レインブレイカー                 京路  びしょ濡れになったハルカは、木の下からあたりをうかがった。  木から一歩先は激しい雨で白く染まり、何も見えない。大きな雨粒が地面を削って泥をはねさせていた。  ハルカは、自分の靴も泥で汚れていることに気づいた。プリントされた白いウサギのマスコットが、泥どろでまだらになっている。  昨日、ママが買ってきてくれたばかりなのに。  新しい靴ではしゃぎながら歩いているうちに、知らないところにきてしまった。困っているうちに、雨が降ってきた。慌てて公園の木の下に逃げ込んだが、雨は強くなるばかり。  このままずっと降りやまないかもしれない。  こらえきれなくなって、ついにハルカは泣いてしまった。  思いっきり声をあげる。これ以上ないくらいに大きな声を出して泣いた。雨音が激しいこともあってか、遠慮はない。ほとんど絶叫だった。  近くに雷が落ちる。  轟音と振動が、ハルカの声をかき消した。 「ひっ」  しゃっくりのような声を出して、ハルカは固まってしまう。  涙まで、引っ込んでしまった。  そして、気づいた。  白い雨の降りしきる中に、黄色い影が立っていることに。 「――っ」  今度は声も出なかった。  雨でかすんでよく見えないが、とにかく黄色い。背はハルカと同じくらいで、人の形をしている。 「だいじょぶっすか?」  男の子の声。  近づいてきたら、なんてことはない、黄色いレインコートを着た男の子だった。ぶかぶかの黒い長靴を音を鳴らして近づいてくる。フードを被っていて、顔はよく見えない。  普通の、しかも自分と同じくらいの子を相手にびびってしまったのが悔しくて、ハルカは強がった。 「べつに」 「泣いてたみたいっすけど?」 「しらないっ」  男の子は少し考える。「……ならいいっす」とそっけなく言うと、背を向けた。  ハルカは、慌てて引き止めた。 「い、行っちゃうの?」  声が震えていた。情けない。だけど、このままひとりで置いていかれるよりは、笑われたほうが百倍もマシだ。 「ここにいてよ!」 「そうは言っても――」  ハルカのほうに顔だけは向けはしたが、男の子の体はまだ反対側をむいたままだ。  手にしたピンクの傘に目をやりつつ、 「妹、迎えに行かないといけないんすよねえ」  拒絶された。 「待ってよ! 行かないで!」  木の下から飛び出し、男の子のレインコートをつかむ。 「おいてかないで!」  レインコートの濡れたビニールで手を滑らせるが、それでもつかみなおす。雨と涙が混じって、もう手の感触でしか彼を感じることができなかった。 「あー、しゃーねえっすね」  体を打ち付ける雨が、止まった。  顔を上げると、男の子がピンクの傘を広げていた。傘の柄を押し付けられ、受け取った。今まで彼が握っていたせいか、握った部分はあったかかった。 「それ、あげるっす」  そう言って、彼はレインコートを翻す。ガポガポと鳴る長靴で泥を跳ね飛ばしながら、弱くなり始めた雨の中を走り去っていった。  ハルカは、ずっとその方向を見ていた。  不思議と、もう不安はなかった。彼からもらった傘を握りしめていると、それだけで心が暖かくなってくる。  すぐに雨が止み、雲の切れ目から日が照ってきた。  傘を傾け、日に顔をさらす。 「わあ」  久しぶりに見たような太陽。  それは、彼の傘と同じあったかさを持っていた。  それは十年前のこと。  雨が人を殺すなんて、まだだれも想像すらしていなかったころ。           1  外では、雨が降っていた。  梅雨特有の、長く続く小雨だ。雨音といっしょに、湿気を帯びた風がこの駐車場にも吹き込んでくる。  その風で、散乱していた菓子の袋が転がった。カビが生えたポテトチップがこぼれ出し、床に散らばる。その一枚が、水たまりに落ちて流れていった。  水たまりの中心に、少女が座っていた。  髪から水が滴るほどに濡れていた。制服姿で、落書きだらけの壁に寄りかかり膝を抱えている。この雨の中を走ってきたのだろう、息が荒かった。  呼吸の切れ間に、何かをつぶやいている。 「たしはハルカだ――あた、しはハルカ、だあたしは――ハルカだ、あた」  ただひたすらに、自分の名前を唱えていた。そして、膝を抱える手に力を込める。  まるで、自分の中にいる何かを、ぐっと押さえつけるように。  風向きが変わった。  「うぉぉぉぉ」という男のうめき声に似た音が駐車場に響き渡った。  ハルカははっとして顔を上げる。  涙にうるんだ目で、駐車場の端を見やる。だが電気の供給の止められたそこでは、五メートルから先はもう何があるかわからなかった。 「……やだ……」  ハルカは自分の服を見て、顔を引きつらせた。いまさら、自分が濡れていることに気づいたらしい。  髪も服もその下の肌まで。  全身が――  雨に濡れている。  そのとき、不意に水の音が聞こえた。  ひとしずくが水に落ちる「ぽちゃん」という音。  ハルカは反射的に、あたりを見回した。首を左右に何度も何度も振る。だが、何も見つからない。  ――ぽちゃん――  しかし、音は続いている。近い。すぐ、近く。  そして、ハルカは気づいた。  自分の下の水たまりに。  ――ぽちゃん――  水たまりに波紋ができていた。だがそれは、広がるのでなく狭まっていた。円が中心に向かって小さくなっていき、そして一点に集まると、ビデオの逆再生のように浮かび上がり、天井に吸い込まれていき、  ――ぽちゃん――  そいつの体に吸い込まれた。  犬を模した体は、二メートルはある。水を数十倍まで圧縮しているので、透明なのに黒く見える。ぬめりとした表面が、両生類の肌に似ていた。  ハルカは、動けない。逃げることができない。ただ、そいつを見つめつづけるしかできない。  と、その化け物の体の中から、影が浮かび上がってきた。  音も立てずに、何かが背中から落ちてきた。子供くらいの大きさで、布が巻き付いている。地面に落ちると乾いた音を立てて崩れてしまう。細かいチリが飛び散った。今まで水の塊の中にいたはずなのに、枯れきっている。  それは、人間だった。  全身の水分を搾取され尽くした、その残りカスだった。 「っ」  ハルカの中の何かが破裂した。 「いやぁぁぁぁ!」  声を上げると同時に、手足の感覚が戻った。  前のめりになりながらも、走り出した。  それを追うように水の化け物も地面に落ちる。ずん、という重い音が響き、コンクリートにわずかながらひびが入った。  震動で足がもつれ、ハルカは転んでしまう。そこで糸が切れた。一度止まった体は、もう動けなくなった。  化け物は四肢をふんばる。足が一瞬だけ膨らみ、そして収縮する。押し込められた水が一気に開放され、化け物の体を前方に打ち出した。  ハルカは、自分に迫る十トン以上の水の塊を、ただ見つめることしかできない。  ぐっと、最後の力で目を閉じようとした瞬間。  ハルカの目の前が真っ黒になる。  意識を失ったわけでも化け物につぶされたわけでもない。  突然後ろからのびてきた黒いものに、視界をさえぎられたのだ。 「え?」  それは、傘だった。人ひとり分くらい余裕で隠せる、馬鹿みたいに大きな雨よけの布だ。黒く塗りつぶされた布が、指くらいの太さはある屈強な骨組みに張られていた。  あっと思った瞬間。傘の前が大きく歪んだ。と同時に、傘がハルカの上を回って反対側に向きを変えた。  ハルカのほうに飛んできたはずの化け物は、ハルカを飛び越え反対側に飛んでいった。コンクリートの壁にぶち当たり、形を崩す。そのときになってようやく、傘が化け物の突進を受け流したのだ、とハルカは気づいた。  傘が、閉じられた。  閉じてもなお大きい。立たせた傘は三メートルはあり、穂先が天井に当たりそうだった。 「だいじょぶっすか?」  槍のような傘を肩に担ぎ、そいつが言った。黄色いレインコートを羽織っている――声から察するに、少年。フードを目深に被っているので顔は見えないがハルカと同世代くらいだろう。 「なにやってんすか、こんなに濡れて。死んじゃいますよ?」  野暮ったいしゃべり方に、ハルカは急に反発心を覚えた。 「わかってるわよ!」  レインコートは、肩をすくめた。 「すると、自殺志願者ってやつすか?」  ハルカは一瞬声を詰まらせて、 「そうよ……」  と、つぶやくように言った。 「ああ、なら悪いことしたっすね。じゃあ、すんでから倒すことにします」  そういって、二、三歩後ろに下がる。 「は?」 「俺はヴォジャノーイをぶっ飛ばしてるだけで、死にたい人を邪魔するつもりはぜんぜんねっすから。気にしないで」 「ヴォジャノーイ?」 「あ。あれのことっす。俺が勝手にそう呼んでるだけっすけど」  そう言って水の化け物を指差した。  壁に打ち付けられ形を崩していた化け物――ヴォジャノーイは再生し始めていた。水の塊から四本の足が伸び、頭が生えていく。 「しっかし、あいつに食われようとするなんて、なかなか大したものっすね。俺は絶対にやだなあ。なにせ、溺死と圧死と枯死を同時にやられるわけっすから」  ヴォジャノーイは水を操る。それはハルカもニュースで見て知ってはいた。引き寄せたり飛ばしたり、形を持たせたり圧縮したり、人ひとりを殺してくれるには十分すぎる力がある。 「あいつら、まず人を取り込んだら徹底的に遊ぶんすよ。水に圧力かけて手足からつぶしたり、肺に送り込んだ水を出し入れしたり。で、飽きたら全身から水分奪っておしまいっす。あ、これっすね」  レインコートはヴォジャノーイから吐き出されたミイラを見つけた。  懐からペットボトルを取り出し、とろみのある透明な液体を振りかけた。マッチを擦って放り投げると、燃え始める。液体は油か何かだったのだろう。  ペットボトルには、まだ半分ほど油が残っていた。それをハルカに見せ、 「ちゃんとあなたも火葬してあげるっすね」 「ふざけ――」  ハルカの腕が生ぬるい何かに絡めとられた。  それは、水だった。ヴォジャノーイの顔から、カメレオンの舌のように伸びてハルカの腕を捕らえていた。  腕に激痛が走る。水が石のように重くなり、ハルカの腕を押しつぶしてきた。  痛みがイメージに擦り返られた。自分はこのまま化け物に食われ、水の中で乾いて死ぬ。死体はそこのレインコートに燃やされて、誰にも知られないままこの世から消えてしまう。  誰にも、  ハルカという人間が死んだことすら知られない。 「――いやだ」  ハルカは、叫んだ。 「いや! 助け」  言葉は続かなかった。  ヴォジャノーイの舌の水が一気に膨張し、ハルカの全身を覆い尽くした。声が気泡になり水の中に浮かぶ。  レインコートは、地面を蹴った。  腕を水の中に突っ込み、ハルカの体を束縛から引き剥がす。飛沫と水音の中からハルカを抱き寄せた。  水はすぐに統制を取り戻し、ハルカを追いかける。今度はレインコートごと覆いつくそうと水を広げた。  それを、レインコートは片手で掴んだ傘でなぎ払う。  傘は水の幕を引き裂き、飛沫に変えて吹き飛ばしてしまう。  水にむせるハルカをコンクリートの上に降ろす。 「了解っす」  それはハルカの助けてという言葉の答えだった。最後まで言えなかったそれを、レインコートはしっかりと聞きとめていたのだ。  レインコートは傘を構え、ヴォジャノーイに向かっていった。  咳き込みながら、ハルカはレインコートの背中を見上げた。 「あぁ……」  レインコートが傘を振るうたびに、水しぶきが上がる。ヴォジャノーイも飛び散った水を戻す余裕などないらしい、体の色がどんどん透明になっていく。水の濃度が落ちているのだ。  ヴォジャノーイも前肢を振るい反撃するが、それすらも許されない。傘を叩きつけられ、肢は根元から削ぎ落とされる。ちぎれた肢は水に戻り、あたりに飛び散った。  ヴォジャノーイは後ろに跳び、天井に張り付く。深く伏せる間にも、失った肢を再生させてしまった。  肢が四つ揃った瞬間。レインコートめがけて突進してくる。  だが、ハルカに襲いかかったときほどの速度はなかった。  レインコートは、傘を逆にして構える。柄の頭を飛来するヴォジャノーイに向け、まっすぐに突き出した。  手元をひねったかと思った瞬間。  カン、という金属のぶつかる音が響いた。  傘の柄の頭から、尖った杭が突き出ていた。それはヴォジャノーイの体を貫通し、反対側に伸びている。  貫通した杭の先に何かが突き刺さっていた。紫色の肉の塊だった。心臓のように激しく脈打っている。そのたびに紫色の液体が飛び散らせ、脈動も弱くなっていった。  レインコートは傘を払い、その塊をコンクリートに叩きつけた。  水っぽい音を立てて、塊は潰れてしまった。紫色の液が抜けきり黒ずんだそれは、濡れたビニール袋のようにしぼんでしまった。  ドッ、という音。  ヴォジャノーイの体が、はぜた。圧縮された水が一気に元の量を取り戻した。灰色の水は白い飛沫に変わって、レインコートの体を呑み込んだ。 (あっ)  大量の水の中でも立ちつづけているレインコート。そのフードが一瞬だけめくれ、素顔が見えた。  だがハルカがそれと意識する前に、大きな波となった水に巻かれて意識を失ってしまった。           2  なにか、暖かいものに包まれていた。  覚えているのはその感覚だけで、結局、夢は見なかったのだと思う。  眠っていたらしい。  目を開けたら、白い天井があった。しみひとつない壁紙で、丸いプラスチックカバーの蛍光灯があった。  知らない天井だ。 「起きたの?」  頭を持ち上げて、ハルカは声のほうを向いた。  髪の短い女の子だった。ハルカと同じ制服を着ているが、リボンの色が違う。下級生だ。  タオルを首にかけて、歯磨きをしていた。不機嫌そうに、頭をぼりぼりかきながら言う。 「大丈夫そうね。じゃ、さっさと出てく」 「え?」  ハルカが目をしばたかせている間に、彼女はキッチンで口をゆすいだ。  ハルカはダイニングのソファで眠っていたらしい。タオルケットがかけられている。着ているのは知らないシャツとパンツで、枕もとに乾いた制服が畳んでおいてあった。 「あなた、誰?」  ハルカが尋ねると、彼女は面倒くさそうに答える。 「ナナミ」 「そうじゃなくて――」  タオルで口を拭きながら、ナナミが盛大にため息。 「駐車場で気を失ってるあなたを見つけて、家に運んで寝かせたの。家は今は私しかいないから気にしないでいいから」  原稿か何かをいやいや読んでいるような調子で、ナナミは言った。赤い歯ブラシをシンクの上のコップに放り込む。歯ブラシはほかに三本あった。青、黄、緑。緑は、まだ真新しかった。 「わかった?」  有無を言わさない強い口調に、ハルカはうなずいてしまった。 「じゃあ、出てって。もう朝。雨は止んでる。学校。OK?」  時計を見ると、七時を少し回ったところだ。まだ学校に行くのは早い。  ナナミもまだ家を出るつもりはないのか、椅子に座ってテレビをつけた。目覚まし時計のキャラクターが出てるエンタメ系のニュース番組だ。画面の隅に出ている天気予報では、降水確率は40パーセント。そして各地の外出許可状況が表示されていた。関東地方はほとんど外出しても問題ないと保証されていた。つまり、学校も会社も今日はあるのだ。 「――最低」  だが、そんなことは意に介さず、ナナミは占いの結果にため息をついていた。おどろおどろしい背景で、カニが泡を吹いていた。  しかたなく、ハルカはさっさと着替えることにする。 「っつ」  そのときになって、ようやく腕が痛むことに気づいた。昨日、化け物に締め付けられた場所だ。大したことはないだろうが、少し内出血を起こしている。  夢では、なかった。 「それじゃ、ありがと」  最後にハルカは声をかけるが、ナナミはテレビに向かったままだった。  助けてもらってなんだけど、ちょっと腹が立った。まるで邪魔者扱いだ。だったらなんで助けたんだろう。  そのまま玄関に向かい、湿ったままの靴を履いて家を出る。  マンションの一室だった。吹きさらしの通路から、街が一望できた。なんとなく、位置関係がわかる。どうやら知らない場所ではなかったで、安心した。  ふと思い出し、ドアの表札を確認する。  ネームプレートの入っている部分には何もなかった。ケースの白が、まわりの壁と比べて違和感があるくらい白かった。 「……なによ」  まるで、ついさっきプレートを抜いたみたいだった。  半年前だって、人は死と隣り合わせの生活を送っていた。  立つ位置を一メートル間違えただけで、電車や車に轢かれたし、高所から転落したり水に落ちたりした。  そうならなかったのはちゃんと線が引かれていたからだ。ここから先に行ってしまっては危ない、という安全と危険を分ける線だ。それはホームの白線という形にならなくても、人間なら無意識で感じることができる。そういう能力が備わっているのだ。  だから、雨に濡れたら化け物に殺される世の中に突然なってしまったとしても、案外簡単に順応できた。  雨が降っているときに外にでなければいいだけだ。正確には雨に濡れなければいいわけだから、小雨の場合なら傘一本あれば外出もできる。  つまり、世の中はあまり変わっていない。たしかに天気予報に新しい項目が増えたり、休校が増えたり、道にアーケードが多くなったが、そんなものは変化でもなんでもない。常識の範疇だ。  だが、彼は違う。半年以前を知らないのでそれが変化なのかはわからないが、ただただ異様だ。非常識が、服を着て自分と同じ教室に座っていたのだ。  日比谷テルオのことである。  一時間目の授業の最中、ハルカは自分の席から窓際に座っているテルオの頭をじっと観察していた。  頬杖をついたテルオは、「けり」の活用形について書かれている黒板ではなく、灰色の空を見上げていた。特に何もない、ただ灰色の雲が空を覆っているだけだ。  そのうちに舟をこぐかのように、ゆらゆらと頭を揺らしはじめた。あ、窓に頭ぶつけた。  教師に指名され、教科書を読まされたときも、しどろもどろになっていた。  体育でも同じだった。バスケットボールの試合中、ボールを顔面に受けて鼻血を出していた。しかも活動中でなく、コートの外で座っているときに。特に誰と話しているわけでもなく、ぼんやりと試合を見ていたわけだから、普通は飛んできたボールにくらい気づいてもいいもんだけど。  そんなわけで、ハルカの自信はぐらついていた。  昨日、大量の水に呑まれる直前に見たレインコートの顔。  最初は思い出せなかったが、あれはクラスメイトの日比谷テルオだった。  ――と思う。 「どーした、ハルカっ」  いきなり椅子の後ろから抱きつかれた。 「今日はぼーっとしてるじゃん!」 「ウメ――」  顔は見えないが、ハルカにこんなことをする人間は世界にひとりだけ。ひとりだけで十分。けらけら笑いながら、頬擦りしてきた。梅雨のせいか心拍数が常人の三割増な彼女のせいか、汗で湿ってべたべたしてる。 「うー、うっとおしい!」  ハルカがウメの顔を引き剥がした。頬を下から押し上げられ顔を歪まされたウメは、それでも「あはは」となぜかうれしそうに笑っていた。 「でも、今日はどうなされたんです? カバンも持ってきてませんでしたし」  ウメの後ろから、アヤノが心配そうにハルカの顔を覗き込んできた。この湿気でも黒い髪はさらさらと流れていた。  手には弁当の包み。いっしょに食べようというのだろう。  同じく弁当の包み――ただしこっちは重箱サイズ――を抱えたウメがハルカの前の椅子に座りながら、楽しそうに言った。 「ハルカっち、ガッコー久しぶりすぎて、持ってくるの忘れちゃったんだよー」 「ハルカさんはウメさんとは違いますから」 「あははー」 「一応言っておきますけど、褒めてません」  そんなやりとりを見て、ハルカも思わず笑ってしまった。 「あんたたちって、本当に変わんないね」  アヤノが目をしばたかせた。ウメは笑ったまま、椅子の背もたれを前にして座ってがっちゃんがっちゃんひとりロデオをやっていたが。 「変わらないって、たった一週間会わないだけでしょう? ゴールデンウィークがもう一回きたようなものじゃないですか」 「ハルカもハルカのままじゃーん」 「そうですよ、ハルカさんだって変わってないじゃ――ってウメさん、いいかげん鬱陶しいんでやめてくださいっ」 「あははー、アヤノがおこったおこったー」  ますますがちゃがちゃ。 「怒ってません!」 「しわがふえるー、にきびもふえるー」 「そんなこと言うの、この口ですかっ、この口ですかっ」  たしかに、黒髪の下のおでこには大きなにきびができていた。気にしていたらしい。アヤノはウメのほっぺたをつまんで引っ張った。  だが、そんな様子もハルカの目には映らなかった。うつむきながら、ぽそりとつぶやく。 「……違う」 「え? 何か言いました?」 「ううん、なんでも――」  ハルカは首を振ろうとしたが、視界の端にテルオが教室を出て行くのが見えた。  思わず立ち上がった。  ほっぺた伸ばされたままのウメが尋ねた。 「どひたの、はふか?」 「ごめん。ちょっと用事。先、食べてて」  そう言って、足早に教室を出て行ってしまった。 「どうしたんでしょう。今日のハルカさん、ちょっと変かも」 「……こひだね」 「恋? 恋ですか!」 「おんにゃのこが変ふぁるなんて、こひふぃかなひでひょー」 「どうりで、ぼんやりとしていると思ったら……」  アヤノは頬を赤らめて、満足そうにうんうんとうなずいた。 「ふぉころで、アヤノっひ……」  ウメはちょっと涙声になっていた。 「ひたひ……」           3  見失った。  一階の渡り廊下から校舎の裏に抜けていくところまでは尾行できたのだが、そこでテルオは忽然と姿を消してしまった。  校舎の裏は倉庫や木があるくらいで、隠れる場所はない。倉庫だって鍵が閉まっているから、中にはいないはずだ。 「どこいったんだろ」  コンクリートから地面に踏み出したところで、足の下に柔らかい感触があった。  地面がぬかるんでいた。曇った空と湿気のせいで、乾いてなかったのだろう。上履きのままきてしまったので、泥がついてしまった。  帰ろうかなとあきらめかけたとき、自分の足元に別の足跡があることに気づいた。  それはコンクリートの床から、木のほうに続いている。  見あげると、三階くらいの高さの位置に、黒い学生服のズボンが見えた。  緑の葉の中から顔が見える。テルオだった。 「んむ?」  向こうもハルカに気づいたらしい。ちらりと下を向いて、ハルカと目を合わせると軽く会釈した。 「な、なにやってんのよ!」 「あー、いや、弁当、食べてるっす」 「なんで木に登ってるの!」  テルオは困ったように笑って、 「風が気持ちいいんすよ」  そう言って大きなあくびをした。 「だからって、普通木に登る?」  ぽつりとつぶやいて、テルオを見上げた。また目が合った。 「あ、ここ、使うんすか?」 「そういうわけじゃないけど」 「もしかして、俺に用っすか?」  ハルカの表情から険が取れる。ようやく話が前に進んだ。 「てか、あんた誰っすか?」 「は?」 「いや、どっかで会ったような気がするんすけど。思い出せなくて」  木を蹴ろうかと思った。  だけど、なんとか留める。まだ同じクラスになってから二ヶ月くらい。覚えない人は、それくらいじゃ人の顔を覚えないのかもしれない。 「春川ハルカ。同じクラスの出席番号34番」 「ああ。言われてみれば、そんな名前の人もいましたねえ」  流された。  アヤノは「韻を踏んでいて美しい名前ですね」と褒めてくれた。  ウメは「下から読んでもハルカワハルカー」とか笑われた。  自分の名前を言って、普通に流されたのは初めてだ。  なぜか、むしょうに恥ずかしくなった。 「んで、なんの用すか?」 「えっと」  少しためらった。 「日比谷くんって、レインコートの人?」  言ってから、かなり説明が足りない質問だと思った。慌てて言い直そうとするが、 「そっすよ」  答えはあっさり返ってきた。 「うそ」  思わずハルカは言ってしまった。 「うそって……春川さんから言い出したんじゃないっすか」 「そうだけど……レインコートの人っていうのは、なんというか、雨の化け物を傘で倒す人のことで」 「ええ。だから、それ、俺っす」  何か腑に落ちない。 「普通、そういうことって秘密にしたりしない?」 「そっすか? たしかに自分から言ったりはしてねっすけど。でも隠すほどのことかなぁ」 「じゃあ、あの力はなんなの?」 「力?」 「だから、雨、殴り飛ばしてたじゃない」  コンクリートを粉砕する勢いの突進を受け流したり、何トンもある体を傘だけで殴り散らせたり。尋常ならない力だ。 「ああ。ちょっと鍛えてますから」 「……なら、あの傘は?」 「あんなの、ホームセンターにあるもんで作れますよ」 「でも、あんな杭が飛び出す仕掛けなんて――」 「パイルバンカーっすか? 自動車用のスプリングとかちょっと溶接しただけでできましたけど」  質問から一秒で回答される。あまりにも簡単に答えられてるので、馬鹿にされているような気さえしてきた。 「まさか、俺が謎の組織の改造人間だー、とか思ってたんすか?」  答えられなかった。それを肯定と受け取ったらしい、テルオは笑った。 「あはは、マンガの読みすぎっすよ」  ハルカは木を蹴っとばした。  半分は冗談のつもりだった。自分の力なんてたかが知れてるし、木はわりと太かったから。カブトムシじゃあるまいし、大丈夫だろうと思っていた。  まさか本当に落ちるとは。 「え――」  ハルカがそれと気づいたときにはもう、テルオの体は後ろに傾いていて、腰掛けていた枝から放り出されたところだった。  足も枝から離れ、体を支えるものは何もなくなる。木の葉を掴むがなんの助けになるはずもなく、重力に捕まった。  木の葉と枝をまきちらしながらの、一秒にも満たない自由落下。  木の一番下に生えた腕くらいの太さ枝に、後頭部を打ち付ける。そこが支点となって体のほうが半回転。うつぶせの形になって、地面に叩きつけられた。  どん、という衝撃が足を伝ってハルカの腹に響いた。 「う、うそ……」  テルオは、動かない。  みし、という音がして、最後にテルオが頭を打ちつけた枝が根元から折れる。そのまま、ぴくりとも動かないテルオの頭に落ちてきた。  ごちん。 「あてっ」  落ちてきた枝を押しのけ、テルオはのっそりと起き上がった。 「うぁ」  また鼻血が出ていた。  後頭部をさすりながら、上を向く。鼻の下に一筋、赤いあとがあった。 「あー、すんません。ティッシュねっすか?」 「え? あ――う、うん」  言われるままに、ポケットからティッシュを取り出し、一枚とってあげる。まるごとあげればよかったとすぐに思ったが、「どうもっす」とテルオはその一枚だけ受け取って、丸めて鼻に詰めた。 「……あの、大丈夫?」 「いや、服がやばいっすねぇ」  たしかにワイシャツやズボンは泥で汚れてしまっているが、もちろんハルカが心配したのはそういうことではない。  ハルカは木を見あげた。はらはらと、イチョウの葉っぱが落ちてくる。たしかに、この人は落ちたのだ。  三階の高さから、最悪の打ち所で。枝や葉のクッション効果なんかたかがしれてる。 「ちょっと着替えてくるっす。春川さんも次、教室移動っすよ」  そう言って、テルオは校舎のほうに歩いていった。 「あー、ほんと、今日の蟹座は最悪だ」           4 「日比谷くん」  放課後。ジャージ姿にローファーという無残な姿のテルオを、ハルカは昇降口の外で捕まえた。 「んあ?」  と、テルオは気の抜けた返事。もう鼻血は止まったらしく、ティッシュは外れていた。  ハルカのほうは緊張した面持ちで続ける。  放課後。ジャージ姿にローファーという無残な姿のテルオを、ハルカは昇降口の外で捕まえた。 「んあ?」  と、テルオは気の抜けた返事をして振り返った。もう鼻血は止まったらしく、ティッシュは外れていた。  ハルカのほうは緊張した面持ちで続ける。 「一緒に行ってもいいかな?」 「別にいいっすけど」  首を傾げつつ、テルオはそのまま歩きつづける。  ハルカもその後に続いた。 「昼は、ごめん」 「ん? なんかされましたっけ?」  一瞬、ハルカは心配してしまった。あのショックで忘れてしまったのだろうか。 「頭打ったじゃない。その――あたしに木を蹴られて落ちて」 「ああ」  テルオは納得したようにうなずいた。 「あれ、春川さんが蹴ったんすね。あはは、びっくりしました」  あははでいいのか、とは思ったが、とにかく無事のようでハルカは安心した。午後の授業の最中、気が気でなかったのだ。 「ところで春川さん。カバン、いいんすか?」  テルオが尋ねてきた。ハルカは手ぶらだ。 「ああ、うん……」  と、あいまいに言葉を濁し、 「あ、そうだ。日比谷くんはどうして雨を倒してるの?」 「俺っすか?」  あー、と口を開いたまましばらく空を見上げて、 「雨が、ムカつくからっすかねえ」 「なにそれ」 「なんか、ムカつくじゃねっすか。雨が降ったら洗濯も外出も縁側で昼寝もできねえっすから」  ずいぶん個人的な理由だった。  本気なのか冗談なのか、テルオのぼんやりした表情からはわからなかった。  いきなり、テルオがハルカのほうを向いた。 「春川さんは、どうして俺にそんなこと聞くんすか?」 「え?」 「今までこんなこと尋ねる人いなかったっすから」 「え、えっと……すごかったから、かな」 「すごい?」 「うん。雨の化け物――ヴォジャノーイって言ったっけ? あんなのをたった一人でやっつけるなんて――」  と、ハルカは足を止めた。テルオが立ち止まったからだ。  どうしたのか尋ねようとしたが、 「ああっ!」  テルオが叫んだ。  ずっと眠そうだった目を見開いて、まじまじとハルカの顔を見つめてきた。 「もしかして、春川さんって昨日の人っすか!」 「そう、だけど?」  なにをいまさら、とハルカは思ったが、テルオにしてみれば重大な過失だったらしく、何かをぶつぶつつぶやきながら考え込んでしまった。 「日比谷くん?」 「あー。その、申し訳ねえんすけど、俺が春川さんにレインコートだって言っちゃったこと、黙っててもらえねっすか?」 「え? でも、別に隠してないって」 「あ、いや。俺がレインコートだってことは、別に構わねっす。ただ、俺から聞いたってことだけ、秘密にしてほしいんす」  妙な口止めだった。第一、テルオから聞かなければどうやってその情報を知りえたかがわからないじゃないか。  不可解に思いながらも、ハルカはうなずいた。  不適な笑みを浮かべながら。 「でもそのわかり、おねがいがあるんだけど」  『入居者募集』という札を無視し、テルオとハルカはその家の前に立った。  小さな平屋の家だった。木造で、トタンの屋根が敷いてある。黒ずんだ壁からは古びた印象があるが、まだ十分に住める感じがした。 「ここに、あるの?」 「そっす」  テルオは鍵を差し込み、引き戸を開ける。 「不動産屋が怠けてくれたおかげで、鍵が換えられてないんすよ」  ということは、もとはテルオが住んでいたのだろうか。なんとなく聞くのをためらっているうちに、テルオは中に入っていってしまった。  中は油の臭いでいっぱいだった。 「玄関、開けといていいっすよ」  靴のままテルオは床に上がった。  そして家中の窓を開ける。勝手に入っているのに窓なんか開けてばれやしないかと心配がよぎるが、臭いで倒れそうだった。外の風が入ってきて、ハルカは初めて呼吸ができた。  奥の部屋に入る。 「あっ」  壁に、黄色いレインコートがかけられていた。意外と小さい。テルオの体形に合うわけだからそんなに大きいはずもないのだが、もっと大きなイメージがあった。  そして隣には、あの巨大な黒い傘が斜めに立てかけられいた。まっすぐでは、天井に引っかかって立てられないのだ。 「本当だったんだ」  ハルカが頼んだこと。それは、この装備を見せてほしいということだった。やっぱり、どこかでテルオがレインコートだと信じられなかったのだ。  ハルカは傘に触れる。布の表面には塗料が塗られているのか、ごわついた厚みを感じた。油臭いのはこれだ。ということは、撥水塗料かなにかだろうか。  と、傘がハルカのほうに傾いてきた。 「あっ」  慌てて押さえようとするが、思いのほか重い。両手で支えるが、傘はそのままハルカを押しつぶそうとしてきた。 「危ねっすよ」  テルオが、倒れかけたハルカの体と傘を片手ずつで支えた。  油でばかになったハルカの鼻に、太陽で干した布団と同じ匂いが飛び込んできた。  それは、自分を抱きとめたテルオの匂いだった。  匂いがわかるくらい近くにいることを思い出して、ハルカはテルオから離れる。そして、照れくさそうに、 「ごめん」 「いや、倒れるように置いといた俺が悪かったっす」  ハルカだけでは支えることもできなかった傘を、テルオは片手で軽々と操り、作業机になっているらしいテーブルに横たえた。  改めて、ハルカはあたりを見る。  家具の一切がないかわりに、工具や塗装の缶、あとはラベルのない茶色のビンがいくつか、部屋の隅に置かれていた。その横には、ガスコンロや水、カップ麺もあった。 「ここに、住んでるの?」 「別に住んでるわけじゃねっすけど、そうっすねえ。三日に一回くらいは、泊まるっすね。最近はずっと雨なんで、ほとんど毎日っすけど」  ポットからカップにお湯を注ぎながら、テルオは言った。 「なら、あたしもここに住ませて」  ふたつのカップを手に、振り向いたテルオは首をかしげた。ちょっとしてから、笑う。 「なにいってるんすか、春川さん」 「本気よ。手伝いでもなんでもする。だから――」  ハルカが冗談ではないと悟ったらしい。 「うーん」  テーブルにカップをハルカの前に置く。もうひとつのほうにミルクを入れ、指でかき混ぜた。 「俺はかまわねっすけど」 「ほんと!」 「でも――」  テルオが何かを言おうとしたとき、玄関の戸が引かれる音がした。 「お兄ちゃん、またきてるん――」  見覚えのある顔。  今朝、ハルカを助けたといったナナミという少女だった。  彼女はハルカと目を合わせると、途端に顔をしかめる。すぐにテルオをにらみつけ、 「なんでコイツがここにいるのよ!」 「まあ、なんというか」  テルオが言いよどむのを見て、ナナミは甲高い声でまくし立てた。 「まさか、言っちゃったの? あれほど言うなっていったのに!」 「いや、春川さんが昨日の人だって忘れてたんで、つい――」 「ああっ、もうなに聞いてんのよ! コイツだろうと他の人だろうと、言っちゃダメでしょうが! お兄ちゃん、もうちょっと世間体とか気にしてよね。雨をぶっ飛ばして回ってるなんて、不良だよ、フリョー。やめてよね、だいたいこないだも」 「あ、あの……」  声をかけたハルカを、ナナミの視線が貫いた。テルオに向けていた怒りとは明らかに異質の、氷のように冷めた目だ。 「なに、まだいたの? 見ててわかんない? あんた、邪魔なの」 「あー。ナナミ。春川さんは、ここに住みたいらしくてだなぁ」  ナナミの目が見開かれる。開いた唇が、なぜか笑っているように見えた。いや、笑っていたのかもしれない。人間、自分でもどうしようもないほど感情が昂ぶると、笑うしかない。 「勘弁してよね」  はっ、と笑い飛ばした。ハルカのことを冗談だと思って、平静を取り戻したらしい。  ハルカは両手を握りしめる。 「本気、だから」 「は?」 「本気で、あたしはここに――」  殴られた。  ハルカは床に崩れる。頬が痛い。口の中に苦い味が広がった。  見上げると、ナナミも倒れたハルカを不思議そうにぼんやりと見ていた。自分がしたことが信じられなかったのか、すぐにはっとして、ハルカから目線をそらす。固めたままの拳をさすった。痛かったのだろう。 「あんたがおにい――兄をなんと思ってるか知らないけど、そんなんじゃないから。絶対、そんなの許さない」 「許されなくてもいい。殴られでもいい。だから、ここに」  必死に懇願するハルカに、ナナミは言葉を失った。  今まで黙っていたテルオが尋ねた。 「親御さんとか、どうなんすか?」 「親は……お父さんが、いる。お母さんは、死んだ」 「家があるんなら」  ナナミが言おうとする前に、ハルカは激しく頭を振る。 「イヤ! あそこにいたら……殺される。家に戻ったらあたしはあたしじゃなくなるの。毎日、どんどん強くなってる。このままじゃ、あたし、お母さんに――」  いきなりハルカは口を押さえる。  耐えようとしたが、よほど強かったらしい。  吐いた。  押さえた手の隙間から胃の内容物が染み出し、床に飛び散った。  むせたのか咳を繰り返すハルカに、ナナミが冷めた口調で言った。 「ようは、家出したいわけでしょ」  その言葉に、今までの激しさは消えてなくなっていた。 「だったら、自活でもなんでもすればいいじゃない。甘えてんのよ。人にすがらないと何にもできないなんて」 「そんなんじゃ――」 「不幸自慢じゃないけどね。うちだって両親死んでるの。今はおじさんとおばさんのところに厄介になってるけど、あの人たちに甘えようなんて考えてない。自分たちの不幸を預けたりなんかしない」  ハルカは何も言えなかった。  わかっていた。自分が虫のいいことを頼んでいることくらい。他人の同情にあやかろうと卑怯なことをしていることくらい。  それでも、他にどうしようもなかったのだ。  あの雨と戦える強さを持つ少年にしか、助けてもらえない。そう思ったのだ。  ハルカは、テルオを見る。  目を合わせたテルオははっとして、ハルカから目をそらした。 「あ……」  ナナミは、一言。 「帰れ」  静かに、ハルカへとどめを刺した。           5  線を間違えなければ、たとえ雨が人を殺すようになったとしても人は生きていける。  しかし、ルールが変わった最初の日――半年前、初めて人を殺す雨が降った日は、線なんてわかるはずがなかった。  その反則めいた日だけで、多くの人が死んだ。雨の性質上、正確な数はわからないが、この国だけで被害者は六桁とも七桁とも言われている。  その中に、ハルカの母親も含まれていた。  彼女は、確実に死んだ。それは、間違いない。  なぜなら、ハルカの目の前で襲われたからだ。  ただし、ハルカはその光景をよく覚えていない。発見されたときは、半壊した自家用車の中で震えていたということだ。  その日から、春川家のすべては変わってしまった。  変わっていないのは、家の前にかけられた表札だけだ。  春川  透      陽子      晴香  ハルカはその表札をぼんやりと見つめていた。  表情はない。ときどきまばたきをする以外、何も顔を動かさなかった。  テルオの家からここまで、何度か吐いた。家に近づくごとにその頻度は増えて、ついに吐いても何も出なくなった。しかし体は何かを吐き出そうと必死で、ハルカはそのたびに道に座り込むことになった。  だが、ハルカの通学路に入ったあたりから、ぴたりと吐かなくなった。ただ、顔色は死人のように蒼白になり、表情も消えていった。  ふいに、表札の「晴香」の文字に水が落ちた。  ハルカは空を見上げる。昼間よりも雲の厚さが増している。降り出したのだ。  ハルカが、動いた。  玄関のほうに歩いていく。 「……いやだ……」  そんな声がした。だが、聞こえないかのようにハルカは止まらない。 「……あたしは、ハルカだ。ハルカ、だ――ハル――」  玄関に手をかけると、その声も聞こえなくなった。  ドアを開けた。  すぐに、エプロンをした父――トオルが出迎えてきた。料理をしていたらしく、奥のほうでは何かを焼く音が聞こえてきた。  トオルは笑顔で迎えた。 「おかえり、ヨウコ」  ナナミが椅子にふんぞり返りながらつぶやいた。 「ゲロくらい自分で片付けろっての」  その前で、床をテルオが雑巾で拭いていた。  水は近くの公園で入れてきたものだ。雑巾をゆすぎながら、テルオは言った。 「家に帰ったら、殺されるって言ってたっす」 「あのねぇ、お兄ちゃん。あんなのでまかせに決まってるでしょ。父親に虐待されてますってくらいがせいぜいよ。だったらそれ用の公共施設があるんだから、そっち行けっての」 「そうなんすかね、本当に。俺でなきゃいけないことじゃ――」  テルオは顔を上げる。ナナミが立ち上がったからだ。 「やめてよ。放っておけばいいじゃない。なんでお兄ちゃんが助けてあげなきゃいけないのよ。お兄ちゃんは、なんで二人しか入れない傘に、他の人を入れようとするのよ」 「ナナミ……」 「もうやめてよ。ずっといっしょにいてよ。二人だけの家族なんだから」  テルオはバケツに雑巾を放り込み、台所の洗い場で全部流した。  汚れを洗い流した水が、どんどん流れていく。 「二人しか入れない傘しかないんなら、雨のほうをぶっ飛ばせばいいんすよ」  テルオは窓から空を見上げる。 「降ってきたっすね」 「え?」  ナナミが気づいたときには、テルオの姿が消えていた。  レインコートと、巨大な傘も一緒に。 「お兄ちゃん!」  ナナミは叫ぶが、その声を聞く者はもう行ってしまっていた。  雨を倒しに。  本降りになってきたらしい。開かれた窓から、雨音が次第に大きくなっていった。 「――雨なんか、大嫌い」  ひとり、残された部屋で、ナナミはぽつりとつぶやいた。           6 「ところで、ヨウコ」  トオルはハルカに言った。 「新婚旅行の件、考えてくれてるかい?」  ハルカは箸を止め、顔を上げる。  申し訳なさそうな笑みを浮かべた。 「ごめんなさい。上司に言ってはいるんだけど、なかなか許可が下りなくて。あとちょっとで仕事のほうも落ち着くと思うから、それまで、ね?」 「そうか、ならしょうがないな」  トオルはそう答え、二人とも食事に戻った。  皿の当たる音と、時計の針の動きしか聞こえなくなる。  棚にある時計の横には、結婚当時の二人の写真があった。若い。女性のほうはハルカに似ているし、男性のほうは当たり前だが今のトオルの面影があった。  そして、この食卓にあるのは、その写真のころの再現だった。 「そうそう。今日お袋から電話があってさ。また説教だよ。ヨウコに頼りきりじゃなくておまえも働け、ってさ。相変わらず、考えが古いよなぁ」 「ふふっ。そうね」  トオルのいう母、つまりハルカの祖母はもうこの世にいない。ハルカが小学生のころに他界してしまった。ならば、トオルはいったい誰から電話をもらったというのか。  トオルがおかしくなりはじめたのは、本当のヨウコの葬儀が終わったあたりからだ。  死んだという実感がない、と言い出したらしい。  ハルカは入院していたので、そのことは親戚を通して聞いた。  そのあと見舞いに来る父にも、変わった様子は見られなかった。ただ、「ひとりだと寂しいよ。母さんも、どこ行ってるんだか、最近帰りが遅いんだ」とこぼしたくらいだった。  ハルカも、それは言葉の綾かなにかと思っていた。  明確に壊れたのは、ハルカが退院し、家に帰った瞬間からだった。  トオルが、ハルカをヨウコだと思い始めたのだ。  最初は家の中だけだった。外に出れば、まるでスイッチが切り替わるかのようにヨウコとハルカと、見え方が変化した。  だが、雨が降れば家の中にいるしかない。  ハルカがヨウコである時間が長くなるほど、トオルと、そしてハルカも壊れていった。  ハルカがいつからヨウコになってしまうようになったか、ハルカも覚えていない。もしかしたら最初の瞬間だったかもしれないし、しばらくしてからだったかもしれない。  しかし、過去には意味はなかった。  ハルカにとって、気がかりなことはひとつ。  自分がヨウコになっている間、ハルカはどこにいるのか、ということだ。  父は、自分をヨウコだと思っている。自分もまた、ヨウコを振る舞っている。  ならば、ここにいるのはハルカでなくヨウコなのだ。  この一週間の長雨で、トオルとヨウコはどんどん過去にさかのぼっていった。  ついに『ハルカ』が耐えられなくなったのが、昨日の晩だ。  つまり、人を殺す雨の中に飛び出すことのほうが、唯一の肉親と自分自身に自分の存在がなかったことにされていくという現状よりも楽だと思ったのが、昨日だった。  しかし、ハルカは戻ってきてしまった。  一度は、誰も敵わない雨と戦う少年と出会えたにも関わらず。  彼の傘は、ハルカを救ってはくれなかった。  だから、ハルカは雨にさらされるしかない。  この家に降る、自分だけを殺す雨に。  先に食べ終わったトオルが言った。 「そうそう、子供の名前を考え――」 「トオルさん」  ハルカが、トオルの言葉をさえぎった。  意志の強いまなざし。それは、もうハルカの視線ではない。  完全に別の人間のものだった。 「悪いけど、今は子供よりも仕事を優先したいの。その話は、また今度にしましょう」 「それはいいけど――どうしたの?」 「何が?」 「何がって」  トオルは少しためらってから、 「泣いてるじゃないか」  言われて、ハルカは自分の目元を確かめてみた。指がぬれている。本当に泣いていた。  ハルカは、首をかしげた。  気づくはずがない。  その涙の意味を知る唯一の人間が、涙を流した当人が、今さっき、誰にも知られることなくこの世からいなくなったのだから。  そのとき。  呼び出しのチャイムが鳴った。 「誰だろう?」  トオルは席を立ち、玄関に向かった。  しかし、誰もそれがおかしいこととは思わなかった。  雨の日の訪問者なんて、ありえないことに。 「なんですか、あなた!」  すぐに、悲鳴にも似た声が玄関から聞こえてきた。  のん気が声が、それに続く。 「あー。しいて言うなら、ストレス解消にムカつくモノを片っ端からぶっ壊してる危険な若い世代、てやつっすかねえ?」 「なにを言ってるんですか! 警察呼びますよっ」 「いや、ちょっと娘さんに用事があるだけっすから」 「娘? 娘なんか――」  開いたドアを見て、ハルカは息を呑んだ。  黄色いレインコートをまとった男だった。つゆも払わず土足のまま上がってきている。顔を隠したフードから、ぽたぽたと水が垂れていた。  そして、右手には身の丈より長い傘を持っていた。穂先が当たって壁紙を破いていた。 「あー。いたいた。よかった、間違えてなくて」 「よ、ヨウコ、警察に!」  ドアから慌てきったトオルが声をあげるが、レインコートは意に介さない。濡れたままの傘で無遠慮に肩を叩きながら、家を見回した。 「なかなかいいところ住んでるんすね。二階建ての、4LDKってやつですか?」  ハルカは答えない。箸を手にしたまま、固まってしまっている。  ただ、涙だけはとめどなく流れていた。 「でもいくら広くたって、中で雨が降るような家じゃダメっすよ」  傘を開いて、ハルカの上に掲げた。  撥水塗装で固められた、無骨で巨大な傘。それは、 「ちょっと待っててください。俺が今、ぶっ飛ばします」  傘を差したまま、レインコートは柄をひねる。  柄の頭から杭が飛び出し、食事が残ったままのテーブルを貫いた。  レインコートが、テーブルを刺したまま傘を振り回す。食器や食事を撒き散らし、テーブルを飛ばし、窓を突き破った。割れたガラスから風が吹き込み、膨らんだカーテンの隙間から入った雨で床が濡れた。 「な――」  トオルは何かを言おうとするが、テーブルの上にあったキッチンナイフが足元に刺さり、何もいえなくなった。  震えるトオルの頭の上を、レインコートの傘が薙いだ。壁に真一文字にえぐれる。木材や石膏が飛び散った。  傘を返し、杭を冷蔵庫のまん中に叩き込む。そのまま持ち上げ、反対側の壁に投げつける。砲弾のような速度で冷蔵庫が飛び、戸棚を押しつぶす。激しい音を立てながら冷蔵庫は壁にめり込み、突き破ってしまった。木材や断熱材の断片とともに、大きくひしゃげた冷蔵庫は庭に落ちていった。飛び出した牛乳パックや玉子が床に飛び散っていた。 「……日比谷くん」  ハルカは両目から涙を流し、目も開けられないようだった。  しかし、笑っていた。笑おうとしていた。  レインコートはそれに応えるように、フードを深く被りなおした。  そのフードの先から、水滴が落ちる。  床に落ちたそれは、そのまま壁の穴に向かって滑っていった。こぼれた牛乳の中を、混じることなく突き進み、壁を登り、穴から飛び出し、冷蔵庫の中に吸い寄せられていった。  口を上に倒れた冷蔵庫の中には、ふちきりいっぱいに水がたまっていた。  さっき落ちたばかりなのに、それはありえない量だった。  その水の中に、茶色いミイラがあった。  そして、その胸の中に、紫色の肉塊――ヴォジャノーイの核があった。  キッチンの台所で蛇口が破裂する。  噴き出した水は広がらず、壁の穴に吸い込まれていく。 「まさか――」  レインコートの声を、新たに床と天井から噴出した水がかき消した。水道管を突き破り、水が雨のように部屋に飛び散った。 「ヨウコ……」  トオルがうめく。  ミイラが、動いた。大量の水をまとったまま、水浸しの家の中に入ってくる。 「そんなとこに、ミイラがあったんすか」  ヴォジャノーイは食いカスに核を残す。だから雨に触れて覚醒しないよう、油をかけて燃やさなければいけない。  水がどんどん集まっていき、ミイラの姿が見えなくなる。水もまた収縮し、人型を形成していった。  右手の先に、何かがあった。ちぎれた水道管だ。  ヴォジャノーイは、その管の先をレインコートのほうに向ける。  高圧縮された水が、レーザーのように放出された。部屋を斜めに薙ぎ払う。  霧が立ち込める。  蛍光灯の光で虹が生まれる中、黒い傘が開かれていた。  後ろの壁には斜めに切れ目が入り、その前にあったテレビの上半分が床に落ちた。断面は鏡のようになり、きれいに切断されていた。  テレビが落ちた衝撃が伝わったか、傘の円が崩れる。  円の上半分が落ち、後ろに隠れたレインコートの姿があらわになった。右腕のコートが切れて、血が染み出ていた。  レインコートは床を蹴りつけ、ヴォジャノーイに向かう。  大幅でたった五歩の距離。だが、それが絶望的に遠い。  第二波。ヴォジャノーイが水を吐き出す。  レインコートは瞬時に傘を閉じ、逆に持ち替える。柄から杭を突出させ、水の噴出口に叩き込んだ。  が、管に届く前に、鋼鉄製の杭は水によって縦に切断される。 「くっ」  レインコートは身をひねり、水の直撃だけは避ける。カランという高い音。切られた杭が床に落ちた。レインコートの手には、柄を半分以上失った傘の穂先しか残っていなかった。 「日比谷くん!」  それでも、レインコートはヴォジャノーイに飛び掛る。  噴出口を眼前に向けられてもひるまず、レインコートは、傘の穂先をヴォジャノーイの腹の中に突き刺した。  凝縮された水の体には数センチしか食い込まない。刺したというより押し当てたという程度だ。  傘の柄の半ばから、紐が伸びていた。それは血まみれのレインコートの右腕に巻きつけられていて―― 「上がれ」  紐を引っ張る。  瞬間、傘が発光し、内側から膨れ上がり、  爆裂した。           7  終わってみれば、やっぱりただの夢だったような気がする。  父は入院したハルカを当たり前のように見舞いにきたし、腕を水に切り裂かれ至近距離で爆風を浴びたはずのテルオはかすり傷すらなかったし、ここ三日ほど雲ひとつない晴天が続いている。梅雨は明けてしまったらしい。 「――アホか」  ハルカはベッドから空を見上げながら、つぶやいた。 「なにがアホなもんですか。一緒にごはんを食べて、一緒に帰って、倒れたところを助けられて――それでどうしてシラが切れるんですか。まったく、水臭いんですから。ねえウメさん……っていきなりメロン切らないでくださいっ」 「だってハルカちん元気そーだもーん。ねーねー、アヤノちんは実と種とどっちがいーい?」 「種だけ好んで食べるのなんてあなたしかいません」 「種のほうがビタミンとか入ってておハダにいー気がするよー」 「いりません!」  友人たちは、持参したフルーツの詰め合わせで漫才やっていた。いいかげん入院生活も飽きてしまって、これはこれで助かるんだけど。てか、本当に種だけ食ってるし。  ハルカも半分にカットされたメロンをスプーンですくって食べる。自分が入院していることを思い出したが、別にどこも悪くないので食事のことでとやかく言われることはないだろう。  単に家が修繕中なので、他に泊まるとこがないからここにいるわけなんだが。  家は一応、雨が壊したということになっているから、保険がおりたらしい。完全に直るのはちょっとかかるが、とりあえず生活するだけなら明日からでも大丈夫らしい。 「――ちょっといい?」  声。  入り口には、ナナミが立っていた。不機嫌そうに、ハルカのほうをにらんでいた。 「ごめん。二人とも、ちょっと外してくれない?」  知らない人物の登場に首をかしげる二人に、ハルカが言った。テルオの妹だ、とは言わない。この娘たちの余計な想像力を刺激させてしまうから。 「別に構いませんが。ほら、ウメさん、行きますよ」 「うぃー。これ、どーぞ」  ウメがすれ違いざまにナナミにリンゴを手渡した。 「まさか来てくれるとは思わなかった」  二人が出て行くのをまってから、ハルカが声をかけた。  ナナミは袖でリンゴを拭いて、そのままかじりつく。意外とワイルドだ。 「来たくて来たわけじゃない。だけど、一応確認しておかないといけないから」 「確認?」 「あなたの家は雨が壊したのであって、そこにレインコート着たやつなんか、いなかったよね?」  一字一句に念を込めながら、ナナミは言った。  その様子に、ハルカは納得した。  兄の素行に悩んでいる彼女にとって、今回のことは一大事なのだ。不法侵入の上、他人の家をぶっ壊すという、越えちゃいけないラインを越えてしまったわけだから。  ハルカは笑った。 「さて、なんのことかなぁ」 「――どういう意味?」 「なにか思い出せそうな気がするんだけど。ほら、お医者さんにも認知障害がなんたらって言われたし。だから、なにかのキッカケで思い出すかもしれない」 「あんたねぇ」  ナナミが顔を真っ赤にした。リンゴを持った手が震えている。そのまま握り潰してしまいそうだ。 「冗談よ。大丈夫、忘れてるから」 「……ふん」  不機嫌そうに、ナナミはリンゴにかじりつく。芯まで噛み砕きそうな勢いだ。 「ひとつさ、心配なことがあるんだ」 「なによ? 大丈夫よ、いくらなんでもあんたを殺すようなことしないから。あんた程度を相手にして、人生棒に振りたくないからね」 「あたし、明日から家に戻るんだけど、その――大丈夫、かな?」 「はあ?」  ナナミはまた眉間にしわを寄せる。 「あたしゃ医者じゃないっての」  自分でも要領を得ない尋ね方だったと思ったが、伝わったらしい。  つまり、あの家に戻っても、またヨウコにならないかどうかだ。  芯だけになったリンゴをゴミ箱に放りながら、ナナミが言った。 「あんたの場合、あのミイラがスイッチだったわけでしょ。いつ、誰が拾ってきたか知らないけど。それはぶっ壊したんだから、もうあんたたちがおかしくなることはないでしょうが」  多分、父だろう。ミイラを見つけて、冷蔵庫に閉まっておいたのは。  ミイラに潜んだヴォジャノーイのせいか、それともいきなり最愛の人を奪われたショックからか、とにかく母のミイラを見ればハルカを母だと思うようになってしまったらしい。  だが、終わったことはどうでもよかった。   もう、あの家に雨は降らないのだ。 「だいたい、大丈夫じゃなきゃこっちが困るっての。もう二度とごめんだからね」  ナナミがぶっきらぼうに言った。 「ありがと」 「べっつに、あんたのためじゃないし」  ナナミは背中を向けて、ドアをくぐろうとした。 「リンゴ。礼言っといて」 「え?」  ハルカが聞き返す前に、ナナミの姿はなくなっていた。足早に離れていく音が廊下から聞こえる。  ハルカは苦笑して、空を見上げた。  雲ひとつない空。  そこに、まぶしい白い太陽が輝いていた。               了 1