ハロー、ヒーロー                京路 「つまり、私は壊れています」  その新しいクラスメイトは、自己紹介の席でそう言い放った。  二人あとに迫った自分の番に何を言うか考えていた亜沙美は、壊れていると称した少女にそのときになって初めて目を向けた。  大きな眼鏡をかけた、小柄な子だ。百五十センチくらいの身長で、陰に隠れないよう、教卓の脇に立っている。陸上部の子でもやらないくらい短く切って(あるいは刈って)いる髪が、彼女の明確な意志を表しているような気がした。  自分は他の人とは違う、という。  亜沙美は思い出そうとする。なんとなく聞き流していた、彼女――上村唯という少女の自己紹介の言葉を。 『最初に言っておきます。三年前に事故に遭って、私には好悪の感情が欠落しています。だから、誰も嫌いにならない代わりに、好きにもなれません。その点で皆さんを不快に思わせることもあるかもしれませんが、ご了承ください』  まるで商品案内をするくらいに淡々と、彼女はクラスメイトを拒絶した。  誰も何も言えないなか、唯は教壇を降りて自分の席に戻る。告げたのは、名前と出身中学校と、その言葉だけ。よろしくの一言もない。  亜沙美は呆然としたまま、唯の後ろ姿を見つめつづけた。  我に返った担任が慌てて次の生徒を指名しても、次に迫った自分の番なんて考えもせずに、唯のぴんと伸びた背中だけを見上げつづけていた。  そして六時間後。亜沙美は、CDショップの一角で、彼女の背中を思い出していた。  店内のスピーカーは今週のヒットチャートを順に流している。その合間を縫って、制服を着たままの女子高生が話している声が聞こえていた。亜沙美の通う白船学園以外の制服も多くいる。今日はどこも入学式で、帰りも早いのだろう。  そのせいか、いつもより人の数が多い気がする。  CDを棚から選ぶふりをしながら、亜沙美は周囲を見回した。一瞬、店員と目が合ったような気がした。体が反応してしまうのを精一杯こらえながら、興味のないCDのケースを手に取って、なんでもない風を装う。  店内はこんなにうるさいのに、自分の心音と手にしたケースが鳴る音だけがハッキリと聞こえる。  みんなは大丈夫だと言っていた。この店は初心者向けだ。店が広い上に店員も少ない。カメラの数は結構あるが、それは体で死角を作ってしまえばどうにでもなる、と。  自分は、何をしているんだろうか。  あの人たちとはもう違う学校にきたはずなのに。結局は、ケータイで呼び出されて、こんなことを求められている。 『違う高校に行っても、トモダチだよね』  電話越しのユカリの言葉を思い出した。幼稚園の頃からの友達だった近所の子だ。だけど中学に入ってから、何かが変わってしまった気がする。  少しずつ、確実に。  何が原因かはわからない。ただ、トモダチという人の数が増えたように思う。ユカリ自身も亜沙美のことを、中学に入ってからトモダチとしきりに言うようになった。  それまでは、言わなくてもわかっていたことだったのに。 「すいませーん」  その声に、亜沙美は我に返る。  その『トモダチ』の一人が、レジで店員を呼んだ声だ。それは、亜沙美への合図でもあった。  最後に辺りにすばやく視線をめぐらせる。誰も、こちらを見ていない。  そう思い込み、手にしていたCDを肩から提げていたトートバッグの中に放り込んだ。  ぽとり、という音が取っ手を伝って体に響いてくる。  やってしまった。もう後戻りはできない。  そう思った瞬間に、全身に鳥肌が立った。  バッグの取っ手を握り締めながら、亜沙美は足早に出口に向かった。  急ぐと怪しまれるとは思ったが、ここにはもう一秒だっていたくない。早歩きのつもりだったが、もしかしたら走っていたのかもしれなかった。  出口まで、もう数歩と言ったところで。  亜沙美の足は止まった。  目が、合った。 「――っ」  自動ドアから入ってきた、上村唯という少女と。  唯は一瞬だけ目を細める。亜沙美は確信した。この少女は、すべてを見抜いているのだ。  そのまま、歩いてきた。視線は亜沙美のほうを、いや、今はもう亜沙美すら見ていない。いないものとして、亜沙美のほうに進んでくる。  逃げたかった。  きびすを返して、唯から一ミリでも遠く離れたい。だが、足が動かない。膝から下から感覚が消えてしまっていた。  目をぐっと閉じた。 「――っ」  足音は、すぐ横を通り抜けていった。  目を開いても、誰もいない。唯には、本当に亜沙美なんて見えていなかったのか。  とにかく、亜沙美は動かない足をもつれさせながら、空気を求めるように自動ドアの外に逃げ出した。  照りつけた春の日差しに、思わず目を細める。  その瞬間――。  腕を掴まれた。 「えっ?」  振り返ると、厳しい表情の男が見下ろしていた。この店のエプロンをしている。後ろにももう一人、同じエプロンをした若い男が腕を組んでいた。 「困るんですけどね、そういうことされると」  丁寧な言葉とは裏腹な、横柄な口調。それで思い出した。自分が何をしていたのかを。  その男――店員にバッグを奪われ、後ろの人に渡されれてしまう。抵抗する、という発想すら浮かんでこない。ただ亜沙美は、捕まれた腕の痛みと自分の心臓の音だけを感じていた。  クスクスという、笑い声。  振り向くと、ガードレールに寄りかかりながら、ユカリと他の子が三人が笑っているのが見えた。アンテナを伸ばしたケータイを手にして。  亜沙美は納得した。  ああ、そういう遊びなんだ。  多分、明日になったら言われるのだ。『一回くらいホドーされたほうが、社会ケーケンとしてイイんだよ』と。  けれど、亜沙美はそれでも彼女たちと付き合いつづけるだろう。理由は簡単だ。ただ、自分にとっての唯一のトモダチだから。 「――あれ?」  間の抜けた声で、亜沙美は現実に戻ってくる。バッグの中身をあさっていた店員の声だ。首をかしげながら、中をかき回している。  何をしているんだろう。CDのほかには、筆記用具とプリントくらいしか入っていないのに。 「何してんだよ」  イラついたように、亜沙美の腕を掴んでいた店員が言った。首をかしげる店員から、バッグを奪い取る。  放された腕をさすりながら、亜沙美はバッグの中を何度もかき混ぜている店員を見上げた。  その顔は、青ざめていた。  目が合った。高慢だったさっきの意気はすっかり消えうせ、しっぽを丸めた犬のように気弱な目つきになっていた。 「も、申し訳ありません。その……こちらの、勘違いだったようです」  そう言って、頭を深く下げられる。  亜沙美はわけもわからないまま、返されたバッグの中を確かめる。 (うそ)  危うく口に出しそうになった言葉を、どうにか飲み込む。  なかった。たしかに自分が盗ったはずのCDが、消えていた。 「い、いいです。気にしてませんから」  動転しながらも、どうにかそれだけを店員たちに伝える。「そうですか?」と安心しきった表情になって、店の中に戻っていった。  愛想笑いを浮かべながら戻っていく店員をぼんやりと見送っていると、鋭い声がかけられた。 「どういうコトだよ」  振り返ると、ユカリたち三人が不機嫌そうな表情をあらわにながら近づいてきていた。 「ンだよ、怖気づきやがって。ツカエねーでやんの」 「ダイナシだよダイナシ。あーもー、キョーザメ」  口々に、亜沙美のことを非難してくる。 「でも――」  亜沙美も口を開こうとするが「ッセーよ」の一言で、さえぎられてしまう。 「テメエ、自分が何したのかわかってンのか。ウチらの期待裏切りやがって。やっべ、チョーブルー。こりゃ、イシャリョー払ってくんねーと」 「タキんとこ売っちまわね? シラガク、人気あるっつってたし。コイツでも高く売れんぜ?」  笑いながら言い合っているが、多分本気だ。前に失敗したときも、本当に橋から冬の川に突き落とされたし。  そのとき――。 「目障りです」  凛とした声が冴え渡った。  三人が店のほうを向く。  唯が、いた。CDショップの青い袋を提げて、自分より頭ひとつ大きな彼女たちを見上げていた。  眼鏡の奥で細めたままの目に、亜沙美の心臓はひとつ大きく高鳴った。 「あンだよ、テメーは」 「店の入り口で程度の低い会話をなさるのは、あなた方の品位を下げると存じましたので、恐れながら忠告を差し上げただけです」  敬語の教科書に載っていそうなほど丁寧な挑発文句を一気に浴びせかける。ユカリたちが目を白黒させているうちに、唯は袋からCDを一枚取り出し、亜沙美に差し出した。 「次回からは、会計を先に済ませることを覚えておいたほうがよろしいですよ」  それは、亜沙美が盗ったはずのCDだった。 (まさか)  唯とすれ違った瞬間を思い出す。あのとき、亜沙美が目を閉じたときに――。 「それ、コイツにギッてこいっつったヤツじゃん。なんでテメーが持ってンだよ」  気づいたユカリが突っかかってくるが、唯は視線すら向けようとしない。 「過分なことと存じつつも申し上げさせてもらえば、交際する方は選んだほうがよろしいかと。あなたは馴染めていないように見受けられますから」  亜沙美のほうに口早に、静かに伝えると、唯はそのまま歩いていこうとする。 「待てよ! シカトこいてンじゃ――」  ユカリの仲間が、去ろうとする唯の腕を掴もうとする。  その瞬間。  亜沙美には、唯がちょっと腕を振っただけに見えた。それこそ、蚊を払うくらいのさりげなさで。  それだけで、掴みかかろうとした彼女はつんのめるように前倒しになり、受身も取れないまま顔面からコンクリートに衝突した。  動かない。倒れた彼女も、他の仲間たちも。 「っつぅ――」  鼻頭を押さえながら、倒れた彼女がようやく起き上がった。押さえた手から、赤い血が流れ落ちる。鼻血を出したらしい。  それを見て、ユカリはやっと何が起こったか把握できたらしい。 「テメエ、何しやがった!」  歩きつづけていた唯は足を止め、首だけで振り返る。まだ三歩と離れていない。それだけの時間しか経っていない。 「なにも。力学的に言えば、その方が勝手に転んだだけです」 「フザケ――」  掴みかかろうとしたユカリに向かって、唯は何かを放り投げる。むぐっという声を出し、ユカリは言葉を詰まらせ、すぐに咳き込んだ。  ぽとりと、黒くて細長いモノがユカリの足元に落ちる。それは、数ある足を波打たせながら、排水溝の穴に逃げていった。 「む、ムカ――」  ユカリは何かを言いかけたが、すぐに口を押さえて走り去ってしまった。慌てて、他の仲間も彼女のあとを追っていく。 「ムカデでなくてヤスデです」  ため息を吐きながら訂正して、唯は再び歩き始めた。 「か、上村さん!」  亜沙美が声をかける。 「はい?」  すんなりと振り返ってくれた。だが、亜沙美のほうが困ってしまう。呼び止めなければいけないとは思ったが、なぜかは亜沙美自身もわからなかった。 「な、なんで……その?」 「表で、あなたを陥れようと話しているのをたまたま聞いただけです」  そっけなく、唯はそう告げてきた。 「そ、その……ありがとう。助けて――くれて」 「いえ。私は正しただけです。助けたわけではありません。あの人たちが許せなかったので、私が勝手にやったこと。あなたがお礼を言う必要はありません」 「で、でも……上村さんは、嫌いなものはなかったんじゃ――」  唯は、少しだけ目を見開いた。亜沙美の顔を注意深く見て、「ああ、同じクラスの」とつぶやいた。覚えられてなかったらしい。どうやら、本当にたまたま関わっただけみたいだ。 「はい。たしかに、私には何かを嫌うことはできません。現に、店の中で見つけたヤスデなんかも平気でポケットに入れたりできますし」 「じゃあ、なんであの人たちを」 「別に好き嫌いだけで人は動くわけではないでしょう? 正しいか、許せないか、という理由だってあるんです。そう、ですね。しいて言うのなら――」  亜沙美は、唯が去った方向をずっと見つめていた。  手にしていたCDに気づき、慌ててバッグにしまう。  少なくとも、唯にとっては見ず知らずの他人の行動を正すために、わざわざ三千円もするCDを買ってやったりするものだろうか。  普通は、しない。それどころか、自分には関係ないと無視して通り過ぎるだけだ。  だが、彼女は違った。 「……正義」  最後に言い残した唯の言葉をなぞる。口にしてから、驚くほど言いなれていない言葉だったと気づく。  そう。  亜沙美が出会ったのは、間違いなくヒーローだったのだ。         2  翌日。 「いりません」  唯がきっぱりとはねつけた。  教室の中は昼休みの喧騒に包まれていた。教室のまん中で数人の女子が他の子に弁当を一緒に食べようと誘っていた。早速、グループを作ろうとしているのだろう。  さっき亜沙美も誘われたが、断ってしまった。今日はそれよりも大切なことがあったのだ。 「昨日申し上げたとおりです。あれは私が勝手にやったことで、あなたが気を使う必要はありません」 「でも……」  亜沙美は差し出した封筒を戻すに戻せず、唯がカバンから弁当箱を取り出すのを見つめているしかなかった。  封筒の中身は、三千と六十円。昨日、結果として唯に買ってもらったCDの代金だ。 「もとはといえば、あたしが悪かったんだし。上村さんがなんと言っても、結果的には助けられたんだから。このままじゃ、こっちが気持ち悪いって言うか――」 「……わかりました」  唯は開けたふたを一度弁当箱に戻して、亜沙美の手から封筒を受け取る。  驚いた。こんなにすんなり受け取ってくれるとは思わなかったからだ。  よかったと胸をなでおろしかけた亜沙美に、唯が静かに釘を刺した。 「これであなたの気持ちも済んだでしょう。どうぞ、お引き取りください」  切り捨てられた。  亜沙美の気持ちを汲むために受け取ったのではない。亜沙美との関わりを断つために、あえて受け取ったのだ。 「……うん」  とにかく、彼女と話せる唯一の理由が消えてしまった。もう、言う通りに引き下がるしかない。せめて弁当があれば一緒にいれたかもしれないが、唯のことばかり考えていたせいで家に忘れてしまった。  しぶしぶ、きびすを返した瞬間、 「倉知さん」  唯に、名前を呼ばれた。振り返ると、彼女は右手を出しだしていた。  わけもわからず手を出すと、一枚の硬貨を渡された。一円玉だ。 「一円、多く入ってました」  にこりともせずに、唯が言った。  亜沙美は一円玉を握り締めながら、学食に向かうために廊下に出た。 「ねえ、倉知さん」  ふいに呼び止められる。今度は唯ではない。自分をグループに誘ってくれた女子だ。名前は……覚えていなかった。 「上村さんと話すの、やめたほうがいいよ」  心配そうに、そんなことを言ってくれた。 「私もよく知らないんだけど。高山くん――あ、となりの男子が教えてくれたんだけどね。あの人、本当におかしいんだって」 「……」 「中学のとき、ゴキブリ食べたとか、自分の腕に針を刺して平然としてたとか。だから、あんまり近づかないほうがいいねって話してたんだ」 「そう」  短く言って、亜沙美は彼女に背中を向けた。  これ以上その子を見ていたら、顔めがけて一円玉を投げつけてしまいかねなかった。投げつけたってよかったのだが、唯にもらったものをそんな風に使うのはもったいない。 「待って、亜沙美ちゃん」  馴れ馴れしい呼び声に、亜沙美の中で何かが切れた。  振り返りざまに、手の中のものを声のしたほうに叩きつけた。 「あたっ」  その人は、ぺちんと音がした額を押さえてしまう。 「あ……」  投げつけたポーズのまま、亜沙美は我に返った。さっきの女子はもう教室に戻ったらしく、そこにいたのは額を押さえた別の女子だった。 「ご、ごめんなさい!」 「うー。一円玉も結構痛いんだ……」  侮りがたし、とかつぶやきながら、その人は額に張り付いた一円玉をはがして、亜沙美に返してくれた。 「まあ、いらだつ気持ちはわからんでもないさ。ボクも、自分の大切な人をあんなふうに言われたら、黙っていない」  澄んだ中性的な声。声だけでない。  究極的に綺麗な容貌というのは、きっと男も女も行き着くカタチは同じで、この人はそこにけっこう近い場所にいるんだな、とか妙に冷静に思ってしまう。そんな顔だった。額に赤くあとが残ってるけど。 「……あなたは?」 「あ、これは申し遅れた。ボクはトウジョウハナゾノ。遠い城の花の園。メルヘンでしょ」  固まっている亜沙美をよそに、花園と名乗ったその女子生徒は、笑いながら続けた。 「なんなら、皇帝って呼んでもいいよ」           3  学食にくるまでに、この遠城花園という三年生について、確信できたことはひとつ。 「やっぱり、変な人ですね」 「ひどいなぁ」  『100%スイカジュース 果肉入り』と書かれたパックにストローを刺しながら、花園は笑った。遠くのほうで、黄色い歓声が聞こえてくる。見ると、学食の入り口のほうで女の子が数人、身悶えていた。花園の笑顔が、あっちに誤爆したらしい。綺麗な顔だなあ、とは思うがそれ以上の感慨は抱かない亜沙美には、その気持ちがよくわからなかったが。  女の子たちに手を振る花園をよそに、食堂を見回してみた。教室をみっつつなげたぐらいの大きさの学食は、三分の二くらいの席が埋まっていた。学食を初めて利用した亜沙美はこれが多いか少ないかはわからないが、結構にぎやかだ。向かいの席の花園と話すのにも、少し声を大きくしなくてはならない。 「そんなに変かなあ?」  花園が亜沙美に向き直って尋ねてくる。 「だって、夢が『女の子の女の子による女の子のための帝国』を作ること、なんて。普通は、やろうとすらしませんよ」 「だからさ。誰も作ってくれないから、ボクが作るんだよ。ボクらのイチャイチャ空間をね」  ため息をひとつついて、亜沙美はきつねうどんに箸をつける。食券を買うときに、カレーか定食か悩んでいたら、後ろから花園が選んでしまったのだ。  勝手な人だ。 「それで、その帝国とあたしが、どう関係するんですか?」 「うーん。正確には、唯ちゃんのほうかな」  唯。その名前を聞いて、亜沙美は顔を上げる。  花園は、詰まったストローと格闘していた。どうやら果実と一緒に種も入っていたらしい。吸っても、ちゅーという間の抜けた音がするだけで、ジュースのほうは出てこないらしい。  ストローを覗き込みながら、花園が言う。 「唯ちゃんを、是非ボクの帝国に入れたくてね。あの子、綺麗な顔してるでしょ。全然そんな雰囲気出してないから、誰も気づかないけど」 「知りません」  本当は気づいていたのだが、ストローを抜いて反対側から吸い込もうとしている人に同意するのが悔しいので、わざととぼけてみせる。 「だから、協力してほしいわけさ」 「いやです」  それに、と亜沙美は付け加える。 「教室でのこと、見てたんですよね? なら、わかるじゃないですか。あたしをエサにしようとしても、上村さんは釣れませんよ」 「さて、それはどうだろう」  ようやく種が取れたらしい。ジュースを一口含んでから、花園が視線を亜沙美に向ける。  無邪気に口元を緩ませながらも、その視線はブリリアントカットで研かれたダイヤモンドの冴えた輝きを宿している。  その瞳の中で乱反射する自分の驚いた顔を見つけたとき。  初めて、亜沙美は花園の表情にどきりとした。 「そ、そんなに言うんなら自分で声をかけたらどうですかっ」 「それは無理。あの子、下心には鋭いみたいで。だから、キミを使うの」 「だから?」 「キミは世界で唯一、あの子のことを純粋に好いている人間だから」  もちろん彼女のご家族は除くけどね。と付け加えた。  そっけない唯の態度を思い出す。たしかに、あれでは親しい者も限られてくるだろう。教室を出たとき、変な噂を吹き込んできた女子を思い出した。 「そこで、キミにあの子と仲良くなってもらい、その上でボクの計画に協力してほしいとお願いしてほしいわけだ」 「……なんか、利用されているような気もするんですけど」 「うん、そうだね」  悪びれの欠片すら残さず、肯定してきた。 「でも、そのためにキミへ協力するのも事実だ。どう? 悪い話じゃないと思うけどな」  たしかに、結果的に利用されるのが気に入らないが、それさえ我慢すれば亜沙美にとってもいい話かもしれない。  しかし。 「お断りします」  亜沙美は言い切った。 「そもそも、人と仲良くするために取引するなんて間違ってます」 「なるほど。そりゃなんとも素敵な考え」  わざとらしくうなずく花園をよそに、亜沙美は席を立つ。油揚げがまだ残っていたが、もう食べる気にはなれない。 「ねえ。次の休み、ヒマ? お花見やるんだけど」 「行きません」 「唯ちゃんも来るんだけどなぁ」  花園は頬杖をつきながら、笑みを浮かべていた。最初からずっと同じ笑顔を崩さないでいたが、これほど憎たらしく見えた瞬間はなかった。 「来るわけ、ない」 「来るよ。いや、来させる」  すっと、花園の目から笑みが消えた。 「こう見えてもボクね。手段は選ばないほうなんだ」           4  亜沙美は、雲が浮かぶ青空を見上げながら、ため息をついた。  まさに、絶好のお花見日和である。心の中のどしゃ降りを分けてやりたいくらい。  もうすぐ待ち合わせの校門前というところで、亜沙美はこれまでのことを思い返した。  あのあと唯にも花見に行くのか尋ねてみたが、「行く」という答えが本当に返ってきた。さらに、「倉知さんも来るんでしょう?」とも。となれば、亜沙美も行かなければならない。  花園がどんな手段を使って、あの唯から約束を取り付けたのかはわからない。だが、「どうして行くの?」とは訊けなかった。訊き方を間違えたら、まるで自分が唯と花見に行くのを嫌がっているみたいに聞こえてしまう。  そこで、考え方を変えることにした。自分が行って、唯を花園の魔手から守ればいいのだ。 「よしっ」  気合を入れなおして、走る。  すぐに校門が見えてくる。その前に集まった、数人の集団も。  ざっと十数人はいた。全員、女の子である。そのうち、半分は制服姿だった。なんでだろうと考えるが、昼から部活がある人たちなのだ、とすぐに結論が出た。 「あ。亜沙美ちゃん! おはよー」  その中心のまん中にいた子が、亜沙美に向かって手を振ってくる。  亜沙美は、自分の表情がこわばるのを感じた。  遠城花園だった。 「――おはようございます」  なるべく平静を装って、挨拶だけする。  花園の周りにいた女の子たちも笑顔で挨拶を返してくれるが、すぐに自分たちの話に戻ってしまう。花園は亜沙美に向かって何かを言いかけたが、他の子に話を振られてしまい、結局そちらに引き込まれてしまった。 「ふぅ」  少し安心して、亜沙美は唯の姿を探す。  いた。門柱の前に、ぽつんと。何組かできている集団のどこにも混じらずに、いつもの雰囲気を放ちながら、どこを見るでもなく突っ立っている。  制服姿だった。だが、唯が部活など、亜沙美には考えられなかった。むしろ「校則にあるから制服を着てきた」という理由ではないだろうか。  内心で苦笑していると、目が合った。 「か、上村さん、おはよう」  しどろもどろになりながらも、どうにか声をかける。花園とは別の意味で、緊張する。 「おはようございます」  やっぱり、教室で交わす挨拶と同じ。それ以上話をつなげさせない口調である。  二の句をつなげないでいると、ぴりっとした女性の声が聞こえた。 「人数もそろいましたし、行きましょう」  白を基調としたツーピースを着た女の人だった。背は花園と同じくらい高い。背中に届くくらいの黒髪に、綺麗なツヤが見て取れた。  あちこちでばらばらの話をしていた人たちが、彼女に注目する。すごい。これだけの人数を、一声だけでまとめてしまった。 「というか……」  亜沙美は腕時計を見る。八時五十分。待ち合わせは九時だった。  どうやら、結果的に亜沙美を待っていたらしい。  唯が動くのを見て、亜沙美を慌ててついていく。回りも、それぞれおしゃべりをしつつ、目的地に向かっているらしい。  この人数になると、まとまって動くのはさすがに無理なようだ。話しているグループごとに、それぞれのペースで歩いている。花園のグループばかり、人数は多かった。それも、彼女を中心とした『帝国』のお花見なのだから、当然といえば当然だが。 「あの人、人気がありますよね」  唯がいきなり言ってきた。彼女から声をかけてくることに驚きながら、亜沙美は答える。 「そ、そうだね」 「すごいと思います。あれだけの人の気持ちを受け取り、応えることができている」 「えっ」  かなりショックだった。唯が、花園を褒めている。 「まあ、それでも限度ってものが必要だけどね」  そう言ってきたのは、前を歩いていたさっきの女の人だった。 「志藤美月。花園と同じ、三年よ。あなたたちのことは聞いてる。倉知亜沙美さんに、上村唯さん。よろしくね」  そう言って、柔らかい笑みを浮かべた。 「志藤先輩、ですか」 「花園のことは『花園さん』って呼んでるんでしょ? 同じでいいよ」  ふいに疑問を覚えた。この人は、花園のなんなのだろう。他の人たちとは違う気がする。  そう思っていると、後ろの花園のグループに近づいていく。その中に飛び込むと、花園のことを耳を引っ張ってきた。それまで花園を囲んでいた女の子たちは少しだけ残念そうな顔をするが、これといって不満の様子は見せることはなかった。  どちらかといえば、「しょうがないかな」といった表情。 「ほら、あんたが連れてきたんだから、ちょっとは相手なさいな」  あいたたたたと顔をしかめていた花園だったが、唯と目を合わせると満面な笑顔を広げた。 「やあ、唯ちゃん。今日は来てくれて……」 「本日はよろしくお願いします」  横から割り込んで挨拶を交わしたのは、亜沙美だった。唯を背にして、花園の視線を真っ向から受け止める。一応は、笑顔を保ったまま。  これが、亜沙美の作戦だった。唯が花見に行くというのなら、ついて行こうじゃないか。だが、花園の思惑通りには動かさせやしない。自分が、なるべく接触を阻むのだ。  花園も一瞬だけ驚いた表情を浮かべるが、すぐに笑みに戻る。それは、亜沙美の無言の宣戦布告を受け取った、という証だった。その証拠に、亜沙美にだけわかる程度に、口の片端を挑発的に吊り上げている。 「あれぇ? 人の挨拶をさえぎってくるなんて、そんなにボクのこと思ってくれてたなんて」 「ええ、そうですね。あたしのことを忘れてもらっては困りますから」 「それじゃあ――」  花園の笑みの質が変わった。獲物を狙う獅子の目つき――とは程遠いが、毛糸玉を見つけた子猫の目つき。  ふいに、亜沙美の背筋に冷たいものが走った。 「応えてあげよう!」  花園が両手を広げて飛び掛ってきた。やば――この人、見境ない!  だが――。 「ふがっ」  花園は亜沙美の後方にあった電柱に抱きついてしまった。ごん、という激しい音を立てて『この猫探しています』の写真にキスをした。  亜沙美はその様子を訳のわからない様子で見ていた。突然飛びついてきた花園に、反応はできていなかった。あのままだったら、亜沙美はこのセクハラ皇帝にえらいことをされていただろう。なのに、結果として花園は電柱に抱擁していた。  鼻頭をさすりながら、花園が唇を尖らせた。 「ひどいなぁ、唯ちゃん」  亜沙美は振り返って初めて、自分の腰を支えていた唯を見つけた。彼女がすんでのところで亜沙美の体をスライドさせてくれたのだ。 「公衆の面前であまり破廉恥な行為を行うのは、よろしくないので」  亜沙美から手を離し、唯は静かに告げてくる。つまり、彼女の『正義』に反したのだ。 「ふぅむ。まあ、いっか」  思案しながら、花園は不敵に笑う。 「まだまだ、お花見はこれからだしねぇ」  ぼそりとつぶやいた一言に、亜沙美は薄ら寒い予感を覚えた。           5  桜は満開だった。  咲き誇る桜の下は他の花見客でひしめき合っていた。  その中の中心に位置する、絶好の花見ポイントに、少女たちの華が咲き乱れていた。白船学園屈指の美少女を集めた『遠城帝国』の面々である。  その中において、亜沙美は失敗したことに気がついた。 「やっぱり皇帝のだし巻き卵は最高ですぅ!」 「このタコさんウインナーもかわいいわよ!」 「ていうか、ご飯もご飯だけでご飯が食べられます!」  あちこちで聞こえる絶賛の声に、涼しげな声で答える皇帝陛下。 「ボクにとって、キミたちが最高のご馳走さ」  爆発。  五、六人がそのまま失神した。  そんなショートコントを横目に、亜沙美は重箱からたくあんを一切れとって、口に運んだ。  絶妙な塩気は、ときとして甘味として口に広がることがある。こりこりとした少し固いくらいの食感と一緒に絶妙なコンビネーションを生み出して舌にからみつき……。  つまり、悔しいくらいおいしい。 「亜沙美ちゃん、どう?」  花園が勝ち誇った笑顔で尋ねてくる。もちろん、普通に見ればただの満面の笑みにしか見えない。しかし亜沙美には、その笑顔が「ていうか、弁当のひとつも作ってこないでよく花見になんて来れたもんだね」というメッセージが込められていることを感じ取っていた。 (くそぅ……)  あまりにも乗り気でなかったために、完全に失念していた。お弁当の存在に。  花園に料理を振舞う気は毛頭ないが、花園の料理が唯の口に入るのは悔しかった。自分で持ってきていれば、自分のものを勧めるという形で、妨害することができたのに。  唯はといえば、となりで花園の昆布巻きに箸をつけている。  嬉々として、花園が尋ねる。 「唯ちゃんはどう?」 「……少し塩気が多いかと。しかし、保存食であることを考えれば、妥当なところかもしれません」 「うーん。おいしいかどうか、で答えてほしいなあ」  唯は箸を止めて、亜沙美ごしに花園のほうを見上げた。 「申し訳ありません。私には、わからないので」  うなだれる花園にちょっと溜飲を下げながら、亜沙美は気づいた。好き嫌いがない。それは、おいしいとかまずいとか、そういうこともわからないということだ。  好き嫌いがない、ということは評価ができないということなのかもしれない。しょっぱい、甘いと感じることはできても、しょっぱいものはまずいとか甘いものはおいしいとか自分で評価を決めることができない。  亜沙美は桜の花を見上げる。風に揺られて花びらがいくつか舞い落ちて、そのひとひらが亜沙美のお茶の注がれた紙コップに浮かんだ。  この瞬間を亜沙美は綺麗だと思うが、多分それも唯にはわからないだろう。  花見にきていて、花も団子も味気ない。ならば、唯はなぜここにいるのだろうか。  ふと唯がまっすぐと前を見ているのに気づいた。  その先では、酔っ払ったサラリーマンが野球拳をしていた。片方の男の人は、もう下着姿にまでなっている。亜沙美は手元のお茶に浮かぶ花びらと見比べてため息をつくが、唯はそれをじっと見つめていた。 「……上村さん?」  一応は公衆であるこんな場所で裸同然になるなんて、唯は許せないはずだ。だが――。 「いえ……」  釈然としないように、首を振った。  なんかおかしい。そう思いかけた亜沙美だったが、 「なになに? 亜沙美ちゃんもやてみたいのぉ?」  花園が肩に手を回しながら言ってくる。なぜか顔を少しほてらせて。 「って、お酒飲んでるんですか!」  唯がぴくっ、と反応するが、花園は首を振る。と思わせて、それは亜沙美への頬擦りだった。 「ただのコーラだよーん。お酒なんか飲んだら、唯ちゃんに叱られちゃう。こらーって」  そう言って一人でけたけた笑い出した。うわぁ、ダメだこの人。コーラで本当に酔っ払ってる。 「というわけで。や・きゅ・う・け・んっ」  と言うが早いか、花園は亜沙美のブラウスのボタンに手をかけた。恐るべき手際のよさで、上から順に外していく。 「って、それ野球拳ちがう!」 「よいでわないかぁ〜」  と、愚帝と化した花園の首に、背後から腕が回された。  唯だった。単に押さえているというよりは、本当に首を締め上げているように見える。花園の表情が、さっきよりも赤くなっていく。 「倉知さん、ちょっといい?」  腕を引かれるをの感じて振り向くと、美月だった。立ち上がった状態でほほ笑んでいる。場所を変えようと言っているのだ。 「けど……」  ぱんぱん、と唯の腕を叩く花園。それでも笑顔を崩していないのは大したものだが、顔は赤を通り越して青くなってきている。声が出ないのか、口だけで何かを言っていた。ごめん、ギブ、ギブ――。  美月はほほ笑みながら答えた。 「ああ。あれは大丈夫。殺しても死なないから」  半ば強引に腕を引っ張られ、亜沙美は席を立ちみんなから離れていく。  最後に、がくっとうなだれた花園の姿が見えた気がした。           6  つれてこられたのは、花見の公園からは少し離れた並木道だ。道の脇からの柵からは街が見下ろせるようになっており、白船市が一望できた。  締めわすれていたブラウスのボタンを慌てて締めながら、ベンチに座った亜沙美は、横に立っていた美月を見上げる。彼女は街のほうを眺めているようだった。 「あの、さっきはありがとうございます」 「まあ、もとをただせばウチの人が原因なんだから、謝らないといけないのはこっちだけど」 「はぁ……」  美月は亜沙美の顔を見て苦笑した。 「なんか、わけがわからない、って顔に書いてある」 「そりゃそうですよ」 「花園さんはあたしのほうにちょっかいを出してくるし。そのたびに上村さんが止めてくれるからいいんですけど。そもそも、あたしを呼ばなければよかったんじゃないかなって」 「鋭いけど、惜しいわね」 「え?」  美月は意味深な笑みを浮かべていた。 「上村さんをどうやって誘ったか、知ってる?」 「い、いえ」 「倉知さんも来る。そう言ったの」  亜沙美は驚いた。それは、亜沙美が誘われた文句をそのまま逆にしたものだ。 「最初は、もちろん……って言ったら悪いかしら? 上村さんは『どうぞ好きになさってください』って、そっけなかった。けど、花園が言ったの。『あーあ。一緒に亜沙美ちゃんをあぁんなことこぉんなこと、させようと思ったのに』」  そんなことを言ったのかあの人は。  それならば、唯は来るしかない。亜沙美の身を案じるということでなく、目前で行われそうな「悪事」を防ぐために。  そして、結局亜沙美は花園の思惑通り動いてしまったことになる。唯のためについてきたつもりだったが、そもそも亜沙美が行かなければ、その時点で唯は花見に行かなくてよくなったのだ。  だけど、それは根本的に間違っている。 「……でも、それじゃ」 「そう。上村さんを手に入れる、という花園の計画は失敗よ。上村さんは人を嫌うことはないだろうけど、それでも悪いことは許せない人だから」 「じゃあ、何のために花園さんはそんなことを?」  美月はそこで、意味深な笑みを浮かべた。 「もしかして、『帝国』が花園のためだけのものだと、本気で思ってる?」 「え?」 「あの人にとって、帝国は手段にしか過ぎない。本当の夢は――すべての女の子がしあわせになること」 「すべてって……」 「笑っちゃうでしょ。でも、本気なのよ。だから、放っておけない。あなたや、上村さんみたいな人が」  美月が写真を差し出してきた。  学生の男女を、後ろから撮影したものらしい。男の人の腕に、髪の長い女の子が飛びついていた。彼女の満面の笑顔を見ていると、こちらまでにやけてしまいそうになる。男の人は後ろ姿だけしかわからないが、この人のことが大好きなんだな、というのがわかりすぎるほどわかった。  小柄な彼女の体を見て、亜沙美はそれに気が付いた。 「この子……上村さん?」 「そう。三年前、中学一年生になった上村さんが、お兄さんに抱きついている瞬間。花園が撮った写真なんだけどね」  驚いた。髪の長さとか、笑顔とか、そんなレベルじゃない。雰囲気からして、まったくの別人である。亜沙美が唯だと言ったのも、半分はあてずっぽうみたいなものだった。 「三年前に何があったかは、結局わからなかった。事故みたいなものらしいけど。ただ、事実として上村さんは今でもカウンセリングを受けてる」  カウンセリング。テレビとかでしか聞いたことがなかった、自分とは係わり合いのないと思っていた言葉だった。 「人を癒せるのは、結局人なのよ。だから、花園は上村さんを助けようとした。あなたを使ってね」 「で、でもそれじゃ……」 「花園があなたたち二人を呼んだのは……自分があなたたちに嫌われるように振舞ったのも、全部、あなたたちを引き合わせるためにしたこと」  信じられない。だが、それならすべて筋が通る気がする。花園が一人悪役になれば、亜沙美と唯の距離が近づくのはたしかだ。現に、亜沙美は唯を守ろうとやっきになったし、唯にも花園から守られていた気がする。 「あの人、言ってなかった? 自分は手段は選ばないって」  亜沙美は、美月を見上げる。  彼女は寂しそうな笑顔を浮かべていた。 「本当はね、こんなこと言っちゃいけなかったの。だって、本当はあの人がいい人だなんてわかったら、この計画は成り立たないから」 「美月さん――」 「でも、それじゃ私が嫌なの」  わかった気がした。なぜ、他の子が美月に対して遠慮した素振りを見せていたのか。  亜沙美にとって唯がそうであるように。この人にとって、花園は特別な意味を持っているのだ。 「あの人を……花園を、嫌ってほしくないから」  そう言い残して、美月は公園のほうに戻っていった。  しばらく考えたあと、亜沙美はみんなのところに戻ることにした。  花園に本当のことを尋ねてみる。それが、いちばん確実なことだと思ったからだ。 「よし」  ベンチから立ち上がった瞬間――。 「あれぇ? 亜沙美じゃん」  聞き覚えがある――いや、耳にこびりついていた声。  振り返ると、にやにやと笑っているユカリの姿があった。その後ろにも、見覚えのない男ばかりが三人。派手な格好で、どこか危ない感じもする。 「奇遇だねぇ。花見? ってことは、こないだのヤツも来てるんだよな?」  ユカリの不気味な笑みを見ながら思う。この人たち、知ってるんだ。 「探したンだぜぇ? オマエ、ケータイの電源入れてねーから連絡つかねーしよォ」  ぐっと、髪を掴まれた。そのまま揺さぶられて、はね付けられる。地面に崩れ落ちた。  ユカリは亜沙美を見下ろしながら、指にからみついた髪を払い落とす。もう、笑みの下の憎悪を隠そうともしていなかった。 「ま、オマエは許してやるよ。そのかわり、あの女連れてこいな? この先の倉庫の裏で、待ってっからよ。バックレんじゃねぇぞ?」  逃げようなんて、恐ろしくてできなかった。当然ながら、亜沙美の住所は知られている。この街から出て行かない限り、逃げ切れるわけない。捕まって、相応の罰が与えられる。  気が付いたら、亜沙美は一人になっていた。遠くのほうに四人の影が見える。多分、指定した場所に向かったのだろう。 「どうしました?」  びくりとした。  見上げると、そこには唯が立っていた。 「ど、どど」  どうしてここに? という言葉が出てこない。 「帰りが遅いので、探しにきました。大丈夫ですか?」  見られただろうか。いや、それはない。唯が知っているのなら、まだ見えているあの四人に向かって走っていくだろう。 「だ、大丈夫。ちょっと転んだだけだから」 「……誰か呼んできましょうか?」 「いい! 本当に、大丈夫だから――」  慌てて否定する亜沙美を、唯はいぶかしげに見下ろすが、「そうですか」と納得してくれた。 「それでは、行きましょう。みんなが心配しています」  みんな。  そうだ。  唯だけを連れて行くなんてことはできない。  でも、みんながいてくれれば――。 「……待って」  亜沙美は、唯を呼び止める。 「ちょっと、みんなに伝えてほしいことが、あるんだ」           7 「どういうことだよ」  ユカリが不機嫌そうに言う。  人気がない倉庫の後ろにいたのは、五人。さっきの四人に加えて、もう一人頭を青く染めた男が混ざっていた。その様子から、唯に対してどうしてようとしていたか、簡単に想像できた。  だからこそ、亜沙美は自分の行動が正解だった、と思う。 「どうもこうも、ないよ」  亜沙美は手を握り締め、震えるのを止める。言わなければいけない。  今はもう、誰も助けてくれないのだから。 「ここには、誰もこない。あたしはもう帰るって言ってきたから」  唯には、用事を思い出したから帰ると、みなに伝言しておいてもらった。  それで、問題ない。あの人たちを巻き込むこともなくなる。 「もう、あたしたちに関わるのはやめてほしいんだ。あたしにも、あの子にも。これっきりに――」 「オマエ、何いってんのかわかってんの?」  ユカリの低い声に、亜沙美の体は縮こまる。 「ごめん。でも、あたしはなんでもするから」 「フザケん――」 「まあ、いいんじゃないの?」  言ったのは、ユカリの後ろにいた青い髪の男だった。 「だけどよ、タキ……」 「いいじゃん。なんでもする、って言ってんだから」  亜沙美は、その目をきっと一生忘れないだろう。  カタチだけは笑って細めているが、瞳は茶色くよどんでいる。白目の部分は充血していて、獲物の腹を食い破るときのライオンの目に似ていた。  男たちが前に出てくる。亜沙美は動けない。だが、悲鳴だけはあげないことは誓っていた。気持ちだけは絶対に屈しない。 「しかし、バカだよなァ。わざわざ自分が身代わりになるなんてよ」 「……バカじゃない」 「はぁ?」  亜沙美は、にらみつける。 「バカじゃない! 友達のために体張るのの、なにがバカなんだ!」  そのとき。 「バカでは、ありません」  凛とした声が、場を支配した。 「他の人に気持ちをつくす行為を侮蔑することは、もっとも許せないことですから」  亜沙美は信じられないものを見た。  唯だ。 「な、なんで……」 「た、タキ! こいつだ、こいつ!」  ユカリが叫ぶのを聞いて、タキが笑った。 「ふーん。ちっちゃいねえ。まあ、そういうのもキラいじゃないけど」  そう言いながら、亜沙美を通り過ぎて唯のほうに向かう。 「どちら様かは存じませんが――」  唯の言葉がさえぎられる。タキが唯の顔めがけて、いきなり拳を振り下ろしたのだ。 「上村さん!」  唯は顔をそらして、避けていた。 「危ないです」 「へぇ。今の、避けれんのか」  そう言って、タキは構えたままフットワークをはじめる。ボクシングのスタイルのようだ。 「事情はよくはわかりませんけど、倉知さんは返してもらいます」  唯も、自然体から、少し腕を広げる形を取った。  男たちのほうから声があがった。 「タキ、手加減してやんねーのかよ?」 「ばーか。俺は男女サベツ反対派なの」  タキは軽い調子で応える。  そして、一歩踏み出そうとしたとき。 「やめて!」  亜沙美が、叫んだ。 「上村さんは、もう関係ないでしょ?」 「お前、なに言って……」  ユカリが言いかけるが、言葉を止める。タキが、ちらりと振り向いていた。 「たしかにそういう約束だったケド。この子はアンタを取り戻したがってるみたいだぜ?」  タキが軽薄な笑みを浮かべて、構えたままの唯のほうを指した。 「上村さんも、いいの。今回は、あたしが望んだことだから。上村さんが気にすることじゃない」  唯は、考えるようにうつむく。  そして、口を開いた。 「倉知さんが自分でその人たちについていくのなら、私は止めません」  唯は顔を上げた。 「けど、放ってはおけない。これは、私のエゴですが、私は倉知さんに傷ついてほしくない。望んで傷つこうとするのなら、止めるのは、おかしいですけど……でも、私は止めたいんです」 「上村さん……」 「まだ、受け取った気持ちを返せていないんです」  唯はそう言って、タキのほうに向き直った。 「というわけで。やはり、返してもらうことにします」 「はっ。どっちでもいいけどなっ」  タキが一歩踏み込む。  左の拳を唯の顔に打ち込んだ。  それを唯は避け、そのままタキの懐に飛び込もうとした。  だが――。 「上村さん!」  ピンポイントで、タキの右拳が唯の顔面を捉える。  唯は後ろに吹き飛ばされる。 「ちっ」  タキが小さく舌打ちした。  吹き飛ばされた唯は、きれいに受身を取って起き上がる。左手をぱっぱと払って再び構える。  打たれた瞬間、とっさに左手で顔をかばったのだ。だが、勢いは殺せ切れなかったのか、つっと左の鼻から鼻血が垂れた。  それを左手の甲でぬぐう。 「大体、わかりました」  そうつぶやいて、唯は自分からタキに向かった。 「ンのッ」  タキも迎え撃つ。さっきと同じく、左拳を打ち出した。  それを、唯は紙一重で避ける。  すぐさま続く、二発目の右。それを唯は外側に反転して、避けた。右手を打ち出したタキと背中合わせの形になる。  さらに唯は反転。と、同時に、タキの体が大きくのけぞる。  タキの右手を、唯が掴んでいた。そのまま腕を戻す勢いを借りて、投げ飛ばした。 「がっ」  ぴきっ、という筋の切れる音がはっきり聞こえた。タキは地面に転がり、右腕を押さえたまま起き上がれずにいた。 「このっ」  他の男たちが唯に向かっていこうとする。  だが、唯の目を見て、二歩目が踏み出せずにいる。 「あっ」  ずっと無表情だった唯が、眉間にしわを寄せ、怒っていた。 「さてさて唯さん、そんなところでよいでしょう」  場違いに明るい声。  倉庫の影から現れたのは、花園たちだった。 「あれま。本当に大変なことになってた。やっぱり、唯ちゃんの言ったとおりだったね」 「え?」  亜沙美は花園と唯の顔を見比べる。 「唯ちゃんが、亜沙美ちゃんの様子がおかしいからって、キミと別れたあとに探しに行ったんだ。ボクも半信半疑だったんだけどね。どうやら、本当だったみたい」  唯は亜沙美からは目をそらして、うつむいている。  もしかして、照れてるのだろうか。 「さて、と」  花園は残ったユカリたちのほうを向く。 「キミたち、さっさと逃げたほうがよくない?」 「な、なにが――」 「うーん。引き際はわきまえたほうが賢いと思うんだけどね。ほら。見てごらん。キミらのリーダーはやられちゃって、さらにこれだけの人数に包囲されてる」  花園の後ろからは、花見にきていた二十数人がぞろぞろと現れていた。小さな倉庫の裏だけでは入れないのか、まだ外から声がする。 「それとも」  ユカリたちの顔が、一気に引きつった。亜沙美からは花園の表情は見えないが、その声だけがいやにはっきりと聞こえた。 「――桜の下に埋めてほしいの?」           8 「ごめんね、送ってもらっちゃって」 「いえ」  少し傾いた日の下で、亜沙美と唯は住宅地を歩いていた。  お花見は解散ということになった。そして、花園のはからいで亜沙美は唯に家まで送られることになったのだ。  唯の怪我も大したことはなかった。鼻血はもう止まったし、右の頬をちょっと切っていたが、それも美月にもらったバンドエイドを張っただけで大丈夫な程度だ。  なにを話せばいいか亜沙美が迷っていると、唯のほうから口を開いた。 「私を助けてくれたんですよね?」 「え?」  亜沙美は聞き間違えたのかと思った。唯が亜沙美を助けたというのならともかく、唯が助けられた、というのはおかしい。 「最初、私をかばってくれました」 「あ、ああ……」  たしかに、唯を呼び出すように言われていたが、そうしなかったことはかばったと言えるかもしれない。 「どうして私を助けたりしたんですか?」 「どうしてって……」  よくわからなかった。あのまま唯を差し出す、という選択肢は考えるまでもなくなかったからだ。  唯が、ためらったような口調で言った。 「……好きだから、ですか?」  亜沙美は、少し考えてからうなずく。好きなことが理由になるのなら、それがいちばん近いと思った。 「なぜ、好きなんですか?」 「なぜって……わからないよ」 「わからない?」  最初に助けられたから。カッコいいから。放っておけないから。  それらは、キッカケでしかない。 「多分、好きになるのに理由なんていらないんだと思う」 「そうですか。……私は、理由があるものでしか判断できない」 「上村さん……」 「だから、わからないんです。好きという気持ちに、どう応えていいか。気持ちには気持ちでしか応えることはできない。でも、私には誰かに気持ちを向けることなんてできないんです。あなたにも、花園さんにも、兄にも――みんな、私を好いてくれているのに」  うつむいたまま、唯は続けた。 「例えば、倉知さんが死んでしまったとしても、私は悲しくとも何ともないんです。こんなに、私のことを好きでいてくれるのに――私は何も想い返すことができない」  亜沙美は、何かがわかった気がした。  この上村唯という少女は、ヒーローなんかじゃない。  最初に言っていたじゃないか。壊れているんだ、と。そのとおりだ。こんなに小さくて、ヒビだらけで、今にも砕けそうじゃないか。 「いいんじゃないかな」  亜沙美の一言に、唯は顔を上げた。 「だって、さっきあたしを取り戻しにきてくれたでしょ。あのときは、うれしかった」 「でもあれは、私のために傷ついてしまうあなたが見過ごせなかっただけで……」  亜沙美は、声をあげて小さく笑った。 「わざと自分に都合が悪くなるように解釈しなくてもいいのに。いいんだよ、それで。ちょっと人とは違うかもしれないけど、それが上村さんなりの優しさなんだと思う」 「優しさ?」 「律儀に受けた気持ちは返そうとするし。そういうの、あたしは優しさだと思う。それが、上村さんなりの気持ちの渡しかたなんだよ」  亜沙美は、後ろを振り返る。 「そして、あれがあの人たちの気持ちの渡しかた」  慌てて木陰に身を隠す花園の姿が見えた。まあ、あの人は半分が出歯亀根性なのかもしれないけど。  唯を見る。目を見開いたまま、ぼんやりと亜沙美を見上げていた。 「だから――あたしたちは、友達なんだ」  亜沙美は唯の手を取り、ぐっと握り締める。  柔らかい手のひら。それが、亜沙美の手を握り返した。                  了