いちばん近い遠距離恋愛                          京路          1  ――ピピッ、ピピッ。  寝ようとベッドにもぐった瞬間、初期設定のままの着信音が俺の携帯から鳴った。  メールか。そう思って、目をしばたかせながら携帯を開いた。 『ここどこからだうごかない』  題名も何もなく、ただ一文だけそう書いてあった。なんだ? ここどこから、だうごかない……違うな。  ――ここ、どこ? 体動かない。 「んなっ」  思わず声をあげてしまった。  真っ先に思い浮かんだのは、拘束されて身動きの取れない人がメールを使って助けを求めた、という事件である。警察に届けたほうがいいのだろうか、そう思いながら、画面をよく確かめてみる。  送信者欄には「s25gk0rt……@」と、アルファベットと数字がランダムに並べられたアドレスが書いてあった。こっちのメモリーに登録されているアドレスなら名前が出るはずだ。  ランダムな英数字というのも、初期設定のままアドレスを使っているということだ。俺もそうである。 「ん?」  そのアドレスに見覚えがある気がした。  心当たりを感じて、自分の携帯の自己プロフィール画面を開いた。自分の電話番号やアドレスを表示する画面である。  坂下仙太郎  番号・090‐5661‐××××  アドレス・s25gk0rt…… 「どういうことだ?」  送られてきたメールの送信アドレスは、俺のものとまったく同じなのだ。  と。再びメールが送られてくる。 『もしかしてせんたろうくん』  背筋を冷たいものが走った。  俺の名前を知っている。  それもあるが、それだけではない。  「もしかして、仙太郎くん?」――こいつは俺に話し掛けてきている。  ちょっと前に携帯電話を題材にしたホラー映画が放映していたのを思い出した。あれはたしか、自分の番号から電話がかかってくる、という話だった気がする。 (だが、待て)  これはホラーじゃない。一応は、技術的に可能だろう。例えば、俺の携帯にハッキングをかけて情報を抜き出し、メールを出しているということもありえる。  しばらく考え、俺は返答を書くことにした。 『誰だ?』  一行だけをすばやく打ち込み、送信する。  と同時に、メールが送られてきた。 『誰だ?』  驚きかけるが、なんてことはない。自分のアドレスに送り返せば、自分のところに来るのは当たり前である。  相手には届いていたのだろうか。そう思ったとき、メールが来た。 『ああ漢字はそうやって出すんだね私は葉山琴子だよ』  句読点がない文章を解読する。こいつは、葉山琴子というらし――。 「んなっ!」  思わず、声を上げていた。  葉山琴子。それは、一年前に俺に告白してきた子だった。断る理由もなかったのでそのときはOKし、俺たちは恋人どうしになったのだ。  そのすぐ後、彼女が交通事故で死ぬまでは。 「嘘だろ……」  いたずらだろうか。だが、冗談にしてもたちが悪すぎる。 『でも、お前が葉山のはずがないだろ。いたずらにしちゃ悪趣味じゃな』  そこまで書いたところで、編集作業が中断された。メールを受信したのだ。 『はずがないって、そんなわけないよ。私は、私なんだから』  その文章を見て、俺は首をかしげた。  俺の書いていた文面への返答にも見えた。だが、俺はまだ送信していないのだ。  もしかして、こいつは書いたそばから俺の文章を読める状態にあるのだろうか。 『葉山は一年前に死んだはずだ。お前は誰で、何のつもりでこんなことを』  また、書いている途中でメールが送られてくる。 『死んだ? 私が?』  だんだんと怒りが込み上げてきた。こいつは、あくまで白を切るつもりでいる。 『誰だか知らないが、これ以上続けるなら警察に』 『嘘。だって、私はここにいるよ。さっき、仙太郎くんと恋人になったばかりなのに』  俺は言葉を失った。  俺と彼女が恋人となったことは、俺たちしか知らないことだ。俺は誰にもそれを教えていない。彼女だって、それを誰かに伝える暇はなかったはずだ。 『本当に葉山なのか?』  そう書いて、送らずにメールを保存する。さっきは、俺が文章を書いている途中に返答してきた。ならば、これでも伝わるはずだ。  返事はすぐに来た。 『そうだよ。でも、苗字じゃなくて、琴子って呼んでって言ったじゃない』  しばらく考えて、思い出した。  告白を受け入れたとき、言われたのだ。 「葉山って、ケータイだと書くの楽でしょ? 三回しか入力しないしね。琴子だと、合計十五回も押さなきゃならないし。でも、それでも、名前で呼んでほしいんだ」  変なこだわりだと思ったが、たしか俺はOKした気がする。  もしかして、本当に琴子なのだろうか。 『ここ、どこ? 仙太郎くん、どこにいるの? 文字は見えるんだけど、体は動かないし、なにがなんだかわからない』  そのメールを読んで、確かめる方法を思いついた。  部屋を出て、トイレに入る。窓一つしかなく、両方の壁に肘がつくくらい、狭かった。  便座に座って携帯を開く。さっきまで三本あった電波は、今は圏外になっていた。うちのトイレは電波状況がすこぶる悪いのだ。  そのまま、俺は携帯のカメラ機能を起動させた。カメラを自分に向けて、シャッターを押す。  カシャ、という音とともに、俺のちょっと緊張した顔が画面に残った。それをメモリーには保存せず、破棄する。  トイレを出ると、すぐにメールが来た。 『今、仙太郎くんの顔が見えたよ! あれ? でも、送れないや。なんだろ。えいっ』  俺はため息をついた。どうやら予想が的中してしまったようだ。すぐにそれを琴子に伝える。 『多分、葉山は俺の携帯の中にいるんだと思う。さっき送れなかったのは圏外になったから。俺の顔が見えたって言うのは、カメラを使ったからだし。俺は、お前とメールでやりとりしてる』  そう書いて、保存した。彼女が携帯に宿っているのなら、もう俺の書いた文面は見えているはずだ。  返答はなかなか来なかった。  と。携帯の画面がひとりでに変わった。待ち受け画面に戻ったり、メールの受信欄になったかと思えば、次にはカメラが起動したり。おそらく、中で彼女が動かしているのだろう。事情を知らなければ、故障かポルダーガイスト現象に見える。  ……いや、これこそ真正のポルダーガイストなのか。 『そうなんだ。信じられないけど、仙太郎くんの言う通りみたい。そっか、私、死んじゃったんだ』  彼女からのメッセージは、存外あっけらかんとしているように見えた。  俺は、ピクチャライブラリを開いた。カメラで撮った画像を保存している場所だ。少ない画像の一番下にある画像を選んだ。  画面いっぱいに映し出された写真。  それは、琴子の笑顔だった。  夏の制服を着て、駅前をバックに写っている。少しだけウェーブのかかった長い髪を指にからめながら、はにかんでいた。  恋人どうしになったときに、待受けに使おうということでお互いの写真を撮ったのだ。結局、これを待受け画面とすることはなかったが。かといって消すこともできず、ずっと残したままになっている。  と、メールが来た。 『その写真、残してたんだね。私、死んでから一年も経ってるんでしょう? こっちからすれば、ついさっきの出来事だったんだけど』 『ずいぶん、あっさり受け入れるんだな』  つい、思ったことを書いてしまった。 『いまいち実感がないんだよね。死んだ瞬間も覚えてないしなぁ。  ま、もう死んじゃったものは仕方ないし、それはそれでいいや。戻ってこれただけラッキーってことも言えるし。それに、よくよく考えれば、好きな人に肌身はなさず接していられるって言うのも結構いいカンジだよね』  彼女の前向きさがうらやましかった。  俺の手の中には、一年前の彼女の入った携帯がある。  困った。  俺には、もう別に好きな人ができてしまっていた。          2  耳元でけたたましい音が鳴り響いている。 「むぐ」  無意識的に目覚ましをたたきつけるが、一向に音はやまない。 「ん……ん?」  仕方なく起き上がって、音源を探す。 「……携帯」  目覚ましの横で、携帯が最大音量でアラームを鳴り響かせていた。ピカピカとランプが明滅するのが、起き抜けの目に厳しい。その上震動までしている。  一瞬、壊れたのかと本気で思ってしまった。 『おはよー(^o^) ごきげんいかが?』  ――ある意味、壊れてるのかも。  目覚し時計のほうを見ると、七時十分前。まだ三十分は眠れたはずだ。 「おまえなぁ……」  つぶやいても彼女に聞こえるはずもない。かといって、いちいちメールを打つ気力もなかった。  寝たのは深夜の三時を回ってからだった。あのあと、彼女に携帯の機能の説明をしていたのだ。  説明といっても、俺が一通り操作してやるだけだった。彼女はそれだけで、感覚的に覚えるらしい。例えば、最初はひらがなでしか文字を書けなかった彼女が、俺が漢字を使った途端にその使い方を覚えたように。  着メロ作曲や待受け画面製作など、俺が一度も使ったことのない機能まで教えることになった。  あくびをかみ殺しながらトイレと洗顔に向かう。その間、彼女のことを考えた。  彼女は携帯の中で起こっていることならすべて把握できるらしい。つまり、俺のメールも打ったそばから見ることもできるし、今どの画面を見ているのかもわかる。  その上、琴子は画面の裏でも操作が行える。俺がメールを書いている裏で別の文章を書いたり、待受け画面のままカメラだけを作動させたり。外側にいる俺よりも、できることは多い。  だが、電話で直接琴子と話すことはできないようだ。『電話って、受話器の向こうに相手がいないと話せないからじゃない? 電話と話すんじゃなくて、人と話している。だから、電話の中にいる私とは話せないんだよ。たぶん』と琴子は言っていたが。  部屋に戻ると、早速メールが送られてきていた。  いつの間にか、俺のアドレスが『葉山琴子』でメモリーに登録されていた。送信元がアルファベットの羅列から変わっていたのだ。  どこの世界に、自分のアドレスを女の名前で登録する男がいるのだ。 『ねぇねぇ! これ、作ってみたんだけどどうかな?』  読み終わった瞬間に、画面が切り替わる。  待受け画面らしい。前はカレンダーを壁紙代わりに使っていたのだが、今はアニメ風にデフォルメされた天使の絵に変わっていた。頭上に浮かんだ輪っかに、背にはえた白い翼。綺麗にウェーブした長い髪を見て、これは琴子なのだと気づいた。  見ていると、こっちに向かってウインクする動作までした。アニメーション設定までしているのだ。  驚いた。  かなり上手かった。 『これって、琴子が作ったの?』  すぐに返答が来る。 『うん(^_^) そういう細かい作業って、昔から得意だったしね。仙太郎くんが寝てる間、暇だったから作っちゃった』  こいつ、多分俺より詳しくなっている。 『そうそう。聞こうと思ってたんだけど。覚えてる? もうすぐ夏祭りだよね。それを最初のデートにしよう、って約束したでしょ』  夏祭り、という文字を見て思い出した。毎年この近くの川で、花火大会といっしょに夏祭りが行われるのだ。  たしかに、告白してきた日の別れ際に琴子がそんなことを言っていた気がする。俺が返事をする前に、走り去ってしまったが。  だけど、携帯とデートをするというのがよくわからない。携帯で花火や屋台を撮影しながら、笑ったりするのだろうか。  ……一人で。 「それは――」  名状しがたい居たたまれなさを感じた。  なんと返信すればいいか。迷いながら、俺はボタンを押す。 『そろそろ、学校だわ』  そう書いて、俺は寝巻き代わりにしているジャージを脱いだ。まだ時間に余裕はあったのだが、他に書くことが思いつかなかった。  制服に着替え終わったとき、琴子からメールがきた。 『あ、もうそんな時間? うん、わかった。じゃ、ご飯はちゃんと食べるんだよ。じゃないと、一日がんばれないから。あとは、ハンカチとティッシュも忘れずにね!  あ♪ いま、ちょっと新婚さんみたいじゃなかった?』  学校に行くには、電車に二十分ほど揺られることになる。満員電車の中でほぼ立ちっぱなしの二十分は、ちょっとした苦行だ。  特に夏場は、クーラーの利きが薄い気がする車内で、湿っぽいワイシャツを着た中年の人たちに四方を囲まれるので、たまったものではない。  その中で、俺は携帯を開いていた。琴子が、俺と同じ眺めを見ていたいと言ったからだ。  携帯の側面部にあるカメラが目になって、琴子にこの満員電車の様子を見せていることになる。 『相変わらずすごい光景だね。わぁ、カメラが曇ってるよ……。朝は痴漢が多くてヤだったなあ(-_-;)』  それを読んで、琴子も生きていたころはこの電車に乗っていたことを思い出した。帰りは、よく同じ電車に乗ったものだ。  家は俺とは反対側だったため、いつも駅で別れていたが。  ふとそれに気づいて、尋ねてみた。 『そういえば、家の人とかに連絡しなくていいのか?』  電車が止まり、人が出て行く。と同時に、それ以上の人数が入ってきた。俺は、結露したドアのガラスに押し付けられた。背中に、嫌に冷たい感触が広がる。 『うーん。別にいいと思う。うちの親、頭カタかったから、多分信じてくれないと思うし。それに変に喜ばすよりは、娘は死んだものと思っていたほうが、いいんだと思うよ』  たしかに、生き返ったといっても携帯電話に、である。そんな微妙な状態であることを伝えるより、そっとしてあげたほうがいいかもしれない。  そう思ったとき。  カシャ――。  どこからか、シャッター音が聞こえた。 (盗撮?)  とっさに出てきた言葉は、それだ。携帯のカメラのシャッター音だった。反射的に辺りを見回す。  だが、周囲の人はなぜか俺のほうをうかがっている。眉にしわを寄せ怪訝そうな表情を浮かべながら、ちらちらと横目で視線を送ってきていた。 (……は?)  ふと、携帯に目をやると、目の前の人ごみを写した写真があった。 「んなっ」  お前か!  たしかに、ただ人ごみを写す分には別にいいかもしれないが、状況を考えろよ状況を。満員電車で携帯のカメラで写したら、十中八九盗撮だと思うだろ。  と、一息に口で伝えられればなんと楽なことか。これを琴子に伝えるためには、三分は要する。  と、琴子からメールがきた。 『ちょっと、写真をよく見てよ!』  言われたとおり、さっきの写真を見てみる。上から下を写した構図になっている。スーツ姿の男たちの胸から下ばかりが写っていた。 「……あ」  写真の中心に写っていた男の手が、となりの女子高生のスカートの中に入っていた。二人とも顔は見えない。  携帯から視線を上げる。  男は、いた。頭の禿げ上がった、中年の男である。スポーツ新聞に目を向けるふりをして、女の子のスカートの中に手を入れていた。新聞を目隠しとして使っているようだが、俺の角度からなら、ちゃんと見えていた。  女の子のほうは、顔は見えないがうちの学校の制服を着ていた。 「おい、あんた!」  俺は、なるべく大きな声で、男に向かって怒鳴りつけた。男の行為に腹が立ったのもそうだが、周りの俺に対する疑いのまなざしをそっちに向けたい気持ちもあった。  男は大きく目を見開いて、こっちを見返した。心底驚いたような表情。慌てて手は引っ込めたようだが、もう遅い。 「そんなことしてて恥ずかしくないのか! わかってるんだぞ!」 「な、何を言ってるんだ、君は」  目を泳がせながらも、男は反論してくる。  俺は鼻で笑い飛ばす。 「証拠だってある。あんたがやったことは、この携帯のカメラで撮らせてもらった。いいか、証拠として、カメラで撮ったんだ。ショ・ウ・コとして、撮ったんだからな!」  盗撮じゃないです。証拠としてなんです。  そんな俺の気持ちも込められた言葉に、男は口を開いたまま動けずにいた。  状況を察したらしい周囲の人たちの冷ややかな視線が、男のほうに集まった。ああ、なんか勝ち誇った気分。さっきまではたくさんの人の中で孤独だったが、今はみんな味方だ。  そのとき電車が止まり、ドアが開いた。  男は電車を飛び降り、人ごみをかき分けるようにして逃げていってしまった。 「……ふう」  自然とため息を吐いてしまった。再び周りの視線が俺に向くが、前のような居たたまれなさは感じない。少し照れくさいくらいだ。とりあえず誤解も解けたようだし、俺は安心した。  携帯の画面に目をやる。  そこには、琴子が用意してくれた対痴漢用の台詞があった。俺だけでは、あんな言葉をとっさに浴びせかけることはできなかっただろうし、それどころか見て見ぬ振りをしてしまったかもしれない。 『ありがとな』  それだけを書いて、彼女に送った。 「んーぅ」  駅を出て、俺は大きく伸びをした。  こんなにも晴れやかな気分でこの駅を出たのは、いつ以来だろうか。朝からの強い日差しも、今日は気にならない。 「坂下くん!」  後ろから、名前を呼ばた。  振り返って、驚いた。  城ヶ島早美だ。  肩にかかるくらいの髪を揺らし、俺のところに走ってくる。  そのせいか、ちょっと頬が赤い。つまり少し走っただけで赤みが差すのがわかるくらい、肌が白いのだ。 「よかったぁ、見えなくなっちゃったから焦っちゃった」  ちょっと舌足らず気味につぶやいて、笑みを浮かべた。思わず、こっちも笑い返してしまう。  笑いながら、はっとした。  なんで城ヶ島さんが俺に話しかけているのだろう。  同じクラスになってはや三ヶ月。交わした言葉は「おはよう」と「あ、ごめん」のふたつだけである。目が合った人すべてに挨拶してくるので実は前者はカウントできないが、ちょっとすれ違ったときにぶつかっただけの言葉なのでやっぱり後者もカウントできない。  つまり、俺は彼女にまともに話しかけられたことがないのだ。 「じょ、城ヶ島さん……なんで?」  尋ねた声が上ずってしまった。顔が熱くなってくるのを感じる。  俺が、もっか片思い中の相手である。  息を整え終えた城ヶ島さんが、「えっとね」と前置きをして話してきた。 「さっき、その、助けてくれたの、坂下くんでしょ?」  彼女が控えめにうつむきながら、しかし手振りを交えて一生懸命に言ってきた。ちくしょう、鼻血が出そうなほどかわいい。 「さっき?」  彼女の姿だけをたっぷり三秒ほど見入ってから、ようやく言葉の内容を理解するにいたった。 「……あ。もしかして、ちか」 「うわー!」  いきなり大きな声を上げて、両手をはたはたと振った。その慌てぶりを見て、気づいた。痴漢に遭ったなんてこと、恥ずかしくて言えないのだ。  とりあえず、俺は彼女のオーバーリアクションがむずがゆくも、恥ずかしい。彼女のほうもとっさに出た行動だったらしく、何事かと注視してくる行き交う人たちの視線に小さくなっていた。  それから逃れるように、俺たちは学校に向かって歩き出した。 「とにかく、ありがとう。わざわざ、その……ちか……って、言わないで注意してくれたんだよね」  彼女が、痴漢の部分だけものすごく小声にして言ってきた。  そういえば、琴子の痴漢用の撃退文句には、もどかしさがあった。痴漢、という直接的な言葉を入れてなかったせいだろう。  たしかに、痴漢だと大声を上げれば、加害者だけでなく被害者も追いつめることになる。その点、琴子の文句は、加害者だけを責めるようにできていた。 「別に、たいしたことしてないよ」  自分でもそっけないなと思う言葉を吐いてしまう。せっかくの機会なのに、うまい言葉が出てこない。  次の言葉を探していると、俺のポケットから着信音がした。メールを受信したようだ。  しばらく、そのまま歩く。 「出ていいよ?」  城ヶ島さんは、俺が携帯を開かないのは遠慮しているからだと思ったらしい。 「う、うん」  なるべく平静を装いながら、携帯を開く。  待受け画面の天使は怒っていた。腰に手を当て、頬を膨らませながらこちらをにらみつけてきている。 (いつの間に作ったんだ……)  心の中でため息をつきながら、メールを開く。 『コラッ! なにデレデレしてんのよ! こっちには録音機能だってあるんだからね!』  しまった。  カメラにさえ写らなければ外の情報が知られることはないと思っていたが、携帯には録音機能もあった。会話も、琴子が聞こうと思えば聞けるのだ。 「ねえ、携帯見てもいい?」  いきなり、となりを歩く城ヶ島さんが言ってきた。大きな二重まぶたの瞳が、輝いて見える。  もしかして琴子のことがばれた? ふいに、そんな心配が脳裏をよぎった。 「嫌ならいいんだけど。あ、メールとかは見ないから。私、人の携帯を見るの、好きなんだ。変でしょ」  変でしょ、と笑顔で言われては、こっちも断れるはずもない。 「何にもダウンロードとかしてないから、つまんないよ?」 「そんなことないよ」  俺の携帯を両手で受け取りながら、城ヶ島さんは言った。 「人の部屋を見れば、どんな人かわかるっていうでしょ? それって、携帯にも言えると思うんだ。自分と一番近い場所にあるものなんだし。自分じゃ気づかないかもしれないけど、ゼッタイに個性が出ると思うんだ」  そういって、俺の携帯を開く。 「あ、待受けかわいいね。天使さんが怒ってる」 「ははは……」  もう笑うしかなかった。  心配なのは、琴子が余計なことをしでかさないかだけだ。  城ヶ島さんの横から携帯をのぞく。初期データしかない俺の着メロを見ているらしい。どうやら、琴子はおかしなことはしでかしていないようだ。  と、画面が切り替わる。 「あ、メールだ」  城ヶ島さんが携帯を返してくれた。 『ちょっと! 他の女に私のこといじらせるって、どういうことよ!』  案の定、怒っている。  なんと言い訳したものか。考えていると、横で城ヶ島さんがにやにやしているのに気づいた。 「もしかして、彼女さんからとか?」  天上の笑顔で究極の質問をしてきた。  城ヶ島さんの前でイエスと答えるわけにはいかない。かといって、ノーと答えたら、琴子がなにをしでかすかわからない。  ああ、逃げ出したい。 「――いや、まあ……そんなんじゃないけど」  携帯のマイクの部分を指で押さえながら、あいまいに答える。あとは、現代のマイク性能の低さに希望を託すのみだ。  着信音。  背筋が凍りついた。  おそるおそる、携帯を開く。メールを受信していた。  見る。  それは、見知らぬアドレスから送られてきたメールだった。本文の欄には、携帯のものらしい電話番号が書いてある。  琴子――じゃ、ない? それじゃ、これは……。 「届いた?」  横で城ヶ島さんが、開いた自分の携帯を振りながらほほ笑んでいた。携帯には、俺の番号が登録されたメモリーが映っている。 「こ、これ……城ヶ島さんから?」 「うん。ごめん、さっきメルアドと番号見ちゃった」 「見ちゃったって……それだけで覚えたの?」  番号はともかく、アドレスは英数字だけで十桁以上はある。本当なら、ちょっとした特技だ。 「そういうの、覚えるのは得意なんだ」  だから世界史とかも得意なんだよ、と城ヶ島さんは無邪気に笑った。実は、すごい人なのかもしれない。  なんにせよ、琴子は何も言ってこない。それが逆に不気味でもあるのだが。 「あ」  城ヶ島さんが、急に立ち止まった。ファーストフード店のガラスに張ってあったポスターに気づいたらしい。 「夏祭りだって」  花火や浴衣姿の親子連れの絵が、夜の色の背景に描かれている。 「ああ、これ」  琴子が言っていたのと同じものだ。開催は三日後。今年もあるのは知っていたが、こんな間近に迫っていたのか。多分、連れて行けってうるさいだろうなあ。  どうやって琴子の申し出をかわそうか考えていると、城ヶ島さんがこちらを見上げているのに気づいた。 「――ねえ。いっしょに行かない?」  すぐには、彼女が何を言っているのか理解できなかった。  あまりにも唐突すぎて、自分が聞いた言葉が信じられなかった。  答えられない俺に、城ヶ島さんが続ける。 「みんな、彼氏と一緒に行くって言って、私だけのけ者にされちゃってて」  てことは、城ヶ島さんはフリーということか。瞬間的に心の中でガッツポーズ。  それじゃ……さっきの言葉は、夏祭りに同行してほしい、という意味でやっぱりよかったのか? 「電車のときみたいにさ、何かあっても坂下くんがいっしょなら安心だし。あ、予定があるんなら、いいんだけど」  答えはひとつしかない。  俺は、携帯の電源を切った。           3  昼休み。体育倉庫に駆け込んだ俺は、ポケットから携帯を取り出した。  今は電池パックを外している。  携帯の電源が入っていたことに気づくのがもう少しでも遅れたら、危なかった。  俺の名をかたったいかがわしいメッセージが、メモリーに登録されているアドレスに片っ端から送りつけられるところだった。男友達ならまだシャレですむかもしれないが、女友達や親のアドレスも携帯には入っているのだ。 「はあ、はあ、はあ……」  息を整える。体育倉庫の無骨なコンクリート壁が今は心強い。ここなら電波は届かない。  外していた電池パックを携帯にはめた。  すぐさま電源が入る。ちなみに、俺は何もしていない。琴子だ。自動電源の入れ方は教えていなかったはずだが、どうやら自分で発見したらしい。 『あ、圏外! この卑怯者!』  どっちがだ。琴子が送れなかったメッセージを、未送信メール欄で確認しながら、俺はため息をついた。  その下に、『ボクのヒミツ発表!』というタイトルのメールが残っていたので、慌てて削除する。内容は――思い出したくもない。  ちなみに今の待受け画面は、黒い背景に抜き身の日本刀が一本だけになっている。鋭利に光る刃に、ぞくりとした。写真のようにリアルだ。画面をよく見ると、切っ先から赤い色が垂れていた。  俺は慌ててメール画面を開き、刀の絵を消す。いつの間にか手のひらに汗をかいていた。  一息ついてから、携帯に打ち込む。 『お前なあ、ちょっと冷静になれよ。あんな文章ばらまいたって、どうしようもないだろ』  メールを保存する。と、そのメッセージより先に、さっきまではなかったメールができていた。  琴子からの返事だった。まだ、俺が書いてから十秒も経っていない。 『うるさい! 自分の目の前で浮気されて、怒らない人間がどこにいるのよ! 本当なら、あんたを八つ裂きにして東京湾と富士樹海に分けてばらまいてやりたかったところだけど、この程度ですんでラッキーだったくらい思いなさい!』  怒りに任せてまくしたてているのだろう。めちゃくちゃで、何を言っているかすらわからない。  ただ、とてつもなく怒っているということはわかった。  俺は、ため息をつく。そうだ。いくら言いつくろっても、俺が悪いんだ。 「琴子、聞こえてるよな」  俺は手の中の携帯に向かって声をかけた。 「悪い。俺、もうお前のこと好きでもなんでもないんだ。もちろん、いいやつだとは思ってるけど、でもそれは、恋人としてじゃない。別の人が……城ヶ島さんのことが好きなんだ。だから、お前が戻ってきても、困っただけだった。でも、俺しかお前が戻ってきたことを知ってるやつがいなくて、俺以外に誰も喜んでやれるやつがいなくて、だから突き放すことができなかったんだ。……いや、すまん。これ、言い訳だな」  とにかく、言わなければいけないことは、伝えた。  体育倉庫は静かだった。声を出してわかったが、ここは一人でいるにはさびしすぎる。  携帯を開く。メッセージがあった。 『私だって、好きで携帯になんか戻ってきたわけじゃないよ。好きな人の一番近くにいられてしあわせだなんて、嘘。普通に話すことも、普通に怒ることも、普通に抱き合うこともできないんだから。  でも、わかった。それなら、私は消えることにする』  そして、電源が切れる。  真っ暗な画面を見つめながら、俺は目をしばたかせた。 「琴子?」  慌てて、電源をつけた。  待受け画面は、天使でも刀でもない――彼女が来る前の、そっけないカレンダーのものに戻っていた。 『琴子? 消えるって、どういうことだよ?』  そうメッセージを書き残すが、返答は一向に返ってこない。  ふと思い出して、メモリーを探してみた。「は」行の欄を上から探していく。  なかった。  「葉山琴子」の名前が、携帯から消えていた。          4 「あ、坂下くーん」  学校近くの駅の改札前で、城ヶ島さんは手を振っていた。  藍色の浴衣を着ている。帯はそれとは対照的な山吹色。髪は上げていて、細い首筋がくっきりと見えた。 「ん? どうかした?」  いつまでもぼんやりとしていたせいか、城ヶ島さんは不思議そうに見上げてきた。 「いや、浴衣姿だなあ、と思って」  もう気が利かないというレベルですらない台詞。俺は普通の服を着てきてしまってよかったかな、ということを言いたかったのだが。 「だいじょうぶだよ。気にしなくても」  なぜか話はかみ合ってたりする。 「じゃあ、ちょっと早いけど行こっか」  そういって、彼女は先に歩いていく。  周りにも、浴衣姿の人たちがちらほらと見えた。  今日は夏祭りである。  最後のメールから、ずっと琴子は消えてしまったままだ。  嫌がらせのつもりなのか、ピクチャメモリーにはセキュリティをかけていて、暗証番号を入力しないと見れないようにしてあった。もちろん、暗証番号も変更されているので、俺には開けることができない。  本当に消えてしまったのか。それともなにか悪巧みをしていて、今はなりを潜めているだけなのか。  どちらにせよ、琴子が出てくるなら今日しかないはずだ。俺はポケットの中の携帯を、ズボンの上から確かめた。 「坂下くーん、これこれ」  先を行く城ヶ島さんが手招きしてきた。今度は綿菓子だ。城ヶ島さんは、手が空くたびに、近くの屋台で何かしら補充して食べ歩いていた。すでに、カキ氷、たこ焼き、りんご飴、焼きそば、チョコバナナ、焼きもろこし、大判焼き、またカキ氷と、かなりの量を平らげている。  河原の土手の上には、屋台が軒を連ねていた。聞こえるのは、屋台の発電機の駆動音と花火見物の喧騒ばかりだ。土手の上から河原のほうを見下ろすと、かなりの人があふれているのがわかる。家族連れが多いが、中には敷布を広げて酒を飲んでいるサラリーマンの団体がいたりもした。 「坂下くん?」  城ヶ島さんは綿菓子を両手に持っていた。片方を俺のほうに差し出してくる。 「おじさんがおまけしてくれたの。彼氏の分、だって」 「お、俺?」  綿菓子の屋台を見ると、頬に傷があるいかついおっさんが、小学生くらいの女の子に綿菓子を渡していた。にこりともしていない。おまけをしてくれるようには見えないのだが。 「さあ、遠慮はいらないっ」  そう言われ、半ば強引に押し付けられた。 「う、うーん……」  ためしにひとくち食べてみる。一瞬で虫歯になりそうな甘味が、舌にねばりついてきた。全部食べたら、それだけで胸焼けを起こしそうだ。  綿菓子を無理やり口の中に放り込みながら、城ヶ島さんの後を追う。山吹色の帯の結びが揺れている。ときどきこっちを振り返り、綿菓子がちょっとだけついた口をほころばせて、笑いかけてきた。  楽しそうだった。  だが、俺のほうはいまひとつ乗り切れていなかった。この感覚は、前にも感じたことがある。あれはたしか小学校のころ、おばあちゃんのお見舞いをサボって友達の家に新作のゲームをやりに行ってしまったときだ。  楽しいはずなのだが、何かが胸の中に刺さっている。  結局、それからおばあちゃんは――。 「ねえねえ、坂下くん!」  城ヶ島さんが声をかけてきた。手の割り箸からは、もう綿菓子が消えていた。 「次は、これ」  見ると、金魚すくいである。ビニールシートで作ったプールの中を、赤や黒の小さな金魚が何匹も泳いでいる。  思わず、言葉が口をついた。 「金魚、食べるの?」 「え?」  城ヶ島さんは一瞬だけきょとんとする。自分が何を言ったか、俺はようやく気がついた。やばいと思って弁解しようとしたとき、先に彼女のほうが吹き出した。 「やだぁ。坂下くん、なに言ってるのよぉ」  おかしそうにお腹を押さえて笑いつづける。  よかった。冗談だと思ってくれたらしい。 「ごめん。つい――」 「あぁ、もう。シツレイしちゃうなあ。えい、罰として一匹とって進呈しなさい」  笑顔で命令されては、やるしかない。 「――よし」  俺は屋台のおじさんに二百円を渡し、紙を張ったしゃくしとお椀を受け取る。  これでも自信はあった。 「坂下くん、がんばって」  城ヶ島さんが後ろで声援を送ってくれた。そうだ。俺は今、祭りの中にいる。城ヶ島さんのためにも、がんばらなくてはいけないのだ。  金魚すくいのコツは、とにかく紙に金魚を触れさせている時間を短くすることだ。お椀としゃくしをできるだけ近づけ、一瞬ですくい上げる。金魚のほうも、あまり元気がなくかつ小さいものを選んだほうがいい。そうやって、紙にかける負担をなるべく軽減していくのだ。  そう、琴子が言っていた。  琴子が――。 「あ、惜しいっ」  後ろから城ヶ島さんの悔しそうな声がした。手元を見ると、俺の紙は破けてしまっていた。ぽたぽたと水をたらしながら、紙が針金からはがれ落ちようとしている。 「よし。じゃあ、今度は私ね」  その城ヶ島さんの言葉で、俺は我に返る。慌てて、おじさんにお椀としゃくしを渡した。  城ヶ島さんが張り切っていた気がするが、正直よく覚えていない。  思わず、携帯を開いて見てしまっていたから。 「さ。ここだよ」  花火見物の穴場がある、と城ヶ島さんに連れられてきたのは、道から少し外れた茂みの前だ。城ヶ島さんは浴衣の裾を押さえながら、草の上に座った。俺もそれに倣う。草の上は、アスファルトよりも涼しい気がする。  たしかに穴場だった。目の前には屋台の明かりが見え、祭りの喧騒も聞こえる距離である。にもかかわらず、俺たちのほかには誰もいない。  なんでだろうと思って辺りを見回すと、茂みの向こうに長い四角のシルエットがいくつか見えた。  墓石である。つまり、ここは墓地の裏なのだ。  城ヶ島さんはそれを気にしてる様子もなく、手首から下げたビニール袋を見つめている。赤と黒の金魚が二匹ずつ入っていた。 「結局、私が取っちゃったしね」  そう言って、俺の前に袋を揺らした。 「期待したんだけどなぁ。取ってくれるって」 「……ごめん」  多分、城ヶ島さんの軽口は冗談のつもりだったのだろう。自分が誰に謝っているのかすらよくわらからない。 「やだな。謝ることじゃないよ……」  城ヶ島さんの声は、遠くの屋台の明かりしかないこの場所の闇に、沈んでしまった。  沈黙が訪れる。 「あっ」  川の上に、大輪が咲いていた。  それから一瞬だけ遅れて、どーん、という低い音が響いてくる。 「――花火」  城ヶ島さんがぽそりとつぶやく。  だけど、俺は別のことに驚いていた。  ――琴子に見せてあげたい。  遠くに聞こえる拍手と歓声を聞きながら、となりに城ヶ島さんの息遣いを感じながら、俺は、琴子のことを思っていた。 「はーぁ」  となりから、盛大なため息。  思わず城ヶ島さんのほうを見る。  目が合った。暗がりの中でも、水面のように輝いている大きな瞳が、俺のほうを向いている。  まるで、何もかも見透かしているかのように。  城ヶ島さんが、いたずらっぽく口元だけで笑った。ぞくりとする。自分が、なにか決定的なミスを犯してしまったかのように感じた。 「坂下くんさぁ。今日、私が何度、坂下くんに向かってあっかんべーをしたか、知ってる?」 「え?」  城ヶ島さんは俺に向かって舌を突き出した。舌先だけ、というかわいげがあるものではなく、顎につくくらい思いっきり伸ばしている。  そんなの、まったく気づかなかった。 「いや、その……ごめん」 「はぁ」  もう一度、大きなため息をついた。  二発目の花火が上がった空を見上げながら、つぶやくようにして言ってきた。 「彼女とケンカしたんでしょ?」  どきん、と。自分の心臓が、破裂しかけた。  さっきの、すべてを見抜いていたかのような視線。彼女は、知っているのだろうか。 「彼女なんて……」 「うそ。この前見せてもらった待受けの絵。彼女じゃなかったら、一体誰があんなかわいいのを待受けにするのよ。綿菓子もろくに食べられない人が、少女趣味だなんて言わないでよね」  城ヶ島さんは、もう笑っていない。暗いトーンで、淡々と語りかけてきた。 「……あいつは、彼女なんかじゃないよ」 「もしそうだとしても。気にはなってるでしょ」  否定しようとしたが、彼女の目を見たら、何も言えなくなってしまった。 「今日だって、もんのすごくつまらなそうにしてたし」 「あれは……」  言い返せない。  城ヶ島さんが楽しそうにしているからいい、と思っていたが、違ったのだ。彼女は、無理にでも楽しい素振りを見せていたのだ。  俺は、一体何をやっているのだ。  と。城ヶ島さんが膝に顎を乗せた姿勢で、口の中でなにやらぼそぼそ言っている。まったくいい迷惑よ、こっちの気も知らないで、私だって――はぁぁ。  後半は、ため息にかき消され聞こえなかった。  三発目が上がった。ひときわ大きい花がみっつ、連続で夜空に咲いた。 「なかなおりぃ」  自分の膝に顔を押し付けて、城ヶ島さんが間延びした調子で、言ってきた。 「彼女とぉ。してきなさぁい」  顔を上げてくる。恨めしそうな顔。 「今しないと、後悔するよ」 「でも、あいつは……」  言葉が続かない。あいつは何度呼びかけても、本当に消えてしまったかのように応えてくれない。  何度目かのため息を吐きながら、城ヶ島さんが浴衣のたもとから携帯を取り出した。 「黙ってようって思ったんだけど……実は、彼女からメールをもらったんだ」 「え!」  携帯をいじりながら、城ヶ島さんは淡々としゃべる。画面の明かりに照らされて、彼女の表情はひどく無機質に見えた。 「なぜか坂下くんのアドレスから送られてきたけど。自分は坂下くんのことを諦めるから、あたなよろしく、だって」 「それ、いつ?」 「昨日――いや、今日かな。真夜中の四時くらい」  驚いた。琴子は消えていなかったのだ。 「まったく。信じられない。自分が好きな人のために、他の女にその人を託すなんて。私なんかじゃ真似できないよ」  そう言って、肩をすくめる。  いつの間にか、城ヶ島さんは笑っていた。 「だからさ。行きなよ。そんな人、不幸にしちゃいけないよ」 「……ありがとう」  俺はそれだけを言い残し、走り出した。どこでもいい。とにかく、どこかへ。          * 「まったく」  仙太郎が走り去ったあと、一人になった城ヶ島は草の上に大の字になって転がった。 「あっかんべーなんて、してないっての」  だけど、同じだ。尋ねた瞬間の仙太郎の慌てぶり。あれはどう見ても、城ヶ島のことなんか見ていなかった、という証だ。  城ヶ島は苦笑した。それは自分も同じだった。慣れていない帯で締めつけられたお腹をさする。緊張してうまくしゃべれず、食べてごまかしているうちに食べ過ぎてしまうなんて、バカげてる。  寝転がったまま、携帯を操作する。メール欄の中から一通のメールを開いた。仙太郎のアドレスから『はじめまして』という題名で送られてきたものだ。 『最初に断っておくと、私は仙太郎ではありません。アドレスを借りているだけです。今回は、あなたにお願いがあって仙太郎には内緒でメールしました。  仙太郎をお願いします。  訳あって、私はあいつと一緒にいることができません。だから……と言っては失礼かもしれませんが、あなたに任せます。それでも、あなたにも悪い話ではないはずです。もしかしたら仙太郎と一緒にいて、私の存在に気づくことがあるかもしれませんが、気にしないでください。それに、仙太郎の気持ちだってあなたに向いていますし。その点は、心配いりません。証拠も、最後に添付します。 仙太郎を好きでいてやってください。  それでは、お願いしまたから』  文末に着メロの形に加工された音声メッセージが添付されていた。  それを作動させると、城ヶ島は携帯を草むらの中に放り投げる。袖で顔を覆い隠すように、両腕を額の上に乗せた。 〈……城ヶ島さんのことが好きなんだ〉  仙太郎の声で、そんなメッセージが、流れた。  遠くの空に、花火が上がる。 「ばーか」  その花の開く盛大な音のおかげで、わずかに震えたこの声を聞く者は、世界に彼女一人しかいなかった。          5  駅前には、浴衣を来た人がちらほらと見えた。やっぱり、普段着の人たちの中にいると目立つ。これから向かうのだろう、駅から出て俺が来た方向に向かっている。  バスのロータリーを望む駅前の広場。ここは、俺が琴子に告白された場所だ。 (……一年か)  今でも、はっきりと覚えている。  あの日の琴子は、ずっと怒っているのかと思った。何を話しかけても二言目で切られるし、ここで向かい合ったときもにらみつけるような視線だったし。  全部、緊張していたせいだ、と告白のあとに笑いながら琴子は言っていたけど。  俺は噴水のへりに腰かける。他にも二組のカップルが、俺と同じように座っていた。 「さて」  とりあえず、携帯を開く。  きっと、琴子は俺と城ヶ島さんが離れたことは知らないはずだ。  今はもう普通の携帯になってしまっているから。  いや、そうじゃない。  普通の携帯に成りすましているのだ。  俺がメールを打てばその内容を知ることができてしまう。例えば、俺が城ヶ島さんと付き合うことになったとしたら、その恋人同士の会話を見えてしまう。  そんなもの、見たくないはずなのに。  琴子はそこまで覚悟して、俺の前から姿を消す道を選んだのだ。 「バカ野郎……」  俺は、メールを打ち込む。 『琴子、出てきてくれないか。俺、やっぱりお前のことが』  そこまで書いて、指を止めた。  なんて都合がいい言葉なんだろう。こんなもので許しを請うなんて。  俺はメールを送らずに破棄する。どうせ琴子には見えているのだろうが、送ってしまうのは自分が許せなかった。  俺はピクチャライブラリを開こうとする。  暗証番号の入力が求められた。四桁の数字を入れる形式である。  琴子は、唯一これだけを残して消えた。きっとここに琴子の手がかりがある。  ならば、それを見つけるのが俺のすべきことである。  思いつくままに、四桁の数字を入れていく。俺や琴子の誕生日、最初に出会った日、琴子が戻ってきた日……。  だが、どれを入れても『暗証番号が違います』というメッセージが返ってくる。  日本の祝日を片っ端から入れたところで、ついにネタが切れた。 「くそっ」  噴水の水の音の切れ間から、花火の音が断続的に聞こえる。それが、ひどく遠くの出来事のように感じて、胸が苦しくなった。  携帯の画面には、あいも変わらず『暗証番号が違います』という文字。ここまで当たらないと、裏で琴子が暗証番号をその場その場で変更しているのでは、とさえ思ってくる。  そうなると、仮に総当り式で番号を打ち込んでいっても、ここが開かれることはないのではないか。一万分の一の確率でなら開かないこともないだろうが。 「違う、そういうことじゃない」  俺は、バカな考えを否定する。そんなことで開いても、琴子は許してはくれないだろう。 「だからって、これ以上どうしろって……」  夏祭りが終わってしまう。  琴子が見たがっていた花火が。  いまさらだとは思うが、その約束は叶えてやりたかった。 「……そういえば」  俺は携帯のスケジュール帳を開き、カレンダーを過去にさかのぼっていく。  あった。一年前の今日――琴子と行くはずだった夏祭りの日に。  メッセージが。 「これって……」  開くと、四文字の数字が並んでいた。  0625。それは、祭りの日の日付だった。  暗証番号だろうか。だが、これはたしかはじめに入力していたはずである。 「でも……」  数字は同じでも、意味が違う。これは、琴子が残してくれた番号だ。俺は確信を持って、、それを暗証番号として打ち込んでみる。  開いた。あれだけ苦労していたのが、嘘のように。  ピクチャライブラリは、メモリ目一杯まで使われていた。  絵だ。俺と琴子が並んで登校する絵。休日に二人で食事をする絵。二人とも浴衣を着て夏祭りに行く絵。中には、作りかけのものもあった。  すべての絵に、俺か琴子が描かれていた。 「……あ」  最後の一枚。それは絵ではなく、写真だった。いつの間に撮ったのか、俺の寝顔が撮影されていた。頬杖をついたまま、机でうたた寝をしているのだ。  撮影日は、琴子が消えた次の日になっていた。  あんなにかたくなに、消えていようとしたのに。 「――こいつは」  俺は、自分が笑っていることに気がついた。  恋敵を応援したり、ケンカ中の相手の寝顔を撮影したり。  それが、琴子というやつなのだ。  俺たちは普通に話すことも、普通にケンカすることも、普通に抱き合うこともできない。それがどうした。琴子は、琴子だ。ここにしかいない、俺の恋人である。  俺はアドレス帳を開き、『城ヶ島早美』の名前を選ぶ。  やっぱり、俺も最大限、琴子の気持ちに応えなければいけないだろう。  サブメニューの中から、削除を選ぶ。  『城ヶ島早美のデータを削除しますか』との確認メッセージ。「はい」と「いいえ」の選択肢が用意されている。  それを二度、読み直し――「はい」を選んだ。  『削除しました』というメッセージを確かめてから、俺は携帯を閉じる。 「ふぅ」  俺の中からも、何か余計なものが消えた気がする。ひどく、心がすっきりしている。  着信音が手の中から聞こえた。 『ちょっとなに考えてるのよ!』  メッセージは、簡潔に一行だけ。  送り主は……見慣れないアルファベットの羅列が表示されていた。  ああ、これじゃあいけない。  俺はサブメニューから『送信元登録』を選ぶ。  メモリーの登録画面が開く。名前を記述。葉山こ――。  入力途中で、メールを着信してしまった。 『やめてよ、いまさら』  こういうとき、メールはなんてわかりづらいんだろう。文字だけでは、拒絶しているように見えてしまうではないか。単に意地になっているだけだとしても。  俺はメール画面を閉じ、編集途中のメモリー登録画面を呼び出す。  そして、名前を今度こそ、もどかしい名前を書く。  葉山琴子。  登録すると同時に、またもメールが届いた。  送信者は、今さっき登録したばかりの名前。 『  』  だが、文章は何も書かれてはいなかった。  ただ真っ白な画面が表示されているだけだ。 「ん?」  違う。画面のまん中で何かが光を反射している。内側でなく、外側についているようだ。  つぅー、と。画面の上を伝う。  指でぬぐってみると、水だった。携帯の温度が移ったのか、わずかに熱を帯びていた。  後ろを振り返ると噴水が高く水をまきあげている。 (これ、か?)  風に水が運ばれて、画面に落ちたのか。でも、いつの間に。 (まあ、いいか)  あえて考えないことにする。  そういうことが、あってもいいと思う。 『さて。最初のデートは、夏祭りだったよな?』  そう書いて、琴子の返事を待つ。  たっぷり、三分は待った。ひとしきり泣いて、ようやく言葉らしい言葉が出てくるようになる時間、だろうか。 『バカだよね、仙太郎くんって』 「ほっとけ」  苦笑しながら、俺は噴水から腰を上げる。  ふと、指先についた雫を思い出す。今はもう乾いてしまったが、濡れた感触はまだわずかに残っている。  俺は、指先に口付けをして歩き出した。  恋人をポケットに入れて。                    了 1