バイバイララバイ                                      京路   序章  白いうさぎは夢にいざなう 「とりあえず五つのモノがひつよーかなぁ」  世界中を幸せにするといった少女は小さな右手をぱっと広げ、もう一人の少女に見せた。 「黒雪ちゃんが寝てるあいだに、このうさぎちゃんがそろえとくからアンシンしてね」  うさぎと名乗った少女が、赤い瞳でウインクする。両耳の上で結わえた白く長い髪がふわりと揺れた。シルクハットをかぶり、燕尾服を身につけた彼女の姿は、アリスを夢にいざなう白うさぎのようだった。  しかし、向かうのは金髪の少女ではなく、黒い髪をおかっぱにした純和風の少女だった。喪服のような、黒を几帳とした着物を着ている。  黒雪と呼ばれた彼女は、物憂げにため息をつく。 「五つ。ずいぶん簡単なのですね」 「そうでもないよー。まあ、そのうちのひとつは、うさぎちゃんのことだからシンパイないけど」  うさぎは、広げた手から親指を折る。立っている指は四本になった。 「それで、さっきガッコーに埋めこんだ『タネ』。これができあがるまで、ちょっとジカンがかかっちゃう。でも、これも待つのガマンするだけだから、だいじょうぶかなぁ」 「時間……」 「黒雪ちゃんにとってはイッシュンだし、うさぎちゃんたちにはジカンなんて、ほとんどイミないからね」  楽しそうに笑いながら、うさぎは続けた。 「で、あとは千人くらいのひと。なるべくワカいコで。まあ、これだってなんとかなるでしょ。だってここ、ガッコーだもん」  うさぎは中指と薬指を折りたたむ。人差し指と小指だけ、まっすぐ立っていた。 「ほらみてー。ウサギさんっ」  そう言って、人差し指と小指だけ立たせた。指をウサギの耳に見立てて揺らし、黒雪に見せた。  しかし黒雪は笑わない。ただ戸惑ったような表情を見せただけだ。 「――ごめんなさい」  なぜか謝られた。 「むー。いーけどねー、べつにー」  うさぎはちょっと膨れるが、すぐに調子を戻す。  人差し指だけを立てて、左右に振った。 「まあ、ここからがムズカしいところ。まず、小夜子ちゃんをセットクすること。黒雪ちゃんがいうには、ゼッタイに折れないみたいだけど……」  黒雪は、わずかに目を伏せる。 「そしてさいごに、陽と陰のツヨいララバイ。もちろん、うさぎちゃんのほかでのね」 「らら、ばい……」  言い馴れない様子で、黒雪がその言葉をなぞる。 「夢にいざなう者、という意味でしたか? 外の言葉は難しいです」 「サキュバス、インキュバス、ドリームイーター……なんてよびかたもあるけどね。うさぎちゃんは、ララバイって呼んでる。まあ、黒雪ちゃんにはムマやバクっていったほうが、わかりやすいかなぁ?」  申し訳なさそうに黒雪は首を振った。  わからなかったらしい。 「それで、陽と陰というのは?」 「チカラがちょっとちがうの。ひとの夢をたべるのはおなじなんだけどね。陰のララバイは栄光者をみつけないといけないからちょっとメンドーなんだ……って、わかんないよね」 「……はい。申し訳ありませんが……」 「うーん。ま、とにかく。あの『タネ』ができあがるころまでには、なんとかしとくよ」  黒雪は深々とうさぎに頭を下げる。 「ありがとうございます。私の願いのために……」 「いーっていーって。うさぎちゃんだって、黒雪ちゃんがひつよーなんだし。オタガイサマ」  そのときになって、ようやく黒雪の口元に笑みが浮かんだ。 「みなが幸せに暮らせる世界……作れることを祈っています」 「だいじょうぶ。ゼッタイ、叶えるから。たとえ、なにをギセイにしてもね」  うさぎは無邪気に笑う。  しかし、黒雪は笑えなかった。  わかっていたのだ。この人は、  それでも、黒雪はすがるしかなかった。自分の夢を叶えるために。 「じゃあ、そろそろおやすみ」  黒雪は、そっと目を閉じる。  まぶたの裏には、幸福に笑うひとりの少女が浮かんでいた。 「バイバイ」  子守唄には短すぎる一言をつぶやき、  うさぎは小さく手を打ち鳴らした。   第一章  栄光者は夢を見ない           0  そもそも正樹は夢を見ない。  だから、そんな自分をからかう祖父のホラ話だと思っていた。  あんな鉄の板きれだけで、眠っている人の夢の中に入れるなんて。 「まさかとは思ったけど……」  正樹はため息をついて、あたりを見回す。交差点のまん中で、トラックやいくつかの自動車も巻き込んで、バスが炎を上げていた。煙がまっすぐ、青い空に伸びていっている。  雲ひとつない青一色の空はひたすら静かで、現実感もなにもない。  夢を見たことがない正樹でも、人ひとりいないこのさみしい世界が、夢であることはすぐにわかった。  これが、妹の夢なのだ。  十日前のこの事故に巻き込まれて、妹は昏睡状態になってしまった。  頭を打ったことが原因だろうと診断されたが、脳への損傷はないらしい。ただ、夢を見ているらしいことは脳波などからわかった。  だからその夢に原因があるだろうと思い、祖父の話を半信半疑に試してみたのだが……まさか本当にこれてしまうとは。  どうしたものかと視点を下ろすと、燃え盛る車体の前に、白い服を着た少女がいることに気づいた。  黒い髪が背中まで伸びている。その髪にかかったリボンに見覚えがあった。 「……唯?」  正樹は妹の名前を呼ぶ。  こちらを振り返った少女を見て、正樹はもう一度声をあげた。 「唯!」  ほほ笑みかけてくる少女は、まぎれもなく唯だ。  正樹は駆け寄ろうとするが、三歩も進まないうちに立ち止まってしまった。  ほほ笑む唯の後ろで。  炎が揺らめき、中から人の形をしたものが現れた。  全身に炎をまとったそれは、足を引きずりながら唯のほうに近づいてきた。求めるように前に向けた腕が、熱で耐えられなかったのかぼとりと落ちる。それを引きずった足で蹴りつけながらも、まだ近づいてきた。  現れたのは、一体ではない。次から次へと、唯のほうに近づいていった。 「ゆ、唯!」  唯は気がついていないかのように、正樹へほほ笑んだまま突っ立っている。  やがて、最初の一体が唯の肩に手をかけた。炎が髪を焼き、皮膚をただれさせていく。  唯は、笑顔のまま焼かれていく。 「唯!」  正樹は、そのとき気づいた。  自分が、腰に一本の日本刀を帯びていることに。  とっさに、祖父の話の続きを思い出す。  夢に入れる鉄の板切れは、もとは悪い夢を断つ刀だった。折れてしまった今でも、夢の中ならばもとの形を取り戻す。  正樹は、刀を抜いた。  あとは無我夢中だった。唯に駆け寄り、近づく炎の亡者たちを片っ端から斬りまくった。それが刀の力なのか、それとも敵が弱っていたのか、斬り伏せれば一瞬で消えてしまう。最初から何もなかったかのように。  やがて、最後の一体を斬りつけたとき。 「……お兄ちゃん」  唯の声が聞こえた。  その、亡者の口から。 「え?」  亡者の炎が掻き消える。  中から現れたのは、目から涙を流し、斬られた体から血を流す唯の姿だった。 「……痛いよ、お兄ちゃん……」  血を吐きながら倒れ、その唯は消えてしまった。 「な、なんで唯が――」 「お兄ちゃん?」  後ろから――今まで背中にして守っていた唯から呼びかけられる。  振り返りたく、なかった。 「お兄ちゃんてばぁ」  甘えるような声。聞きなれた唯の声。  それに誘われるように、正樹は振り返ってしまう。  唯は――やはりほほ笑んでいた。  そして、唯の声で言う。 「よくも殺してくれたね」  唯はそれから三日後にはちゃんと目覚め、一週間後には退院できた。  学校にも戻り、傍目にはすべてがもとに戻ったように見えた。  だが、唯にはいくつかの変化があった。  五年も伸ばしていた髪を「意味がないから」という理由だけで、男でもほとんどしないくらいに短く切ってしまった。  それまで「似合わないから」という理由から拒んでいた眼鏡をかけるようになった。  そして、正樹のことを「お兄ちゃん」でなく「兄さん」と呼ぶようになった。           1  正樹は、一年前から毎晩同じ夢ばかり見るようになった。  真っ白い世界で、ひとりの少女が笑いかけてくるのだ。  正樹の通う白船高校の制服を着て、肩まである栗毛色の髪の中に、白いヘアバンドが映える。目は大きめで、まばたきの頻度が多かった。  見かけたら覚えるはずの顔立ちなので、きっと今まで会ったことはない。  そんな少女が、世間話をするように正樹に向かって話し掛けてくるのだ。  声は聞こえなくて、こちらも見ているだけしかできないが、彼女の身振りや表情の変化を見ているだけでも飽きなかった。  だが、同時に罪悪感もあった。  三年前に妹を夢で殺しておきながら、自分は別の夢で遊んでいることに。  そんなときだった。 「あの図書館に、泊まりませんか?」  唯からの誘いを受けたのは。  旧図書館で眠ると、見た夢が現実になる。どこの学校にでもある七不思議みたいなものだった。  問題は、そんな噂のために、あの唯が夜の学校に忍び込むということだ。 「兄さん?」  ドアの前にかがんで鍵を開けていた唯が、正樹を見上げた。  寒さのせいで手がかじかみ、鍵を開けるのに手間取っていたらしい。正樹がライトを当てていたのだが、物思いにふけっていたせいで、いつの間にか光が外れてしまっていたようだ。 「ああ、すまん」  慌ててライトを当てなおすが、 「大丈夫です。開きました」  鍵を見せてくる。鈍色の南京錠に、古ぼけた鍵が刺さっていた。  古いのは鍵ばかりではない。正樹は図書館を見上げながら思った。歴史の教科書からもってきたような洋館で、話によると明治時代からのものらしい。この学校ができる前からこの土地に建っているらしい。  一応、市の文化財に指定されていると聞いたことがあった。 「よく鍵を貸してもらえたな」  中に入っていこうとしている唯の背中に呼びかけた。  唯は不思議そうに首をかしげた。 「用務員さんに頼んだだけですが?」  簡単に言う唯に、正樹は苦笑した。  普通の生徒が頼んだところで、貸してくれるはずがない。  この上村唯だからなのだ。  ときおり、唯が大きな袋を片手に学内を歩いているのを見かけることがあった。ゴミを拾ってまわっているのだ。あるいはグラウンドの草刈だったり、野外トイレの掃除だったり。だれに言われるわけでもなく、ひとりで奉仕作業をしているのだ。  そんなことばかりしているから、用務員にも気に入られている。  唯は、思い出したように言った。 「ああ。そういえば、驚かれました」 「驚かれた?」 「私が図書館の噂を信じることです。そんなにおかしいんでしょうか?」  正樹は、少し考える。 「まあ、噂でここにくるやつらには、素行が悪い連中が多いみたいだからな」  夢が叶うからといって集まるのは、何も夢見がちな乙女ばかりとは限らない。肝試し気分で、男女数人で夜中騒いでいるということもたびたびあるらしい。  唯の眉根が、少しだけ上がった。 「――嘆かわしい」  唯の表情パターンは大きく二種類。無表情でいるか、怒っているかだ。たいていは無表情で、ときどき彼女の道徳観に反するものに直面したとき、怒りが混じったりしている。  そして正樹は、唯が怒っているのを見るのが好きだった。  それが彼女の中に残った、唯一の人間性のような気がしたから。 「……兄さん。人が怒っているのを見て笑うなんて、よろしくないです」  言われて、はじめて自分が笑っていることに気づいた。 「あ、すま――」  謝りかけるが、唯は図書館のドアを開け、中に入ってしまう。大またで、どんどん暗がりの奥に進んでいった。  唯には珍しく、露骨に怒っていた。自分の行動が、彼女の毛嫌いする無法者たちと同じだと気づいて、不機嫌になったらしい。  正樹も唯に続いて、図書館に入る。 「……へえ」  古い木の匂いを感じながら、ライトを照らして中を確認した。  まさに洋館だ。板張りの床に、白い壁。玄関ホールは吹き抜けになっていて、正面に二階に続く階段があった。天井には大きなシャンデリアがあったが、どうやら電気ではなくロウソクで明かりを生み出すものらしい。  ホールの左右に廊下が伸びている。左右対称に四つずつ。ワンフロアに八つの部屋があるらしい。  コートを脱いだ唯はホールの片隅にあったソファに座っていた。テーブルの上にバッグを置き、中を探っている。  その向かいに座ると、唯がバッグから何かを取り出してきた。 「用務員さんにいただきました」  ミカンだった。 「断ったんですけど。食べろって」  どんどん出てくる。あっという間に、テーブルの上にミカンで三段のピラミッドができあがった。  唯と、そのミカンを見つめる。 「食べるのか?」 「普通、図書館は飲食禁止です」  唯が鋭く言った。正樹は、伸ばしかけていた手を止めてしまった。 「しかも、ここは市の文化財に指定されるような場所です」 「……まあ、そうだな。家で食べるか」  まさに、唯の道徳観の中心のような場所だ。  ところが、唯はてっぺんのミカンを取って、皮をむきはじめた。  驚く正樹に、唯が言った。 「食べると、約束してしまったので。ひとつだけ、許してもらうことにします」 「――そっか。約束は、守らないといけない、か」 「あと――気持ちです」 「気持ち?」 「用務員さんは、私のためにミカンを授けてくれました。だから……それには、なるべく応えたいです」 「義理、か」  言ってから、後悔した。 「はい。義理です」  唯は抵抗なく、それを肯定する。  彼女は、用務員に対してなんら好意を抱いていない。いや、抱けないのだ。  だからこそ、その好意に応えようとする。好意を気持ちで返せない分だけ、行動で。  それが、唯の障害。  三年前――昏睡状態から覚めたときから、唯は好悪の感情を喪ってしまった。 「ところで、知ってますか? この図書館の、別の噂」  ミカンを食べながら、唯が唐突に言ってきた。 「別の?」 「幽霊が出るそうですよ、ここ」  そう言って、唯はミカンを口に運んだ。口に物が入っているうちは、絶対にしゃべらない。  唯のゆっくり咀嚼する音が、暗い図書館の唯一の音になった。 「用務員さんから聞いたのですけど。去年の夏休み、ここで夜中に騒いでいたグループがいたそうです。ところが、いきなり明かりが消えて、その瞬間全員が一気に気を失ったとか。そして、ものすごく恐ろしい夢を見たそうですよ」 「夢って、じゃあそれも現実になったのか?」 「わかりません。どんな夢を見たかは、聞いていないので。ですが、そのうちの数人は、原因不明の病にかかって数日は苦しんだそうです」  ミカンを食べる正樹の手が止まった。 「それって、本物じゃ――」 「そうですね。せいぜい、兄さんも気を付けてください」  そう言って、唯は最後のミカンを口に放る。 「お前、そういう話をこの状況でするか?」 「はい。私が眠ったあと、兄さんは一人になってしまいますから。せめてもの置き土産というやつです」  唯は食べ終わったミカンの皮をたたんでカバンに入れた。  ――こいつ、さっき笑ったこと、まだ怒ってたのか。 「寝ます。おやすみなさい」  正樹が文句を言う前に、ソファに横になってしまう。コートを毛布代わりに羽織って、動かなくなった。 「――ったく」  大きく息をついて、正樹はソファにもたれかかった。  手にした懐中電灯を見つめる。信じられないが、この建物には電灯がない。だから、これが唯一の光源となるのだ。  急に廊下の闇が深くなったような気がした。 「……多分、彼らは寝冷えをしただけでしょう。夏とはいえ、薄着で寝ては風邪も引きます」  唯が、ぽつりと言った。  さっきの『原因不明の病』の種明かしだった。 「お前なぁ……」  正樹はため息をついた。  それから自分のコートを脱ぎ、それを唯にかけてやる。 「……ありがとうございます」  小声でそう言ったっきり、もう唯はしゃべらなくなった。  ほどなくして、ゆっくりとした寝息が聞こえてくる。 「――さて、どうしたもんか」  全身に使い捨てカイロを十枚近く貼り付けているが、それでもコートがなければさすがに寒かった。今年は暖かいとはいえ、二月の冬だ。荷物になると思ってやめたが、やっぱり毛布くらいは持ってきたほうがよかったかもしれない。このままでは、とても眠れそうになかった。 「寒いと、眠くなるって言うんだけどな」  正樹がそんなことをつぶやいたとき。  ドン――  二階のほうで、重い物が落ちる音がする。  それは玄関ホールの正樹の耳にもはっきりと聞こえた。  反響音まであった。聞き間違いではない。 「……おいおい」  軽い口調でそういおうとしたが、うまく唇が回らなかった。  情けない。唯だったら、物怖じなどすることなく、調べにいっただろう。  だが、さすがにここで唯を起こすことはできない。兄としてのプライドがあった。 「あー、くそっ」  正樹は、別の懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。  放っておくわけにはいかない。幽霊はともかく、不審者かもしれない。  ――幽霊、か。  正樹は制服の内ポケットから何かを取り出した。  長さ十五センチくらいの、細長い布の袋だった。黒地に赤と金色の錦で朝顔の絵が織り込まれている。一応、鉄が入っているので大きさの割りにずっしりと重い。  祖父の形見だ。  三年前から机の奥に閉まって触らないようにしていたが、持ってくることにした。  唯と夢――このふたつの言葉がつながったことに、妙な胸騒ぎを覚えたからだ。  もとは刀だったというし、変な能力もある。お守りがわりにくらいにはなるかもしれない。  それをポケットに戻すと、立ち上がった。  階段の下から、二階を照らす。だが、一階からでは何も見えなかった。  慎重に階段を上っていった。一歩ごとにミシリと足場が鳴るのが、心臓に悪かった。  階段をすべて上り終える。自分の息が荒くなっていることに気づいた。心拍数も速くなっている。  嫌な感じがする。  まっすぐの廊下で左右を見回しても、だれもいない。八つあるすべてのドアも、全部閉まっていた。  とりあえず、左の部屋からしらみつぶしに探してみることにした。  一つ目のドアを押し開け、中を照らす。 「――っ」  壁際に光るものがあった。  一瞬驚くが、なんてことはない。窓ガラスに正樹のライトが映っただけだった。 「……アホか」  八畳ほどの部屋には、両壁に天井まである本棚があるだけで何もなった。  他の部屋も同じように調べる。ふたつは鍵がかかっていて、もうひとつは最初と同じ構造だった。 「ふう」  だんだん、緊張しているのがバカらしくなってきた。最初に聞こえた音というのも、今思うとやっぱりただの聞き違いだったのではないか、とすら思ってきた。  さっさと終わらせて下に戻ろう。そう思って反対側の廊下に明かりを向けたとき、なにかがおかしかった。  一番奥の左側のドアが、開いている。  おぞ気が、背中を駆け上った。  二階に上がってきたとき、すべてのドアは閉まっていたはずだ。間違いない。開いていたら、絶対に気づく。 (行くしかないか)  正樹はこれまで以上に慎重に、開いているドアに近づいていった。だが、どうしても踏み出したときに、床板がきしむ音を鳴らす。まるで、この図書館全体で正樹をからかっているかのようだ。  ドアの手前で、意を決する。  息をため、一気に飛び出す。  部屋の中に光を当てた。  中には――だれもいなかった。  ただ、右の本棚の下に、一冊の本が落ちていた。 「…………」  正樹は警戒しながら、部屋の中に入る。  本のほかには、異常なものはなかった。本棚にはぎっしりと、大小さまざまな本が並んでいる。小説や学術書、辞書や図版など。製本されているものだけでなく、紙を束ねただけの冊子もかなりあった。  落ちていた本を拾い上げる。『夢喰怪異考』。何かの学術書だろうか?  中を開こうとしたとき。  ドアが閉まる音がした。  慌てて振り返る。ライトを向けようとしたが、手を滑らせ落としてしまった。  ライトの明かりが回転する。  躍る光の中、床を滑るように黒いモノが近づいてくる。  それは正樹の前で大きくなり――。  パン。  目の前で、両手を打ち鳴らされた。  正樹は驚いて目をつぶる。  ……が、なんてことはなかった。いわゆる、猫だまし。痛くもなければかゆくもない。 「あ、あれ?」  襲撃者は間の抜けた声を出した。女性の声だ。  それで、正樹は我に返る。 「だ、だれだ!」 「え? あ、やば――」  彼女のほうも逃げようとしたか、正樹に背を向ける。とっさに正樹はその肩を掴み、こちらを振り向かせた。  驚いた少女の顔。白いヘアバンドがあった。 「なっ――」  正樹は言葉を失った。  混乱しているうちに、少女の表情に力が宿る。 「はなせぇぇぇ!」  とっさに横の本棚から本を抜き取ってくる。大判の、とてつもなく重そうな本だった。  それを、正樹の頭に向かって振りぬいてきた。  ゴツ、という衝撃を感じて間もなく、正樹の視界はブラックアウトする。  だが、そのときになっても、まだ正樹は混乱から覚められなかった。  正樹を殴り倒した彼女。  彼女は、正樹の夢に出てきた少女だった。           2  目の前は、とにかく白だった。  ――ああ、これは夢か。  この一年で見慣れてしまった光景だ。一点の曇りもない、白い世界。そしてそこにいる一人の少女……。  そのはずだが、今日はだれもいない。白いばかりだ。  殴り倒される直前のことを思い出した。いきなり目の前に現れたのは、間違いなくあの少女だった。  夢が現実のものとなる図書館。バカらしい噂だ思っていたが――この夢にあの少女がいないのは、そういうことだろうか。  そのとき、声が聞こえた。 「あら。まっしろ」  白い世界に、黒い影が現れる。  それは、黒い着物を着た少女だった。唯よりもふたまわりほど小さい。まだ子供といっていい。まっすぐに切りそろえられた黒髪と新雪の色をした肌は、日本人形を思わせた。 「栄光者は夢を見ない、か」  彼女は独り言をいいながら、ぶしつけにあたりを見回している。  ――だれだ?  ためしに呼びかけてみる。今までいたあの少女は、こちらから何を呼びかけても何の反応もなかったが。  だが、この黒い少女は正樹のほうに目を向けてきた。聞こえているのだ。 「黒雪、とでも名乗っておこうかしら。すぐに出てくから、殺さないでね?」  不穏当なことを言う。落ち着いた口ぶりで、本気か冗談かわからない。  だが、思い当たることがあった。  この少女は、あの力のことを言っているのだろうか? 「さて。本当に何もないようだし。さすがに息苦しいし」  正樹が尋ねる前に、黒雪は背中を向けてしまった。 「さようなら。これっきりになることを祈るわ」  別れの言葉を告げて、黒雪は消えてしまった。  再び白一色に戻った。  やがて、正樹の意識も薄らいでいく。  目の前にあるのが顔だと認識するまで、しばらくかかった。 「あ、起きた起きた」  そう言って笑うのを見て、慌てて彼女を押しのけた。 「いやー、よかったよかった。元気そうで」  飛び起きた正樹を見て、ヘアバンドの少女はにこやかに笑う。  彼女は床に膝をそろえて座っていた。どうやら今まで、膝枕をされていたらしい。 「やっぱり、キスをしたら目覚めるって伝説は本当なんだねぇ」 「き、キスゥ!」  そういえば目覚めたときの顔の距離は、普通ではなかった。正樹は自分の唇に手を当ててしまう。  少女は、はっとした顔つきで、申し訳なさそうに言う。 「あ、もしかして初めてだった? ごめん……。えっと、こういうのって……責任とらなきゃいけない――よね?」  そう言って、上目づかいで見つめてくる。暗がりの中でも、彼女の目が潤んでいるのがわかった。  正樹は、まばたきを繰り返すことしかできない。 「――なぁんて」  彼女が、いたずらっぽく笑った。  制服のスカートの埃を払いながら立ち上がった。 「じょーだんよ、冗談。キミの貞操はちゃんと守られてるよ」  どうやら、からかわれていただけらしい。  急に恥ずかしくなってきた。それと同時に、怒りも沸いてくる。 「なんなんだ、あんたっ」  笑っていた少女の表情が、固まった。 「いきなり人を殴り倒しておいて、謝りもしないで!」 「あ――うん、そう、だったね」  少女はしゅんとする。 「……ごめん」  意外なことに、素直に謝ってきた。なんとなく、笑いながらはぐらかしてくるんじゃないかと思っていた正樹は、雰囲気の変化に戸惑いすら覚えた。  彼女は、うつむきながら続ける。 「でも……本当に心配したんだ。モロに頭に入っちゃったし。ぜんぜん起きなかったから。このまま……死んじゃったりしたらどうしようかって……」  最後のほうは、聞こえないくらい小声になっていた。  それっきり、黙り込んでしまった。 「……まあ、その、なんだ――」  沈黙に耐え切れなくなって、正樹は頭をかく。 「反省してくれてるなら、いいよ。俺のほうも、なんか驚かせちゃったみたいだし」 「――怒って、ないの?」 「ああ」  少女は、安心したように大きく息を吐いた。 「よかった……」  その様子を見て、正樹はなんとなくわかった。  はじめの、この子の妙なテンションの高さは、正樹が目覚めたことを喜んでのことだったのだ。なにも、悪気があったわけじゃない。  なんだか、今度は正樹のほうが申し訳ない気持ちになってきた。  が――。 「まあ、こんないたいけな女の子を怖がらせたんだから、普通は殴られても文句は言えないはずだし」  彼女は、ひとかかえはある分厚い資料を拾い上げて、ほほえんだ。ちょっと角がへこんだ背表紙には、『日本の活断層・中部編』とあった。  ――こんなので殴りつけられたのか。 「いたいけな女の子は、殴ったりしないと思うけど?」  彼女は、ウインクをひとつ。 「キュウソ猫を噛む、ってね。ちゅー」  こつんと、正樹の額を小突いてきた。 「ま、恨みっこナシってことで。不法侵入の共犯なんだし、仲良くいこうよ」  しおらしくなったり調子よくなったり。もう怒る気すら起こらなかった。 「ねえ、キミの名前は?」 「上村。上村正樹。二年」 「正樹ね。おっけ」  わざわざ苗字を繰り返したのに、名前のほうで呼んできた。 「呼び捨てかよ?」 「んー。だって、後輩でしょ?」  ちょっと驚いた。この騒がしい人、三年生なのか。後輩か、せいぜいが同い年かと思ってたのに。  彼女は笑いながら言う。 「あたしのことは、小夜子おねーさんって呼んでいいわよ」           3 「じゃあ、卒業前の記念ってわけですか?」  正樹は、小夜子と並んで階段を降りる。 「んー、まあそんなところかなぁ」  三年生は二月に入ってから自由登校になっている。受験などで忙しいだろうということで、三月頭の卒業式まで学校にはこなくてもいいのだ。 「でも、どっから入ったんです? 玄関の鍵は閉まってましたし」  小夜子は不思議そうな顔をした。 「どっからって……一階の廊下の窓に決まってるじゃない。みんなそこから入ってるよ? 鍵、壊れたまま直されてないから」  そうか。だから、次から次へと侵入者が後をたたなかったのか。学校もはやく直せばいいのに。  しかし、もしかしたら市の文化財ということで、勝手に手を加えることができないのかもしれない。 「――その様子じゃ、本当に知らなかったみたいだね。いったいキミはどっから入ってきたのさ」 「玄関」 「はあ?」  まあ、そりゃそうだ。普通、信じないだろう。 「妹が、ちょっと顔が利くので」  ちょうどホールに戻ってきたので、正樹はソファに横になっている唯を指した。 「あ。あの子――」  小夜子は驚いたようだった。 「知ってるんですか?」 「友達が、ちょっとしたファンなんだよ。一年生に『正義の味方』がいるって。そっか、キミに妹さんだったんだ」  そう言って小夜子は寝ている唯の頬をつっつく。 「ふにふにしてるー」  ご満悦のようだ。 「この子も学校で眠ることあるんだねぇ」 「ん? どういう意味です?」  まるで、唯の睡眠事情を把握しているかのように聞こえた。  一瞬、小夜子は固まったように見えた。 「あー。つまり、絶対に学校じゃ眠らないようなタイプ、ってことかな?」 「まあ、たしかに。意地でも寝ないでしょうけど」  正樹も唯のことを常に見ているわけではないが、授業中に居眠りしている姿を想像できなかった。 「この子の夢って、何かな?」  唯の枕もとに座って、小夜子が尋ねてきた。 「この子の夢を叶えるために、ここにきたんでしょ?」 「――先輩には、関係のないことです」  思った以上にとげを含んでしまった。  遠慮するような口ぶりで、小夜子が言う。 「ずいぶん、深刻なことらしいね」 「そう思うなら、訊かないでください」 「……だったらなおさら。この子起こして、家で寝かしてあげるべき」  諭す言葉に、正樹ははっとする。  小夜子は笑っていなかった。哀れむような目つきで、正樹のほうを見つめている。 「夢になんかすがったところで、ろくなことにならない」  反論できないくらい、きっぱりと言い切られた。  だが、言い返すしかない。 「……しょうがないじゃないですか。もう、こんな場所に来るくらいしか、こいつには希望がないんだから」 「なら、あきらめなさい」 「んなっ」 「夢見ることぐらいでしか叶えられない夢なら、あきらめたほうがいいでしょ。だって現実じゃ叶わないんだから」  冷めた口調。 「なにも知らないくせにッ!」  気づいたら、正樹は小夜子の胸倉をつかんでいた。 「夢で現実が変わるくらいなら、世界じゅうの人が幸せになってるよ」  顔色ひとつ変えずに、小夜子はささやくように言った。  正樹は、つかんでいた手を離す。  テーブルの上に座りこみ、自然と、唯のことを話していた。 「……そいつは……唯は、もとの自分に戻りたいんです」 「もとの?」 「唯は、自己紹介をするとき、必ずこういいます」  知らないうちに、正樹はぐっと手を握っていた。固めた拳が、小刻みに震える。 「自分は、壊れていると」 「壊れてるって――」 「簡単に言えば、物事を好き嫌いで判断することができない。きれい、おいしい、楽しい、うれしい……そして、怖い、痛い、つらい……そんな感情を唯はもう感じることはできない。だから――正義なんです」 「んむん」  小夜子は少し考えて、 「――イドの消失に際し、超自我がその機能の一部を請け負った――てことかなあ?」 「え?」 「ああ、ごめん。つまり『好きか嫌いか』の代わりに、『いいか悪いか』で動くようになった、てこと?」  正樹はうなずく。  さっき小夜子は唯を『正義の味方』といったが、まさにそのとおりだった。自分の道徳観――正義を貫くためには、どんな苦労もいとわないし、何ものも恐れない。 「テレビなんか、時代劇しか見ないんですよ。必ず正義が勝つのは、時代劇くらいらしいです。ニュースを見てたら、それだけでテレビを消してしまう」  ブラウン管の向こうで行われている悪事に、我慢がならないのだろう。 「そして、唯をそんな風にしてしまったのは――俺です」 「キミが?」 「信じてもらえないかもしれませんけど――」  正樹は、懐から形見を取り出した。  袋の封を解き、中身を見せる。 「《蕣(あさがお)》って言うらしいです。これで人の夢の中に入り込み――そして夢を壊すことができます」  両手で握れば隠れてしまう大きさの、一本の鉄の板だった。まん中に穴が空いており、表面にはヤスリのような溝と、文字が刻まれていた。  小夜子はまじまじと見つめる。  見やすいように小夜子のほうに近づけるが、 「おわっ!」  大げさにのけぞった。  訝る正樹に、慌てて小夜子が言った。 「それ、日本刀の茎(なかご)だよね?」 「あ……はい」  茎は、刀の柄に包まれた中身の部分のことだ。まん中の穴に木の釘を刺し、柄と固定する。本来は刃もついているものだが、折れてしまって今はその根元しか残っていない、というわけらしい。 「つまり、キミが妹さんを傷つけてしまったから、もとの妹さんに戻ってほしいんだね」 「……え? 俺がっすか?」  小夜子は思いっきり、見せつけるようにため息をついた。 「妹さんは、キミのためにもとに戻りたがっているんだ。だったら、簡単じゃない。キミが認めてあげればいい。今の唯ちゃんを」 「な、なんでそうなるんですか!」 「じゃあなんでそうならないと思うの? キミは認めてあげたの? 結局、自分がしたことを認めるのが怖いだけじゃない」  冷めた口調だった。怒りに熱くなることなく、正樹のことを冷静に批判しているのだ。 「認めるのは大変だと思うけど。でも、それじゃ妹さんがかわいそうだ」 「俺の、せいなんすか?」 「言い切れないけど。でも、キミが受け入れてあげれば、全部解決する。だって唯ちゃんは、今の自分でがんばろうとしてるじゃない」  正義を貫く。たしかにそれは、今の唯がしていることだ。 「とにかく、起こすよ」  正樹は、うなずく。 「よし。えらいぞ」  そう言って、小夜子は唯の肩を揺り動かそうとする。  だが――。 「泣いてる……?」  小夜子の後ろから、正樹は唯の顔を覗き込んだ。光を当てると、左目から涙が下に流れているのがわかる。  妙なことに、涙は左目だけからしか流れていなかった。 「――まさか」  小夜子は唯の両目のまぶたを開き、そこに光を当てる。 「せ、先輩?」 「黙ってて!」  次に鼻に耳を当てる。呼吸を確かめているのか。  そして、唯の手に自分の指を押し当てた。右と、左。左だけ、握り返してくる。 「左半身だけ……つまり右脳か」 「どうしたんすか?」 「夢を見てる。しかも、右脳ばかりが動いてる――まずいよ。持続性傾眠症の症状」 「持続性――なんです?」 「だから……ああ、なんで知らないかなぁ!」  そんなことを言われても、知らないものは仕方がない。 「副交感神経が――っていってもわからないか。早い話、眠り病だよ。このままだと、唯ちゃんは目覚めない」 「まさか」 「あー、もう。なんで『夢に入れる』なんてことを信じろって言う人が、眠り病を信じないかなっ」  唯は普通に眠っているようにしか見えない。たしかに左目からは涙を流しつづけているが、ほかに変わった部分は見られなかった。  しかし、小夜子の取り乱しようは切迫したものを感じさせた。 「わかりました。それで、どうしたらいいんですか? 病院とか?」 「病院……いや、この状態だと手遅れになるかも――」  小さくつぶやく小夜子の言葉を聞いて、正樹は驚いた。 「手遅れって、眠りつづけるだけじゃないんですか?」 「そうだけど、この場合はそれだけじゃないわけで……あ、そうだ」  小夜子が、正樹の手を指差した。 「それ。えっと、《蕣》だっけ? 夢に入れるって言うんなら、それで直接起こしてくればいい」  いきなり、そんなことを言い出した。 「っていうか、信じたんすか? あの話」 「なに? 嘘だったの?」 「あ、いえ……そういうわけじゃないですけど」 「なら、問題ないじゃない。夢の中の唯ちゃんをゆすり起こせばいいだけなんだし」  正樹は、《蕣》を見つめる。  もう一度、唯の中へ? 「だ、ダメです! 俺はもう、こんなもの使いたく――」 「バカ! 使うべきところで使わないで、どうすんのよ!」  その言い方に、正樹ははっとした。  この人は、自分にチャンスを与えようとしているのではないだろうか。ここで唯を助けることで、自信を取り戻させようとしているのではないか。 「ああ、もう! やるの? やらないの?」 「あ、やります……」  勢いよく迫られ、思わず答えてしまった。  小夜子は大きくうなずく。 「よしっ。それでこそ、おねーさんの後輩よ」 「……さすがは先輩ですよ。ほんとに」  強引だった。  正樹は、唯の横に座る。  《蕣》をもつ右手が震えていた。 「くっ」  握りなおし、震えを止める。  《蕣》の端を唯の額に当てる。そのまま、ゆっくりと鼻筋にそって引いた。  引いた通ったあとが、青白く光る。  これで、つながった。 「じゃあ、行ってきます」 「おう。行って来いっ」  正樹は自分の額を青い光に当てようとして、もう一度小夜子を見た。 「先輩、ありがとうございます」  そして、自分の額を唯の額に当てた。           4  夢の中で目覚める。 「ここは……」  目を開くと、映画館の中だった。  座席数は五十くらいか。客はだれもいない。薄暗い空間の中、スクリーンが強い光を当てられていた。  本当に夢の中だろうか。そう思って、自分の体を確認する。そして、今までなかったものに気づいた。  腰に、日本刀を帯びている。  完全な形になった《蕣》である。 「…………」  確信する。これは、夢の中だ。  カラカラと、映写機のまわる音に気づく。  思い出した。  これは、正樹の母親の実家にあった映画館だ。子供のころ、唯と二人でアニメ映画を見に行ったのだ。  目がなれてきて、スクリーンの中の映像を見ることができるようになる。  中には、唯がいた。ただし、今の唯ではない。  リボンをかけた、背中まで届く髪。着ているのは白船高校の制服だが、間違いなくそれは、三年前――正樹が傷つける前の、《唯》だった。 『お兄ちゃん、一緒にいこっ』  《唯》は、家の玄関先に待っていた学ランの男の腕に抱きついた。《正樹》だ。優しく笑いかけて、唯の頭をなでてやった。  《唯》はくすぐったそうにしながら、抱きついた《正樹》の腕にほお擦りした。 『お兄ちゃん、大好きっ』  《唯》は《正樹》のほうを見上げる。 『お兄ちゃんは、唯のこと、好き?』  スピーカーから聞こえる《唯》の声に、吐き気を覚えた。  これは、永遠に失われた光景だった。いや、もうひとつの――もしかしたら、ありえたかもしれない光景。  自分が壊してしまった、未来の姿だ。  それを思っただけで、胸が苦しくなった。  ――先輩の言うとおりだ。  正樹は、自分のしたことを見たくないだけだった。こうして、直接見せられれば、嫌でも理解せざるを得ない。  なんて身勝手なやつだ。唯を追い詰めていたのは、昔の正樹ではない、まさに今生きている正樹そのものだったのだ。  終わらせなければいけない。 「ああ、しっかり劇場化してるわね」  振り返ると、黒い少女――黒雪がいた。 「ごきげんよう。また会ってしまったわね」 「あんた、いったい……」 「教えてあげてもいいけど、今は悠長に自己紹介を交わしている暇なんてないようよ?」  黒雪はスクリーンのほうに視線をやる。 「これ、劇場化っていって、人がララバイになる最終段階よ」 「ララバイ?」 「夢を喰う化け物、というところかしら」 「化け物って……唯が?」  信じられなかった。  それを読み取ったか、黒雪が皮肉めいた笑みを浮かべた。 「信じられない、かしら? おかしなことを言うわ。あなただって、似たようなものじゃない」 「俺が?」 「その腰に差しているもの、《グローリー》でしょ?」  正樹は、《蕣》を見やった。夢に入り、夢を壊せる刀。  たしかに、化け物と言えるかもしれない。  黒雪はスクリーンのほうに歩き出した。正樹もあとを追う。 「どうするつもりだ?」 「もちろん、止めるのよ。これ以上そんなのが増えても、困るだけだもの」  スクリーンの前までやってくる。と、座席の一番前に、だれかが座っているのに気づいた。  唯だ。  うつろな目をして、じっとスクリーンに流れる、唯と正樹の姿を見ていた。 「劇場化は、自分の《意識》が自分の《夢》を見ているという構図からなるわ。そして、現実であるところの《意識》が《夢》を完全に欲してしまったら、入れ替わってしまう。《夢》の中の自分とね」  正樹はスクリーンを見上げた。この、髪の長い、子供のくせに大人ぶって、泣き虫で意地っぱりの《唯》が――現実に戻ってくるというのか。  化け物になって。 「どうやって、止めるんだ?」  黒雪はスクリーンの前に上がる。映写機の光をさえぎっているはずなのに、不思議とスクリーンに影が映ることはなかった。  正樹のほうを振り返る。  スクリーンの光を後ろにしているせいで、うまく表情が読み取れない。  だが、ひどく残酷な顔をしている気がする。 「簡単よ。《夢》を、殺すの」  そして、スクリーンの中に、消えた。 「――なっ」  黒雪は、映画の中に入ってしまった。スクリーンの中の唯も、いきなり現れた黒雪に反応する。 『な、なに?』  スクリーンの中で、《正樹》の後ろに隠れた。 『あなたの知るところではないわ』  そう言いながら、黒雪は右手を払う。  何かが飛び、《正樹》に突き刺さる。黒雪が手元をひねると、それだけで《正樹》の腹は横一文字に切断された。 『いっ――』  血しぶきを浴びながら、《唯》が道路にへたれこんだ。 『次はあなたよ』  黒雪は、武器を手に戻す。鉤状の刃物に、鎖をつなげたものらしい。鉤の先端からは、赤い血が滴り落ちている。血だけでなく、肉片も混じっていた。 『――――』  《唯》が、声にならない悲鳴をあげる。それと同時に――。 「……うくっ……」  スクリーンのこちら側の唯も、うめき声を上げた。 「……くそ」  正樹もスクリーンの前に上る。中に入ろうとするが、 「な――なんで!」  それはただの幕で、水でも煙でもない。触れても揺れるだけで、向こう側に行けるはずがなかった。  そんな当たり前のことが、今の正樹にはもどかしい。 「くそっ! おい、お前、ちょっと待て!」  と、スクリーンの中で、黒雪が首をかしげた。正樹のほうに、向き直る。 『何を待てというの? まさか放っておいて、妹さんを化け物にするつもり?』  スピーカーを通して言ってきた。 「違う! だけど、なんかほかにやりかたあるだろ!」 『何を心配しているかわからないわ。大丈夫よ、すべて終わってしまえば、現実の妹さんはこんな夢を見ていたことすら覚えていないから』  ――そうは言っても……。  正樹は振り返り、唯を見る。  顔を辛そうにゆがめている。このまま苦しんでいるのを、放ってはおけない。  正樹は、《蕣》を鞘から引き抜いた。  銀色の刃が姿をあらわした。光の中で、まっすぐの刃紋が浮き立つ。  それが、翻った。  正樹が、スクリーンを斬りつけたのだ。  ななめに切り込みが生まれ、スクリーン全体が揺らめいた。映っている景色も一緒に揺れるが、切り込みの中だけは動かない。  こちら側とつながった。  正樹は、そこに飛び込んだ。 「お、お兄ちゃん?」  《唯》の声。  顔を上げると、正樹の家の前だった。見慣れた住宅街。さっきまで、スクリーンの中にあった景色だ。  血まみれになった《唯》が、黒雪の背中の向こう側にいた。  黒雪も首だけで振り向く。 「あら、来てしまったのね」  さして興味もなさそうにつぶやいて、唯に戻ってしまった。 「待てよ、化け物」  正樹の言葉に、もう一度、黒雪は振り返った。今度は、体ごと。 「お前が、そのララバイなんだろ?」  黒雪はため息をつく。 「ようやく気づいたのね」 「――ふざけろ」 「でも、妹さんがララバイ化しかけているのは、本当よ。誓ってもいいけど、私は嘘はなにひとつついていない。あの子を消し去らないと――」  黒雪は《唯》を指差す。《唯》は「ひっ」と小さくうめいて、体を固くした。 「妹さんは、私と同じ、夢を貪るあさましい化け物になってしまう」 「じゃあ、お前はなんでそれを止めようとするんだ?」 「同族が増えたっていいことなんてひとつもないわ。この学校は私の縄張りなの。下手な新人に、荒らされたくないのよ」  ――じゃあ、こいつは何度も生徒の夢を食ってきたのか。  正樹は《蕣》を握る手に力を込めた。  そして、踏み出そうとした瞬間――。  地鳴りがした。 「な、なんだ!」  立っていられないほどの揺れだ。道路に膝をつきながら、あたりをうかがう。  黒雪だけは、何事もないかのように空を見上げている。 「臭いくさいと思っていたら。やっぱりいたわね」  何か、肉の引き裂かれるような、生々しい音がする。音は次第に大きくなり、  そしてそれが現れた。  正樹の家の地面の中から這い上がってくる、巨大な蜘蛛。トラックぐらいの大きさはある。全身がまっしろで、八つある眼だけが炎のように赤く輝いていた。 「これは――」 「サーバント。ララバイの、使い魔みたいなものかしら? でも、こんなに大きいのはさすがに見ないわね」  こんなときでも、黒雪は冷静だった。 「お前が出したのか?」 「冗談じゃない。こんな趣味が悪いの……主人は、あいつしかいない――」  血を吐くような言葉。  黒雪が、初めて表情をあらわにした。  それに見とれていたせいか――。  蜘蛛が正樹に向かって、前脚を振りかぶっていたころに気づけなかった。 「なっ」  気づいたころには、木の幹ほどもある太い脚が、頭上に迫ってきていた。  やられる――。  そう思った瞬間。  体が浮き上がる。  体のはるか下で、蜘蛛がだれもいなくなったアスファルトを貫いているのが見えた。 「まったく、世話のかかる子ね」  黒雪だ。正樹の襟首を掴んだまま、跳躍したのだ。  地面に着地する。正樹は受身も取れず、したたか尻を打った。 「来るわよ」  蜘蛛は、すぐにこちらに向き直った。道幅よりも大きな体で、強引に突進してくる。  壁や家々が破壊されていく。  唯の夢が、踏みにじられている。 「くそっ」  正樹は、《蕣》を構える。  だが、後ろから止められた。 「そのまま真っ向から斬り込むつもり? やめときなさい。夢の中とは言っても痛みは本物だし、死んだら永遠に朝日は拝めなくなるわよ」 「だけど、このままじゃ」 「そう。だから、こうするの」  パン、と手を打った。  その瞬間、地面から、そして中空から鎖が出現して、突進してくる蜘蛛の巨体を絡めとる。  だが、それでも蜘蛛は近づいてくる。幾十にも巻きついた鎖も、次々とちぎりとばしていった。 「しぶといわね」  今度は、足を動かす。赤い鼻緒の下駄で、アスファルトを蹴りつけた。  蜘蛛の体が少し浮く。その背中から、巨大な槍が姿をあらわした。いや、それは地面から蜘蛛を貫いたのだ。  ピンで留められた形になって、今度こそ蜘蛛の進行は止まった。 「どういうことだ?」 「この夢を支配しただけよ。この空間は、もう私の意のままに動く」  そう言って、指を鳴らす。  正樹の頭に、何かが当たった。 「ん?」  手にとってみると、こんぺいとうだった。星型の菓子が、空から落ちてきた。 「……で、あいつはどうするんだ?」  そう言って、蜘蛛を示した。  鎖につながれ槍に刺され、それでも脚をうごめかせてもがいている。口から緑の液を撒き散らしながら、雄叫びを上げていた。 「食べないわよ? 同族食いはいろいろ面倒だし、なによりまずそうだもの」 「そうじゃなくて――」  ごう、という音に言葉がさえぎられた。  蜘蛛が、口腔から火球を放った。  正樹の背丈よりも大きく膨らんだ火の塊が、高速で飛来する。  横で、黒雪が慌てて手を合わせようとする。だが、間に合わない。完全に虚をつかれた彼女に、何かできるとは思えない。  熱がたしかな質量をもって迫ってくる。灰も残らないだろう火力。あと半瞬で終わってしまうというとき――。  正樹は《蕣》の切っ先を火球に向けた。  切っ先に火球が触れた瞬間、《蕣》に吸い込まれるかのように消えてしまった。  炎も熱も、一切が。  残された熱風の余波だけが、正樹と黒雪の髪を揺らす。  蜘蛛との間の道は、火球の熱で融けていた。壁も地面も電柱も、チョコレートのように柔らかくなり、形を崩している。  そんな火球を、正樹の《蕣》は、触れただけで消し去ってしまった。 「《グローリー》――暁の化身――夢の殺し手……」  浮いたように、黒雪がつぶやく。まだ立ち直っていないのか、上げた両手を下ろせないでいた。  正樹は、切っ先を向けたまま蜘蛛に近づいていく。  蜘蛛はそれを阻むように、次々と火球を放ってきた。  だが、正樹は意に介すことなく歩きつづける。火球は《蕣》によって消されてしまう。陽炎と風だけを残して。  それは、朝日が夜の闇を駆逐するのに似ていた。  正樹は蜘蛛の眼前にまで来る。  その口腔に《蕣》を埋めていく。  蜘蛛が、最後に何かを叫んだようだった。しかし、その声すら聞こえない。  蜘蛛は、空気に溶けるようにして消えてしまった。  巻きつくものを失った鎖が解け、地面に落ちて高い音を鳴らした。 「――お兄ちゃん!」  正樹は目を疑った。  消えた蜘蛛の向こう。そこに、黒雪に拘束された《唯》の姿があった。 「なっ」  振り返るが、熱で歪んだそこにはもう黒雪の姿はない。 「さっきは助かったわ。これで、貸し借りなしね」 「くそっ」  正樹は黒雪に向かって走る。だが、絶望的な距離があった。  黒雪は暴れる《唯》を強引に押さえつけ、自分のほうに向かせる。 「待て!」  黒雪は、《唯》の唇に口付けをした。  《唯》の目が驚きで見開かれる。だが、すぐにうっとりとした表情になり、手足から力が抜ける。 「やめろぉぉぉぉ!」  だらりとした指先から、《唯》の体が消えていった。   第二章  子供たちは夢で遊ぶ           0  彼は学校では眠ることが多かった。  眠いわけではなく、用事も友人もない時間をすごすのに、都合がよかったからだ。  だがある日、奇妙な夢を見た。  そこは学校そのままだった。ほかに人はいない。ただし、教室の中には白い膜の中で眠る者が何人かいた。  膜の中では、別の世界が広がっているようだった。おぼろにしか見えないが、どうやらそれはその人の見ている夢のようだった。  やがて、彼は気づく。これは、学校の見ている夢だと。自分は、そこに迷い込んでしまったのだ。  それから、何度も入るようになった。一度コツがわかれば、その学校の夢に入ることは難しくなかった。  そのうち、同じように迷い込んだ人と会うようになった。起きているときは人と話すのが苦痛だった彼も、夢の中では難なく会話することができた。同じ秘密を共有する仲間だからだろうか。  暗黙のうちに、ルールができた。この場所のことは黙っていること。それぞれ、現実のことは詮索しないこと。現実と夢とは分けて考えること。  そして、そこの名前も決まる。古典の授業でおぼろげに聞いた故事の名前を覚えていたのだ。  古い国の王が午睡の最中、理想の国に旅立ち、そこで遊んだという話だった。  これが、華胥の夢の噂である。           1  目覚めた正樹は、感触が違うことに気づいた。  頬の下の枕が暖かい。やわらかくて、すべすべしている。気持ちよくて、思わずそこに顔をすり寄せてみたが――。 「ちょーしに乗りすぎ!」  コメカミに重い一撃が落とされた。 「――ッ」  そのまま転げ落ちる。頭を押さえながら顔を上げると、ソファに座った小夜子が半眼で見下ろしていた。唇を尖らせながら。 「まーさーきーのーへーんたぁい」 「えぇ?」 「こっちは好意で膝を貸してやってるのに、フトモモにキスしようとするなんて。ああ、信じらんない。おねーさん、アンビリーバボー」 「しょ、しょうがないじゃないですか! 寝ぼけてたんだから」 「うわっ、開き直ったよこの人。あー、やだやだ。寝起きとかって、いちばん本性が出るときじゃない? きっとホンモノのヘンタイさんなのねぇ。唯ちゃんが知ったら――」 「ごめんなさい」  唯は、勘弁してほしい。  頭を上げると、小夜子は満足げな笑みを浮かべていた。 「素直でよろしい」  勝ち誇った笑顔の小夜子。  それを見て正樹は不安になった。この人には、弱みを見せてはいけなかったんじゃなかろうか? 「で、その唯ちゃん、どうしたの?」 「あ……」  思い出した。  今まで唯の夢に入っていたのだ。  そして、黒雪というララバイに、唯の夢を食われてしまった。  正樹はその一部始終を、小夜子に伝えた。 「そっか」  感慨深げに、小夜子はうなずいた。 「でも、よかったじゃない。唯ちゃんが、そのララバイにならなくて」 「そりゃそうですけど……」  だからって、もっと別の方法はなかったのだろうか。いくらなんでも、食われて終わりというのは、唯がかわいそうな気がする。 「でも、夢を食われたらどうなるんですかね?」 「オトナになる」  小夜子は意味のわからないことをいった。と、一冊の本を見せてくる。  『夢喰怪異考』。昨日、正樹が二階で拾った本だ。 「まあ、たまたまこれ読んでるときに、キミが来たんだけどね」  正樹に突きつけてきた。 「読んだら、大体わかると思うよ」  受け取って中身を見るが、漢文まがいの文章が並んでいるだけでちっとも読めない。 「あはは。つまり、夢を喰われた者はその夢――理想をあきらめてしまう。縁があえば別の理想を描くし、そうでなければもう見ない」 「それって……夢も希望もないってことですか?」  小夜子はちょっと考える。 「そもそも、キミは思い違いをしてるんじゃないかなぁ?」 「なんです?」 「何かを目指すということは、ふたつある。自分ができないことを望むのと、できることをやること。夢っていうのは前者のことで、後者は……なんていうんだろ?」  なんだか、どこかで聞いたことがあった。  そう。あれはクラスメイトの女の子と話したことだ。彼女は「現実に関係なく、自分がやりたいことだけを純粋に望んだものが夢」と言った。 「まあ、できることって言っても、努力もそのうちに含まれるけどね。例えばキミが難関大学に入ろうとすれば、一見無理なことを望んでいるように見えるかもしれない。でも、それは努力さえすれば叶えうる《現実》なんだ。ところが、キミが女子校に入ってウハウハしたいって思っても、無理だ。それはただの《夢》だから、あきらめたほうがいいよ?」 「……例え話なのに、まるで俺がそんなことを思ってるような言い方をしないでください」 「あれ、違うんだ?」  ――この人は……。 「しかし、なんだってこんな本がここにあるんですかね?」  正樹は『夢喰怪異考』を取り上げた。高校の図書館に置くには、少し難解すぎる気もする。それを読んでる小夜子も小夜子だが。 「あれ? 知らないの? この図書館は学校が建つ前、お屋敷だったんだよ?」 「ああ。らしいですね。でも学術書ってことは、研究者かなんかだったんですかね?」  小夜子が、首を振った。 「ここは、身受けされた遊女の邸宅だった」 「遊女?」 「普通、遊女は春を売るもんだけど。彼女は、夢を売っていたわけさ」  初めて聞く話だった。 「夢を売るって……もしかして、ここで寝たら見た夢が叶うってのと関係あるとか?」 「おお。正樹、勘がいいねぇ」  そう言って小夜子は、窓のほうを見た。  朝日が射していた。  携帯電話を開いて確認すると、八時ちょっと前だった。いつもなら、そろそろ家を出ている時間だ。 「唯ちゃん、しばらくしたら目覚めると思うけど、保健室にでも移したほうがいいかもね」 「今すぐ起こしたらまずいんですか?」 「夢を失うっていう、心の大きな変化があったんだ。もうちょっと休ませてあげようよ。睡眠って言うのは、本来そういう役割があるもんだし」  そして正樹は唯を背負い、図書館を後にする。  校内にはまだ人影はまばらで、幸いあまり見咎められることはなかった。  保健室にも人はいなかった。特有の薬品の匂いをかぎながら、正樹は奥のベッドに唯を寝かせる。 「おろ。だれか寝てるね」  小夜子が、カーテンのかかってる別のベッドを見ようとしていた。 「先輩。失礼ですよ」 「んー。でも、ぼちぼち起こさないと授業には間に合わないんじゃないかなぁ?」  時計を見ると、もうあと十分で予鈴が鳴る時間だ。ただの朝寝なら、起こしたほうがいいかもしれない。  とか考えている間に、小夜子がカーテンを開いてしまった。 「――あ」  見知った顔だった。 「知ってるの?」 「同じクラスです」  彼女は、朝日の射し込む窓辺の白いベッドで眠っていた。腰まで届きそうな長い髪をシーツの上に広げ、窓からは顔を隠すように横向きになっていた。  雲宮姫緒(くもみやひめお)だった。  正樹とは何度か言葉を交わした程度だったが、クラスでは有名人だった。『居眠り姫』とか『眠れるシープ』とか、まあいろいろ呼ばれてかわいがられている子だ。 「おーい、起きろひめひめー。王子様に襲われちゃうぞ」  そういって小夜子は姫緒の頬をひっぱった。 「襲いませんよ。ていうか、先輩も知ってるんですか?」 「知ってるも何も。あたしの愛玩動物ちゃん第一号」  そんな言い草に、ちょっと姫緒に同情した。 「ちなみに、キミはあたしのオモチャ第一号だから」 「……こっちのほうが扱い低いんすか……」 「そうだねぇ。動物は責任をもって育てなきゃいけないけど、モノならいつでも買い替え可能だから」  と、バカなことを言っているうちに、むくりと姫緒が起き上がった。  目をこすりながら見あげてくる。正樹と目が合った。  姫緒は首をかしげる。 「はれ? 正樹くん? わたし、起きた……よね?」  まだ寝ぼけているのか、妙なことをつぶやいている。  小夜子が姫緒の目の前で手を振った。 「おぉい、ひめ〜、気をしっかり持て〜」 「小夜子ちゃん? でも、正樹く……え? えぇ!」  ようやく目が覚めたようだが、声を上げたっきり固まってしまった。  と、小夜子が正樹に向かってなにかを合図している。口から手を広げている。なんか言え、ということなのだろうか。 「お、おはよう」  とりあえず挨拶してみるが、 「おおお、おはよう!」 「――うっくっくっく――」  小夜子が腹を押さえて、こらえきれない様子で笑いはじめた。 「さ、小夜子ちゃん、いきなりはひどいよ!」  姫緒が真っ赤になって主張する。 「いきなり?」  正樹の問いに、姫緒は首を振る。 「あ、違うの! いきなりっていうのは、んっと、その……」 「ごめんごめん。こいつとは昨日たまたま会っちゃって。なりゆきから、いきなり保健室に来ることになっちゃったわけ」  笑いながら小夜子が言った。 「あ、そうそう。おみやげその二」  そう言って、正樹の後ろ――唯を指を差す。 「あ、唯ちゃん!」  姫緒はベッドを降りて、唯のベッドを覗き込んだ。 「この子、唯ちゃんのファン。そしてこいつ、唯ちゃんのお兄さん」 「え! そうなの?」  姫緒が目を丸くして、正樹のほうを見た。この子は、驚きっぱなしである。  そのとき、保健室の戸が乱暴に開かれた。 「クォラァ、クソジャリどもが、うるせェぞ!」  入ってきたのは、白衣を来た養護教員だった。ふちなしメガネで、短髪で、そして右手には一リットルのビールの缶。 「――って、お姫様とねーちゃんか。あん? こっちのガキはみねェツラだな?」 「あ、ジャコちゃん」 「おはようございます、ジャコ先生」  すっかり圧倒されている正樹に代わって、小夜子と姫緒が挨拶する。  ジャコ先生。それで、噂を思い出した。養護教員白井蛇子。生殺しのジャコ。絶対にヤクザ上がりだとか、自分で殴り飛ばした生徒を自分で治療するという二重の責め苦を味あわせることによって数々の生徒を更生させてきた――もしくは潰してきた――という噂がある。決め台詞は「蛇は縁起がいいンだよ」。  これでも一応女性である。多分。スカートに見えるものをはいてるから。 「ていうか、ビール……」 「はっ。これだからシロウトは困るねェ。水だよ水。中身は水。朝から飲めるわきゃねーだろっての」 「正樹。ビール缶程度で驚いてたら、この保健室じゃ生きていけないわよ」 「そうだよ。ビールは水みたいなもんだよ」 「くぁッ。テメエらいいこと言うなっ」  そう言って高笑いするジャコ先生。 「しかし、姫よぉ。おまえ、またチチでかくなってねェか? ぼちぼち90の大台かい?」 「やだ、先生」  もう酔っ払いのオヤジとなんら変わらない。  しかしそう言われて、思わず見てしまうのが男の悲しいサガ。そういえば、たしかに発育がいいような……。 「カッカッカッ。でっけえことはいいことだ。ねーちゃんも、ちったあ分けてもらったらどうだい?」 「あら。ジャコちゃんは、もうちょっと大きな筋肉を減らしたほうが、お見合いもうまくいくと思うわよ?」 「なんか言ったかい、76センチ?」 「言いましたとも、98連敗?」  なにか、二人の間に光るものが飛び散っているような気がする。このジャコ先生に対等に渡り合う小夜子がすごいのか、はたまた小夜子に口で張り合っているジャコ先生がすごいのか。  と、横にいる姫緒が耳をふさいでいることに気づいた。首をかしげる正樹に、彼女がそのまま言ってきた。 「二人が口ゲンカしてるときは、何も聞かないでいたほうがいいの。上村くんも、なんか聞いたなら忘れたほうが身のためだよ」  たしかに世の中、知らないでいたほうが幸せなことはいくつかある。  しかし、こんなところに唯を置いていって大丈夫だろうか? 「まあそれはそうと、テメエらぼちぼち授業がはじまんぜ? オレが教頭のクソハゲに小言いわれるんだから、さっさと行けや」  耳をほじりながらジャコ先生はまたビール(の缶に入った水)をあおった。 「じゃあねジャコちゃん」  さっきまでの舌戦がうそのように、小夜子が軽く挨拶を交わす。あるいは、ただのじゃれ合いだったのかもしれないが。  まだ耳をふさいでいた姫緒の背中を廊下に押していった。すぐに姫緒も気づいて「行ってきます、ジャコ先生」と言い残し、外に出て行った。 「あ、じゃあ失礼します」  正樹も出て行こうとしたとき、 「おい、上村正樹」  ジャコ先生に呼び止められた。  彼女はベッドのカーテンをめくり、唯の様子を見ているようだった。 「妹はちゃんと預かった。心配すンな」  そう言って笑うジャコ先生。それを見て、正樹は不思議な安心感を覚えた。 「ほれ、正樹、行っちゃうぞ?」 「あ、はい」  正樹は最後にジャコ先生に向かって礼をし、保健室から出て行った。  ぼんやりとした正樹を見て、小夜子が訊いてきた。 「ん? どした?」 「いえ、あの先生……俺の名前知ってたみたいなんで」  姫緒が答える。 「ジャコ先生、生徒全員のプロフィール知ってるよ?」 「プロフィール?」 「名前に学年、クラスと番号、身長、体重、血液型、主な病歴かな。あと……からだのサイズ。あの人、目算できるんだもん」  目算はともかく、全員の情報を覚えているというのには驚いた。たしかに保険医として覚えておいたほうがいいのだろうが、この白船高校は千人以上の生徒がいるのだ。 「あ、そうだ。ジャコちゃんに用事があったんだ」  小夜子は思い出したように言った。 「じゃ、正樹はちゃんと姫緒を届けなさいね。ひめは途中で寝ちゃダメよ?」 「小夜子ちゃん、あなどりすぎ……」  はっはっはと笑いながら、小夜子は保健室のドアを開けようとする。 「そうそう、正樹」 「はい?」  振り返った小夜子は、笑顔だった。  ただし目だけは、刃物のように冷たい。 「さっき――何も聞いてないわよね」 「聞いてません」  即答。 「よろしい」  満足げにうなずいて、今度こそ保健室に入っていった。  正樹と姫緒も、自分たちの教室に向かう。 「せいかいっ」  姫緒が、正樹の答えに拍手する。  正樹はため息をついた。朝からどっと疲れた。 「あの先生とは、よく会うの?」 「うん。だいたい毎朝。ときどき昼も」  保健室通いする理由はいろいろあるだろうが、この子の場合はわかりやすい。なにせ、学内で唯一ベッドのある場所だ。 「ていうか、なんで朝から寝てるのさ」 「ああ、それはね……」  恥ずかしそうにうつむいた。 「遅刻、しないため」  意味がわからない。 「えっと、だから……。わたし、電車通学なんだけど。乗り物が苦手で」 「苦手? 酔いやすいの?」 「ううん、すぐ寝ちゃうの」  たしかに、電車やバスの特有の揺れは、眠気を増長する。彼女の場合は大変だろう。 「それでときどき寝過ごして、乗った駅に戻っちゃうことあるんだ」  普通、寝過ごしたら終点につくものではないだろうか。そう言おうとして、気づいた。終点からさらに戻って、もとの駅につくのだ。 「だから、いつも用心して、始発に乗るんだ」 「始発って……じゃあ、無事に着いたら何時になってんの?」 「六時ぐらいかな? それで、七時まで校門を開けてくれるのを待って、朝練がある野球部の人と一緒に入って、保健室に来るの」  すごい。  筋金入りだ。  何に入っている筋金かは、正樹にもよくわからかったが。  言われてみればたしかに、姫緒が遅刻することはあまり見たことがなかった。 「あ。唯ちゃんを初めて見たのも、朝だった」 「唯を?」 「うん。草刈りしてた」  そういえば夏は、ときどき朝早く登校している日があった。 「すごいよね。憧れちゃう。こないだも、ふりょーを投げ飛ばしたんでしょ?」 「あ……ああ」  喫煙している生徒を注意したのだ。逆上して襲いかかってきたのを、返り討ちにしたらしい。  相手は男子で、しかも三人。  しかし兄としては、ほとほと心配である。 「でも、上村くんと唯ちゃんが兄妹だったなんて、びっくりだなぁ」 「こっちは、先輩と雲宮が知り合いだってことに驚いた」 「そう? んーと、小夜子ちゃんとはどこで知り合ったんだっけ?」  しばらく考えて、「ああ」と手を打った。 「そっか。夢でか」 「夢?」  正樹が立ち止まる。  姫緒は口に手をあて、「しまった」という顔をした。 「う、ううん、違う、違うからっ。夢っていうのは、えっと……」 「雲宮、夢で会ったんだな?」  まっすぐ、姫緒の目を見つめる。だが、姫緒は「……えっと……」を繰り返しながら、目を合わせようとしない。 「あの人は――あの人は、なんなんだ!」 「上村くん……こわい……」  いつの間にか、正樹は姫緒の肩を掴んでいた。慌てて離す。 「――ごめん」  姫緒はうつむいたっきり、何も言おうとはしなくなってしまった。 「……俺も、夢なんだ」 「え?」 「俺も、先輩を最初に見たのは、夢でなんだ。ここ一年間、毎晩夢に出てくる」 「まい、ばん?」姫緒が尋ねる。「それ、どこで?」 「ん? 家で、だけど?」 「家……」  用心のつもりか、口に手を当てながら姫緒は考えているようだった。どうやら何かを口にしないと考えられないらしく、押さえた手の下で何かをつぶやいていた。  手を下にずらし、正樹に尋ねてくる。 「それ、小夜子ちゃんには?」 「言ってない」  というか、言えない。自分から、からかわれるのネタを与えるほど、正樹も落ちてはいない。 「だったら、まず小夜子ちゃんに言ったほうがいいと思う。わたしからは、勝手にいえないよ」 「そう、だな……」  たしかにそうだ。  姫緒が小夜子に関して何か知っているにしても、それを無理に聞き出そうとするのは、小夜子に対しても姫緒に対しても悪い。  姫緒を見やると、彼女はじっと正樹を見つめていた。両手を握りしめ、何か思いつめたように、口を開く。 「……上村くん……」  小声。しかも震えて、ギリギリで聞こえるくらい。 「……小夜子ちゃんのこと……」  そのあとは、口だけが動く。だが、それはただ彼女が震えていただけで、何も言っていないのかもしれない。 「雲宮?」 「――ううん、ごめん。なんでもない」  そういい残し、教室のほうに駆け出した。  階段に消える直前に、 「おひるやすみ、中庭でっ!」  と、正樹のほうに向かって叫んだ。  その後、ちょっとした事件が起きた。  雲宮姫緒が、授業中を含め、午前は一度も眠らなかったのだ。           2  四時間目終了の鐘が鳴ると同時に、姫緒はむくりと起き上がる。そのまま教室の喧騒を尻目に、教室を出て行ってしまった。  正樹もしばらく、机を集める女子やベランダに出て弁当を食べる男子の姿を眺めていたが、姫緒が出て行ってからきっかり一分経ったところで、学食に行く連中に混じって中庭に向かった。  と。教室を出たところで、見知った顔に出会った。 「――唯?」  上級生の行き交う中、毅然と待ちつづけていた。 「今朝は、運んでいただいたそうで。ありがとうございました」  律儀に礼をする。  一時間目のあと、保健室に様子を見に行ったときはもう出て行ったあとだったのだ。 「まあ、別にいいけど……大丈夫か?」 「大丈夫って――何がですか?」 「あっと……夢の、こととか」 「ああ」  得心いったように、うなずく。 「夢は、見ませんでした」 「そう、か」 「でも、もういいんです」  つぶやくように、唯は言う。 「戻ることよりも、今のままでどう進んでいくか――そういうことを考えたほうがいいんじゃないか。そう、思ったんです」  喰われた夢は忘れてしまう。  小夜子の言葉のとおりだ。  少しの悔しさとともに、どこか安心する気持ちがあった。 「そうだな。それが、いいかもしれない」  自分で背負わせてしまった手前、都合がいい考えかもしれないが。あんな願望は、消えたほうがいいに決まっている。  唯は、わずかに笑ったような気がした。 「兄さんにそう言ってもらえると、助かります」  そして、唯は去っていく。離れたところに、唯の友人らしい子がいた。上級生しか通らない廊下を、落ち着かない様子で待っていた。  あれが、普通の反応だ。  そして、そんな普通の反応をする子を、唯は友人として持てるようになっている。  だから、今のままでいいんだ。  正樹は唯の背中を見送ると、中庭に向かった。  白船高校は、ふたつの校舎で成り立っている。  教室や職員室のある一般棟と、図書室や家庭科室の並ぶ特別棟。それが平行に並んでいて、渡り廊下でつながっている。  そのふたつに挟まれた形になっている空間が、中庭である。芝生と花壇、そしてベンチが並べられていて、ちょっとした団欒には最適の場所である。  冬は風が吹きすさぶので、人影はなくなるが。 「お。正樹〜」  ベンチのひとつで、小夜子が手を振っていた。  横に姫緒もいたが、こっちは沈痛な面持ちでベンチに座っているだけ。 「この子とあたしが夢で出会ったこと、聞いたんだって?」 「そうです、けど……」  姫緒を見るが、膝の上で握った自分の手を見下ろすばかりだった。 「あの、俺とのことは?」 「ん? キミと出会ったのは、昨日でしょうが。なによ、ボケた?」 「……いえ、なんでもねっす」  姫緒は、正樹の夢のことは言っていないらしい。一応、気づかってくれたのだろうか。 「まあ、百聞は一見にしかずって言うし。姫緒、寝て」 「へっ?」  姫緒がはねるように、小夜子に向き直った。 「『華胥(かしょ)の夢』の説明、するだけじゃ……」 「だから、見せたほうが早いでしょ。ひめを通していくしか、正樹が見る手段ないし。ひめが眠らないと、正樹は入れないし」 「そうだけど……」  姫緒は、ためらいがちに、 「――わたしの夢、見せるの?」 「あー。わかったわかった。一分だけ入れるの遅らせるから、その間に掃除しときなさい」 「……わかった」  そう言って、姫緒は目を閉じる。 「あの、先輩。何の話ですか?」 「あ、そうか。あんたにも説明しないとね。うーんと、正樹はこれからこの子の夢に入ってもらいます」 「は?」 「役得だねぇ。女の子の夢を見れるなんて、そうそうないぞぅ」 「小夜子ちゃん……」  目を閉じたまま、姫緒が恥ずかしそうに言った。 「そういうことじゃなくて、なんでわざわざ夢に入らなきゃいけないんすか? あと、やめてくださいよ、勝手に《蕣》のこととか話すの」 「あ、それは悪かった。それは、謝る」  ちょっとだけ、小夜子の声のトーンが落ちた。 「でも、この子だって秘密を明かすわけだから、やっぱり条件はイーブンだよ」 「秘密、ですか」  たしかにこれで姫緒とはイーブンかもしれない。しかし小夜子は何も明かしていない。  正樹は、小夜子の苗字すら知らないのだ。 「小夜子ちゃん」  姫緒が、顔を上げた。 「眠れない」 「はぁ?」  小夜子は、姫緒の頬をぺちぺちと叩いた。 「どした? 病気? コーヒーなんか飲んじゃった? あんたが眠れないなんて、天変地異の前触れじゃあるまし」 「……上村くんが入ってくると思うと、緊張しちゃって」  しょうがないなとつぶやいて、小夜子はポケットから何かを取り出した。  五円玉だった。穴に糸を通してある。 「……なんすか、それ?」 「おねーさんの七つ道具のひとつ」  嫌な予感がした。 「それ――どうするんすか?」 「えー? 正樹、わかんないの?」  ――わかりすぎるから訊いてるんですって。  案の定、小夜子は糸で五円玉を垂らして、姫緒の前で揺らした。  その動きを追う姫緒に向かって、小夜子が呼びかける。 「あー、ひめ、いーい? あんたは眠る。はい」  小夜子が指をぱちんと鳴らす。  がくっ。  姫緒の首から力が抜けた。  ゆっくりとベンチに崩れ、横になってしまう。目を閉じて、規則正しく呼吸をしている。眠っていた。 「うそ!」  小夜子は五円玉をしまいながら、にらんできた。 「なによ、文句あるの?」 「普通は、『あなたはだんだん眠くなる』とか、『三、二、一、ハイ』とか、もっと段階があるもんじゃないんですか?」 「めんどくさいんだもん。いいじゃない、ちゃんと寝たんだから」  たしかに、姫緒は寝息を立てて眠っている。だが、こんなテキトーな催眠術、見たことなかった。 「ほい。じゃあ次は正樹の番」  こんな強引な人も、見たことなかった。           3  香ばしい匂い。  目を開くと、どこかの部屋だった。ワンルームで、カーペットやカーテンが赤系の色合いが多い。女の子の部屋のようだ。 「あ、いらっしゃい、正樹くんっ」  姫緒がいた。制服の上にイルカのプリントをしたエプロンをつけて、頭には黄色い三角巾。お玉をもって、台所に立っていた。ガスコンロの上には、寸胴鍋がぐつぐついっていた。 「もー。遅いから待ちくたびれちゃった。思わず料理作っちゃったよ。さーさー、座って座って」  正樹の背中を押して、テーブルにつれてくる。すでにサラダやごはん、魚料理が並べられていた。  しかたなく、正樹は《蕣》を外し、そこに座った。 「あのさ、雲宮?」 「うあー。なんっかソレ、他人行儀だなぁ。ここでは、ひめひめって呼んでよ」  つんと、正樹の鼻先を指で突いた。  ――微妙に、キャラが違ってる?  圧倒されてるうちに、姫緒はビーフシチューをよそって持ってきた。 「ごはん、まだでしょ? 遠慮せずに食べて。まあ、お腹はふくらまないけどね」  そう言って正樹の前に座り、ニコニコしている。 「でも、夢の説明とか――」 「慌てなくてもだいじょうぶ。ここ、わたしの夢だから、時間もある程度は操作できるんだ。その気になれば一万分の一くらいまで圧縮できるかなぁ? だから、一日すごしても表では十秒。逆浦島太郎だねっ!」  どうも、料理を食べないと先に進まないらしい。観念して、正樹は箸を取る。 「正樹くん、好きな食べ物ってなに?」 「カレー」 「カレーかぁ。うん、わかった。こんど作っておくね」  正樹はシチューをご飯にかけて食べた。うん、悪くない。 「どう?」 「うん。おいしい」  夢の中だというのを忘れてしまう。姫緒はお腹はふくらまないといったが、飲み込んで胃に落ちていく感触なんかは、本物だ。 「でも、なんか恥ずかしいな……」 「ん?」  姫緒は両手で頬を押さえ、うっとりしながら言う。 「それ、わたしの夢の一部なんだよね。だから別の言い方すると……正樹くん、わたしのことを食べてるってことになるんだよね」  ぶっ。  吹いてしまった。 「あっ、だいじょうぶ!」  慌てて姫緒がフキンを取り出し(空中から)、正樹の口を拭く。 「ごめん! 変なこと言ったから」  ちなみに、飛び散った米は二秒で空間から消え去えていた。出し入れ自由らしい。 「いや、別にいいけど……」  ただ、食欲はちょっとなくなったかも。  さりげなく箸を置く。と、姫緒が瞳を潤ませていることに気づいた。 「やっぱり、わたしなんか食べたくない?」 「は? ちょっと待て」 「じゃあ、小夜子ちゃんだったら食べたい?」 「く、雲宮? 論点が――」 「ひめひめ」 「え?」 「ひ・め・ひ・めっ」  そう呼ばなければいけないらしい。 「あー、その、なんだ……ひめ、ひめ?」 「うん。なに?」 「……そろそろ本題に行かないか?」  姫緒はため息をついて立ち上がった。エプロンをするりと外し、放り投げる。エプロンは床につく前に消えてしまった。 「ねえ、正樹くん。またここに遊びにきてくれる?」 「え?」  パン、と姫緒が手を鳴らした。  景色が一変する。部屋から、どこかのテーマパークになった。コースターやメリーゴーランド、観覧車、そして西洋風のお城が見える。メルヘンな音楽を聞いて、気づいた。これは、都心のほうにある、有名なテーマパークだった。  だが、正樹たち以外にだれも人はいない。 「わたしの夢なら、どこにでも行けるし、なんでも手に入る。正樹くんが望むなら、なんでもできるから――」  思いつめたような表情。 「……わかった。また来る」  姫緒が、笑う。  その一瞬だけ、景色が乱れた。揺れたと思ったら、映像に別の景色が紛れ込む。  本棚に囲まれ、中央に机の並べられた部屋。机も床の上も雑然としていた。そして、奥のほうの椅子にだれか座っていた。背格好からして、男子のようだが――。 「……あんまり、女の子の心をじろじろ見るものじゃないよ?」 「え?」  姫緒が頬を赤らめながら言った。もう、景色はテーマパークに戻っていた。 「じゃあ、行くよ」  姫緒が、そう言った瞬間。  またも、景色が変わった。  頭上には青い空と白い雲。フェンスに囲まれた、コンクリートの地面。  屋上だった。  人が三人いた。男子が一人と、女子が二人。ピクニックシートを広げて、弁当を食べていたらしい。こちらに気づいて、男子が手を上げる。 「おー、ひめじゃん。今日は遅いな」  彫りの深い顔立ちの、絵に描いたような美少年だった。身長も、正樹より十センチは高かった。 「あれ? そちら、新人?」 「というより、お客さんかな。管理人さんから聞いてない?」 「白い夢の人ですよね? 聞いてますよ」  女子の一人が話に入ってきた。人懐っこい笑顔を正樹に向ける。ショートカットの髪に、変な髪飾りをしている――と、最初は思ったが。 「耳?」 「え? あ、はい。犬です」  頭の膨らんだ部分――垂れた犬の耳が、ぴくんと動いた。よく見ると、尻の下からはふかふかした黒い尻尾が生えている。 「夢ですから」  そう言って、犬耳の子は笑った。 「てか、何で僕だけ話聞かされてないの?」  男子が犬耳の彼女に聞いた。 「だって、アルさんはここにきたの、さっきじゃないですか。私は二時間目にきたときに言われましたから」 「二時間目?」  正樹が尋ねる。 「もしかして、あんたら……」 「ああ。白船高校の生徒。ここは『華胥の夢』っていって、この学校で眠ったやつらの夢が集まる場所なんだ。まあ、俺たちみたいに自覚的に動けるやつは少ないけどな」 「じゃあ、小夜子と出会ったって言うのも」 「うん。ここ」  姫緒がうなずいた。  男子が、手を差し出してくる。 「まあ、よくわからんが、よろしく。僕のことは、アルフレッドと呼びたまえ」 「あー、上村正樹です」  アルフレッドと名乗った彼は、しかめっ面をした。 「って。それ、本名だろ?」 「そうっすけど?」 「ダメダメ。ここのローカルルール。現実と夢とを混合しないこと。なあ、わんこ?」 「そうですね。私も、夢で犬やってるなんて知られたら、恥ずかしいですし」  犬耳の子が答える。彼女は、わんこと名乗っているらしい。 「――別に、お客さんならいいんじゃない?」  今まで黙っていた女子が、ぼそりと言った。  牛乳ビンの底みたいなメガネをして、髪をふたつの三つ編みにした、垢抜けない感じのした少女だった。バスケットに山積になったイチゴを口に運びながら、手にした本を読んでいる。『赤毛のアン』だ。 「彼女はニンジン。無口で無愛想だけど、まあ気にすんな」  正樹は、横で弁当からおにぎりを拝借してる姫緒を見やった。 「雲宮は、なんて呼ばれてるんだ?」 「ひめひめっ」 「……そっか」  姫緒は立ち上がる。 「まあ、いいや。じゃ、正樹くん。華胥の夢の中案内するから、行こうか」 「あ、ああ」  姫緒の先導で、屋上の扉に向かう。 「あ、そうだ、ひめさん!」  わんこが大きな声で言った。 「バレンタインの企画、通りそうですよ!」 「ほんと? ありがと!」  バレンタイン。たしか、あと一週間ぐらいだったか。今年は、唯以外からチョコをもらえるだろうか。例えば、あの調子のいい先輩とか。  正樹は重いため息をつく。  華胥の夢の構造は、現実の学校とまったく同じだった。敷地から外は白くぼやけているが、そこから中のグラウンドや校舎は歩いている感核も現実と変わらなかった。  ただし、歩いている人がいない。  代わりに、教室に白い卵型の膜に入った人がいた。ばらつきはあるが、ひと教室に三人くらい。それが、眠っている人らしい。  膜を通して、どんな夢を見ているかうっすらとわかるが、あまり見ないほうがいいらしい。マナーとして。 「でも、正樹くんには驚いたよ。見ようにも、夢がまっしろなんだから」  たしかに、学校で眠っても小夜子の夢は見たことはなかった。なんだかあべこべな気がした。夢にまつわる不思議の多い学校では夢を見ないで、家では見るのだから。 「結局、なんで先輩が夢に出てきたのか、わからずじまいか」  廊下を歩きながら、自然とこぼしてしまった。 「華胥の夢みたいに、どっかにつながってるとかかなぁ?」 「わからない。先輩本人も、あの様子じゃ知らないと思うし」 「まあ、そのうちわ」  姫緒の明るい声が、唐突に切れた。  切れたのは声だけではない。視界もまっくらになる。 「おい? 雲宮?」  落ちる感覚に襲われる。  悲鳴をあげる間もなく、地面に落ちた。 「っつ」  打った尻をさすりながら、あたりを見る。  洞窟のような空間だった。土を丸くくりぬいて、そこにわらを敷き詰めただけだ。テーブルの上に大きなランプがあり、その向こう側に少女が座っていた。 「いらっしゃーい」  燕尾服とシルクハットをかぶった、白髪の少女だった。 「ここも、華胥の夢?」 「そーだね。うさぎの穴、っていうの。でも、みんなにはナイショだよ?」  と、わらの中から小さな白ウサギが三匹、はいだしてきた。頭を振ってわらを落とすと、ひょこひょこと正樹の足元に近寄ってくる。  正樹も小動物は嫌いじゃない。鼻をひくひくさせるウサギの頭を撫でようと、腰を落とそうとするが。 「あ、こらこら。このおにーさんは、おきゃくさん。ごはんならあとであげるからねー」  慌てて駆け寄ってきた白い少女に、ウサギは捕まえられてしまった。手から逃れようともがくウサギを、少女は次々とシルクハットの中に入れていく。 「ウサギ……」 「あ、このコたち、ちょっとかみぐせがあるから、さらないでよかったと思うよ?」  そういって、彼女はシルクハットをかぶりなおした。  そういえば、この子もウサギに似ていた。長い髪を頭の左右で結わえて垂らしているが、それを耳に見立てることもできる。たしか、ツインテールという髪型だった。 「あ。うさぎちゃんのことは、うさぎちゃんって呼んでいいよ?」 「俺は――」 「知ってる。正樹おにーちゃん。唯ちゃんのおにーちゃんでしょ?」 「唯のこと、知ってるのか?」 「うん。友達だよー」  すると、この子も別の顔で現実を送っているのだろうか。  なんとなく、正樹は想像がつかなかった。  例えばわんこなら、現実のある者が演じているのだろう、と感じることはできた。  だが、このうさぎと名乗る白い少女は、違った気がした。最初から、このままのような気がする。  と、うさぎが手を振ってきた。さよならのジェスチャー。 「今日はただ挨拶したかっただけ。それじゃ、小夜子ちゃんによろしくねー」 「なっ」  先輩のこと知ってるのか?  そう尋ねようとした瞬間、再び穴が空き、地面に落ちた。  落ちた先は屋上だった。地面から現れ、一瞬だけ空に向かって落ちていきそうになる。  重力が逆転する。宙で速度がゼロになり、次には地面に落下する。 「正樹くん?」  姫緒が駆け寄ってきた。 「どこ行ってたの!」 「いや、まあ――」  抱きしめられた。ちょと痛い。 「いきなりいなくなっちゃうんだから……」 「そんな大げさな――」  姫緒ごしに、わんこがアルの肩を小突くのが見えた。 「アルさんのせいですよ? ときどき華胥の夢でいなくなるやつがいる、とか脅かして」 「僕は、そういう事実がある、って言っただけで……」 「……無神経は男は嫌われるわよ……」  ぼそりとニンジンにまで言われ、アルは肩を落とした。  正樹は、なだめるように姫緒に言う。 「雲宮、俺は大丈夫だから」 「……ひめひめ」 「ああ。ひめひめ、安心しろ」  姫緒は腕を解いて体を離した。泣いていた。赤くした鼻をすする。 「泣くやつがあるか……」  苦笑しながらも、正樹は悪い気はしていなかった。  たかだか数分いなくなっただけで、この子は泣くほど心配してくれたのだ。それが、なんだかこそばゆかった。 「まったく、世話が焼けるんだから」  聞き覚えのある声に、顔を上げる。  正樹の表情が、見る見るうちに険しくなった。 「――おまえ」 「三度目ね」  黒雪だった。 「妹さんは元気?」 「なにをッ――」  《蕣》の柄に手をかけ、立ち上がろうとするが、姫緒が腕をひいて押し留める。  姫緒は目元をぬぐいながら、首を振った。 「あー、えっとですね。よく事情を知らないわたしが言うのもなんなんですけど、多分、正樹さんは誤解されてると思います」  わんこが間に入って、正樹をなだめた。 「誤解?」 「はい。まあ、ろくに説明しようとしない管理人さんも悪いんですけど」 「別に私はどう思われようと構わないけど?」 「……なんでこっちに来ると性格悪くなるかなぁ、この人……」  姫緒がぽつりとつぶやいた。 「じゃあ、そいつはなんなんだ? ララバイじゃないのか!」  つい声が大きくなってしまった。 「たしかに、ララバイです。人の夢を食べます。でも、それでわたしたちを守ってるんです」 「守る?」 「その人がララバイになるのを防ぐために食べてるんです。決して、自分のために食べてるわけじゃないです。その証拠に、食べるのは最後の手段としていて、なるべく『食べる』んじゃなくて『叶える』方向で解決しようとしてくれてますから」  小夜子の言葉を思い出した。叶えられない夢なら、あきらめたほうがいい。  この黒雪という少女は、それを実行しているのか。 「だから、『管理人さん』なんです。わたしたちの夢を、正しく管理して、守ってくれてる。この華胥の夢の番人。だから、責めないであげてください」 「だけど――」 「正樹くん」  姫緒が、不安げに見あげてくる。  正樹はしばらく彼女を見つめる。まだ、さっきの涙が目のふちに残っていた。 「……わかったよ」  正樹は《蕣》から手を外した。 「よかったぁ」  わんこが安堵したように、その場に崩れ落ちた。 「いやいや、さすが。人をまとめるのに長けてる」 「茶化さないでくださいよ、アルさん」  みなが和むなかで。  黒雪が背を向けて去っていくのを、正樹は見つけた。  ほのかに微笑を浮かべながら。  しかし、なんとなくそれが悲しそうに見えた。           4  正樹は屋上の扉を開く。  重い扉の向こうは、さえぎるもののない夕日一色の世界だった。  日に手をかざし目を細めながら、正樹はここが現実だということを確認する。  フェンスの向こうには、赤く染まった街が広がっていたのだ。 「あれ? 正樹じゃない」  上からの声。見あげると、入り口の上に小夜子が座っていた。足を縁から宙に投げ出し、ぶらぶらさせている。 「先輩」 「あがっといでよ。きれいだよ」  正樹もはしごで上にあがる。小夜子の隣に腰掛けた。 「華胥の夢、どうだった?」 「驚きましたよ。あんな世界があったなんて」  ララバイに、華胥の夢。驚いてばかりだ。  いちばんの驚きは、この人だけど。 「今日はいろいろありました。ていうか、先輩と出会ってまだ一日経ってないんですよね」 「そうだっけ? なんだか、昔っからキミで遊んでるような気がするよ」  夕日のせいか、そんな冗談めかした言葉も、今はおとなしく聞こえる。  風が吹く。制服の裾から入り込んでくる冷気は、嫌でも二月という季節を思い出させた。  あとひと月もしないで、別れを迎える季節。 「もうすぐ、みんな出て行っちゃうんだよねぇ」  まるで、自分は残るような物言いだった。  しかし正樹は、深くは聞こうとしなかった。なんとなく、怖いのだ。触ってしまったら、壊れてしまうんじゃないか。  すべて一夜の夢だったかのように。  いやな沈黙があった。正樹は、小夜子に話を振る。 「そういえば、今朝の話の続きをしてくださいよ」 「今朝? なんだっけ?」 「ほら。ここの図書館の遊女の話です。夢を売っていたって」 「……ああ」  小夜子は目を細め、空を見あげる。 「この学校の土地をもっていたお金持ちね、娘さんがいたんだ。当時としては厄介な病気にかかってて、どんな医者に診てもらってもいっこうによくならない。だから、傍らで眠った者の見た夢を叶える、という評判のある遊女を身受けしたんだ」  そのまま、図書館の噂と同じ力だった。 「しかし、お嬢さんは決して遊女の近くでは眠らなかった。逆に、遊女を寝かしつけてばかりいた」 「なんでですか?」 「遊女の寝顔がかわいかったから、かな。キミみたいに」  小夜子が笑っているのを見て、からかわれていることに気づいた。 「先輩っ」 「あはは。ごめんごめん。でも、理由はわかんない。結局、死ぬ間際まで、遊女の横で眠ることはなかった。わりと長生きはしたみたいだけどね。先にお金持ちの旦那さんのほうが死んじゃって、娘さんに遺産が遺ったそうだから」 「……なんか、先輩みたいですね」 「ん? なんで?」 「だって先輩も、そんな人の横なら、絶対に寝たりしないんじゃないですか?」  小夜子は少しかんがえて、 「そだね。うん。そんな得体の知れない能力で夢を叶えられてもね。それに、もし夢が叶ったとき、どうせ遊女の力だろ、とか言われるのもシャクだし。あと、やっぱり遊女の寝顔はかわいいから、先に寝るのはもったいない」  本当にその娘さんになったかのように、小夜子は断言した。 「やっぱ、かわいいんですか」 「そりゃそうだろうさ。だって、彼女の力を必要としないなら、さっさと追い出せばいい。にもかかわらず、毎晩律儀に部屋にまで通してたんだから、そりゃ寝顔が見たいに決まってる」  と、急に小夜子の声のトーンが落ちる。 「ま。さいごは、結局遊女の横で眠ってしまうんだけどね」 「さいごって……」 「死ぬ間際」  最期。  たしかに、人の死は眠りに似ている。  ならば死者はどんな夢を見るのだろう。そして遊女は、その夢さえも叶えられるのだろうか。 「もしも娘さんが最期に夢を見たのなら、それは遊女のことだと思います」  正樹の言葉に、小夜子は驚いたようだ。 「え?」 「多分、そんなに遊女が好きだったのなら、そして最期に遊女の力に託すとしたら、それは遊女の幸せかなにかだと思います」 「キミは、ロマンチストだね」  小夜子は夕日を見ながら言った。笑っているようだ。 「優しい、と言い直しておこうか」 「からかわないでください」 「――でも、その夢は、残酷だよ」  小夜子は、やっぱり笑っている。  ただ、ひどく悲しげなだけだ。 「遊女の幸せはお嬢さんが生きることだけなのに、どうして、そんな夢を叶えられるんだろう」 「……先輩」  この人は、きれいな夢を見ながら先に逝く娘なのだろうか。  それとも、現実に残らざるをえない遊女なのだろうか。 「じゃあ、先輩の幸せって、なんですか?」  自然に、言葉が口をついた。 「あたし? いきなりだね。そういう正樹はなんなんだい?」 「俺は――」 「あ、ちょっとまって」  小夜子が正樹の言葉を止めて、フェンスの向こう側に見入った。  そのとき、日が地平線にかかった。  赤い色が急速に引いていき、青を含んだ黒い色が街に覆い被さっていく。 「華胥の夢じゃ、これは見れないからねえ」  やがて陰りは屋上まで届き、正樹のほうを見る小夜子を包んだ。  風に吹かれて乱れた髪を、小夜子はすくって耳にかける。そのとき、首筋があらわになった。白肌を透かして朱い色がほのかに見える。それは、夕日の残り香だ。 「夢は現実よりきれいに見えるかもしれないけど、やっぱり夢よりもきれいなものは現実にしかないんだよね」  横目で、正樹のほうに笑いかけてくる。 「……そうですね」  正樹は答えた。消えかけた日を受ける小夜子の笑顔を見つめながら。それは、この一年間で幾度となく見た小夜子のどの笑顔よりも――。 「綺麗です」  日が、完全に沈んだ。 「え? あ。う、うん。そうだよね、き、きれいだったよね、夕日……」  小夜子が、慌てながら答えた。しばらく忘れていたまばたきを繰り返しながら、顔を下に落とした。 「あー、やだやだ。おねーさんびっくりよ。正樹ってば、まるであたしに言うみたいに言うんだから。よっ、ニクいね、色男」  そっぽを向きながらまくしたてるが、いつものような力は入ってなかった。 「せんぱ――」 「あー、カラスが鳴くからあたしゃ戻るよ」  正樹には何も言わせず、小夜子は縁から飛び降りた。  屋上の扉を開けた小夜子は、出て行く直前に、正樹のほうを見上げて、言った。 「あたしは、幸せなんていらない」   第三章  眠り姫は夢で想う          0  雲宮姫緒が彼と最初に言葉を交わしたのは、高校二年の夏の放課後。進路調査票の再提出のため、担任に国語科教員室に呼び出されたときだった。 「失礼します」  一声かけて、戸を開く。  その瞬間、閉めたくなった。  雑然とした机の並ぶ部屋の中にいたのは、彼一人だけだったから。  彼はワイシャツの第三ボタンまで開けて、下敷きで空気を送っていた。姫緒に気づくと、慌ててボタンを締めた。 「なんだ、もう一人って雲宮だったのか」  それはこちらの台詞だった。たしかに、「もう一人いるから」みたいなことは先生から聞いていた。けど、それが上村くんだったなんて。  しかたなく、姫緒は中に入る。むっとした空気が漂っていた。 「センセ、用事があるからちょっと抜けてる。あ、ドアは開けといて。なんか、クーラー壊れてるみたいで」 「あ、うん……」  そのまま進もうとするが、どこに座っていいか迷う。  部屋はまん中に向かい合わせるように、先生の事務机が並べられていた。上村くんは右列の一番奥の席にいる。やっぱり、ここはその向かいに座ったほうが――。 「これ」  紙を見せられる。調査紙みたい。それを、彼は自分の座っている机の横に置いた。 (これなら、隣に座っても不自然じゃない、よね? だいじょうぶ、きっとだいじょうぶ。彼が呼んだんだから。がんばれ、ひめひめ!)  自分で自分にエールを送って、その席に向かおうとする。本棚と机の間は狭くて、歩きにくかった。 「うゎっ!」  本の束をまたごうとしたら、引っかかった。とっさに掴もうとしたものが、机の上のブックスタンド。ぎっしり本が詰まっているとはいえ、最近ちょっと悩み始めてきた体重を支えきれるわけもなく――。 「く、雲宮?」  姫緒は床に転んだ上に、撒き散らした本の下敷きになってしまった。  ――さ、さいあくぅ……。  どんくさいやつだとは常日頃から思っていたけれど、この正念場でやらかしてしまうとは。  いっそこのまま、気を失ったふりをして眠ってしまいたかった。そうすれば、夢を見れる。  夢の中なら、すべてが自由だ。 「大丈夫か、おい?」  姫緒の顔を覆っていた本を、彼が払って覗き込んできた。心配そうな顔。 「あ、うん、だいじょぶ! へーきへーきっ」  そういってガッツポーズをとろうとしたとき。  転んだ衝撃が今ごろ伝わったのか、本棚の上にあった洗面器が落ちてきて、姫緒の頭に直撃した。 「――ったぁ……」  いくらなんでもおかしい。神様がひどすぎる。夢で遊びすぎたバチなんじゃないか――姫緒がそう思ったとき。 「雲宮って、おもしろいなぁ」  彼が笑っていた。  姫緒はあっけに取られるが、つられて笑ってしまった。というか、笑うしかなかった。 「でも、雲宮も進路決めてなかったなんて、なんか意外だな」  彼がそんなことを言ったのは、散らばった本を全部片付け終えて、ようやく席につけたときだった。なんか、さっき入り口から見たときよりも、ふたつの席の距離が近くに感じた。 「意外? そうかなぁ?」  友達が聞いたら笑いそうだ。ひめひめといったら、トロくさいの代名詞なのに。 「授業中いくら寝てても、指されたら絶対に答えられるでしょ。テストだって点数いいし。だから、実はすごく要領がいいんじゃないか、って思ってたんだけど」  感激。そんなに褒めてくれなくてもいいのに。 「それは要領がいいっていうか、ただの特技なだけで。んーと、睡眠学習? 寝てても、外のことがなんとなくわかるんだ」  でなければ、確実に落第している。なんといっても、学校にいる時間の三分の二は眠っているのだから。  そしてあだ名は『居眠り姫』。友達いわく、眠り姫なんてかわいいもんじゃない、とかなんとか。 「えっと、上村くんこそ、どうして?」  一瞬、彼の表情が曇った。 「先のことなんて、よくわからないし」  その言葉で、姫緒は思い出した。  彼は、きっと夢を見ていない。学校中のほとんどの人の夢のことを姫緒は知っていたが、ほかに彼のような人はいなかった。  だから、姫緒が興味を引かれたのだ。 「でもそれって、誠実だよね」  姫緒の言葉に、彼は首をかしげた。 「先のことがわからない。だから何も書かないんでしょ?」 「それって誠実っていうか?」 「そうだよ。だから、わたしもそうする」  姫緒は、今まで決めあぐねていた調査紙の第一志望の欄に、『イルカ』と書き込んだ。 「イルカ?」  彼が戸惑いの声を上げる。まあ、そりゃそうだろう。 「イルカさんって、頭の半分だけいつも眠ってるんだって。半分ずつ交代で眠って、おぼれないようにしてるの。つまり、いっつも夢を見ていられるんだよ」 「へえ」 「昔からの夢だったんだ。わたしって、どんくさいし、運動オンチだし、何にも取り得がないんだけど、眠っていればなんでもできる。夢の中では、わたしは無敵なんだ。だから、ずっと夢の中で生きていたい。それが、夢」  どうせバカにされると、だれにも言わなかったことだ。 「そっか。いいな」  彼は、ほほ笑んでくれた。  バカにするわけでもなく、あざけるわけでもなく。ただ純粋に、いいなと言ってくれた。  結局先生にはしかめっ面されて、第二志望の大学を第一志望に繰り上げされてしまったが。  姫緒にとって、その日は特別な日になった。  そして、彼女は今日もその日の夢を見る。           1 「終わったー」  と、姫緒は学食のテーブルにとろけた。人目をはばからない子供っぽい態度に、小夜子は苦笑する。正樹がいないと、この子は緊張感がなくて困る。 「休み中はずっと寝てるよー」 「ってコラ。試験なら、休み明けにまだ二日あるでしょうが」 「数学が、今日で終わったの。あとは知らない。んもう、昨日は九時まで起きてたんだよ! 眠くて眠くて、テスト中に三回も寝ちゃった」 「……ひめの場合、どこから突っ込んでいいかわからないときがあるよね……」  たしか姫緒は、暗記系は得意だが、数学など応用力が必要なものが苦手だと言っていた記憶があった。 「小夜子ちゃんはいーなー。テスト関係なくて」  姫緒がテーブルに突っ伏したまま、身をよじらした。無防備もいいところだ。 「あんたもあと一年でこのご身分じゃないの。まあ、進路が決まってれば」 「うぅ、受験どうしよ……」 「あははっ、眠れない日々が続くわね」 「いいもーん。文系の大学行くからー。数学なんてだいきらい。あ、でも上村くんはどこ行くのかなぁ?」 「兄も文系です」 「うわっ」  姫緒が飛び起きた。  彼女の後ろには、唯が立っていた。 「文系だって。よかったね」 「ひ、ひどい! 来てたんなら、教えてよ!」  姫緒が小夜子に抗議する。たしかに、唯がきていたことは小夜子は気づいていた。あまりにも姫緒が無防備だったので、ちょっとからかってみたのだ。 「注意力をつけましょう、ってことよ」 「あの、用事があるのなら手短にお願いできないでしょうか? 今日は稽古がありますので」  唯は手に藍色の風呂敷を提げていた。なかなか分厚い。おそらく、中身は道着だろう。稽古というと、なにかの武道だろうか。 「お稽古? ピアノとか? わっ、聞いてみたい」 「……だから注意力を持ちましょうってば」  このお寝ぼけ娘め。ただでさえひめひめなのに、今は寝不足のせいなのか四割増ほどひめひめだ。頭の上でチョウチョが飛んでいる。  本当は姫緒の用事なのだが、仕方がないので小夜子が話をはじめた。 「バレンタインデーの前日に、企画があるのは知ってる?」 「はい。家庭科室を開放して、チョコレート作りをやる、というものですよね。生徒会主催の」  バレンタインデー前日はちょうどテスト最終日で、午後がまるまる空くのだ。ならばと、生徒会の会長さんが発案したのだ。 「そんでこの子が、ちょっと気合をいれて作りたいってことで。教えてあげてくれないかなぁ?」  唯が姫緒を見た。お姫様はもう限界らしく、腕を枕に夢の世界に旅立ってしまってらっしゃる。  唯はため息をついて、一言。 「初対面の人に頼むことではありませんね」 「あ、やっぱり?」  正確には小夜子とは会っているのだが、面と向かって会話するのは間違いなく今日が初めてだった。  唯は、姫緒の名前で、手紙で呼び出しただけだった。知らない相手の呼び出しでも、律儀に来てくれるのは、さすがは唯だ。 「なぜ、私なのですか?」 「この子の知ってる中でいちばん料理が得意だろうから。用事がなさそうだから。あとは、あたしに義理があるから」 「たしかにお菓子はよく作りますし、その日は用事も特にありませんし、覚えていませんが兄によるとあなたにもお世話になったようです」 「じゃあ――」 「条件があります」  小夜子がうなずく。 「ひとつは、私の味見を手伝ってほしいことです。私は、味オンチなので。甘いかしょっぱいかくらいはわかりますが、それがおいしいかまずいか、判断できないんです。レシピ通りは作ればいいんですが、やはり心配なので」 「OK。その辺はこの子も喜んでやるよ。もうひとつは?」  唯は、考えるように顎に手をあて、姫緒を見つめる。  それから、ゆっくりと探るように言った。 「……私は、何かを好くとか、嫌うとかができません」  質問とは違う答え。しかし、小夜子は黙ってそれを聞いた。 「だからかもしれませんが、他の人の、好き嫌いには敏感なんです。人が何かを見るとき、するとき、話すとき、なんというか、雰囲気みたいなものが変わるんです。本当にわずかな違いですけど。その違いを感じて、私はその人が何を好きか嫌いか、知ることができます。ただの勘と言ってしまえばそれまでですが、少なくとも、私の確認した限り、外したことはありません。これは、数少ない、私の自信を持っているもののひとつです」  視線を、小夜子に向けた。  その目はすべてを――小夜子と姫緒、そして正樹の気持ちの関係を、すべて見透かしている。  理屈でなく、小夜子はそう直感した。  だから、耳をふさぎたくなる。話の続きが予想ができた。 「もうひとつの条件は……あなたも、チョコを作って兄に渡してくれませんか?」           2  家庭科室はなかなかの盛況ぶりだった。整理券が配られるほどだ。 「じゃあ、唯先生、今日はよろしくおねがいします」 「こちらこそ、味見は頼みました」  姫緒と唯はお互いに頭を下げた。二人とも、エプロンと三角巾をつけている。姫緒はイルカのマスコットの刺繍があるセットで、唯は簡素な白い無地のセットだった。 「はあ」  と、ため息をつく小夜子。いつもの格好だ。 「小夜子先輩。義理なりにやる気を出してください」 「そーだよ小夜子ちゃん。義理で義理チョコ作ったら、上村くんに失礼だよ」 「はいはい。やることはやりますから大丈夫ですよ」  そう言って、唯が用意してくれたチョコレートを手にとる。製菓用チョコと銘打たれている。見た目は普通の板チョコと変わらないが、少し大きめだ。  これを湯煎で溶かして、型に入れろとのお達しだ。手作りチョコレートにおいてもっとも簡単なレシピだというが、小夜子には面倒なことには変わりがない。 「別にこのまんま渡したっていいじゃない」 「せんせー、小夜子ちゃんがこの後に及んでぶーたれてまーす」 「先輩。チョコレート作りは手間を代価に好意を形にする作業です。好意がないのなら、その分手間をかけてください」  ガトーショコラのメレンゲを混ぜながら、唯が言った。ずいぶんな物言いだったが、唯だからこそ出る言葉だろうか。  彼女は好意を抱けない分、形で表現しようとしているのだ。 「……わかりました」  一応は、約束だ。  小夜子はチョコを削る作業をはじめる。溶けやすくするため、ナイフでチョコを削いでいくのだ。  しかし、と小夜子は思う。  これを作ったところで、どんな顔をして正樹に渡せというのだ。  正樹とは、あの屋上以来会っていない。正直に言えば、小夜子が避けている。意識しすぎかもしれないが、姫緒の手前、これ以上正樹と会ってはいけない気がした。  いわば女の勘だ。  もちろん、正樹のことは嫌いではない。しかし、それとこれとは話が違う。間違っても、正樹が自分のことを好くようなことがあってはならない。  せっかく、順調にきているのだ。  小夜子の目論見どおり、姫緒と正樹との距離は確実に縮まってはいる。あの奥手な姫緒が正樹のためにチョコレート――しかもトリュフチョコなんて手の込んだもの作ろうとしているのだ。これは、進展以外の何ものでもない。  一度は劇場化し、ララバイとなりかけていた数週間前が嘘のようだ。最近は正樹の夢も見なくてもよくなってきたらしい。  だけど、この不安はなんだろう。  何かよくないことが起こりそうな気がする。  予感は、ここ最近ずっとあった。  そうだ。図書館で、正樹と出会ってしまった、あのときから――。 「小夜子先輩。もうそのくらいでいいですよ」  唯に言われて、我に返る。ボウルの中は、チョコの切りくずであふれそうなほどになっていた。  それをお湯を張った一回り大きなボウルにいれて、溶けるのを待つ。ヘラでかき混ぜていたら、どんどん溶けてきた。溶けたら、ボウルの半分くらいになってしまった。  姫緒を見ると、生クリームを煮立てているようだった。そういえば、最初に唯が説明していたような気がする。沸騰する直前で止めましょう、とか。  だが、明らかにぐつぐついってる気がする。 「ひめ。それ、いいの?」 「え? うぁ!」  慌てて火を止めるが、泡は盛り上がってなかなか収まらない。 「いい匂いだったから、つい……」  唯は鍋を検分して、ちょっと考える。 「そうですね。沸騰させないといっても厳密ではないですし、おそらく大丈夫でしょう。少し冷ましたら、削ったチョコと混ぜてください」  大丈夫だとはいわれても姫緒の表情からは不安は消えなかった。出鼻をくじかれた形になるのだから、しかたないだろう。  と、小夜子と目が合う。  テレ笑いを浮かべて、 「小夜子ちゃんは、がんばってね」  なぜかこちらの応援をしてきた。  この子は、何を思っているのだろう。ただ無邪気に、チョコを作っている小夜子を応援してくれているのだろうか。 「……あ」  溶けたチョコに、ちょっとお湯が入ってしまった。  すぐにお湯を捨てるが、どうしてもいくらか残ってしまう。 「……ま、いっか」  見なかったことにして、チョコで混ぜてしまった。ちょっととろみがなくなった気がするけど、知ったことか。  これで、いい。  失敗作のチョコを平気で作れる程度にしか、正樹に対する気持ちは、ないんだ。  数時間後、昇降口の外で、姫緒はラッピングされた細長い箱を片手に、唯に頭を下げていた。 「ありがとう、唯ちゃん」 「いえ、こちらこそ、雲宮先輩が味を確かめてくれたおかげで自信を持って贈れます」  ちらりと、小夜子のほうを見た。 「あとは、先輩がちゃんと兄に渡してくれれば、すべては丸く収まります」 「そうだよ。ちゃんと渡さなきゃダメだよ?」 「ひめ……」 「あっ」  と。姫緒が小夜子の後ろに向かって手を振った。 「かいちょーだ!」  振り返ると、なるほど生徒会長がいる。ショートカットの女の子で、小さ目の体で大きなダンボールを持って、渡り廊下を走っていた。  声に気づいてこちらを向く。一瞬、困ったような顔をした。 「かいちょー、今日はありがとう!」  慌てて、会長はこっちに駆け寄ってくる。 「雲宮さん……一応は……」  唯のほうを見ながら、いいにくそうにしていた。  そりゃそうだろう。  姫緒の行為は明らかなルール違反だ。「むこう」の知り合いと「こっち」では、必要以上には関わらないようにしている。だれも口にしないが、暗黙に決まったルール。  それを姫緒はあっさりと破っている。まあ、そんなことは今に始まったことじゃないが。 「――お礼は、あとでいいですからっ」 「でも、早いほうがいいかなと思って」  会長は、むっとした目線を、なぜか小夜子のほうに送る。  ――おいおい、あたしゃ保護者かい……。  と、唯がいづらそうにしているのを発見した。 「あー、唯ちゃん。こちら、今回のバレンタイン企画を考案した、会長さん。えっと、名前は――まあいっか」  会長は、うなだれてしまった。 「覚えてないんですか……いえ、たしかに、会長としか呼ばれてないですけど。いいですよもう、会長で。わたしの名前は生徒会会長ですよ」  半分やさぐれてた。  唯が礼をする。しかし、この子の礼は本当にきれいだ。妻にしたいくらい。 「ご無沙汰しております。西ノ川会長」  一瞬、会長は声を詰まらせたようだった。 「あれ? 唯ちゃん知り合い?」 「はい。校内清掃に関して表彰状をいただいたりなど、何かと縁があります」  そうだ。この子は、あの上村唯だった。  と、会長は片手でダンボールを支えながら、右手を唯に差し出した。 「ごめんなさい、こんな格好で。ちゃんと名前覚えていてくれたんですね……」 「はい。人の名前を覚えるのは当然です」 「そうですよね、当然ですよねっ!」  握手。  会長はなぜか小夜子のほう見た。勝ち誇った顔で。  なんとなく、腹が立った。 「ま、お仕事がんばって」  頭を撫でてあげる。 「わきゅっ」  変な声を上げて、会長は頭を振って抵抗する。が、それも最初の三秒だけで、あとは口をへの字にして小夜子を見上げるだけで、されるがままになった。  姫緒も喜んだ。 「あー、わたしも撫でたい。唯ちゃんはどう?」 「目上の方の頭を軽々しく撫でるのは、よろしくありません」  その言葉で会長は我に返った。 「や、やめてくださいよっ」 「ごめんごめん。じゃ、あとで、ね」  あと、という意味を悟ったらしい。会長は、恥ずかしそうにしながらも、 「うぅ。あ、あとで、なら……」  小夜子には、彼女が尻尾を振り回しているのが見えた。 「し、失礼しますっ」  会長は足早に走り去っていった。小柄なわりに、足はけっこう早かった。  小夜子は、会長の頭を撫でた手を見つめた。むこうでは、人を撫でるようなキャラではないのだが。  と、それに気づいた。 「……どうかしましたか?」  唯が尋ねてくる。小夜子は首を振った。 「ううん、なんでもない」  気のせいだ、と思いたい。  会長を撫でた手から、臭いがした。  ここ最近、嫌というほどかいでいる、あのララバイの臭いが。           3  放課後の喧騒が、いつもよりも大きく聞こえた。  一方、図書館の中は静寂そのものである。だから小夜子は、ため息を漏らすたびにはっとしてしまう。  ――あたしが緊張してどうするのよ。  ソファに横になりながら、またため息。寝返りを打った。  と、スカートの中にある感触を思い出し、取り出す。チョコレートの入った箱だった。  結局まだ渡していない。そして、渡すこともないだろう。  姫緒のあとに、どうやって渡せというのだ。彼女の挑戦の結果が、どちらに傾いたとしても。  ――唯ちゃんとの約束、守れなかったか。  大きくため息。  呼吸のさいに鼻を二回ひくつかせ、体を持ち上げた。 「あれぇ? ばれちゃった」  階段の下に、うさぎがいた。 「おどろかそうと思ったんだけどなー」 「あんた、臭いのよ」 「むー。シツレイしちゃう。ぷんぷん」  小夜子はチョコレートをポケットに戻し、立ち上がった。腰に手を当てて怒ったジェスチャーをしていたうさぎに、右手を向ける。  いつの間にか、ボウガンが握られていた。  バスンッ  必殺の速度で発射された矢は、うさぎの眉間に突き刺さる――直前で止まった。  うさぎの右側の髪の房が生きているかのようにうねり、矢を捕まえていたのだ。 「コワいなぁ。きょーは、べつにケンカしにきたわけじゃないの、にッ」  うさぎの髪が、掴んでいた矢を小夜子に投げ返した。ボウガンで撃ちつけたときと同じか、それ以上の速度で小夜子に迫る。 「こっちは、あんたの顔見てるだけで虫唾が走るのよッ」  うさぎの投げた勢いで、飛来する矢を空のボウガンに装填した。そのまま一回転。再び振り向いたときには、両手に矢の番えたボウガンが握られていた。  今度は二発。ひとつの発射音で撃ち出される。  だが、うさぎも今度は両方の髪で二本ともキャッチする。 「なんだ、キラわれちゃ――」  言葉が続かない。  小夜子は両手のボウガンを捨て、新たに洋弓を構えていた。鋼鉄の鎧をも貫けような、拳大の矢尻のついた矢を目いっぱいに引き絞り――放った。  うさぎの髪はふたつともふさがっている。矢は、今度こそうさぎの眉間を射抜くかに見えた。  が。  うさぎの被っていたシルクハットの中から白い腕が現れる。筋張った太い腕は、矢を捕え、握りつぶした。  折れた矢が床に落ちるのと同時に、帽子の中から獣の唸り声が聞こえた。 「小夜子ちゃん、おカオが夢のなかとおんなじになってるよ?」  うさぎはそう言って笑うが、小夜子は表情ひとつ変えもしない。自身が張り詰めた弦であるかのように、微塵も動かなかった。  うさぎは腕が出たままのシルクハットを手にとり、帽子の腹をとんとんと叩いた。それで、腕は中に戻った。  そして、髪で掴んでいた矢も、二本とも中に入れる。  シルクハットを下に向けた。  帽子の屋根を、とんと叩く。  ドスッ。  重いものが深々と突き刺さる音が、ホールに響き渡った。  小夜子には見えていた。中に入れた矢が、目にも止まらぬ速度で床に発射されたのを。床をやすやすと貫通し、地面に突き刺さったのだろう。 「さて。うさぎちゃん、ワルモノになります」  そう言って、帽子の口を横に向ける。  校舎のある方角だった。 「このまま撃ったら、だれかに当たっちゃうかもしれないね?」 「……何の用?」  小夜子が洋弓を床に投げ、尋ねた。 「あーあ、小夜子ちゃん、ものわりよすぎ。せっかくワルモノになったのに、『ブキをすてろぉ!』くらいいわせてよぅ」 「早くなさい。息を止めてるのもつらいんだから」 「ほんとににおうの? おフロははいってるんだけどなぁ」  うさぎは肩をすくめる。 「姫緒ちゃん、ここにはこないよ」  小夜子は奥歯を噛みしめ、体が動くのを押さえつける。  うさぎがシルクハットを見せつけていた。 「――姫緒に何をしたの?」 「まだなにも。むしろ、覚えがあるのは小夜子ちゃんのほうじゃないのかなぁ?」  そういってくすくす笑う。 「今日は聖人の記念日。夢が生まれては消え、叶っては潰える日。さて、姫緒ちゃんはどっちかな?」 「あんた、何を企んでるの?」 「やだなぁ。さいしょにあったときもいったでしょー? 一年前だから、わすれちゃったかなぁ?」  そして、うさぎの表情が変化する。  子供を皮を脱ぎ捨てた狡猾な表情。しかし目だけは、童子特有の剥き出しの残忍さを宿したままでいた。 「うさぎちゃんは、みんなのシアワセをねがってる。ホントだよ?」  うさぎはシルクハットを被りなおした。 「だから、これもじょーだん。撃たないよ。小夜子ちゃんほどじゃないけど、うさぎちゃんだってここの人たち、好きだもん」  そのまま、来た方向に去っていく。 「みんな、いい夢みてるよね」           4  夕闇に沈む校舎には、もうだれもいなくなっていた。  暗がりの中を小夜子は廊下を走る。足音ばかりが反響し、それが小夜子をせかした。  姫緒と正樹は、教室にいるはずだった。  戸を開ける。  人影があった。 「先輩……」  正樹だ。  小夜子は、何かを言おうとして、何も言葉を準備していなかったことに気づいた。こと正樹に関しては、会うのすら一週間ぶりだ。なにから言えばいいかわからない。  正樹は笑っていた。 「そんなに慌ててどうしたんすか? あ。チョコくれるとか?」 「…………」  小夜子は正樹に近づく。左足を踏み込み、右の平手を打ち込んだ。  景気のいい音が教室に反響する。 「いってぇ……な、なにするんすか!」 「いや、なんとなく」 「なんとなく? 腰まで入れといて、なんとなく?」  ひでえとぼやきながら頬をさする正樹。それをよそに、小夜子はあたりを見回した。  夜の空気に満たされた教室には、本当に正樹しかいないらしい。 「……姫緒は? こなかった?」 「きましたよ」  正樹の声が小さくなる。 「……告白、されました」  目を合わせず、足元を見つめたまま。 「断りましたけど」 「なんでよ!」  小夜子の大きな声にもひるまず、正樹は顔を上げる。 「先輩が好きだからです」  静かに、正樹は言った。小夜子をたしかに見つめながら。その視線にはばまれて、二の句が出なくなった。 「雲宮、言ってました。振られるためにきたんだって。じゃないと――先輩がいつまでも遠慮したままだって」 「なんであの子が、あたしに……」 「雲宮も、俺の気持ちに気づいてたから――」  昨日の姫緒の様子に、思い当たるところがあった。無邪気に小夜子のチョコを作るのを応援していたのは、自分はあきらめようとしていたからだ。  だが、あきらめた先は? 本当にあきらめられる? 無理だったら?  あの子は――天才的なまでに夢を操る能力に長けたあの子なら、すぐに行ってしまう。  越えてはいけない線の向こう側に。 「……なんでよ」 「え?」 「なんであんたは、あたしなんか好きになったのよ! なんで、姫緒じゃダメなのよ――今からでもいい、姫緒を好きになってやってよ……」 「先輩。先輩のほうこそ、なんで、そんなに雲宮に協力するんです?」 「え?」 「雲宮の決意を、なんだと思ってるんですか? あいつは、俺と先輩のために――。なのに先輩は、ただ自分の都合を振り回してる。雲宮のことわかってない」  正樹は、怒っていた。 「俺を……好きになってくれなんていいません。でも同じように、俺に雲宮を好きになれなんて言っちゃいけないです。それは、雲宮の気持ちを無視したことになります」  わかっている。  たしかに、気持ちは大切だ。  だけど、これはそういう問題じゃない。  あの子が人でいられるかどうかなのだ。 「……わかった」  小夜子は決意する。  もう、喰うしかない。 「姫緒は、どこ?」  眠りにつくとき、予感はあった。  多分、もう目覚めない。  だから姫緒は、今見ているものがなにを意味するか、わかっていた。 「劇場化、か」  姫緒はプールの傍らに立っていた。水族館の、巨大なステージつきのプールだ。  プールの中で、数匹のイルカがジャンプを繰り返していた。  思い出した。これは、幼稚園のころに父親と一緒にきた水族館だ。  水の中を自由に泳ぐイルカ。軽やかなジャンプをしているが、彼らは常に脳の半分は眠っているのだ。にもかかわらず、現実でもこんなに自由なイルカたち。子供のころの、姫緒の憧れだった。  姫緒は、笑ってしまう。  結局、子供のころの夢に戻ったらしい。  少し前に劇場化したときは、正樹と初めてしゃべった部屋だった。  今は、イルカの夢。夢のように現実を泳ぐ、イルカになりたい。  と、プールの中から人が現れた。  姫緒だった。黒いウェットスーツを着たまま、水の上に立った。 「あなたが、わたしの夢?」  彼女はうなずく。そして、口を開いた。 『いいの、姫緒?』  姫緒もまた、自分と同じ顔をした彼女に応える。 「うん。もう、疲れちゃった。あなたに、わたしになってほしい」 『そんなに、いや?』 「そうかもね。正樹くんも小夜子ちゃんも好きなのに、正樹くんを好きになると、小夜子ちゃんを嫌いにならなきゃいけない。そして、そんな自分もどんどん嫌いになっていくんだ。だから、ね」  自分以外の自分に、水の中のイルカのようにすべてを自由に行える自分になりたい。 「たいへんだったねー」  少女の声が、プールに響いた。  ステージの端から、燕尾服を着た白い少女が現れた。 「あ。おトリコミちゅうのとこ、ごめんね。うさぎちゃんっていいまーす」 「あなた……ララバイ?」 「わお。さっすが姫緒ちゃん。はなしがはやーい」  ぱちぱちぱち、と拍手される。 「じつはね、姫緒ちゃんにおねがいがあってきたの」 「おねがい?」  うさぎは、水の上に立つ姫緒にも視線を送る。どこか、物憂げな表情をしていた。 「だれも嫌いにならないでいい、みんながみんなのことを好きでいられるセカイ――それを、いっしょに作ってみない?」 「だれも――嫌いにならない?」 「そう。正樹くんも、小夜子ちゃんも。自分のコトだって、ずっと好きでいられる――そんな、みんなのためのしあわせなセカイ」 「そんな都合がいいものなんて……」 「そうかな? でも、そういうものを、姫緒ちゃんは夢に見たいんじゃない?」  姫緒は、はっとした。 「だから、てつだってほしいの。そう、姫緒ちゃんの、夢にね」  そう言って、水の上の姫緒を見る。 『……わたしは、姫緒ちゃんが望むなら』 「だ、そうだけど?」  姫緒が、何かを言いかけたとき。 「姫緒!」  姫緒をはさんでうさぎと反対側から、声がした。  黒雪だった。 「うさぎの言うことなんて聞いたらいけない! そいつは――」 「だったら!」  姫緒が叫んだ。 「だったら……あなたなら、叶えてくれるの? わたしの望みを。わたしの気持ちを、助けてくれるの?」 「――姫緒」 「現実なんて、だいっきらい」  姫緒は、プールに飛び込む。  その瞬間、水が溢れ出す。水しぶきを上げ膨張し、黒雪やうさぎを飲み込もうとした。 「おっと」  うさぎはシルクハットを押さえながら、壁に向かってジャンプする。そのまま、壁の中に消えてしまった。 「ひめおぉぉぉ!」  黒雪の声は、水の音にかき消されてしまった。           5  正樹は、教室を飛び出してしまった小夜子を探し、校舎の中を走っていた。  姫緒を探しているわけだから、姫緒がいそうなところを探せばいい。  そう思って、保健室の前にきた。  正樹が開こうとする前に、扉が開く。  中から出てきたのは、姫緒だった。 「あ……」  ちょっとした気まずさがあった。ついさっき、振った相手なのだ。  だが姫緒のほうは、まるでさっきのことを忘れたかのようなさわらかな笑顔で、 「こんにちは、正樹くん」  と、今日はじめてあったかのように言った。 「小夜子ちゃんなら、中だよ。わたしはもう行かなきゃいけないから、おねがいね」 「あ、ああ」  本当に姫緒なのか、という疑問が浮かんだ。 「あの、さっきのこと……」 「さっき? あ、ああ」  思い出したように姫緒は言う。本当に、ついさっきのことを。 「正樹くん、優しいからね。傷つけちゃったかもって心配するのはわかるけど、あんまり気にしちゃダメだよ。それじゃ、小夜子ちゃんがかわいそうだから」  他人事のように言って、姫緒は正樹の脇をすれ違い、去っていこうとする。  ほんのりと、水のにおいがした。どこかでかいだことのあるにおい。水道でもプールでも海でもない――そう、これは水族館のにおいだ。 「――おい」  正樹の声に、姫緒は立ち止まる。暗い廊下の先で、もうほとんど見えなくなっていた。 「おまえ――本当に雲宮か?」 「やだなぁ」  姫緒は笑いながら言った。 「ひめひめって呼んでって、言ったじゃない」  ぱちん、という指を弾くような音。  ふいに、廊下の闇が深くなった。  姫緒の体は、完全に見えなくなる。 「……先輩!」  ふいに心配になって、保健室に飛び込む。  保健室の中も暗かった。電気のスイッチを手探りで探すが、棚の上のペンケースを倒してしまう。どうでもよくなって、そのまま中に進んだ。 「先輩? いるんですか?」  と、ベッドの前に、丸い影を見つけた。  小夜子だった。膝に顔を押し付けるようにして座っている。  顔を上げ、つぶやくように言ってくる。 「正樹」 「どうしたんすか――って、びしょ濡れじゃないですか!」  小夜子の座っている床に水溜りができていた。まるで、今さっき水に飛び込んで出てきたような濡れ具合だ。 「姫緒が……ひめおが……」  小夜子が、小声で姫緒の名前を繰り返した。  正樹は、それで確信する。姫緒が、何者になってしまったのか。 「……先輩のせいじゃないですよ」  それが、スイッチだった。  小夜子は声を上げて泣いた。  暗い、夢の底のような部屋の中で。  ただ、泣きじゃくった。    第四章  欠けた心は夢で満ちる           0  バスの中だった。  まだしわの少ない中学の制服を着た唯が、母親の横に座っていた。もちろん、窓側。流れていく外の景色を目で追いながら、不機嫌そうに話していた。 「ひどいんだよ。ユカちゃん、唯の時計盗もうとしてるの。嫌がらせのつもりなんだ」  そう言って、手のひらに乗る小さな懐中時計を母親に見せた。メッキのはげかけた表面には、兄と一緒にとったプリクラが張ってあった。 「なら、唯も持っていかなければいいじゃない。勉強に関係ないものは、持っていっちゃいけないんでしょう?」 「ううん。おじーちゃんがハダミハナサズ持っておけって。それに、みんなもケータイ隠れて持ってきてるから、先生が時計くらいならいいって」  時計を開く。針が、逆方向に動いていた。文字盤は普通に配置されているので、まるで時間が戻っているような錯覚を覚える。 「携帯電話、唯はいいの? ほしいなら買ってあげてもいいのよ?」 「いい」  唯は時計を見たまま言う。 「お兄ちゃんと一緒で」 「なら、いいけど」  唯は祖父からもらった、そして形見になってしまったこの時計が好きだった。毎晩、ねじを巻いてから寝るのが、子供のころからの習慣になっていた。もう体の一部のようなものである。 「あら。小銭がないんだった」  母親はそうつぶやいて、財布を取り出しながらバスの料金箱に向かう。  唯も時計のふたを閉め、顔を上げた。  そして、目撃する。  信号無視したトラックが、バスの側面から突っ込む瞬間を。 「それで」  唯はうさぎに尋ねた。 「こんなものを見せて、いったいどうしろというのですか?」  そこは交差点だった。道路のまん中で、バスとトラック、さらには後続の車両が巻き込まれていた。 「すごいねー」  うさぎは笑いながら、事故の様子を眺めている。 「唯ちゃん、よく生きてたよねぇ」 「そうですね。後ろの席でしたし」  母親は死んだ。即死だったらしい。  もっとも、唯も頭を打って、十日ほど昏睡状態に陥っていたそうだが。  唯はそのことを思い出し、うさぎに頭を下げる。 「その節は、お世話になりました」  頭を打ったせいで心の統制が乱れて、目覚められないでいた唯を助けたのはうさぎだった。心の体系を組み直し、元通りにしたのだ。  少なくとも、唯はうさぎからそう聞いていた。  うさぎは、目頭を押さえて、わざとらしく泣くジェスチャーをする。 「でも、うさぎちゃんの力が及ばずに、カンジンなトコを直せなくて――ごめんね」 「いえ。運が悪かっただけです。だれも悪くありません」  心の再構成中に入ってきてしまったのが、正樹だった。ちょうど「恐怖」を構築していた最中に。正樹が恐怖を殺してしまったために、今の唯には何かを怖いと思うことや、その反面、好きになることもできなくなってしまっている。  だが、それも正樹が唯を思ってやったことだ。唯は、その気持ちを受け取ることにしていた。 「でもね、ろーほーだよ」  うさぎの表情が明るくなる。 「あたらしい仲間ができてね。その人なら、唯ちゃんの心をもとに戻せるかもしれないの」 「もとに……」 「そう。唯ちゃんのおにーちゃんが壊してしまったトコを、なおすことができる」  唯は、首を横に振った。 「せっかくですが。私はこのままで生きていくということを決めましたので――」 「ほんとう? それは、ホントに望んだことの? かなわない夢だと、あきらめたことじゃないの? できるんだよ、もとにもどることが?」 「しかし……」 「かりに唯ちゃんがそう思っているとしても。おにーちゃんはどうかな? 三年前の唯ちゃんだったら、どう思うかな?」  事故現場に、救急車がやってきた。バスから次々と人を乗せていく。  その中に、頭から血を流した唯がいた。  手には、ふたの開いたままの金時計。  血に汚れたそれは、大きくたわみ、動くのをやめてしまっていた。 「唯ちゃんのココロとカラダは、唯ちゃんだけのものじゃない」 「それは、わかってます……」 「よくかんがえて?」  うさぎは、ほほ笑んだ。 「唯ちゃんにとって、みんなにとって、何がいちばんしあわせなのかを」  うつむく唯には見えない。うさぎの笑みが、ウサギというよりキツネに近いものだということを。           1  姫緒がいなくなって二週間が経った。  家には「ちょっと旅に出ます」と書置きがあったらしい。家族は捜索願を出したようだが、警察も事件性はないとして、それほど捜査はしていないらしい。  正樹たちも、華胥の夢や学内、街を捜してはいるが、成果はなかった。  正樹は図書館の窓から中に入る。  制服の表面についた雨水をさっと払った。外は雨が降っている。しとしとと小雨が、昼からずっと。長くなりそうな雨だった。 「せんぱーい」  廊下を進み、ホールに出る。ソファの上に小夜子が横になっていた。顔に本をかぶせて動かない。 「なんだ、いるじゃないですか」  小夜子は本を持ち上げ正樹をちらりと見るが、また本を戻してしまう。 「ふぅ」  正樹はため息をつき、小夜子の本を取り上げてしまう。 「なによ」  恨めしげに小夜子が言うが、言葉だけで、それ以上は動こうとしなかった。 「いいかげん、立ち直ってくださいよ」  姫緒を捜すとき以外、ほとんどこの調子である。正樹も今まで黙っていたが、もう見ていられなかった。 「雲宮のことは、先輩のせいだけじゃないですって」 「あんたに何がわかるのよ」 「そう。それですよ。まるで雲宮のことのすべてを知って、管理してるような気持ちでいる。だからあいつの気持ちを察してやることもできなかった。今だって同じだ。何にも変わってない――」  言葉は止まらなかった。 「仮に先輩のせいだとするなら、その先輩の勝手な部分がいけないんですよ!」  一瞬、小夜子の表情が硬直する。  ソファの背もたれに顔をうずめる。鼻をすするような声が聞こえた。泣いているようだった。  正樹はテーブルに腰掛け、頭をかく。  正樹自身も、疲れていた。イラついている。姫緒のことよりも、小夜子の態度のせいだ。  ――だからって、当たるなよ。  言い過ぎたことを謝ろうと口を開いたとき――。 「教えてよ」  震えた声が聞こえた。 「あたしが、どうすればよかったのか。これからどうすればいいのか……そんなに言うんなら、教えてよっ」  起き上がった。  やはり小夜子は泣いていた。両目からぽろぽろと涙を流し、唇をかみ締めている。  泣き顔をさらしたことで気が緩んだのか、嗚咽が混じる。やがて、声を出して泣き出した。 「せ、先輩……」  子供みたいに泣きじゃくる小夜子を前に、正樹は困った。泣いてる女性に対するフォローなんて、想像すらつかない。  ――ああ、もうっ。  正樹は小夜子の横に座りなおす。そして、小夜子の肩を抱き寄せた。  小夜子は正樹の胸に顔を埋めて、叩きつけるように泣きつづけた。  自分の対応が拒否されなかったことへの安堵と、小夜子と密着しているという気恥ずかしさと、泣かせてしまったという罪悪感。あとはほんのりと匂う小夜子の香りになかば混乱しながらも、とりあえず正樹は小夜子の肩を優しくさすりつづけた。 (でも、このあとどうしようかなぁ)  雨の屋敷に二人っきり。ソファの上で抱き寄せている。普通に考えたら先を期待してしまう状況なのだが、実際にやってるほうは不安でいっぱいだった。  教えてよ、といわれた。  わからなかった。そもそも、小夜子ばかりのせいではない。小夜子が彼女の気持ちを察することができたとしても、事態はあまり変わらなかっただろう。  正樹が好きな人が小夜子である限り。  かといって、自分のせいだとも言いたくない。自分で言うと責任逃れみたいだが、つまりそれじゃ、自分のせいだと思って腐っていた今までの小夜子と同じということだ。  むしろこれからどうするかが、問題だ。だが、それも姫緒が見つからなければどうしようもない。見つけても、どうしようもないが。  早い話、打つ手は何もないのだ。 (だから、先輩だけでも元気になってくれないと)  いつの間にか、小夜子が静かになっていた。 「寝ちゃった……んすか?」 「寝ないよ」  答えはすぐに、はっきりと返ってきた。 「あたしは眠れない」  正樹の胸の中で、小夜子は言った。 「ララバイだから」  正樹は、驚かなかった。  なんとなくそんな気はしていた。《蕣》を見せたとき大げさなほど驚いたり、夢に関して異様に詳しかったりと、予感はあった。あまりに普通に姫緒やジャコ先生と話していたから、なかなか確信がもてなかったが。 「黒雪も、先輩なんすよね?」  胸の中で小夜子が動く。うなずいたようだった。 「姫緒と最初に会ったのは、入学式のとき。あの子、着席してから三十秒で寝て、五十秒で華胥の夢にやってきたのよ? 最速記録」  小夜子の肩が震えた。笑っているようだ。正樹も、ちょっと笑った。 「でも、夢を見る才能があるってことは、同時に夢に入りやすい、ララバイになりやすいってこと。だから、注意してた。  あの子があんたのことに興味を持ってからは、特にね」 「俺のこと?」  雲宮と出会ったのはいつだったろうか。クラスは二年になってから一緒になった。 「あんたは知らないと思うけど、華胥の夢で。まあ、まえまえからみんなの話題にはなってたんだけどね。白い夢の変わり者がいるって。グローリーの所持者――栄光者の特徴だけど」 「グローリーって、《蕣》ですよね? じいちゃんがなんだってそんなものを」 「多分、正樹の家系が特殊だからだよ。グローリーはララバイを殺すのが目的だけど、持ち主の夢を殺すことでララバイ化させない目的もあるって聞いた」 「……じゃあ、唯は?」 「そうだね。あのときは、危なかった。正樹も、ごめん。唯ちゃんの夢、食べちゃって」 「いいんすよ、それは」  かつて、黒雪を責めたことを思い出した。 「夢を守るため、ですよね」 「うん。今回は、失敗しちゃったけど」 「先輩……」 「いいの。大丈夫」  小夜子は顔を上げた。目が赤い。正樹に向かって、強がりな笑顔を見せた。 「姫緒の夢は、叶えてあげたかった。そうすれば、現実でも自信を持って、必要以上に夢にこもることもなくなるだろうから」  笑顔のままだった。少しさびしそうだが、今までの自虐的なものとはだいぶ違う。 「さて。弱気な小夜子おねーさんはそろそろおしまい。正樹のおかげで、なんとか元気が出てきたよ。ありがと」 「俺は、何もしてませんよ」 「そういう控えめなところ、好きだよ」  どきん、とした。  小夜子は窓の外を見やる。 「雨、やみそうにないね」  途端に、雨音が戻ってきた。  雨の屋敷に二人っきり。  同じソファで向かい合っている。 「――正樹が望むなら、もうちょっと気弱でいてあげるけど……どうする?」  力の抜けた笑顔。ちょっと乱れた前髪。ほのかに赤くなった頬。まだ涙の雫の残ったまつげ。  この人を綺麗だと思ったことは何度かあったが。  かわいいと思ったのは初めてかもしれなかった。           2  正樹が家に着いたのは、七時をまわるかといったところだった。 「ただいまー」  全身ずぶぬれだった。傘を忘れた身分なので、走って帰ってきたのだ。もっとも、途中からはもうあきらめて、歩いてきたわけだが。 「あれ?」  違和感を覚えた。  玄関をはじめ、廊下、居間、キッチン、客間まで、すべての部屋の明かりがつけられていた。  靴を見る。父はいないが、唯は帰っているらしい。そういえば、父はしばらく家を空けると言っていた。 「唯?」  靴下ごと靴を脱ぎながら、正樹は慎重に家に上がる。  唯が意味のない行動をするわけがない。五年間伸ばしていた髪を、「無駄」という理由だけでほぼ丸刈りにまでしてしまったやつだ。  と。どたどたと廊下を走る音が近づいてくる。  頭からタオルを被った人影が現れる。思わず身構える。  走る勢いでタオルが外れた。  唯だった。 「唯、どうし――」  言葉の途中で、唯が飛びついてきた。タックルといっても差し支えない勢い。思わず、その場に崩れ落ちてしまった。 「に、兄さんっ」  鼻づまりの震えきった声は、だれのものだか、一瞬わからなかった。 「ゆ、唯?」 「兄さん、わた、私――」  あとは声にならない声で泣きじゃくった。  ――どうなってんだ、今日は? 「じゃあ、学校から帰ってきて、昼寝から覚めたら、いきなり感情が戻っていたのか」  唯は、コーヒーカップに口をつけながら小さくうなずいた。  カップの中身は、ホットミルクだった。正樹が何か飲みたいか訊いたときに、唯が頼んだのだ。  冷たい牛乳でなく、温めたミルクを。しかも砂糖入りで。 「家中明かりをつけてたのは?」 「……一人だと……その……怖くて……」  今はもう半分の明かりは消してある。だが、キッチンから見える範囲の部屋の明かりはまだつけたままにしてあった。 「じゃあ、その頭は?」  唯はさっきからずっとタオルを頭に被っている。 「これは……その……いきなり、恥ずかしくなって……」 「いまさら、だれも気にしてないぞ?」 「言わないでください! こんな姿で外を出てたなんて――ああっ」  唯は震えた。身悶えた、と言ったほうが正しいかもしれない。  とにかく、感情が戻ったのは本当らしい。思い出してまで恥ずかしがる姿は演技とは思えないし、演技をするような唯ではない。  正樹は、以前の唯と今までの唯が一緒になってしまったような錯覚を覚えた。  ――いや、そうなのかもな。  口調やそぶりは、今までの、正義を行動の基準としていた唯のままだ。だが、心のほうが別の欲求を発してるらしい。 「そうだ。先生に連絡するか」  唯の症状に関してお世話になったカウンセラーの先生だ。しばらく連絡をとっていなかったが、こんなときのための専門家だ。 「番号、どこやったっけかなぁ?」  電話のまわりを探すが、それらしきものは見つからなかった。  と、正樹はくしゃみをする。 「その前に、シャワーか」  濡れた衣服を着替えただけで、髪も濡れていたし、体も冷えていた。  シャワーと聞いて、唯が反応した。 「……あの、私は?」 「私はって……ちょっとだけだし、待っててくれれば――」 「い、イヤです!」  椅子から飛び上がると、正樹の腕を掴んだ。 「わ、わがままだって言うのは……わかってます。けど……一人にしてほしくないんです……」 「脱衣所で待っててもいいから」 「で……できれば……一緒に……」  できるわけがない。  だが、突き放してしまえる状態でもなかった。 「わかった。シャワーは我慢する。暖房、温度上げるぞ?」 「はい。すいません……」 「まあ、別にいいや。今までがいい子すぎたんだし、これぐらい」  正樹は暖房の設定温度を上げる。唯は、冬はどんなに寒くても十八度以上に上げることを許してくれなかった。 (本当に、戻ったんだなぁ)  不安げに正樹のシャツの裾を掴む唯。冷蔵庫の駆動音が鳴るだけで、びくりとしている。 (だけど、これはちょっと度がすぎやしないか?)  まるで、三年分の感情がどこかにたまっていて、それが一気に噴き出したかのようだ。事故以前の唯だって、ここまで異常な怯え方はさすがにしなかった。 「――そうだ、先輩か」  こういうことに関して無駄に知識がある。もしかしたら、唯のこれに関しても、何かわかるかもしれない。 「先輩? さ……小夜子……先輩、ですか?」  唯が、やけに言いづらそうに、小夜子の名前を口にした。 「そう、だけど?」 「な、なんか……イヤです」 「イヤって、先輩が?」 「はい。なんか、理由はわかりませんけど……ものすごく、会いたくなんです……」  よくわからないが、今は下手なことを言いたくなかった。 「まあ、そういうなら唯は会わなくてもいいか。俺が聞いてくれば――」 「兄さんもダメ!」  腕を掴んでくる。かなり力が入っていた。 「ゆ、唯……痛い」  さすがは武道をやってるだけあって、普通の女の子より力がある。指が肉に食い込んできた。  だが、唯は力を抜こうとしない。 「兄さんも、ダメです! あ、あ、会わないでください! わ、私の見えないところで、あ、あの人に、あ、あ、会われるのが……す、すごく、イヤです――イヤなんです!」 「わかった――わかったから!」  唯がはっとして、やっと手を離した。 「ご、ご、ごめんなさい――わ、私、ど、ど、どうして……」 「いいよ。多分、いきなり心が戻って混乱してるんだ。早く寝たほうがいい。睡眠には心を落ち着ける効果があるって――」  そう教えてくれたのは、小夜子だった。 「まあ、とにかく寝ろ。俺がついててやるから」  そう言って、唯の頭を撫でてやった。 「兄さん――」  細めた目から涙をこぼす。  それは本当に久しぶりに見る、唯の笑顔だった。           3  朝も、とにかく大変だった。  まず、唯が学校に行きたくないとごねた。正樹も今のまま学校に行かせるのも不安だったのでそう勧めたが、正樹も一緒に休めという。  さすがにできない。小夜子に相談しなければいけないと、決意したからだ。  小夜子のことは言わなかったが、とにかく唯も学校に行くことで納得してくれた。髪を隠すためニット帽を被り、眼鏡を外した。  教室では友人に預け、ようやく教室に戻ってきたのだ。 「ふぅ」  ホームルームでは、明日の卒業式のことを担任がしゃべっていた。どうやら、式の前に生徒会が用意したフィルムを放映するらしい。三年間の思い出をまとめたものとか。  卒業式。早いもので、もうそんな時期なのだ。  ――先輩、四月からどうすんだろ。  普段は、あまり現実に姿は見せないらしい。最近は姫緒の夢を叶えさせる意味で、表に出ることが多かったようだが。  夢の中より現実にいるほうが、早い話が、腹が減るのが早いのだ。  ララバイの体は、夢でできている。だから、空腹――夢の欠乏はそのまま消滅につながる。  しかも小夜子は、人を助ける目的以外では夢は喰わない主義をとっている。つまり、摂取できる機会は限られているのだ。なるべく消耗は抑えなければならない。今だって、正樹の前に現れるのは放課後だけだ。  こんなとき、夢が見れない自分がもどかしい。夢を見れれば、華胥の夢にだっていくことができる。姫緒がいない今、あそこに行く手段はないのだ。  ――そういえば。  ここひと月、小夜子の夢を見ていなかった。  いつ以来だろうか。考えたら、すぐに答えは出た。  あの、唯とともに図書館に忍びこんだ夜。小夜子とこちら側で出会ったその日から、夢に現れることはなくなった。  あの日から、なのだ。  昼休み。正樹を呼び出す放送があった。  保健室からだ。  嫌な予感を覚えて急いで向かった。 「おう、来やがったか」  堂々とタバコをふかしながら、ジャコ先生は迎えてくれた。今は余計な突っ込みをしてる余裕はない。さっそく用件を切り出した。 「唯、ですか?」 「ああ」  そう言って、あごでベッドのほうを示す。  カーテンをめくると、唯が眠っていた。 「なにがあったんですか?」 「それはオレが訊きてェ。授業中、叫んでから、吐いて倒れたそうだ。そうなる前にも様子がおかしかったとか。おまえ、そりゃ明らかに心理的な症状だろ。コイツにゃハンパなストレスは、無縁だと思ってたんだけどな」 「……そうですね。昨日、までは」  正樹は、昨日のことを話した。 「あー、なるほどな」  そうつぶやいてうなずきながら、ジャコ先生は手をもちあげる。  次の瞬間、正樹は床に倒れていた。一瞬、意識を失っていたらしい。起き上がろうとするが、うまく立てない。ついた手がすぐに崩れる。それどころか、地面がどこにあるかさえ実感できない。ひどく酔ったみたいな感じだ。 「脳が揺れてんだ。人間だったらいきなり立てねェよ。黙って床とキスしてろ」 「つっ――」  左のこめかみが、鈍く痛んだ。床に這いつくばりながら、見あげる。右回転する視界の中で、ジャコ先生が手をぷらぷらさせていた。 「俺、殴られたんすか?」 「ああ。ッたくよ。そんな状態の妹をほったらかしにしとくやつがあるか。余計なシゴト増やしやがって」  そう言って、薬棚の奥から茶色いビンを取り出した。黒いラベルが張ってある。外国の言葉で書いてあったが、読めなかった。  ジャコ先生はそれをコップに注ぐ。透明の液体。半分くらい入れたところで、一気に飲み干した。 「先生?」 「しょーがねーから、呼んできてやる」  そう言って、椅子に座る。十秒とせずに目がうつろになってきて、机に崩れ落ちた。  いびきが聞こえてくる。  正樹はどうにか頭をもたげ、床に座る。視界が回っていて、壁に手をつかないと倒れそうになった。床にすら、ろくに座れない。  殴られたところが熱を帯びてきた。意識してから、どんどん痛みがひどくなってきている。骨とかは大丈夫だろうか、と心配になってきた。  そのとき。 「んなっ」  ジャコ先生の背中から、手が生えた。  正樹が驚いていると、すぐに見知った顔が現れた。 「せ、先輩?」  小夜子は車から降りるくらい自然な動きで、ジャコ先生の中から現れ、床に立った。  外していたヘアバンドをはめる。 「やあ正樹。驚いてるね」 「……そうっすね。今なら、先輩がラスベガスで活躍するマジシャンだと言われても、信じちゃいます」 「自由の女神とか消すやつ? まあ、『人に夢を見せて、それで食っていく』って意味では、似たようなもんだけどね。こっちは、タネも仕掛けも本当にないだけで」  小夜子は唯の顔を覗き込む。 「大体はジャコちゃんに聞いたけど……て、あんたのほうもひどいね」  やっぱり座ってもいられない。吐きそうだ。床に横になったままで、小夜子を見上げた。 「まあ、正樹は自業自得だからいいとして。唯ちゃんはどうしたのさ? 昨日、いきなり戻ったんだって?」 「それは俺が訊きたいことです。しかも、怖がりかたとかが異様なほどで。まるで、今まで抑えられてたものが一気にぶり返したみたいな――」 「まあ、あながち間違えてないかも」  考えるようにして、小夜子が言った。 「多分、授業中に倒れたって言うのは強いストレスからだよ。いまや唯ちゃんはあらゆるものに過敏になっている。その上、実際に感じられるもの以上のものを感じているかもしれない。不安からくる被害妄想とか、もっと直接的に幻覚とか」 「幻覚って――」 「本当だよ? 人間の心は、本当に脆い。ほら、子供が闇を怖がるのは、そういうこと。剥き出しの敏感な子供の心には、闇っていうのは『視えすぎる』んだ。天井に浮かんだ三つの染みが、人の顔に見えるようにね。  多分、今の唯ちゃんはその何倍も敏感になってる。本来見えないものが見えていても、何ら不思議じゃない。倒れるっていうのは、心の防衛機能なんだよ。これ以上何も見せないようにするってね」  小夜子は、ヘアバンドを外した。 「どっちみち、唯ちゃんの中に入ってみないと。外側からじゃ、わかることもできることも限られてる」  そして、額を唯の額に合わせようとする。  が――。 「んがっ」  小夜子が、押し戻された。  唯の手が、小夜子の顔を押しのけていた。 「――どうして?」  唯が起き上がった。目覚めていたのだ。 「どうして、この女がここにいるの!」  正樹は、どうにか体だけ持ち上げる。 「どうして? 会わないって、昨日約束したのに!」 「唯?」 「わかんない――わかんない! 私、どうして! 兄さん、助けて……いや……こんなのイヤ……」  唯は頭を抱えてしまう。小声でつぶやきつづけるが、正樹には聞こえない。  小夜子が唯に手を伸ばしかける。 「唯ちゃ――」 「触るな!」  唯が、小夜子から離れるように、ベッドから跳ね起きた。 「おまえが――おまえが悪いんだ! おまえがいるから、こんなに苦しいんだ! おまえが兄さんと一緒にいるから! おまえが――」  涙を流しながら叫んで、唯は口元を抑える。  指の隙間から、黄色い液体がこぼれた。  吐いたのだ。 「……いや――いや!」  唯は走り出し、保健室から出て行った。 「くっそ」  正樹も追いかけようとするが、足がもつれて倒れてしまう。 「無理しないで! あたしが行くから」  小夜子が唯を追いかけ、保健室から出て行った。  正樹も出口まで、どうにか這って行く。途中、ジャコ先生を起こしてから行こうかと迷ったが、赤ら顔でいびきをかいているのを見て、あきらめた。 「――ちくしょう」  廊下に出て、立ち上がる。  視界の揺れが、座っているときの比ではない。意識が遮断されそうなほど気持ち悪い。  それでも、壁に寄りかかりながら、外に向かう。 「……どうなってやがる」  答えてくれる者はだれもいなかった。           4  雲に覆われた暗い空を見て、正樹はため息をついた。  唯も、小夜子も、見つからなかった。  あれから、学外に探しに出た。唯の状態なら学内ならすぐに見つかって保健室に戻されるだろうし、それに学校にはもういたくないだろうと考えたからだ。  まず、家に向かった。だが、だれもいない。あとは、街じゅうを探し回った。  正樹の体調もだいぶ楽になったが、まだときどきふらついたりする。頭の痛みも引かない。 「もうちょっと手加減してくれても……」  ジャコ先生に毒づくが、いまさら何の意味もなかった。 「ふぅ」  公園を見つけ、ベンチに座る。  長くなった影を見ながら、一度学校に戻ろうと思った。小夜子が見つけているかもしれないし、唯が戻っているかもしれない。このまま街をあてもなくさまようよりはだいぶいい。  そう思って、立ち上がったとき。 「こーんにーちはー」  聞き覚えのある声。 「久しぶりだね、正樹くん」  すぐにはわからなかった。  黒い革のジャケットと足にフィットしたパンツ、膝まであるブーツ。胸元までしか隠していない服――たしか、チューブトップといった――のせいで、着崩したジャケットの下から肩や腕が覗かせている。  一見したらロックなおねえさんなのだが、ちょっと垂れた目じりに見覚えがあった。長かった髪も、編んで頭の後ろにまとめているだけらしい。 「雲宮……」 「んもう。ひめひめだって言ってるのに。あ、今は違ったんだ」  姫緒の手の中に、エレキギターが出現する。 「魔界の王女様――プリンセスひめひめ。よろしくぅ」  三本あるギターの弦をかき鳴らすと、増幅された音とともに、姫緒の後ろで爆発が起こった。赤と白の光とともに、無数のカラスとコウモリが、黒猫を背に乗せて空に向かって飛んでいく。  めまいがした。多分、殴られたものとは別の原因の。 「すごいでしょ? ララバイになったら、現実でも、手に届く範囲なら夢の中みたいに何でも出し入れできるんだよ」  たしかにすごいが、ギターの弦は三本ではないと思う。 「今までどこ行ってたんだ? 先輩、心配してたぞ」 「えぇ? 小夜子ちゃんだけ?」 「まあ……俺も」 「わっ! よかった、ララバイになっちゃって、嫌われたんじゃないかって心配しちゃったんだ」  格好はセクシーになっても、中身は姫緒のままだった。ただし、現実のほうの姫緒ではなく、夢のほうのちょっとだけ壊れた姫緒のほう。 「ねえねえ、このカッコ、どお? ちょっと恥ずかしいけど、ワルを演出するためにがんばったんだよ?」 「悪?」 「うん。えっと、カチカンのハカイシャ? そんなことをうさぎちゃんは言ってたけど、まあいいや。で、これどぉ?」 「うさぎ?」  聞き覚えがあった。華胥の夢で出会った、燕尾服をきた白い少女だ。  たしか、唯の友達とか言っていた。  そのうさぎの名前が、ララバイになった姫緒の口から出てきた。 「うさぎ、そいつ今どこにいる!」 「うん。今から案内するよ。それより、これこれ」  そういって姫緒はジャケットをぴらぴらさせるが、正樹はそれどころではない。 (案内する? うさぎが俺を? 何のために? 唯をあんなことにさせたのがうさぎだとしたら……目的は? ――くそ) 「ダメだ、わからない」 「えぇっ! これ、ダメ? なにがいいかわからない?」  姫緒は落ち込んでしまった。がっくりうなだれて、その場に座り込んでしまう。それもララバイの力なのか、姫緒の上だけ、照明がしぼられたみたいに暗くなった。 「あー……くもみ……あいや、ひめひめ?」 「……魔界の王女様プリンセスひめひめ……」 「えっ――」  そう呼ばないといけないのだろうか? 鳥肌が立つほどセンスのないネーミングなのだが。 「もしかして、血も凍るほどセンスのないネーミングだとか思ってる?」 「――いや、さすがにそこまでは。……あ」  思わず本音が出てしまった。 「うあー、じゃあ身の毛もよだつほどセンスがないネーミングだ、とは思ってるんだぁ!」  鳥肌が立つほどセンスのないネーミングだ、と本当のところを言ってあげたかったが、それもフォローになっていないので、やめておく。 「いぃよぉ、もうホントにグレてやるぅぅぅ」  泣いてしまった。マンガみたいに、涙が噴水のように流れる。 「う、うーん」  正樹は頭をかいた。なんにせよ、姫緒にうさぎのところまで案内してもらわないと、話が進まない。  それにしても、最近女の子のご機嫌ばかりとっている気がする。 「……魔界の王女様プリンセスひめひめ、チョーサイコー……」 「声、小さい」 「ぐっ」  正樹は腹をくくる。 「魔界の王女様プリンセスひめひめ、チョーイカスッ!」 「もう一声」 「うぐっ」  もうヤケクソだった。 「魔界の王女様プリンセスひめひめ、ワンダフル、ビューティフル、スゥパァァガァァァル!」 「わぁ、ありがとぉ!」 「うわっぷ」  正樹に抱きつき、頬擦りしてくる。姫緒の後ろには、ナルトみたいにぐるぐるした太陽が輝いていた。花も咲き乱れてる。一気に春がやってきた。空気まで本当に暖かくなった。 「だから正樹くん、好きなんだ」 「――そうかい」  少し、胸が痛んだ。  いくら中身が姫緒で、こんなバカなやりとりをできるやつでも、こいつはララバイ。夢を喰う化け物なのだ。  そしてそうさせてしまった原因の一端には、正樹も関わっているのだ。 「小夜子ちゃんがからかいたくなる気持ち、ちょっとわかっちゃった」 「そこはわからんでいいから」  姫緒は正樹を解放すると、目を閉じた。 「いつまでもふざけてはいられないので、そろそろ案内するね」  そう言って、深呼吸する。  息を吐いて、大きく吸って、また吐く。  そして、手を打った。  その瞬間――。 「なっ」  何もない空間から、赤いの車が現れた。サーキットマシンのような、シャープなデザインの外国車だ。  車には特に詳しくないが、黄色い背景に黒いシルエットのエンブレムには見覚えがあった。 「これ、フェラーリ?」  だが、本来は跳ね馬のシルエットあるべきところには、跳ねているイルカのシルエットに変わっていた。 「ふう。疲れた」  姫緒は軽い調子でそう言いながら、左側の運転席に座る。座ってみると、意外と視線が低かった。 「本当は空飛ぶじゅうたんでも出したかったんだけど、現実の法則で動くものじゃないと無理みたいで。これも昨日、分解図見ながら予習したんだよ。部品の一個までちゃんとイメージしないと、作り出せないしね」 「それって、もしかしてすごいことじゃ?」  詳しくはないが、自動車の部品といったら、ネジひとつまで数えたら何万個もあるものではないのだろうか。 「そりゃそーだよ。特に、ガソリンとか。分子レベルでイメージしないと作れないんだよ? 化学物質って面倒だよね」  正樹が乗り込むのを確認して、姫緒が声をあげた。 「じゃ、しゅっぱーつ」  そういって鍵をひねる。  エンジンがかかった。重厚なエンジン音が車体から伝わってくる。  シートベルトを締めながら、ふと基本的なことに気づいた。 「おまえ、免許持ってるの?」 「ふぇ?」  姫緒がアクセルを踏んだ瞬間、体が前に持っていかれそうになる。シートベルトが肩に食い込んだと思ったら、車体が激しい振動に襲われた。 「あ、ごめん。ギアいれ間違えちゃった」  いきなりバックしたのだ。振り返ると、車体後部が公園の塀に激突していた。さすがの出力というか、しっかりコンクリートをぶちぬいている。 「ところで、さっきなんか言った? よく聞こえなかったんだけど」 「――いや、わかったから、おまえは運転に集中してくれ」  シートベルトを握りしめながら、正樹は切実にそう言う。  ドアはすでにロックされていた。もう降りられないのだ。           5  図書館のホールで、小夜子は唯を見つけた。  唯を見失って最初に調べたのは図書館だったが、そのときはいなかった。そのあとにきたらしい。  もう日が暮れかけている。空が曇っているのもあって、図書館の中はかなり暗い。  まるで出会った日の再現だった。 「唯ちゃん……」  唯は左目から涙を流していた。  昨日までは何の異常もなかった唯が、もう劇場化を起こしていた。  普通、人が劇場化に陥るまで、早くてもひと月はかかる。それだけの時間をかけて、ゆっくり夢に溺れていくものだ。  いくら、いきなり戻った感情の大きさに翻弄されているとはいえ、一日二日でララバイになってしまうはずはなかった。  だが、例外もあった。  他のララバイが干渉していたときだ。  夢の中で他のララバイが直接働きかけていれば、ララバイ化は劇的に早くなる。 「――うさぎ」  他に考えられなかった。  小夜子は覚悟を決め、唯の額に自分の額を合わせる。  額を通して、唯の夢が伝わってくるのを感じる。そこに、自分を溶け込ませ、送り込む。  それは、液体になるようなイメージ。  中に入ったところで、再び自分の体をイメージする。夢の中では、黒い着物の少女。  黒雪と呼ばれる少女。  劇場が変わっていた。  以前は、兄との思い出があった映画館。だが今回は、六畳ほどの狭い部屋である。  思わず、息を呑んだ。壁や天井、すべて写真で埋め尽くされていた。正樹と唯を映したものばかりだ。子供の二人が一緒に砂場で遊んでいるもの、中学生の二人が並んで登校しているもの、そして大人になった二人が抱き合っているもの。  過去から未来、現実から夢まで、あらゆる場面を映していた。  唯が、部屋の隅に座っていた。生気のない表情で部屋を眺めている。  そして、その傍らに立つ白い少女。 「いらっしゃい、小夜子ちゃん。あ、でもいまは黒雪ちゃんって呼んだほうがいいかな?」  うさぎだった。 「つかれてるみたいだねー。ダメだよ、ごはんはちゃんと食べないと」 「黙れ」  小夜子――黒雪は攻撃を仕掛けようとする。が。  ぱちん――  と、うさぎが指を弾くほう早かった。  黒雪の手足が、空間に固定される。見えない枷で止められているようだ。 「ほら。こんなカンタンな空間支配だって、逃れられない」  黒雪はうさぎをにらみつける。消耗しているのはたしかだ。最後に食べた夢は、ひと月前の唯の夢。本来なら、まともに戦える状態ではない。  束縛された状態で、黒雪は尋ねる。 「あんた、この子に何をしたの?」 「なぁんにも……っと言いたいところだけど、唯ちゃんにはいろいろしちゃったかな。おにーちゃんがコワしちゃったココロを満たしてあげたりね」  黒雪の前の床が、ぐにゃりと歪む。ぼろぼろと崩れ落ちてしまった。  腐臭があたりを覆う。  空いた穴の中を覗いて、黒雪は言葉を失った。 「ひとの『恐怖』をみるのは初めて?」  おかしそうに笑ううさぎの声も耳に入らなかった。  さまざまな形の化け物が、お互いを食い合っていた。無数の人の顔を集めて作られたもの、自分の腕を食っているもの、体中から体毛のように人の右足を生やしたもの……そんなうごめく化け物たちにつぶされる、腕や足を奪われもがく人間たち。  断末魔の悲鳴と意味をなさないうめき声、そして肉の引き裂かれ、骨が踏み潰される音を発しながら、化け物たちは、お互いにお互いのパーツを奪い合い、自分の体につけていっている。  黒雪は息を呑む。化け物たちの正体に気づいてしまった。  全員、最初は人間だったのだ。それが、お互いの体を奪い合っているうちに、肥大し、奇形となり、今のようになってしまったのだろう。 「こんなものを、おまえはこの子に与えたのか!」 「やだなぁ。たしかにちょっとコントンとしすぎてるけど、ひとならだれでも持ってるものだよ?」  うさぎの笑顔は、もはや子供のするものではなかった。 「他人をうらやんで、それを欲して、奪い、飾る。自惚れる。けど今度は奪われるのが怖くなり、さらに奪っていく。奪われる側も、奪われるのが怖いから、奪おうとする。  だから、彼らを動かしているのは、恐怖と欲望。醜いでしょ? でもそれが心の底にあるから、人は何かを好きに慣れるんだよ?」  うさぎはそう言って、写真に満ちた部屋を示した。 「でも、やっぱりシッパイ。あと三日もしたら、これも消えちゃうね。さすがの姫緒ちゃんでも、ひとのココロは作れなかったみたい」 「姫緒……姫緒が、これを?」 「あの子、すごいよねぇ。ココロのなかに無限の王国をもってる。分子から巨大建造物まで、やろうと思えば作れるんじゃないかなあ」  だが、腑に落ちない点があった。 「どうやって、心の形を知ったのよ?」  人の心は、人によって形が違う。なんでも作れる能力があったとしても、その人に適合する形がわからなければ、そもそも作りようがない。 「そんなの、カンタン。唯ちゃんのココロを組みたてたの、うさぎちゃんだもん」 「なっ」 「唯ちゃん、ジコにあったときのショックでココロがバラバラになっちゃったんだけど。そのときに唯ちゃんがもってたグローリーもコワれてくれたから、うさぎちゃんは唯ちゃんのなかにはいって、ココロを組みたててあげたの。だから、唯ちゃんのココロのカタチなら、だれよりも知ってるよ?」 「……じゃあ、正樹が壊した唯ちゃんの恐怖は?」 「もちろん、うさぎちゃんがそうさせたに決まってるじゃなぁい。唯ちゃんのココロも、小夜子ちゃんがおにーちゃんと出会ったのも、小夜子ちゃんが唯ちゃんの夢を食べたのも、そしてお兄ちゃんが小夜子ちゃんを好きになったのも、ぜーんぶ、うさぎちゃんが考えてたシナリオなんだよ」  うさぎはウインクをした。 「うそ……」 「ほんとだよー。人間って、タンジュン。まいばん悪夢をみせるだけで発狂するし、おなじ夢をみせるだけで操作できる。  小夜子ちゃんの姿で夢にでてただけで、おにーちゃんってばホントにコイしちゃうんだもん。姫緒ちゃんかわいそーだよねえ、そんな原因でフラレちゃって」  うさぎは、さぞおかしそうにケラケラ笑う。 「――うさぎぃぃぃ!」  黒雪は、自分の周囲の夢の支配権を強奪。束縛を解く。  手の中に手斧を生み出し、うさぎに投げつけた。  斧はうさぎの額に突き刺さる。 「ムダだよー」  うさぎの体が、ガラスの割れる音とともに砕けた。幻影だ。 「カンゼンに支配された夢のなかで、勝てるわけないでしょお?」  声は、すぐ後ろから。  だが、振り返れない。先ほどまでとは比べ物にならない束縛。息が詰まり、声も出せなかった。 「小夜子ちゃんにはまだ消えてもらっちゃコマるのよねぇ。だから、そこでおとなしくしてて」  床に転がった黒雪の体をまたいで、うさぎは唯のところに向かう。 「もうちょっとで、ララバイになるから」  壁の写真が、一箇所に集まっていく。  それは人の体をなし、立体的に膨らむ。腕に位置するところでは指がわかれ、顔ではおうとつが生まれ、髪が伸びる。  みるみるうちに、それは唯を形作った。  髪は腰まで伸び、制服は正樹の通う白船高校のもの。姿だけは、以前に唯が劇場化したときと同じものだった。  だが、表情が違う。 「いらっしゃい、唯ちゃん」  と、後ろで声をかけてくるうさぎを無視し、床に転がる黒雪をにらみつける。  その目は、鋭い憎しみに満ちていた。  唯は大きく足を上げ、黒雪の体を蹴りつけた。 「――ッ」  声にならない声を上げ、黒雪の体は浮き上がる。そのまま吹き飛ばされ、唯の夢の中から弾き飛ばされた。  気づいたら、学校のグラウンドに転がっていた。もう夜である。だれもいない闇のグラウンドで、しとしとと雨が降っている。 「げほっ、げほっ」  姿も着物から制服に――小夜子の姿になっていた。 「よかったぁ、生きてる生きてる」  唯だ。小夜子が飛ばされたさいに破っただろう窓から、外に現れた。 「力の加減がわかんなかったから、殺したんじゃないかって心配しちゃったぁ」  完全にララバイとなってしまった。以前の唯は肉体ごと夢に呑み込まれ、今いるのはさっきまで唯の中にしか存在しなかった唯――唯の夢。  唯は長い髪を払いながら、凶悪な笑みを浮かべた。 「あんたはもっと苦しまなけりゃいけないのよ。そして、唯とお兄ちゃんの仲を阻んだ罪を悔いながら死ぬの」  ――まいったね。  小夜子は笑ってしまった。  残された力はもうわずかだ。現実のほうにいては、もう数時間いるだけで消滅してしまうだろう。  とても、元気のありあまってる新人と張り合える体力はない。 「立ちなさいよ。無様にあがきなさいよ」  グラウンドに下りる唯。手には日本刀が提げられていた。そういえば、時代劇をよく見ていた、と正樹が言っていた。もっとも最初にイメージした武器は、刀だったのだろう。 「もう現実で物体を生み出せるんだ。すごいなぁ、唯ちゃん。おねーさん、びっくり」  唯は息を詰まらせる。目を大きく見開き、 「黙れッ」  唯はそう叫んで、一気に距離を詰めてくる。斬りかかってきた。  ――かかったっ!  怒りに任せた攻撃は、大ぶりで隙だらけだ。  小夜子は唯の懐に滑り込み、なけなしの力を使って生み出したナイフを、彼女の胸に突き刺そうとする。  必殺のタイミング。 『先輩もチョコを作って、兄に渡してくれませんか?』 「――ッ」  思わぬ反撃にはっとした唯が、小夜子の横っ面を蹴りつけた。  小夜子は、地面をバウンドしながら転がっていく。泥水が飛び散る。数メートル転がったところで、ようやく止まった。  口の中の泥水と血を吐き捨てながら、小夜子は自分を罵倒した。  ――バカか、あたしはっ。  突き刺す一瞬、迷ってしまった。かつての唯のことを思い出してしまったからだ。  あれは、もう唯とは違う化け物だ。唯は、死んだ。あのときの唯は戻ってこない。ひたすら劣勢なのはこっちなのに、迷っている暇なんかないだろうが。  見あげると、唯は呆然としていた。 「……あぶな、かった?」  じっと手を見つめていた。  そして、地面に転がっていた、小夜子のナイフを取り上げる。  その瞬間。  煙になって、雨の中に溶けてしまった。  ――うそっ。  小夜子は、目を疑った。  まるでグローリーだ。正樹がサーバントの蜘蛛の炎を問答無用で消滅させたように、唯は手で触れただけで小夜子の生み出したナイフを消してしまった。 「なるほど。キミんちは栄光者の家系だったね」  栄光者がララバイになると、特殊な力が現れる。  それが、彼女の見せたものらしい。つまり、自分以外の夢を消去してしまう力。 「ふぅん」  唯は鼻を鳴らし、視線を小夜子に向けた。 「ま、なんでもいいけど。あんたを殺せれば」  そして、ゆっくりと近づいてくる。  一歩ごとに、たしかめるように歩いてくる。もう奇襲は通じそうになかった。  小夜子は立ち上がり、唯と向かい合う。  小夜子が身を低くし、横に走る。  追いかけてくる唯に、小夜子は何かを投げつける。  ナイフだ。  飛来するナイフを、唯は刀で弾く。その瞬間、ナイフは消滅する。刀にも手と同じく、グローリーの力が宿っているらしい。  唯が追いかける速度を上げる。  再び小夜子がナイフを投げるが、無造作に手で払った。傷つけることすらできない。 「あぐっ」  振り向いて投げるという無理な姿勢のせいか、小夜子は足をもつれさせて転んでしまう。 「あはっ。無様ね!」  追いついた唯が、勝ち誇った笑みを浮かべる。  それに向かって、小夜子はまたもナイフを投げつけた。今度は二本。 「無駄よ――」  そういって、手でなぎ払う唯。しかし――。  肉に何かが食い込む音。 「え?」  腕に突き刺さったのは、ガラス片だった。そこで、気づく。小夜子が転んだのは、図書館の窓の前。割れたガラスを投げつけたのだ。  ララバイが生み出したものは消せても、現実に存在するものならばそうはいかない。  さらに小夜子は振りかぶり、唯に殴りつける。  袋だ。重りになるものを詰めて、ハンマーのように殴りつけた。  唯は反射的に刀で防ごうとした。  刀に触れ、袋が消える。  振り下ろした勢いそのままに、中につまっていた砂が飛び散る。唯の顔に降りかかった。 「うあっ」  唯が目を抑える。砂が入ったのだ。  動きが止まったところを、足を払う。視界を奪われ混乱している唯は、なすすべなく地面に崩れた。 「このっ」  闇雲に刀を振り回そうとするが、小夜子がひじを足で踏みつける。  セーフ。踏みつけた小夜子の足は、消えることはなかった。どうやら、夢を消す効果は手から先に限られるらしい。  蹴られても消されることはなかったから、彼女の体すべてに夢を消す力があるわけではない、と予想はできていた。あまりに力の範囲が大きくては、今度は自分が夢を食えなくなる。  小夜子は、右手を振り上げる。そこには、ナイフくらいに尖ったガラスが握られていた。  ギリギリだった。もう、ナイフ一本作り出す力も残っちゃいない。  地面に倒れ、視界を奪われた唯は、まだ自分がどんな状況かわかっていないらしい。片手を押さえられ、もう片方も目を押さえるばかり。  その無防備な胸に、小夜子はガラスを突き下ろした。  柔らかいものに突き刺さる感触。  だが――。 「そこかっ!」  唯が、手を払う。  その指先が、小夜子の右足を掴んだ。  魂が引き剥がされるような痛みが走る。  小夜子は声にならない悲鳴をあげ、その場に崩れ落ちた。右足を押さえようとするが、膝から下が存在しない。  血すら流れない。完全に、消失していた。 「はあ、はあ、はあ」  唯が立ち上がった。どうにか、片目だけは復活したらしい。胸に突き刺さったガラスを引き抜く。  ガラスと一緒に服の切れ間から現れたのは、白いウサギだった。 「余計なコトを……」  ガラスごと、白ウサギを放り捨てる。  唯は地面で丸まる小夜子に向き直り、両腕を刀で突き刺した。 「ああアアァァァッ!」  両腕が、消失する。 「ざまみろ」  そう吐き捨て、唯は小夜子の腹を踏みつけた。  何度も、何度も。 「姑息なことをッ。痛かったよッ。このガラスッ。痛いのよッ!」  もう小夜子は、悲鳴すら上げなかった。上げられなかった。うつろな目で、唯を見上げるばかりだ。  それを見て、唯も興味を失ったらしい。 「飽きた。死ね」  そういって、唯の顔めがけて、刀の切っ先を突き下ろそうとした。 「唯!」  唯の手が止まる。顔を上げると、正樹が駆け寄ってくれるのが見えた。 「お兄ちゃん!」  刀を放り捨て、唯も正樹に駆け寄る。  そして、正樹に抱きついた。 「お兄ちゃんだ、お兄ちゃんだ!」 「唯、おまえ――」 「お兄ちゃん、あのね、あのね、これからはずっと唯と一緒に――」  甘い声を上げる唯を押しのけて、正樹は小夜子のところに駆け寄る。 「先輩!」  正樹は、小夜子を抱き上げる。 「あはは……やられちゃったよ」 「先輩――」  正樹の声は震えていた。 「……泣いてるの?」 「泣きますよ!」 「……あはは。泣かしちゃった……」  唯が、きた。 「なんでよ」  右手には、新たに生み出した刀が握られていた。 「なんでお兄ちゃん、そんなやつのために泣くのよ」 「黙れ」  正樹は、顔を上げる。  何かを言おうとした唯は、固まってしまう。 「おまえ、だれだ?」 「な……なに言ってるの? 唯は唯だよ? あ、久しぶりだから忘れちゃってた? 唯は、お兄ちゃんが望んだ唯で――」 「おまえは、唯じゃない」 「え?」 「唯が、こんなことするわけないだろ!」  どなりつけられた唯は、顔を歪ませる。泣きそうな声で「でも、でも」と繰り返す。  声はだんだんと小さくなり、 「……やっぱり、そいつが――」  刀を振り下ろす。小夜子に向かって。 「そいつが悪いんだ!」  振り下ろした刀は、半ばから掻き消えていた。 「いいかげんにしろよ」  小夜子をかばった正樹の指先には、一本の鉄片が挟まれていた。《蕣》。夢を打ち滅ぼすグローリー。それは、同じ力を持つ唯の刀さえ、無に還した。  唯は、その場に崩れ落ちた。 「うわっ、小夜子ちゃん!」  姫緒だった。生み出した大きな傘を差して、こちらに駆け寄ってくる。  小夜子の傍らに座り込み、顔を覗き込んだ。 「だいじょうぶ? 小夜子ちゃん?」 「……姫緒……」 「うん、ひめひめだよ。ちょっと待っててね、助けてあげるから」 「助けられるのか!」  正樹が姫緒に掴みかかる勢いで言った。 「う、うん。だけど、その前に……」  姫緒は、正樹の手の中にある《蕣》に目をやった。 「それ、ちょっとあっちに投げてくれない?」  グラウンドのほうを指差した。 「え? だけど……」 「早くっ」 「え? ん……わかった」  少しためらいもあったが、珍しく切迫した姫緒の表情に迷いは消えた。正樹は言われたとおり、《蕣》をグラウンドのほうに投げ捨てた。 「これでいいか?」 「うん。ありがと。あれ持たれてると、眠らせられないからね」 「――眠らす?」  姫緒は困ったように、苦笑いを浮かべる。 「ごめんね、正樹くん」  正樹の目の前で、手をあわせる。  パン、という音。  その瞬間、正樹の体から力が抜ける。地面に崩れ落ちた。  とっさに唯が抱きとめた。 「おっけー。唯ちゃん、そのままで」  姫緒は小夜子に向き直った。  小夜子がうめくように声を出す。 「……あんたら、何が、もくて――」  小夜子の唇に姫緒が口付けをする。小夜子ののどが動く。何かを飲まされていた。  唇を離す。つっと、唾液が糸を引き、姫緒がぬぐうまで二人の唇をつないでいた。 「応急処置、かんりょー。ちょっとは元気になった?」 「何のつもり?」 「あはは。よかったよかった」  と、唯が苦悶の表情を浮かべる。 「あ――アアアァァァッ!」  身を折って叫び声を上げる。眠ったままの正樹を抱きしめ、痛みをこらえようとするが、叫び声は大きくなっていく。  と、その背中からうさぎが這い出てきた。 「ひー、よーやく出れたよぉ」  うさぎが抜けきると、唯の叫びも収まった。正樹に覆い被さる姿勢のまま、荒い息を繰り返した。  うさぎはそれを見下ろしながら、ため息をついた。 「危うく、中に閉じ込められるところだった」 「うさぎちゃんてば、カントクフユキトドケっ」  姫緒が怒った声を上げ、小夜子を見せた。  うさぎもそれを見て眉をしかめる。 「あー、こりゃひどいねー。ごめん、小夜子ちゃん。うちの新人がオイタしちゃって」 「ふざけないで」  姫緒の腕の中で小夜子はうさぎをにらみつける。力は戻ってきていた。だが、両腕がなくなった今、それ以上は何もできなかった。  と、うさぎがグラウンドのほうに目を向ける。白ウサギが二匹、うさぎに近づいてきていた。  うさぎは、彼らを拾い上げた。 「おー、よしよし」  そして、少し離れたところに転がっていた、ガラスを刺された白ウサギにも近づく。ガラスを引き抜いて、傷口に手を当てた。  そして指を弾いた。  ぱちん、という音とともに、白ウサギが復活した。うさぎの腕を伝って、他の二匹と合流した。 「この子たちの目から見てたけど、小夜子ちゃん、すごいよねぇ。おなかペコペコ状態で、マイナス因子のララバイと対等に渡り合うなんて」 「マイナス因子?」 「唯ちゃんの力。すごいでしょ。百年かけて、よーやく探し当てたんだよ」  唯はまだ背中の痛みで動けないでいるらしい。涙目になって、うさぎたちのほうをにらみつけていた。 「とにかく、これでぜんぶ準備はそろったね」  うさぎは、空を見上げる。 「さあ。しあわせな夢、はじめよっか」   第五章  夢食いは現で望みを描く           0  微妙な息苦しさで、正樹は目を覚ました。  目を開けると、小夜子の顔があった。鼻と鼻が触れ合う位置で、目を閉じている。 「っ!」  声を上げようとしたが、出ない。  そのとき、ようやく気づいた。  キスされていることに。 「あ、起きた?」  小夜子も目を開き、顔を離した。唇が濡れていた。窓から射す朝日を弾いて、輝いている。 「悪い魔女に眠らされていた王子様を、おねーさんは口付けで目覚めさせてあげましたとさ。めでたしめでたし」  そう言って立ち上がり、背伸びをする。  そこは、図書館だった。ソファの上で寝ていたらしい。  よく思い出せない。なんでこんなところで眠っていたんだろう? 「さて。もっとキミと楽しみたかったんだけど。残念ながらそろそろ時間だ」  そういって、小夜子はポケットから携帯を取り出し、正樹に見せた。  待ち受け画面が、今撮ったらしい正樹の寝顔だった。正樹は文句を言おうとするが、その上に表示されているデジタルの時間表示を見て、慌てた。 「八時半……って、もうはじま――」  チャイムが聞こえた。予鈴ではない、授業開始の合図だった。  正樹は机の上のカバンを引っつかみ、走り出す。小夜子もそのあとに続いた。 「どうしてもっと早く起こしてくれないんすか!」 「じゃあ、どうしてキミはおねーさんがイタズラしたがるほど、かわいい顔で眠ってるかなー?」 「し、知りませんよ!」 「じゃあ、あたしもしーらない」  そう言って、小夜子はくすくす笑う。  ダメだった。いつまで経っても、この人には勝てない。  昼休み。  喧騒の中、正樹は中庭のベンチで弁当を広げていた。 「はい、あーん」  小夜子がだし巻き玉子を箸でとって、手を添えながら正樹の前まで持ってくる。 「あのですね、先輩?」 「なに? あ、もしかして口移しのほうがいいとか言うんじゃないの? さすがにそれはなぁ……」  わざとらしくテレ笑いをしたあと、玉子を口にくわえ、 「んっ」  とか、正樹に向けてきた。  不覚にも正樹は思わず生唾を呑み込んでしまうが、 「そ、そうじゃなくてですね。さすがにこんな場所でそんなことできませんよ。恥ずかしい」  言われて、小夜子は不満そうな顔。くわえた玉子をそのまま口に入れた。  だが、二、三回噛んだあと――。 「ん――」  正樹の頭を強引に引き寄せ、唇を合わせる。正樹が目を白黒させている間に、形を崩しただし巻き玉子を正樹の口の中に送り込んだ。 「ふふーん」  と、全部口移しして、小夜子は子供みたいに、勝ち誇った笑みを浮かべる。 「どうしてやりたいと思ったことを、やっちゃいけないの?」 「だからそれは、みんな見てるからで」 「みんな? なにそれ?」  みんなといったら、みんなだ。だってここは学校の中庭で、昼休みで、他の生徒だって目の前を何度も――  何度も?  正樹はあたりを見回した。遠くに、たくさんの人のざわめきは聞こえる。だが、その生徒の姿はどこにもなかった。  広い空間に、小夜子と二人っきりだ。 「気にしないで、正樹もしたいコト、していいんだよ? あ、たーべのーこしっ」  そういって、正樹の唇についていた玉子のきれっぱしを、小夜子は唇でついばんだ。 「んむっ」  小夜子は、正樹の下唇を、自分の唇で噛んだ。そのままねぶるように、正樹の唇に唾液をなすりつけていく。玉子のきれっぱしなんてどうでもいいらしい。正樹と小夜子の唾液が混じり、正樹のあごを伝っていく。  小夜子が舌先で、その唾液の軌跡をなぞった。そして今度は、正樹のあごに吸い付く。そのままあごのラインを上っていって、耳にたどり着いた。 「……このまま、正樹のこと食べちゃっていい……?」  熱い吐息が、正樹の耳にかかる。  耳たぶに噛みつかれた。 「あっ」  正樹が抵抗する間もなく、小夜子が胸を押し付けるようにして体重をかけてきた。 (ああ、もうどうでもいいや)  布越しに伝わる豊満な乳房の感触に、とろけかけたとき――  向かいの校舎の中に、人影を見つけた。  どこかで見たことのある女子生徒の顔。たしか、生徒会長だったか。名前は覚えてないが。  こちらに向かって、慌てた様子で両手を振っている。一緒に何かを叫んでいるようだが、聞こえなかった。 「――あっ」  いまさらながら見られていることに気づいて、ほとんど押し倒されていた体を持ち上げる。 「……どしたの?」  明らかに不機嫌そうな小夜子。 「いや、そこに――」  そういって向かいの校舎を指差そうとするが――。 「……あれ?」  何を指差していいか、わからなかった。ただガラスごしに廊下が見えるだけ。動くものも、特に変わったところもない。 (――なんだっけ?)  なにか目にとまるものがそこにあった気がしたのだが、思い出せなかった。 「んもぅ」  小夜子が、正樹の首を強引に自分のほうに向ける。  再びキス。 「余計なこと考えないで。正樹は、ずっとあたしと一緒にいればいいんだよ」  正樹の手を、自分の胸に導いた。  指にのしかかる柔軟な感触。  しばらくそれを正樹は味わっていたが――。  正樹は、自分の唇を貪っていた小夜子の体を引き離す。 「正樹?」  正樹はぼんやりとした、しかし遠くを見つめるような覚めた目つきで、小夜子を見上げる。 「あんた、だれだ?」 「だれって――どうしちゃったの、正樹?」  正樹は、自分の手を見つめる。さきほどまで、小夜子の乳房をもてあそんでいた手だった。  それで目頭を押さえながら、自嘲めいた笑みを浮かべる。 「いやぁ、我ながらこんなことで気づくのもすっげぇイヤなんだけど……」  小夜子を――いや、小夜子の姿をしただれかに向かって、 「先輩の胸、こんなにでかくねえんだよ」  彼女は、最初はぽかんとした様子で正樹を見つめていたが、 「あは」  肩を震わせる。次第にその震えは大きくなり、しまいには狂ったように笑い出した。  正樹は彼女の体の下から抜け出し、立ち上がる。 「先輩はそんなに色っぽくないし、優しくないし、そんなに俺に惚れてない!」 「なーに言ってんのよぉ」  ぴたりと、彼女の笑いが止まった。 「みーんな、キミが望んだ《小夜子》の形じゃない」 「そうだよ。たしかに俺は、優しくしてくれたほうがうれしいし、俺のこと惚れてもらいたい。胸だって、ないよりあったほうがいい。だけどな」  正樹は、叫んだ。 「そんなの、もう先輩じゃねえんだよ!」  ぐにゃりと、景色が歪んだ。 「バカだねぇ」  そいつは、言った。 「気づかなければ――覚めなければ、ずーっと、大好きな小夜子ちゃんと一緒にいれたのに」 「はっ。言ったろ、おまえは先輩じゃない。先輩なら、こんな腐った臭いのする夢にいろなんて、口が割けたって言いやしない」 「現実の何がそんなにいいの? 知ってるでしょ、小夜子ちゃんはララバイ――夢なんだよ。そのままじゃいつか消えてなくなってしまう。それでもいいの?」 「それでも――」  一瞬言いよどむが、正樹は言う。 「俺は先輩が好きな、現実を選ぶ」  ガラスがはぜる音とともに、景色が砕け散った。           1  正樹は、今度こそ目覚めた。 「ここは――」  敷かれたマットから起き上がり、正樹はあたりを見回した。  倉庫のような場所だった。長机やパイプ椅子が積み重ねられている。  見覚えがある。たしか、体育館のステージ裏だ。  今まで見ていた夢を思い返す。小夜子といた――というか、小夜子としかいなかった夢。  結局、出てきたのは小夜子だけだった。なのに正樹は違和感も覚えることなく、小夜子とだけ甘い時間をすごしていた。今思えば明らかにおかしいのに、不思議と見ているときは気づかない。  夢とは、そんなものなんだろうか。 「現実、だよな?」  あたりを見回してみて、思わずつぶやいてしまった。  古典的だとは思ったが、自分の頬をつねってみる。  ――あんまり痛くない。 「……嘘だろ?」  痛くないことはなかった。だが、本当ならもうちょっと痛いだろうと思う。まだ寝ぼけていて、感覚が鈍くなっているのだろうか? 「――そうだ、《蕣》」  夢を打ち破る力を持った祖父の形見を思い出した。  だが、ポケットのどこを探っても見つからない。  思い出した。姫緒にだまされて、グラウンドに投げ捨ててしまったのだ。 「くそっ」  とりあえず、正樹は《蕣》を探しに行くことにした。  ドアを開けた。 「――なっ」  一瞬、慌ててしまった。体育館には椅子が並べられており、生徒たちが座っていたからだ。卒業式だろうか、椅子のまん中に赤じゅうたんが敷かれて、壁には紅白の幕がかけられている。  だが、様子がおかしい。  よく見ると、生徒たちは全員眠っていた。生徒たちばかりではない。教師や来賓、卒業生の保護者まで、みながうつむいていたり、床に倒れていたりしている。  そして、胸の前に白い繭のようなものを抱えている。それは半透明で、中身がうっすらと見えた。なにか、映像が動いているようである。  同じようなものを、華胥の夢で見た覚えがあった。あのときは繭の中に人が入っていたが、今回は逆になっているらしい。 「あれ? 起きちゃった」  姫緒が、二階のバルコニーの柵に腰掛けていた。えい、と飛び降りる。  明らかに重力に反したゆっくりとしたスピードで、床にふわりと着地する。 「――まだ夢の中か? それとも、ララバイは空も飛べるのか?」 「言ったでしょ、現実だと現実の法則に従わなければいけないって。だからうさぎちゃんは、夢をこっち側に持ってきたの」 「夢を?」 「華胥の夢。あれは、言ってみれば学校の見ていた夢だったんだ。そしてうさぎちゃんは、それを現実に持ってきた。つまり、ララバイ化させた。それがここ――ラストララバイ」 「……意味が分からん」 「うーん。つまり、夢と現実を混ぜ合わせたってことかなぁ。実はわたしもよくわかんなんだけど。あ、でも、ララバイはおなかが減らないし、みんなはずっとしあわせな夢を見てすごせるんだって」  姫緒はうれしそうに話す。 「しあわせな、夢か」  正樹はさっき見ていたものを思い出した。夢を夢と気づかずに、ぬるま湯のようなときをすごす時間。 「俺は、そういうのは好きじゃない」 「だと思った」  あっさりと姫緒は肯定する。 「だから起きちゃったんだよね。正直、正樹くんが何がイヤなのか、よくわからない。夢の中ならすべてが自由なのに。でも、正樹くんが拒むのは、わかった。小夜子ちゃんも、夢だけにのめりこむのを嫌ってたし」 「――そうだ、先輩は?」  眠らせられる直前の、ボロボロだった小夜子を思い出した。 「あ、小夜子ちゃん……どこ行っちゃったんだろ」 「おい!」 「あぁぅ、そうじゃなくてね。うーんと、えーっと、なんといったもんか」  姫緒がうんうんとうなる。腕を組んで首をかしげる頭の上で、黒い線のようなものがぐるぐる回っていた。ここが特別な空間だからか、演出もレベルが上がっていた。 「お兄ちゃん!」  紅白の幕の下から、唯が現れた。笑顔で正樹に駆け寄ってこようとするが、 「なっ」  正樹の周囲に黒い格子が現れる。猛獣を閉じ込めるような無骨な檻に囲まれてしまっていた。  檻に阻まれた唯は、姫緒をにらみつける。 「なんのつもり?」 「えー。だってうさぎちゃんが、唯ちゃんを正樹くんには近づけちゃダメだって」 「ふん」  唯は鼻を鳴らしただけで、正樹に向き直る。鉄格子を手で撫でる。それだけで、太い格子は掻き消えてしまった。  だが、消えた瞬間から、また生まれる。 「もう、唯ちゃん。自分の部屋で《正樹くん》作れるでしょ?」  ――おまえら、勝手に人を作ってるのか? 「イヤ! お兄ちゃんは、唯以外の人といちゃいけないの!」  唯はにらむような目つきで正樹を見る。 「どうせ、あの女の夢を見てたんでしょ? そんなの、許さない。世界中で、お兄ちゃんが一緒にいていいのは唯だけなんだから!」 「唯ちゃんってば、わがままー」  ――おまえが言うか、雲宮。 「うるさい! うるさいうるさい!」  唯が顔を赤くして叫ぶ。手の中に日本刀を生み出していた。 「邪魔するならいい! おまえ、殺す!」 「わー」  姫緒が両手を口に当てて、大げさに驚くジェスチャーをした。 「たいへんです、ころされてしまいまーす」  右手で、指を弾く。  パチン、という音。  それだけで、黒く豪奢な全身鎧をまとった騎士が数十体、唯を囲むように現れた。数メートル横には一般の生徒もいるのに、突然ここだけ中世の戦場になったみたいだ。 「かかれー」  気の抜けた姫緒の声を合図に、騎士たちが唯に集まった。  唯は、抜刀。抜きがけに正面の騎士の胴を切り払う。それだけで、二メートルはあった騎士の体は一瞬で消え去ってしまった。 「このぉぉぉぉ!」  騎士たちは重そうな鎧をがしゃがしゃと鳴らしているわりに、速かった。だが、さらに唯は速い。風のように騎士の間を駆け抜け、的確に貫いていく。  と。騎士の一人の大剣が唯の頭に振り下ろされる。  唯は、それを空いていた左手の平で受け止める。剣が、消えた。振り下ろした重圧も衝撃も落下エネルギーも何もかも、一瞬で消し飛ばした。  だが、いくら唯が騎士を消し去っても、次から次へと騎士は生まれ、唯に群がっていく。  ついに正樹からは唯の姿が見えなくなった。 「お、おい、雲宮?」  さすがに心配になって姫緒に声をかけるが、じっと騎士たちのほうをにらんだままだ。聞こえていない。  そのとき、 「みんな、死んじゃえ!」  唯の叫び声が聞こえた。  その瞬間、騎士たちの足元から幾千本もの刀の切っ先が生まれ、突き上げてきた。騎士たちは一人残らず消えてしまう。  だがその間にも、刃の林の周囲を新たに生み出された騎士たちが囲んでいた。ただの騎士ではない、巨大な槌をもった三メートルはあろうかという大男や、八本足の馬にまたがり槍を持った男など、化け物めいた者の姿まであった。  一瞬の均衡があった後―― 「あ、唯ちゃん、その技ストップー」  のん気な子供の声が、体育館に響き渡った。  うさぎだ。正樹の足の下から、飛び出してきた。 「おにーちゃんも死んじゃうよ?」  ややあって、刃の林が消えてしまう。中からは、悔しそうな顔をした唯が現れた。刃が消えた後の床は、ボロボロに穴が空いていた。 「姫緒ちゃんも、兵隊さんたち下げなきゃ」 「はーい」  こちらも不満そうに言いながら、指を鳴らす。百体はいただろう騎士の姿が、一瞬で消えた。少し、体育館の床が揺れた気がした。 「唯ちゃん、あの刃を外に飛び散らせようとしてたのよー」 「まさか――」  正樹どころか、少し離れたところには普通の生徒が何人も眠っていた。そんなことをしたら、ただではすまない。 「姫緒ちゃんも、唯ちゃんを追いつめちゃダメじゃなーい。この子、見境ないんだからぁ」 「……だって」 「だってじゃないの」  うさぎはため息をついた。  ちょっと同情した。こいつらをまとめるのは、さぞかし大変だろう。 「で? ケンカの原因は?」  唯がうさぎに近づいてくる。 「お兄ちゃんを渡して」 「なんで?」 「お兄ちゃんは唯のものだから!」  まだ興奮が冷めていないのか、唯は今にも掴みかかりそうな勢いだった。 「でも、おにーさんはそう思ってないみたいだよ?」 「いいの! お兄ちゃんが何を思っても、お兄ちゃんは唯のものなの!」  再び、うさぎはため息。 「困っちゃったなあ。すべての人がしあわせになれると思ってたんだけど、まさか唯ちゃんがここまでわがままさんだったとは――」 「いいからお黙って兄ちゃんを――」 「ま、予想はしてたけどねー」  うさぎは、指を鳴らす。  その途端に、唯は胸を押さえてその場にうずくまった。 「な――なに――?」 「唯ちゃんの心は、うさぎちゃんが作ったもの。言ってみれば、唯ちゃんの中にうさぎちゃんがいるようなものかな。いつでも好きなだけ、痛みを走らせることができるんだよ」 「この――」  うさぎに掴みかかろうとするが、「うわあああ!」と絶叫して、再び崩れ落ちる。痛みは一瞬だけだったらしいが、痙攣するだけでうずくまったまま動かなかった。 「うさぎちゃんもこんなことしたくないんだ。だから、あんまりわがままは言っちゃダメだよ?」  荒い息をつきながら、唯はうさぎを見あげる。 「ぐぅっ」  表情が崩れたかと思うと、涙が目からこぼれた。そのまま背中を向けて、体育館から走り去っていった。 「ひめちゃん、唯ちゃんおねがい」 「えっ、わたしが?」 「うさぎちゃん、疲れちゃった」  姫緒はぶつくさ文句をいいつつも、唯のあとを追って、歩いていった。頭の後ろに、怒りマークが揺れていた。 「あんた、こんなことがやりたかったのか?」 「あ、イジワルなこというんだね。でも、こんなの、たいしたじゃないよ」  うさぎは眠りつづける生徒たちを見る。  正樹がはっとするほど、優しい笑顔で。 「みんなが夢を見ている。しあわせな夢を、永遠にね」 「それが――おまえの望み?」 「そう。この空間『ラストララバイ』は広がっていく。そのうち、世界じゅうを飲み込むくらいに大きくなる。世界は、夢に包まれるの」  正樹は、ため息をついた。 「現実は、厳しい。冷たい。つらい。だから、うさぎちゃんが助けてあげるの」 「神様にでもなったつもりか?」 「……そうだね」  うさぎは、肯定した。 「だって神様は、なんにも叶えてくれないじゃない」  うさぎの言葉は独白めいていた。 「だれも助けてくれない。だれも救ってくれない。奇跡なんか起こらない。そんなものが現実なら、うさぎちゃんが全部夢で包んでやる」  なんとなく、正樹はこの少女がなぜララバイになってしまったのか、わかった気がした。 「だけど、そんなのはおせっかいだ。傲慢なだけだ」 「傲慢?」  うさぎは、笑った。嘲笑だった。 「どっちが? おにーちゃん、世界でどれだけの餓えてる人がいるか知ってる? 夢を見ることすら許されない人たちが、どれだけいるか知ってるの? おにーちゃんは、その人たちを救ってあげられるの?」  正樹は、答えられなかった。 「夢だけで人が救えるわけないじゃないの」  代わりに答える声が体育館に響き渡った。 「高説、ごもっとも。けど、必死に現実生きてる人を夢に叩き込むのって、それこそ独り善がりなおせっかいって言わない?」  声は正樹のすぐ後ろから聞こえた。 「寝言はソトで言うことね」  後ろから首に腕を回される。  「飛ぶよ」耳元でささやかれた。  その瞬間、落ちる感覚。  目の前が、真っ暗になった。           2  姫緒は、保健室を訪れていた。  独特の薬品の臭いは、夢でも現実でも変わらなかった。姫緒が、いちばんかぎなれた匂い。  その匂いをかき分けて、窓際のベッドにかかったカーテンを引く。  ベッドの上には、姫緒が眠っていた。制服を着ている。さらに、左目からだけ涙を流していた。 「……なんか幽体離脱してるみたい」  言ってから、似たようなものか、と思いなおした。  本来、ララバイになった者の肉体は夢の中――つまりララバイの体内に封じられる。だが今は、このラストララバイという空間が、姫緒の体でもあった。つながっているからだ。だから、肉体を直接見ることができるのだ。  姫緒は、眠る自分の顔に触ろうとする。だが、手は肉体をすり抜けてしまった。  ララバイは、眠ることはない。同時に、自分だけでは目覚めることもできない。 「姫緒ちゃん、なにしてんの?」  ベッドの手すりの上に、一匹の白ウサギがいた。うさぎのサーバントだ。  姫緒に向かって訊いてくる。 「唯ちゃんは?」  姫緒は、ジャケットの裾を見せた。すっぱり切れている。 「あの子、だんだん戦いなれてきてるんだけど」 「で、今はどこに?」 「知らない。その辺は、うさぎちゃんのほうが得意でしょ?」  白ウサギが前肢で鼻をかいた。とぼけてるらしい。 「あ。でも小夜子ちゃんたちは見っけ」  姫緒は、ため息。 「わかりましたよー」           3  移動した先は踏みなれたコンクリートの床。屋上だった。  空は薄紅色で渦巻いているように見える。時間がまったくわからなかった。  正樹は振り返って、小夜子を確かめた。 「せんぱ――」 「だれの胸がないのよ!」  殴られた。  グーで。顔を。  さっきは自分で頬をつねってもそれほどでもなかったが、小夜子の拳は骨の芯まで響いた。 「まったく……バカなんだから」  小夜子は背中を向けてそうつぶやいた。なんとなく、声が震えていた気がした。 「……もしかして、泣いてます?」  蹴られる。  後ろ蹴りがしっかり腹に決まる。息が詰まって、そのまま前かがみに崩れ落ちた。 「……ほ、本物っすね……」 「当たり前でしょ!」  まだ小夜子はこちらを向けないようだ。  もう少しこの意地っ張りの先輩を見ていたかったが、さすがにかわいそうな気がしたので、正樹は後ろを向く。 「よかったです。無事で」 「よかないっ」  小夜子は吐き捨てた。 「うさぎのやつ、あたしを取り込みやがった! ああ、ちくしょう!」  なんか女の人が「ちくしょう」とか言うのを聞くとちょっと心が躍るのを発見した正樹だが、先に疑問が口を突いた。 「どういうことです?」  屋上の扉が開いた。 「僕らもその話に混ぜてくれない?」  見知った三人が現れた。アルとわんこ、そしてニンジンだ。ニンジンはなぜか、鉄パイプを肩に担いでいる。 「あ、正樹さん。よかった、目覚められたんですね?」 「あ、ああ……」  わんこが、なぜかほっとしていた。 「ていうか、おまえらこそ何で?」 「忘れたか? 僕たち、ひめほどじゃないけど、夢に関しては『ただ見せられてる』だけの素人とは違うんだぜ?」  アルが笑った。  そうだ。現実にやってきたとはいえ、ここは華胥の夢。  彼らの庭のようなものだった。  と、正樹は鉄パイプを担いだまま物言わないニンジンを見た。 「……何?」 「いや、別に」  分厚いレンズのせいでよく見えなかったが、メガネの下の目が、蛇のような殺気を帯びていた気がした。が、正樹は深く考えないことにした。世の中、知らなくてもいいことがあると言われたのは、いつのことだったか。 「で、管理人さん――あ、今は小夜子さん? とにかく、状況を教えてくれない?」 「あー、そうねぇ。とりあえず、順を追って説明するか」  小夜子が、ぱちんと指を鳴らす。  黒板が現れた。ついでに、小夜子もスーツ姿になり、メガネまでかけていた。 「じゃあ、小夜子せんせーの授業をはじめまーす」  わざわざ、メガネを鼻先にずらす。芸が細かい。 「今日はファッキンうさぎの姑息な計画についてです。みなさん、予習はしてきましたか?」  はーい、と声を上げたのはアルだけだった。  おそるおそる、わんこが申し出る。 「あの、小夜子さん……もうちょっとまじめにやったほうがいいんじゃないですか?」 「こういうのは、気分が大事なの。……ていうか、こうでもしないとあたしが冷静になれないのよ!」  実はかなり頭にきてるらしい。  こほん、と咳をつき、小夜子は説明をはじめた。 「まず、さかのぼること百年前。うさぎは現実の黒雪と約束をします。ラストララバイを作る、と。もうこのときに計画が始まったわけね」  みながうなずく。基本的なところはわかっているらしい。  『百年前 R黒雪とうさぎ、計画開始』と、小夜子はチョークで書いた。Rとは、リアルのことだろうか。  続けて、小夜子は『ラストララバイ完成に必要なもの』と書いた。  1、華胥の夢。  2、千人単位の人間。  3、夢と現実をつなぐ扉=R黒雪。  4、扉を広げるプラスとマイナスの因子をもつララバイ。 「以上の四つが、条件。だから黒雪は屋敷を学校にして、そこにうさぎが華胥の夢というシステムのタネを埋め込んだ」  1と2をバツで消した。 「ちなみに、このときあたしも生まれた」  『R黒雪→L小夜子』と書き加える。 「じゃあ、先輩ってもうおばあ――」  チョークが正樹の額に飛んだ。 「おねーさんは永遠の十七才です」 「……はい」  なぜかアルもうなずいていた。こいつも、同じことを言おうとしていたらしい。 「で、三年前。うさぎは、唯ちゃん――というか、正樹たち兄妹に目をつけた。栄光者の家系。もちろん、マイナス要因のララバイに仕立て上げるためにね。  で、そんなとき、唯ちゃんは事故に遭い、グローリーを失う。うさぎはそれに乗じて、唯ちゃんの中に入り、唯ちゃんの心を再構築した」 「唯の中? じゃあ、俺が唯の中に入ったのも」 「このころ。多分、正樹に唯ちゃんの心を殺させたのも、うさぎ。それで唯ちゃんは、ひとつの叶わぬ夢を持つことになってしまった。『もとの自分に戻りたい』ってね」  正樹は、うなずいた。 「そうですね」  それを聞いて、小夜子も安心したようにほほ笑む。 「どうやら、吹っ切れてたみたいだね」 「……そうっすね」  『三年前。唯、欠損。うさぎにより心の再構築』。 「で、二年後。つまり、一年前。唯ちゃんが、入学。同じくらいに、うさぎがあたしの前に現れた。きっと、プラス因子のララバイ候補を探すためだと思う。華胥の夢に出入りすれば、簡単に見つかるだろうから。多分、華胥の夢に自由に出入りできるくらいの力があるなら、候補として十分だったんじゃないかな」 「じゃあ、僕たちも下手したらララバイにされてた、ってこと?」  アルが言った。 「そうだね。でも、もっと力がある子――姫緒を見つけた。夢は――正樹への恋心」 「…………」  正樹は何もいえない。  だが、言わなければいけないこともあった。 「一年前って……俺、そのころから、その……毎晩、先輩の夢、見てました」 「……やっぱり」  顔を手で覆って、小夜子は大きく息を吐いた。 「それが、うさぎが姫緒を失恋させるために仕込んだ手だったんだ。姫緒の恋を助けようとしていた、あたしに惚れさせて」  いやな沈黙が流れた。 「あ……まあ、小夜子さんきれいですしね」  わんこが言うが、だれも反応しない。ただ、わんこの耳だけが、低くなってしまった。  小夜子が大きく息を吸った。 「あー、もういいや!」  ヤケクソ気味に叫んで、黒板に殴り書く。  『一年前。正樹のバカが小夜子の夢を見る』 「ばーかばーか! 夢に見たくらいで勝手に人に惚れてるんじゃないわよ!」  テンションを高くして罵倒してくる小夜子。しかし正樹は、小夜子の目を見つめながら、 「……でも、夢に見ていなくても、出会っていれば俺は先輩を好きになってたと思います」  何かを言い返そうとしていた小夜子だが、結局何もいえず、顔を赤くしながら、正樹に黒板消しのほうを投げつけた。顔面にヒット。白い粉が盛大に舞い上がった。 「ぶはっ」 「――まじめに言うなっ」  ぽつりと、黒板に向かって小夜子がつぶやいた。 「で……ひと月前ね。うさぎが、唯ちゃんを使ってキミを図書館に連れてきた。あたしに会わせて惚れさせる――姫緒を失恋させるためにね。あとは、唯ちゃんの夢をあたしに食わせるため」 「唯の? なんで?」 「唯ちゃんの夢の中に、うさぎが自分の一部を紛れ込ませてたのよ」  小夜子が、手の中のチョークを折った。 「ラストララバイにララバイを取り込ませる方法は、うさぎの体を体内に宿すこと。うさぎが、ラストララバイの中心にいるからね。普通は、臭いがするから食べたときに気づくんだけど――うさぎは唯ちゃんの心を再構築するときに、巧妙に隠してた。食べたときサーバントがいたせいもあって、臭いに気づけなかった」 「……全部、仕組まれてたんですね」 「まあね。悔しいけど、それは認める」  小夜子は、最初に書いた条件の「3」を消す。 「あとは知ってのとおり。姫緒はララバイになって、唯ちゃんも心を取り戻し、結果『正樹以外のいない世界』という新しい夢を見てしまった」  条件の「4」を消した。 「これで、うさぎの準備が完了。黒雪の『夢を現実にする力』を、プラスとマイナスのララバイの力を使って大きくし、華胥の夢を直接現実のほうに持ってきた。つまり、学校をララバイにした。眠らせた生徒を中に入れたまま、ね」 「すいません、わたしがあんなビデオ、企画したばかりに……」  なぜか、わんこが謝った。  小夜子はため息をつく。 「まあ、しょうがないわよ。それにビデオ上映がなくても、うさぎが生徒たちを眠らすには他にいくらでも方法があったと思うし」 「何の話っすか?」  尋ねる正樹に、アルが答えた。 「卒業式に上映したビデオに、うさぎが仕込んでおいたんだ。これをね」  そういって、パン、と正樹の目の前で手を鳴らした。  正樹も姫緒に食らわされたやつだ。 「で、現在ラストララバイは拡大中、と。普通の人は、ここに入った瞬間猛烈な眠気に襲われる。だから、夢のエネルギーを取り込みながら、どんどん拡大して、最後には世界中を覆い尽くす……ということらしいケド」  小夜子は、ため息。 「以上。なんか質問は?」 「……正直、うさぎの手のひらの上にずっといた、という印象しかないんすけど――」  正樹は、言った。 「つまり、どうすれば俺たちは勝てるんすか?」  小夜子は一瞬きょとんとして、 「――あっはっはっはっは!」  笑った。 「……なんすか。なんか変なこと言いました?」 「いや、ううん。ごめん。普通、ここまで完璧にしてやられた状況だと、そんなこと言えないと思って」 「へこみまくってるから、ですよ。悔しいじゃないですか。やられっぱなしのいいとこなしって」 「たしかに」  小夜子はメガネを外し、黒板をぶん殴った。  黒板はこなごなに砕け散りる。 「まあ、うさぎの誤算は、あたしたちがこうして起きている、ってことなのかな」  小夜子は笑っていた。  まるで、それだけで十分勝てる、と思っているかのように。 「夢を消すなら、眠りから覚ませばいい」 「体育館のやつら、ですか?」 「ちょっと無理かな。うさぎたちがいるし、お互いに共鳴している部分があるから、簡単には起きないと思う。だから、起こすのは、あたしのほう」  正樹は目をしばたかせた。 「どういうことです?」 「つまり――」  小夜子は、黒板の残骸の中から大きいの破片を取り上げた。 「こいつを起こす」  そこには『R黒雪』と書いてあった。 「多分、図書館にいる。あそこが、あの子の場所だから。それを見つけ出して、叩き起こせば――勝ちだ」 「でも、うさぎが黙ってないだろ」  アルの言葉に、小夜子はうなずく。 「だから、みんなにはかく乱してほしいんだ。とにかく、散らばってくれるだけでも、うさぎの注意を多少はそらすこともできると思う。そのうちに、あたしたちがどうにか突破するから」  そういって、小夜子は正樹の肩を叩いた。 「たちって、俺のことっすか!」 「あったりまえでしょ。あたしのこと起こせるのなんて、あんたしかいないでしょうが」 「う、あ……そ、そうっすね」  生返事がでてしまう。  そのとき、風を切る音が屋上に響き渡った。           4 「はい、ぜーいん動かなーい」  フェンスの外を見て、驚いた。  ドラゴンだ。体長十メートルはあろうかという黒いトカゲの化け物が、巨大な翼を動かして宙に浮いていた。  その頭の上に、姫緒が立っていた。黄色いヘルメットを被って。 「はい、キミたちは完全に包囲されているので、無駄な抵抗はやめて出てきてくれれば、わたしはうれしいでーす」  拡声器で呼びかけてきた。 「包囲って、何のことだよ?」  アルが笑いながら言った。 「あ、そっか。ごめん。訂正。キミたちは、包囲されるので、抵抗しないでね」  そう言って、姫緒が手を打った。  その瞬間――。 「うそ……」  正樹らの周囲3メートルから外は、黒い鎧の騎士の群で埋め尽くされた。  屋上いっぱいに出現させやがった。おそらく、千人近くはいるはずだ。 「いくら力が無尽蔵になるっていっても、これだけのサーバントを一度に生み出せるのは、さすがひめひめだわ」  小夜子が感心したようにうなずいている。 「って、先輩! なにをのん気に――」 「正樹。あんた、一度に何人の人間の話を同時に聞ける?」 「は? 何言ってんすか?」  と、正樹は気がついた。  他のだれもが、口元にほほ笑みを浮かべていた。「しょうがないやつだな」といった暖かい笑みである。 「はーい。じゃあ、騎士さんたちを突撃させますからねー。お仕事ですから、許してくださーい。じゃ、いきまーす。さん、にぃ、いち、ゴー」  気の抜けた声。  だが、騎士たちは本当に正樹たちに迫ってきた。  と、体が浮き上がった。  小夜子だ。正樹を抱えて、跳んだらしい。  見ると、ほかのやつらも同じように上に逃げている。そのまま飛んでいったり、騎士の頭を踏み台に跳躍を繰り返していたりしている。  踏みつけられている騎士を見ながら、正樹は気づいた。  騎士たちは動きはしているものの、どれも単一的だ。単純に、先ほど正樹たちがいた場所に押し寄せようとしているだけに見える。 「体がいくらあっても、操っているのは雲宮ひとり――?」 「そういうこと」  小夜子はそう言って、フェンスから外に跳ぶ。  浮遊感が、落下感に変わった。  地面がどんどん近づいてくる。 「おっと、そうだった」  落下の途中で、捕まれていた腰がぐっと締め付けられる。足の下は、地面だった。危うく五階の高さから墜落するところだった。 「キミは現実の体のほうじゃん。どうりで重いと思ったら」 「勘弁してください……」  地面に降り立つ。中庭だった。  と、強い風が上から吹き付けてきた。  姫緒のドラゴンの羽ばたきだった。 「よっと」  その頭の上から、姫緒が飛び降りる。 「いやー、逃げられちゃったや」 「よく言うわ」  姫緒は正樹のほうを恨めしげに見て、 「追いかけるのは苦手なんですよーだ」  小夜子も不適な笑みを、やっぱり正樹のほうに向けて、 「あたしは、追いかけられるよりは追いかけるほうがいいかな」 「あっ。じゃあ小夜子ちゃん、交換しよっか」 「お。それ、いいかもね」  そう言って、二人で笑った。  正樹だけが、苦い笑いを浮かべる。  ひとしきり笑ったあと、姫緒は感慨深げに言う。 「ああ。なんか小夜子ちゃんと笑ったの、久しぶりのような気がする」 「そうだね。いろいろあったから」  姫緒は少し考えてから、 「小夜子ちゃん、正樹くん、借りていい?」  小夜子は姫緒と正樹を見比べる。それでなにかを察したらしく、大きくうなずいた。 「こんなんでよければ、持ってけ持ってけ」 「ありがと。五分で返すから」 「……あの、一応俺の意見とかも聞いていただけないかと……」  女性人二人は顔を見合わせて、「だって、ねえ?」と言い合った。 「あんた、ひめの誘いを断る度胸なんてないでしょ」 「……すいません、言ってみたかっただけでした」  そのまま、姫緒に腕を引かれていく。  立場上は敵対しているから、このままうさぎに引き渡される可能性があることに思い当たったが、すぐに正樹は否定した。  姫緒である。 「ラストララバイができてからさ。まず、正樹くんの夢を作ったんだ」  腕を引きながら、姫緒が言った。 「多分、唯ちゃんも同じだったと思うんだけど、正樹くんとデートしたり、一緒に学校通ったり。もちろん小夜子ちゃんもいて、一緒にしゃべったりしてた。夢の中なら、みんな仲良くできるから。  でもね。それが、わたしが望んだ夢なんだけど。なんか、楽しくないんだ。  正樹くんにフラレちゃったときは、たしかに辛かったけど……でもそれ以上に楽しかった。ぜったい、夢にまで見たくないけどねっ」  笑う姫緒に、正樹は何も言えなかった。  だけど、思った。  この子は強い。いや、強くなったのか。 「だから、おねがい」  中庭側のドアから、保健室に入る。  ベッドの上には、現実の体である姫緒が眠っていた。 「この子を、雲宮姫緒を、起こしてあげてほしい。姫緒の心は、わたしの中で眠ってる。それを正樹くんに起こしてほしい」  姫緒は、遠いものを眺める目つきで、眠る姫緒を見ていた。  そこで正樹の視線に気づき、ほほえんだ。  この少女は、「この子」と眠っている姫緒を言った。  二人は、違うのだ。  この少女は、自分が消えることで、もう一人の自分に想いを託そうとしているのだ。 「わかった」  正樹はうなずいた。 「で、俺は何をすれば?」 「キス」  一瞬、何を言われているのかわからなかった。 「そこにおわす眠り姫に、チュッと」 「おい、こんなときに冗談とか――」 「え、本当だよ? 起こしてくれるんでしょ? それとも、ウソついたの? ハリセンボン飲ますよ」  そういって手のひらの上に出したのは、なぜかウニだった。磯のにおいがする黒いトゲを正樹の頬に押し付けてくる。ちくちくした。 「わ、わかったから」  しかたなく、正樹は眠っている姫緒を覗き込む。  改めて見ると、やっぱりこの子はかわいい。それだけに、眠っているところで唇を奪うのは、罪悪感があった。  ――ええいっ。  正樹は息を止め、唇を重ねる。  一秒だけ数えて、すぐに離した。  だが、姫緒の様子に変化はない。 「おい、起きないじゃ――」  横に文句を言おうとしたが、そこにはだれもいなかった。  姫緒がいたところに、紙が一枚落ちている。女の子っぽい丸い字が書いてあった。 『ありがと。そして、ごめん。でも、やっぱフラレっぱなしじゃ悔しいから』  意味がわからない。  首をかしげていると、 「――上村、くん?」  ベッドの上に視線を戻す。  姫緒が驚いたように目を見開いて、正樹を見ていた。左目が涙のせいか、少し潤んでいた。  唇に手を当てながら、尋ねてきた。 「もしかして……キスとか、した?」 「あ、ああ」  戸惑いながらも、答えた瞬間。  姫緒の目つきが、尖った。  その瞬間、正樹の目の前に星が出る。 「あたぁぁ」  正樹は左頬をさする。まだ、目がちかちかしていた。  手を振りぬいた姿勢のまま、姫緒は言う。 「小学生のとき、冗談で寝てるわたしにキスした人がいて。そのときから、決めてたんだ。次やったら、ぜったいにひっぱたくって。そのときもひっぱたいたけど」  姫緒の声は、震えていた。 「ちなみに、その人の名前、テツヤくん」  姫緒は怒っていた。 「だから、わたしはテツヤって言葉、だいっきらい」  顔を真っ赤にして、怒ってた。 「正樹くんも、今からきらい」  本気で怒っていた。  さすがにまずいと思い、正樹は弁解する。 「いや、俺は雲宮を起こそうとしてだな」 「小夜子ちゃんに言ってやる」 「えぇっ。あ、いや、その先輩にはなにとぞ――」 「唯ちゃんにも言ってやる」 「うげっ! ちょ、それはホントに――」 「ジャコ先生にお仕置きしてもらう」  正樹は思いっきり頭を下げる。 「ごめんなさい」  ぷいと、不機嫌にそっぽを向くお姫様。 「ぜーったい、ゆるしてなんかあげないんだからっ」  弾むような声を上げる口元は、春を迎えた花のつぼみのように柔らかにほころでいた。   第六章  バイバイララバイ           0  今日こそは、と黒雪は思う。 (先月亡くなった旦那様のためにも、小夜子様には夢を見ていただかなければ……)  旦那様には恩があった。だから、それに報いるためにも、どうしても病気を治してほしかった。  最近は顔色もよくない。血も吐いているようだ。  にもかかわらず、しっかり毎晩遊ばれてしまうのは、どうしたものか。黒雪が横にいると、意地でも小夜子は眠らない。  逆に黒雪がいては眠れないのではと申し訳なくなり、行くのをためらっていると、こなければ薬は飲まないと言い張る始末。それでも、最近はお呼びがかからないことが多い。  それはつまり、意地を張るだけの元気がなくなってきている、ということだ。  だからこそ、数日ぶりに招かれた今日こそが、好機なのだ。  二階の一番奥の部屋の前につく。そこが、小夜子の部屋だった。 「小夜子様、黒雪です」  声をかけるが、返事がない。  耳を澄ますと、咳の音が――。 「小夜子様!」  部屋の中に飛び込む。  小夜子は、血を吐いていた。尋常な量ではない。ベッドは赤くまだらに染まり、床にまで飛び散っていた。 「お、お医者様を――」 「……待って……」  ベッドに横になったまま、小夜子が手を伸ばしてきた。血のついた手は、支えるのも辛そうに震えている。  黒雪は小夜子にかけより、その手を握り締める。 「……ひさし……ぶりね……」  そう笑おうとして――また咳をする。 「しゃべってはなりません! 待っていてください、いまお医者様を――」  だが、小夜子に手をつかまれる。痛いくらいに強く。こんな力、残っていないはずなのに。 「……ひとつ、頼みがあるのよ……」 「――わかりました。おっしゃってください」 「最期くらいね……おまえのそばで眠ってみるのも……悪くないかなって思って」 「それって――」 「子守唄、歌ってくれない?」  涙があふれそうになった。それは、今まで黒雪が待ち望んでいた言葉だ。  だが、黒雪は首を振る。 「いけません」  振った拍子に、涙がこぼれ落ちた。 「気を強くお持ちください! 眠るだなんて――小夜子様がおっしゃるべき言葉ではありません!」  そうだ。この人は、いつだって強かった。  夢にも、黒雪の力にも頼らない。  ただ自分の力だけを頼りにし、そして黒雪そのものを求めたひと。 「……眠るだなんて……」  声にならなかった。 「……おかしな子。やっと、眠ってやるって言ってるのに、今度は、眠るななんて……」  また、咳をする。 「だれか! 小夜子様が!」 「いい!」  大きな声に、黒雪が「ひっ」と黙る。 「すまない。おねがいだ。苦しくて、眠れないんだ。だから、歌を」 「小夜子様」  黒雪は涙をぬぐい、改めて小夜子の顔を見る。やせ細り顔も蒼白になっているが、意志の強い瞳は最初に会ったときのままだ。あるいは、そのときよりも輝いているかもしれない。  そう思ったところで、また涙があふれた。 「泣き虫め」  そう言って、笑った。 「小夜子様は――意地っ張り」 「ああ。その意地っ張りが、素直に頼んでいるんだ」  小夜子は目を閉じた。 「夢を、見たいんだ」 「……わかりました」  黒雪は涙を拭く。なるべく、息を整える。おそらく、最後になる小夜子への歌だ。涙声になんかしたくない。  そして、黒雪は歌う。  小夜子は、ようやく腕を放す。安心したように笑った。 「そのままでいいから、やめずに聞いて」  小夜子が言った。 「遺産はおまえにやるよう、遺書を書いた。広いだけの屋敷くらいしかないけど、好きに使って」  黒雪は歌いつづける。 「今まで、ありがとう。おまえのおかげで、楽しかった。あたしの勝ち。夢なんかより、楽しんで死ぬって、決めてたから」  黒雪は歌いつづける。涙をぬぐいながら。 「だから、おまえのために、夢を見ようと思う」  歌声は、いつしか泣き声と変わらなくなっていた。  それでも、黒雪は歌いつづける。  いつまでも。  いつまでも。 「きれいなうただね」  白い少女が現れるまで。           1 「うわぁ!」  廊下を走るわんこの後ろを白い一群が追いかけていた。  うさぎのサーバントだ。ウサギを二足歩行にさせたような姿で、三体一組で三角形に並んで走っていた。  先頭のサーバントが、白い舌を伸ばした。 「よっ」  それを軽快なステップで、わんこは横に避ける。  続けざまに、二匹目の伸ばした舌が飛ぶが、わんこは今度は両手も使って、天井まで飛び上がった。  だが、天井に体がつく前に、三匹目のサーバントの舌がわんこの足を捕らえた。  その瞬間、舌が根元から切れる。一瞬だけわんこの体が自由になるが、逃げる間もなく、舌が蛇のように動き、自分だけでわんこの体を簀巻きにした。 「おお、捕まっちまったか」  アルが、サーバントの一人に同じように簀巻きにされて抱えられていた。 「アルさん……絶対に最初に捕まるのは、アルさんだと思ってましたけど」 「おまえときどき素直に辛らつだよな」 『もー、捕虜は黙ってなさいよー』  アルを捕まえていたサーバントが、子供の声で言った。  だが、アルは黙らない。 「あんたがうさぎかい? 僕たちをどうするつもりだ」 『どーもこーも、おとなしくできないんなら、このまんまでいてもらうよ』 「僕たちみたいなのが出るのは予想外だった? 夢に満足できないで、現実に戻ろうとするなんてさ」 『別に。出たなら、つかまえるだけだよ』  サーバントたちは、二人を抱えたまままた走り出した。 『で。あとの人たちの行き先とか、知ってる?』 「さてね。案外、その辺にいるんじゃないかい?」 『……知らないみたいだね。なら、探しだ――』  声が、後ろに遠のいていった。  わんこが見あげると、今までしゃべっていたサーバントの首がなくなっていた。  首を失ったサーバントは、そのまま倒れこむ。 「ぐぎゃ」  アルも一緒に。  他のサーバントたちも立ち止まり、後ろを振り返った。  教室の扉から、鉄パイプが伸びていた。 「……脆いね」  そう言って、ビン底メガネの三つ編み少女――ニンジンが現れた。まだぴくぴく動いているサーバントの首を、容赦なく踏み潰す。白い体が飛び散って、床に溶けるように消えてしまった。 「……交番壊すより、簡単そう」  わんこの体が廊下に落とされる。残った二体のサーバントがニンジンと向かい合う。 「あ、アルさん、だいじょうぶですか?」  わんこはちょっと離れたところに転がっているアルに声をかけた。首を失ったサーバントは首が消えると同じく消えてしまったが、アルを捕縛している簀巻きはまだ消えていなかった。 「あー、なんとか。そっち、見えないけど」 「ニンジンさんが、きてくれました!」 「ああ、ならだいじょうぶだ」  アルが、笑った。 「化け物が二匹じゃ、話にならない」  サーバントが動いた。  一体はそのままニンジンに直進。一体は、教室の壁を突き破る。  ニンジンは鉄パイプを無造作に肩に構えたまま、真っ向から近づくサーバントに向かった。  鉄パイプを真一文字に振り払う。余波で、横の窓ガラスが三枚、木っ端微塵になった。  正面のサーバントは真上に飛び、攻撃をかわしていた。天井に張り付き、真上からニンジンに飛びついていく。  同時に、教室側の壁を突き破って二体目のサーバントが飛び掛ってきた。  そのとき、わんこは背筋が凍るのを生まれて初めて味わう。  ニンジンが、歯を剥き出しに、笑っていた。  埃が舞い上がり、ニンジンもサーバントたちの姿が消えた。  と、いくつもの物を同時に叩き潰したかのような、一種のシンフォニーを奏でた破砕音が、廊下じゅうに響き渡った。 「――ニンジンさん?」  静寂。  割れた窓から風が吹きこみ、舞い上がった白い埃をかっさらっていく。 「……しまった、壊しすぎた……クソハゲ、うるさいかも――」  ニンジンは、無事だった。  だが、えぐれた床は白い煙を立てていて、壁や天井からは鉄筋が剥き出しになっていた。  サーバントの姿はどこにもない。ただ、埃とは別の、白い煙がニンジンの周囲に漂っているのが見えた。 「……あ。そっか。これ、夢か……」  ニンジンがぼそりとつぶやいたとき、グニャグニャに曲がりまくった鉄パイプが、根元から折れて床に落ちた。 「うあ……」  言葉を失うわんこ。体を縛っていた舌が消えても、動けないでいた。 「ほれ、立て」  アルに頭の後ろをはたかれる。 「まだ、僕らにはやることがあるだろ」 「あ、はい」  それで、自分のやるべきことを思い出した。  ひとりでも多くの人を目覚めさせるのだ。  三人で、体育館のほうに走った。           2  正樹は小夜子とグラウンドに回りこんでいた。直進すれば、一気に図書館だ。  目覚めた姫緒は「何か夢を見ていた気がするけど、よく覚えてない」だそうだ。  そう言った姫緒は、笑っていた。多分、ララバイの姫緒の気持ちは、伝わったのだろう。  そのあとは、説明するのが面倒だと言って、小夜子が『パン』で眠らせてしまったが。 「あっ」  小夜子が、足を止めた。  グラウンドのまん中に、ふたつの影が立っていた。  唯だ。鞘に入った日本刀を片手に、正樹たちを待ち受けていた。  もう一人は、《正樹》だった。  満面の笑みを浮かべて、唯の肩に手をおいていた。  小夜子が正樹のことをひじでつつく。 「なんか、本物より男前じゃない?」 「俺はひたすら気持ち悪いです」  自分と同じ顔をしたやつが、しまりのない顔をして妹になれなれしくしている、というのは吐き気モノだった。 「唯ね、思ってたんだ」  唯が、明るい声で言った。いやに上機嫌だ。  正樹は、いやな予感がした。 「お兄ちゃんを作っても、何かが違うの。満たされないの。おかしいの。それでさ、ようやく気づいたんだ。唯がお兄ちゃんを作っても、世界のどこかにはお兄ちゃんっていうもう一人のお兄ちゃんがいる。つまり、唯が作ったお兄ちゃんじゃ、半分しかお兄ちゃんしかないんだ」  小夜子がため息をついた。 「正樹、妹語を翻訳してくれない?」 「いや、姉語ならば、多少はわかるようになってきたんですけどね」  唯がすらりと刀を抜く。 「どうすればいいと思う? 答えは、カンタン」  そして、傍らにいた《正樹》を胴から両断した。 「お兄ちゃんを殺して、世界で一人だけのお兄ちゃんを作り直ばいいんだ!」 「翻訳完了」  小夜子が、唯に向かって駆け出す。 「プッツンしてる」  走りながら小夜子は鎖を生み出し、払うように唯に投げつけた。  巻きつこうとしてきた鎖を、唯は左手で触る。そこから鎖が切れ、彼方へ飛んでいく。 「死ねぇぇぇぇ!」  唯は刀を脇に構え、ためる。 「正樹、伏せて!」  小夜子が叫んだ瞬間――  唯が刀を横に払うと同時に、刃が一気に伸びる。十メートル半径を一気になぎ払う。正樹の頭をかすめ、跳躍した小夜子のつま先の下を通過した。  中空で小夜子は両手の指の間いっぱいにナイフを生み出す。二十本はあるそれらを、唯に投げつけた。 「ふんっ」  唯は右手を振り上げる。そこには瞬時に生み出した布が握られていた。  ナイフはすべて布に刺さり――消えてしまった。 「……なるほどね。生みだしたものに触れさせるだけで防げるんだから、布一枚でもいいってわけか」  卑近なもの、単純なもののほうがより容易に生み出しやすい。刀は時代劇をよく見ていたことからだろうし、布は常に身の回りにある。 「だけど、本物が混じってたら、ただの布だもんね」  布の影から現れた唯の左腕には、小夜子が投げたカッターナイフが刺さっていた。 「学校だもん。いくらでもあるよ?」  そういって、小夜子はまた両手でたくさんのナイフを掴んでいた。今度はすべて、文房具としてのカッターナイフ。ただ、どれが本物で、どれが夢を具現化しただけのものかは、わからない。  またも、一気に投げつけた。 「くっ」  唯は腕のカッターをひきぬき、小夜子に接近する。カッターは、布で弾く。  多少刺さっても、一気に近接して仕留めるという策なのだろう。  カッターはすべてダミー。布を払うが、しかし小夜子はいなかった。 「布って、広げたとき視界なくなるよね」  声は唯の背後から。  気づいたときには、唯の両腕の肘に後ろ手で手錠がはめられる。小夜子が生み出したものだ。  打ち消す効果は、手首から先。手錠には届かない。  唯は、何もできずにそのまま地面に倒れてしまった。なんとかしようともがくが、人体の構造上、腕つながれた状態では、自分の肘の部分を手で触ることはできない。 「とまあ、おねーさんが元気だと、ざっとこんなもんかな」  小夜子が、もがく唯を見下ろしながら言った。 「姫緒くらいのスペックやうさぎくらいのずる賢さがキミにあったら、危なかったけどね」  不意に、唯が仰向けになった。 「じゃあ、これはどう?」  不気味な笑み。  刹那――。  唯の体の下から、無数の刃が突き上げた。  刃に打ち上げられ、唯の体が宙に舞う。そのまま落下、地面に叩きつけられた。 「かはっ」  激突のショックで血を吐いた。  だが、体に刺突のあとはない。切っ先のない刃を生み出したからだ。  広域で空間を支配する力はないが、自分の足元近くくらいならなんとかなった。体育館で姫緒の騎士たちと戦ったときのように。  両手は自由になっていた。刃に突き上げられたときに、手錠は消えている。 「あっぶな」  小夜子は、生き残っていた。刃が突き上げてくる直前の間一髪で、飛びのいたのだ。  唯は立ち上がり、布を生み出す。それを両腕に巻いて、さらに首に巻いてマントのようにした。  そうすれば、少なくとも生み出したものでの攻撃は通用しない。 「だんだん、わかってきたよ」  唯は、足元に転がっていたカッターナイフを拾い上げる。  そして、別の手では生み出したカッターナイフを握っていた。 「そういえば、唯ちゃんも学生さんだったね」  唯がカッターを投げてきた。ただ投げただけで、とても刺さるようなものではないが、小夜子は触っただけで致命傷だ。  小夜子はよけながら、左手に妙な器具を生み出した。握りと、手の甲にY字に突き出た枝。その枝に太いゴムがかかっている。  小夜子は地面の石を拾う。ゴムにかけ、一気に引き伸ばした。  唯に狙いを定め、放った。 「――っ」  短い悲鳴をあげ、唯は投げようとしていたカッターを取り落とした。左腕を押さえながら、その場にうずくまる。  小夜子のそれは、いわゆるパチンコだった。ただし、普通の石でも骨を砕く威力で撃ち出せるくらい強力なゴムを使っている。  小夜子はゴムに、カッターナイフをかける。本物だ。  文房具とはいえ刃物を撃てば殺傷力も出るだろう。 「唯ちゃん、あきらめなさい。今のままじゃ絶対に勝てない」 「そだねー」  答えたのは、唯ではなかった。  二人の間の地面からうさぎが飛び出してきた。 「だけど、小夜子ちゃんもぜったいにうさぎちゃんには勝てない」  そう言って、ぱちんと指をはじく。 「ああぁぁぁぁっ」  小夜子が、体を押さえて崩れ落ちた。 「先輩!」  正樹が近づこうとするが、小夜子が手を広げて押し留める。 「……とんでもないもん、食わせてくれたもんね」 「わかってるなら、やらせないでよ」  うさぎは冷たく言った。 「唯ちゃんも――」  と言おうとした瞬間。 「アハハハハハ!」  唯が、高らかに笑った。 「――つながった!」 「!」  うさぎと、そして小夜子の表情が変わる。 「死んじゃえ!」  地面から空中からあらゆる方向に刃が無限に突き出していく。  唯のものとなった空間が、一瞬にして鋼に埋め尽くされた。 「……うそだろ」  一人、距離をとっていた正樹は言葉を失った。  唯がいた場所を中心に半径十メートル、半球が形作られていた。そこを境に、あとは刃の入り乱れた鋼の塊となっている。 「せ、先輩!」  正樹が呼びかけるが、答えるものはなかった。 「あー、びっくり」  正樹の横に現れたのは、うさぎだった。穴の空いたシルクハットを確認しながら、独り言を言っていた。 「唯ちゃん、見境ないなあ」 「うさぎ……」 「なに? 無事なのが残念? ひどーい。せっかく助けてあげたのに」  うさぎが言うのと同時に、何かが正樹の上に降ってきた。思わず受け止めるが、支えきれずに倒れてしまう。 「せん、ぱい?」  小夜子だった。  そして、両足がなくなっていた。 「せ、先輩!」  声をかけると、小夜子はうめく。 「――生きているよ」  ほとんど聞こえないくらい小さな声で、小夜子が言った。 「あー、こんなとき、いっそ気を失えたらどれくらい楽かって、思うよねえ」  力なく小夜子が笑った。とりあえず、まだ余裕はあるみたいだ。  と。唯を取り囲んでいた刃が消える。 「なんだ、生きてた。しぶといんだね」  唯がいうが、笑顔は崩さない。絶対的な優位を確信しているのだろう。 「おい、うさぎ。おまえ、あいつを止められるんじゃないのか?」 「うさぎちゃん、って呼んでよ」  と、前置きしてから、 「でも、おかしいのよねえ。なんか、唯ちゃんの中のうさぎちゃん、消えちゃったみたい」 「ああ」  唯が、おかしそうに言った。 「ああ。あれなら、簡単だったよ」  自分の胸を指差し、 「この辺を刺したら、消えちゃった」 「だってさー」  うさぎが他人事のように言った。 「おまえら、化け物か……」 「ひどいなー。ララバイだって、夢でできてるってだけで、構造は人間と変わらないよー。ただ、ラストララバイの中だから、ちょっとは丈夫になってるはずだけど」  シルクハットを被りなおした。 「でも自分の心臓刺すなんて、うさぎちゃんはぜったいしたくないなぁ」  そういって、地面に消えてしまった。 「なんだ、逃げちゃったか」  唯がさして残念そうでもない口調でいった。 「でも、いいや。じゃあ、そろそろお兄ちゃんの番だね」  正樹は小夜子を横たえて、立ち上がった。 「先輩は休んでください。あとは、俺がやります」 「……無理よ」 「まあ、なんとかなりますよ」  そう言って、正樹は小夜子に笑いかけた。  表情を引き締め、唯のほうを見る。  唯は特に動かず、正樹を待っていた。  正樹は、走る。真っ向から、全力疾走で唯の支配空間に飛び込む。 「えいっ」  と、唯が地面を踏みつけた。  正樹の足元から刃が突き出てくる。  とっさに地面を蹴り身をかわすが、体勢を崩し、地面を転がってしまった。  舞い上がる砂埃の向こうで、唯が笑っている声がした。 「なによ、お兄ちゃん。威勢のわりにぜんぜんじゃない」  正樹を見下し嘲笑している。 「でもだいじょうぶ。新しいお兄ちゃんは、もっとカッコよくしてあげるから」  そういって、地面を踏みつける。  だが、何も起こらなかった。 「な、なんで?」  正樹が立ち上がる。  その手には、先ほどまではなかった、一本の刀が握られていた。  まっすぐの刃紋が走る刃。その切っ先を、地面に突きつけていた。  刃を引き抜き、今度は十字に空を切る。  ガラスに亀裂が入る音がした。 「……なによ」  言いながら、唯は半歩下がっていた。 「なんなのよ、それ!」 「いや、探してたんだけどな。さっき、この辺一帯を刃で埋め尽くしてくれて、ようやく見つかったんだ」  正樹が刀――《蕣》を構えながら言う。 「一箇所だけ、空白になっている部分があったのよ。こっちでも刀になってくれるのかとか、空間支配に太刀打ちできるのかとか、いろいろ心配だったんだけど――どうやらなんとかなったみたいだな」  正樹は、自分の周囲の空気が戻ったことを感じていた。  斬ったことで、支配が断たれたのだろう。 「――そんな、刀一本でなにができるのよ!」  唯が両手を打ち鳴らす。  正樹の周囲――支配を断ち切ったさらに外側で刃が出現し、全方位から正樹を突き刺してくる。  正樹は身を低く地面を滑るようにしながら、前に進む。正面の刃だけを《蕣》で払い道を作った。  刃の海をかいくぐった先に――。 「ひっ!」  唯が、いた。  突然刃の中から現れた正樹を見て、顔を引きつらせていた。  正樹は右手を振り上げ、  唯の頬を平手で張った。  ぱん、という乾いた音が鳴り、それに呼応するかのように、周囲の刃が消えていく。  唯は打たれた頬を押さえる。その場に膝を落としながら、呆然と正樹のほうを見あげた。  と、その目に涙がたまる。表情が歪んでいった。 「――ふえぇぇぇぇん」  あとは、号泣だった。ぽろぽろと涙を流し、声を上げて泣きつづける。 「どう、どうして、みんな、唯ばっか、いじめるのよぉ」 「どうしても、なにもなあ」  正樹は頭をかく。  こういうのは、苦手だ。  正樹は、自分の右手を見た。唯の頬を張った手だ。  その手で、自分の頬を思いっきりひっぱたく。 「――つぅ」  耳鳴りがした。  少しひりひりする頬を押さえながら、自分のほうを見つめる唯に笑いかけた。 「ごめんな。痛かったな」  そう言って、頭を撫でてやる。  柔らかな髪の感触。それで、確信した。こんな風になっても、こいつは唯なのだ。 「お兄ちゃぁぁん!」  唯は正樹の胸に飛び込み、泣きつづけた。  正樹も唯を抱きしめて、優しく語りかけた。 「気づかなくてごめんな。さみしかったんだな」 「……ごめ、なさひっ、お兄ちゃん……」  嗚咽交じりに、唯がいった。  そして――  唯の体が、消えてしまった。 「――唯?」  抱きとめた形のままの自分の腕を見ながら、呼んだ。  だが、答える者はいない。 「唯、どうして!」 「あー、だいじょぶよぉ」  振り返る。  小夜子が、首をもたげて正樹のほうを見ていた。 「多分、唯ちゃんが自分の中のうさぎを殺したからでしょうね。もともと、うさぎに与えられた感情がもとで、ララバイになってたんだから。ララバイの中心になっている、夢そのものが消えたから、彼女も消えたんでしょ」  正樹が駆け寄って、小夜子の体を支えてあげた。 「あ。ありがと」  小夜子が笑った。 「――とまあ、以上が本音だけど。でも、いいんじゃない? 消えたんじゃなく、正樹が夢を叶えてあげた、ってことにしておいて」 「俺が?」 「お兄ちゃんが好き、というのが満たされたんだから」  正樹は、頬が赤くなるのを感じた。 「さてと。あとは仕上げばかりだ。うさぎが戻ってくる前に、ケリつけちゃお」 「うさぎ……どうしたんですかね」  小夜子を背負いながら、正樹は尋ねた。  さっき現れたうさぎは、どこか余裕がないように見えた。 「どうせ、予想してない問題が山積みになって、焦ってるんでしょ」 「問題って。――雲宮が人間に戻ったり、唯が勝手に動いたり、俺たちが抵抗したりってことすか」 「そだね。あと、もう自分で目覚める人たちが現れてきてるんじゃないかな」  小夜子は体育館を見やる。 「うさぎのそもそもの間違いは、夢を夢のまま、現実に持ってこようってことよ。人は夢だけじゃ生きていけない。夢を見てるだけで幸せになれるなんて、勘違いもいいところだ」  小夜子の声は、悲しみを帯びているようにも聞こえた。 「そんな夢物語を追いかけるから、ララバイになっちゃうんだ」           3  正樹は玄関から図書館に入った。鍵は開いていた。  ホールに入ると、階段の下に地下に向かう階段ができていた。 「そこだね」  背中の小夜子が言った。  正樹は、小夜子をソファに横たえた。 「多分、黒雪は普通に起こしても起きないと思う。だから、《蕣》で起こしてきてほしいんだ」  小夜子が言った。 「それで、起こせば万事解決。この胸くそ悪い空間も、朝日とともに消えるはず」  そう言って笑う小夜子。  正樹は、ずっと気になっていたことを訊いた。 「……先輩は、どうなるんです?」 「え?」 「黒雪を起こしたら、先輩も消えてしまうんじゃ――」  小夜子はゆっくりとうなずいた。 「そうだね。あたしという小夜子は、消えちゃうかもね」  軽い調子で肯定する。  正樹は、何もいえなかった。  小夜子は、消えることを望んでいる。だから、それをやめろということは、正樹のわがままに他ならなかった。 「ほんというとね、消えちゃうの、いやなんだ」  正樹は、はっとした。 「自分で夢なんか見ても仕方がないって言ってるくせに、このひと月は夢みたいなものだった気がする。なにせ、この百年ほとんど人前に姿を見せることなかったわけだから。だから、あんたやひめや唯ちゃんと話してるのは、楽しかった」 「先輩」 「でも、いくら楽しかったとしても、それが夢のままで終わっちゃったら意味がないと思う。小夜子っていうララバイは消えるけど、小夜子が見ていたものは、目覚めたあともどこかに残って、本当の意味ができると思う」  正樹は気づいた。  これは、別れの言葉なんだと。 「夢は、現実のためにあるんだ」 「……そうっすね。伝えてきます」  正樹は、それ以上小夜子の顔を見ていられなかった。  決心が鈍る前に、背中を向ける。  新しくできた、下りの階段に入ろうとする。 「バイバイ、正樹」  小夜子の声。  正樹は、何も言わずに階段を降りる。  まだ仕事が残っていた。           4  下りた先は、土壁の地下道だった。  これといった明かりはないが、不思議と明るい。正樹は足元を確かめながら、ねっとりとした空気の中を進んでいく。  開けた部屋に出た。  畳が敷かれ、その中央に黒い着物の少女が横たわっていた。  正樹は靴のまま畳に上がり、少女の傍らに座った。  黒雪だった。華胥の夢で、小夜子が模していた姿そのままだ。  正樹は《蕣》を抜き、丁寧に黒雪の額を切っ先でなぞった。青白い線が残る。  正樹は、そこに自分の額を合わせた。  万華鏡の世界だった。  さまざまな景色をこなごなにして、壁や天井にしているようだ。時計、ソファ、姫緒の顔など、見覚えがあるものが見えた。どうやら、小夜子の記憶をちりばめたものらしい。  黒雪の夢がこうだったのか、それともララバイの中はこうなっているのか。正樹にはわからない。  ただ、その中心にいる黒い着物の少女に用があった。 「あなたは……」  黒雪は、正樹を不安そうに見た。 「上村正樹。会うのは、初めてだよな」 「お顔だけなら、何度か拝見しております」  黒雪が壁を見た。 「よく映ってらっしゃいますから」 「……そうか」  妙な照れくささを覚えつつも、本題に移った。 「小夜子先輩の代理できた。あんたを、現実につれて戻る」 「小夜子様が?」  黒雪が驚いたように言った。 「しかし、私が出て行ってしまっては、小夜子様が――」 「それは小夜子先輩もわかってる。でも、あんたに目覚めてほしいというのは、先輩自身の望みなんだ」  黒雪は、考えるそぶりも見せず、首を振った。 「いけません。小夜子様が消えて、私なぞがおめおめと生き延びるなど、許されるはずが」 「なんだろうと、俺はあんたを叩き起こす!」  そういって、正樹が黒雪の腕をとろうとした瞬間、 「コラーッ」  正樹の体が、何かに吹き飛ばされた。  体勢を直し、振り返ると、燕尾服の少女が怒っていた。 「……うさぎ」 「そーだようさぎちゃんだよ! イヤがるコを無理やり連れてこうなんて、おにーちゃんサイテー」  おそらく、小夜子が食わされたといううさぎの一部だろう。外の本体よりも元気のようだ。 「無理やりでもなんでも、俺は黒雪を起こすって約束した! それは、ぜったいに守る」  正樹は《蕣》を抜いた。  うさぎも、いつでも動けるよう腰を低くする。 「ま、待ってください!」  二人の間に黒雪が入り、両方を止めた。  泣きそうな顔。冷徹な黒雪の顔しか知らない正樹は、ちょっと驚いた。 「うさぎ様の話では、小夜子様はしあわせに暮らしてらっしゃるとのことでしたけれど?」  黒雪がうさぎに尋ねる。うさぎは、ぎくりとした。 「そ、そーだよ。黒雪ちゃんも、見てたでしょ? この外の景色が、楽しそうなのを」 「たしかに先輩は、この数日は楽しかったって言ってた」  正樹は、それを肯定する。 「だけど、それじゃ意味がないとも言ってた。先輩が楽しいといっても、それは先輩にとって夢みたいなものでしかない。夢は、夢のままだったら、本当に消えてしまうだけだ。  多分、先輩の幸せっていうのは、あんたが目覚めて、初めて形になるものなんだ」 「はんっ」  うさぎが、笑い飛ばした。 「なんと言ったところで、小夜子ちゃんが消えちゃったら、その幸せなんかイミないじゃないのよ。黒雪ちゃんは、小夜子ちゃんがいない世界になんか、ぜーんぜーん興味がないんだからさー」 「先輩は、いる」  正樹は黒雪をみた。  うつむき加減にして、まばたきを繰り返している。 「というか、あんたが先輩じゃないか」 「え?」 「俺が知ってる小夜子先輩は、あんたの中から出てきた。だから、あんたは先輩でもあるんだ」 「おにーちゃん、忘れちゃったの? ララバイは、叶えられない夢を見るからこそ、生まれるものなんだよ。小夜子ちゃんが黒雪ちゃんの中にいないから、ララバイになっちゃったんじゃない」 「逆だ。そもそも、何もないなら夢だって見ない。たしかに、百年前に死んだ小夜子という人は、どこにもいない。  俺が――俺が好きになった小夜子先輩は、他のだれでもない、黒雪、あんたのことなんだ」  黒雪が、息を呑み込んだ。 「へーへー。いきなりコクハクですかい。きーてらんないね。なんかもうしゃべるのも飽きちゃったし、やるならやらない?」  うさぎが耳をほじりながら言った。 「ラストララバイ、どうやら見込み違いだったみたいだぞ? もう外じゃ崩壊寸前だ」 「さてね。それならそれで、構いやしないよ。だったらうさぎちゃんは、一秒でも長く、うさぎちゃんの夢を続けるだけだよ」  うさぎは駆け出そうとする。だが、袖をつかまれていたので、進めなかった。  黒雪だった。 「黒雪ちゃん……」 「あの方の夢の部屋です。暴れてもらっては困ります」  黒雪は、正樹のほうを見る。 「ひとつ、お願いがございます」  白い顔を赤くしながら、黒雪が言った。 「あなたの知っている小夜子様の話をしてくださいませんか?」   終章  夢の後 「――っていう夢だったんだ」  と、姫緒が話を締めくくった。  向かいで皿うどんを口にしていた唯が、飲み込んでから言った。 「そういう夢オチみたいな言い方は、よろしくありませんよ」 「えー。でも、似たようなもんじゃないのかなぁ」 「……たしかに。その話のとおりだと、結局私たちは、あの人の見ていた夢に振り回されたことになるんですよね」  そう言って、またうどんをすする。  姫緒が顔をしかめた。 「それ、おいしい?」  と、唯の皿うどんを指差した。  皿うどんは、ただのうどんに野菜と肉を載せ、その上からドレッシングをぶっかけたとおいう乱暴な料理だった。白船高校の学食でもっとも安く、そしてもっとも評判の悪い料理だ。ただ、頻繁に罰ゲームなどで愛用されるため、意外と売れ行きはいい。 「栄養のバランスと値段の割合が、もっとも優れていると思うのですが」 「バランスっていうか、あまった食材をとりあえずうどんに乗っけてみましたー、てだけじゃ……」 「腹に入ればみな同じ、という格言があります」 「それ、格言じゃないよぉ」 「もちろん、冗談です」 「真顔で言わないでよぅ」  と、明るい音楽が流れた。16和音で流れるのは、ラジオ体操のテーマソング。体を動かすほうの曲ではなく、「あーたーらしい朝がきた」という歌詞で始まるほうだ。  空になった牛乳パックをくるくる回して遊んでいた姫緒は、ため息混じりに携帯を取る。イルカのストラップがテーブルの角に当たって、音を鳴らした。 「あぅ、お父さんだ……」 「どうぞ」  唯が言って、またうどんをすする。  姫緒は立ち上がって、唯に背中を向けて、電話を取った。 「はーい……うん……学校……え? んと、後輩の子と……だいじょうぶ、すぐ帰る……わかってるってば。え? それってどっち? えっ、特濃だって言ったよぉ! 特濃! 3.6じゃなくてぇ!」  もう、とか頬を膨らませながら、携帯を閉じる。 「ねー?」 「いきなり同意を求められても困ります」 「んむー」 「――心配してくださるのは、喜ばしいことですよ」 「……ちゃんと聞き分けてるじゃない」  半月も無断外出してしまったため、親がいたく心配してしまったのだ。笑ってくれると思って「失恋傷心旅行」なんて言ってしまったから、もうえらいことになっている。三時間に一回は、電話がかかってくるようになってしまった。 「あと、私は低脂肪乳でも構いません」 「――完璧に聞き分わけてるじゃない」  まあ、娘の安否確認といっしょに買う牛乳の確認をしてるくらいだから、なんだかんだでのん気な親である。 「あの子は元気?」 「はい。先輩を夢に見ていたとは思えないくらい、礼儀正しい方です」 「そうなんだー。へえ」 「料理も得意なようなので、兄も父も喜んでいます。最初は電化製品の使い方を教えるのに苦労しましたが、今ではちゃんと使いこなしています」 「そうだよね。電気とか、なかったんだもんね。ああ、でもいいなあ。わたしの遊びに行きたいなあ」  唯が、空になった皿に箸を置いた。 「もうすぐ会えますよ」 「そうだよねえ。夢だったんだもんねえ」 「でも、いいのでしょうか」  唯の言葉に、姫緒が首をかしげた。 「先輩の見てきたものを見る……それで、あの人は辛くはないのでしょうか。たしかに、あの人が言い出したことなんですが」 「わかんない。でも――だいじょうぶだと思うよ。戻ってきたんだもん、夢の中から」 「――そうですね」  姫緒は笑い、唯も少し表情を和らげた。 「それよりさ。さっき打ち合わせたとおり、やってよ?」 「……あまり、公の場所で大声を出すのはよろしくないと思うのですが」 「いいじゃん。だーれもいないんだから」  そう言って、姫緒は学食を見渡す。 「あ」 「はろー。ちょっとぶりー」  いつの間にかテーブルの横にいたそいつに、姫緒は唇を尖らせた。 「うさぎ! なにしにきたのよっ」 「ああ、うさぎさん。こんにちは」  と、唯は冷静に、うさぎに頭を下げる。 「って唯ちゃん、なに普通に挨拶しちゃってるの!」 「ですが、この人のおかげで、いろいろと面倒な手続きがクリアされたのですから」 「そーそー。アフターケアもばっちり。コセキ、ケーレキ、ミブンしょー、なんでもござれ。トモダチにララバイいると、ベンリだよー? 特にフミンしょーのときとかね。あ、姫緒ちゃんにはカンケーないか」  ふん、と姫緒は顔をそむけ、取り合おうとしない。 「ですが、必要以上に他人の夢に干渉するのはよろしくありません」 「それはしょーぶんってやつなんで、ゆずれないねー」  うさぎはシルクハットを被りなおす。 「じゃあ、そろそろおにーちゃんがきそうなんで、うさぎちゃんはオサラバするよ。別のとこにまいた『タネ』が、そろそろカタチになるんだー」 「応援はできませんが、さようなら」 「うん。じゃ、またいつかの夢であおうねっ」 「会いませーん」  姫緒の言葉も笑みで返して、うさぎはぱちんと指を鳴らす。  するとうさぎは、白ウサギに形を変え、その場で消えてしまった。どうやら、サーバントをよこしただけで、本体は別のところにいるらしい。 「唯ちゃんはよく平気だね。あんなひどい目あわされたのに」 「たしかに人の気持ちを操るということは許せませんが、それも目的のための手段ですから、理解はできます。必要悪というやつですね。相対的な問題なので、正しいかどうかは、私では判断できません」 「わたしはだいっきらいです」  そう言って、姫緒は空の牛乳パックを思いっきり吸う。ずー、とちょっとだけ残っていた牛乳が鳴った。  と、学食のドアが開いた。  外の強い光の中から、人影が現れた。 「あ、きた!」  光の中から現れた少女は、まだしわのない制服を着ていた。  唯と、その横で手を振る発見し、戸惑い半分の笑顔を浮かべてくる。 「唯ちゃん、いい? せーの――」  姫緒の声と、ためらいがちな唯の声がいっしょになる。 「おはよう!」                                 了 1