世界の中の敬語

私たちは多くの場面で敬語とは日本語特有の表現で世界の言語の中では特殊なものだという事を聞いたり、読んだりしている。確かに敬語が動詞の変化や接辞の追加を伴う表現だとするならば、世界の主要な言語である英語では目上の人に対しても同年代の人に対してもほぼ同じ表現(英語にも丁寧語にあたるものはある)を使う事から、敬語が無いとよく言われる。それでは日本語以外に敬語を日常的に使う文化は無いのか?そこに興味を持った私は世界における敬語を調査することにした。そしてまず、お隣の言語である朝鮮語(ハングル)にも敬語があるようだという事実を発見した。


朝鮮語における敬語表現

朝鮮語にも尊敬語・謙譲語・丁寧語に相当するものが存在する。

 

東南アジア〜オセアニアにおける敬語表現

インドネシアに古来から伝わるジャワ語にも複雑な敬語表現がある。
ジャワ語は敬語表現 (クロモ) が複雑に発達した言語であり、ジャワ人以外の民族が用いるのには難しすぎる。  ジャワの敬語は相手の地位によって、常形語 (ゴコ) 、準敬形語、敬形語、最敬形語の四つに分けられる。同じ「目」でも、常形語なら「マタ」、敬形語なら「ムリパット」、最敬形語では「パニンガル」であり、相手いかんで単語そのものが違ってしまう。しかも、この敬語の種類は、数え方によっては10のレベルにまで細分される。(インドネシア語のルーツは?より)
   ジャワ語は世界でも特異な言語として知られるのは“敬語”の所以である。敬語だけが異常進化した言語であり、その方面ではかなり有名な日本語も敬語にかけてはジャワ語には足元にも及ばない。
 ジャワ語は次のように大別される。

@ABの各々の言語では二人称三人称の呼称を初め、単語さえも異なることがジャワ語の特徴である。さらに細分するとCマディヤ(Madya)はンゴロとクロモを適宜配分した混合語、D「クロモンデソ」は丁重な田舎言葉、Eボソ・クラトン(Basa Kedhaton)は王宮で使用される特殊貴族言葉である。
 このような複雑なジャワ語を正しく使うためには語学能力もさることながら相手の社会的地位を素早く嗅ぎわける直感力を伴わなければならない。そうでないと正しいジャワ語が話せないからである。日本での専門家としては東京大学教授の加納啓良氏が自らの研究室のホームページに ジャワ語 敬語一覧表を掲載しているのでそれを参考にすればわかりやすい。
 染谷臣道著「アルースとカサール」によれば、敬語は静かな声で抑制をきかせた低く重い荘厳な声でゆっくりと話され、短調のような陰翳がある。語彙は「鉄」を硬いものというような婉曲的表現や比喩的表現、あるいはサンスクリット語やアラビア語からの借用語が多い。
敬語を話す者の物腰や眼差しは自ずと控えめになり恭順の意を示すものとなる。複雑な言語も使い慣れると言外に微妙なニュアンスの表現も可能になる。何れにしろ、ジャワ語の習得はジャワ社会にどっぷり漬かった者でないと至難の技である。 (ジャワ語の階級性より)

フィジーでは伝統的に自分より身分の高い人物の家に入る際、身をかがめて匍匐前進のような姿勢で入るという作法がある。これは自分の姿勢を低めることで相手に敬意を表すという意味で日本語における謙譲語と非常に近い関係にある。また、日本語の敬語表現をしぐさで表している点は非常に興味深い。

欧米諸国における敬語

ヨーロッパ圏いわゆるインド・ヨーロッパ語族には敬語が存在しないと考えている人も多い。たしかに、西洋文化は「平等」が基盤になっているせいか、自分と相手の立場や距離を見計らって上下関係を意識しながら喋ることはあまりない。また、単語としても、「おふくろさん」「おかあさま」「母上」「ご母堂様」といった同じ意味の単語のバリエーションによって尊敬度・丁寧度を表現するようなこともあまりない。その意味では、「敬語」にあたるものはない非常に少ないと言えるかもしれない。
しかし、英語にも丁寧表現はたくさんあるし、尊敬語や敬語に当たるものも見受けられる。特にフォーマルな場や、ビジネスの場、はじめて人に会う場面などに使う傾向がある。上記の単語によって尊敬をあらわす表現には Yes,sir.(かしこまりました)などがあげられる。また、丁寧語の例を挙げるとすれば「そのペンをください」と言う表現を丁寧度に応じて段階的に書き並べてみると、
Give me the pen.
Give me the pen, please.
Can you give me the pen?
Can I have the pen?
May I have the pen?
Could you give me the pen?
Could I have the pen?
Is it possible to have the pen?
Is it possible for you to give me the pen?
If possible, I would like to have the pen.
Would you mind giving me the pen?
Would that be possible to have the pen?
Would you allow me to have the pen?
Would you be so kind that I could have the pen?
Should you have no objection, I would like to have the pen.
となる。この時に注目したいのはより丁寧な表現をする時は過去形を用いるという点だ。少し抽象的な話になるが、過去形と丁寧さとの共通点は、遠さや離れた感じであろう。過去は現在と「離れて」いるし、丁寧さは、現実の場面から一歩「引いた」「離れた」感じがする。過去形になると丁寧になることが多いのはそのような考え方があるのではないか。

フランスには“敬意を込めて言う”という意味の"terme respectueux"という単語がある。ただし、これは決定的に身分の違う者に対して恭しさと恭順、畏怖の念を示す為のものであり、必ずしも日本と同じような敬語ということはできない。日本語で言ったら馬鹿丁寧と言ってもいいのではないか。
『クラウン仏和辞典』などの編者として知られ、京都大学の教授も務めたフランス文学者多田道太郎氏はこのようなフランス語の敬意表現について、日本語の“敬”という字の解釈を引き合いにおもしろい見解を見せている。
それは日本語の“敬”には“尊敬”と“敬遠”の2種類の使い方があって日本人や東南アジアの人々が敬語を使う時には“尊敬”の意味で敬語を使うのに対して、フランスをはじめとするインド・ヨーロッパ語族の人々は“敬遠”の意味で敬語を使うのだという見解である。(多田道太郎『日本語の作法』より)
つまり同じ敬意表現でも使い方、気持ちの持ちようによって伝わり方は様々であり、人間関係を円滑にすることもあれば逆に関係を希薄にすることも出来るということである。現代の日本語における敬語の使用法(マニュアル敬語やアルバイト敬語などと呼ばれるもの)についてもこの見解を参考にすることは出来るのではないか。

考察

今回、私は世界の様々な言語についての文献を読んだりしたことで敬語とはどのようなものかということを改めて考えることができた。敬語とは元来、本来は身分が違っていることで意思の疎通が難しい人間同士の人間関係をなんとか円滑に出来ないか、そしてその上で高い身分の人間の方の自尊心を損なわないようにするにはどうしたらいいのかということから生まれた話法であろう。

欧米諸国に敬語表現が少ないのは欧米人にとって“平等”という言葉、概念が重視されるからであり、それはおそらくもともとは“神の元に人間はすべて平等である”というキリスト教的世界観に基づく考え方であった。この考え方によれば人間関係には縦の関係(日本、朝鮮半島に代表されるアジア的な縦社会)は無く、横に繋がった関係しかない。したがって欧米人によって使われる敬語表現は日本語の「〜で候」「かしこ」などのような“古臭い表現”となってしまって、どこか余所余所しい感情を含んだものへと変化し、人間的な親密な関係を持たない決定的な身分の差異がある人物にしか使われなくなった。つまり、ヨーロッパでは敬語本来の発生理由と逆に敬語を使うことによってお互いの関係に壁を作り出すのである。

さて、それでは日本はどうであろうか。日本は古来より敬語の大変発達した社会である。ということは敬語を通して身分の違う人々または初対面の人々と交流を深め、また、そのような人々に敬意を払ってきたと言うことが出来る。しかし、最近は敬語をうまく使えない人やなんとなく敬語を使っている人が増えてきているという。これは日本人がヨーロッパ型の考え方になってきたことと無関係ではないと私は考えている。つまり、敬語と言うものは堅苦しいものであって敬語を使う関係と言うのは親密ではないので、敬語を使わない関係(これは“タメ語”とか“タメ口”とか呼ばれる関係である)を自分にも相手にも求めるという考え方である。そして、ヨーロッパ的な敬語感覚によって相手との間に壁を作りながら、日本的な敬語感覚である「失礼にはならないようにしよう」という気持ちがあるために生まれるのがその場しのぎの敬語であるアルバイト敬語であろう。

ただ、日本と欧米の敬語表現において似ている部分が無いわけではない。先ほどの英語における敬語表現では下に行くほどより丁寧になると書いたが、より丁寧に書けば書くほど文章が長くなっていくことがわかる。日本でも道を尋ねたい時には“道を教えて”が“すいません、道を教えてもらえますか?”になり、さらに丁寧になると“お忙しいところ申し訳ありません、道を教えていただいてもよろしいでしょうか?”となってどんどんと文章が長くなっていく。これには2つの理由があると私は考えている。1つは「私はこんなに気を使ってますよ」という事をアピールして相手の機嫌を損ねないようにするため、そして2つ目は文章に装飾をつけて長くすることで核心(本音と言い換えてもいい)をぼかすためだと私は考える。そして、本音と建前を使い分けることが美徳とされる日本において、このような作用を持つ敬語は大きく発展したのではないかと考えている。

世界においても日本の中においても、敬語表現は様々に形を変えながら現在に残っている。そして現在の日本という国は世界の敬語表現の歴史の縮図のような状態にある。これから日本の敬語がヨーロッパのように余所余所しい表現となって衰退していくのか、はたまたアジア各国のように尊敬と親愛を表す表現として残っていくのか、これからも興味を持って見守っていこうと考えている。