私たちは多くの場面で敬語とは日本語特有の表現で世界の言語の中では特殊なものだという事を聞いたり、読んだりしている。確かに敬語が動詞の変化や接辞の追加を伴う表現だとするならば、世界の主要な言語である英語では目上の人に対しても同年代の人に対してもほぼ同じ表現(英語にも丁寧語にあたるものはある)を使う事から、敬語が無いとよく言われる。それでは日本語以外に敬語を日常的に使う文化は無いのか?そこに興味を持った私は世界における敬語を調査することにした。そしてまず、お隣の言語である朝鮮語(ハングル)にも敬語があるようだという事実を発見した。
朝鮮語にも尊敬語・謙譲語・丁寧語に相当するものが存在する。
尊敬語 日本語と同様、語彙を変えるものと語形変化によるものがある。語形変化は動詞や形容詞の語幹に尊敬を表す語尾-siを付けるのみである。朝鮮語では日本語のようにウチとソトで尊敬語の使用を変えるとということはなく、親や兄姉・先輩など身内の動作・状態に言及する場合も尊敬語を使う。このような性質を絶対敬語という。ただし、親族内での会話では上下関係に関して相対的な敬語が用いられる。例えば、父親に関する話を祖父にするときには父親が主語となる動作であっても尊敬語を用いない。
謙譲語 語彙を変えるものしかなく、それも数が限られていて多くはない。
丁寧語 日本語と同様、語尾を変えることによって表す。日本語では基本的に丁寧語とぞんざいな語の2通りしかないが、伝統的な朝鮮語には大きく分けて6通りの形がある。目上に使うもの、目下・同等に使うもの、大人や地位のある目下・同等に使うもの、目下を同等あるいは目上に引き揚げて使うものの4つがあり、さらにくだけた場面でのみ使われるものに目上用と目下・同等用の2通りがある。とはいえ、実質的な標準語であるソウル方言においてはこのうち2通りの敬語系統は中年以下では用いられず、実質4通りに数が減っている。( 梅田博之「朝鮮語における敬語」『岩波講座 日本語4(敬語)』岩波書店より)
インドネシアに古来から伝わるジャワ語にも複雑な敬語表現がある。
ジャワ語は敬語表現 (クロモ) が複雑に発達した言語であり、ジャワ人以外の民族が用いるのには難しすぎる。
ジャワの敬語は相手の地位によって、常形語 (ゴコ) 、準敬形語、敬形語、最敬形語の四つに分けられる。同じ「目」でも、常形語なら「マタ」、敬形語なら「ムリパット」、最敬形語では「パニンガル」であり、相手いかんで単語そのものが違ってしまう。しかも、この敬語の種類は、数え方によっては10のレベルにまで細分される。(インドネシア語のルーツは?より)
ジャワ語は世界でも特異な言語として知られるのは“敬語”の所以である。敬語だけが異常進化した言語であり、その方面ではかなり有名な日本語も敬語にかけてはジャワ語には足元にも及ばない。
ジャワ語は次のように大別される。
フィジーでは伝統的に自分より身分の高い人物の家に入る際、身をかがめて匍匐前進のような姿勢で入るという作法がある。これは自分の姿勢を低めることで相手に敬意を表すという意味で日本語における謙譲語と非常に近い関係にある。また、日本語の敬語表現をしぐさで表している点は非常に興味深い。
ヨーロッパ圏いわゆるインド・ヨーロッパ語族には敬語が存在しないと考えている人も多い。
だが、例えばフランスには“敬意を込めて言う”という意味の"terme respectueux"という単語がある。ただし、これは決定的に身分の違う者に対して恭しさと恭順、畏怖の念を示す為のものであり、必ずしも日本と同じような敬語ということはできない。日本語で言ったら馬鹿丁寧と言ってもいいのではないか。
『クラウン仏和辞典』などの編者として知られ、京都大学の教授も務めたフランス文学者多田道太郎氏はこのようなフランス語の敬意表現について、日本語の“敬”という字の解釈を引き合いにおもしろい見解を見せている。
それは日本語の“敬”には“尊敬”と“敬遠”の2種類の使い方があって日本人や東南アジアの人々が敬語を使う時には“尊敬”の意味で敬語を使うのに対して、フランスをはじめとするインド・ヨーロッパ語族の人々は“敬遠”の意味で敬語を使うのだという見解である。(多田道太郎『日本語の作法』より)
つまり同じ敬意表現でも使い方、気持ちの持ちようによって伝わり方は様々であり、人間関係を円滑にすることもあれば逆に関係を希薄にすることも出来るということである。現代の日本語における敬語の使用法(マニュアル敬語やアルバイト敬語などと呼ばれるもの)についてもこの見解を参考にすることは出来るのではないか。
今回、私は世界の様々な言語についての文献を読んだりしたことで敬語とはどのようなものかということを改めて考えることができた。敬語とは元来、本来は身分が違っていることで意思の疎通が難しい人間同士の人間関係をなんとか円滑に出来ないか、そしてその上で高い身分の人間の方の自尊心を損なわないようにするにはどうしたらいいのかということから生まれた話法であろう。また、世界中に階級性が残っていた時代には世界中に敬語表現があったであろう。
ヨーロッパに敬語表現が少ないのはいち早く革命が起こり、階級差が小さくなったことも一因ではないかと私は考える。そしてヨーロッパにおいての敬語表現は日本語の「〜で候」「かしこ」などのような“古臭い表現”となってしまって、どこか余所余所しい感情を含んだものへと変化し、人間的な親密な関係を持たない決定的な身分の差異がある人物にしか使われなくなった。つまり、ヨーロッパでは敬語本来の発生理由と逆に敬語を使うことによってお互いの関係に壁を作り出すのである。
さて、それでは日本はどうであろうか。日本は古来より敬語の大変発達した社会である。ということは敬語を通して身分の違う人々または初対面の人々と交流を深め、また、そのような人々に敬意を払ってきたと言うことが出来る。しかし、最近は敬語をうまく使えない人やなんとなく敬語を使っている人が増えてきているという。これは日本人がヨーロッパ型の考え方になってきたことと無関係ではないと私は考えている。つまり、敬語と言うものは堅苦しいものであって敬語を使う関係と言うのは親密ではないので、敬語を使わない関係(これは“タメ語”とか“タメ口”とか呼ばれる関係である)を自分にも相手にも求めるという考え方である。そして、ヨーロッパ的な敬語感覚によって相手との間に壁を作りながら、日本的な敬語感覚である「失礼にはならないようにしよう」という気持ちがあるために生まれるのがその場しのぎの敬語であるアルバイト敬語であろう。
世界の中においても日本の中においても、敬語表現は様々に形を変えながら現在に残っている。そして現在の日本という国は世界の敬語表現の歴史の縮図のような状態にある。これから日本の敬語がヨーロッパのように余所余所しい表現となって衰退していくのか、はたまたアジア各国のように尊敬と親愛を表す表現として残っていくのか、これからも興味を持って見守っていこうと考えている。