ限り、現実でも力を行使できる。  問題は、今の小夜子の力でどこまで行使できるかということだ。 (この子は物体具現までならできるか。さすがに化身行使まではいかないだろうけど、やばいな。あたしのほうは――)  小夜子は右手に集中し、念じる。一瞬気が遠くなりかけるが、どうにかつなぎとめる。  一本の短刀が出てきた。ちょうど、正樹の夢走ほどの大きさだ。 (これが、限度か)  めまいに襲われるが、無視する。  逆手に持った短刀を頭上に構え、唯に集中しようとした。  と、唯の後ろに見える校舎の様子がおかしいことに気づく。  生徒たちが教室の中にいた。数はばらばらだが、十や二十ではない。制服を着てはいるが、誰も直立したまま動かず、しゃべろうともしていない。 「気づいた? でも、教えてあげないッ」  唯が剣をアッパー気味に横なぎにしてきた。速い。小夜子は短刀を盾にするが、あまりの勢いにそのまま後方に吹き飛ばされる。  唯はそれよりも速く動く。小夜子を追い抜き、その落下点に到着した。  飛んでくる小夜子の体めがけ、剣を叩きつけてきた。  小夜子は右手の甲で、幅の広い剣の棟を殴りつける。剣の軌道をそらすと同時に、右手を支点にして反転、自分の体勢を強引に立て直した。 「なっ」  着地。空振りし、どうしようもなくがら空きになった唯の懐に、小夜子は滑り込む。  決定的なタイミング――。  なのに、小夜子は唯の顔を見てしまう。  恐怖でも驚きでもない、ただあ然とする少女の顔。  正樹を思い出してしまった。  全身が砕けるほどの衝撃が、小夜子の腹に突き抜ける。  蹴りつけられた小夜子の体は、砂ぼこりを上げながらグラウンドを転がる。十回転目のバウンドでようやく止まり、仰向けに倒れた。 (バカか)  自分を罵倒する。パワーもスピードも体力も、向こうのほうがはるかにある。やるなら速攻。隙を見つけて一撃に賭けるしかない。  なのに、迷ってどうするんだ。  蹴った姿勢のまま、唯は呆然としていた。 「危な……かった」  追撃すら忘れて、ぽつりとつぶやく。  大きく息を吐き、小夜子のほうを見据える。剣を持ち直した。刃の大きさがさっきの三分の一ほどに縮小する。だが、かえって鋭さは増したように見えた。 「……まいったね」  小夜子はどうにか立ち上がる。全身、砂と土で汚れきっている。左手で腹を押さえながら、奇跡的に離さなかった短刀をもう片方の手で持ち上げる。  自分でも笑いたくなるほど、その手は震えていた。  夏雪を夢葬ごと外に放り出してから、正樹は唯のとなりに座った。  何度か夢葬を出せるか試してみたが、無理だった。そこまで都合よくはいかないらしい。 「――兄さん」  唯が声をかけてくる。うっすらと目を開けている。 「夢を見てました。私の心がもとに戻る夢。でも、兄さんは怖がって、相手をしてくれなくなりました。悲しかった」 「……そうか」  正樹は、ただ一言だけ返す。 「兄さん。やっぱり、あの日のこと後悔してますか?」 「……わからない」  今までは、あの日に戻りたいと何度も思っていた。だが、実際にあの日のあとの唯を目の当たりにしたとき、正樹が感じたのは恐怖だった。 「結局、俺はあの日から逃げてただけなのかもな」 「逃げていた?」 「自分のしたことから。その大きさから。あとは、お前から」  髪の長い唯は、正樹が望んだものだった。だが、同じ正樹がその唯を殺した。本当に望むのは、兄に殺されていない唯と、妹を殺していない正樹だった。  今の正樹には、手に入れられるものではない。そして、手に入れようとすら思ってはならない。  それは今の唯を、殺すことになる。 「俺は、今のお前も、あのときの俺も、全部受け入れることにする」  そうするしかなかった。  また唯を殺したくはない。 「気づくのが遅かったかもしれないけど。俺は、今のお前が好きだ」 「……そうですか」  唯は静かにつぶやき、また目を閉じた。 「なんか、変な気持ちです」 「どんな?」 「言葉が、あったかい。あと、懐かしい。ただ、言葉をかけられただけだというのに、すごく、安心する」  正樹は軽く笑った。 「それ、うれしいって言うんだよ」  そのとき。  天井を突き抜け、光が差した。 「しぶといわね」  剣を構えたまま、唯が言う。もう、その表情から笑みは完全に消えていた。 「そりゃどうも。伊達に年季入ってるわけじゃないんでね」  小夜子は笑いかけるが、どうしてもぎこちなくなる。服はいたるところが裂け、肌も切り傷がいくつも入っている。  最初の一合以降、唯は大ぶりを避け、小さな攻撃を重ねる戦法を取ってきた。反撃できない。ぶつかり合うごとに、不利になっていった。  小夜子の体力が削られていることもあるが、それだけではない。唯は、最初は剣を棍棒のように振り回すだけだったが、今は斬ってきている。また、剣だけでなく足技も混ぜ合わせてきている。だんだんと戦いに慣れてきていた。  小夜子は、唯との間合いのちょうど間に突き刺さった夢走を見る。二人の戦いの中において、倒れることなく立っている。  ふと正樹を思い出してしまい、慌てて振り払った。 「ふう」  大きく息を吐く。迷いを、捨てきる。次の一撃が、最後の賭けだ。  小夜子は両手を背中に回し、唯の直進する。  唯もまた、遅れて接近した。  お互いの間合いまであと数歩というところで、小夜子は左手を払う。  短刀を投げつけた。  回転しながら迫る刀を、唯は剣で払い落とす。ちん、と金属音を立てて、刃は虚空へと飛んでいった。  一瞬、唯は小夜子の姿を見失う。  地を這うように姿勢を低くし、急接近していた。  だが、ぎりぎり一歩だけ間合いが遠い。そしてそれは、剣を持った唯の間合いだった。  丸腰の小夜子の面に向かって、唯は剣を斬りおろす。  小夜子の、後ろに組んでいた右手が翻る。  音もなく、唯の剣が、半ばから消えた。 「――」  二人の体が交錯した。  唯の手から剣が滑り落ち、重い音を立てて地面に落ちる。消えた断面から、白い煙が立ち昇る。  唯が、倒れる。  仰向けになる彼女の胸には、一本の短刀が刺さっていた。柄からわずかに煙を出している。  地面に刺さっていたはずの夢走だった。 「なん、で――」  唯は引き抜こうとするが、触った途端に手が焼け、炎に包まれた。  その煙の向こうに立つ小夜子の姿を見て、目を見開く。  右腕――夢走をつかんでいたであろうほうの腕は、肘から先がなくなっていた。傷口は服の袖に隠れて見えないが、白い煙が立ち上っている。  唯は空を見上げる。澄んだ空気に、大きな月が輝いていた。 「――お兄ちゃん」  誰にも聞こえない声で、そっとつぶやいた。  小夜子は耐えていた。  腕を硫酸で徐々に溶かしていけば、こんな痛みになるだろうか。骨の髄まで灼かれる感覚に、歯を食いしばりひたすらにこらえていた。  長く持ちすぎた。  短刀を投げつけ、唯がそれに注意をそらした隙に夢走を手に取る。そこから、ほとばしる激痛に耐えながら唯の剣を消し、そのまま突っ込んで胸を刺すまでだけだ。時間にしたら二秒もない。  夢を殺す刀の毒は、容赦なく小夜子を蝕む。どうにか肘のところで消失は収まってくれたが、痛みだけは引かなかった。  光に気づく。唯の体を見ると、夢走が強い光を放っていた。  それが伝わったかのように、唯の体もまた光っている。 「なに、これ?」  夢走に斬られた夢食いはすぐさま消えるだけのはずだ。夢食いの分身である化身がそうであったように。  光が収まる。夢走が体から抜け落ち、地面に転がった。  唯は、普通の、髪の短いほうの唯になっていた。 「――まさか」  小夜子は正樹に駆け寄り、左手一本で抱き上げて体を揺さぶった。 「正樹? 正樹!」  まぶたがわずかに動く。右の目だけ、まぶしそうに開いた。 「……先輩?」 「そうだよ……ああ、そうだよ……」  よかった。  ほんとうに、よかった。  そう思った瞬間、正樹の顔がぼやけてゆがんだ。  目をこすろうとするが、あいにくと手は正樹を支えてふさがっている。 「やだな、泣かないでくださいよ」  困ったような声が聞こえる。  正樹が言う通りだ、と小夜子は思った。なんでうれしいのに涙が出るんだろう。  目の下をそっとなでられる。だが、正樹の顔は戻らない。もっとにじんでしまう。 (ああ、そうか)  小夜子は気づいた。  なんで会っているとあんなに楽しかったのか。別れが近いことがあんなに悲しかったのか。最後に話せたことが、なんでこんなにうれしいのか。  簡単なことだった。 「先輩? どうし――ちょ、先輩!」  涙が出すぎて壊れてしまったのだろう。視界は黒く染まり、何も見えなくなる。  でも、正樹の声だけは聞こえる。だから安心できた。 「正樹……あたしさ……」  正樹はどこにいるだろうか。自分はちゃんと彼のほうを向いているだろうか。  この言葉は、伝わっているだろうか。 「どうやら……キミのことが――」           第四話           1  図書館の窓際。夕日がもれるブラインドに小夜子の背を押し付けて、正樹が目を閉じた。  小夜子の手が、正樹の首に回される。  鼻を付け合うように顔を近づけ、そっと唇を重ねる。  確かめるように数度触れ合わせたあと、小夜子は唇の裏を正樹の唇にすりつけ、ねっとりと濡らした。  ブラインドから差す赤い光にてかった正樹の唇を見て、小夜子はそっとほほ笑む。音が立たないほどの息を吹きかけると、正樹はわずかに震えて、口に隙間を開いた。  そこに、小夜子は上唇を滑り込ませる。唇の裏側どうしをこすらせながら、正樹の下唇を挟み込んだ。そのまま、吸う。正樹の肉が、小夜子の唇の形に歪む感触を、薄い皮を通して味わう。  そのまま吸い尽くしたくなる衝動を押さえながら、小夜子は舌を正樹の唇に滑り込まそうとした。  と、正樹のまぶたがぴくりと動く。  小夜子は、唇を離す。つっと糸が引くが、すぐに切れてしまう。 「ぶー。マナー違反。今、薄目開けようとしたでしょ」  ウインクをしながら、つん、と正樹の唇を指で突く。 「一生懸命キスしてるときの顔って、近くで見ると結構バカみたいなんだから。見ようとするんじゃありません」 「……ていうか、先輩。なんで俺が薄目開けようとしたの、わかるんですか?」  不服そうに正樹が文句をつけるが、小夜子はしれっと、 「おねーさんのヒミツ、よ」  と言うだけだった。 「留学、やめたんだ」  図書館の鍵をしめる正樹の耳元に、小夜子がささやいた。  驚いて振り返る正樹に、意味深な笑みを浮かべる。 「お父さん説得して、フランスに行くのはやめたの」 「でも、それじゃ――」 「でもって言うんじゃないの。誰のせいだと思ってるの?」  責任取りなさいよ、と笑う小夜子に正樹は額を指で弾かれた。 「これからは、ずっといっしょだよ」 「なんだか、嘘みたいだ」  夕日に染まる空を見上げる。雲ひとつない空では、赤と黒が東と西で別れ、混ざりあっていた。ひどく、あいまいな景色だ。 「先輩、今日って何日でしたっけ?」 「ん? どうしたのよ、いきなり」 「いえ……なんか、夢でも見ているような気分で」  小夜子の顔から、すっと笑みが引く。笑っているような泣いているような、今の空のようにあいまいな表情だった。 「もし夢だとしても。それが夢とわからず、永遠に続くのであれば、本当にそれは夢といえるのかな?」 「え?」  にかっと屈託ない笑顔が戻る。正樹の手を引いていく。 「なんでもない。行こ。今日の晩ご飯はすごいんだからね」  正樹は苦笑しながら、それに従う。頭のどこかがもやもやとはっきりしないが、多分だいじょうぶだ。少なくとも、今の自分はしあわせである。小夜子がいてくれる。どこにも行かず、離れることなく、いつまでも。  グラウンドのまん中で、何かが光った気がした。 「――正樹?」  急に立ち止まった正樹を、小夜子が不安げに見上げてくる。 「あそこ、何かありませんか?」  もう何も見えない。だが、さっきはたしかに光った。 「何もないけど? それより――」  小夜子が強く腕を引いた。 「――はい」  正樹はそれに従う。一度だけグラウンドを振り返る。サッカーゴールの影が、本体の三倍の長さほどに伸びている。赤く染まる地面に、黒いヒビが入っているように見えた。  小夜子に手を引かれながら、正樹は尋ねる。 「先輩、今日の夕飯はなんですか?」 「正樹の好きなカレー」 「……じゃあ、先輩の好物ってなんですか?」 「それは、あれだよ――」  小夜子の言葉が詰まった。  正樹は足を止める。振り返ってきた小夜子の顔は、もう笑っていなかった。 「答えられませんよね。俺は、先輩が好きな食べ物を知らない。というか、先輩が物を食べているのを見たことがない。何も、ヒントがなかったから。卒業後の行くはずだった進路とかなら、たわむれに想像したことがあるけど、先輩が好きな食べ物なんて考えようとすらしなかった。つまり、俺の頭の中には用意してなかった」 「何が、言いたいの?」  冷たい声で、尋ねてくる。 「あんたは、先輩じゃない」  正樹は彼女の手を振りはらい、グラウンドの中央に向かって走る。あそこに何かある。  もやもやとしていた意識が、どんどん覚醒していく。  誰もいないグラウンド。それどころか、校舎のほうにも人の気配がない。放課後ならば、誰かしらいるはずである。  学校だけではない。街のほうの喧騒はおろか、カラスの鳴き声ひとつしない。  ここには、小夜子の姿をした彼女と、正樹しかいなかった。 (これは、夢だ)  ただの夢ではない。土を蹴る感触から、乾いた冬の空気の匂いまで、明瞭に感じる。まるで、夢食い化する直前の劇場化した夢のようだ。 (先輩はどうした? なんでこんなところに?)  答えを求めるように、正樹は走る。  もう一度、グラウンドの上で、何かが光った。  それは、夢走だった。砂に半ばほどかぶった形で、抜き身の短刀が転がっていた。  拾い上げようとかがみこむが、背後から声がかかる。 「いいの?」  小夜子は冷ややかな視線で、正樹を見下ろしていた。 「キミのために言うけど。それを拾えば、必ず後悔することになるよ」 「どういう意味だ?」 「言葉のまま。あっちには、キミが望むものは何もない」  正樹は、首を振る。 「それでも、夢に溺れるよりはだいぶマシだ」  砂の中から、夢走を拾い上げる。  刃からは砂がすべりおち、涼やかな刃文があらわになる。光りだした。流れる文様から照らされる光は、正樹の視界を真っ白に染めていく。           2 「う……」  正樹はうめいた瞬間、頬の下がざらりとするのを感じる。  まぶしさに、開きかけた目が閉じる。うめき声といっしょに息が抜けていくのを感じながら、思った。なにしてるんだ?  左手を握ると、ざらざらした感触がある。腕を立て、起き上がる。右目だけ開けるようになった。  ぼけた視界の中に地面が見えたとき、正樹はようやく自分が寝ていたことに気づいた。 「ここは……」  起き上がり、目をこする。学校のグラウンドのようだ。見あげると、青空と夕空と夜空をまだらに足した微妙な紫色。さっきまで、夢を見ていたことを思い出した。  右手には、夢走を握っている。 「――あ」  思い出した。  夢食い化した唯の中に閉じ込められたとき、光が差した。気が付いたら夜のグラウンドで、小夜子に抱きかかえられていたのだ。だが、小夜子は倒れてしまい、正樹に向かって何かを言いかけ、  消えた。 『必ず後悔することになるよ』  夢の中の小夜子は言っていた。それは、このことだったのか。  こっちには、もう小夜子はいない。 「……うそだろ」  実感がない。たしかに、体が薄くなっていく小夜子の様子は覚えている。浮かび上がるように軽くなっていく体の感触も、思い出そうとすれば腕に蘇る。かすれて聞こえなくなっていく声も耳に残っている。  消えていく小夜子の記憶があるからこそ、正樹は彼女が消えたことが信じられなかった。  改めて、あたりを窺うと、人がいるのを見つけた。さっきまでの正樹のようにグラウンドに横になっていたり、サッカーゴールに寄りかかって座っていたり、土だけしかない花壇の中に倒れていたりしている。だが、誰一人として動いていない。意識があるのは、正樹ひとりだった。 「なんだよ、これ」  まだ夢の中にいるのではないか。そんなことすら、思った。 「バカねえ。起きたって、何にもならないのに」  いつの間にか、横のほうに少女が立っていた。燕尾服にシルクハットをかぶった、白い髪の少女――うさぎという名だった。首から下げた金の懐中時計を見ていた。  ぱちん、と時計のふたを閉じる。 「おにーさん、アタマわるすぎ。せっかく、うさぎちゃんの子守唄に誘ってあげたのに」  座ったままの正樹を見下ろす冷たい視線は、見覚えがあった。夢の中の小夜子だ。 「さっきの夢は、お前の仕業か」 「そーよ。おにーさんの唇、おいしかったよ。また、やろうか?」  正樹は飛び起き、夢走で斬りつける。ひょいと跳ばれ、うさぎにかわされる。  きゃははと、甲高い声で笑った。 「冗談よお。きゃー、こわいこわい」 「ここは、なんだ」  五歩分の間合いをとった状態で、うさぎが答える。 「エデンの園、桃源郷、極楽浄土、ネバーランド……呼び名はたくさんあるけど。つまり、天国よ」 「天国?」 「苦しみも悲しみもない。みんながみんな、しあわせに暮らすことができる国。他に、呼びようないじゃない?」  正樹は鼻で笑う。空が気色悪い色をしていて、みんながその辺で寝転がっていること以外は、ここは普通の学校だった。 「天国? 俺には、天使も神さまも見えないけどな」 「おにーさんがほしかったのは、天使でも神さまでもない。ただ、小夜子ちゃんとのあまーい生活があればよかったの。それをおにーさん、自分で捨てちゃったじゃない」 「あれは、ただの夢だ。夢から覚めただけだ」  うさぎは肩をすくめた。 「アタマわるいうえにカタくっちゃ、すくいよぉないよ? 言ってるじゃん。覚めない夢は、ただの夢じゃない。それは、現実なんだってさ」  心底あきれ返ったように、うさぎはため息をつく。 「てゆーか。現実と夢ってなにが違うの? おにーさんが現実だと思ってるそれは、チョウチョが見てる夢かもしんないのに」 「……詭弁だ」 「ふーん。じゃ、いーよ。見せてあげる」  うさぎは時計のふたを開き、正樹のほうに向けた。  光が投影され、正樹の前に映像になって現れた。  子供が数人、学校のグラウンドにいるのが見えた。ひとりが空き缶を蹴って、他の子達が散っていく。ひとりが地面にしゃがみこんで、声に出して数を数え始めた。  映像が変わる。  木漏れ日の中に眠っている少女だった。仰向けになっているお腹の上に白い子猫がもたれかかっていた。 「夢?」 「そーよ。ここにいる百人が見ている、しあわせな夢の一部。おにーさんはただの夢だというけど、この人たちはしあわせを感じている。満足している。ずっと味わっていたいと願っている。それは、事実。だから、うさぎちゃんが叶えてあげるの」 「そんなしあわせ、まやかしだ」  うさぎは時計のふたをしめる。ぱちん、と小さな音が鳴った。 「別にどう思おうとおにーさんの勝手だけど。もしかして、みんなを夢から覚まそうとするつもり?」 「そうだ」  正樹は断言する。  夢に逃げてもろくなことがない。小夜子が言ったそれを、正樹は信じていた。  だが、うさぎは笑う。体をくの字に曲げて、息が追いつかなくなるほどに笑いつづける。  すべての息を吐ききって、うさぎの笑いは停止する。  子供のような軽快な表情はなくなっていた。細めた目を正樹に向け、口を不快そうに歪ませた。 「ヒーローにでもなったつもり? 夢に囚われたかわいそうな人たちを助ける、って。それが独善的だって、わからない? 夢から覚めることなんて、誰も望んじゃいないのよ。なんで夢じゃいけないの? 現実なんて醜いだけ。競い合って傷つけあって、他人の犠牲のうえにしか幸福を得ることはできない。一人の幸福のために、十人が不幸になる世界。そんなの間違ってる。けど、それが現実というもの。仕方がない。だから、誘ってあげたの。現実とは違う、誰も傷つかない、みんながしあわせになれる世界に。そして、みんなは満足してくれてた。なのに、あなたは自分の青臭い正義を押しつけ、せっかく手に入れたしあわせを奪い、みんなを地獄に引き戻そうとするのね」  うさぎは右腕を払う。正樹の周囲の地面が次々と盛り上がる。下から何かが現れる。 「あなたが夢から戻ることは構わない。勝手にのた打ち回ればいい。けど、みんなを巻き込もうとするのなら、迷惑よ。容赦なく叩き潰させてもらう」  土の中から異形が現れた。正樹を中心に十数体の化け物が囲む。すべて、白色。詳細に欠け、大体の輪郭にしか造形されていない。人の形をしているものは数体ほどで、あとは虫や動物の形を模しているか、粘土を無秩序につなぎ合わせたような形をしたものが多い。  正樹は、夢走を構えながらも戸惑っていた。  うさぎの言葉に、納得しかかっていた。  正樹も、現実がそれほどすばらしいとは思わない。受験をして自分が受かれば誰かが落ちたことになるし、恋が成就すればその人を想っていた別の人が悲しむことになる。うまく折り合いがつくことのほうが珍しい。  だが、夢の中ならそれが可能だ。 「くっ」  いっせいに異形の化身たちが押し寄せてきた。 「うちの後輩を困らせないでほしいな」  声。  正樹は、目をしばたかせる。  化身たちは地面から突き出た刃に串刺しにされ、宙に固定された。  その中央。正樹の目の前に、地面に両手を打ちつけた小夜子の姿があった。 「先輩!」  化身が、刃とともに消える。  小夜子が顔を上げ、うさぎを見あげた。 「あんたの化身行使じゃ、あたしの夢現展開に勝てない」 「どーかなー。たしかにこの中にいる限り力はいくらでも手に入るけど、小夜子ちゃん、もうほとんど溶けちゃってるわけだし」  正樹には何を言っているかはわからないが、二人の間にものすごい緊張が走っていることだけは見て取れた。 「……とにかく、この子は返してもらうよ」 「どーぞ。でも、忘れちゃダメだよ。あの子はこちらにいるって」  そう言って、うさぎは地面の中に沈んでいく。 「食堂で、待ってるね」  うさぎが消えたあと、 「先輩、よかった」 「よかないよ」  小夜子が切って捨てた。 「あのとき、消えてたほうがよかった」 「どういうことです?」 「この空間さ、あたしのせいでもあるんだよ」  空は紫色。 「まず、この空間――ラストララバイのことを説明するけど。これは、時間と空間から隔絶された、夢と現実の混ざり合った世界。みんなの夢を共鳴させて、ひとつの大きな夢として、それを逆転化。同時に拡張しつづけることにより、永遠に夢の自己生成を繰り返すことになる。まあ、一定以上の大きさの夢は、勝手に広がっていく、ってことよ」  正樹は、どうにかうなずく。 「これを成立させるのに必要なものは、百人単位の夢と、制御者。そして方向性。うさぎのやつがこのひと月、化身を使っていろんな生徒に夢を見せていたのは、この夢を手に入れるための準備だった。あとは彼らに同じ夢を見せれば、共鳴しあって拡大が始まるんだけど……それを見せているのが、あたしなんだ」 「よく、わかりません」 「たとえば、いろんな色の水を混ぜるとき、どんな色にするかってことだよ。みんなの夢の色を、あたしの色にしたってこと。それを整える制御者の役が、うさぎ」 「なんで……先輩、あいつに協力したんですか?」  小夜子が一瞬、止まる。正樹から目をそらしたまま、話す。 「最後の。あたしが消えかけたとき。つい、思っちゃったんだよ。キミとの別れがつらい。消えたくない。たとえそれが夢であっても、キミといっしょにいたい」  正樹は何もいえない。 「ほんの、一瞬。だけど、そこをうさぎにつけこまれた。まったく、嫌なやつ。全部、計算ずくだったんだ。唯ちゃんが夢食いになること、正樹があたしを外に逃がすこと、最後の瞬間にあたしの心に隙が生まれること。多分、どうなってもいいようにいくつも予備の案を用意してはいたんだろうけど」  小夜子はため息をついた。 「なんて、言い訳しても仕方ないよね。あたしの  そういって小夜子は乾いた笑いを浮かべる。  正樹は、笑わなかった。右手の夢走を見つめながら、言う。 「俺は、先輩を助けたい」 「うれしいこといってくれるねえ。けど、無理だよ。今は膨らみつづける夢が流れ込んできてるから、体の構成すら維持できないってことはないけど……ここから出れば、三分も待たずにあたしは消える。今のあたしの体は、穴だらけのバケツみたいなもので。常に力を入れつづけてないと、すぐに流れ落ちちゃうんだよ」  笑いつづけたままだ。 「だから、あたしを助けるとなると、ラストララバイを破ることはできなくなる。いいんだ、あたしは。じゅうぶん楽しんだ。だからキミが、あたしのためにこの夢を許してしまうことが、怖いんだ」  小夜子は胸を差し出す。 「さて。ぶすりとやってくれちゃって。方向性がなくなれば、制御できなくなって、この空間は消滅すると思うから」  目を閉じる小夜子  小夜子を生かすためには、この夢の中にいなくてはならない。小夜子は、夢を終わらせることを願っている。  夢走を捨てれば、夢に戻れる。小夜子に突き立てれば、夢が終わる。  近づく正樹。  手を振り上げる。 「あ――」  抱きしめた。 「俺は、先輩を助けます。あと、この空間も何とかします」 「……欲張り。どっちかにしなよ」 「イヤです。俺は先輩に助かってほしい。で、先輩はこの空間をどうにかしたい。だから、俺は両方とも叶えます」  小夜子は、正樹の肩に顔を押し付ける。両手を正樹の背中に回し、強く締めた。 「バカだね。できるはず、ないじゃん」  正樹は、小夜子の声が震えていることに気づいた。 「また、泣いてます?」 「違う……鼻水とよだれ、拭いてるだけ」  震える声が、正樹の体に直接伝わった。  正樹は苦笑して、抱きなおした。布の感触ごしに、弾力の少ない小夜子の体を感じる。彼女の熱が伝わってくる。  たしかに、小夜子はここにいるのだ。           3  正樹は、食堂の入り口に立った。  中には、粘着質の白い物体で作られた柱ができていた。直径一メートルはある柱が、十二本。ほぼ均等の間隔で、椅子やテーブルといっしょに並んでいる。白い物体は天井や床にも広がっていて、食堂と何かの生物の内臓が融合したかのように見えた。  食堂の奥、受け渡しのカウンターの前に、唯がいた。  白い物体に絡めとられていて、つるされている。意識はない。  正樹は、小夜子に言われた条件を確認する。  夢食いは自身の体を自在に変化できる。夢食いは夢食いからの攻撃でしかダメージを与えられない。ただし、夢走による一撃ならば必殺できる。  うさぎは化身を使うことができる。数で集中攻撃されたら、普通の身体能力しか持たない正樹では、夢走があっても勝ち目がない。  小夜子ならば、実力だけならうさぎと同程度。ただし、小夜子が得意とするところは夢を呼び寄せて具現化すること。質が違うので、戦った場合は状況次第でどちらにも転ぶ。  正樹は右手で夢走を握り締め、食堂に踏み入れる。 「へー。ひとりできたんだ」  どこからか、うさぎの声が聞こえた。反響していて、場所はわからない。 「キングが一人で敵陣に突っ込むなんて、聞いたことないけどなー。おにーさんが死んじゃったら、ゲームオーバーなんだよ?」  声にひるむことなく、正樹は進んでいく。唯までの距離は三十メートルほど。  突然、白い柱から触手が伸びて、正樹を打ち付けてくる。先端は鋭く尖っていた。 「――っ」  のけぞりながら、夢走で触手を切り落とす。切断面から枯れ、消えていった。  笑い声が響いた。 「おっかなびっくりだねー。でも、これで小夜子ちゃんがおにーさんに化けてるわけじゃない、ってわかったよ。夢食いは、夢走を持てないから」  白い柱から、二体の白い化身が現れる。両方とも二メートルはある巨体。形は人のものだが、頭部は獣のウサギの形を模している。筋肉の形などはおざなりで、左右のバランスもあまり整ってはいなかった。  正樹は、右の化身に接近する。  化身が腕を振り上げるが、遅い。懐に入り込んだ正樹は、その胸に夢走を突き刺した。  巨体が、刃を中心に消えていく。  正樹は伏せる。その頭の上を、もう一体の化身の拳が通り過ぎた。  下から、刃をその腕に突き立てる。腕から消滅、すぐに体全体が虚空に消えた。 「ふーん。やるじゃん」  一番奥の柱の中から、うさぎが姿をあらわした。  口調は軽いままだが、顔は笑っていない。 「いーよ。それじゃ、ちょっと本気だすから」  ウサギ頭の化身が、新たに三体現れた。白い体に筋肉がくっきりと浮き出ていて、皮膚の下に脈動する筋の一本まで明確に造形されている。  詳細化されるほど、化身の性能は上がる。  三体が、一気に正樹に向かった。速い。十メートルはあった間合いを、二秒で詰める。  正樹は夢走を投げつける。  それは化身の間をすり抜ける。 「なっ」  声をあげるうさぎの横をも過ぎ去り、夢走は唯に絡み付いていた白い触手に突き刺さる。触手が溶け、唯の重さでちぎれる。束縛が解けると同時に、唯の体が倒れ始める。  風を切る音。  正樹の周囲。三体の化身が、胴の半ばから真一文字に切断されている。  その中心には、前のめりになりながら意識を失った正樹と、その背中の中から姿を現した小夜子がいた。横薙ぎに振り切った小夜子の手には、二メートルはある反りの深い長太刀。  太刀から手を離す。と同時に、正樹の背を蹴った。  一瞬にして天井に張り付く。両手両足でふんばりながら、視線をうさぎに向ける。うさぎは目を見開いていた。虚に支配された表情。性能の高い化身を行使するときほど、より集中しなければならない。そこに、隙が生まれる。  隙は一瞬だろうが、小夜子には充分だ。  天井を蹴る。コンクリートがえぐれ、破片が煙となって飛び散る。  小夜子は、うさぎの後ろにいた。右手には具現化した抜き身の刀。うさぎは目を見開いたまま、胴をふたつに分かたれていた。  刀を捨て、小夜子は直進する。  倒れ落ちる唯の体を受け止める。  そこでようやく、小夜子は後ろを振り返る。  どすん、という音。  意識を失ったまま背中を蹴られ、床に叩きつけられた正樹が見えた。その周りには、六体三セットの化身の体が輪郭を崩しながら溶けていくのが見える。砕けたコンクリートの粉が、そのうえに降り注いた。  ふたつに斬られたうさぎの体も、床に落ちた。血を流すまもなく、床に溶けるように消えていく。  食堂の中に立っていた白い柱も消えていった。 「ふう……」  小夜子は大きく息を吐いた。起きている者を中から強制的に眠らせるのは、化身にもできることなので難しくはないが、身体を最大限に加速させている中で、刀を二本も立て続けに具現化するのはさすがに疲れた。  小夜子は唯の体を床に横たえ、様子をみる。寝ているだけだ、心配はない。  正樹の様子を見に行こうと、立ち上がった。 「まさか、同じこと考えるなんてね」  背後からの声。  振り向く間もなく、白い触手に絡めとられる。次々と巻きついてきて、首から下は完全に固定された。  簀巻きにされた状態で、小夜子は床に転がる。首をめぐらすと、冷笑を浮かべたうさぎが小夜子のことを見下ろしていた。  さっき、倒したはず――。そう思ったところで、小夜子はそれに気づいた。  小夜子の表情を見て、うさぎはうなずく。 「そ。唯ちゃんの中にいたの。外にいたのは、うさぎちゃんの化身。まあ、本気で作ったからほとんどうさぎちゃんと変わらない力は持ってたはずだけど。とにかく、カゲムシャさんでしたとさ」  小夜子がうめいた。巻きついた触手から、締め付ける音がする。 「殺さないから、安心していーよ。小夜子ちゃんにはおシゴトがあるしね」 「――ふん。夢で天国を作るなんてバカげたこと、本当に成功するとでも思ってるの?」  小夜子は苦痛に耐えながらも、笑顔を浮かべてうさぎをにらみつけた。  気にした様子もなく、うさぎも余裕の笑みを浮かべて応える。 「当たり前じゃなーい。今のところ、問題はないわ。たしかに夢走の所持者が目覚めたのは誤算だけど、もう修正されたし」  ウサギ頭の化身が小夜子のところに歩いてくる。その手には、小夜子と同じように束縛された正樹が抱えられていた。 「夢走も手放しちゃって、もう目覚めることはないと思うけどね」 「知らないの? 彼が目覚めたのは、夢走があったからじゃない。夢に逃げようとしてなかったからよ」 「ま、どっちでもいーけど。起きたら、今度はエイエンの眠りについてもらうだけだしー」  うさぎが、思い出したように小夜子に聞いてきた。 「そーいえば。小夜子ちゃんって、なんでラストララバイ気に入らないのかなー? 夢を見つづける人間もそーだけど、夢食いにとってもいいことづくめなのに」  空間の中は夢のエネルギーで満ち満ちている。ここにいるだけでも、夢食いは捕食するために出歩く必要はなくなる。物質でできていない夢食いにとって、空腹はそのまま消滅につながる。  小夜子は鼻で笑い飛ばす。 「気に食わないのよ。夢に逃げるやつも、夢食いも。大体、みんな得するなんて、悪徳商法の常套句じゃない」 「ふふーん。好きに言ってなさいよ。現に、成功してるじゃないのー」 「成功? そっか。気づいてないんだね。この『ラストララバイ』の致命的な欠点」 「なにを――」  うさぎは笑い飛ばそうとするが、小夜子の顔をみて口を閉ざす。 「……根拠は?」 「共鳴、膨張を続ける夢の空間。でも、大きくなっていけばその分、抑制が利かなくなる」 「なによ、そんなの知ってるもん。だから小夜子ちゃんがいるんじゃない。夢の方向性を整えることによって、いくら大きくなっても制御する分には――」 「残念ね。あたしはもうすぐ消えるの」  うさぎの表情が固まった。小夜子は続ける。 「どんどん、意識が薄くなっていくのが自分でわかる。力は流れ込んでくるんだけどね。方向性って、色みたいなものでしょ。夢を『この学校』というひとつに色に染める、あたしはいわば絵の具。けど染めるべきものが多くなれば、色そのものは薄くなっていって、いつかなくなるのは道理でしょ?」 「な――」  うさぎは、言葉を失う。  そのとき。 「今よ!」  小夜子が叫んだ。  うさぎの体が大きく揺れる。  唯だ。  うさぎの背中に、落ちていた夢走を突き立てていた。 「――――」  うさぎが何かを言おうとするが、声は出ない。  水に溶ける砂糖粒のように、白い少女は消えていった。 「夢を見る必要がないなら、人は自分で起きれるのよ」  そう言いながら小夜子は起き上がる。体を拘束していた触手は、欠片すら残らず消えてしまった。  夢走を右手に下げたまま呆然とする唯に、笑いかける。 「おはよう、唯ちゃん」  はっとしたように唯が小夜子のほうに目を向ける。小夜子の微笑に誘われるようにして、少しだけ笑った。 「やっとわかった。なんで夢食いから戻ったか。夢、叶ったんだね」 「……はい」  唯は正樹を見やり、うつむくようにうなずく。ぎこちないが、はにかんでいた。  小夜子が寝ている正樹の頭をつま先で小突く。 「起きろ、この果報者」 「……痛いっすよ」  頭をかきながら、正樹が起き上がる。確かめるように、腕や体を回した。 「うさぎ、倒したんですか?」 「うん。唯ちゃんがね」  正樹は、唯を見上げる。まばたきをしながら、目を横に逃がしていた。 「そっか。よくやったな」  正樹に笑いかけられ、唯はとても小さくうなずいた。 「さて。これで一件落ちゃ――」  小夜子の言葉が途切れた。  倒れかける。慌てて、正樹が支えた。 「兄さん、外!」  唯に言われて、ガラス戸の外を見る。空が渦巻いている。 「制御者がいなくなって、暴走してやがるのよ。まったく、そう来やがったか」  かすれる声で、小夜子が言う。 「あー、ダメだ。根こそぎ意識が削られく」 「ちょ……先輩! しっかりしてください!」 「一度しか言わないから、ちゃんと聞きなよ」  うわ言をぼやくように、小夜子が言う。 「ラストララバイってのは、言ってみればどデカい夢食いよ。ひとつにまとまった夢が具現化してるわけだから。このままだとどうなるかはわからないけど、多分ろくなことにはならない。だから、その前に叶えてやる必要がある」 「叶えるって、誰の夢です?」  正樹が叫ぶが、小夜子は「やば」とつぶやくだけで答えない。 「正樹。やっぱ、あたしたちって、消えたほうがいいんだよ。夢だもん。朝がくれば、覚めるもんさ」  ぺし、と正樹の頬を打った。 「ちょっと、目、つぶんなさい」  正樹は、言われるとおりにする。 「図書館に行きなさい」  すぐ顔の前で、小夜子の声が聞こえた。  と、思った瞬間――。  ごん。 「っつ」  正樹は、額を押さえてのけぞる。一瞬だけ、意識がまた遠のく。思い切り、頭突きをされた。 「先輩、なにす――」  文句を言おうとして、正樹は固まる。  いなくなっていた。  抱きとめていたはずの腕には、いつの間にか重さが消えている。小夜子が、正樹の前から消えていた。 「うそでしょ」  正樹がつぶやく。 「こんなのが最後なんて!」  まだ小夜子の体温が残る自分の手を見つめ、握り締める。  立ち上がった。 「唯、夢走を」  背中を向けたまま、唯に押し殺した声で言う。差し出した右手に渡されると、ぐっと握り締め、鞘に納める。 「……俺、行くから、お前、逃げろ」  唯はすぐには返事をしなかった。正樹の背を見つめ、唇をかみ締める。 「気を、つけて」  血を吐くようにそれだけを告げると、唯は走って食堂を去る。  正樹はため息をひとつ。  図書館のほうに向かって、走り出した。           第五話           1  名の由来は、夏でも雪を見せることができる、ということだった。  それより前の名は覚えていないが、ろくな名前じゃなかった気がする。病で狂った犬とか、かびて白くなった蜜柑とか、コロリとか。  名前が変わってもやることは同じだったが、食事はよくなった。だからか、その名前が好きになった。  その名をつけてくれた旦那さまも好きだった。  夏雪を身請けしてくださったどこかのお大尽で、つまり金持ちだった。かなりの時間を馬車に揺られたので、そうとう遠くからきたのだろう。噂とは鳥みたいだ、と夏雪は思った。 「お前には、娘の相手をしてもらう。病の身ゆえ、外に出ることができぬのだ」  馬車の中で旦那さまがおっしゃった。 「娘は、もうじき死ぬ」  夏雪は、少しだけ安心した。  死期が近い。それで、彼女を殺してしまうだろう自分の罪が、軽くなった気がした。  ついたのは、二階建てお屋敷だった。夏雪がいた宿が五つは入りそうなほどの大きさだ。壁は全部の方向についていて、窓には障子でなくガラスがはめられている。  いきなり地下に通される。じめじめとした通路は、ロウソクの明かりだけで薄暗かった。  重そうな鉄の扉を開く。 「娘だ」  広い部屋のまん中に、その人は座っていた。顔や、着物から見える手は包帯で巻いていた。立ち上がると細長く、背丈だけなら旦那さまよりありそうだ。ただ、異様に細い。  包帯の間から見える目が優しげに細められた。  ふかぶかとお辞儀をしてくる。 「初めまして。小夜子と申します」  夏雪は彼女の笑顔を見て、自分が最近笑っていないことを思い出した。  もともと、そんなに笑った覚えがあるほうではない。  両親が死に、遊郭に売られるという月並みな人生を送りながらも、備わってしまった妙な能力のため、苦労が耐えないせいだろうか。  夏雪とともに眠ると、自分の望む夢が見れる。  最初の客は、そこそこの地位をもった軍人だったが、朝起きて涙を流しながら帰っていった。次の日も、夏雪を買っていった。  そして次の日、死んだ。  崖から身投げしていた。  もっとも、夏雪がその男の死を知ったのはずっとあとで、文字通り『一夜の夢を見せる』ということで評判が上がったあとだった。  男だけでなく、女にまで買われた。  大体はやることをやったあとに眠るのだが、中には夏雪の手にすら触れず、さっさと眠るやつまでいた。  夢を見た後の客の反応はさまざまだった。涙して奮える者、上機嫌に笑いつづける者、魂が抜けたかのようにぼんやりする者――そして、そのまま目覚めない者。  ひと月も経てば、評判と悪評が逆転していた。それはそうだろう、と夏雪は思う。夏雪のところに通った客のほとんどは、死んでいるからだ。自分で命を絶つか、眠ったまま衰弱死するか。  みなが気味悪がっていたところに、身請け話である。  今は、どこぞの郷士の娘の前にいて、夏雪はこれこそ夢の話のようだと思っていた。 「さて、私はあなたと、どうすればよろしいのかしら?」  包帯の彼女、小夜子は尋ねてきた。 「夢を見るだけならば、眠るだけで構いません。望むのであれば、そちらのほうもお相手できますが」  小夜子がくすくすと笑う。 「それは頼もしいこと」  その返答に、夏雪は少なからず驚いた。自分で言っておきながら何だが、彼女のような身分の女性はこういう話題を厭うものだと思っていた。 「でも、今夜はいいわ。早速だけど、いい?」  夏雪はうなずく。  小夜子は奥の、十人は眠れそうな寝台に横になる。枕もとに夏雪を呼び寄せてきた。 「なにかお話をしてくれないかしら?」  夏雪は小夜子の横に座り、山を七周半も巻ける大きいムカデを倒す武士の話を聞かせた。以前、客の一人が見た夢だった。  すぐに小夜子は眠ってしまった。寝つきはよかった。 「つまらない」  というのが、目覚めた小夜子の第一声だった。 「私は元気になっていて、初恋の男性としあわせな生活を送っていたわ」  想いを遂げられない相手に寄り添う。女性に多い夢だった。 「何もかも。もうあれって、私じゃないわ。人がしあわせな様子を見ていて、なにがおもしろいの?」 「でも、小夜子さまが望んでいたものではないのですか?」  小夜子は苦笑した。包帯の下の表情が、柔らかく緩む。 「たしかにそうね。けど、私は私。この体でなければ、意味ないじゃない」 「でも、それでは夢を見る必要はないのでは――」 「そうね。私がほしいのは、しあわせな誰かの夢よりも、自分自身のしあわせだもの」  小夜子は自分の頭の後ろに手を回し、包帯を解く。こそばゆい音を立てながら落ちる包帯の下から、白い顔が現れた。 「じゃあ、別のほうをお願いできるかしら?」  ほほ笑む彼女から、夏雪は顔をそらす。頬が赤くなる。 「あら、あなたも? みんな、私の顔を見ると顔を背けるのよ。ごめんなさいね、醜い顔で」  夏雪は下を向いたまま、首を振ることしかできなかった。  そして、死にたくなる人たちの気持ちが少しわかった気がした。  今から、遊郭のときに戻ってしまったら、自分はもう死ぬしかない。  夢を見ることよりも、枕を交わすことよりも、小夜子に喜ばれたのは寝入る前に語る夏雪の話だった。 「知らない話ばかりで、おもしろいわ」  毎晩そういって、小夜子は話をねだってきた。他人のしあわせな夢はつまらないといったくせに、夏雪の話は好きなようらしい。  そのわりに、小夜子はすぐに寝てしまう。おかげで話が尽きることはなかったが、語りきれない夏雪のほうがもどかしかった。  ある日、眠ってしまった小夜子をゆすり起こし、文句を言ってやった。 「もうしばし、お聞きくださいませ」  とりたてて怒ることもせず、小夜子は夏雪に笑いかける。そうして、夏雪の顎を小指の先だけでなでた。 「あら。ごめんなさいね、淋しい思いをさせて」 「そ、そういうわけではございません」  夏雪は、顔を赤くしてうつむいてしまう。  小夜子が、おかしそうにくすくす笑った。夏雪がそうなることを知っていて、わざとやっているのだ。 「あなた、本当にかわいい。あちらにまで持っていきたいわ」 「小夜子さま、夏雪はそのような冗談は聞きとうございません」  怒る夏雪に、小夜子が笑いかける。力なく細めた目。すべてあきらめきったようなその笑みは、夏雪の唯一嫌いな小夜子の表情だった。 「ごまかしたって仕方ないじゃない。私は死ぬ。天命には、抗えないわ」  あっけなく、その日は来た。  小夜子は死んだ。  死の間際。夏雪は、部屋にすら入れてもらえなかった。 『私は、私の夢が嫌いなのよ』  最後に聞いた小夜子の言葉は、少なからず夏雪を傷つけた。  小夜子は夏雪の話を好きだと言ってはくれた。だが、本来は夢を見せるために小夜子のもとに来たのだ。それを否定されたことで、夏雪の中に巨大な穴が開いてしまった気がした。  すぐに夏雪は暇を出された。今までも遊郭の出ということで、疎まれることが多かった。夏雪もそうなることを覚悟はしていたし、小夜子のいない屋敷に未練はない。というよりも、生きる気概すらなくなっていた。  夢は、覚めたのだ。  その日、橋の下に眠る夏雪は、小夜子の夢を見た。            2  階段を降りた正樹の前に、石で組まれた通路が伸びていた。壁のロウソクで照らされてはいるが、薄暗い。  夢の奥底。なにが出てくるかわからない。  夢走を握りなおし、奥に進んだ。  すぐに行き止まりになる。無骨な鉄の扉があった。ただ表面はきれいに艶が立っていて、正樹の顔もうっすらと浮かんでいた。  取っ手をとり、押し開く。  軽い。  キィ、というわずかな音とともに扉が開く。  かなり広い部屋で、教室ひとつ分はあるだろうか。壁は何本ものロウソクで照らされて入るが、その大きさから今ひとつ暗い。テーブルや本棚、ソファがあるが、どれも飾りがほどこされていて、高級な印象がある。  部屋の奥にある巨大なベッドの上に、黒い着物の少女が座っていた。 「夏雪!」  面を上げる少女――その顔は、小夜子のものだった。 「誰ですか?」  混乱する正樹に向かって、彼女が尋ねてきた。  正樹は自分の名と、小夜子の夢に入ってきた目的を告げる。  ゆっくりとうなずいたあと、夏雪は自分のことを紹介する。 「私は小夜子さま付きの侍女で、夏雪と申します。毎夜、夜伽の相手をさせていただきました」  正樹は言葉を失う。目の前の少女は、どう見ても正樹よりも小さい。顔色一つ変えずに夜の、しかも女性の相手をしていたと知り、少なからず驚いた。  同時に、ひとつの疑問が浮かぶ。小夜子の顔をした少女――夏雪は自分が小夜子に仕えていたと言った。ならば、正樹の知る夏雪は何なのだろうか。  少女が首をかしげる。 「しかし、私は小夜子さまの夢の中にいるはずですが。あなたはどうやっていらっしゃったのですか?」  正樹は、以前小夜子がしてくれた図書館にまつわる昔話を思い出した。  令嬢と、彼女に仕えた侍女の話。夢では、何も解決できなかった話。  あの話の侍女が目の前にいる夏雪だとしたら。 「君のいう小夜子って、人形のような顔をした……?」 「はい。恐ろしいほどの美しさを備えたお方でございました。あれから幾年が経ったかは存じませんが、今でもはっきりと覚えております」  正樹は確信する。正樹の知る小夜子と、正樹の知る夏雪。言い換えるならば、現実にいた先輩と夢に出てきた人形の表情の少女。ふたりとも、ひとりの夢食いが演じ分けていたものだった。  その夢食いの少女がいう夏雪と小夜子は、正樹が知る者とは別の人間だ。本当の夏雪は、身請けされた侍女で、先輩の顔をしている。そして彼女の仕えていた主――本当の小夜子こそが、正樹が夏雪だと覚えていた、人形の顔をした少女だった。  夏雪が見た、主の夢――それが小夜子。しかし夢食いとなった小夜子という名の少女は、夏雪の思いとは裏腹に、小夜子でなく夏雪の顔をしていた。  なぜ、そんな食い違いが発生したのか。  正樹は、額をさすった。小夜子先輩の最後の感触が蘇ってくるようだ。あのひねくれ者め、回りくどいことを。 「俺は、小夜子さんに頼まれてきました」  正樹の言葉に、夏雪が驚いた表情を浮かべる。驚くほど、小夜子そっくりだ。 「小夜子さまが? 私なんかのために」 「だが、俺が知っているのは、多分君の知ってる小夜子じゃない。お嬢様だった小夜子でも、君が理想像として思い描いた小夜子ですらない」 「――すいません。何をおっしゃっているのか、わかりません」  夏雪が申し訳なさそうに、困った表情を浮かべる。  正樹は説明するのも忘れて、苦笑してしまう。意地っ張りの先輩だったら、絶対に見せない表情だ。 「君が夢に見た小夜子は、もちろん本当の令嬢だった小夜子とは違う。また、決して君の憧れた対象としての小夜子でもなかった。夢は、自身を映す鏡だ。彼女は、君の望む小夜子である以上に、君自身だった。俺は君の夢がなんだったかは知らない。けど、これだけは言える。俺が出会った小夜子は、まぎれもなく君の夢であり、君自身だ」 「私の理想像である小夜子さまと、私自身が混在している……?」 「そういうこと。そして、その小夜子が――君が頼んだんだ。君を目覚めさせてほしいと」  夏雪ははっとして、首を横に降った。 「イヤです。私は、小夜子さまのいないところになんか行きたくない」 「俺の知っている小夜子は、夢に逃げることを嫌っていた。そして俺の知っている小夜子は、君でもある。君も、気づいているはずだ。夢に逃げても仕方がないって」  夏雪は、少しためらってから、うなずいた。 「そうです。これは、私のわがままです。小夜子さまも、夢が嫌いだとおっしゃっていました。夢はつまらないと。けど、私は耐えられません。つまらなくても構わない。私は、小夜子さまの中で生きていくんです」 「このままだと小夜子は消える。君が目覚めないと、いなくなってしまうんだ」 「構いません。小夜子さまと消えることができるなら、それこそ本望です」  夏雪に挑むような視線で見あげられ、正樹は内心で舌打ちをした。夢と逆転するほどの信念があるのだ。いまさら、説得でどうなるはずもない。  天井を見上げたそのとき、ぱん、と手を叩く音がした。 「なっ」  目の前が真っ暗になる。  後頭部の痛みに、我に返る。頭を押さえながら、起き上がる。一瞬だけ気を失っていたらしい。 「ごめんね。ちょっと強引な手段とっちゃった。キミの意識がないときじゃないと、あたしたち出られないんだ」 「んな……」  正樹は、口をぱくぱくさせる。  目の前には、苦笑する小夜子がいた。白船学園の制服に、白いヘアバンド。そして、底意地が悪そうな笑顔。間違いない。 「説明しちゃうけど。あのまま外にいたらあたしは消えてた。だから、いったんキミの中に逃げさせてもらったんだね。ごっちんこで。あれもあの空間だからそこ使えるかなりの力技だったんだけど、まあ、説明する暇すらなかったしね」 「……ほんとに、だまされた気分なんですが」 「悪いね。でも、多分これがほんとの最後」  そういって、小夜子は夏雪に向き直った。  夏雪は驚く。 「初めまして。あたしはあなたの夢で、小夜子」  その言葉に、夏雪は顔を嫌悪に歪ませながら、小夜子をにらみつける。自分の思い描いた夢は自分の顔で、こともあろうに自分の名前を名乗っているのだ。 「いいわね、その表情。期待通りの反応。うれしいわ。あなたなんか、だいっ嫌い」  「な、なんで! だってあなたは私の夢なのに――」  ぱん、と音が鳴る。  小夜子が、夏雪の頬を張ったのだ。 「そうよ。あたしはあなたの望んだ小夜子だった。そして、夏雪でもあった。小夜子も夏雪も、夢が嫌い。だから、あたしも夢なんか大嫌いよ。夢に逃げるやつなんて、死ねばいい。あんたのことよ。あたしは、あたしのことが嫌いだった。あたしを生み出した、生み出してしまったあんたのことが、嫌いだった。本当、予想通りね。卑屈で頑固で弱々しくて、口から出てくるのは言い訳と自己肯定ばかり。ろくなやつじゃない」  一気に、まくし立てた。 「あたしが名前と顔を入れ替えたのは、もちろん嫌がらせよ。ざまあみなさい」 「……ひどい」  夏雪が立ち上がり、ベッドから降りて小夜子につかみかかった。 「あなたなんかが、小夜子さまを名乗るんじゃない! あんたなんかが……」  あとは言葉にならず、叫びつけるだけだった。胸倉をつかまれたまま、小夜子はしかし満足そうな笑みを浮かべる。 「じゃあ、あんたが自分でやりなさいよ」 「え?」 「誰も、あんたの夢なんか叶えてあげたりしない。あんたが叶えない限り、あんたの小夜子は永遠に帰っては来ない」  ぽんぽんと、夏雪の肩を叩いた。 「もう、朝よ。いい加減、起きなさい」  夏雪が、うなずく。  天井から光が差す。薄暗かった地下室が白く照らされ、正樹は思わず目を細めた。  小夜子が、片手で夏雪を支えながら、正樹のほうに向いているのが見える。光の中で、彼女の体は透けてしまい、床には夏雪の影しか見えない。 「正樹、ごめんね。最後だってのに、ろくな挨拶できないで」  正樹は苦笑する。 「いいっすよ。もう、二度も別れましたし。それに、こういうもんだって気もします」 「ん、そっか。じゃあ――」  小夜子がにんまり笑って、軽く右手を振ってくる。  正樹もまた、それに応える。  あっさりしすぎているかもしれない。しかし、夢との別れなどその程度である。朝がくれば目覚める。一日が待っている。 「バイバイ」  了