ノンストップほのかさん            京路  滝の前に少年が立っていた。  そう大きくない滝である。二メートルと半分くらいの落差から、絶え間なく水が流れ落ちている。  飛びかかる無数の水滴を意に介さず、少年は目を閉じ、静かに呼吸をしている。ゆっくりと吸い、さらにゆっくりと、三と七のリズムで繰り返す。  目を開いた。  滝の表面が鏡面になって少年の姿を映し出す。左半身にし、緩やかに拳を構えている。むきだしの上半身には、無駄のない筋肉が一着の武装のようについている。  筋肉の鎧、という表現があるが、彼の場合は刀。一撃のもとに敵の首を落とす、一本の研ぎ澄まされた日本刀だった。  右拳が滝を貫く。  ――ぽしゅん  雫が落ちる音を強くしただけのような、物足りないほどの音しか生まれない。すぐに水の轟音に飲み込まれてしまった。  連続して、左右と突きを繰り出す。拳が見えないほどの速さで、水面に打ち込んでいる。だが、音はわずかで、飛沫も生まれていない。まるで滝の幻に向かって拳を打ち出しているかのような光景だった。  打ち出した拳が、絶妙に正面だけに向かっているので、エネルギーが他に分散しないのだ。  右のハイキックを鏡面の像の側頭部に叩きこんだ。水のカーテンが横一線に切り取られ、滝の裏の苔むした岩肌が見えた。が、それも一瞬のことで、すぐに水が覆い被さってしまう。 「かーがーみー!」  少年は動きを止め、振りかえった。水際の岩場で、黒いセーラー服を着た少女が手を振っていた。 「そろそろ時間よー」  少年は小さく頷き、もう一度滝に向かい合う。ゆっくりと息を吸い、すくいあげる形で右掌底を打ちこんだ。  爆音に、水が震える。  滝の音には慣れたはずの鳥も、潜んでいた竹林から飛び立ってしまった。 音の余韻の中、舞いあがった水が雨になって降り注ぐ。  慌てて、少女がタオルで頭を隠す。 「もう、鏡美(かがみ)ったら。子供みたい」  苦笑しながら、少女は戻ってきた少年――鏡美の頭をタオルでごしごしとやった。 「……痛い」 「姉さんを驚かせた罰よ」  指で意地悪くこすりつけながらも、後頭部から前髪まで、まんべんなくふき取っている。「うっ」とか鏡美はうめくが、やっているほうは鼻歌混じりに笑っている。  やがて、指先に込めていた力を抜き、手の平でなでるように拭き始めた。 「はい。できた。さあ、体も拭いて、さっさと着替える」  岩の上には、鏡美の着替えが用意してあった。しわひとつなく折りたたまれた、星垂学園の制服だ。靴も靴下も、真新しい。下着まで用意してくれている。  鏡美は濡れた紐を解き、道着のズボンを脱いだ。  本来、道着の下には下着はつけない。 「きゃー」  少女が嬉しそうな声を出しながら、目を手で覆うふりをする。指の間はしっかり開いていた。 「もぅ、鏡美も姉さんが知らない間にせーちょーしてるのねぇ」  もじもじする姉を意に介する様子もなく、鏡美は体を拭き終え、着衣をまとった。  ワイシャツのボタンを締めた辺りで、ようやく少女が顔を覆っていた手を下ろした。赤くなった頬を膨らませている。 「ちょっと。リアクションしてくれないと、姉さんバカみたいじゃないの」  鏡美はわずかに眉を寄せて、見つめ返す。  少女はため息をついて、鏡美の締めたネクタイを直した。 「姉さん、心配だわ。そんなので高校でやっていけるか」  ネクタイをキュッと締め、襟も裏返っていたので戻してあげる。 「今まではほのかさまが一緒だったからよかったけど。今日からひとりでしょう? ああ、ほのかさまの学校が女子高じゃなければ、あなたも行けたのにね。鏡美って、名前は女の子みたいなのに」  そう言ってブレザーを取ってあげた。  藍色のブレザーにワインレッドのネクタイ。制服は筋肉を完璧に隠し、鏡美は普通の高校生の姿になった。  少女はその姿をつま先から頭のてっぺんまで見つめ、にっこりとほほ笑む。 「うん、イイ男よ。さすがは、この羽澄(はすみ)さんの弟だわ」  羽澄は道着とタオルを拾い上げる。きちんとたたみながら、言った。 「それじゃ、わたしはほのかさまを起こしに行くから。鏡美も早く屋敷に戻りなさいね」  羽澄が戻っていく。  滝から屋敷までは、竹林の中に作った道を歩いて十分ほどの距離。  時計を見ると、六時四十分。ほのかさまを羽澄が起こすのは、毎日七時と決まっている。  鏡美は、竹林の茂みの中に入り、そこから籐の箱を拾い上げ、中身を取り出した。  そして、道ではなく竹林の中を走り出す。  鏡美の腕の中にあるもの。それは、星垂学園の女子制服だった。  ほのかは姿見の前に立った。  しかめっ面の、糸目の少女が映っていた。指で、目を広げる。が、すぐにやめしまった。  目が細いのは生まれつきで、どうやっても大きくはならなかった。背や胸は大きくなっても、目だけは閉じてるようにしか見えない大きさを保ったまま。子供の頃は、大人になったら絶対に大きくなると思っていたのに。この際、胸なんか大きくならなくていいから、目が大きくなってほしいのに。胸だと肩凝るし変な目で見られるし嫌なことも多いのに、目が大きければ少なくとも顔立ちはよく見える。目が細いとゴミとか入らなくていいね、なんて不届きなことをいう輩がいるけど、ちゃんと入るの。ごめんなさいね、期待に添えられなくて。  ため息。  かわりに、髪を撫でる。毎晩羽澄に梳いてもらっている髪は、ほつれなどひとつもない。それを自分で撫でるのが、ほのかは好きだった。つまんで、広げてみる。さらさらと、せせらぎすら聞こえそうな滑らかさで背中に落ちていった。  だが、黒髪が落ちた先は、黒い色の化学染料だった。  聖ガブリエル女学院の制服だ。  膝下のスカートの裾からブラウスの袖口まで、一点の混じりもない漆黒の色は清らかなる夜の帳をそのまま織り込んだかのよう。とすれば、黄色いスカーフは月の輝き。セーラーカラーの白いラインはさしずめ、乙女のため息と言ったところか。  だが、ほのかに言わせればたった一言。 「お葬式にうってつけ」  鏡の中の少女は、本当に葬式に向かうかのように、その表情は沈みきっていた。 「おじいさまったら、ご自分の葬儀にこれで出ろってことかしら」  とんでもないことをさらりと言ってのけると、懐から懐中時計を取り出す。  六時五五分。あと五分で羽澄が起こしにくる。時間だけは正確な人だ。たとえ自分が眠っていたとしても、時間には確実に部屋にやってくるからすごい。  窓の外に人影が現れた。  鏡美だ。テラスから、部屋に入ってきた。  呼吸が荒かったが、三度ほど息を吸うと元に戻ってしまった。 「遅いわよ、まったく」 「申し訳ありません」  文句はいうほのかだが、笑っていた。鏡美の手の中のものを奪い取る。 「これね。あらやだ。ちょっと生温かいじゃない」 「申し訳ありません」 「んもう。『お体が冷えないように暖めてきました』と言うくらい機知に富んだ応答がほしいところよ、今のは。ま、いいけれど」 「ありがとうございます」  早速、ほのかは黒づくめの制服に手をかける。スカーフをほどき、脱いだ上着を放り投げ、スカートは蹴り飛ばした。  舞い上がったスカートが、鏡美の顔に当たって落ちる。 「ところで」  下着だけの姿のまま、ほのかはため息をつく。 「頬を赤らめるなり、目のやり場に困るなり、舐めまわすように見つめるなり……とにかく、なにか反応ができないものかしら」  ずっとほのかの様子を見守っていた鏡美は、眉根を寄せて首をかしげる。 「つまらないわね、いつものことだけど」  ほのかはさっさと着替え終わる。姿見を見て、自分の姿をチェックした。藍色のブレザーに白いブラウスに、ワインレッドのネクタイは男子と同じ。下は、膝までしかないチェックのプリーツスカート。涼しげな足元が、いかにも普通の制服っぽい。 「無駄だと思いつつ尋ねるけど……いかがかしら?」  鏡美は、首を傾げるだけ。 「結構。期待通り」  肩をすくめて、ほのかはため息をつく。カバンを手に取り鏡美に渡すと、彼の首に両腕を回した。 「さて。あとはお願いするわ。期待、してるから」  鏡美がうなずくと同時に、部屋のドアからノックする音がした。 「ほのかさま、お目覚めですか?」 「いけない。羽澄よ。急ぎなさい」  鏡美はほのかを抱き上げ、ほのかはテラスに向かう。  外に出る瞬間、ほのかは振り返って、鏡美の体ごしに自分の部屋を見た。  ベッドとクローゼットと姿見しかない。ただ広いだけの部屋。その空間だって、鏡美と羽澄しかいなくては何にもできやしない。  いきなり朝日の下に出て、一瞬だけ目の前が真っ白になる。ほのかは目を閉じて、上を向いた。そこにはどこまでも広がる、青い空だけがあった。  鏡美が強く床を蹴る。  体から、魂が抜け落ちる感触。  自分が空に吸い込まれていくような錯覚があった。衣服が空気にかき乱される音が乱暴に耳朶を打ち、白いテラスの手すりが圧倒的速度で遠ざかっていく。  全身の力がふっと抜けた。そう思った瞬間、骨にまで響く衝撃に、我に返った。  のどが痛い。知らない間に叫んでいたらしい。  着地の衝撃もものともせず、再び鏡美は走り出した。自分がさっきまでいたテラスは、どんどん離れていった。  竹林の中に入って、テラスの姿が見えなくなってから、ほのかは思い出したように息を吸い込み、手足をばたつかせた。 「すごい、すごい! とってもいいわ! ふわーとなったら、ぶわーってなって、最後のぐわん、はあれだけど」  鏡美の首を抱きしめ、とにかく思い浮かんだままをほのかは叫びつくす。鏡美はただうなずきながら、竹の合間を器用に走りぬけていく。 「聞いてる、鏡美? また今度落ちてみましょう。ああ、もう、思い出しただけで震えてきちゃうじゃない!」 「逃げた?」  五メートルはあるかという亀と蛇のタペストリーを背景に、和装の老人が革張りの黒い椅子に座っていた。  机の上には、星垂学園の合格通知があった。羽澄がほのかのベッドの下から発見したものだ。  老人は顔をしかめ、 「馬鹿孫が」  そう吐き捨てた。  だが、すぐに表情を戻した。白い髭の下の口元には、笑みすら覗いていた。  久慈家第三八代目当主久慈時雨。その笑みには、年を経ることでしか培えない、確固たる自信がみちあふれていた。  羽澄の目が、わずかに広がる。 「どうした。驚かないのか、という顔だな」 「……いえ」 「今思えば、思い当たるところもあった。進学先に関しては、前々からもめておってな。ところがある日を境に、急に素直になりおった。おかしいとは思っていたが、影で入学手続きをしていたとはな」 「いいのでしょうか、放っておかれて」  時雨は、ゆったりとした手つきで自分のひげを撫でる。 「カチよ、入れ」  音もさせずに、誰かが部屋に入ってきた。  頭を下げないと扉から入れないほどの長身だ。黒いスーツを模した執務服を着てはいるが、その下の屈強な体は隠せきれていない。  羽澄も彼を知っていた。保村勝。羽澄や鏡美の落水家と双璧を成す、久慈家に仕える家柄の者だ。 「ほのかが逃げた。連れ戻せ」 「はっ」 「羽澄もだ。鏡美とともに、ほのかを連れてくるのだ」 「……それが」  羽澄は言葉を詰まらせ、時雨から目線を外してしまう。 「鏡美も、一緒に逃げているようでして」 「なっ」  時雨の目が見開かれた。  拳を握り締める。見てわかるほど、震えさせていた。 「お、落水の者とあろう者が、ほのかの逃亡に加担しているというのか!」  拳を机にたたきつけた。めきり、という音とともに、板が陥没する。  さすがに、これは予想外だったらしい。 「はあ。申し訳ありません」  羽澄は、苦笑いを浮かべて頭をかいた。もう、笑うっきゃない。 「あるいは」  直立のまま動かないでいた勝が、口を開いた。 「鏡美がお嬢さまをさらった、という可能性も」 「むっ。そんなことがあるわけないでしょう。あの子のほのかさまに対する忠義は、他の誰よりも厚いのよ」  羽澄は勝をにらみつける。勝のほうは相手にする気もないのか、視線は主のほうに向けたままだ。 「まあ、よい」  大きく息を吐いて、時雨が言った。 「とにかく、おぬしらで連れ戻してこい。特に羽澄。自分の弟のことだ。わかっておるな」 「……はい」 「ならば、行け」  勝は振り返り、部屋を出ていく。大きな体でありながら、緩慢とした動作が一切感じられない。  羽澄もドアに向かおうとするが、思い出したように時雨に向き直った。 「ひとつ、よろしいでしょうか」 「なんだ」 「ほのかさまは逃げ出しになられるまで思いつめてらっしゃったのに。どうして、他学校への進学を許されなかったのですか」  時雨は、羽澄と視線すらあわせず鼻で笑う。 「質問の意味がわからんな。なぜ、あれの意思をわざわざ聞いてやる必要があるのだ?」 「……左様にございますか」  羽澄は、一礼して時雨の部屋を去る。  ドアを閉めて、一息吐く。  再び歩き始めた羽澄の表情からは、一切の笑みが消えていた。           *  久慈家の屋敷から十分ほど走ったところで、ほのかは声をかけた。 「もういいわ」  鏡美の腕から、地面に降り立つ。ついでに、カバンも自分で持とうとする。主に荷物を渡すかどうか困っている鏡美から、ひったくってしまった。  あたりは大通りに面した商店街だ。ほのかや鏡美と同じ制服に身を包んだ人たちも、何組か見ることができた。  ほのかは、時計屋さんのショーウィンドウで自分の姿を確認する。 「こうやって登校するのが夢だったのよ」  前からだけでなく、後ろ姿も確認。カバンを両手で提げたり、振り回してみたり、ちょっとスカートのすそを広げてみたりと、いろんなポーズを確かめてみた。 「あ。考えてみれば、相手があなたでも『幼馴染と一緒に登校する』という王道的なシチュエーション成立じゃなくて? 一応、生まれたときから私に仕えているわけだから」  鏡美は首をかしげるようにして、うなずく。 「もう、ノリが悪いわねえ。いい? 今日は記念すべき私の自らの足で歩く第一日目なのよ。もっと協力なさい」  鏡美は大きくうなずき、尋ねた。 「何をすればよろしいでしょうか」 「そうねえ」  あごに指を当てて、考える。  ぱっと、頭上に豆電球が輝いた。 「楽しそうに笑ってみせなさい」  鏡美は、必死になって笑顔を見せようとする。そもそも、必死になったら笑顔なんて出てこないのだが。案の定、なぜか眉間にしわが寄り、口はへの字になる。 「……冗談よ。そんな器用なこと、あなたに求めちゃいないわ」  思わず、ため息を吐いてしまう。  そんな自分の顔をショーウィンドウ越しに見て、ほのかは慌てて首を振った。 「いけないわ。最初の日なのよ。ため息なんて、とんでもない」  そうよそうよ、とうなずく。 「これからやりたいことは、たくさんあるんだから。屋上でお弁当食べたり、購買パンの争奪戦に参加したり、買い食いしたり、文化祭をやったり、運動会に出たり……ああ、そうそう。トイレ掃除、というのに非常に興味があるわね」  なぜか中学まで、教師たちが結託してほのかにトイレ掃除だけはやらせなかったのだ。  ほのかは、商店街の先にコンビニがあるのを発見した。大きな「7」の看板は、送り迎えの車の窓からも見ているし、雑誌などでも確認しているので間違いない。 「そうね。鏡美。せっかくだから、記念すべき第一回目の『買い食い』を今から行おうかしら」  ほのかは鏡美を引き連れて、コンビニに向かった。駐車場には半分くらい車が埋まっていて、中には学生の数が目立つ。自分と同じ制服の群れに、ほのかはちょっとわくわくしてきた。 「ときに、鏡美」 「はい」 「買い食いとは、具体的に何をするのかしら」  自動ドアの前で立ち止まる。ドアの上には、『新春おにぎり祭り』の横断幕がかかっていた。今はおにぎり祭りが開催されていても、ほのかの心は買い食いひと筋だ。 「コンビニエンスストアで買い食い、というのが学生の登下校時の醍醐味らしいのだけど。コンビニエンスストアでどういった行いをすることが買い食いか、マンガには書いてなかったの」 「コンビニが何かは、ご存知ですか」  ほのかは鼻で笑い飛ばす。胸を張って答える。 「馬鹿にしないでちょうだい。百貨店が小さくなったようなものでしょう」 「……はい」 「もう、はっきりしないわねえ。あなたも知らないんじゃないの?」 「……いえ」  といっても、ほのかは最初から口下手な鏡美の意見になんて期待していないので、ひとりで想像してみることにした。 「食い、という響きがなにかワイルドな感じがして、すごく楽しみだわ。ふふふ、おじいさま、私が買い食いなんてしてると知ったら、どんな顔するかしら」  顔を真っ赤にして、杖を振り上げてくるだろうか。蔵に三日くらい閉じ込められるだろうか。多分、両方された上でもうひとつふたつ、ほのかが思いつかないようなお仕置きが待っている。  だからどうした。 「とにかく、入ればわかるわよね」 「はい」  ほのかは自動ドアをくぐる。すぐに女の子たちの黄色い声が聞こえた。雑誌コーナーで、女子高生三人が、下着みたいな格好をした女性が表紙の雑誌を読んでいた。立ち読み、というやつだ。それも非常に魅力的だが、今は別の目的があることを忘れちゃいけない。 「いらっしゃいませ」  店員が、中華まんをとりながら声をあげた。こちらに目も向けなかった気がするが、店員である以上、そんな失敬なことをするはずがないので気のせいだろう。  ほのかは、腕を組んだまま自動ドアの前のマットの上から動こうとしない。ときおり懐から取り出した扇子を開いたり、口に当てたりしてもてあそぶ。鏡美ももちろん、その斜め後ろに控えたまま動かない。  開きっぱなしのドアから、男子生徒が二人を追いこしていった。ちらりと訝しげな視線でほのかを見てから、飲料水コーナーのほうに消えていく。 「鏡美」 「はい」 「なんで店員がこないのかしら」  店員はふたりいるようだ。最初は他の客の会計で手間取っているのかと思ったが、レジが空いた途端、棚のチェックなんてはじめている。 「……コンビニは、セルフサービスの形式をとっていると思われます」 「セルフサービス? それじゃ、品物を定めたり取ってきたりするのを、自分で行わなければいけないの?」  はい、と浅くうなずく鏡美。 「意外と面倒なのね。なんで他の方々は、そんな形式に満足できるのかしら。店員が持ってくれたほうが楽でしょうに」  カゴを自分でもってわんさと飲み物を入れている中年の女性が見えたが、よく我慢できるものだ。 「まあ、いいわ。それじゃ、中に進んでいいのよね」 「はい」  他の客とすれ違い、商品棚には目もくれず、レジカウンターの店員の正面にほのかは立った。 「もし」  店員がこちらを向く。めがねをかけた、眠たそうな表情の青年だ。もっとぱりっとしなさい、と心の中で毒づきながらも、とりあえず質問する。 「あなた、店員よね」 「あ、はい。なんですか?」  見た目どおり、眠たそうな声で答えてきた。 「買い食いをしたいのだけど」 「買い食い、ですか?」 「そうよ。二度も言わせないで」  店員のはっきりとしない様子に、ほのかは少しいらだってきた。店員は、頭をかきながら店内を見まわしている。 「お弁当やおにぎりはあちらで、パンはそちら、お菓子は向こうになりますが」 「見ればわかるわ。だから、私が所望しているのは買い食いなの」 「そう、言われましても」 「もういいわ。まったく、使えない男だこと」  固まってしまった店員を尻目に、ほのかは店の外に出ていく。鏡美もその後に従った。 「本当、無駄な時間を過ごしたわ。駄目な店ね。次は、もっとましなところに行きましょう」 「……はい」  ほのかはさっさと進もうとするが、ふと思い出して、雑誌コーナーの女子生徒三人をガラス越しに眺めた。髪をまだらに染めて、爪も毒々しく塗って、とうていほのかのセンスとは折り合わなそうな人たちだが――。  なぜか、その笑顔から目が離せなかった。  後ろの鏡美が、首をかしげながらほのかの目線の先をたどろうとする。 「何でもないわ」  短く言って、ほのかは今度こそコンビニから離れていく。その言葉は、自分でも思うほど力がこもっていなかった。   門柱にかけられた『星垂学園入学式』の看板の前で、ほのかは満足そうにうなずいた。 さっきまでの嫌な気分は、看板を見たらとりあえず晴れてくれた。 「いよいよね」  持ちなれないカバンは重いけど、それさえも今はすがすがしい。  ここをくぐれば、たしかに新入生として迎えられるのだ。  校門の先を見てみると、満開の桜が道沿いに並んでいた。舞い落ちる花びらと他の入学生たちの向こうには、白い校舎が建っていた。  ほのかは鏡美を従え、その第一歩を踏み入れる。 「ご入学、おめでとうございます」  『生徒会』という腕章をつけた女子生徒から、冊子をもらう。タイトルは『新入生のために』。どうやら、パンフレットのようなものらしい。 「ありがとう」 「受付は体育館の前に――」  話も聞かずに、ぱらぱらとページをめくる。校長先生の挨拶や教員紹介などを飛ばして、そのページを探り当てた。 「やっぱり、学園生活の基本は部活動よね」  部活動紹介のページである。野球部などメインの部は写真つきで掲載され、あとの部や同好会は名前だけが列挙されていた。名前だけといっても、ページの半分を占めるほど量がある。 「けっこう種類があるのね。野球部、サッカー部……まあこの辺は基本かしら。剣道部、弓道部、古武術研究会……こういうのは、あなたが得意そうね。ムー大陸浮上推進同好会、平安貴族研究会、文術部……なにをしている団体なのかしら」  ほのかは他のページも見ながら、いちいちコメントをつけていった。 「この卒業生一覧って、何の意味があるのかしら」 「修学旅行は京都だなんて、いまどき手抜きじゃなくって? 歴史を知るというのなら、マヤ遺跡にでも行くようなオリジナリティがほしいわね」 「校則なんてものも載っているのね。校則は理不尽なものが多いと聞くけれど――あ、『男女の交際を行う際は、担任と両親に相談のうえ……』ですって。あはは、おかしいわね。普通は、おじいさまとおばあさまにも相談しなければいけないでしょうに」  足の裏の感触が変わったことに気づいて、ほのかは顔を上げた。 「あら」  足許が、アスファルトから砂利道に変わっている。駐車場を通り過ぎ、校舎の裏のほうまできてしまったようだ。喧騒よりも、鳥のさえずりのほうが大きく聞こえる。振り返ると、新入生たちの流れが反対側に向かっていた。パンフレットの地図を確認すると、桜並木を抜けて右に行くところを、左にきてしまったらしい。 「変なところに出てしまったわね。戻りま――」  ほのかは、言葉を切った。  何かが聞こえる。  足音を忍ばせながら、きた道とは逆、校舎の裏のほうに歩いていく。  銀杏の木がぱらぱらと立っている中に、ニワトリの飼育小屋があった。『生物部所有』と札がかかっている。中からは、こっこっこ、と鳴き声が聞こえていた。  その前に、ほのかと同じ制服を着た少女が座り込んで、なにやらつぶやいていた。 「わ、わだすたち、いぢねんせいは、こ、この伝統あるほたるがぐえんに……」  語調がすべて尻上りなうえに、ところどころで声が裏返っている。ぼそぼそと言っていることもあり、何を言っているか判別するのすら一苦労だった。  少女はがっくりとうなだれる。ため息を吐いて、小屋の中のニワトリに向かって話しかけた。 「あぅ、ダメだぁ。なんでおらが人めぇでこんなもん読まねえどいげねえんだ」  ニワトリたちは無関心に、鳴きながら地面を突ついている。 「やっぱ、おっかぁが言うとおりに来るんじゃながったがなあ」  ほのかは、少女の真後ろに立ち、右手の指先を尖らせて構える。鏡美に向かって、左手でカウントダウンを始めた。3、2、1――。 「こけー」 「ひぅゎ!」  奇声とともに、くちばしの形にした右手で少女の後頭部を突っついた。  少女も変な声を出して、横に転がる。頭を押さえながら、涙目でほのかのほうを見上げた。  頭はくせっけで、四方八方に髪の毛がはねている。短いために結わえることもできないのだろう。ピンで留めているが、無駄な抵抗になっているのは否めない。 「ひうわ、ですって。ひうわ。どんな意味かしら。非常に興味深いわ」  ほのかは拳を上下に振りながら鏡美に向かって、「ひうわ」と繰り返す。  少女のほうも、はじめは呆然とほのかの様子を見守るだけだったが、だんだんと頬を赤くしていった。 「な、なんですかあんたら」  少女のほうに向き直り、ほのかはほほ笑む。 「ほのか。ほのちゃん、って呼んでいいわよ」 「ええ?」 「こっちは鏡美。まっ、別に呼ぶほどのものでもないけれどね」  少女はまたあっけにとられるが、今度はすぐに反論する。 「そういうことでなぐて! いぎなり、突いでくるなんて、どうゆう了見だいっ!」  本当に怒っているらしい。立ちあがり、肩を震わせて怒鳴りつけてくる。  ほのかは呆然とその様子を見下ろす。 少女の頭は、自分の胸までにしか届いていない。のみならず、ぶかぶかの制服の袖が手を隠してしまっていた。 「ち」  思い出したように、ほのかは震える唇で言葉をつむぐ。 「ちんまい!」 「ひぅゎ!」  ほのかは両手で少女の体を抱きしめる。身長差のせいで、ほのかの決して小さくはない胸に顔がうずもれてしまっているが。 「鏡美! この子、ちんまいわ。ああ、もう抱き心地も最高!」  大騒ぎのほのかの胸の中で、手足を――ちょっと、足のほうも浮き上がっていた――ばたつかせる。ほのかを叩いたり、押しのけようとするが、放してくれるどころかますます締め付けてくる。  手足の動きが鈍ってきてしまったころになって、ようやく抜け出せた。真っ赤になっていて、「ぷわ」と大きく息を吐いた。  二、三度息を繰り返してから、ほのかのほうを見上げる。  ほのかは、後ろから鏡美によって手をとられていた。 「なにするのよ」 「姉さんから、ほのかさまが小さいものを見たときは気をつけろと、申し付けられておりましたので」 「羽澄ったら、余計なことを。まあ、いいわ。たしかに今はそれどころじゃないしね」  ほのかは腰に手を当て、少女のほうに向き直った。  思わず、身を構えてしまう。 「さて、常葉さん」 「え!」  大きな声を出して、少女――常葉は目をしばたかせた。 「な、なんでおらの名前を?」 「だって、書いてあるじゃない」  ほのかは手にしたパンフレットの、入学式のプログラム欄を見せた。新入生代表挨拶、代表者藤科常葉、とたしかにある。 「さっき、ニワトリさんに読み聞かせていたのは、本日の挨拶文の内容でしょう?」  ほのかは視線を地面に落とす。飼育小屋の前には、封と、折りたたまれた紙が落ちていた。  常葉はそれを慌てて拾い上げる。 「ずいぶんと、苦労なさっているようね」 「う」  ほのかに言われて、常葉はうなだれてしまう。 「おら……じゃなかった、わたし、あがり症の上に、言葉もえれぇ……とても、訛ってて。こんなんじゃ、笑われて、しまいます」  無理やり訛りを押さえているせいか、言い切るまでにひどく時間がかかった。  ほのかは首をかしげる。 「あら。あなたの言葉遣い、かわいらしいのに」  常葉はほのかの顔を見上げるが、すぐに目をそらした。 「お世辞は、いいです。自分でも、変だって、わかって、ますから」  つっかえながらも、どうにか標準語で話そうとしている。  常葉を見下ろしながら、ほのかは「ふぅん」と息を吐いた。 「なんなら、私が代わってさしあげましょうか?」 「え?」  聞き取れなかった、というように常葉は訊き返す。 「だから、とっきーの代わりに、この私が新入生代表として見事な演説をして差し上げようと申しているのよ」 「そ、そんなわげにゃいがねえ。一応、おらが頼まれたことなんだし、おらがやらねえといげねえ。――ていうか、とっきー?」  慌ててまくし立てる常葉をなだめるように、ほのかは優しくささやく。 「意外と義理堅いのねえ、とっきーったら」  ほのかは静かに常葉の頭をなでおろした。常葉も最初は身をこわばらせたが、ほのかはただ頭をなでつづけるだけだ。常葉の固い髪の一本一本を解きほぐすように、細い指を髪に通して、ゆっくりとすいていく。  目を閉じながら、常葉は思いなおした。この人は、ふざけているようで実は――。 「ほの――」 「鏡美、この子のくせ毛、ぴょこぴょこしておもしろいわ!」 「……」  常葉は言いかけた言葉を飲み込み、ほのかの手を振り払った。  「あら、怒らせちゃったかしら」と悪びれる様子もなく、ほのかはほほ笑む。 「とにかく、おら――じゃない、わたしは、自分でやりますから。第一、代わってもらう、理由がないです」 「理由?」  何を、とばかりにほのかは言った。 「友達が苦しんでいるのを助けるのに、どんな理由が必要だっていうの? 人には適した役割、というのがあります。とっきーは人前で演説することなんかより、愛玩されるほうが適任よ」 「あの、いろいろと突っ込みたいんですが。とりあえず、わたしたちは、いつの間に、友達に」 「友情を培うのに時間は関係ないわ」  言ってることは立派だが、常葉にはうさんくさく思えた。  と、その隙を突いて、ほのかは常葉の手の中から挨拶状を抜き取ってしまう。 「あっ」 「鏡美。とっきーを体育館までお連れして」 「はい」  あっという間に、常葉は鏡美の肩に担がれてしまった。地面の遠さに、抵抗する気も起きないらしい。 「さあて。面白くなるわよー」  挨拶状を手に、ほのかは満面の笑みを浮かべていた。  体育館のホールで、入学式は行われていた。  鏡美の横で、常葉は落ちつかない様子であたりを見まわす。  今は壇上で来賓の挨拶が行われている。次は新入生代表の挨拶だ。本来なら、緊張感でいっぱいのはずの場面だが、今は別の不安感のほうが募っていた。  自分の列の一番左を見やる。  中央の道に面した席には、ほのかが座っていた。何の因果か、一緒のクラスだった。常葉と席を交換して、ほのかは藤科常葉としてあの席に座って、挨拶状の内容を読み返したりしている。  当然、初めて会ったクラスメイトたちは偽者だと知るはずもない。入学式が始まる前に「藤科常葉です、とっきーって呼んでね」なんて勝手に言っていたが、常葉も突っ込むわけにはいかなかった。 「あの、ほのかさんは、本当に大丈夫なんですか?」  小声で、隣に座った鏡美に尋ねる。『久慈ほのか』の前が『落水鏡美』だった。  鏡美は静かにうなずくだけで、何も答えない。常葉は、この人が少し苦手だった。にこりとも笑わずに、ほのか以外の者が話しかけても言葉すら発しない。よく見ると、実はびっくりするほどかっこよかったりするのだが、そのせいもあってか、近寄りがたいオーラがある。 「ほのかさんって、何者なんですか?」  眉根を寄せて、少しだけ困った顔をする。この顔には、ちょっとだけ好感が持てた。  もうちょっと質問したくなる。 「いちたすいちは?」 「たんぼのた」  初めて、鏡美が自分に向かって声を発した。それも意外だったが、答えのほうもまったく意図が読めない。自分でも馬鹿なことを訊いたものだと思ったが。  1+1= 田  吹き出した。 「鏡美さん、そりゃねえべ」 「ほのかさまに、訊かれた場合はそう言えと」  鏡美はちょっとうつむきながら、頭をかく。見方によれば、照れているようにも見える。  なんだかそれがおかしくて、常葉はしばらく、一人で笑いつづけた。 「こら、君。式の最中だぞ」  教師に叱られた。  しゅんとしながら、ほのかのほうを見ると、目が合った。  眉間にしわを寄せながら、口を動かしている。 (とっきーのわんこぉ)  特に読唇術の心得はなかったが、なぜかそう言っているとわかった。ここにいるのは『久慈ほのか』であり、『久慈ほのか』として叱られたことに対する抗議なのだろうけど。 (わんこっちゃ、なにさ)  常葉は、苦笑するしかなかった。 「代表者挨拶。新入生代表、藤科常葉」 「は――」  とっさに返事しかける。自分が返事する場所ではない、と気づいたのは、鏡美の手で口をふさがれたあとだ。 「はい」  代わりにほのかが答え、立ちあがる。  余裕だろうか、笑みをたたえてゆっくりと歩いていく。  目が離せなかった。  何をしでかすか、という意味ではない。単純に、歩き方の一歩一歩が見ていて飽きない。髪の毛一本の先にまで、注目してしまう。清流を流れる木の葉のように、時にはゆるやかに、時には激しく――序破急という舞踊の流れが、一挙動のなかに存在している。  壇上の階の下について、来賓に礼。教員に礼。みな、常葉と同じように呑まれていたのか、慌てて礼を送り返す。  最後に、生徒たちに向かう。段取りにはなかった動きだ。ふわりと浮かんだ長い髪とスカートが戻るまでの時間だけで、生徒たちを見まわす。  ほのかは、笑っていた気がした。  それを確認する間もなく、壇上に上がっていってしまう。  マイク越しに、校長と向かい合った。  校長――。 「あっ」  常葉は重要なことを思い出した。  羽澄の言うとおりだったわ。  自分に注目する生徒たちを見まわしたとき、ほのかはそう確信した。  あれは、「正しい令嬢たれ」という祖父の教えにうんざりしていたときのことだ。 『羽澄の信条に、芸は身を助ける、という言葉がございます。身につけた芸や技術は、いつか役に立つときがくるということです』  あれだけ嫌だった「社交界で注目される歩き方」も、こんな場所で役に立つとは。それじゃ、羽澄に仕込まれた七色の変化球の投げ方もいつか役に立つ局面に立ち合うことになるのかしら。  とにかく、今は立派に挨拶をこなすことが肝要だ。  壇上に上り校長の顔を見る。多分、三秒後には「頭の涼しげな方」という印象しか残らないだろう顔つきだが。  なぜか、不審な顔つきになっている。 「君は、誰だ?」  挨拶状を開こうとしたほのかは、固まる。 「リハーサルのときの子とは違うじゃないか」  一瞬の間。  リハーサル。そんなもの、ほのかは知らない。  ようやく、常葉はすでに挨拶のリハーサルをやっていたらしいことに気がついた。 (聞いてないわよとっきー)  校長が、ほかの教師たちにたずねようとしてか、動こうとする。  ほのかはとにかくそれを止めようと、何かをしようとする。なにを? 手には、挨拶状。紙だ。  ほのかの中に、神が舞いおりた。 「ていっ」  気合一発、ほのかは挨拶状をまっぷたつに引き裂いた。  マイクで拡張された音が、会場中に響きわたる。  校長が、あ然とした表情でほのかのほうを見つめている。それはそうだ。三秒前にはほのか自身、予想すらしていない行動なんだから。  ちぎった挨拶状を頭上に投げ捨て、手製の紙ふぶきの中、マイクを手にとり会場に振り返る。 「みなさま、ごきげんうるわしゅうございますわ」  開口一番、拳を振り上げて、生徒たちに呼びかけた。  生徒たちは目を丸くするばかりで、あっけにとられている。 「おまえ、どういうつもりだ!」  代わりに反応したのは、教師陣のほうだった。男性教師が壇上に上ってくる。 「どうもこうも。こんな形式ばったつまらない文章、読むに値しませんもの」  遠くで常葉ががっくりしているのが見える。心の片隅で一瞬だけ謝った。 「そもそも、おまえ藤科常葉じゃないだろう!」 「あら、ばれてしまったのね。なら、仕方ないわ」  だん、とかかとを踏み鳴らし、左手を広げる。ちょっと、楽しくなってきた。 「私の名は久慈ほのか。私が入学しかからには、あなたがたにはめくるめくバラ色の学園生活を約束しますわ」  ここで、歓声――はこなかった。ざわめくだけだ。  ほのかは頬を膨らませて、マイクを扇子で叩く。 「もう、ノリが悪いわねぇ。こういう場合、わーっと歓声をあげたりするものじゃなくて? ほら、そこの貧相な男子。ここで『ほのかちゃーん』と叫ぶかどうかで今後のあなたの人生が大きく左右されますのよ?」  一番前の男子が扇子で差されて、目を白黒させた。 「おい、いいかげんにしろ」  壇上にやってきた男子教師が、ほのかからマイクを奪おうとする。 「なによ、華麗なるほのかさんの大演説はまだまだこれからよ」 「うるさい! おまえみたいな生意気なやつには、教師として愛の生活的指導をだな――」  言葉は、そこで途切れた。  教師は床につぶされたまま、動かなくなった。 「汚い手でほのかさまに触らないでよね」  彼をつぶしたのは、星垂学園のものでない、黒いセーラー服を着た少女だった。教師の背中から飛び降り、スカートのほこりを払う。 「羽澄。なんでここに?」  いきなり壇上に降り立った羽澄は、腕を組んでほのかをにらんだ。 「それはこちらの台詞です、ほのかさま。脱走なんかして」  ほのかは一歩後ずさる。表情をこわばらせて。 「連れ戻しにきたの?」 「時雨さまはたいそうお怒りでした。ですが、今ならまだ許してくれると思います」  ほのかは鼻で笑い返す。 「この程度で許しを請うくらいなら、はじめからやったりしないわ」  そうよ、と口の中でつぶやき、羽澄のほうに一歩詰め寄った。 「もう、御免なのよ。二言目には家のため、久慈のため。私は、私よ。誰の言いなりにもならない、私の進む道は私が決めるの。止めるというのなら、たとえ羽澄でも容赦はしないわ!」  羽澄は、ため息をつく。  そして安堵したかのように、笑みを浮かべた。 「羽澄は、ほのかさまと争いとうございません」  ほのかは口を開いたまま、次の言葉を一瞬出し損ねる。 「――あなた、おじいさまに私を連れ帰るよう命じられたんじゃないの?」 「命じられましたとも。しかし、羽澄の主はほのかさまのほかにありませんので」  がた、と椅子を引く音が、生徒たちの中から聞こえた。  前から三番目の列の一番中央の席で、女子生徒が立ちあがっていた。肩を震わせながら、羽澄を指差す。 「羽澄、裏切るの!」 「裏切る? ご冗談を。羽澄は、はじめからほのかさまだけの味方です」  ちっ、と女子生徒が舌打ちをするのが聞こえた。羽澄に向けていた指を頭上に上げて、ぱちんと鳴らす。  白い煙幕が、八方から吹き出した。  視界が真っ白になる直前、ほのかの脳裏に最後の台詞が思い浮かんだ。 「CMのあともまだまだ続きますわよ!」  もう意味がわからなかった。 「え、ええ?」  会場の一角で、常葉は目を白黒させる。  ショートコンとだかヒーローショーだか、よくわからない即興劇のあと、どこからか煙が吹き出した。視界は真っ白になり、一メートル先すらろくに見えなくなった。  いきなりの事態でも、意外と周りは冷静だった。さっきの茶番劇に対する見解を話し合う声や、ときどき「ほのかちゃーん!」と叫ぶ声が聞こえる程度だ。教師たちだけが「落ち着きなさい!」とヒステリックに叫んでいるが、あんたが落ち着け。  常葉は混乱する。どこまでがほのかの仕組んだことなのだろうか。多分、常葉が三日も考えた挨拶状を破り捨てたあとは、全部状況に流された結果なんじゃないか、と思うのだが。 「鏡美さん、これは――」  隣に救いを求めるが、誰もいなくなっていた。  左右を見まわすが、同じようにきょろきょろする人たちがいるだけで、鏡美の姿は見えない。  そうこうしているうちに、煙が晴れてきた。 「ほのかさん」  まだかすんでいるが、壇上には呆然とする校長の姿しかなかった。 「おい、君。席に戻りたまえ!」  教師の声。右のほうを見ると、中年の教師が出口に向かおうとした男子生徒を呼びとめたところだった。  大きい。教師が見上げるところからすると、男子生徒は二メートル近くあるのではないだろうか。 「なにをぼさっとしている。さっさと席に――」  唐突に、教師の台詞が途切れた。  特に生徒が何をしたというわけでもない。ただ、目を出口から、教師のほうに向けただけだ。 「トイレだ」  低い声が、常葉の耳に、いや骨にまで届く。  次に、震えがきた。椅子が音を立てるほどの、身震い。  生徒は出口に向かっていってしまう。教師はもう彼を止めない。それどころか、へなへなとその場に崩れてしまっていた。  なにか、とんでもないことになっている。  常葉は、自分の手を見つめた。まだ震えている。  ほのかは自分の代わりに、代表者挨拶をしてくれた。もしかしたら単に彼女がやりたかっただけかもしれないが、結果として常葉が得をしたのは確かだ。  このままもらいっぱなしなのは、よくない。  それに、なによりも……。 (友情を培うのに時間は関係ないわ)  ほのかの言葉を思い出し、常葉は震える手を握り締めた。  席を立つ。 「お、おらもトイレ」  腰を抜かしたままの教師に一言告げて、常葉は会場を走り去った。           *  体育館の裏の塀を乗り越えたところを、三人組が走っていた。格好は星垂学園の男子制服だが、首には赤外線ゴーグルが提げられている。  人一人が入りそうな袋を担ぎ、路地裏を急いでいた。 「案外うまくいくもんだね」 「これで、大旦那さまに誉めてもらえるじゃん」 「昇格できるかもな」  口々に作戦の成功をたたえ合う。  もぞもぞと、袋の中身が動いた。 「ああ、お嬢さま、もうしばらく我慢してくださいね」 「でも、このままってのも、まずいじゃん?」 「猿ぐつわくらい外してあげたほうがいいよな?」  三人はいったん立ち止まり、袋を下ろす。 「あ」  一人が手を滑らし、袋の一端を落としてしまった。  三十センチの高さから、アスファルトにしたたか打ち付けられる。  ごす、といういい感じにリアルな音がした。  全員の動きが止まった。袋の動きも。 「これ、頭ってどっちだっけ?」 「えっと、ジッパーがついてるほうだから――こっちじゃん?」 「落としたほうだ……」  再び、場が凍りつく。やっぱり袋も動かない。 「と、とりあえず中身を確認してみようか」 「謝れば許してくれるじゃん?」 「せめて、治る範囲のお仕置きで済ませてほしい……」  おそるおそる、ジッパーを引き下ろした。  中を、開く。 「な」 「げ」 「…………ほっ」  袋の中で白目を剥いていた者。  それは、ウィッグを被せられ女子制服を着せられた――ほのかに教育的指導をしようとした――教師だった。 「まったく、おじいさまも無茶なさいますわ」 「ほのかさまだって、負けていないと思いますが」  ほのかは羽澄を従えて、校舎の二階を歩いていた。  煙幕の中をどうにか逃げ延び、そのままあてもなく進んでいる。 「それで、これからどうするの?」 「とりあえず、ほとぼりが冷めるまで姿を隠すのが得策かと。一応、時間稼ぎはしておきましたし」  手にはカツラとメイクセット。一瞬で偽装工作をほどこし、あの場に残してきたのは羽澄だった。 「待ちなさい!」  振り返ると、女子制服を着た少女が走ってくるのが見えた。  煙幕が焚かれる直前に、席を立った少女だ。 「ばれたのね」 「あらら」  羽澄はさほど慌てる様子もなく、黒いグローブをはめ、少女に向かった。  少女は息を荒げる様子もなく、羽澄をにらみつける。 「この保村陽を、あんなダミーに引っかかる三下と一緒にしないでほしいわね」 「ああ、カチさんの妹さんですか」  陽は、腰に差した小太刀を抜き両手に構える。しっかりと刃文まで入っている刃は、真剣だった。 「ほのかさま、行ってください」 「わかったけど……。ふたりとも、怪我はしないでね」 「慣れてますから」  一度だけ振り返り、ほのかは廊下を進んで、階段を上っていった。  陽は、逆手に小太刀を持ち替え、面に交差させて押し出す。焔流小太刀・四の型『不知火』……だったような。同じ家に仕える流派とはいえ、基本的に交わりはないため、どうしてもうろ覚えになってしまう。 「あきらめなさい。大旦那さまを相手にどうにかなるなんて、本当に思っているの?」 「ほのかさまがそう思われている以上、執事は代わって事を執るのみ、です」  陽は両刃を前に突き出したまま、接近してくる。やや、左手を手前に引いている。  小太刀の戦術は手数と見切りである。左右の刀で翻弄しつつ、敵を攻撃の間隙を攻める。  ある意味で、長刀を相手にするよりやりにくい。短く力がこもらないとはいえ、頚動脈に一太刀だけでおしまいだからだ。  羽澄はあえて、距離を詰める。  押し付けてきた右の刃は、無視。『不知火』なら一太刀目はフェイク。  右の刃の下から、左の刃が斬り上げられる。  羽澄は陽の両腕をかいくぐり、がら空きの胴を捉える。  が、踏み込まない。  羽澄の目の前を、陽の膝がかすめる。踏み込んでいたら、やられていた。両刃も囮だったのだ。  一瞬動きの止まった羽澄の首に、右の刃が振り下ろされる。  羽澄は左腕を刃に当てて、接触と同時に、腕も刃に合わせて動かした。  刀は引かねば斬れない。密着状態での相対速度も摩擦ゼロを作り出せば、斬られることはない。それが『霞』という技だ。  刃を受け流す勢いをそのままに、反転。右拳の甲を陽の顔に叩きこんだ。  これを、陽は左の刃の棟で受け止める。  羽澄はすぐに拳を解き、陽の腕をつかみ、体を陽の懐に滑り込ませる。  左肩を支点に、投げた。  浮かび上がる陽の体。だが、宙で体勢を整え、陽は足から着地した。  その距離を保ったまま、お互い、動かなくなった。  ただ、陽の表情には笑みが浮かんでいた。羽澄の左腕は袖が裂け、血が流れていた。 「さあ、これ以上痛い思いしたくなければ、そこをどきなさい」  傷を確かめる。左腕の外側が、横に三センチほど、きれいに割れていた。『霞』をしくじった。  羽澄は、ため息を吐く。 「あなた、実戦経験ないでしょ」 「なっ」 「攻撃が素直すぎるし、斬り際も浅い。思ったより斬りがぜんぜん浅かったから、失敗しちゃったじゃない」 「減らず口をッ」  陽は地面を蹴った。  羽澄は、構えない。 「なにより、甘い」  ただ、両手を広げた。  陽の攻撃を受け入れるように。 「なめるなッ」  陽はためらいなく斬りつける。だが、羽澄までもう少しの位置で唐突に動かなくなってしまった。 「な、なに?」  よく見ると、あたりは光の筋が幾本も張り巡らされていた。それは、陽の体にもいくつも絡まっていて、宙に固定させている。  絡み付く光の筋、それは細い糸だった。 「これは、鋼糸?」 「ご名答」  羽澄のグローブの指先から、いくつもの糸が伸びている。それは窓枠や蛍光灯、水道の蛇口を介して、陽の体を絡めとっていた。 「鉄をも断ち切る鋼の糸よ。さっき、あなたの攻撃を避けたときに絡ませてもらったわ。指一本で、あなたの首を切り落とすことだって可能よ」  両手を広げたまま、羽澄はやわらかな笑みを浮かべる。わざと接近戦に持ち込み、陽の攻撃をかわしつづけたのは糸を絡みつけるためだった。  勝負はあった。  陽は歯を食いしばり体を動かそうとするが、糸が食い込むばかりで自由にはならない。 「無駄な抵抗はやめたほうが――」  羽澄の動きが、止まった。口をあけたまま、わずかに鼻をぴくぴくさせて。  へっくちょい。  ぱーん。  蛍光灯が割れる。その破片を浴びながら、陽は目をしばたかせた。  目の前では、くしゃみをした羽澄が鼻をすすっている。左手の中指が、さっきより曲がっているような気がする。 「あ、あんた……」 「ん、ごめんなさい。うーん、花粉症かなぁ?」  鼻をすすった。 「花粉症じゃないわよ! 気をつけなさいよ! ていうか解きなさいこれ!」  ヒステリックに叫びながら、手足をばたつかせる。その抵抗はさっきまでの比ではない。 「でも、解いたらほのかさまを捕まえに行っちゃうでしょう?」 「そ、それは……」 「ほら。それじゃ解くわけには……あ、は、は、は……」  鼻を引くつかせる羽澄を前に、陽は息を呑んだ。  ふう、と羽澄は息を吐く。不発。同時に、陽も彼女以上に息を吐いた。 「出そうで出ないくしゃみって、ちょっと気持ち悪いわよねえ」 「ごめんなさい! お嬢さまはあきらめますから、今すぐこれ解いて!」 「え? ほんと?」 「ほんとに! ほんとだから!」 「そうね、信じるわ。仮にも久慈家に仕える者、嘘偽りは言わないでしょう」  陽は安堵の息をついた。  だが、いつまでたっても拘束は解かれない。  羽澄を見ると、両手を交差させたり上下に揺らしたり、妙なポーズを次から次に首をかしげながらとっていた。「あれ?」「おかしいなぁ」  陽は、ひきつった表情で尋ねる。 「……ねえ、なにしてるの?」 「えっと、ここをこうすれば解けるはずなんだけど。おかしいなあ。えいっ」  ぐっと、左手を力強く引く。  ぱきっと。二本の小太刀が五分割された。  乾いた音を立てて、鉄片となった小太刀が床を叩いた。あ、本当に鉄をも断ち切れるんだ、へぇ。羽澄は、新たな発見に大きくうなずく。 「ねえ! 狙ってやったのよね! わざとだって言って!」  もう泣いていた。 「あれ? 本に書いてあるようにやったのに」 「ほ、本?」 「ほのかさまに借りたマンガに、鋼糸で戦う執事さんがいてね。すごくカッコよくて、これからの執事は糸も使えるようじゃないとって思って。そしたら、『鋼糸術入門』って本があったから、しめたと思って買っちゃった。昨日。なんと、定価1200円が古本市で50円で買へっくちょい」  陽のブレザーとブラウスが一緒に破れて落ちた。陽の白い肌と、もっと白いブラがあらわになる。 「いやァ! 誰か助けて!」  教室のドアが開いた。  身を屈めて出てきたのは、黒塗りの拵えを腰に帯びた勝だった。  陽の後ろに立つと、刀の鯉口を切る。  刀を抜き、納める。  羽澄にわかったのはそれだけだ。  斬撃も、刀の姿さえも捉えることはできなかった。  気がつけば、陽がリノリウムの廊下に崩れ落ちていた。きらきらと、糸が輝きながら宙を舞った。 「無様だな」 「も、申し訳ありません」  勝はブレザーを脱ぎ、半裸状態の陽の肩にかけてやる。陽ははっとして、勝のブレザーを震える指で押さえた。 「下がれ」 「……はい」  短く答え、陽は走り去っていった。  勝の視線は、羽澄に向けられる。辺りの温度が五十度ほど下がった。 「落水家も堕ちたものだな」  ふふん、と羽澄は笑った。 「駄洒落ですか? 見かけによらずお茶目なんですね、カチさん」  勝は目を細める。ぴくりと、鍔を押さえる親指が動いた。わずかに鍔が鳴る。  羽澄は、深いため息を漏らす。すべての息を吐ききると、表情から笑みが引いていった。 「何度も申しますけど、落水はほのかさまの執事。なら、ほのかさまが望むことをするのが当然じゃない。鏡美もそれは同じはずよ。後ろめたいことなど何もないわ」 「だが、大旦那さまの意思には背くことになる」 「知ったことですか」  腰に手を当てて、胸を張る。  ふん、と言って、勝は刀から手を離した。 「……余計な議論をした」  羽澄の顔に笑みが戻った。 「気にしなくてもよかったのに。それとなくシリアスな話で時間を稼いでみよう大作戦、でしたから」  羽澄を無視し、横を通り抜ける。二、三歩進んだところで、勝が声をかけてきた。 「最後に」 「はい?」 「なにゆえ、お嬢さまについた? 理屈の上ではお前らはお嬢さまの下にいるが、そんな建前を本気で信じているわけではあるまい」 「そんなの、決まっているじゃないの」  勝はわずかに振り返る。 「ほのかさまが好きだからよ」  勝は目を閉じる。  答えずに、走り去ってしまった。  その背中が見えなくなったところで、羽澄は全身でため息をつく。 「はあ、怖かった……」  視線だけで殺されるかと思った。腰の刀なんかより、よっぽどおっかない。本当に煙草を吸っちゃいけない年齢なのだろうか。ベトナム戦線を生き抜きました、と言っても納得できそうな雰囲気があるのに。  天井を見上げながら、ぼそりとつぶやく。 「鏡美、あとはがんばってねぇ」  そして、床を見下ろす。蛍光灯の破片やちぎれたワイヤーが広がって、キラキラと光っていた。 「姉さん、お掃除がんばるからぁ」 「まったく、どこに行けって言うのよ」  一人でぶつくさ言いながら、ほのかは三階の廊下を進んでいた。階段にぶつかるが、下に行くか上に行くか、迷う。  上に行けば、逃げ場は限られそのうち追い詰められてしまう。かといって下に行って、追っ手と鉢合わせしても面白くない。  ためしに、耳をすましてみる。  下から、足音が近づいてきた。  逃げようとするが、やめる。おかしい。ばたばたと、足音は騒がしかった。鏡美はもちろん、久慈家に仕える者でそんな歩き方をする者はいない。  ひょこりと、くせっ毛頭が覗かせた。 「とっきー」  口にしてから、体から力が抜けるのを自分で感じた。 「ほのかさん、だいじょうぶ?」  切れ切れに言ってくる。走ってきたのだろう、息が上がっていた。  ほのかは下唇をかみ締める。  階段を上りきった常葉を、両腕で抱きとめた。 「ひぅゎ」 「本当、いい子ねとっきーは」  常葉は体をこわばらせるが、すぐに力を抜く。  最初のときとは違う。ただ腕を回され、そして頭を撫でられているだけだ。  二度ほど撫でたれたところで、解放された。 「でも、いいのよ。この辺は怖い人たちがうろうろしているから、早くお逃げなさい」 「ほのかさん」  ほのかは、振り返る。  教室四つ分向こうに、刀を帯びた勝がいた。 「ほら、その筆頭の登場よ」  走ることなく、一歩ずつ距離を詰めてくる。  常葉は、まばたきすらできなくなる。手足が震えで動かなくなる。  目だ。  勝の目で、体の自由が奪われてしまった。 「保村勝」  ほのかが叫ぶ。まっこうから勝と向かい合い、ひるんだ様子は微塵も見せていない。  その声で、常葉も勝の呪縛から解かれる。 「久慈家に仕える者として誓いなさい。この子には危害を加えないと」 「ほのかさん……」  震える声で、その名を呼んだ。  勝は足を止め、答える。 「御意に」 「結構。それを聞いて、私も安心して逃げられるわ」 「に」  常葉は声を詰まらせる。 「逃げるんがい!」 「もちろん。なに? 私がとっきーのために投降する、とでも思ったの?」  ふ、っと笑って、ほのかは階段を上っていってしまう。  勝が動いた。  常葉はとっさに、階段と廊下の防火扉を閉めて、遮断する。厚さ十センチはある鉄の扉だ。くさびも打って、ストッパーにした。  踊場で立ち止まっているほのかのほうに向かう。 「あら、とっきー。あなたまで逃げることないのに」 「こ、ここで戻るくれえなら、最初から来たりしねぇ」 「ふふ。そうね」  重いものが落ちる音。  振り返ると、防火扉は三角形にくりぬかれ、穴が開いていた。刀を抜いたままの勝が、潜り抜けてくる。 「えい」  常葉は手にしていたそれを下投げで勝に投げつける。  勝はとっさに斬りつけた。  真っ二つになったそれ――消火器から白い粉が吹き出し、煙幕となって勝の姿を隠す。 「ほのかさん、今だ」 「なかなかやるのね、とっきーったら」  ほのかは階段を一番上まで駆け登る。  突き当たりの鉄の扉を確かめる。鍵は、かかっていない。ノブをひねり、全身で押し開けた。  突風に、ほのかは目を閉じる。たとえ外から見て変わりがなくても、たしかに閉じた。  次に目を開いたとき。  青い空が見えた。強い風がほのかの髪に吹き抜けた。  常葉は扉の横にあった掃除用具入れのロッカーから長ほうきをとり、屋上に出てくる。ノブにほうきを引っ掛け雑巾を縛り付けて固定し、かんぬきにした。  一見、白く見える床は、単に汚れているだけだ。誰もきていないのか、ほこりやチリが上履きの足跡が残るほど積もっていた。  ぱさ、という音。  見ると、ほのかはその床に、仰向けになっていた。黒い髪が、放射線状に広がり、手足を投げ出して大の字になった。 「ほのかさん、汚ねえよ」 「いいのよ。こういうことやってみたいって、私がいま思いついたんだから」  常葉も見下ろしたままではいられないので、ほのかの横にハンカチを敷いて膝を抱えて座った。ハンカチは今朝慌てて100円で買ったものだ、気にすることはない。 「静かねえ」  たしかに、少し強めの春風の音くらいしか聞こえない。太陽の日差しもあるので、ブレザーを脱ぎたくなるくらいの暖かさがあった。  ほのかはこのまま眠ってしまうのではないか。心配になる。  忘れかけていたが、今も彼女を探している『怖い人たち』が下にいるのだ。 「ここじゃ、逃げ場、ないよ」 「かといって、他のところに逃げようとしても、誰かにつかまるでしょうね。だったら、まだここで粘ったほうが時間は稼げるわ」 「時間……?」  ほのかは、くすりと笑う。なんとなく、自嘲の笑みだ、と常葉は思った。 「最初から、こんなことが成功するなんて思ってないもの」  ほのかはブレザーのポケットから、銀色の懐中時計をとりだし、ふたを開けた。  自分でそれを確認してから、常葉に見せる。  アナログの針が、九時三十一分を示している。 「二時間十六分も。私は、他の誰でもない、私でいられたのよ」  ふたを締め、時計をポケットに戻す。 「屋敷から抜け出したのも、コンビニエンスストアに入ったのも、とっきーに出会ったのも、入学式で挨拶をしたのも。全部、私なの。久慈家の令嬢じゃない、ほのかというたった一人の私」  常葉は、何も言えない。  今まで、お嬢さまが退屈凌ぎに起こした気まぐれ程度に思っていた。  違うのだ。  これは、彼女の叶うはずもない革命なのだ。 「せっかく私が私になれたのだから。一分一秒でも長く続けたいじゃない?」  屋上の静寂が破られる。  鉄の扉がばらばらに落ちる。  暗がりから、全身白い粉にまみれた勝が現れた。  眼光はそのままに。いや、姿形が異様なものとなった今、むしろもっと怖い。  緩慢とした動きでほのかは起きあがる。 「さて。あと何秒、私は私のままでいられるかしらね」  ほのかの言葉を聞いて、常葉の中で何かが動いた。  今でも、怖い。危害は加えないといっているが、だからといって恐怖がそがれるはずもない。  それでも、常葉は前に出た。  一歩進もうとするが、肩を引かれて倒れそうになった。 「いいのよ、とっきー。あなたが私をかばうことはないわ」 「でも」  ほのかが、前に出る。この状況でなお、ほほ笑んでいる。 「ちゃんと、そういう役がいるから」  ほのかは足を止め、声を張った。 「鏡美!」  風が吹きつける。  屋上を囲むフェンスが鳴った。  まるで風に乗って現れたかのように、鏡美がフェンスを外から飛び越えてきた。  着地。何事もなかったかのように、ほのかの許に駆けつける。 「この白いのを懲らしめてやりなさい」  鏡美は左半身に、ゆっくりと構える。  勝とは、三歩分の間合いを保つ。それが、敵の一足一刀の間合いのぎりぎりの外だ。 「おまえとは、一度手を合わせてみたいと思っていた」  勝が言った。  刀を頭上に構える。長身の上に、二尺八寸の刃が立つ。  鏡美のほうは逆に腰を落とし、やや前傾ぎみに姿勢をとる。  勝が地を蹴った。  間合いの外を狙うため、一歩の距離が広い。  つまり、斬撃までの時間が長い。  鏡美は懐に滑り込み、柄頭を押さえる。勢いそのままに、肘でみぞおちを狙った。  呼吸が止まる。  勝の膝が、鏡美の腹に食い込んでいた。鏡美の動きが止まる。  そのがら空きの頭に向かって、勝は刀を振り下ろす。  鏡美は勝の鞘を抜き取り、刀を叩き落す。軌道がそれ、刃は鏡美の左髪を掠めただけだ。 「ちっ」  柄で鏡美の顔を殴りつける。  吹き飛んだ鏡美はきりもみ回転をしながらも、片手で床を弾き、一転。両足でフェンス際に着地する。  頬が少し赤くなっているだけだ。 「どうした。そんなものか」  鏡美は、フェンスに指をかけ、力をこめる。金網は飴細工のようにぐにゃりと、指の形に曲がった。  引き寄せると、がしゃんという音とともにフェンスの一面が引き千切られる。雑巾を絞るようにして金網を束ね、緑色の棍棒を作り上げた。  素振りをしてみるが、一本の武器としてちゃんと機能する。  鏡美は棍棒を脇に構え、勝に肉薄する。  面に向かって振り下ろした棍棒を、勝は刀で受け止めた。 「得物同士の闘いで、俺に勝てるとでも思ったか」  刀で絡めとられ、棍棒は頭上に弾き飛ばされた。  返す刃が、無防備の鏡美の面に打ち下ろされる。  鞘も、棍棒も手元にない。  鏡美は懐に手をやり、刃に向かってそれを突き出した。 「なっ」  勝の顔に驚愕が浮かぶ。  刃は、突き出された丸めて筒にしたパンフレット『新入生のために』の中ほどまで食い込んで、止まってしまった。パンフレットに食い込んだ瞬間にひねりを加え、摩擦で受け止めたのだ。  鏡美はパンフレットを支点にして、膝を刀の横っ面に叩きこむ。甲高い、短い音とともに、刃が真っ二つに折れた。  勝は一歩退くが、即座に鏡美は懐に入り込んだ。  右手を下から――滝を割ったときと同じように、掌底にして突き上げた。 「――!」  勝の体が浮かび上がる。  声にならない声を吐き出し、勝は床に臥した。  床に倒れる勝を扇子で指し示し、ほのかは高らかに声をあげた。 「ふっ。得物同士の闘いだと見誤った時点で、あなたの負けは確定したのよ」  常葉も鏡美の制服のすそをつかんで、跳ねまわった。 「すげえ! あんなのに、やっつけちまった!」  鏡美は息を整える。  空の一点を見つける。  常葉も首をかしげながら、その方向を見る。雲一つない空に、黒い点がひとつだけあった。  風に乗って、連続した低い機械音が聞こえてくる。  はっとして、鏡美は屋上の扉のほうに振り向く。  黒い戦闘服に身をやつした者たちが次々と現れ、ほのかたち三人を包囲し、手にしていたマシンガンを構えた。 「久慈玄武隊」  ほのかがつぶやく。当主直属の私設機動隊だ。  頭上から、ローター音が降りかかってきた。  強い風に、ほのかは髪とスカートを押さえる。  巨大な黒いヘリコプターだ。どん、という鈍い振動を起こし、学校の屋上に着陸した。表面には亀と蛇の絡み合う図画が描かれている。 「ということは」  ほのかの握りこんだ拳が、小刻みに震え始めた。  ヘリのドアがスライドし、中からふたり玄武隊が降りる。  続いて、袴と下駄履きが見えた。  紋付に着替えた、当主久慈時雨だった。  杖をつきながら、ほのかの前に進む。  ほのかは無理やり笑顔を作って、口を開く。 「じきじきにおじいさまがいらしてくださるとは、ずいぶんお暇で――」  時雨の平手がほのかの左頬を打った。  鏡美が反応するが、八方から銃口を突きつけられ、身動きできない。 「この痴れ者がッ!」  床に崩れるほのかに向かって、時雨は罵声を浴びせる。 「自分が何をしようとしたか、わかっているのか。貴様は久慈家三九代目を預かる身。このような勝手な振る舞い、許されるとでも思ったか」 「いいえ」  ほのかは顔を上げる。口の片端だけを吊り上げて、笑っていた。 「誰よりも、承知しておりますわ。その上で、私はおじいさまの許から離れました」 「この――」  時雨は杖を振り上げる。  叩きつけられるより早く、ほのかは足許にあった勝の刀の切っ先を手にとり、飛び起きた。  玄武隊の銃口がほのかに向く。 「待て」  時雨が制して、玄武隊に銃口を下ろさせる。  ほのかは、刃を自分ののどもとに突きつけたまま、時雨から後退りする。  震えるほど握り締めた指の間から、赤いものが流れ落ちていた。 「道を開けなさい。でないと、久慈家は三八代で潰えることになるわよ!」  時雨が、しぶしぶうなずく。玄武隊はほのかを中心に道を開けた。  ほのかはじりじりと後退していく。その先には、鏡美が引き千切ったフェンスの隙間があった。 「とっきー」 「え?」  いきなり声をかけられ、常葉はどきりとする。 「今。私が私である時間を、永遠に引き延ばす方法を思いつきました」  ほのかは、破れたフェンスから向こう側に足を踏み入れる。  後ろにはグラウンドが広がっていた。ヘリを見に集まったのか、いつの間にか何十人もの生徒が集まっている。ほのかの姿を見つけて、何かしら叫んでいた。  ほのかは刃を投げ捨てた。玄武隊に、時雨に、常葉に、そして鏡美に向き合いながら、両手を広げる。  笑っていた。  最初に動いたのは、鏡美だった。  ほのかの体が後ろに傾く前に、玄武隊の隙間を縫って走る。重力から解放されるほのかの姿に注目し、誰も鏡美には気づかない。  全員がほのかの行動の真意を悟ったとき、鏡美はフェンスの上に跳んでいた。  中空で上履きと靴下を脱ぎ捨て、フェンスの端を掴み方向転換。跳躍の勢いをそのまま下方向に変える。両手両足の指を金網にめり込ませ、  蹴った。  地面へのクラウチングスタート。フェンスが空にちぎれて飛ぶほどの超加速を生み出した。だが、すでに落下しているほのかの体には追いつけない。  鏡美はさらに、コンクリートに親指を食い込ませる。そこを足場にして、さらに加速。  四階――三階――二階――  ほのかと、地面が近づいてくる。  手を伸ばし、ほのかの腕を掴んだ、そのとき――  音が停まった。  がしゃん、と音を立てたのは、鏡美に蹴りあげられ地面に落ちたフェンスの残骸だった。  そこに揺れた影がかかる。 「か、がみ……」  ぱらぱらと。コンクリートの破片を浴びながら。  ほのかは、鏡美の腕の中でつぶやいた。鏡美の顔越しに空を見上げる。突き抜ける青空。きらりと、何かが輝いた。それは、空と鏡美と自分をつないでいた。  しずくが落ち、ほのかの顔に垂れた。  一瞬、涙かと思った。  生温かいそれは、赤かった。 「鏡美!」  ようやく、ほのかは状況を飲み込んだ。右手一本だけで、鏡美に抱えられている。一階と二階の間に、宙吊りになっていたのだ。  鏡美の左手には、屋上から伸びた細い糸が食い込んで、血がにじんでいた。 「……ごめんなさい」  自然と、そんな言葉がほのかの口からこぼれおちた。 「いえ」  鏡美は、首を振った。「それよりも」と続ける。 「また、落ちられましたね」  鏡美の表情を見て、ほのかははっとする。 「あなた……」  ほのかは鏡美の首を抱きしめる。今日で一番、安らかな笑みを浮かべて。 「お嬢さまは無事です!」  下を覗き込んだ玄武隊の一人が報告した。 「無事、じゃないわよ。もう」  肩をすくめながら、羽澄がつぶやく。フェンス際でふんばりながら、鋼糸を掴んでいた。  彼女が屋上に到着したのは、鏡美がほのかに向かって走り出したのと同時だった。瞬時に鋼糸を鏡美の左腕に投げ飛ばし、中空でつなぎとめたのだ。『鋼糸術入門』223ページ「投網をしてみよう」。鋼糸を幾重にも重ねることにより、切断能力をあえて殺し、何かを捕まえる技だ。  時雨は拳をわななかせながら、怒鳴りつける。 「ふん、馬鹿孫が。無様な真似を繰り返しおって」  帰るぞ、とヘリに乗り込もうとした。 「までよ」  振り返る時雨の顔に、上履きが投げつけられる。ちょうどよく、裏のほうが張りついた。  上履きが滑り落ちる。時雨の顔には、靴底にこびりついていた汚れが残っていた。  投げた常葉が、肩を振るわせながら時雨に詰め寄る。 「おめえ、ほのかさんがどんな気持ちか、考えたことあっが! ねえよな、あるわげねえ! そんな漬物石みでえな頭じゃ、考えられっこねえ!」  怒鳴りながら、常葉の目から涙がこぼれおちる。 「おめえなんが、肥溜めさ落ちて死んじめえ!」  誰も動けず、何も言えなかった。ただ、羽澄だけは笑顔を浮かべ、見えないように小さく拍手をした。 「小娘が、言いたいことはそれだけか!」  時雨は杖を振りかぶる。  ぐっと、常葉は目を閉じる。 「お待ちなさい」  澄んだ声が、場を制した。  ヘリの中から出てきた声の主は、和服をまとった老婦人だった。  白髪混じりの髪はしっかりとかんざしで留められ、顔のしわまでもが左右均等に整っているに見える。恐ろしいほどまっすぐな背筋を保ったまま、ヘリから降りた。  時雨の体が吹き飛んだ。  それから、ぱん、という音が聞こえる。  右手が、いつの間にか振り抜かれていた。 「恥を知りなさい」  決して、大きな声ではない。だが、なぜか誰の怒鳴り声よりも耳に響いた。 「こんな小さな子が、本気で怒っているのです。あなたは、それだけのことをしたのよ。なぜそれを認めないのですか」 「美門……」 「お黙りなさい。いいですか? 二度は言いませんよ」  時雨は深くうなずく。  美門と呼ばれた女性は、常葉のほうに向き直った。  常葉は慌てて周りに救いを求める。いつの間にか、玄武隊の誰もが平伏していた。 「あなた、お名前は」 「ととととと常葉、です」 「変わった名前ね。ととととと……長いわね。じゃあ、とっきーと呼びましょう」  美門は手を伸ばしてくる。ぐっと、常葉は目を閉じる。  頭に柔らかい感触。 「よくおっしゃってくれました。ほのかは、すばらしい友人を持ったのね」  目を開くと、美門が常葉にほほ笑みかけていた。  頭を撫でられながら、常葉は言葉を失う。 「大丈夫。このわからず屋のとうへんぼくには、私が責任を持って承諾させます」 「そ、それじゃ」 「ええ。これからも、ほのかをよろしくね」  常葉は、笑みを浮かべながらうなずいた。 「それにしても、あなた」  美門が、いきなり常葉の頭を抱きしめた。 「ちんまいわねぇ」  ぶら下がったままのほのかと鏡美の下の茂みの中。  ポケットから滑り落ちたほのかの時計があった。  落下の衝撃でふたがとれ、ガラスも割れてしまっている。  針は九時四十七分を示したまま。  秒針だけが飛び出ていて、もう針は、進みも戻りもしなくなっていた。 ○ごぢつだん 「つまり買い食いって言うのは、主に下校時に食べ物買って、家に買える前に食べちまうことを……食べてしまうことを、言うの」  常葉はさりげなく訛りを直そうとした。失敗しているが。やっぱり、訛りがあったほうがいいと思うのだが、そして四時間前まではたしかほったらかしになっていた気がするのだが。なかなか強情である。 「ええ、それだけなの?」  ほのかは非難の声をあげる。あれだけ期待したのに、買い食いの正体が普通に帰宅時の飲食を差すだけだなんて。  ふたり、正確には四人はファーストフード店の二階で買い食いの真っ最中だった。コンビニだけが買い食いの場所だと思っていたほのかが、その定義について常葉に尋ねたのだ。 「そうなの、鏡美?」  左腕を包帯で吊っている鏡美は、申し訳なさそうにうなずく。 「なによ、もう。とんだ思い違いだったわ」  ふてくされた様子で、ほのかはハンバーガーにかぶりついた。 「ふぁーいーわぁ。おいふぃーかふぁ」 「ほのかさま、さすがにはしたないですよ」  横の羽澄が、ジュースを渡してくれた。ちゅーと、ストローですすって流し込む。全部飲みきってしまって、ずーと音を鳴らした。 「もう、ほのかさまったら」 「私、これが気に入りました」  そう言ってハンバーガーの中から、ピクルスをほじくりだした。ちょっとかじられて、欠けていた。 「ピクルス……おら、じゃなかった。わたしは、苦手だなあ」 「標準語のとっきー、なんか気持ち悪いわね」 「きも――」  椅子の背もたれにもたれて、常葉はがっくりする。その隙に、ほのかは常葉のハンバーガーからピクルスだけ抜き取って、ぽりぽりと食べる。 「ほのかさまっ」 「いいのよいいの。もう私は普通の女の子なんですからね」  大奥さまの美門の進言により、ほのかは高校三年間の猶予を得た。その間も次期当主としての自覚を持つことが条件としてあったはずだが、本人はすっかり忘れている。 「普通の女の子だって、そんなことしませんよ」 「他人のものさしに測られない、個性的な女性を目指しておりますので」 「おっしゃることがめちゃくちゃですよ」  羽澄はため息を吐きながら、ポテトを口にほうる。その手が休まる前に「鏡美ったら、口にケチャップついてる」とナプキンで向かいの鏡美の口をぬぐった。 「とっきーちゃんも、いつまでもへこんでないで。口調も個性ですから」 「なんでおらのあだ名がとっきーで定着してんだ……」 「あら。他にどう呼べと?」 「大奥さまも呼ばれたんですもの、とっきーで決まりですよ」 「とっきー」  鏡美まで、ぼそりと言う。「うぅ」と、常葉は再び背もたれにぐったりした。 「がんばれ、とっきー」  無責任に言って、ほのかは指についたソースをなめてとった。    おしまい 1